Wizards on the Horizon   作:R-TYPE Λ

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Report.6 『出航式』

 

 

『前部デッキ下層部、捜索完了・・・ウェアーの姿は在りません』

『後部第2資材室、博士は見当たらず』

『オークスよりブリッジ、第3エアロックの前に居る・・・何もかも滅茶苦茶だ。隔壁の向こうは接舷梯ごと持っていかれた様だ』

 

艦内の捜索開始より、既に1時間20分。

艦内各所より齎される報告は、しかし何れもウェアーの発見を知らせるものではない。

艦の急激な加速に伴う損傷と、特に目新しくもない艦内各所の現状、それらに関する情報だけが増えてゆく。

注目するべきは、エアロック周辺の損傷に関する情報程度だろうか。

エアロックは、急加速の際に接舷梯ごと外部構造物が失われてしまったらしく、更にはエアロックそのものにまで亀裂が生じ、その機能を喪失していたのである。

それもメイン・エアロックだけでなく、残るサブ・エアロックシステムにも致命的な異常が生じていた。

 

『・・・クソ、此処も駄目! ナイレンよりブリッジ、後方機関部第7階層、無重力作業室よ。第2資材搬入用エアロック使用不能・・・外部隔壁が開放されたまま動作しないわ。此方から閉鎖できない、制御系統が死んでいる』

『これで6箇所目だ。ウェアーの仕業と見て間違いないだろう・・・周到な奴だ』

 

艦内各所に点在するエアロックが、明らかに人為的な工作によって動作不良へと追い込まれているのだ。

あるものは隔壁が動作せず、あるものは加圧系統が破壊され、またあるものは大質量貨物が内部を埋め尽くしている。

これらの情報は詰まる所、他艦艇との接舷による離脱が実質的に不可能となった事を意味していた。

この艦から正規の方法で退艦する道は、完全に閉ざされたのだ。

 

『ブリッジより各員、再度確認するぞ。手段を問わずウェアーを確保せよ。生存し、且つ口が利ければ他の状態は問わない』

『このAMF展開環境下では肉弾戦か、ネイルガンでの射撃で対応するしかない。血を見る事になるぞ』

『尋問が完了するまで生きていれば構わない』

 

ブリッジからの指示を聞き留め、胸中に苦いものが浮かび上がる。

確かに、ウェアーの仕出かした事を鑑みれば、自身等の生還の為にもそう対応すべきだろう。

少なくとも五体満足のまま彼を艦内へと野放しにしておく事は、生還の為の戦略を狭める可能性こそ在れ、その逆は決して在り得ない。

彼の真の目的を知る者は最早誰も居ないが、この艦『イベント・ホライゾン』から誰1人として逃がす心算が無い事だけは確かだ。

 

『ブリッジ、此方ワイズ。前部デッキ最下層、第2整備区画だ。近くに誰か居ないか? 妙なものを見付けたんだが・・・』

 

ふと、意識中へと飛び込んでくる報告。

念話が使えないが為に装着したインカムへと手を翳し、続く言葉に意識を集中させる。

 

『ブリッジよりワイズ、どうした』

『前の捜索では、こんなもの・・・壁面に偽装したドアらしいんだが、開かない。内側から何かで塞いであるみたいだ。それに・・・』

『それに?』

『重量物を引きずった跡が、ドアの内に続いている・・・救難信号発信用モジュールの格納庫から、此処までだ』

 

咄嗟に交わされる視線。

隣に立つ相棒が軽く頷く。

更に他2人が無言の儘に同意した事を確認し、彼女はインカムへと声を発した。

 

「ランスターよりブリッジ。現在位置、前部デッキ第8階層、遺伝子標本解析室よ。これよりワイズの支援に向かうわ」

『ブリッジ、了解』

 

足早に格納室を出て、最下層へと向かう。

エレベーターは使用しない。

最寄りの階層間移動用シャフトへと飛び込み、螺旋階段を駆け下りる。

1つ下の最下層までは2分と掛からない。

開かれたドアの先、薄暗い通路の三叉点には武装隊員が佇んでいた。

 

「応援よ」

「ああ、こっちだ」

 

武装隊員の誘導に従い右折し直進、更に30mほど進んだ先の突き当りを左折。

その先の左側に位置する壁面の前に、誘導を担当した隊員以外の3名が居た。

ティアナは壁の前に膝を突き、床面を調べている局員へと声を掛ける。

 

「ランスター以下4名、合流します・・・それで、この跡が?」

「ああ。因みに、格納庫の中身は空だ。コンテナは全て開放され、モジュールは1つも残されていない」

「・・・この血は?」

 

続く問いに対しては、即座に答えが返される事はなかった。

ティアナもまた無言のまま、足下へと視線を落とす。

其処には、通路の向こうから続く重量物を引きずった跡、金属製の床面を削る様にして残されたそれの他に、もう1つの痕跡が在った。

どす黒く変色した、濃密な鉄の臭いを放つ液体の痕跡。

 

「此方側で撒き散らされたものじゃないな。これは明らかに、部屋の中から流れてきたものだ」

「・・・開けるしか・・・ない、ですよね」

 

恐る恐る、といった風に言葉を紡ぐスバルに返されるのは、無言の肯定。

ティアナの右隣に立っていた隊員が、自身のアームドデバイスを手に壁面へと歩み寄る。

そして、ククリにも似たナイフ形のそれを壁面に刻まれた不自然な隙間へと突き込むや否や、力の籠った吐息と共に体重を掛けて柄を押し、人の手が入り込むだけの隙間を作った。

更にもう一ヶ所、数十cm上に同様の隙間を作ると、其処に両手を掛けて偽装された扉を引こうとする。

だが、扉はびくともしない。

スバルを含め、更に3名が助力に入る。

そうして彼等が抉じ開けられた隙間へと手を掛けると同時、インカムに声が飛び込んだ。

 

『ブリッジよりワイズ、其方の現在位置を再度確認したい。前部デッキ第9階層、第2整備区画だな?』

「ああ。モジュール格納庫から約50m地点、作業員仮眠室の15mほど手前だ」

『其処に余剰空間は無い』

 

瞬間、扉を抉じ開けようとしていた面々の動きが止まる。

ティアナは咄嗟に、腰のアタッチメントから下げたネイルガンへと手を掛け、周囲の警戒へと移行していた。

特に異変は無い。

 

「それは、どういう意味だ」

『艦の構造図上では、その壁面の奥に空間は存在しない事になっている。第7階層から続く重力子収束装置の底部が位置している筈なんだ』

「じゃあ何、この偽装ドアは私達の勘違い?」

『更に増援を送る。合流し、各自の認識能力を確認せよ』

 

それから2分と経たぬ内に、更に8名の人員が駆け付ける。

互いに繰り返し確認するも、現実に偽装された扉が存在しているらしきこと以外は、何も解らなかった。

 

「ワイズよりブリッジ。やはり我々には。この扉が存在しているものとしか認識できない。其方は何か解らないのか」

『システム内の情報は信用できない。今はクルーの私物を検めているが・・・待て、何だ?』

 

通信の向こうで、何事か声が交されている。

続けて、その場で待機せよとの指示が下され、何事も無く数分が経過。

そして漸く、有益な情報が齎される。

 

『ブリッジよりワイズ。旧ブリッジクルーの私物を調査した結果、この艦に政治士官2名が乗り組んでいた事が判明した。彼等は独自の戦闘要員をクルーに紛れ込ませ、この艦の占拠を狙っていた模様だ』

「それは現状に有益な情報なのか」

『最後まで聞け。乗っ取りは前部デッキの建造時から想定されていたらしい。恐らくは艦長以下基幹クルーの面々もグルだろう。彼等は艦内に、艦のシステムから完全にスタンドアローンとなる空間を構築し、其処で武装蜂起のタイミングを計っていた様だ』

「それが、この奥?」

 

言いつつ、ティアナは壁面を見詰める。

ならばこの奥には、その政治士官と戦闘要員達が居るのだろうか。

 

『彼等は航行予定に無い事象が発生した際の対応として、即時セーフティエリアへと退避し武装。広域追跡信号衛星を放出した後に、基幹クルーを除いた全乗組員を殺害して艦の制御を奪う事を計画していた。実際にその部屋が使用された形跡が在る事から、重力推進航法の実行は予期せぬ状況下で起こったと考えられる』

「彼等がセーフティエリアに籠ったまま艦は『ゲート』を潜り、結局は皆この壁の奥で死んだ・・・って訳ね」

『恐らくは』

「なら、信号衛星が在る筈だな。そう期待はできないが」

 

改めてスバル達が隙間に指を掛け、体重を掛けて扉を引き始める。

金属が軋む音。

しかし直後、圧縮空気の抜ける音と共に、唐突に扉が開放された。

突然の事に、扉を引いていた面々は為す術も無く折り重なる様にして倒れる。

焦りの色を帯びた、複数の声。

 

「と・・・大丈夫か?」

「いや、頭ぶつけちゃって・・・痛い・・・」

「済みません、すぐ退きます・・・ごめんティア、ちょっと手を・・・ティア?」

 

ティアナは応えない。

スバルを始め、倒れ込んだ面々の声を無視し、彼女を含めた残る面々は無言のまま室内へと踏み込む。

室内を見回した後、諦観と共に吐き出されたのは、幾らか震える声。

 

「・・・まあ、予想通りね」

 

室内は、血塗れだった。

壁面から床面、天井に至るまで、どす黒く変色した血飛沫の跡に覆われている。

約8m四方の部屋の中、壁際に固定・展開収納式のテーブルが1つ、武装格納庫らしき大型のコンテナが2つ、奇妙な壁際の装置と隣接する端末が1つ。

部屋中の構造物ほぼ全てに穿たれた弾痕と、散乱する無数の薬莢、完全に破壊された発信用モジュール4基。

大型の銃器を抱えたまま全身に銃創を穿たれ事切れている、計15体もの人工筋肉式強化外骨格を纏った兵士達の死体。

同じく、スライドが後退したままの拳銃を手にし、身体の複数個所が完全に粉砕された、軍用ジャケットを纏う死体が1つ。

同じく軍用ジャケットを纏い、何かを抱え込んで蹲ったまま、背中を無数の銃弾に抉られた死体が1つ。

室内の其処彼処に転がるこれらの死体が、彼等が互いに至近距離で撃ち合った事を示していた。

咽返る様な血臭、腐臭。

そして、壁面に設置された装置の傍に転がる、ポッド状の装置が2つ。

ティアナは迷わずポッドに歩み寄り、装置の状態を確かめる。

知らず、舌打ちをひとつ。

 

「・・・派手にやってくれたわね。ものの見事に蜂の巣よ」

「それってまさか・・・」

 

遅れて入室してきたスバル達が、周囲の光景に怯えつつもポッドを覗き込む。

既に恐怖や不安よりも苛立ちに支配されつつあるティアナは、その感情を隠そうともしないまま応えた。

 

「信号衛星。いえ、その残骸ね。今は単なるガラクタよ」

「こっちはまだ生きてるわ。何発か喰らってはいるけど、問題なく機能している」

「この端末は・・・衛星射出用のマスドライバー・シュートだな。予備端末が機能している様だ」

「そのシステムも化け物になっているのでは?」

「或いはな。だが、射出口は既に解放されているし、衛星をケーブルで繋いで手動で外部空間に放出すれば、システムを解さずに信号を発信できる。マスドライバーが機能しようがしまいが、そんな事は関係ない」

「聴こえたかブリッジ? どうだケイン、漸く運が向いてきたぞ。これで救難船が・・・おい、それは?」

 

突然の指摘に、ティアナは局員の指す方向を見遣る。

其処には蹲ったまま銃弾を浴びた、恐らくは政治士官のものであろう死体が在った。

だが、局員が指しているものは死体ではない。

正確にはその死体の陰、銃弾から守る様に抱え込まれた漆黒のアタッシュケースだった。

 

「開けてみてくれ」

 

別の武装隊員が死体を仰向けにして腕の中からケースを回収し、近くに在ったテーブルの上へと置く。

ティアナが歩み寄り確認すると、既にアナログ式の鍵は解錠されていた。

ケースを開けた其処には、小型のトリガー式コントローラーと拳銃の弾倉2つ、数十枚のハードコピー。

その内ハードコピーを手に取ると、それらを1枚ずつ検めてゆく。

そして、ティアナの隣で同様の作業に当たっていた隊員が、低く声を漏らした。

 

「・・・ビンゴ」

「え?」

 

隊員はそれ以上語らず、資料の内3枚をティアナへと手渡す。

受け取った資料へと数分ほど掛けてじっくりと目を通し、ティアナは咄嗟に顔を上げて目前の彼を見た。

だが、隊員は自身の口に指を当て、静かにするようジェスチャーを送る。

ティアナは彼の言わんとしている事に思い至り、零れそうになった声を呑み込んだ。

資料をスバルへと渡し、インカムを通じてブリッジへと呼び掛ける。

 

「ランスターよりブリッジ、これより其方に向かう。道中の警戒を密にして」

『ブリッジよりランスター、何を・・・いや、了解した。直ちに手配しよう、連絡を待て』

 

通信を終え、背後の面々へと振り返るティアナ。

資料を手にしたスバルと、その手元を覗き込む面々の表情は、あるものは強張り、あるものは無感動だ。

当のスバルはというと、怯える様に周囲の構造物へと視線を奔らせている。

ティアナはそんな彼女の手からハードコピーを受け取ると、再度アタッシュケースへと収めて口を閉じた。

そして、別の政治士官の死体の手に握られた拳銃を抜き取ると、リリースボタンを押して空となった弾倉を抜き取り、ジャケット内部を弄り見付けた予備弾倉の1つを挿入、スライドを戻して初弾を装填し安全装置を掛ける。

随分と前に受けた座学の記憶を頼りに、危なげなく一連の動作を終えたティアナの背後では、もう1人の政治士官の死体の側らで局員が同じ行動をしていた。

他にも武装隊員が武装格納庫を漁り、自動小銃や散弾銃、それら銃器の弾薬を取り出してテーブル上へと並べ始めている。

役に立つかどうかは不明だが、しかし今やただの鈍器と化したアームドデバイスや、取り回しに難の在るネイルガンよりは頼りになるだろう。

ティアナは拳銃を腰のベルトの隙間に挟み、更に死体のジャケットを弄ると、其処から見付けた弾倉を背後の局員へと投げ渡す。

 

「ねえ、ティア。この人の目って・・・」

 

スバルの声。

何事かと視線を動かせば、彼女はアタッシュケースを抱え込んでいた政治士官、その傍らで膝を突き死体の顔を覗き込んでいた。

その死体から拳銃と弾倉を抜き取っていた局員もまた、興味深そうにスバルと同じ行動を取っている。

 

「どうしたの」

「この人・・・変な機械を着けてるよ。ほら、樹脂製の分厚いアイマスクみたいな・・・」

「何それ?」

「それは・・・軍事用の光学認識装置・・・違うな、赤外線か? ちょっと見せてくれ」

 

隊員の1人が、死体へと歩み寄り検分を始めた。

暫し装置に触れ、次いで慎重に取り外す。

そして手の中で数秒ほど遊ばせると、納得した様に声を上げた。

 

「凄いぞ、脳内電気信号に介入するタイプの人工視覚装置だ。こんなのはミッドでもお目に掛かった事が無い」

「どういう装置?」

「こいつを掛けていれば、瞼を閉じてたって周囲の光景を認識できる。脳内に直接、光学情報を転送するんだ」

「何でそんなものを・・・まさか、記録の為?」

「多分そうだろう。もしくはこれの持ち主が、視覚障害を・・・」

 

其処で、唐突に言葉が途絶える。

隊員の視線は手元の装置から、足下に転がる死体へと移っていた。

スバルも同様に、死体を見詰めたまま絶句している。

そして、ティアナもまた隊員の視線を辿り、その先に死体の顔を見出すや否や言葉を失った。

 

「・・・勘弁してくれよ」

「うわ・・・これって・・・」

 

死体には、眼球が無かった。

だがそれは、この艦で幾度となく目にしてきたものとは、決定的に違う様相である。

眼球は抉られているのではなく、元から目そのものが無いのだ。

眼孔が在る筈の位置には不規則に隆起した皮膚が張っており、それ以外には何も無い。

それはどう見ても、古傷以外の何物でもなかった。

 

「銃創だな。両目と鼻骨を、銃弾で根こそぎ抉り飛ばされたんだろう・・・1年や2年以内の傷じゃないな」

「以前から盲目だったのね。だからこんなものを・・・」

「それ、映像の記録はできるんですか?」

「多分・・・」

 

スバル達が外部装着型視覚装置について言葉を合わす間、ティアナは微動だにせず死体の顔を見詰める。

薄く開かれた口部からの吐血、脱力した頬の筋肉。

ティアナは、奇妙な違和感を抱く。

 

「ティア?」

 

立ち上がり、近くの兵士の死体へと歩み寄るティアナ。

その頭部に装着されたヘッドギア、顔面を覆い尽くすそれを剥ぎ取った。

露となった顔を覗き込み、呟く。

 

「やっぱり・・・」

「どうしたの? その人が何か・・・うっ」

 

背後から声を掛けてきたスバルが、何事かと死体の顔を覗き込み、呻いた。

無理もない。

その兵士は、目を背けたくなる程に恐ろしい形相のまま事切れていたのだ。

限界を超えんばかりに見開かれた瞼、異常なまでに充血し白い箇所を探す事すら難しい窪んだ目。

口元から吹き出したまま固まった血の泡、尋常でない力で食い縛られ砕けた歯。

人は此処まで恐ろしい表情を浮かべる事が出来たのかと、見る者を戦慄させる程におぞましい死に顔。

あらゆる負の感情を凝縮したかの様なそれを前に、ティアナ以外の面々が息を呑んだ。

 

「何を見たらこうなるの? こんな顔・・・」

「こっちは・・・同じね、これも」

「ランスター、何なんだ?」

 

更に、別の死体のヘッドギアを外すティアナ。

現れた顔面は、やはり人間離れした形相に歪み、引き攣っていた。

次から次に、頭部の原型を残す死体を見繕っては、その顔を露としてゆく。

ティアナ達の眼前に曝される表情は、どれも極限まで歪み捻れて、その今際の際に秘めていた負の感情のどす黒さを生々しく訴えていた。

真意の窺えないティアナの行動に痺れを切らしたのか、スバルが少しばかり声を強めて問い掛ける。

 

「ねえ、ティアナってば! さっきから何してるの、何が気になってるの?」

「顔よ」

「顔?」

 

簡潔に答えつつティアナは再び、アタッシュケースを抱えていた政治士官の死体へと歩み寄った。

そして過去の戦傷が刻まれ、在るべき眼球が疾うに失われた顔面を指す。

 

「この死体の表情、他に比べて穏やかよね。いえ、穏やか過ぎるわ」

「え・・・」

 

言われて気付いたのだろう、死体の顔を覗き込むスバル。

他の面々も、その異常性に気付いたらしい。

周囲の死体のどれもこれもが、表情に苦悶とも憤怒とも絶望ともつかぬ負の色を露としているのに対し、この士官だけは妙に穏やかな表情で事切れている。

比較的という程度の事ではあるのだが、異常な形相の死体が溢れ返る中でその無表情に近い死に顔は、拭い難い違和感を孕んでいた。

其処で何かに気付いたのか、局員の1人が独り言の様に呟く。

 

「そういえば・・・コイツだけ、同士討ちに加担してないな」

「・・・蹲ってたものね。1人だけ、銃を抜いていなかった」

「弾は・・・本当だ、撃った形跡が無い。最後までケースを守ろうとしたってのか?」

 

違和感は徐々に、疑問へと変貌する。

足下には死体、しかも他殺体だ。

無数の銃弾に背面を抉られ、脊椎が粉砕され内臓が露出している。

だが、損壊の激しさにも拘らず正常な人としての様相、理性の影を残すその表情。

何かが、違う。

しかし、何が。

 

『ブリッジよりワイズ、ハラオウンだ。8名をその部屋に残し、信号衛星の起動とケーブル接続、手動による放出作業に当たれ。接続するのは固定用のケーブルのみ、電源系統および連絡系統は決して接続するな。ランスター陸士は直ちにブリッジへ帰投せよ』

 

ブリッジから通信。

応えは無く、誰もが何事かを思案していた。

何かが、意識の端に引っ掛かる。

だが、それが何なのか、明確な形を得るに至らない。

極めて重要な事であると確信しつつも、それが何なのか判然としないのだ。

 

『ワイズ、応答を。どうした』

「・・・ワイズ了解、これより衛星の設定に移る」

 

応答が無い事を訝しんだのか、再度ブリッジから呼び掛けが入る。

此処に留まる面々と互いに視線を交すと、隊員の手から視覚装置が投げ渡された。

危な気なく受け止め、視線を返すティアナ。

 

「持っていけ、何か有用な手掛かりが記録されているかもしれない。そいつを提督に渡すんだ」

 

それだけを言うと、彼は衛星の調整を行うため背を向けた。

ティアナは無言のまま手の中の装置に視線を落とし、次いでこの場に残る面々を見回す。

徐に敬礼。

 

「それでは、後を頼みます」

 

背を向けたまま、軽く振られる手。

自身等が此処で為すべき事は、もはや何も無い。

一秒でも早くブリッジへと帰投する事こそが、彼等の信頼に応える術だ。

 

「解っているだろうけど、余計な事は一切考えないで。急ぐわよ」

 

装着型視覚装置とアタッシュケースを手に、スバル達を引き連れ元来た道を引き返すティアナ。

シャフトへと飛び込み螺旋階段を駆け上がり、脇目も振らずにブリッジを目指す。

螺旋階段には既に複数の局員が立ち、シャフト内の些細な異変も見逃すまいと警戒を続けていた。

ブリッジも、資料の詳細までは知る由も無い。

だが、状況からそれが如何に重要なものかは察してくれた様だ。

だからこそ無線での報告を求めず、口頭での情報伝達を求めているのだ。

この艦『イベント・ホライゾン』に情報を知られるタイミングを可能な限り遅延させ、続く此方の行動に対する妨害工作を最小限に抑える為に。

 

「・・・来たな」

 

ブリッジに駆け込んだ時、其処には既に40名を超える人員が集まっていた。

どうやら、ブリッジ周辺に展開していた人員を根こそぎ掻き集めたらしい。

ティアナ達はその間を掻き分ける様にして中央コンソール群の1つへと歩み寄り、その上に視覚装置とアタッシュケースを置く。

ケースを開き、ハードコピーをコンソール上へと広げると、正面に位置するクロノを見遣った。

彼は微動だにせずティアナを見返しており、静かな声で発言を促す。

 

「大方の予想は付いている、始めてくれ」

「・・・此処で報告を始めれば、即座に艦からの妨害・・・いえ、攻撃が始まると予想されます。すぐに行動に移れますか?」

「その為に可能な限りの人員を集めた。構わない、説明を」

 

開放されたままの扉から、フェイト達が入室してくる様が見えた。

今この瞬間も、ブリッジには続々と人員が詰め掛けている。

ならば、艦からの妨害を加味しても間に合うか。

意を決し、ティアナは口を開いた。

 

「これは第152観測指定世界、旧環北洋軍事同盟所属の政治士官が所有していた資料です。内容は『識別番号501072』即ち『イベント・ホライゾン』の奪取に関する指令となっています」

 

周囲の視線が、コンソール上の資料へと注がれる。

ティアナはケース内のコントローラーを取り出し、続けた。

 

「彼等は計画を知る基幹クルーと共に、艦内の不要なクルーを排除した上で制御権を奪取し、第83管理外世界の大気圏内で待機中の他艦艇と合流。次いで重力推進航法により艦隊ごと第152観測指定世界、静止衛星軌道上に展開。南部大陸連盟所属国家の主要都市群に対し、戦略核兵器による無差別攻撃を実行する手筈になっていました」

「第83管理外世界・・・なるほど、あそこが放棄されてからもう19年にもなる。よもや、崩壊間近のガスに覆われた惑星大気圏内に、艦隊が潜んでいるなどとは誰であれ考えもしないだろう。惑星自体の監視も3年前に打ち切られている」

「続けます。しかし彼等が行動を起こす前に、恐らくは予期しない段階で重力推進航法が始動した。彼等は事前に策定された緊急時行動指針に基き、前部デッキに設けられたセーフティエリアへと退避。信号衛星の放出と武装蜂起の準備に取り掛かったが、それらが完了する前に艦は『ゲート』を潜ってしまった。武装していた事が災い・・・いえ、この場合は幸運だったというべきでしょうか。彼等は至近距離で同士討ちを開始、結果として全員が死亡したものと思われます」

 

対人質量兵器により即死できただけ、幸運だったと云えるだろう。

ティアナは腰に差した拳銃を僅かに覗かせる。

だが、そんな事をするまでもなかったかもしれないと、直後に思い直した。

何せ彼女の背後には、自動小銃で武装した局員が控えているのだから。

そんな事を考えつつ彼女はコントローラーをコンソール上へと置き、代ってケース内の弾倉を手にするとそれらをジャケットの内側へと押し込んだ。

 

「衛星は見付けたの? 使えるのよね?」

「機能は正常に維持されていて、既に放出準備に入っています」

「しかし、追跡信号を出したところで・・・」

 

信号衛星の確保という情報に希望が湧いたのか、ブリッジにざわめきが広がる。

だが、そんな歓喜の拡散に途惑いがちな声が割入った。

声を発した局員は、何かを窺うかの様にクロノを見遣っている。

見れば、周囲のブリッジクルーは皆、同様に何処か苦い表情を浮かべていた。

数秒後、クロノが重く頷きを返した事で、彼は躊躇う素振りを見せつつも話し始める。

 

「幾ら広域に発信可能な信号衛星だとしても、それが真価を発揮するのは航路上での事です。資料を更に精査する必要があります。信号衛星の放出は、第152観測指定世界近辺の航路上に展開する、偽装工作船との合流を目的としてはいないでしょうか」

 

その言葉に、十数名が資料を手に取り内容へと目を通し始めた。

そして20秒と経たぬ内に、呻く様な声が上がる。

 

「・・・在りました。彼の予想通り、第77空間安定域の戦場跡に展開する大型資源回収船、及び当該空間第4航路の巡回艦艇との合流を目指すと記載されています」

「既に本艦は、第102管理世界の管理空間域からも離脱している。加速前の艦首方向からして、未踏空間域へと向かった事は確実だ。未だ安全航路が確立されていない空間域だからな。第102管理世界も政情安定とは程遠い事も在り、追跡艦艇も存在しないだろう」

「じゃあ、追跡信号を出したところで・・・」

「傍受する艦艇が居ない。救援は然程に期待できないという事だ。やらないよりはマシ、といった程度だな」

 

一転して、ブリッジには沈黙が下りる。

だが、此処で話を止める訳にはいかない。

 

「まだ続きが在ります。本艦の建造状況ですが、航行機能について重大な情報の隠蔽が在りました。資料によると、前部デッキには独立した推進機構が備わっています」

「それはオリジナルのデッキの事じゃないのか?」

「いいえ、このデッキにも低出力ながら反動推進機構が備わっています。提督、この出力で現状の推進方向からの転舵は可能ですか」

 

資料をクロノへと手渡し、反応を待つ。

暫し書面へと目を通していた彼は、其処から視線を上げる事なく答えた。

 

「この出力と搭載燃料なら・・・充分だ。通常よりも時間は掛かるが転舵、加速共に十数回は可能だろう。外部環境と現在位置を確認する術が無いのは問題だが、それらについても凡その予測でカバーできる筈だ。艦を既定航路に戻す事も可能だろう」

「艦長、それでは・・・!」

「その為にも後方機関部を切り離さなくてはな。連絡通路と連結構造をどうやって破壊するつもりだ?」

 

クロノの言う通り、前部デッキを独立した次元航行艦として運用する為には、後方機関部を切り離さなくてはならない。

だが、それら構造物への爆薬設置は見送られたとされている。

表向きは、との注釈が付くが。

 

「推進機構搭載の事実から睨んだ通り、一般のクルーには伏せたまま爆破装置の配置は完了しています。核攻撃が失敗した場合、連結解除した機関部を第152観測指定世界の大気圏内へと降下させ、更に重力推進機関を暴走させる事により惑星質量の11%を虚数空間へと消し去る計画でした」

 

余りに悪辣な計画の内容に、多くの人員が表情を顰める。

軍事政権残党は武装蜂起が失敗した場合、よりにもよって故郷たる惑星そのものを破壊する計画を立てていたのだ。

だが、この瞬間に意識を向けるべきは、その点ではない。

 

「私達にとって重要なのは、既に爆破準備が済んでいるという事実です。起爆装置は、此処に」

 

言いつつ、コンソール上に置かれたコントローラーを手に取る。

それを手の中で一回転させ、グリップを先にしてクロノへと差し出した。

 

「後は安全装置を解除しトリガーを引くだけです、提督」

 

クロノは視線を起爆装置へと向け、次いでティアナを見遣る。

彼女は無言のまま、彼の行動を待った。

 

「・・・ケイン、後方機関部の人員は?」

「既に此方へと移動中です。15分以内には前部デッキへの総員退避が完了します」

 

その報告を受け、クロノは起爆装置を受け取るべく手を差し出す。

装置を渡す為、ティアナはグリップを彼の手の上に置き。

 

「っ・・・!」

 

瞬間、腕を引きそうになった自身を、ティアナは持てる自制心を総動員して押さえ込んだ。

差し出した手の上、親指の付け根。

其処に、赤い斑点が生じていた。

だが、ティアナだけではない。

同じく差し出されたクロノの手にも、複数の斑点が生じていた。

そして、それらは2人の手のみならず、秒を重ねるごとにコンソール上の其処彼処へと数を増してゆく。

 

「提督・・・」

「・・・始まったな」

 

周囲の面々が、コンソールから離れる様に後退る。

コンソール上に弾ける水音と共に、赤い染みは徐々にその面積を拡げていた。

ティアナはクロノの手に起爆装置を残して指を放し、代わりに少しばかり赤くなったハードコピーを掻き集めてコンソールより離れる。

クロノは起爆装置のみならず、視覚装置をも回収していた。

説明する暇は無かったが、それがどういうものか、どの様な意味を持つものであるかは推測済みだったのだろう。

既に頭上より零れ落ちる鮮血の量は、約1時間前のそれとほぼ同等のものとなっていた。

否、上回ってさえいるだろう。

つまりはこれが、先程この場で語られた内容に対する、艦の反応。

恐らくは、具現化した防衛本能そのもの。

 

「宣戦布告という訳か」

 

突然、血塗れとなったコンソールから光が消える。

反射的にコンソールから数歩ほど後退るティアナ、周囲の面々。

だが彼等の視線は身体とは逆に、コンソールへと釘付けにされていた。

サブディスプレイの1つ、ノイズに満たされた其処に、乱れながらも文字が浮かび上がっている。

だが、それは第152観測指定世界の言語でも、ミッドチルダ言語でもない。

 

「アルファベット・・・」

 

フェイトの声が聞こえる。

ミッドチルダ言語との類似点が極めて多い第97管理外世界の主要言語は、比較的容易に習得できる異世界言語として広く知られている。

当然、ティアナもまた理解する事が出来た。

だからこそ、彼女は凍り付く。

 

 

 

『 c o m e 』

 

 

 

奇妙に間隔の開いた、文字の羅列。

揺らいでは消え、また表れる、現状とは何の脈絡も無い単語。

だが、解った。

何を云わんとしているのか。

何を望んでいるのか。

解ってしまった。

 

 

 

『 w i t h 』

 

 

 

行こう、往こう、逝こう。

一緒に、共に。

共に逝こう。

 

 

 

『  u s  』

 

 

 

『我々』と

 

 

 

「危ない!」

 

叫び声。

咄嗟に飛び退く事が出来たのは、正に訓練の賜物だった。

ティアナの眼前、鼻先を掠めて落下する大質量物体。

1Gの人工重力に引かれるままに床面へと衝突、壮絶な火花と金属片を周囲へと撒き散らす。

それら金属片の幾つかが肌へと突き立つ事を感じながら、ティアナは反射的に視線を頭上へと投じた。

だが、その先には1m四方の空洞が生じた天井面以外、何も存在しない。

次いで落下物へと視線を移せば、その正体は天井面へと設置されていたディスプレイの1つとその基部だった。

直下に在ったコンソール、先程までティアナ達が使用していたそれの周囲には表層部に鋭い金属部品が幾つも付き立ち、今や単なるスクラップと成り果てている。

退避が少しでも遅れていれば、最悪の場合は四肢のいずれかを切断されるか、或いは胴体そのものを切り裂かれていたかもしれない。

しかし、その事実をゆっくりと反芻する為の時間は与えられなかった。

 

『エッカーよりブリッジ、緊急!』

「どうした!?」

『約10分前より中央連絡通路との接続部で待機しているが、通路内に人影なし! 誰も来ないぞ!?』

『第2連絡通路、マリベル! 後方から退去してきた一団が、どういう訳か100m手前で引き返したわ! 突然、錯乱した様に見えたけど・・・』

『バーフォードよりブリッジ! 第4連絡通路、負傷者1名発生!』

 

怒涛の如く押し寄せる報告の数々。

各コンソールのディスプレイに、各々の発信位置を示す艦内構造拡大図が表示される。

だが、それらの表示が指し示す位置は、全て前部デッキ内部のみ。

後方機関部からの報告は、一切存在しなかった。

 

「誰も来ないとはどういう事だ!? 確かに連絡はした筈だ、見逃していないのか!」

『押さえろ、押さえるんだ! ブリッジ、聞いているか!? 負傷者1名、重傷だ!』

「引き返した? マリベル、其方で何か異変は?」

「ブリッジよりバーフォード、詳しい状況を知らせろ」

『こんな狭いドアの前で、どうやったら見逃せるんだ! これは間違いないぞ、誓って誰も通っていない!』

『通路の奥より複数の叫び声とネイルガンの発砲音を確認、直後にネイルがギムリの腹を喰い破りやがった! 弾体が右の脇腹から左の背中まで貫通してやがる!』

『何も・・・静かなものよ。此方に向かって歩いていた集団が突然、足を止めてこっちを見つめ出したの。何秒かして、一斉に悲鳴を上げて元来た道を戻り出したわ』

「ブリッジよりバーフォード、発砲されたのか? 味方からの発砲なのか」

「どんな様子だった? 突然、駆け出したのか?」

『俺が知るか! この15分間、通路内では俺達以外に誰1人と目にしていない! それより早く救援を寄越せ!』

「その場で待機しろエッカー、不用意に動くなよ! 今は何が起こってもおかしくはない」

『そう、足を縺れさせながら全力疾走よ。こっちの声にも全く気が付かなかったみたい』

 

飛び交い入り混じる無数の声、拡がりゆく喧騒と混乱。

各々が自身のすべき事を求めて動く中、ティアナは背後に待機していたスバル達と合流し、指示を出した。

 

「貴方は此処に残って。ケースを回収した際の状況と、視界装置と死体の件を提督に報告して頂戴」

 

共にセーフティエリアを調査した局員に、ブリッジに残るよう告げる。

誰かが、調査結果の詳細をクロノに伝える役目を担う必要が在った。

その事を重々に理解していたのか、彼は頷くと手にしていた自動小銃と、制服の其処彼処に押し込んであった弾倉を別の局員へと手渡し始める。

それが済むと、ティアナ達は他の面々に混じり連絡通路を目指して駆け出した。

 

「中央連絡通路を使うか?」

「行き着く先は『コア』よ、気乗りしないわ。第4連絡通路から、循環区画へ抜けましょう」

「ティア、私達も撃たれるかもしれないよ」

「だから本格的な銃器で武装してる私達が行くのよ。警戒、牽制しながら安全を確保しつつ、後続に道を開くの」

「ネイルの弾速は遅い、難しいが回避も不可能ではない筈だ。発砲音を聴き逃すな」

 

通路を駆ける、多くの人員。

それらは各々が異なる連絡通路を目指し、徐々に分散していく。

その中でティアナは横目に、見覚えの在る影を捉えた。

長い金髪を靡かせ、中央連絡通路へと向かう女性。

フェイトだ。

その後姿からは、色濃い焦燥が滲み出ている様に感じられた。

 

無理も無い、とティアナは納得する。

フェイトに対する監視が解かれた後、彼女の親友は後方機関部の捜索活動に当たっていたのだ。

その親友と連絡が取れず、しかも後方機関部からは誰も戻っていないという、この状況。

彼女が大人しくしていられる筈がないのだ。

 

そんな事を思考しつつ、ティアナは第4連絡通路へとつながるドア、開放されたままの其処へと辿り着く。

ドア周辺の壁際には数名の人員が屈み込み、ネイルに胴部を貫通された局員の手を取り、意識を失わぬよう次々に声を掛け励ましていた。

すぐに医療班の面々が駆け寄り、負傷度合いの確認作業へと移る。

負傷者の脚以外は周囲の面々の陰に隠れて見えないが、連絡通路内から彼等の位置にまで続く大量の血痕、そして徐々に荒々しくなる医療スタッフ達の声が、状況が芳しくはない事を雄弁に語っていた。

 

「ティア・・・」

「行きましょう」

 

だが、何時までも此処で躊躇してはいられない。

ティアナは拳銃のスライドを僅かに引き、初弾が装填されている事を確認すると安全装置を外す。

不安そうにティアナの見様見真似で拳銃を構えるスバル、自動小銃と散弾銃で武装した局員および武装隊員6名。

彼等を引き連れ、ティアナは連絡通路へと踏み込む。

その、直後だった。

 

 

 

「ティア」

 

 

 

優しく自身を呼ぶ、亡き兄の声が聞こえたのは。

 

■ ■ ■

 

第1耐放射能ドアを潜り、赤黒く染まった『挽肉器』を抜ける。

足下の通路、その下から響く重く湿った音。

回収できなかったスカリエッティの身体の一部は、未だ此処で回転する障壁に弄ばれ転がり続けているのだ。

視界の中で蠢く鋭い金属の突起、その其処彼処に付着している肉片から必死に意識を逸らしつつ、彼等は第2耐放射能ドアを潜った。

 

「・・・クソめ」

 

誰かが呟いた悪態に、返す言葉は無い。

だが、其処に込められた意思は、確かめるまでもなく一致していると断言できる。

彼等の眼前に鎮座する、この艦に蔓延する悪意と狂気の根源。

 

「化け物の親玉が・・・!」

 

球状の広大な空間、壁面に並ぶ無数の巨大な棘と、円盤状の突起。

回転する三重のリング、その中央にて自身も回転する、棘と円盤に覆われた巨大な金属の球体。

エネルギーを供給する原子炉とは別に、この艦の真の心臓部にして艦そのもの。

艦を何処とも知れぬ未知の空間、スカリエッティ曰く『地獄』へと引き摺り込み、艦そのものを邪悪なる生命へと変貌させた元凶。

クルーを狂わせ殺し、新たな供物として自身等を誘き寄せた捕食者。

重力推進機関の『コア』が其処に在った。

 

「これがゲート・・・」

「此処で見ていても仕方がない、先に進もう。周囲警戒を怠らないで・・・なに!?」

 

他の面々に指示を出そうとしていたフェイトの声は、突如として響き渡った悲鳴に掻き消される。

咄嗟に周囲を見回す彼女の側面、武装隊員が叫んだ。

 

「上だ!」

 

金属の壁面に何かがぶつかる音、急激に近付いてくる悲鳴。

頭上を見れば『コア』の直上20m程の天井面に、幅1.5m程のシャフトが口を開けていた。

悲鳴は、其処から響いてくる。

そして直後『コア』の鎮座する空間全体に悲鳴が拡散するや否や、盛大な金属の拉げる異音と水音と共に、回転する球体とリングの向こうで大量の赤い飛沫が上がった。

凄まじい勢いで噴き上げられた血飛沫に呆然としたのも束の間、フェイト達は即座に其方へと駆け寄る。

だが、その足はすぐに止まった。

 

「何、これ・・・」

「落ちたのは誰だ、生きているか!?」

「いや・・・これは・・・」

 

フェイト達の立つ足場は『コア』を中心に円を描く様に配置された、幅1m程の手摺の無い狭いものだ。

球状に反った壁面側は長さ1mを超える棘と円盤状の突起に埋め尽くされており、反対側の『コア』との間には冷却液が満たされたプールが在る。

プールの4箇所に周囲の足場と『コア』の基部を繋ぐ、やはり手摺の無い長さ3m程の足場が渡されているが、その1つが大きく歪み液面の下にまで沈んでいた。

その窪み方は、まるで高所から落下した人間が叩き付けられ、金属製の足場を押し潰したかの様な有様だ。

だが其処には、飛び散った大量の血液の痕跡と、赤く染まった冷却液という異常な要素が存在しているにも拘らず、落下したと思われる人影は何処にも確認できなかった。

替わりに、歪んだ足場の上、赤く染まった液面の下で揺らぐもの。

 

「あれは・・・服か?」

 

局員の1人が破壊された足場の際にまで慎重に近付き、僅かに液面上へと突出した部分を掴み、引き上げる。

何かに引っ掛かっているのか時折、布地の破ける音を響かせながら回収されたそれは、局員の手によって一同の目前へと晒された。

 

「これって・・・!」

 

赤黒く染まった生地は、しかし辛うじて元は暗いオリーブドラブだった事が窺える。

左肩に縫い付けられた星条旗、右肩には丸いエンブレム。

エンブレムの中央に宇宙艦らしきシルエットの標章、周囲には『U.S.A.C. RMY-23 LEWIS AND CLARK』の表記。

そして左胸に縫い付けられた『MED TEC』『PETERS』の識別表。

恐らくは第97管理外世界の、軍用ジャケット。

 

「『ルイス・アンド・クラーク』だと? じゃあこれは、救難艦のクルーの・・・!」

「どうしたの?」

 

突然、ジャケットを持っていた局員が絶句する。

彼は様子を訝しんだフェイトの問い掛けに答える事なく、ジャケットを翻し背面部を見せ付けた。

 

「う・・・!」

 

幾人かが、呻き声を漏らす。

ジャケットの背面は、ずたずたに引き裂かれていた。

だが、その破れ方には規則性が在る。

辛うじて残された背面の生地は、全て小さな長方形の格子状に破れているのだ。

もしこの破れ目が、人が着用した状態で刻まれたものならば、その着用者は如何なる状態と成り果てているのか。

其処まで思考した時点で、背後の1人が声を上げた。

 

「足場だ・・・」

「なに?」

「あの破れ方は・・・足場の格子と一緒だ・・・」

 

震える声で放たれた言葉に、フェイトは破壊された足場へと視線を落とす。

確かに、足場は格子状に加工された金属床で構成されており、それは周囲の通路も同様だ。

次いで、ジャケットを見遣る。

その規則的な破れ方は、足場の格子と見事に一致した。

再度、ジャケットを持つ局員の背後、大きく窪んだ足場を見遣る。

其処で、フェイトは奇妙なものを見付けた。

 

「あれは・・・」

 

破壊された足場の周囲に、何かが浮かんでいる。

それは、破れたジャケットの一部らしきものだった。

1つや2つではなく、十数枚もの長方形に破り取られた布地の破片。

そして、それらに混じって浮かぶ、複数のブロック状の白い塊。

塊の幾つかは、フェイト達の立つ足場の近くにも漂っている。

片膝を突き、赤い液面に浮かぶ塊を備に観察し始めたフェイトは、しかし数秒後に視線を背けて口元を押さえた。

 

「執務官?」

 

周囲の訝しげな声。

しかし、応える事はできない。

応えるだけの余裕が無い。

フェイトは今、込み上げる吐き気を押さえるだけで精一杯だった。

その間に、他の何名かも塊の正体に気付いたのだろう。

其処彼処から、悲鳴の様な声が上がる。

 

「嗚呼、嘘でしょう・・・何なのよ、これ・・・」

「何だ?」

「多分、人の・・・肉片よ。この服の、持ち主の・・・」

 

塊は肉片だった。

既に長期間、水中に曝されていたのだろう。

色素が抜け落ち、漂白され解れた繊維質を纏わり付かせたそれらは、一見しただけでは何の肉片かは解らない。

だが、長方形に整った断面とジャケットの破れ、そして足場の格子を見れば、それが何であるかは明らかだ。

つまり、この肉片の出処は。

 

「待て、待ってくれ。この『ピーターズ』とかいう人物は『ルイス・アンド・クラーク』のクルーなんだろう? なら此処で、こんな風に『精肉』されたのは・・・西暦2047年の接舷時の筈だ。俺達が悲鳴を聞いたのは『今』なんだぞ!」

「そんな問題じゃないでしょう? 今、確かに『何か』が落ちてきたのよ!?」

「この血はなんだ? 服は? 最初の艦内捜索の時には、足場だって壊れてなんかいなかったぞ。この艦が拾われるまで・・・いいや、拾われてからも、服も肉片もずっと此処に在ったってのか!?」

「これだって幻覚かもしれないだろう! これ以上議論しても・・・クソ、今度は何だ!?」

 

次々に上がる不審と疑念の声。

目前で起こった理解し難い現象を前に、各々の理性と思考が軋みを上げているかの様だ。

だが、そんな今にも議論へと発展しそうなやり取りは、唐突に響き始めた異音によって断ち切られる。

 

「銃声・・・?」

「何処から? 反響して場所が解らない」

「・・・ネイルガンを持っている人は前後へ。その他は周囲警戒、それと常に互いを見張って。ブリッジとは常に相互通信状態を保って」

 

『コア』の在る空間には、機関部各所へのアクセスポイントとなる通路が2箇所あった。

球状の空間を割る様に設置された幅1m程のそれらの左右は、クレバスの様に垂直に切り立つ壁面に挟まれている。

銃声がどちらの方向から聴こえてきたものかは不明だが、フェイトは取り敢えず一方に見定めて歩み始めた。

すぐさまその前方に、ネイルガンを持った武装隊員2名が進み出る。

銃声は複数回に亘って鳴り響き、今は途絶えていた。

 

「単一の種類じゃないな。音からして、複数種類の銃器が使われた様だ」

「・・・確か第4連絡通路に向かった一団が、銃器で武装していたわね」

 

殆どの照明が機能していない薄暗い通路を進み、黄色い警告灯の明滅する三叉路へと辿り着く。

どちらに進むべきか、暫し考えるフェイト。

現在、此方の人数は12名。

従来ならば隊を二手に分けて捜索に当たるべきなのだが、この艦の異常性を考慮すると、ある程度の人数で固まっている方が比較的安全に思えた。

 

だが同時に、未だ1人も見付からない後方機関部へと展開中の人員、彼等を発見するには隊を分けた方が賢明だとの思考も在る。

何よりフェイトにとって気掛かりなのは、この機関部の何処かになのはが居るという事だ。

彼女は、未だ精神が不安定と目されたフェイトに代わり、後方機関部でのウェアー捜索活動に加わったのだ。

フェイト自身は比較的安全とされる前部デッキでの捜索を命じられたが、それはなのはの身を危険に曝す事と引き換えに得た特権だと、彼女は自身を責め続けていた。

 

しかしこの非常時では、配置などに構ってはいられまい。

何より、あのクロノが何も言わないのだから、フェイトの独断専行については事実上の黙認という事だろう。

なのはを含む後方機関部展開中の人員を発見し、前部デッキへと連れ戻す。

この目的が果たされない限り、緊急離脱シークエンスの実行には至れないのだから。

 

「左は循環区画、右は原子炉区画です。どうしますか、執務官」

「第4連絡通路の接続先が循環区画だった筈。そっちに行こう、ティアナ達の安否を確かめて・・・」

「待って、執務官・・・誰か居る」

 

知らされるまでもなく、その存在はフェイトの意識内へと飛び込んできた。

原子炉区画へと続く通路の奥、明滅する警告灯の光に霞む様にして、人影が佇んでいた。

項垂れ、顔を押さえているそれは、微かな啜り泣きの声を上げている様だ。

声からして、恐らくは女性。

 

「・・・警戒を緩めないで」

 

前衛の武装隊員が、油断なく人影へとネイルガンを向け、接近する。

その後に続き、人影との距離を詰めるフェイト。

だが、両者の距離が10m前後まで近付いたその時、突然の警報と共に人影の周囲で蒸気が噴き出した。

通路の先が大量の蒸気に覆われ、人影を見失う。

 

「クソ、何だ!?」

『A-11配管有機濾過膜に異常発生。クラスB有害性有機質異物の混入を検知。原子炉保守要員は直ちに防護服を着用。緊急プロトコルEA-107に従い、メンテナンスプールにて異物の除去、サンプリングを行って下さい』

「不味い、放射能は・・・許容レベルか、ビビらせやがる。さっきの奴は?」

「駄目、居ないわ」

 

蒸気の壁が晴れた時、其処にはもう人影は無かった。

足早に人影の居た地点へと歩み寄ったフェイトは、其処に奇妙なものを見付けた。

 

「アクセサリ?」

 

呟き、銀細工のネックレスを拾い上げる。

三日月と星を模ったアクセサリが、チェーンの先で澄んだ音を立てた。

 

「ナシム・・・」

 

背後からの声。

振り返れば1人の女性局員が呆然と、フェイトの手に在るネックレスを見詰めていた。

 

「それ、武装隊の・・・ナシム・イドリスのデバイスです・・・」

「・・・本当に?」

「彼女とは親友です、間違いありません。それはナシムのアームドデバイス『アルミラージ』です」

 

蒼白な顔で告げる彼女の脳裏には、親友の身に最悪の事態が起きたという可能性が浮かんでいるのだろう。

尤もそれは、他人事ではない。

フェイトとて、なのはの身に何が起こっているのか、気が気でないのだ。

もう1人の親友であるはやては、自らの手で自身の脚を切り落とすという常軌を逸した行いの果てに、重力タンク内で強制的に眠りに就かされている。

ヴィータはやはり自らの手で眼球を抉り出し、家族であるエリオとキャロもエアロックでの惨劇により意識不明の重体だ。

なのはがそうならないと、誰が云えるのか。

そんな忌まわしい可能性を振り払うかの様に、フェイトは視線をチェーンの先に繋がれたデバイスへと戻す。

そして、絶句した。

 

「無い・・・」

「え?」

「デバイスが・・・デバイスが無い」

 

チェーンの端に取り付けられた三日月と星。

それが、無い。

目を離したほんの数秒の間に、影も形も無く消えていた。

どういう事かと視線を通路へと向けた矢先、背後から湿った物を引き裂く様な音、そして金属音が響く。

 

「今のは?」

「ラデル!?」

 

フェイトが振り返った時、其処には奇妙な光景が拡がっていた。

彼女の後方に位置する面々が、ある一点を見つめている。

彼等の視線の先に在るものを、彼女もまた視界へと捉えた。

 

「おい、ラデル・・・悪ふざけは止せよ、何処に隠れてるんだ?」

「消えた・・・?」

 

床面に転がる、灰色の塗装を施されたネイルガン。

それを所持していた筈の武装隊員の姿が、忽然と消えていた。

彼が居た地点の周囲には黒々とした斑点が散りばめられ、更には同じ色をした線が三叉路の方向へと延びている。

局員の1人がネイルガンを拾い上げようと屈み込み、その直後に動きを止めた。

彼は暫し床面を凝視すると、ネイルガンの周囲に散らばる斑点へと指先を触れさせ、指の腹で軽く撫ぜる。

 

「・・・血だ」

 

フェイトは迷わなかった。

即座に、バルディッシュをアサルトフォームへと移行させる。

AMFにより魔力刃の展開こそ不可能ではあるが、近接戦闘用の鈍器としては使い様が在る筈だ。

彼女は非常用照明の赤い光に照らされた三叉路を睨みつつ、先程デバイスの名を明かした女性局員へと問い掛ける。

 

「アルミラージって言ったよね。そのデバイスの形状や特性を教えて」

 

数秒の沈黙。

次いで、途惑う様な声が発せられる。

 

「・・・刀身が大きく湾曲したサーベル状の刀剣です。魔力を通す事で刃の硬度を自在に変化させ、剣としてだけでなく鈍器としても、捕縛用の拘束具としても運用できます」

「実体型の刀身って事?」

「はい」

「魔力を通さない状態では、剣と鈍器のどっちに近い?」

「・・・刃は潰れた状態の筈です」

 

聞き終えると同時、ゆっくりと歩を進めるフェイト。

その左右にネイルガンを構えた武装隊員が控え、後方に他の人員が続く。

血の跡は三叉路を曲がり、循環区画の方向へと消えていた。

無言のまま手振りで前進する事を伝え、薄暗い通路の奥へと歩を進める。

やがて一行は循環区画内の大気濾過システムへと到達した。

ブリッジの倍近い広さの空間に設置された長さ55m、直径4mもの濾過シリンダー。

轟音と共に熱を放つ、その装置の側面でフェイトは足を止めた。

血の跡が、途切れている。

 

「・・・執務官?」

「1箇所に集まって・・・隙を作らないで。全方位を見張るの。何処から、何が来るか分からないから・・・」

「待って、何の臭い?」

 

誰かが零した言葉に、フェイトもまた気付いた。

この空間に立ち籠める、異様な臭い。

火と、鉄と、脂の臭い。

 

「あそこだ!」

 

隣の隊員が、叫ぶと同時に濾過シリンダーの上を指し示した。

見れば、其処には姿を消した武装隊員が、此方を見下ろす様にして立っているではないか。

だが周囲の薄暗さから、項垂れる彼の表情を窺う事はできない。

 

「ラデル! この野郎、心配させやがって! こんな所で何してんだ?」

「ねえ、どうしたの?」

 

周囲からの問い掛けにも、彼は無言を貫く。

様子がおかしい。

誰もがそう思い到ったのだろう、呼び掛けの声は次第に小さくなる。

そして、遂には痺れを切らした局員がシリンダーの上へと昇る手段を探すべく足を踏み出した瞬間、不意に彼の身体から力が抜けた。

 

「危ない!」

 

警告は意味を為さない。

前のめりに倒れ込んだ彼の身体は、そのまま上下を入れ替えてシリンダーの側面へと顔面から叩き付けられ、更には頭部から床面へと垂直に落下し激突した。

何かが割れる鈍い音と共に、彼の身体は俯せとなって床へと倒れ込む。

 

「ラデル!」

 

倒れ伏す彼の傍へと走り寄る者、数名。

だが直後、彼等の内から上がったのは異様な悲鳴だった。

 

「ひっ・・・」

「・・・畜生! 何だ、何なんだよコレは!」

 

フェイトもまた、遅れて彼等の傍へと歩み寄る。

其処で、彼女が目の当たりにしたもの。

それは、世にも悍ましい『作品』だった。

 

「・・・ッ!」

 

床に転がる、武装隊員の身体。

その厚みは、彼の体格からすれば余りにも『薄い』ものだった。

無理もない。

何故なら彼の身体、その背面が大きく削ぎ取られていたのだ。

何らかの鋭利な刃によって項から臀部までを一息に削ぎ落とされ、その後に掻き出されたのか内臓の殆どが失われ、空洞となった腹腔内部が露となった身体。

脊椎さえも半ばより折れ、取り除かれている。

だが、つい先程まで彼はシリンダーの上で、確かに自立していた。

脊椎も内臓も失われた状態にも拘らず、自身の脚で。

その理由は露出した胸腔内部と、本来であれば脊椎が存在する筈の位置を占める、赤く汚れた輝きに在った。

 

「何で・・・こんな・・・!」

 

それは大きく湾曲した、本来であれば純白であったろう刀身。

半ばより折れ2つに分かたれたそれらが、彼の身体を保持する支柱としての機能を果たしていた。

胸腔内へと横向きに嵌め込まれ、その刀身の腹を上にして心肺臓器の落下を食い止めている、切先からの一端。

腰部へと垂直に刺し込まれ、柄尻を上に頸部を支え限定的ながら脊椎の代わりを果たしている、柄からの一端。

そして、握りを覆うカバー内へと通された1本のワイヤー。

 

彼は立っていた。

だが、それは彼の力で為されていたものではなかったのだ。

体内へと突き込まれた刀身、形状からして恐らくはこれがアルミラージという名のアームドデバイスなのだろうが、それに結び付けられたワイヤー。

これを天井面の何処かへと繋ぎ、彼の身体を吊り下げていた。

そうしてまで、彼が自力で立っている様に見せ掛けていたのだ。

だが、フェイト達にとって重要な点は、そんな事ではなかった。

 

「嗚呼、嘘でしょう・・・嘘でしょう、こんなの!」

「肺が動いて・・・心臓も・・・呼吸してるぞ、まだ生きてる!」

 

生きている。

彼は、まだ生きていたのだ。

背面を削がれ、落下の衝撃に頭蓋を割られ。

心肺を除くほぼ全ての臓器を掻き出され、脊椎を半ばより折り取られ、疾うに死体となり果てていてもおかしくはない様相でありながら、辛うじて生きていた。

否、正確には『生かされていた』。

あまりにも悍ましく、疑い様もなく死こそが最大の救いとなるであろう苦痛の中で、其処から逃れる事さえも許されぬままに『生かされている』のだ。

 

誰もが彼を救いたいと願いながら、しかし最早その手立てなど存在しないと、否が応にも理解せねばならない状況。

近付く死の気配と耐え難い苦痛に怯え悶える人間を前に沸き起こる生理的な恐怖と嫌悪、今すぐ此処を離れろと叫ぶ強迫観念。

生と死の境界を跨ぐ直前にまで1人の人間を『解体』し、オブジェとして『飾り付けた』者が周囲に存在するという事実。

それら全てがフェイトの、そして恐らくは周囲の面々全ての精神を蝕み、喰らい尽くさんとしている。

だが、状況は彼等の精神が決壊するまで待つほど悠長ではなく、慈悲深くもなかった。

 

「止めろ・・・」

「なに?」

「今のは・・・ラデル? 彼が何か言ったのか!? おいラデル、聴こえるか!」

「ねえ、しっかりして! 何とかする、絶対に何とかするから意識だけは・・・」

「彼女を・・・止めろ・・・早く・・・!」

 

途切れ途切れに呟かれる言葉。

時折、吐血の音が混じるそれは確かに、眼前に俯せとなっている隊員から発せられていた。

彼の身体は痙攣し、背面の大穴からは今や殆ど出血が無い。

彼が失血死するのは、もはや時間の問題だ。

今こうして息が在る事さえ奇跡であるというのに、発声などすれば死に到るまでの時間を劇的に縮めてしまう事は明白である。

そんな事は、彼自身が誰よりも良く理解しているであろう。

にも拘らず、彼は最後の力を振り絞り、何らかの警告を発した。

『彼女を止めろ』と。

『彼女』とは、誰の事か。

 

「ナシム? 其処で何をしているの!?」

 

迅速に動いたのは、フェイトではなかった。

ネイルガンを持つ隊員が、即座に濾過シリンダーの一端へと銃口を向けている。

遅れて視線を動かせば、シリンダー側面に配置された非常用パネルの前に、何時の間にか人影が現れていた。

グレーの長い髪、武装隊員の制服に身を包んだ女性らしき影。

 

その影が何者であるか、フェイトは即座に理解していた。

恐らくは隊員を連れ去り、そのデバイスで以って解体した人物。

アームドデバイス・アルミラージの所有者、ナシム・イドリス。

だが、彼女がしようとしている事は、フェイトの理解が及ばぬものだった。

 

「・・・ッ! 駄目、彼女を止めて!」

 

『彼女を止めろ』

その警告の意味を、フェイトは漸く理解した。

理解し、その内容から来る衝動に突き動かされるがまま、叫んだ。

パネルの前に立つ彼女、ナシムが今まさに為そうとしている事は、余りにも破滅的な所業だ。

濾過シリンダーの内部は高圧環境が保たれており、且つ超高温の炎が十数秒置きに噴射されている。

にも拘らず、彼女はシリンダー全体を覆う隔壁を、内部のシリンダー共々に開放しようとしているのだ。

 

本来ならば安全機構により、稼動中のシリンダーが開放される事など在り得ないだろう。

縦しんばその様な事態となっても、事前に有機質焼却工程そのものが緊急停止する筈だ。

だが、シリンダーから響く轟音と拡散される熱は、全く衰える様子が無い。

更にパネル上部のディスプレイには『BULKHEAD OPENED』と『OUTER SHELL OPENED』との表示。

それに続く『CYLINDER CONTROL』『OPEN?』の文字。

第152観測指定世界の言語ではなく、また英語表示だ。

そしてナシムは今、その『OPEN?』の表示に手を触れようとしている。

 

「ナシム? ナシム、止めて! 其処から手を放して!」

「取り押さえろ、早く!」

 

フェイトを含め、弾かれる様に駆け出す者、数名。

彼等の向かう先では既に隔壁とシリンダー外殻が開放され、シリンダー本体が照り返す鈍色の光が闇の中に浮かび上がっていた。

これがAMF環境下でなければ、瞬く間にナシムを取り押さえる事が出来ただろう。

ソニックムーブを発動すれば、その瞬間に捕縛は完了した筈だ。

だが今、頼りになるのは自身の脚力だけ。

フェイト以上の脚力で捕縛に向かう者も在ったが、それでもナシムの右手がディスプレイへと触れる方が圧倒的に早い。

 

「駄目ッ!」

 

遠い。

僅か10数mばかりの距離が、無限にも思える程に遠い。

フェイトの視界の中、伸ばされた自身の手の更に先で、ナシムの手がディスプレイに触れんとしている。

そうなれば、もう御終いだ。

想像も付かぬ程の苦痛の中、何もかも焼き尽くされ炭化するだろう。

 

だからこそ、それを避けんが為にフェイトは手を伸ばす。

どうあっても届かないと、間に合わないと知りつつも、凄惨な死を避ける為、迫り来る死神の鎌より逃れんが為に。

どれだけ早くても、幾ら手を伸ばしても、届かない。

絶対に間に合わない。

そう、人間の力では。

人間の走る速さでは。

 

「あ・・・」

 

全ては一瞬だった。

圧縮空気の噴出音と共に鈍色の閃光がフェイトの左側面を、ナシムの下へと向かう面々の間を翔け抜け、ディスプレイに触れようとしていた彼女の右手を貫く。

その勢いは右手をディスプレイより撥ね退けるだけに止まらず、彼女の右腕を支点として全身を引きずる様にして吹き飛ばした。

掌を貫通した閃光はそのままシリンダーへと突き立ち右手を磔にし、更に彼女の全身は勢いのあまり半回転して背面からシリンダーへと叩き付けられる。

一瞬の後、ナシムからこの世のものとは思えない絶叫が上がった。

あまりの声に、思わずフェイトの身が竦む。

掌を貫かれたにしても、余りに異常な絶叫だった。

だが、意図せず身を強張らせた周囲の面々を余所に、ナシムはシリンダーから背を引き剥がし、磔にされた右手はそのままに自由に動かせる左腕を伸ばしてディスプレイに触れんとする。

 

再び、噴出音。

鈍色の矢がナシムの左手をも貫き、その身体を捻じ曲がる様にして吹き飛ばす。

右手に続き左手までをもシリンダーへと固定され、彼女の身体は完全に磔となった。

背面を完全にシリンダーへと密着させ、限界まで腕を広げた状態のナシム。

彼女は数秒ほど、呆然とした様に無言を保っていた。

其処で、フェイトは気付く。

ナシムの両眼が、無い。

だが、その事実を声に乗せる暇さえ無く、再びナシムの絶叫が響き渡る。

聴く者の魂を削るかの様な、壮絶な叫び。

彼女が絶叫する、その理由はすぐに解った。

 

「なに・・・煙・・・!?」

 

シリンダーに押し付けられたナシムの背中、其処から白い煙が上がっている。

口唇を頬の肉が裂ける程に開き、血を吐かんばかりの叫びを上げ続ける彼女。

しかし、荒れ狂う様に全身を激しく暴れさせていながら、彼女の身体は両腕を広げる様にして磔となっている為に其処を離れる事も出来ない。

誰かが、叫んだ。

 

「熱だ! シリンダーの熱で焼かれてるんだ!」

 

悲鳴が、更に大きくなる。

複数人から放たれたそれらは、ナシムの叫びとは様相が違った。

苦痛による叫びではなく、眼前の凄惨な光景に耐え切れず零れた叫び。

フェイトは自らもそれを上げている事を自覚しながら、それでも退く事なくナシムの傍へと駆け寄った。

其処には既に、何とか彼女をシリンダーから引き剥がさんとする武装隊員1名と局員1名が、ネイルから掌を引き剥がすべくナシムの身体に手を掛けている。

フェイトも彼等に加わり、ナシムの右手首付近を掴んだ。

しかし直後、不用意にシリンダーに触れてしまった手に猛烈な熱と痛みを感じ、反射的に引き戻す。

見れば、左手の人差指と中指の甲が赤く変色していた。

暫くすれば、水疱が出来るだろう。

 

シリンダーの壁面より放たれる尋常ではない熱量、焼けた空気と蛋白質の焦げる臭い。

先にナシムの救助を試みていた2人は、一旦は凄まじい熱に怯みながらも、火傷を負う危険をも顧みずに彼女の身体をシリンダーから引き剥がさんとする。

だが、彼女の両の掌を穿つネイルが、それを許さない。

生きたまま背を焼かれる彼女を、その凄惨極まる地獄から逃がそうとはしない。

更に数人が駆け付け、ナシムの身体を引っ張ろうとするも、シリンダーからの熱に阻まれ掴める箇所が限られており、思う様に手助けができない状況だ。

ナシムの悲鳴に混じり、幾つもの叫びが上がる。

 

「早く、早くしないと! 死んじゃう、この人死んじゃう!」

「駄目だ、服が溶けて・・・クソ、肉まで・・・シリンダーに張り付いてる!」

「どけ!」

 

突如として割り込んできた声に、反応する暇は無かった。

フェイトの視界の端、鈍色の切先がナシムの右手首を一閃する。

小太刀型のアームドデバイス。

その刃は視界の左下方から右上方までを瞬時に駆け抜け、次いで左手首をも僅かな抵抗さえ感じさせぬ鋭さで切断した。

突然の凶行に絶句するフェイトであったが、すぐにナシムの両手首を切断した人物の意図に気付き、声を張り上げる。

 

「引っ張って!」

 

ナシムの両手首より先は、ネイルによりシリンダーへと磔にされたままだ。

これにより彼女の身体はシリンダーへと固定されていたのだが、手首を切断された今となっては胴部を拘束するものは何も無い。

少なくともこの時は、フェイトはそう考えた。

そして周囲の面々もまた、恐らくは同じ考えの下に行動を起こしたのだろう。

 

ナシムを救うべく、皆が彼女の身体を所構わず掴む中で、疑問を感じる者はフェイトを含め皆無だった筈だ。

『何故、手首が切断されたのに彼女の身体が動かないのか』

こう考える余裕の在る者など、この時点では居なかったのだろう。

だから、皆が一斉にナシムの身体を引いた瞬間、自身の掌を通して伝わってきた振動、そして鼓膜を震わせる不快な音にフェイトは困惑した。

 

何だ、今の震えは。

厚手の紙を力任せに破った様な振動は。

木皮を強引に引き剥がした様な異音は。

痙攣するナシムの身体、その周囲に降り注ぐ赤い雨は何だ。

 

「あ・・・背中・・・」

 

呆然と放たれた誰かの声に、フェイトは降り注ぐ赤を浴びながら視線を動かす。

そうして視界に入ったナシムの背後、シリンダーにこびり付いた奇妙なオブジェ。

所々から小さく白い煙を上げるそれは。

 

「嫌・・・」

 

 

 

溶けて混じり合った、服と、皮と、肉。

 

 

 

「嫌ああぁぁぁぁぁッッ!」

 

誰のものかも解らぬ悲鳴。

より一層酷くなる、ナシムの痙攣。

フェイト達に覆い被さる格好となっていた彼女の身体がずり落ち、床面へと俯せに倒れ込む。

その背を見て、其処から吹き出す血液を浴びて、フェイトは漸くナシムの容体を理解した。

 

背中が、無い。

本来、背面表層として機能しているべき皮膚も筋肉も、残らず剥ぎ取られていた。

背面だけでなく、身体の後部全面が同じ有様だ。

後頭部も、大腿部も、脛部も。

一様に肉が剥がれ、骨格と組織とが完全に露出していた。

頭蓋骨後頭部や脊椎は一部が炭化する程に焼かれ、周囲の組織は膨大な熱に曝された事で灰白色に変色している。

そして、無数に口を開く小さな裂け目、赤黒い内面を覗かせるそれらから噴き上げる血液。

直に熱に炙られ炭化した蛋白質の塊と成り果てた皮膚と肉は、シリンダーの表層に張り付いたまま今も煙を上げ続けている。

 

何が起こったのか。

実に単純な事だ。

ネイルによって磔となった直後から先程まで、ナシムの背中はシリンダーより発せられる高熱により焼かれ続けていた。

彼女の背面の肉は、その身に纏う服と諸共に焼かれ崩れて溶け混じり合い、シリンダーの表層へと張り付く。

其処まではこの場の誰もが認識していたが、しかし同時に溶着の強度を完全に見誤っていた。

力任せに引けば、それで溶着部もシリンダーより剥がれる程度のものと誤認したのだ。

だからこそ、ある隊員の機転により手首が切断された直後に、熱源から引き剥がすべく皆が彼女の身体を全力で引いた。

 

その結果がこれだ。

溶着部は剥がれた。

但しシリンダーからではなく、彼女の背中から。

その下の肉ごと、骨格に付随する筋肉までをも諸共に。

背面に残された肉も、殆どが熱で変質してしまっている。

脊髄、肋骨や頭蓋骨の内部がどの様な状態かなど、想像すらしたくはない。

全身は小刻みに震え、時折激しく痙攣している。

床に伏せられた顔の辺りからは、排水口の詰まった様な音と共に赤黒い泡が吹き出し続けていた。

素人目に見ても、もはや手の施し様が無い事は明らかだ。

 

「ナシム、嘘でしょうナシム! ねえ、返事をしてよ!」

「ぐ・・・うぁ・・・畜生、クソッたれ・・・クソッたれが・・・!」

「私、引っ張って・・・だって、引っ張らなきゃ、この人・・・こんな、こんな事になるなんて思わなかったの、思わなかったのに・・・!」

「・・・おい、ペシー? 何やってる・・・そいつをどうする気だ!?」

 

少し離れた位置で、声が上がる。

呆然自失の状態から我に返ったフェイトが見たものは、ネイルガンを手にしたまま立ち尽くしている武装隊員の姿だった。

幾人かが数mの距離を置きつつ、彼に話し掛けている。

当の彼は、何事かを呟いている様だ。

 

「違うよ・・・違うんだ・・・」

「解ってる、解ってるよペシー・・・皆、解っている」

「こんな事になるなんて俺・・・俺、そんな心算じゃ・・・ただ、彼女を止めなきゃって・・・」

「ええ、そのおかげで皆が助かったのよ」

「撃って、手を・・・手を、弾き飛ばそうとしただけなんだ・・・でも、こんな事に・・・それで・・・その所為で・・・!」

「落ち着け、お前の所為じゃない。誰かがやらなきゃ皆、死んでたんだ。お前は正しい事をしただけだ、そうだろ?」

「頭が・・・頭の中が・・・嫌だ、来ないでくれ・・・!」

 

どうやら彼は、ナシムの手を狙撃した人物らしい。

彼女の拘束に向かった面々が間に合わないと判断し、表示に触れようとした手を弾くべく咄嗟に発砲したのだろう。

それは、仕方のない事だ。

あの位置関係では、誰も拘束は間に合わなかった。

彼が撃たなければシリンダーは開放され、皆が業火に呑まれていた事だろう。

その後に起こった事については、誰もが予測し得なかった事だ。

断じて、彼の責任ではない。

だが彼自身は、そうは捉えられなかった様だ。

 

「悲鳴が・・・彼女の悲鳴が、頭の中で・・・取れないんだ、こびり付いちまって・・・!」

「ペシー・・・?」

「今だって、まだ・・・聴こえないのか? 皆、何で・・・何で聴こえないんだ、これが!? 畜生、お前ら俺を嵌めようってのか!?」

「おい、どうしたんだ!? さっきから何を言ってる!?」

「見るな、そんな目で俺を見るな・・・見るなって言ってるだろ! 何だよ、俺を責めてんのか!? 仕方なかった、仕方なかったんだよ!」

 

突如として錯乱し始める隊員。

訳も分からずその様を見詰めていたフェイトだったが、すぐに危険性を悟り指示を飛ばす。

 

「皆、離れて。説得は私が・・・」

「執務官、アンタも俺を責めるのか? こっちを見るなって言ってるだろ!」

「落ち着いて、誰もあなたを責めたりしない。あなたは皆を救ったの、それは確かだよ。だから・・・」

「嘘だ! アンタが一番、俺を責めてるに決まってる!」

 

埒が開かない。

隊員は酷く錯乱したままフェイトの話を聞こうともせず、しかも端から彼女が彼を責めているのだと決めて掛かっている。

とにかく少しでも話を進展させなければと、フェイトが立ち上がろうとした瞬間だった。

 

「ペシー、止せ!」

 

ネイルガンの銃口が、フェイトに向けられる。

右手のみで保持している為か、不安定に揺れる銃口。

場に満ちる空気が一瞬にして、恐怖と混乱から緊張へと塗り替えられる。

 

「動くなよ・・・」

「・・・ペシー、そいつは駄目だ。それは洒落じゃ済まないぜ」

「落ち着いて・・・お願いだから、話を聞いて」

「落ち着けだ? その言葉はそっくりそのままアンタに返すぜ、執務官。その様子じゃ何を言っても無駄だろうけどな」

「何を言って・・・」

「惚けるな!」

 

叫びと同時、揺れる銃口。

これを好機と判断したフェイトは、周囲の面々と共に一気に隊員との距離を詰めんと、その脚に力を込めて。

 

「アンタの後ろの奴は、俺を殺そうとしてるじゃないか!」

 

全身を奔る怖気。

背中を、正体さえ掴めない冷気が撫ぜる。

周囲の面々も一様に動きを止め、フェイトの立つ位置へと振り返っていた。

だが、振り返れない。

フェイトの全身全霊が、後方へと振り返るという行為を拒絶していた。

 

「私の・・・後ろ?」

 

呟き、視線を少し離れた位置の面々へと投げ掛ける。

背後を決して視界に収めぬよう、眼球だけをぎこちなく動かすフェイト。

そんな彼女の視線を受けた者達は、しかし一様に困惑した表情を浮かべ、微かに首を横に振るだけであった。

 

「そうさ!」

 

皆の反応も尤もだ。

後ろに誰かが居るなんて事は、在り得ないのだから。

先程までの位置関係からして、彼女の両隣に居る武装隊員と局員とを除けば、それより後方には誰も居ない筈。

何処かから現れたにしても、背後は壁面しかない。

誰も居る筈などなく、実際に他の面々には何も視認できていない様だ。

やはり錯乱しているが故の妄言なのだろうと、そうである筈だと判断し、フェイトは隊員に最も近い位置に居る局員へとハンドシグナルを送ろうと指を曲げ。

 

 

 

「その『猫みたいな耳の女』だよ!

 

 

 

動きを止めるのと、背後に明確な気配を感じたのは、ほぼ同時だった。

背中から覆い被さる様な誰かの体温、耳元に感じる微かな呼吸音。

鉄と炎と血と脂の臭いに混じる懐かしい香り、視界の端で頬を撫ぜる亜麻色の髪。

 

「そいつ・・・人間じゃないな、使い魔か!? そんなものを連れ込んでいたのか!」

「執務官?」

 

フェイトは動かない。

否、動けない。

脳裏に浮かぶ思考を選別する事もなく、片端から必死に消去してゆく。

何も考えない、考えてはいけない。

強迫観念などという生易しいものでなく、自身の生物としての本能が訴えてくる警告、迫り来る自己保存の危機に対する明確な恐怖と拒絶。

 

喜怒哀楽、過去と未来。

あらゆる感情と無数の記憶、どれ1つとして想起してはならない。

想い描いてしまえば、望んでしまえば、それらは艦の力で具現化する。

但し、望ましい形では決してなく、記憶の保有者を最悪の方向へと誘う形となって。

これまでに得られた情報から推測する限り、恐らくはそういう事だ。

 

思い出せ。

この艦に乗り込んだ者達が見たものは何だ。

それを目撃した際に皆が聞いた言葉は何だ。

想いと記憶から生じた偶像に翻弄され、破滅へと追い込まれた犠牲者達の姿を忘れたか。

背後から感じる気配も感触も、音でさえも全てまやかしだ。

幻覚で、幻聴で、錯覚なのだ。

 

「フェイト」

 

休憩室では何ら疑問を抱かずに、その存在を受け入れた。

ブリッジでは、皆が見ているものは幻覚などではないと主張もした。

自身が見たものは単なる幻覚などではないと、今でも確信してはいる。

しかし、異常な存在をそのまま受け入れていた自身の精神は、今思えば何処かおかしくなっていたのだろう。

嘗ての異常な思考を自覚できる程度には、現実を捉える事が出来ているのだ。

 

「フェイト・・・」

 

だから、振り返ってはいけない。

背後に『居る』と信じてはならない。

認めてしまえば、受け入れてしまえば、後はもう逃れる術は無い。

足首を掴まれ、奈落の底まで引き摺り込まれる。

だから、応える訳にはいかない

どんなに焦がれても、どれほど郷愁を誘われても。

決して、意識してはならない。

決して、名を呼んではならない。

彼女は死んだ。

もう、何処にも居ないのだ。

居ない筈なのだ。

なのに。

 

「フェイト」

「嘘・・・」

 

思わず、声が零れる。

こんなものは嘘だと否定する言葉とは裏腹に、脳裏へと滲んでしまう歓喜。

全てはまやかしだと理解しているにも拘らず、胸中へと湧いてしまう期待。

 

「もういいの・・・頑張ったわね、フェイト・・・」

「あの頃も、今も・・・変わらないですね、フェイト。何時も、誰かの為に・・・優しい子・・・」

 

嗚呼、何故。

何故、此処でそんな言葉が聞こえてくる。

こんな、呪われた艦の中、血と臓物、人の焼ける臭いが充満する空間で。

嘗て聞きたかった、しかし永遠に聞く事など叶わない筈の言葉が、何故。

 

「大丈夫、私達が守ってあげる・・・貴女を傷付けようとするものは、全部追い払ってあげる」

「だから、良いんですよ。もう、自分だけで頑張らなくても良い。貴方の家族も友達も、部下の皆さんも」

「皆、私達が守ってみせるから。だから、往きましょう」

 

1人だけなら耐えられた。

辛くても、悲しくても、偽りだと断じて耐え抜く事が出来た。

でも、背後に感じる気配は『2人』だ。

声も、息遣いも、視界の端に映る髪でさえ『2人』分。

亜麻色、そして灰色の髪。

シリンダーの熱によって起こる空気の対流に揺れるそれらが、徐々に視界の両端から中央へと迫り出してくる。

何時の間にか双方の肩に置かれた手、背中に感じる2人分の体温と優しい重み、耳元に感じる息吹。

懐かしい香り、求めて止まなかった温もり。

嗚呼、もう。

 

 

 

「一緒に」

 

 

 

耐えられない。

 

「うあああああぁぁぁッッ!」

 

叫び、駆け出す。

瞬間、圧縮空気の噴出音と共に、左肩を鈍色の閃光が掠めた。

それが、自身の背後の存在を狙い放たれたネイルであると、フェイトは理解している。

それでも、皮下組織までをも抉り抜く灼熱の如き痛覚には抗い切れず、彼女は疾走の勢いもそのままに体勢を崩して床へと倒れ込んだ。

勢いを殺し切れずに床を転がりつつも、彼女の脳裏を占めている思考は1つだけ。

 

逃げなければ。

此処から逃げなければ。

このままでは、自分は『2人』を認めてしまう。

偽物の『2人』だと知りながら、それでも構わないと受け入れてしまう。

 

だから、逃げなければ。

此処でない何処かへ。

あの『2人』が居ない何処かへ。

過去より現在を感じさせてくれる何処かへ。

郷愁よりも危機と焦燥とを認識させてくれる何処かへ。

喉が潰れても、脚が千切れても、心臓さえ止まってしまったとしても。

逃げなければ。

意識ある限り、逃げなければ。

 

「ぐ・・・ッ!?」

 

床を2回3回と転がり、右手で左肩を押さえながらも走る為に身を起こさんとする。

もう、突然の奇行と発砲に声を上げる周囲の面々も、自身をも狙っているやもしれないネイルガンの銃口も、意識の外へと追い遣られていた。

1秒でも早く、此処から逃げなければ。

フェイトの意識には、それ以外の思考は存在しなかった。

 

だからだろうか。

身を起こす際に、彼女の視界に『それ』が映り込んでしまったのは。

『それ』から逃れる為に駆け出したというのに、偶発的ながらも視界へと捉えてしまった。

絶対に認識してはならなかった、決して見てはならなかった『それ』。

 

「あ・・・」

 

先程までフェイトが居た位置、並び立つ影。

微動だにせず、やや俯きがちに頭部を傾けている『2人』。

ショートカットに整えた亜麻色の髪、頭部に突き出した一対の猫そのものの耳、修道服にも似たバリアジャケット。

腰まで伸びた灰色の髪、扇情的なローブ、濃紫色のマント。

フェイトは、知っている。

彼女達を知っている。

 

「あ・・・あぁ・・・」

 

見てはならなかったのに。

知っているからこそ、決して忘れ得ぬからこそ、見てはならなかったのに。

見てしまったら、今度こそ押さえ切れないと解っていたのに。

喉の奥より沸き出る声、決して口にしてはならぬ名。

 

「プレシア・・・母さん・・・リニス・・・!」

 

今はもう居ない、家族の名前。

その声が引き金だったのか、俯いていた2人は徐に顔を上げた。

瞬間、フェイトの喉から引き攣った悲鳴が上がる。

 

「ひ・・・!」

 

クロノや、目撃者達から聞いていた通りだ。

休憩室に現れた時には正常だったにも拘らず、視線の先に立つリニスも、そして新たに現れたプレシアも。

そのどちらにも、眼球が無かった。

唯々、虚ろに穿たれた眼窩が、赤黒い闇を湛えているだけ。

何も読み取れぬ目とは裏腹に、優しげな笑みを湛える唇。

 

心底より沸き起こる怖気に押され、崩れ落ちる様に座り込むフェイト。

そのまま腕と足を出鱈目に動かし、這いずる様にして後退る。

幼子の様に怯え、震える彼女は気付かない。

周囲に居る筈の他の面々、その存在が何時の間にか認識できなくなっている事に。

シリンダーから発せられる轟音、そして熱でさえも知覚の外へと追い遣られている事に。

後退る彼女の背後、其処に小柄な影が佇んでいる事に。

 

「・・・え?」

 

手が、何かに触れる。

咄嗟に振り返れば、其処には小さな子供の裸足。

恐る恐る、視線を上げてゆく。

何時か見たピンクの子供用ネグリジェ、裾に結い付けられた赤いリボン。

肩下まで伸びた金髪、細く小さな四肢。

それは紛れもなく、嘗て闇の書に呑まれた際に目にした姿。

 

「フェイト」

「うそ・・・嘘だ・・・」

 

 

 

アリシア・テスタロッサが其処に居た。

 

 

 

「ひ・・・あ・・・!」

「大丈夫だよ、フェイト」

 

震える事しかできないフェイトに、アリシアは微笑みながら語り掛ける。

嬉しそうに頬を緩め、可愛らしく小首を傾げて。

だが、フェイトの胸中を満たす恐怖は、遂に絶望すらも孕み始めていた。

 

「今度こそ、家族みんな一緒」

 

だって、解らない。

アリシアが、本当に心から笑っているのか、解らない。

あの、幸せであっても哀しい夢の中とは、余りに違い過ぎる。

だから、彼女の本心が解らない。

 

「怖がらないで。何もかも、私達に任せて」

 

だって、何も無い。

プレシアやリニスと同じく、彼女だって何も無い。

自分のそれに良く似た、真紅の瞳。

在るべき筈のそれが、何処にも無い。

嬉しげに緩む眦の奥には、赤黒く蠢く闇、それ以外に何も無いのだから。

 

「とっても素敵なものを」

 

アリシアが、フェイトの顔へと手を翳す。

頬へと添えられる両手の指、肌に伝わる子供に特有の高い体温。

ミルク粥の様な、甘い匂い。

眼前に迫る小さな親指の爪。

迫り来る指先に、意図せず視線が釘付けとなる。

疾うに限界を超えた恐怖と絶望は、それを撥ね除けるだけの気力さえも奪い去っていた。

そして、フェイトが震える息を呑み込んだ、その瞬間。

 

「見せてあげる」

 

 

 

指が、眼孔内へと滑り込んだ。

 

 

 

「・・・ぃぁあああああああぁぁぁぁッッ!」

 

人が発したものとは思えぬ悲鳴。

それが自身のものだと気付いたのは、銃声と共に激しい衝撃に襲われた、その瞬間だった。

 

■ ■ ■

 

「ラズロ、応答せよ! メルビン、ナディア! 誰でも良い、返事をしてくれ!」

「サギリ、通信途絶。ソディア、アガロ双方とも応答せず」

「この悲鳴は!? セルシア、応答して! さっきから何が起こってるの!?」

 

ブリッジは阿鼻叫喚の図と化していた。

後方機関部へと捜索、救助に赴いた人員が次々に沈黙しているのだ。

捜索隊56名の内、既に49名との通信が途絶していた。

そして、通信が途絶える直前にスピーカーを通じて聴こえる、意味不明な呟きや叫び、身も凍る様な悲鳴。

それらは、少量とはいえ未だ天井面より血が滴る中、制服を赤く濡らしながらも奮闘するブリッジクルーの精神を、徐々に蝕んでゆく。

 

恐怖、諦観、そして絶望。

忍び寄る負の感情と思考に、彼等は必死に抗い続けている。

支えとなっているのは、敢然と状況に対応し指示を下す提督、彼に対する絶対の信頼だ。

彼が居るからこそ、的確な指示を下してくれるからこそ、この状況からも生還できる。

誰もがそれを信じ、或いは揺らぎながらも信じようとしながら、これまで戦いを続けていた。

だが今は、その支えが機能していない。

 

「ハラオウン執務官、応答しません・・・副長、提督はどちらに!?」

 

そう、今この場に提督、クロノ・ハラオウンの姿は無い。

彼は10分程前まで、政治士官が所有していたという視覚装置を自らのデバイスに接続し、其処に記録された情報を確認していた。

だが突然、何を思い立ったのか緊急措置と称して指揮権を副長に委ねると、視覚装置および起爆装置を手にブリッジを後にしたのだ。

丁度、捜索隊との通信が途絶え始めた頃であり、混乱も在って止める暇さえ無かった。

それでも、副長もまたクロノを心から信頼している者の1人だ。

何か意味が在るのだと信じてこの10分間、ブリッジクルー達の指揮を代行してきた。

しかし今、その信念も僅かに揺らぎ始めている。

状況は悪化の一途を辿るばかり、クロノは一向に戻る様子が無い。

これで、状況を打破できるのか。

 

「呼び出し続けろ! 悲鳴だろうが何だろうが構わん、モニタリングするんだ! 通信が維持されている者は、休まず話し掛け・・・」

「副長!」

 

コンソールの1つから、叫びが上がる。

今度は何だ、と鋭く視線を奔らせた彼はしかし、続く報告に心底より凍り付いた。

 

「提督です! 監視システムが提督を捕捉しました! 中央連絡通路、後方機関部へ向かっています!」

 

硬直は一瞬、すぐさま行動に移る。

コンソールへと飛びつく様にして、叫んだ。

 

「ブリッジよりエッカー! 提督が連絡通路に侵入しているぞ! 何故気付かなかった!?」

 

返されるのは、ノイズのみ。

再び、叫ぶ。

 

「エッカー、応答せよ! こちら副長、ケインだ! エッカー、何が在った!? 返事をしてくれ、ボウマン!」

 

旧知の部下を呼ぶも、応えは無い。

先程、クロノを捕捉したと報告した部下が、再び声を上げる。

 

「そんな・・・副長! 来て下さい、副長!」

 

動揺を隠そうともしない叫び。

大股に歩み寄り、彼が指すディスプレイを覗き込む。

表示されているそれは、連絡通路を歩み往くクロノの後ろ姿、その拡大映像。

其処に映り込んだもの、どうあっても信じたくはない光景。

 

「提督・・・貴方は・・・!」

 

 

 

赤く染まった両手、滴る鮮血。

 

 

 

「艦内放送だ、呼び戻せ!」

「駄目です、システムが沈黙して・・・」

「おい、誰だ! 何故ドアを閉める!?」

「マリベル!?」

 

背後から新たな叫び。

振り返れば、ブリッジと通路との境となる耐圧ドアが閉まり、その傍らの壁際に女性武装隊員が佇んでいる。

彼女は壁面に設置された非常パネルへと手を翳しており、彼女が常時開放されていたドアを手動で閉めた事は明らかだった。

それだけならば、その行動に疑問こそ覚えるものの、異常と感じる程の事ではない。

問題は、彼女が数分前まで第2連絡通路と前部デッキとの接続部で警戒に当たっていた筈の隊員であり、此処に居る理由が全く解らない事だ。

そして、その姿。

赤く染まった下肢と両腕。

髪先から滴る鮮血。

 

「ねえ、マリベル・・・?」

 

クルーの1人が、彼女へと呼び掛けたその瞬間。

消える照明、けたたましい警告音。

警告灯の黄色い光が明滅し、自動アナウンスが響き渡る。

 

『警告。前部デッキ第4階層、未確認の有機質オブジェクトを検知。オブジェクト保有の疑いが在る者は現場を動かず、直ちに待機状態へと移行して下さい』

『全乗組員は速やかに汎用防護服を着用し、防疫プロトコルEB-033に従い行動して下さい。保安要員は各連絡通路内からの人員退去を確認ののち隔壁を閉鎖し、後方機関部の隔離を実行して下さい』

『防疫プロトコルEB-033への違反を検知。未確認オブジェクト移動中、第3階層侵入』

 

4方向から迫り出し、ドアを完全に覆い尽くす緊急隔壁。

誰もが呆然とそれを見つめる中、更なるアナウンスが響く。

 

『未確認オブジェクト移動中、第2階層侵入』

「マリベル、どうした!?」

 

警告灯の明滅の中、ドアを閉じた女性武装隊員の身体が不自然に震え始めた。

咄嗟に駆け寄ったクルーが彼女の肩に手を掛け、振り返らせる。

 

「マリベル・・・ッ!?」

 

引き攣った呼吸音。

振り返った隊員の顔、それを目にした誰もが息を呑んだ。

額から頸部の右側面まで引き裂かれ、寄り集まったビニール屑の様に垂れ下がる皮膚。

掻き毟られたのか、質量の殆どが失われ崩れた頬の肉。

その下から覗く、赤く染まった剥き出しの頬骨。

目を背けたくなる程の惨状にも拘らず、彼女はそれを気にも留めていないかの様に、全身を震わせながら口を動かす。

 

「追ってくる・・・」

「・・・何だって?」

「追ってくるの・・・私達を、連れて行こうと・・・引き摺って行こうと・・・あれが、あれが・・・」

『未確認オブジェクト移動中、第1階層侵入』

 

副長、ケインは気付いた。

近付いている。

自動アナウンスが告げる未確認オブジェクトとやらは、第4階層から最上層まで上ってきた。

つまり、それが意味するところは。

 

「逃げなきゃ・・・」

『未確認オブジェクト、位置特定。第1階層、艦橋前通路』

 

 

 

こいつは、ブリッジを目指しているのだ。

 

 

 

「うぁッ!?」

「退がれ!」

 

瞬間、隔壁の向こうから轟音が響き渡る。

合金製のドアを殴り付ける様な、異様な音。

隔壁自体に異常は見受けられないが、音は徐々にその大きさを増してゆく。

 

「副長・・・!」

「離れろ! 全員、コンソールの周囲に集まるんだ!」

 

指示を出しつつも、彼は理解した。

閉じ込められたのだ。

ドアの外、この音を立てている存在が実在するものか、或いは幻覚なのかは解らない。

しかし、ドアの開放が破滅的な結果を招く事だけは確かだ。

ならば、此処で籠城する以外に選択肢は無い。

実質的に、この場の全員は自身の行動に関する決定権を喪失したのだ。

歯噛みするも、現状を打破する一手は思い浮かばなかった。

そして、状況は更に悪化する。

ブリッジに響き渡る、新たな警告音。

 

「副長、機関が!」

 

言われるまでもなかった。

全てのディスプレイに、回転する『コア』の3Dモデルと『機関始動準備完了』との警告文が表示されている。

そして『20:00:00』との表示も。

 

「・・・まさか!」

 

更に警告音。

流れる自動アナウンス。

 

『警告。重力推進機関、始動シークエンスα-1からα-9を開始。全乗組員はゲート開放10分前までに向精神薬を服用、所定の耐衝撃シートにて跳躍に備えて下さい』

「跳躍だと・・・!?」

 

直後、全ての映像が乱れる。

そして、ディスプレイ上の全ての言語が第152観測指定世界のそれから、一瞬にして第97管理外世界のものに変じていた。

目を走らせ、絶句する。

 

「嘘だろ・・・!」

 

 

 

『gateway open : 19:51:21』

 

 

 

「ヤバイぞ、ドアが!」

 

金属の拉げる音。

見れば隔壁の其処彼処から、音が鳴り響く度に火花が散っている。

視線を表示に戻せば、数字は『19:32:83』にまで減じていた。

自動アナウンスによる警告が繰り返される。

 

『警告。重力推進機関、始動シークエンスαを完了。β-1からβ-14を開始。全乗組員はゲート開放10分前までに向精神薬を服用、所定の耐衝撃シートにて跳躍に備えて下さい』

 

猶予は、約19分しかない。

このまま何も対策を打てず19分が経過すれば、この艦は何もかもを道連れに『向こう』行きだ。

そして、艦は此方に戻って来れるかもしれないが、内部の人間は間違いなく片道切符だろう。

縦しんば戻ってきたとして、その時には既に物言わぬ骸に成り果てている事は想像に難くない。

何としても、重力推進航法の実行を阻止しなければならないのだ。

 

「システムに割り込みを掛けろ! コアへの電力供給を遮断するんだ!」

「駄目です、一切の操作を受け付けません! またシステムがこっちを認識しない!」

「畜生、畜生が! このままじゃ俺達も地獄行きだ!」

「黙れ!」

 

とはいえ、何ができるというのか。

此処から動く事はできず、システムは此方の操作を『無視』している。

発想自体は最悪極まりないが、後方機関部を見捨てて重力推進航法の発動より逃れようにも、それは叶わない。

各連絡通路に設置された爆薬の起爆装置は、機関部へと向かったクロノが所持しているからだ。

彼が正気なのか、狂ってしまったのかは解らない。

だが1つだけ確かな事が在る。

切り得るカードは、この場の面々の手の内には残されていない。

 

「・・・地獄か」

 

周囲に聴こえぬよう、呟く。

思い出したのだ、先人達の遺言を。

 

「『救え』だって?」

 

彼等は言っていた。

『向こう』を、地獄を。

此方側の誰にも想像だにし得ない、真の邪悪と狂気に満ちた世界。

其処を目にした者達からの、最後のメッセージ。

 

『Liberate Tutemet』

 

「己を救え」

 

『Ex Inferis』

 

「地獄から」

 

 

 

『警告。重力推進機関、始動シークエンスβを完了。γ-1からγ-27を開始』

 

 


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