作品集 短編
ウィンターマフラー
「
真冬の真っ盛りで雪が降る中、俺は女の子に声をかけられた。
一面銀世界と言うに相応しい雪景色に、ダッフルコートに、二人分の長さがあるマフラーだけで防寒している少女は自信なさそうな表情をしている。
「そうだが、一体なんだ? 悪いが長い話になるなら後にしてくれないか、寝過ごして遅刻しそうなんだ」
学校へのショートカットに使える公園で、思わず足を止めて、俺は答える。まったく、冬の朝はどうしてあんなに寒く、そして羽毛布団の温もりがあんなに愛しいのかね。おかげで遅刻しそうだ。こんな事なら大見得切って一人暮らしなんてするんじゃなかった。
「あ、やっぱりそうなんだ。良かった」
女の子は嬉しそうに笑っている。おぉ、なかなか可愛い笑みだ。学校とかならちょっとしたアイドル的存在になれるな。だが、こんなカテゴライズ美少女が、俺のような凡人に何のようだというんだ? 残念なことに俺には美少女に話し掛けられるような記憶は無いぞ?
「大丈夫。用事はすぐ済むから」
「すぐ済む用事か? ならさっさと終わらせてくれ。俺は学校に行かねばならん」
女の子は天使のようにニッコリと笑った。
「死んで♪」
悪魔の笑みだった。
「何故だ?」
とりあえず交渉。
「なぜって? 私は雪女ですから」
雪女? 妖怪? こいつ気は確かか? 頭おかしいんじゃないのか?
などと俺は思わない。こういうのは疑わしいが大抵本当なときが多い。いや、漫画とかの知識だけど、まあ、俺も本気で信じちゃいないが、油断するべきじゃないしな。それに、こいつが本当に雪女だとして何故俺が殺されねばならんのだ? まずそこから疑問をもって――、
「あ、手早く済ませるんだったね。すぐ終わらせるからじっとしててね」
女の子が片手を上げて天を指差す。それが何を表してるのか知らないが、いつまでも遊びに付き合っているわけには――、俺の生存本能が避けろと危険信号をならした。
跳び退く俺、一歩遅れで出現する巨大な氷の槍、間に合わなければ俺は氷付け……。
「ああ~~、だから動いちゃったら死ねないって」
「人は危機を感じると本来の倍以上のスピードで走れるという」
俺の口がそんなことを言いながら、その場をものすごい勢いで走り出していた。これらに俺の意思は一切含まれていない。全ては生存本能に身を委ねた結果だ。端的に言うならきっと混乱している。俺の中で冷静な俺がきっとそうだと言っている。多分言ってる。後、止まるなと言ってる。止まったら追いつかれるって。
「あ、あのあの、ちょっと、何で走るんです? 危機って何?」
「お前のことだ! ってか、すでに追いつかれているっ!?」
隣の声に振り返れば、さほど凍ってもいないアスファルトの上をスケートのように滑っている長いマフラーの女の子がいた。その足元を見れば、彼女が地面に足を付く度に、そこが凍って即席スケートコースが出来上がっている。いや、何処でもスケートか? いやいや、そんな事はどうでも良いんだ。
「なんだお前はっ! 俺に何をしようってんだ!」
「え? 何って、私は
「マッハ!」
さらに速度を上げる。途中、信号が赤を示しているのが実に恨めしく思いながら歩道橋を上った。我ながら良く転ばないと誉めよう。
「だ、大丈夫! 私痛くないように頑張るから!」
「頑張るなっ!」
「え? 痛い方が好きなの?」
「ニトロッ!」
速度アップ。もはや周りが良く見えん。俺、すごい必死だ。なのにどうしてこの子はぴったり隣に付いているんだ。いや、妖怪だから憑いてるのか?
「あ、あのぉ、えっと、えとえと。あ、そうか、頑張りすぎると緊張して失敗するって言いたかったんですね。分かりました♪」
「分かってな~い!」
結論から言って俺は遅刻した。
だが誉めてくれ、俺は逃げ切ったぞ。途中、ガードレールを飛び越え、車に轢かれそうになったり、足を滑らせヤーサンの中に飛び込んで睨まれたり、林に逃げ込んで木に激突しかけたりと、何重にも命の危険を重ねる事になったが、おかげで追撃者から逃れることが出来た。本物の妖怪から逃げ切るなんて表彰されても良いんじゃないのか、俺? むしろ、誰か誉めてくれ。戦争から生きて帰ったようなものだぞ。
「そういう訳だ。俺を誉めなさい
窓際後方二番目という羨ましいポジションに座しているクラスメイト、
「なにを?」
端的に返す鈴子に俺は今朝の顛末を話す。
「――ってなわけで、俺は危うく未知のサプライズウーマンに、歴史上隠蔽されそうな殺され方をされそうなところだったんだ。あ、笑って良いぞ、多分信じないだろうから」
「くすくすくす……」
棒読みありがとう。
「だが、当人である俺にとっては死期を間逃れたハラハラの一時だったのだ。これで賞賛されないのはあんまりだと思わないか? いや、思わないだろうから、思え」
「おもう」
再び棒読みありがとう。
「なら誉めてくれ。この際、『よくできました』でも構わんし『頭を撫でる』の選択肢でもいい。このまま俺が自称雪女相手にした苦労が無かったことにされたら精神が持たない」
「よくできま……」
とっ? なんだ、鈴子が言葉の途中で何かに気付いたように口が止まった。
「雪女?」
「そうだ。雪女に追われた」
「あの、自分の夫を氷付けにする雪女?」
「ああ、その雪女」
「その子がそう言って殺そうとしたの?」
あ、あの、何故そんなに負のオーラを静かに放っているんですか鈴子さん?
「ど、どうした?」
「どうも」
「いや、なんか怒ってないか?」
「ない」
「そんな風には……」
ばたむんっ! と予想しなかった大きな音を立てて本が閉じられる。そのまま立ち上がると教室を出て行ってしまった。なんだか良く分からんが、俺は鈴子の触れてはいけない何かに触れてしまったらしい。
結局俺は鈴子に謝って許してもらった。鈴子が言うには、なんだかむしょうに俺の顔がイライラする物に見えたらしい。謝った後は元に戻ったらしいので何よりだが、一体なんだったんだ? 最近の鈴子は急に不機嫌になったりして分からん。
まあ今日は珍しくあれやこれや騒がしい一日だったが、無事に放課後を迎え、こうして住宅街を下校している。終わって見れば愉快だったの一言で終わらせれそう――、
「あ、学校終わった?」
長いマフラーをした雪女が現れた。
終われなかったーー! いや、むしろ終わるっ!
「魚は危機を感じると前へ逃げる習性があるという」
「わわっ、逃げないでよ~」
逃げようとする俺の服を後ろから掴み、捕縛する雪花。まずいっ、捕まれている状態では氷付けから逃れる事が出来ん! 俺は逃げようと腕を振り回して必死に暴れ回った。
「ね、ねえ、待ってよ。少しお話……」
「こ、ここまでかっ? 俺の人生ここまでなのか~っ?」
「お、落ち着いてよ。迷惑かけないから」
殺されるのは迷惑だ。
「諦めるしかないのか? 厄介なことにならないように穏便に生きてきたのに、ここで終わりなのか!?」
「あの、あのあの」
「はっ! そうだ、携帯! 電話! お巡りさ~~ん!」
「お願いですから話を聞いてください!
一瞬で雪花を中心とする空間の時間が止まった。
数秒後、時間は動き出し、サワサワと静かに周囲が騒ぎ始める。
「『あなたしかいない』だって? 何をどうしたらあんな事言わせられるのかしら?」
「俺、こんな台詞マンガでしか聞いたことねえよ」
「ねえねえ、これってどういう意味だと思う?」
「そうだね。色々ととれるよね。例えば男の方が女の子を騙した痴情のもつれとか」
「女の子の方に子供が出来ちゃったとか?」
「ああ、ありそう。それで女の子が男を頼って」
「でも、男はそれを拒絶したのよ。だからあんな台詞が」
しゅ、周囲の視線が痛い。むしろ一思いに殺して欲しいと嘆く感情が……。
ってか、子供ってなんだ! 俺はまだ高校生だぞ!
「わ、分かった、話を聞いてやるからとりあえず場所を変えよう」
俺の提案に雪花は満面の笑みで応えた。
とりあえず、近場の公園にある小さな林の中に場所を移した。
念のため周りに人気が無いのを確認してから俺は対面する雪花に話しかける。
「さて、話す前に重要事項がある」
「重要事項?」
「今朝みたいに、いきなり氷付けにするのは無しだ。落ち着いて話もできやしない」
「あ、ああ、うん。それは少し反省してます。いくらなんでもいきなりすぎてたよね。ごめんなさい」
あ、案外素直に謝るんだな。腰を八十度近く折って頭を下げる彼女を見ると、最初の狂喜振りが嘘のようだ。いや、狂喜振りってのも言いすぎだろうけど。
「やっぱり冷気で体感神経を麻痺させてから絶対零度で痛みも無く崩していくのが安心しますよね。意識だって朦朧としていて恐怖も少ないし。でもごめんね、まだそんなに力が無くて絶対零度はちょっと……」
分かってな~いっ! ってか、神経麻痺とか絶対零度とか崩すとか、台詞そのものに恐怖を感じるよ!
「待て待てっ、話し合いたいんじゃないのか? 穏便に話す気が無いのなら俺は逃亡させてもらうぞ」
「あ、はい? 大人しくしてます?」
なんか理解して無いみたいなんだが大丈夫だろうか?
「え~~と、とりあえず聞きたいのは、お前は本当に雪女なのな?」
「うん、妖怪の雪女だよ。ほら、瞳が人とは違うでしょ?」
雪花は自分の瞳を指差し見せるように小さく背伸びした。反射的に覗き込んでしまったが、これってなんだかキスしようとするカップルのようで、なんだか気恥ずかしい。とは言え今更離れるのもおかしいのでなるべく平常心を保つ事にした。
ふむ、確かに人の瞳とは違うようだ。なんと言うか……、そう、光を反射してない感じだ。マンガで例えるなら放心状態とか、操られてる状態とか、ともかくまともな状態でない時の目だ。いきなり人を殺しに来た雪花と妙にマッチしてて背筋がゾッとする。
いやしかし、最初見た時も可愛いとは思ったが、こうじっくり見るとその可愛さが良く分かると言うか、長い睫毛(まつげ)、丸みを帯びた頬、ぷっくりした唇、サラサラの髪、白い肌、華奢な身体、思わず抱きしめたくなるようなこの魅力。
「あ、あのあの、そんなに見詰められると……ちょっと、照れる……」
「え? あ、ああっ! すまんかった!」
雪花の事をまじまじと観察していたことに気付いた俺は顔を離す。何やってるんだ俺は、さっきまで気恥ずかしいとか思っておきながら何をじっくり観察しているんだ。どうも雪花の顔を見ていると、なんだか懐かしい感じがして見入ってしまうと言うか見惚れてしまうと言うか……。
雪花も恥かしかったのか頬を少し赤くしている。つられて俺もまた恥かしくなってくる。恥かしさを誤魔化したくて、俺は話の続きを促した。
「んでっ、今朝は何であんな事をしたんだ?」
「どうしてって、普通の事だと思うけど?」
何が普通なのかと議論していいだろうか? それとも穏便にツッコミか? いや、俺も命が惜しい。
「あ、そっか、人と妖怪じゃ概念が違うっけ。あ、あのあの、私は妖怪で雪女で~……」
「それは聞いた」
「えっと、それでね、私は、その……」
「何を口篭っている」
「あ、あのあの、改めて口にするのはなんだか恥かしくて」
改めて? 何を改めて言う気だ? まさか「死んで♪」じゃないだろうなっ?
雪花は言いにくそうに頬を赤らめ、もじもじと両手の指を弄っていたが、やがて決心したように言葉を紡ぐ。
「私、平治くんの事が好きなの」
凍りついた。ははは、さすが雪女だ。身体だけじゃなく空間まで凍りつかせ、あげくこの俺の思考まで氷付けにするとは、ははは、まったくあっぱれあっぱれ、ははは………。
しっかりしろ俺っ!
いかんっ、本当に思考能力が凍り付いておかしな人格意識が形成されていたぞ。これが雪女、妖怪の本領と言うものなのか? いや、たんに告白されてテンパッテルだけって言うのは分かってるんですけどね。
「あの、あのあのあの、そ、それで……、だから……、でして……」
どうやらテンパッテルのは俺だけじゃなかったようだ。言った本人も真っ赤な顔でオロオロしている。その仕草がすっごく可愛くて、その可愛い女の子に告白されたんだと思うと、なんだかむず痒くて、とっても嬉しかった。殺されるのは勘弁だが…。
「ま、まあ、落ち着け。その気持ちはとりあえず受け取っとくとして、それがどう転んだら今朝の行動に繋がるんだ?」
「そ、それは……、それが妖怪の愛情表現なんです」
「愛情……表現……?」
不思議と顔がにやける。嫌な予感が……。
「あの、カマキリって卵を産むために母親が夫を食べちゃうんです。それと同じように雪女も夫を氷付けにして、子供を生むための特別なものにしちゃうんです。私達は『産玉(うぶだま)』なんて呼んでますけど」
「ええ~~……、つまり、君は俺の事が好きだと?」
「は、はい」
「それで君は妖怪で、その本能か? 見たいなんもんで恋人を殺したくなると?」
「はい」
「つまり俺は君に命を狙われていると……?」
「はい♪」
わき目も振らず踵を返す。上着を掴れ、逃亡阻止された。上着を脱ぎ捨てる。
「トカゲは自分のみを守るため尾を切り捨てると言う」
「平治くんはトカゲじゃないですよ~~ッ!」
背後からそんな声と共に、冷たい風が俺を追い抜いた。かと思えば目の前を氷の壁が出現し行く手を遮る。
「いかん、相手は確実に知恵をつけている。逃走ルートを遮断されては人の身ではどうにもならん」
「そう思ってるなら何で壁をよじ登ろうとしたり、穴を掘ろうとしたり、必死にシャーペンの先で壁を叩いたりしてるんですか?」
「い、いや、神も想像できない世界的バクが生じて抜け出せないものかと」
「人間の世界には『溺れる者は
「正に今の俺に相応しい言葉だな」
「自分で言わなくても……」
あ、焦るな俺、前提を思い出せ。この話し合いは、いきなり俺を殺さない事を条件に進められている。なら、内容次第では死を間逃れる可能性だってあるはず。……なかったらどうしよう。考えるな俺っ!
「あの、妖怪百面相のものまね?」
「その質問は脇において置け、そしてそのまま放置しろ」
「は、はあ……」
俺は雪花に差し出された上着を受け取り、着直して咳払いを一つ吐く。
「まあ、落ち着いて俺の話を聞け」
「私は落ち着いてましたけど?」
「君が俺の事を好きでいてくれるのはとても嬉しい。だが、好きな相手を傷つけることに抵抗があるのではないか? そんな苦悩を君に与える事は……」
「え? 別に
「痛みに嘆く愛しき人の声を聴いて良心が痛んだり……」
「大丈夫です。痛みが感じないようにがんばります!」
「急に世間で一人の少年が行方不明になったら騒ぎになるかも!」
「? それがなにか?」
ダメだーーッ!
まだ氷の壁がない所へ一目散に走り抜けようとしたが、今度は後ろから腰に抱きつかれて阻止された。
「あの、あのあの、どうして逃げるんです?」
自分の胸に聞いてください。
「だ、大丈夫ですよ。私妖怪の中では若いですけど、力だけは一人前ですから。まず、身体の神経組織を冷気で凍らせれば麻痺します。そうすれば痛みを感じませんので、今度は脳を冷気で冷やしつつ、足の方から凍らせていけばゆっくり睡魔が押し寄せて、そのまま身を任せて眠ってもらえれば、痛みも苦しみもなく死ねます」
脅迫かっ!? これは脅迫なのかっ!?
「だから死んで♪」
あ、今俺の中で大事な何かが恐怖でプッツリ切れた気がする。
「ふざけるな! 人間の命を何だと思ってるんだよお前っ!」
「わっ!」
振り返らずに叫ぶと、ビックリしたのか雪花は腕の力を少し緩めた。俺は逃げようとはせず、自分の気持ちをただ
「見ず知らずの相手のために、なんで死ななきゃならないんだよ!」
「え?」
「お前たち妖怪にとってしてみれば取るに足らない命かもしれないが、俺達人間にしてみればたった一つの掛替えのないものなんだ! おいそれと出会ったばかりの他人にやれるもんか!」
「……」
叫び終わって少し後悔した。もし、これで逆上されて「だったら無理矢理にでも氷付けにするね♪」なんて言われたらたまったものじゃない。もう少し穏便な言葉で、濁しながら伝えるべきだったかもしれない。
俺はそんなハラハラした気持ちで次のアクションを待っていたが、予想に反して雪花は手を離して、黙っていた。
沈黙の意味が分からず恐る恐る振り返ると、蒼白な顔で俯いている雪花の顔が見えた。まるで何かに裏切られたような暗い雰囲気に声をかける事を躊躇(ためら)われた。
なんだ? 何でそんな表情をするんだ? 俺が振ったからなのか? そんなに俺の事が好きだったのか? でも、俺だって人間で、簡単に命なんてやれなくて……、ああ頼む。ともかくそんな顔しないでくれ。その顔は嫌だ。なんだか分からないけど、その顔を見てると俺まで悲しくなってくるんだ。
「……ご、ごめんなさい。わたし……、ちょっと……あの、あの……、ごめんなさい……」
分からない。それは何を謝ってるんだよ? いや、確かに俺は命を狙われたし、謝ってもらう理由はあると思うけど、なんか違う。これは、なんか違うって。
「わ、わたし……、ごめんね……」
雪花はそう言うと俺に背を向けて歩き出した。
少しずつ小さくなる背を俺は何も出来ずただ見詰め続ける事しかできない。主が遠退くのに気付いたように、作られた氷の壁もゆっくりと崩れ、消えてなくなってしまった。
何がどうして、どうなったのか分からなかった。何も分からないまま全てが終わった。分かる事があるとすれば、俺は命拾いしたと言うことと、何もすっきりしなかったと言うことだ。
俺、彼女に何を言ってしまったんだろう……。
それからと言うもの、あの長いマフラーをした雪女は俺の前に現れないかった。
正直安心した。人生は風波を立てず、適当に生きていくのがコツなのだ。あんな自称で無い本物の雪女といては波どころか津波が起こる。まして俺の命にかかわる騒ぎなどとんでもない。いきなり現れて「あなたの許嫁です」発言ならまだしも「死んで♪」は無いだろう。そうだ、俺は自分の命を守っただけだ。これから元の生活が戻ってきただけなんだ。だから、だからこの胸に残るモヤモヤは綺麗に終わらせたかったと思う、ただの我侭(わがまま)なだけなんだ。
だからこれで……、いいん、だよな………。
気付いたら俺は森の中を走っていた。雪でデコレーションされた美しい景色だ。
何で俺はこんな所を走っているのだろう? 疑問はすぐに氷解した。これは夢だ。雪とは違う白い靄が、夢と分かっているのに何処か漂うような思考。だから夢だ。
夢の中の俺は幼かった。たぶん五、六くらいだと思う。生地の厚い上着だけで防寒した俺は何事か叫びながら森を走っている。目からはバラバラと
あれ? 俺、何を抱えてるんだ?
良く見ると、幼い俺は胸に何かを大事そうに抱えていた。何を抱えてるのかまでは見えない。夢だからかな? 真っ黒に塗りつぶされてるように何にも見えない。ただ、少し思い出した。これ、覚えがある。昔の夢?
うまく思い出せないまま、俺は夢を第三者として眺めている。
泣きながら走っている俺は、目的もなく走り続け、その結果、小さい崖に気付かず冗談みたいに反転して落ちた。夢とはいえ、この時にはちょっとびっくりした。
幼い俺は崖の下でわんわん泣いていたので一応無事なようだ。しかし、未だに泣き止まないとは、我ながら変なところで根性がある。
呆れていると、何処からか女の子が一人、幼い俺の前に現れていた。
雪女だ。彼女を見てそんな発想がうかぶ。白一色で生地の薄い浴衣を羽織り、白くて長い髪をしている。その姿で、この雪景色にたたずめば彼女を雪女だと勘違いしてもおかしくない。
女の子は泣いている俺の前に立つと「こんな所いちゃだめだよ」と何処か冷たい声で言った。
幼い俺はぐずりながらも泣くのをやめて彼女を見上げる。背丈は大して変わらないが、座っているので見上げる形になっている。
彼女は動かない俺を見ていう。「帰らないとカキ氷にしちゃうよ。私、雪女だから」口の端を持ち上げ妖しく笑う。
俺が言った。「そしたらお母さんの所にいける?」
その言葉で、俺はこれがいつの記憶かやっと思い出した。ああそっか、これ、母さんが死んだ日の記憶だ。当時の俺には、母の死が良く分からなくて、だけど二度と会えない事だけは理解できて、それで取り乱した。お母さん子だったからショックも一入(ひとしお)だった。何も考えられず、ただ飛び出した俺は、この森に迷い込んで崖に落ちて怪我をして動けなくなっていたんだ。だけど、あれ? この女の子は誰だろう? 憶えていない。憶えていないのに酷く懐かしい気がする。
彼女は怪しい笑みから一変して戸惑ったような表情を作り、しばらく
俺はその答えに何も返さなかった。ただ、目を瞑って彼女に身を預けた。
この女の子の事をこの時、既に俺は知っていたのだろうか。まるで甘えるように彼女に全てを委ねている。
幼い俺は僅かに口を開いた。「ありがとう、
がばりっ! と、俺は机に突っ伏していた頭を上げた。
場所は学校の教室、時刻は六時を過ぎようとしていた。窓からは雪に反射する白い光が差して、教室内に雪が積もったような幻想的な空間を作り出している。そんな中で、俺はべっとりとした嫌な汗を拭う。周りの景色を見回して、自分が夢を見ていたことを思い出す。
思い出した。俺は彼女に会っている。そうだ、
母さんが死んで、死と言うのがどういうものか理解した。理解してしまうと肝が据わって、俺は約束した。「死んであげる」て……。
だけど、その約束は果たされなかった。母さんが死んだのが原因で、俺は父さんに連れられ自分達の家に戻ることになったからだ。だから、俺達は別の約束をした。「大きくなって、また会うことができたら、その時に一緒になろう」つまり、死のう。そう約束したんだ。相手の名前は、――冬姫雪花――。
「……っ」
身体中が冗談のような震え上がった。
俺、何を言った?
雪花に、何を言ったんだ?
焦りが
そうだ。全部思い出した。雪花を見ているとどうして懐かしい気がしたのか、どうしてこんなに焦っているのか、本当に全部思い出した。
「約束を果たせなかった雪女は、ぼたん雪が降り止むと消えてしまう……」
雪花は二度目の約束をした時に、それを教えてくれた。雪女に限らず、約束を果たせない妖怪は皆消えてしまう。そう言っていた。
鼓動がうるさく耳を打つ。血液の奔流が身体中を駆け巡る。視界が歪む。足先が痺れる。気持ちばかりが早(はや)って体が逆に硬直する。動けない。不安や恐怖に似た感情が俺を取り巻いて、全身を捕縛しているようだ。
不意にガラリ、と教室のドアがスライドされる音が聞こえた。
目を向けると鈴子が怪訝な顔でこちらを見ていた。
「こんな時間まで寝てたの?」
半ば呆れたような声、俺はその言葉に反応できず、ただ焦りから立ち上がり鈴子に近づくと、縋るように両手で肩を掴んだ。いきなりの俺の行動に鈴子は半ば驚いて、少し不安そうな表情をしていたが、俺は構わず口を開いた。
「どうしよう……?」
「なに?」
「どうしようっ? 俺、雪花に言ったら、いけないこと言っちゃった」
「
「俺、俺……、全部思い出して……、約束してて、なのに忘れてて、どうしようどうしよう! 俺、何で忘れてっ! いや、そうじゃなくて雪花に会わないと、って何処にいるんだよ!」
「と、とりあえず、落ち着こう石垣。落ち着いて話してくれないと、なに言ってるのか分からない」
鈴子はそう言って深呼吸するように促す。言われるまま深呼吸して落ち着いた俺は、思い出した事を全部話す。と言っても、妖怪どうのはあまり信じてもらえる自信が無かったが、うまく誤魔化せる言葉が思いつかなかったので素直に言葉にした。多少、訝しむような表情をされたが、とりあえず最期まで話を聞いてくれたのでタイムリミットがぼたん雪までと言う事を強調しておくことにした。
「……ともかくぼたん雪の日がタイムリミットなの?」
「ああ」
「でも、……
頭が真っ白になった。
本気で時間が止まったんじゃないかと錯覚した。
頭から全体が痺れるような感覚を得ながら、恐る恐る振り返り、教室の窓から外を見る。
血の気が引くと言うのは、こういう事を言うんだろうか? まるで貧血を起こしたのとよく似ていて、頭と指先だけが妙に冷たく感じる。
「ッ!」
「ちょっ……! 石垣?」
俺は、もう何も考えずに飛び出した。行くあてなど無かったが、じっとなどしていられない。ほぼ全段飛ばしで階段を駆け下り(半ば落ちていた気もする)、上履きを下駄箱にしまうのも忘れ、外に飛び出した。
「雪花……、雪花、雪花っ、雪花っ!」
あいつはまだ、この近くにいてくれているだろうか? 分からない。でも、探さないと、俺が傷つけたんだ。俺が雪花を守らなきゃっ!
以前、ヤーサンに激突した遊歩道を通り過ぎ、最初に逃げた歩道橋を上り、出会っていない住宅街まで一人一人顔を見て確認して、必死に彼女の姿を探す。だが、見つけられない。何処を探しても、あの長いマフラーの少女を見つけることが出来ない。最初に出会った公園に辿り着いたところで、息が上がってしまい膝をつく。
もしかしたら、もう、雪花はこの町から出て行ったのかもしれない。そう考えると諦めるしかない。とてもじゃないが、ぼたん雪が降り止むまでに見つけるのは無理だ。胸中に何とも言えない、どうしようもないモヤモヤが渦巻く。挫折感が込み上げ出してきて、自然と頭(こうべ)を垂れる。
「せっちゃん……」
俺は自然と昔の呼び名を口にしていた。
「その呼び名、懐かしいね平治くん」
だからその声が聞こえた時、一瞬幻聴と勘違いした。
がばりっ、と頭を上げると、そこに探していた少女の顔があった。やっと見つけたと言う思いがジンジンと胸を焦がし、思わず目から熱い物がこみ上げてくる。言いたい事は一杯あった。伝えないといけない事も一杯あった。だけど、何よりも最初に伝えなきゃいけない事がある。
「忘れていてごめんね。雪花」
「思い出して、くれたんだね」
雪花は、はにかむように笑みを作り、瞳の端に涙を溜める。
一杯あったはずの言葉が、この瞬間で全部消し飛んだ。
俺は本当にこの子の事が好きなんだと理解できる。だって、その笑顔を見るだけで、こんなに安心するんだから。
「ずっと、待っててくれたんだな……」
「うん。それと、もしダメでも、平治くんの傍に少しでも近い所で消えたかったから」
「わりぃ、あの約束の後、皆につい話しちまって……。しばらく、死ぬのはおかしい、って言われ続けてさ、幼心にだいぶ堪えて自分から忘れようとしていた……。あんな大切な約束をしていたのに、俺、何で忘れちゃってたんだろ……」
申し訳ない気持ちが胸を内側から突き上げて、思わず片手で顔を覆った。
肩に柔らかく冷たい感触を感じて手を放すと、雪花がふんわりとした笑みを向けてくれていた。
「良いよ。怒ってないから」
「でも、傷つけただろ……」
「十分癒してもらったよ」
「思い出すのも遅くなった」
「でも、来てくれたよね」
「雪花が来なかったら忘れたままだった」
「だけど、私はここにいて、君もここにいる」
言って雪花は俺を抱きしめてくれる。雪女だけあって身体は冷たいけど、その奥で感じる鼓動は俺達と変わらず高鳴っている。
俺の鼓動も聞いて欲しい……。不意に浮いたその感情に身を任せ、俺も雪花を抱きしめる。柔らかい感触、コート越しにも細い身体、冷たい温度、それらが雪花を脆い氷のような印象を与えて、腕に力をこめる事を躊躇させられる。もっと強く抱きしめて、もっと強く雪花の存在を感じたいのに、それをすると雪花が崩れてしまいそうで怖かった。それを感じ取ったのか雪花は力強く俺を抱きしめ、大丈夫だと行動で示してくれた。俺はそれに応えるように恐る恐る腕に力をこめ、強く抱きしめる。
強く強く抱きしめて、それでも足りなくて、俺は自然と涙が零れそうになった。俺が愛したかった存在は、こんなに華奢で、冷たいのに暖かい存在だったんだと自覚できた。それが嬉しくて、もっと力をこめるが、やっぱり足りない。どんなに頑張っても、俺の力じゃそこまで抱きしめる事が出来なくて、それが悔しいような歯痒い気持ちだった。
「あ、あのね、思い過ごしだったら嫌だから、聞いてもいい……?」
「なに?」
「……私を探してくれてたんだよね?」
「ああ」
応えるように更に力をこめるが、これ以上は腕が痺れるばかりできつく抱きしめられない。それがなんだか情けなくて、こっそり落ち込む。
「じゃあ、……死ぬほど愛してくれますか?」
俺は立ち上がり一度雪花と離れて彼女の目を見つめる。
俺は今でも雪花は好きだ。忘れていただけで、この気持ちは変わっていない。もし変わっていたなら思い出しても、ここまで慌てる事は無かっただろう。だけど、俺は死ねるのか? 当時は幼かった事や母親が死んですぐだったことも重なって受け入れることが出来たが、今はどうだ? 本当に俺は全てを投げ打つ覚悟があるのか?
だが、その疑問はすぐに氷解した。何を悩む必要があるんだ? 覚悟できるのかって? 出来ているに決まってる。出来てないなら、死ぬ事が解っていてまで追いかけたりなんかするもんか。
俺は雪花の頬に手を添えて、淀みなく頷く。
雪花の表情が綻び、両手で口を隠す。目からは、涙なのだろう粉雪のような細かい氷が、ぱらぱらと落ちる。氷は光を反射して、雪花をより一層綺麗に見せた。
「……ありがとう……」
それ以上、雪花は言葉が出ないと言う風に俺の胸に顔を埋めてくる。愛しい人が傍にいる。それが、こんなにも安心できるものだなんて知らなかった。
もっとこの時間を感受していたかったが、時間は待ってくれない。既にぼたん雪は降っているのだ。
「雪花」
「……うん」
俺の言葉の意味を汲み取った雪花が少し離れて、俺を見つめる。周りにゆっくりと雪が渦巻き、優しい吹雪のように包み込んでくる。
「あっ、雪花、頼みがある」
「なに?」
「頭は最期まで凍らせないでくれるか。最期まで雪花を見て居たいから」
「……うん!」
嬉しそうに笑みを綻ばせる雪花は、やっぱり可愛い。これが俺の恋人――いや、もうお嫁さんになるわけだ。なんだかすごく嬉しい。幸せってこういう事を言うんだな。
包み込む雪が、体温を少しずつ奪っていき、俺の手足の指先が感覚を失いだしたのが分かる。死に少しずつ近づいている証拠なのに不思議と恐怖は無かった。目の前に雪花がいるおかげだろうか?
ずっと一緒に居られないのが少し残念だが、でも、雪花はこれで幸せになってくれるんだよな? 俺も、それを覚悟した上で雪花を選んだ。
……追いかけて良かった。……諦めないで探して、本当に良かった。
「俺、この後どうなる?」
「
孕むと聞くとなんだか生々しいイメージがあるな……。ちょっと恥ずかしい。
ん? と言う事はこれって雪花にとっては俺達で言う所の……、だ、ダメだ! 深く考えない方がいい! 俺は頭の中に浮かんだピンクな世界を追い出すように頭を振った。
「どうかしたの?」
「え、いやっ! 雪花と一緒になれるのが嬉しいな~って!」
慌てて誤魔化すと雪花は真に受けたらしく、ボンッ! と音がなりそうな勢いで顔を真っ赤にする。あ、雪女も恥ずかしくなると赤くなるんだ。
「もう~……」
照れたような声を上げて俯くが、顔はだいぶにやけていた。
俺のこんな言葉一つでも、こんなに一喜一憂してくれるなんて、雪花を好きになってよかった。
俺の身体の感覚が少しずつ消えていき、意識も朦朧としてくる。眠くなってウトウトしているのに似ていた。好きな人の胸で眠るなんて、まるでドラマの一場面のようだな。そんな事を考えながら、ゆっくりと俺は瞼を閉じ――。
「や、めてーーーーっ!!」
悲痛な叫び声が俺の意識を現実に引き戻した。そして状況を整理する暇もなく、俺は何かに突き飛ばされ雪花から離れる。雪の積もった地面のおかげで、横倒しになってもさほど痛くは無かった。
「……誰?」
雪花の困惑する声が耳を燻り、俺は上体を起こし確認する。そこに、まるで俺を庇うように間を割る鈴子が膝を付いて雪花を見据えていた。片手に持った鞄はまるで盾にでもするように雪花に向けて掲げている。眼鏡が地面に落ちているところを見るとぶつかって来た時にでも落としたのだろう。
「鈴子、何してるんだ?」
訳が解らず訪ねて見るが、鈴子は雪花に視線を向けたまま何もしゃべらない。
雪花はどうして良いのか分からずオロオロと俺と鈴子を見比べている。
どうしていいのか分からないのは俺も同じだったが、ぼたん雪が降っている。早くしないと雪花が約束を果たせなくなってしまう。俺は立ち上がって雪花に駆け寄ろうとするが、即座に反応した鈴子に阻まれる。
「鈴子、どいてくれ」
「どいたら、石垣が死ぬ……、それぐらいは理解できた」
「そうだよ。でも、話しただろ。それが雪花にとっての普通で、俺が納得した上での結果なんだ。だから邪魔しないでくれ」
押し退けようと鈴子の肩に手をかけるが思うように力が入らない。さっきまで凍らされていた所為だろうか? 腕に力を込めようとしても妙に震えるばかりで押し退けることができない。
「分かってる……、話は聞いてたし、今の状況見たら石垣がどんな判断したのかも」
「分かってるなら退けって!」
いっそ、回り込んで雪花の元に走ろうかとも考えたが、足もずいぶん麻痺していて、とても走れそうにない。
俺は雪花に目配せして雪花の方から来てもらうよう頼むが、雪花は鈴子相手に戸惑っているようで行動できずに居る。一歩も近づかないところを見ると、相当怖い目で睨まれてるのか? 仕方なく鈴子を説得する事にした。
「退けってば! こんな事してる内に雪花の命が危ないんだ!」
「嫌だ。退かない」
「何で退かないんだよ! 分からずや! お前には関係ないだろう!」
鈴子はすぐに答えず、黙り込んで俯く。そのまま何も言わず、何も行動しない。あくまでも硬直状態を解く気がない風だ。訳が解らない。何で鈴子はこんな事をするんだ? これは俺と雪花の問題で、俺と雪花が納得いく選択肢をやっと出せたのに、やっと雪花を救えるのに、なのにどうして鈴子は邪魔をするんだ? まるで仲のいい友達を引き剥がそうとする苛めっ子のような態度に、俺は我慢できず鈴子に怒鳴った。
「いい加減にしろよ! こんなことして、お前が何考えてるか全然解んないよ!」
「私だって……」
搾り出すような声が、とても震えていた。
「私だって解んない!」
叫んで振り返った鈴子の目には多量の涙が溢れていた。雪花とは違う、熱い液体は頬を伝い、ボロボロと零れ、悲痛な表情を湛えていた。何処か痛々しいその姿に、俺は言葉を失ってしまう。
「理由が、私にだって解らない! 関係ない私が、邪魔しちゃいけないって事も解ってる! でも、身体が言うことを聞かない。心より身体が先に反応して、何も我慢できない。頭の中だって一つの言葉ばっかりループして、何考えてるのか解んない!」
「鈴子……」
鈴子は俺の肩を掴むと縋るように訴える。
「ねえ、死なないで……。死んでほしくない。石垣に死なれるの、なんだかすごく怖い。私の知ってる世界で、石垣がいなくなるかもって考えたら、冷たい沼の底に居るような不安で一杯になって、どうしても耐えられない……。だから死なないでほしい」
正直俺は戸惑った。鈴子は学校では生返事しか返さないような奴で、自分から何かを伝えるような奴じゃなかった。だけど、俺はそんな鈴子の距離がとても安心できた。生返事しかしないのは、逆を返せば必ず返事はしてくれる。だから、親しくはなれなくても、一人になる事はなくて、近すぎず遠すぎずの距離が自分で測れる。そんな自分勝手にも近い距離感を鈴子は知ってて続けてくれた。嫌な顔一つせず、自分のスタンスを少しも崩さず、俺の近くにいてくれた。それは嬉しい事ではあったし、つい、雪花の事を全部話してしまったのも、それが原因だけど……、だからこそ、俺は戸惑う。そんな距離感にいる鈴子が、どうして俺を止めに来るんだ? 何で死なせないように必死になるんだ? こんな縋るような目で、置いていかれる子供のような顔をして、どうして鈴子が訴えかけているんだ?
「死んじゃダメだよ。いなくなったら、私、どうしたらいいのか分からない……」
「どうしたらって……、鈴子は今までと同じようにしていればいいだろう? 俺が居た時も居なかった時も変わらないだろう?」
「違う……っ、全然違う……っ、何処をどうとは言えないけど、何もかもが変わっちゃう……」
「そんな漠然とした理由を押し付けられても困る。俺がどれだけの覚悟でここにいると思ってるんだよ……」
「覚悟……?」
雪花が何か呟いたが、今は鈴子を説得する事に集中しないと……、ぼたん雪が降り止んでしまう。
「本当に? 本当に覚悟しちゃったの?」
「した。だから俺はここにいる」
「どうして?」
「え?」
「どうして覚悟できるの? 石垣くんがそこまで覚悟する必要があるの?」
「必要って……」
「この子が何をしてくれたの? 石垣くんにどんな事したの? 今までずっと石垣くんの事放っておいたくせに、今更現れて突然命奪って、そんなの勝手すぎる!」
「勝手……?」
また雪花が何事か呟き、俯く。鈴子の言葉に動揺しているんだろう。それを気付いているのか、いないのか、鈴子は続ける。
「何も知らないじゃない! 私はずっと傍にいた。色々知った。でも、この子は昔の石垣くんしか知らないでしょ! それなのに、石垣くんの命を奪う権利なんて、この子にはないよ!」
「鈴子ッ!!」
俺は捲くし立てる鈴子の肩を掴んで止める。
「そういうんじゃないんだ」
「なにが?」
「雪花がどうのじゃなくて、俺が雪花にしてあげたいんだ」
「なに、それ……?」
「俺は本気で雪花の事が好きなんだ。ずっとずっと、好きだったんだ」
「分かんない。そんなの分かんない……。どうしてそんなに好きになれるの?」
「距離感……かな?」
「距離感?」
最初の雪花は自分が妖怪だということを考えて、距離を置いていた。積極的だった俺にはそれが丁度いい距離。他人と距離を置きたがるようになった今の俺には多少強引な今の雪花が丁度いい距離。
近すぎるとその距離に鬱陶しさを感じてしまう。遠すぎると寂しさを感じる。でも、丁度いい距離感は常に一定じゃない。保ち続けるのは本来無理だ。だけど、雪花はその絶妙な距離を素で保ってくれる。冷たいほど馴れ合わず、甘いほど気にかけてくれる。だから、俺は雪花が好きになれた。好きになれるから覚悟も出来た。約束を果たそうと、強く思えた。何より、俺は雪花に甘える事しか出来なかった。たぶん、これからもそれは変わらない。だから、俺にできる恩返しは、これしかないんだと思った。だけど、それをどう説明すれば鈴子に納得してもらえるのか解らない。だから俺は要約して答えることにした。
「俺が好きな人だからできる事は、これだけなんだ……」
「……」
「好きな人だから……できる事……」
鈴子は何か言おうとして、しかし言葉が出ないようで、ただ口をパクパクとさせる。
雪花は何事か呟きながら考え込むように俯いている。
「鈴子、好きって言うのは甘えるって事じゃないんだと思う。いや、主観だけど……、少なくとも俺はそう思ってる。だから俺は雪花が好きだと思ってくれる気持ちに応えたいんだ」
できる限り真剣な気持ちが伝わるように意識して告げる。
俺の真剣さが伝わっているのか、鈴子は取り残された子供のような目で俺を見上げている。多少罪悪感を感じるが、俺の決めた事だ。今更変えるつもりは無かった。
「でも……っ!」
「もう、いいですよ……」
鈴子がまだ何か言おうとした時、雪花が鈴子の肩に手をやる。
「もういいです。私、なんとなく解りましたから……」
解る? 何をだ? 雪花は鈴子の何を理解したんだ? ここは鈴子が理解してくれるかどうかじゃないのか? 俺の疑問はすぐに氷解するが、同時に別のものが凍りつく結果となった。
「私、殺さないよ」
「え……?」
疑問の声を発したのは鈴子の方だった。俺自身は一体何を言っているのか理解できず思考が停止していた。ただ、そんな中でも頭の隅に残る冷静な自分が他人のように話を傍観していた。
「平治くんを殺したりなんてしない。私は何もしない」
「どう、して?」
「……すずこ、さんだっけ? あなたが私と似てるから」
「似てる?」
「思いの強さに真っ直ぐな所とか、必死な所とか、……好きになった人への距離感とか」
「あ……」
途端、鈴子の頬に朱がさす。
それが原因というわけではないだろうが、我を取り戻した俺は動きの鈍くなった体で、ゆっくり雪花に詰め寄る。
「雪花! 俺は覚悟だってできてるし、お前の事だってちゃんと好きなんだ!」
「うん……知ってる」
「ずっと、ずっと待たせて、一人に頑張らせて、お前だって辛かっただろ? 俺にできる事ならなんだってやる。同情じゃないぞ。本心だ!」
「それも知ってるよ」
「ならどうしてっ!」
雪花の声は、どこまでも落ち着いていて、どこまでも優しかった。それがなんだか歯痒くて、俺は縋る気持ちで呼びかける。
「平治くん。平治くんは、私の事を好きになってくれた。だから、私が死んでって言っても受け入れてくれたんだよね。……人間にとって、とても苦しい選択だった筈なのに」
「そうだよ。だからやめるなんて……」
「でも……」
雪花は真剣な瞳で俺を見つめ、俺の言葉を遮る。
「私は甘え過ぎてた。一人になるのが怖くって、裏切られるのがおそろしくて、自分の意見を捻じ曲げられるのが嫌で、平治くんの想いに付け込んで楽な方にばっかり進もうとしていた」
「そんなこと……、そんなこと無いだろう! 甘えてたのは俺だよ! 雪花との約束を勝手に忘れて、勝手に日常に戻って、俺ばっかりが辛いとかずるい事ばっかり考えて……!」
目頭がなんだか熱くなって、目の奥がズキリと痛む。とぼとぼとした歩調しかとれない足が腹立たしい。雪花までの距離は五メートルも無いというのに、すごく遠くに思える。
「……ありがとう、平治くん。でもね、平治くんがそう想ってくれているように、私もあなたに応えたいんだ。この想いに見合う行いは、きっとこれだけだから……」
視界が白く霞んだ。
天から降り注ぐぼたん雪が、まるで最後の花を散らすかのように勢いを増して降り注いでいる。まるで、その白い霞みに溶け込むように、雪花は白く淡い粉雪へと変わっていく。
「雪花っ!」
堪らず飛びつくように手を伸ばすが、後ろから鈴子に抱きつくように捕まり、前に進めない。
「鈴子、放せ! 雪花が……! 雪花が~っ!」
鈴子は何も答えてくれない。手も放してくれない。弱った俺の体では振り解く事もかなわない。俺は非力だった。情け無い事この上なかった。そして、悔しかった……。
「ありがとう、鈴子さん……」
ニッコリと笑う雪花。彼女の笑みに恐怖の類は僅かも見られない。それが彼女の気持ちの強さを表しているようで、俺はとことん混乱してしまう。
「平治くん。幸せなんだよ。平治くんが私のこと、今でも好きでいてくれた事、とっても嬉しくて、死ぬほど愛してくれるって言ってくれた時は身体中が震えた」
「雪花……」
「だから平治くんは生きて欲しい」
「生きて……ほしい……?」
「きっと平治くんなら私以外の人も幸せにできるから……、沢山の人に幸せを送れるはずだから……、私達のような異形も受け入れてくれた、あなただから……」
ぼたん雪がやけに大きく見えた。結晶の形が見えるようだ。
雪が視界を妨げ、通り過ぎる度に雪花の姿が淡い光のように霧散していく。
ぼたん雪の中で降る粉雪が、まるで光の遊戯のようで、素直に綺麗だと思った。
「平治くん、幸せになってね。私がいなくなっても、ずっと幸せでいてね。それが私の……、君への愛だから。どうか、忘れないでね……」
「雪花ーーッ!!」
渾身の力を込め、死ぬ気で鈴子の腕から逃れ、俺は雪花を抱きしめる。
腕の中には、僅かな抵抗が一瞬……。冷たい粉の粒となって抵抗を無くす。腕の中には長いマフラーが別れを惜しむように残っていた。
今更思い出されるのは、このマフラーが母さんの形見だったこと、雪花に渡して約束の証にしていたことだ。
遅すぎる……。俺は本当に遅すぎる……。そして、俺はまた身勝手に生き残っている。
死にたい気分だ。雪花の後を追って死んでやりたい。そうする事が雪花に対する償いのようにさい思えてくる。
「死にたい……」
マフラーを抱き、俺の口が勝手に呟いた。その瞬間、まるで見計らったように肩に手を乗せる感触がした。たぶん鈴子だろうが、俺は蹲ったまま起き上がれない。
「ごめん……」
謝罪。意味は分かる。だけど、俺が欲しいのはそんな物なんかじゃない。例え、どんなに謝られても、優しい声をかけられても、この気持ちがなくなるわけじゃない。
「でも、私も生きていてほしい。あの子の願いと同じように、生き続けてほしい……」
雪花と同じように……。
その言葉が俺の中に強く響き渡る。胸の内にある重たい物がせり上がって来るようだ。
雪花が生きて欲しいと望んだのに、俺が自己満足で死を選ぶことは許さない。鈴子が暗にそう言っているんだと解った。解ったから俺はどうしようもない気持ちだけが、内側で空回りし続けていた。
だけど、それは止める事ができなくて、ただ眼から熱い物を流す事でしか発散できない。
「私を……怨んでいい。それで生きられるなら、私を殺してもいいから……だから、」
―― 生きて ――
言葉は何処か遠くから響いたような気がした。
なのに、それはとても重く俺に圧し掛かった。
新学期、季節は春、桜並木と例えるのが中々に相応しい坂道を登りながら、暖かい風を受け登校する生徒。俺もその中の一人として重たい足を進めていた。
「ねえ、あの人……」
「うん、寒がりなのかな?」
「冬ボケだったりして?」
無遠慮な噂声が奇異の視線とセットで寄せられる。相手は解っている。俺だ。もし違うのなら、そいつはきっときぐるみを着て登校するようなとんでも人間だ。
その理由は俺の恰好にある。別に俺がきぐるみを着ているわけじゃない。ただ、季節的に合わない物を装着しているだけだ。マフラー。雪花が残してくれた唯一の物。
「席につけ~! ……何だ石垣? お前冷え性だったか?」
教室内に微かに笑いが起こるが、俺は「それよりもっと重要な理由があるんです」と、いかにもふざけているような笑みを作って答える。
「ほほう? 室内での防寒着は禁止されているはずだが、それよりも重要なのか?」
「はい、俺がこれを外すと、ある種族の人にカキ氷にされてしまう、ある意味呪いの産物なんです」
「そうかそうか、それじゃ外せないな~」
「そうなんですよ~」
「それなら一生身につけていろ」
「は~い」
教室中が弾けるようにドッ、と湧きだった。
言われるまでも無い。俺はこいつを外す気なんてない……。
下校の時間。何となく一人であの道を帰りたくて、生徒が皆いなくなるのを教室で待った。行きで登った坂を今度は下り、桜が散る歩道をゆるゆると歩く。下手したらカタツムリにも抜かれるかもしれない。散りゆく花びらが、まるで桃色の雪に見えて、ここを通り過ぎるのが惜しく感じる。
ふと、先の方で見慣れた女子が突っ立っているのに気付いた。鈴子がこちらをじっと見つめながら棒立ちしている。こんな所で俺を待っていたのだろうか? だとしたらあいつ一体いつからああしていたんだ?
素朴な疑問を思い浮かべながら俺は鈴子に近づく。彼女の口が小さく開き、思いの他よく響く声が俺の耳に届く。
「熱くないの?」
「熱いよ」
「いつまで巻いてるの?」
「真夏のピーク意外はずっと付けてる」
「そう」
「そうとも」
鈴子は口を閉ざす。だから俺も口を閉ざした。無言で見つめ、無言で歩む。やがて距離が無くなり、俺が鈴子の横を通り過ぎる。それから数歩行った所で足を止めた。再び鈴子が口を開く。
「……辛い?」
「……辛いよ」
マフラーに顔を埋めながら泣きそうな気持ちをぐっと堪える。
鈴子が振り返り、こちらに歩いてくる気配を感じた。鈴子は通り過ぎ様に一言、
「一生かけて償う」
とだけ残し先に歩いてゆく。その歩調は俺と同じように、この道を通り過ぎるのが名残惜しいようにゆるゆるとした物だった。
俺は、口元のマフラーを指に引っ掛けて隙間を作り、天を仰ぎ見た。雲一つ無い青空が妙に恨めしい。曇天であれば雪花に近い気がして好ましいのに……。晴天でも届くだろうか? いや、考える必要はない。心配ならまた伝えればいいんだ。しつこいくらい、何度でも伝えればいいんだ。あいつに俺の言葉が届くように、伝わるように。
「 」
誰にも教えないその言葉。俺と雪花だけの秘密。それを声に出さず叫び、俺はマフラーで口元を隠す。震える声を殺すように俯き、震えが止まるのを待ってから、俺は前を見据える。鈴子の背中はまだ近くにあった。今から普通に歩いても追いつけそうだ。
俺は苦笑を湛える口元を、もう一度マフラーで隠し、鈴子の後を追う。
隣に並んで歩くと鈴子は俯いてしまったが、何も言わず俺に歩幅を合わせる。最初より少し早い歩調で歩く俺も、ただ黙って歩を進める。
昔の作品を引っ張って来ましたが、暇つぶし程度にでもなれば幸いです。