突如鼻を衝いた悪臭はまったくの想定外だった。
「クソ!」
常に想定しておくべきは最悪の事態。だが、今回のことはそのさらに下を行った。
衝撃が車両を揺らす。やけにゆっくりと傾く車両は間もなく横転した。耳障りな音と共に二人の狩人は壁に、床に、天井に激しく体をぶつける。
まともな人間であれば全身の骨が砕け、臓物が潰れるほどの衝撃。それでも狩人である彼らは生きている。せいぜい打ち身、擦り傷。忌々しくも切った口からは血を吐き捨てる。
痛みに顔を顰めながらガウェルフはゆっくりと立ち上がる。関節を鳴らしていき、寝転がったままで強張っていた体を解す。
「無事か新人」
アンナの腕を引っ張り、立たせる。
「はい、何とか…」
彼女の方も支障はないようだ。散らばった矢を拾い上げ、腰の矢筒に差し直している。
「正直信じたくねぇけどなぁ…」
ガウェルフはこの悪臭をよく知っている。いや、知らない狩人はいないだろう。
血に塗れた獣の臭い。腐臭。嗅ぎ続ければ気が狂いそうになるこの悪臭。
悪夢の臭いだ。人ならざるものたちが徘徊し、人を貪り喰う悪夢の夜の臭い。
だからこそガウェルフは信じ難かった。
悪夢は大都市『ロド』にかけられた呪いと言われる。悪夢は『ロド』でしか発生していなかった。つまり『ロド』にしか獣は現れない。そう、今までは現れなかった。
しかし、どこに根拠があったのか。何故そう決めつけていたのか。思えば不思議なことばかりだ。
「まあいいか…とりあえず今日は面倒事が次から次に増える日らしいな。こんなことなら神様の一人や二人に祈っときゃよかったか」
自分の運を恨みながらガウェルフは頭上にある扉を殴り飛ばした。ひしゃげた扉が地面に叩き付けられる音が外が外で響く。
「そら行くぞ、新人。出た瞬間に喰われんなよ」
「は、はい」
剣を抜き、ガウェルフは外に飛び出る。遅れずアンナも隣に並んだ。耳障りな物音が辺り一面から聞こえてくる。
彼らが闇の中で目にしたものはあの街でよく見る光景だった。
人間よりも一回り大きな何か。甲殻に覆われた胴体から伸びた木の枝のような不規則な形状の足。四枚の羽は蝙蝠のそれに近いだろう。頭部らしき皺だらけの球体に群生する無数の触手が獲物を探すように蠢いている。
間違いなく獣だ。悪夢の使途。人を貪り食う化け物。証拠に悪臭のもとは明らかにそれらだ。
「光に寄って来たな、クソ虫どもが」
目は無いが、明らかに獣は二人を見ている。時折振動する頭部は笑ってるようにも思えた。
獣に知性はない。感情もない。あるのは悪夢の使途として人を貪り喰い、何かを求め彷徨い続けるだけ。
つまりだ。今二人の狩人を囲っている虫に似た獣たちは何かを考えて連携を取っているわけではない。そういう存在だからそう動くだけ。回り続ける歯車と変わりはしない。
だからこそ厄介でもある。何せ恐怖を感じないのだ。剣を向けようと、銃を向けようと微塵と怯まない。
「ほら来るぞ」
獣たちが羽を広げた。一斉に飛び上がり、ありとあらゆる方向から狩人に襲い掛かる。
ガウェルフがまず銃の引き金を引いた。銃口から放たれた弾丸が飛び散る。散弾、欠片の一つ一つが獣の体を破壊し、焼き尽くす。
ほぼ同時に、悍ましい肉の焼ける音を掻き消すように空気が引き裂かれた。力強く放たれた三本の矢がそれぞれ違う目標を貫いた。アンナの弓矢だ。
ガウェルフが剣で一体を切り刻み終わった時にはアンナは六体の獣に矢を撃ち込んでいる。恐るべき早業、正確にして無慈悲な狙撃は一と外すことはない。それを彼女は獣の猛攻を避けながら行っている。
先程までの緊張していた少女の姿はどこへやら。凄まじい力量だ。
「(実力があるどころか…こりゃああの犬野郎にも並ぶんじゃねぇのか…?)」
驚きながらもガウェルフが隙を見せることはない。伊達に場数を踏んでいるわけではない。飛びかかってくる獣を斬り捨て、弾を込め直した猟銃で撃ち落とす。
二人の動きはある種の踊りにすら見えるだろう。死角など微塵も存在しないと言わんばかりに全方位から襲い来る獣を叩き潰す。
これぞ狩人。人でありながら獣同様に無慈悲に己が得物を振るう彼らの周りには悍ましい屍の山が出来上がっていた。
しかし、時は夜。いまだ悪夢の真っただ中。彼らの時間である以上獣の勢いが収まることはない。湧水が如く次々と現れ、その数が減る様子はない。
対し、狩人たちはそうはいかない。体力は無尽蔵ではなく、物資も消耗する。現にガウェルフの散弾は既にない。アンナは矢を回収しながら戦っている。
状況は簡潔に言って最悪だ。このジリ貧な戦いでは能力の高い二人であれどいずれは数に磨り潰されるだろう。
さらにこの悪夢を乗り切れば仕事は終わり…そういかないのが何とも腹立たしい。まだ規模もわからない人狼狩りが控えている。
上層部から与えられた仕事は放棄できない。完遂するか、死ぬかの二択だ。
「…ほんと最高だな」
ガウェルフの目が忙しなく動く。
探しているのは身を隠すことのできる場所。本能で人を探し出す獣相手にはほとんど無駄なことだが、木が並ぶだけの夜道で突っ立っているよりは遥かにマシだろう。
「…!」
もう何体の獣を殺したか。いい加減疲れを覚え始めた体を他所に獣が減ることはない。ガウェルフの剣は多くを斬り過ぎたせいで刃が欠け、アンナの矢も何本も折れている。
だが、完全に運に見放されたというわけではないらしい。
ガウェルフの視界に大きな館が目に現れた。
何故こんなところに…?
疑問は押し込む。何にせよ好機だ。住人がいるかどうかはわからないが、居たとしたら不運だったとしてこの悪夢に付き合ってもらおう。
ガウェルフは袋を取り出した。その中身は祝福が施された粉。化け物を殺すための道具。それをガウェルフはぶちまけた。
粉が獣に触れた瞬間、獣の体が激しく燃え上がった。粉は風で舞い上がり、一面の獣を焼き尽くす。
「新人!ついてこい!」
「はい!」
二人は燃える獣を押し退け、館へと向かった。