「学校はつまらないか?」
自宅の庭でスズメノテッポウを笛にして遊んでいたとき、隣に座った父は優しくそう問いかけた。
たしか、父と母が離婚した直後だった。
僕が学校に馴染めていないことなんて、父にはお見通しだった。
何も言わずスズメノテッポウで遊び続ける僕に、父は語り始めた。
「植物は凄いと思わないか」
スズメノテッポウから口を離して、父を見上げる。
優しい眦が僕を見ていた。
「そうやっておもちゃにもなるし、建材にもなる。衣服だって植物が元だし、食料だってそうだ」
父の言いたいことがわからず、僕は首を傾げていた。
「人の営みのあらゆることが植物に依存している。第三次産業の自動車のタイヤだって植物が必要だ」
そう語る父はどこか誇らしそうだった。
「人が文明を築くには、紙が必要だった。紙があったからこそ、文字文明が発達した。文明の根底を支える紙もまた、植物からできていた」
頷く。
たしかに、生活に必要な殆どのものは植物から成り立っていた。
「医療だってそうだ。多くの薬成分は植物から抽出されてきたし、手術するための麻酔も植物から得てきた」
父は僕の頭を撫でて、遠くを見上げた。
「私たちは多くのことを植物に依存している。私たちは植物に生かされている」
そよ風が前髪を揺らした。
植物たちの温かな感情が、庭に満ちていた。
「それと同じように、人もまた人に生かされている」
人。
理解できない異物だった。
植物のように温かみもなく、なにを考えているかわからない。
「世界には、数えきれないほどの人たちがいる。私たちが口にする食べ物や、身につけている衣服は世界中の人たちが協力して作り上げたものばかりだ」
僕はただ、じっと父の言葉を聞いていた。
「物質だけではない。あらゆる多くの考え方を偉人たちが作り上げてきた。政治体系から基礎理論、人間関係の心得、人生の教訓、歌、愛の言葉。色々な人たちが失敗を積み重ね、改良して今の世界を作り上げてきた」
子守唄のように、父の言葉が頭に染み込んでいく。
「私たちは、この世界に生かされている。カナメ。全てを愛しなさい。人も植物も等しく、全てを愛するようになれれば、それが一番いい」
そして、と父は言葉を続けた。
「私は一度失敗してしまったけれど、カナメもまた愛する人を見つけるといい。そうすれば、世界はきっと変わっていく」
父は偉大な植物学者だった。
人として、あるべき姿を僕に見せてくれた。
けれど、その後ろ姿を追うことはもう出来ない。
冬が訪れても枯れない常緑樹は、しばしば永遠の生命の象徴とされる。
永遠の安息を願い、シキビを父の墓に添える。
吐き出した白い息が、冷たい空気に溶けていった。
「カナメ」
墓前に立ち尽くす僕の後ろから声が届いた。
振り返ると、制服姿の由香が立っていた。
「君の父は、偉大な人だった」
由香は、人の命に興味を示さない。
彼女の価値観では、そこら辺を転がる枯れ葉と変わらないはずだった。
けれどこの時、彼女は父の死に対して確かに哀悼の意を示していた。
「私が見てきた中で、もっとも立派な人だったよ」
立ち並ぶ墓石の中、由香は静かに目礼した。
涙がこぼれないよう、空を見上げる。
雲ひとつない、抜けるような空が広がっていた。
偏西風が何もかも吹き飛ばして、まるでぽっかりと穴が空いたようだった。
寒空の下、冷たい風が体温を奪っていく。
「カナメ」
死人のように動かない墓石たちの中、由香が動いた。
「まだ、私がいる」
彼女の端正な顔が、近づいてくる。
僕はぼんやりと彼女を見て、それから踵を返した。
「カナメッ!」
最後に由香の手が見えた。
たぶん、分岐点だった。
その手を掴めば、別の未来があったのかもしれない。
僕と由香は、人として大切な何かを取り戻せたかもしれない。
けれど、そうはならなかった。
僕は由香の手を無視して、由香の手は空を切った。
立ち並ぶ墓石が、中学生活最後の景色となった。
『美味しいですか?』
ラウネシアの樹体に背を預けながら、果実を齧る。
「とても甘いです」
『カナメは細いですから、もっとよく食べてください』
軍蟲の侵攻はなんとか退けた。
周囲には、血だらけの死体がいくつも転がっている。
あまり食事に向いている光景ではなかった。
ラウネシアの果実を齧りながら、生命の残滓たちを眺める。
動物の命は儚い。
頭が割れただけで、その生命活動を停止してしまう。ひどく脆弱な存在だった。
けれど、植物は違う。
根さえ残っていれば、多くは再生が可能だった。
長ければ5000年を生きることだってある。
弥生時代のハスの種が現代に発見され、無事に花を咲かせるまで成長した例もあった。
人と植物は、異なる時間軸を生きている。
ラウネシアだってそうだ。
彼女は人を待つために、長い年月をここで生きてきた。
それはきっと、これからも変わらない。
軍蟲の侵攻さえなければ、ラウネシアは数万年を生きていくことになるだろう。
その系譜を、ここで絶えさせるわけにはいかない。
「ラウネシア」
樹体に体重を預け、声をかける。
「敵の迷い人は危険です。機会があれば必ず殺害します」
ラウネシアは何も言わず、僕の言葉に耳を傾けていた。
「でも、きっと難しいです。正面からぶつかれば、多分僕のほうが殺されてしまう」
敵の迷い人と対峙したのは、二回だけだった。
その二回だけで、向こうの方が格上だとわかってしまった。
「敵が用いた戦術は、僕たちの世界で過去に用いられたものでした。敵は僕と同じ世界の迷い人です」
一般的に悪手と言われたソ連の強襲降下作戦を用いてきたのは想定外だった。
敵の選択肢は、幅広い。
「一度だけ、話し合いを求めます。応じる可能性は限りなくゼロに近いかもしれませんが、もし同じ日本人であれば動きを止めるかもしれません」
息を吐く。
僕はもう、人間ではない。
「動きを止めた迷い人を、ラウネシアが殺してください。チャンスは一度きりです」
僕は王の種を受け入れた。
樹界の王として、ラウネシアと寄り添っていくことを決めた。
敵が人間であろうと、日本人であろうと容赦はしない。
『カナメは、それでいいのですか?』
目を閉じる。
――カナメもまた愛する人を見つけるといい。そうすれば、世界はきっと変わっていく。
父は、全てを愛せと言った。
人も植物も別け隔てなく、全てに優しくあれ、と教えてくれた。
けれど、僕は父のようにはなれない。
僕が愛せるのは、きっと植物だけだった。
例外は、由香しかいない。
ならば、迷い人は殺すしかなかった。
甘い果実を咀嚼し、立ち上がる。
転がる死体たちの間を縫うように進み、ある地点に進む。
王の種を受け入れた僕は、森を自由に操作できるようになった。
ラウネシアのように、一部の樹木を改良して思う通りの形に変えることができる。
歩いた先に、一本の小さい木があった。
ヤトロファ・クルカス。
別名、シャボンダマノキ。
枝を折り、ラウネシアの元へ戻る。
『それは?』
ラウネシアが不思議そうな顔をした。
僕は枝をストローのように口につけて、そっと息を吹き込んだ。
枝先から、シャボン玉が飛び出した。
ラウネシアの表情に驚きの色が宿る。
「僕たちの世界に伝わる遊びの一つで、シャボン玉といいます」
ふわふわと浮かぶシャボン玉が、陽光を受けて煌めいた。
『きれい、です』
見惚れるように呟いたラウネシアに思わず笑みが零れた。
もう一度、枝に口をつけて息を吹き込む。
大小様々のシャボン玉が次々と生まれていった。
木漏れ日の中、虹色の球形が森を埋め尽くしていく。
『すごいです、カナメ!』
幼子のようにはしゃぐラウネシアは、シャボン玉を掴もうと手を伸ばした。
すぐに弾けて、泡のように消えていく。
「ラウネシア」
シャボン玉の向こうに見えるラウネシアは、これまで見たことがないほど嬉しそうな顔をしていた。
「軍蟲との戦いが終わったら、色々な植物を育てましょう。僕はこの森を鮮やかに彩りたいです」
戦うためではなく、愛でるために。
父が教えてくれたように、愛するために。
そのために、僕は何を犠牲にしてもこの戦いを終わらせなければならなかった。
樹界の王は30話程度で終わりを迎える予定です。
後続の予定としてトライアングル・エラーを新規投稿しました。
現代を舞台にしたヤンデレ三角形の恋愛ものです。
よろしければ、こちらもお付き合いください。