プロローグ
いつからここにいるだとか、自分がいつ生まれただとかは何一つ知らない。
自分の知る景色は、大人が夢を見るように語る都会やらからは程遠い、山に囲まれた辺境の田舎村だった。
たどりつくまでに道という道はなく、他の場所へ行こうと山を下るだけで生死を覚悟するほどまさにドがつくほどの辺境地だった。
だから、“今思えば”生活は決して充分なものではなかったんだろうが、ああいった日々が、死の間際で流れるような幸せな時間だったのだろう。
生まれてこの方、血の繋がった家族は一人もいなかった。だがそんな事は生活する上で何も関係なかった。
血縁は、自分が物心つくよりも先に死んでしまったらしい。長から聞いた話ではあるが病気だの事故だの、いくつか理由を聞いた覚えはあるものの、今考えると山などに捨てられていたなどの事実を知られまいと適当な言い訳をされていたのかもしれない。ーーーいや、少し悲観的すぎたかもしれないが、正直それがたとえ事実だったとしても今となってはどうでもいいと考えてしまう。
ここまで聞いても、多くの人からは強がりだとか、悲しい目線を向けられるのだろうが、本当に村で生活する上で、頻繁に生きづらさを感じた事はなかった。
あの時は、村で生活してから一度も寂しさなんて本当に感じた事はなかったのだ。
それはなにも強がりなんかじゃあない。
それこそ、住民同士の結束が堅く相互扶助の精神が根付いている田舎村であったからか。おそらく都会で生まれていたとしたら、どこぞのゴミを漁りながら盗みを繰り返し、仲間はできていただろうがいつの間にか野垂れ死んでいただろう。
血の繋がりさえないそんな自分に対して、村の皆はいつも優しかった。
だからこそ、そんな彼らこそが家族と呼べる存在だと認識するのは当たり前だった。
加えて、実際に寂しさを感じなかったのは、村に同世代の人間がいた事が大きく影響していたのかもしれない。
成人を迎えた者の多いこの村でも、若い世代と呼べる人間が両手で数えるほどではあるが存在した。とりわけ、子供と呼べるような年代となると自分を除くと二人だけではあったが。
だからこそ、必然と歳の近い存在である二人とはすぐに仲良くなった。
自分と同年齢ほどの姉と、その姉の三つほど下の年齢である弟の2人組。
とりわけ姉の方は、彼女たちの両親が頻繁に都会の方へ出稼ぎに行くことに加え、身近な歳上が周りにいなかったことから、特に自分に懐いていたーーーような気がする。結局のところは本人達に直接聞く機会なんて無かったから、実際どうだったのかまでは分からない。
だが、その二人と頻繁に遊んでいた記憶があるのは事実だ。
まぁ、遊ぶとは言っても所詮は田舎村であり、その環境下で子供たちがすることといえばもっぱら家畜の世話が中心ではあったが、あの頃は目に付くもの全てが目新しく感じていた。
同年代以外、家畜しか遊び相手がいなかった環境は嫌だったわけでもなく、村が都市に挟まれた山上に位置していたことが起因して、牛や行商のための馬が多く飼われていたために必然的に動物と関わる機会も多く、俺達にはそれが当たり前となっていた。
一日中、農作業の傍ら、家畜の世話をし続ける。
だからか、昔から動物は好きだった。ただ飼うだけでなく、毛繕いをしてやったり、一緒に野山を駆け回ったりーーーー娯楽がそれぐらいしか無かったからかもしれないが、ウサギにネズミにリス、流石にクマとかは最悪だがとにかく、動物とは多く触れ合っていた。
けれど、自分が好きだからといってその好意を動物が100%返してくれるなんて事はない訳で、故にそんな自分と対照的に動物から好かれていた、同世代の少女の事は今でもよく覚えている。
羨ましいーーー当時はその一言でしか言い表せなかったが、他者に無条件に愛情を与えてもらうのはどんなに幸福なことか。幼いながらに、その才能に対して不平等さを感じていた。
彼女は中でも、厩舎にいる馬の扱いが非常に上手かった。
最も印象的だったのは彼女が一度厩舎に入れば、そこの馬たちが一斉に頭を出し、彼女に撫でてもらおうと見やりにくる。日々世話の回数が多く、餌を持った俺には振り向かないのに、彼女が何か彼らに特別な見返りを与えている訳ではないというのにだ。それこそ、天性の才能だった。
加えて、若年にして馬に乗ることなんて何のその、厩舎持ちの親父さんには男なら世界一のジョッキーになっていただろうと言わしめるほどだ。
羨ましかったーーー何に対してか、と言われると難しいが、やはりその根本にあるのはおそらく彼女が享受している愛情に対して。家族がいる彼女と、かたや天涯孤独の自分。動物に愛されている彼女と、愛されていない自分。寂しさなんて感じた事はないと初めに自分で言ったのに、全くもって矛盾している事は分かってはいるが、やはり心の内では真の家族というものを欲していたのだろう。たかがその程度でと言われても仕方ないが、その事実は今も色濃く記憶に焼き付いている。
初めの頃は確かに自分が与えた愛の量だけ、相手から愛が返ってくるのだと自分は信じていた。だからこそ、その渇きともいえる感情を癒すには、まだ自分の愛が足りないのだと思っていた。故に、血の繋がりのない家族同然とも呼べる村の住人達から親愛を感じなかったのは自分の愛情が足りていないのだ、そういう事だと感じていた。自分がもっと愛していけば、真の愛情を感じ取れる。だからこそ、自分がこの世で愛情を感じられるだろう唯一の手がかりである村の現状を見て、こう考えた。
ーーー村を存続させなければ。
村には全くといっていいほど次の世代の若者がいなかった。
それはもちろん、元々都市と比べると人口がそこまで多くないこともあるが、1番の原因は若い世代がすぐにこの村から出ていってしまうことだった。
今も変わらず、当時の都会の発展は著しい。また聞きした話ではあるが、最近では鉄の塊が地を走るようになるだとかそんな情報が飛んでくるのだから、新しいもの好きの若者などはすぐに飛びついて出ていってしまう。また、出稼ぎという程で村を出ていった若者たちも現地で相手をこさえてそこに永住してしまうことも多い。
時間の問題だと誰かが言った。
建前では、村の皆は若者は外へ出ていくべきだとよく言う。それは子供達に今から重荷を背負わせたくないという気持ちがあるのだろうが、自分は違う。血の繋がりがない自分など、今まで村の皆が居なければ1日たりとも生き延びる事はできなかった。
自分の全てをかけてでも恩を返す。それが自分の
なにより、そんな重い責任を彼女や彼女の弟に委ねるのは忍びない。
存続を一番として考えていたはずではあったが、知らぬ間に情を元に自分だけでどうにかできないかと考えてしまっていたのは、自分でも気付かない内に彼等からの愛を感じていたからか。
上の世代の村の皆もおそらく、同じような気持ちだったのだろう。
いわば、先に生まれた者の意地であるかもしれないが、そこまで悪い気もしなかった。
だが、現実はそうはならなかった。
その日は、とても暑い日だった。
いつも厩舎で馬の世話をしている彼女が珍しく、用事があると俺を山の方へと引っ張り出した。
「なぁーーー、こんな暑い日にさ、なにもいかなくていいんじゃあないか?」
額から頬を伝い、顎元まで流れ落ちた汗が地面へと吸い込まれていく。そんな光景を何度も繰り返し、ついに耐えきれなくなって口からふと愚痴がこぼれた。
持参した帽子でなんとか暑さは凌げてはいるが、地面から湧き上がってくる熱気がまるで身体を蒸し焼きにしているようだった。
すると、そんな自分を可哀想に思ったのか後方からふんわりと一筋風がつきぬけていく。
だが、それでも暑さに大きな変化はない。
根をあげかけた自分に妙な恥ずかしさを覚え、残り2口ほどの量しか残っていない水筒に無理やり意識を向けた。
そして何も無かったかのように隣で歩く少女に目線をやると、目が合う。
「あんたーーーさっきからそれしか言ってないじゃない」
ジト目と共に、真横にいる少女から投げやりな言葉が返ってくる。
一緒感じたらドキっとした気持ちはどこへやら、そんな何回も言ったっけかーーーそう思ってしまうほどに最近では珍しいと感じる暑さに気が滅入っていた。
「いつもと同じ気温だったら外に出るのは賛成だった。だけどよりによってこんな暑い日にーーー今日じゃあなくて良くないか?」
「それ、
「……いやぁ、もう疲れてさぁ」
ちなみに、その彼女の指摘も6回目である。
だがそのような指摘をしたところで言い返しが100倍になるだけなのは分かっているので、口は硬く紡いだままだ。
しかし、彼女の口撃は自分が喋る喋らないに影響される事はない。
「なによも〜だらしないわね、何でいっつも働いてるあんたが私より早く疲れるのよ…」
呆れ顔の彼女は『ちょっとしか』と言っているが、それはあくまで育ち盛りの少女の視点からであって、もう既に目的地に向けて歩き始めて2時間弱。
育ち盛りは俺も同じ事であるだろうがーーー同じように毎日野山を駆け巡っているというのに、一体どこで差がついたのか。まさかここでもスペックの違いを感じるとは思っていなかったが、彼女はどうやら暑さにもめっぽう強いようで、道中のこの暑さにも全く疲れている素振りを見せびらかすかのように眩しい笑顔を振りまいている。
「あー‥‥、暑い、な」
「黙って歩く!ジジ臭い事言わない!」
壊れた蛇口の様に飛び出た愚痴は間髪入れずに叩き落とされる。
なんで俺がこんなことを.....。本当なら今頃作業も終わって水浴びをしているはずなのに何故こんな目に会わなければならないのか。
頭を抱えながら、再び1歩2歩と前に進み始めると太陽光を受けて少し、熱くなっている水筒。その中に多めに入れたはずの水はしかし、すでに水の重みを少ししか感じ取ることができなくなっていた。
「あッ」
突然、彼女が一際大きな声を出す。
彼女が指さした俺の水筒からは、僅かばかりに残っていた水が全て漏れ出ていた。隙間一つない、都会の高級品でもないために、劣化で脆くなり割れたところが水の出入り口になっていたようだ。
漏れた分の水を見ると残念なことにどうやら帰りの分はないようで、水が滴り落ちるのと同時に自らのやる気も水のように次第に失われていく。
最早止める事のできない水の放出を手で塞ぐことをあきらめ、喉の乾きを紛らわすように隣にいる彼女に話しかけた。
「ーーーなんでまた俺なんだ、 あいつでも連れてけばいいじゃあないか」
口に出たのは村の中でも自分達以外、数少ない若い世代にあたる彼女の弟。
噂で聞いた話だが、前に村にやって来たオオカミにも怯えずに姉を守ろうとしたらしい。へっぴり腰な上泣きっ面であり結局は直接退治した大人達に散々叱られていたそうだが、並大抵の勇気では出来ないことだと感心したことを覚えている。
だが、幼いこの少女は納得がいかないらしい。
「ダメよ。あの子、チビだからもし虫取り網でも届かない高いところにいたらどうするのよ。私がおんぶでもしなきゃ取れないじゃない」
「じゃあ、お前に目当ての虫を教えてくれたじいさんにでも頼めばよかったじゃないか」
「あんたも知ってるでしょ。おじいちゃんは朝は畑仕事で忙しいの」
「あー、それならほら。右隣ん家の、八百屋のおばさんとかに頼めばーーー」
「あの人の1番嫌いなものは野菜についてる〈虫〉よ」
「ーーーそうだっけ……」
なるほど、消去法ね……と彼女のその言葉に少しショックを受ける。
だが、正直なところ自分もそんな虫は好きじゃあない。見る分はいいが触るのは少し·····というよりは大分。特にこう、なにか、ひっくり返したときの手足のうじゃうじゃ感。想像するだけで首筋の皮が裏返るような、それでいて何を考えてるかわからないあの目、想像しただけで嫌な気持ちになってくる。
すると気付かぬ内にそれが表情にでていたようで、彼女からまたジト目を喰らった。
「何よ、その反応。自分から聞いてきたくせに」
「いや正直なところだよ、別に1人でもいけただろ…?」
「1人は い や よ!!!」
突然の耳をつんざくような女の子特有の悲鳴に片耳を瞬時に塞ぐ。
幼い頃から、と言っても今も十分幼いが、彼女は何かしらあればすぐさま自分を呼ぶ。そのことが嬉しくて、初めの頃は頼りにされていると感じて軽く引き受けていた。しかし次第に棚の上の瓶が取れないというようなしょうもないことで呼ばれ、今ではパシリと変わらない。
人に頼られるということ自体は嫌なことじゃあないが、なにも自分は聖人君子ではないし、さすがに限度というものがある。
だが、そう思いつつも妹のように感じている彼女に構い倒してしまうのは自らの弱い所か。
そう言い聞かせながら彼女の悲鳴、もとい叫びに適当に応対しながら額の汗を拭いて歩くこと数十分。すると突然彼女が大声を出して足を止めた。
「あーーーッッ!!あれよあれ!あの虫!!」
彼女の指さした方向の木に止まっているのは辺りの木陰と対照に一際輝きを放つ虹色のカブトムシ的な何か。そう、カブトムシ的な『なにか』である。
多分、フォルム的にもムシとかそういうものじゃあない事だけはすぐに分かった。
「やぁっとみつけたわぁ〜、この黄金のフォルムッ4本の角の角度も完璧よーーーッ!!」
「カブトムシーーーカブトムシ、ね」
まるで愛しい我が子を愛でるかのように角の先から裏側の腹まで手が汚れることなぞ二の次に撫で回している。その様子は愛情を通り越して最早狂気を感じる程で、思わず後ろに下がる。
「うぉーーー。それホントにここら辺の生き物か? こう、なんていうか同じ生き物とは見えないーーー地球‘’外‘’感?」
「ーーーべつに、理解されなくったっていいわよ。この複雑な作りの体、そしてこの曲線の『美』は高尚な人にしか分からないのよ」
「『美』ねぇ..」
こう言う気持ちはなんて言えばいいのだろうか。特に理由はないだろうが何故か地上の虫系統に対する嫌悪感というか。エビやカニなどは平気なのだから陸上生物か海洋生物かの違いなのだろうが、じゃあもしエビが陸上生活をしていてセミが海中で生活していたらいけるのかというと……いや、元のセミを知っている時点で比較にならないかーーー。
「あッ」
「なに逃してんだ!」
▫️▪️▫️▪️▫️▪️
そうして彼女のために森を駆け回ることまたもや数十分。
疲労した俺の事は全く気にもせずにカブトムシを取ってもらった彼女は、それを手に持ちながらご機嫌に俺の隣を歩いている。
「ーーーよくもまぁ、そんな元気でいられるな」
「何よ、また村のじいさんと同じ事言っちゃって。私と歳ほとんど変わらないじゃない」
「たかが2歳、されど2歳だ。そこには大きな違いがあってだなーーー」
「あーそう、永遠に言ってなさい」
ああいえばこういう、なまじ頭の回転が早いから口喧嘩にも滅多に勝った記憶がない。
やはり、こういう時に言い返せない自分も自分で問題があるのだろう。
そうしてつぐんだ口をまた開く。
頭の片隅にずっと埋まっていた彼女に聞きたかった事、賢い彼女が幾ら私用があったとはいえ、何もなくてここまで自分を連れ出す事は無いだろう。
「ーーーでも、なんでまたこんなことを?」
「こんなことって?」
「今日のことだよ。ほとんど村から出ないだろ、いつも」
俺達の村では毎日子供が任される農作業を終えてしまえば、後は遊びまくるだけ。それはもっぱら野山を駆け回るばかりだとは前に行った通りだが、それも放牧地として家畜が歩き回っている敷地のみである。こんな田舎村でなんだと言われるかもしれないが彼女はこれでも箱入り娘であり、自分が誘っても親の言いつけ通りそこから外へは一歩も出た事はなかった。
故に、彼女からそれを破る提案をするとは意外だった。
「ーーーこれでもね、一応心配してたのよ」
呟くように言った彼女は少し前に進むと、地面に転がる石ころを蹴飛ばした。
「誰を」
「あんたに決まってるじゃない」
自分をーーーー?
何か心配させることがあったかと、あれやこれや暑さで少しぼんやりする頭で考えるも脳内で引っかかったものはーーー”彼女に言える事”は何も無い。
悪気もなしに心の中で作った壁に対して、彼女は躊躇う事なく近づいてきた。
「ほら、なんか気負ってるでしょ。最近」
「ーーーいや、」
「村のこと」
思わず、足が止まった。
「図星ね」
出来ている様で多分出来ていないウインクを見せる彼女にバレてるとは1ミリも想像もしていなかった。まさかとは思ったものの、よくよく考えて見れば彼女は聡明な人間だ。言わずもがな、村の状況や、周りの人々の話を聞いて推測したのだろう。それとも、顔に出ていたのかもしれない。
必ず近くに誰かしらがいる村では俺も話しにくいと思ったからここまで連れてきてくれたのか、どちらにせよ彼女に迷惑をかけたことには違いない。
彼女はヤマが当たったと言わんばかりに、どこか嬉し気な表情をしていた。
「なんか、ごめん。気を遣わせてたみたいだな」
「そうじゃなくてーーー、なんでも一人で背負うなって言ってるの」
「ーーーああ」
「なんか釈然としないわね…、つまり、周りの人に頼れってことよ」
その言葉と同時に、小さな拳で軽く胸を突かれた。
人に頼るーーーか、確かに何でもかんでも自分一人で抱え込んでいたのかもしれない。事実、今まで誰にも村の将来のことについて話をしたことはなかった。
だがそれでも、可愛い自分の可愛い妹分の手を煩わせる訳にはいかない。
「まぁ、大丈夫だ。村のことは俺が何とかする。お前が気にすることはない」
「全然わかってないじゃない!」
「分かってる、分かってるさ。だだ、うちの村には若い世代はほぼいない。お前だっていつかこの村を離れるかもしれない。だろう?」
「ーーーそれにしてもよ、そんな先の事なんてまだ考えなくても…」
「なんにしてもだ。いずれは誰かが残らなきゃいけないことに変わりはない」
時間的猶予はまだまだある。が、いずれは直面しなければならない問題だ。それこそ、村は既に親世代に代替わりして何年も経っている。
しかし、彼女の指摘通りであるのは確かだ。自分一人がどう足掻こうが、村というのは一人では存続しない。それに、自分達の次の世代も育てていかなければそれ以降村が続くことはない。田舎村で結婚が早いと言われるのはそれが原因でもある。
ただ、そういう意味ではアテがないこともない。先日村のばあさんから、別の村からの縁談があるだとか、そう言った話を聞いた。ただ、それだけではおそらく村を繁栄させていくことは難しいだろう。けれど、彼女たちが出ていくまではある程度のことはできる。
ただ、手伝うとは言ってもこの自分を含めても若い世代はたかが知れている。一体誰に手伝って貰えばいいのか、山を降りて、何かしら声をかけてみるしかないが、わざわざ山に上ろうと思う奴なんて十人いるかどうか。当てなんぞどこにもない。
だけどそれ以上に、一つ上の世代と同じくいずれここを出ていくだろう彼女に重荷を背負わせたくはない。
「そ、そこはほら。まぁ?色々と? つまりは、近くの人とかに頼れってことよ! 」
「そうか」
「特に!同世代がいいと思うわ!ーーーわたしも手伝うし…」
おそらく、彼女なりに励まそうとしてくれているのだろう。
彼女の薄紫の髪が風で靡き、視界に入った。
都会の方でも見かけない珍しい髪色でーーーそんなことを思いながら、無意識で彼女に視線を送っていることがある。だから、気づかれないようにそっと目線をそらす。
だが今回は気づいたのか、彼女はこちらに振り向いた。
「ーーーどうしたの?」
「いや、なにも」
「いや、絶対になにかあるでしょ」
「ないったらない」
「言いなさいよ、気になるじゃない」
「なにもないです」
「いや絶対になにかーーー」
いつものように、言葉の掛け合いは良く親世代にからかわれるほど頻繁に起こる。
そのうちの大半は彼女の非なんだろうが、結局のところなんだかんだと許してしまう。そして最終的に俺がすべてを飲み込んで謝るという流れだ。
だからこそ彼女をどうなだめればいいか、次に彼女が何を言うかも分かる。
しかし、この時ばかりは自分の予想が外れた。
彼女は何故か、そこで言葉を止める。
「………?」
不思議に思い彼女の顔を見ると、彼女はこちらの方をじっと見つめている。
「なんだよ、俺の顔になんかついてんのか?」
オウム返し、が彼女は何も言わない。
「ーーー」
「なんだよ」
「ーーー、ぁ」
「はっきり言えって」
まるで、石像にでもなったかのようだった。
今思えば彼女の目線は自分というよりは自分の後ろの方へ向いていた気がした。
しかし彼女の体はもちろん石像ではなく、きちんと命の灯火がある一つの生命である。
彼女の顔を覗き込むと瞳はかすかに揺れており、額からは汗が一筋流れ落ちた。
そして彼女の喉がゴクリ、と鳴った。
それと同時に、パキパキーーーと。枝か何かを踏むような音があたりから聞こえる。
しかしそこに何も驚く必要はない。ここらの森は有数の鹿の生息地であり、猟師達が3ヶ月に一回狩りに来るほどここら一帯では鹿と言えば名が上がるこの森。それにイノシシなど人に危害を加える動物は繁殖期でもない限りこんな村の近くまで降りてくることはまずない。しかし、その音は時間が経つにつれ近くで聞こえだす。
「ーーーなんだこの匂い」
むわっとした、雨の日に感じる湿気と同等のむらっけを感じた。
「う、しーーー」
「牛ーーー?」
この時点で走り去るべきだったのだろう。この辺りには害獣はいないから大丈夫、草食動物は人を怖がり近寄ってはこない。そんな考えは捨てるべきだったのだ。
少し肌寒いこの季節。人が普段立ち入らない森の奥から、冬眠するために動物達が食料を探しにくることなんて、少し考えたら分かっていたはずなんだ。
ーーーいるはずないだろ
牛や鹿であったならばどんなに良かったことか。
そう言うつもりだった言葉は口から出ることはなく、その瞬間すぐ
低く恐ろしく、家畜の犬などとは少しも似ていない。それと同時に生暖かい風が背中に当たり、濃密な獣の臭いが辺りに漂った。
そして、低い唸り声。
『グゥゥ』
「後ろーーーッ」
火事場の馬鹿力というやつか。声と同時に、自分でも気付かぬうちに咄嗟に彼女を抱え雑木林の方へ飛び出していた。受け身もとらず、まさに首の皮一枚といったほどにぎりぎりだった。
「うぉあーーーッ」
突っ込んだ衝撃で枝が腕に食い込み切り傷を作っているのが分かるが、そんなことを気にしている余裕はない。
彼女を抱えながらひたすら坂を転がり落ちて行った。
「ぐっーーー」「キャーーーっ」
幸いな事に丈夫な大木がクッションになってくれたおかげで、身体も少し軋む音がするが動くことに支障はない。人の体っていうのは意外と頑丈にできてるらしい。
自分が転がり落ちてきた坂の上をみると丸太のような腕が降ろされていた。木の葉の影に隠れていたそれは、徐々に体が太陽に照らされ姿を現してゆく。
大きく突き出た鼻に、丸太のような手足、鋭くとがった爪。大きく見開かれた目と、ここからでも鼻につくような異臭を放つよだれ。
その獣のあまりの大きさに脳が認識することを拒んだのか、それを理解することが遅れた。
ヤツが、『
「ひーーー」
あまりの恐怖に悲鳴を出しそうになる彼女の口を抑え、熊を刺激しないような声量で彼女に話しかける。
正直この大きさの、しかも捕食する気マンマンのやつに通じるかは分からない。前に村に来た猟師が言っていたであろう対処法ではあるが、やらずに無駄死にするよりはマシである。
声を出すなと、彼女の手を握り耳元でささめく。
震えながらコクコクと首を振る彼女から手を離し、リュックや虫かごをゆっくりと地面に置き、熊を見つめながらゆっくりと、ゆっくりと後ずさりをする。ここで重要なのは、熊から目を離さないということである。この行動が確かな対処法であれば、の話だが。
そして手持ちの携帯食料を入れたカバンを開けて自分達とは逆方向へと投げる。
頼む、荷物の方へいってくれ……!!
藁にもすがる思いで手放した荷物。しかしその思いは無残に熊の気を逸らすどころかそちらへは一度も目も離してくれない。
死にたくないーーー自らの後ろでそう呟いた彼女の言葉にようやくリアルな死の実感が湧く。その言葉はおそらく自発的に、というよりは自然と彼女の奥底から出た願いに近い言葉だろう。
そりゃあそうだ。自殺志願者でもなければ誰だって死にたいなんて思わないだろう。
それは『他人を身代わりにしてまで』という意味も含めて、だ。
その時の自分は気づいていなかったが、右手で俺の裾を不安そうに掴む彼女と、左手で俺の体を押している彼女が何よりの証拠だった。
自己犠牲の精神がどうたらと言われるかもしれないが、誰もがそのような輝く精神はもっていない。もしも常習的にそれが出来る人がいるのであればその人は『聖人』と言ってもいいだろう。
ーーーーーー俺が。
そう呟いた時に彼女の身体がビクッと動いた。
いつものように言い返さないのを見るに、彼女もやはり生き残りたいのだろう。震えが伝わり、自分にも恐怖がウイルスのように伝染していく。
膝が震える。しかしここで彼女のことを守れるのは自分しかいないのだ。自分は歳上だ…..。村のことは誰かに任せることになってしまう。だが、村の皆に貰った命をここで使わないで───一体いつ使うというのだろうか。
「お願い…ぃ、いかなーーー」
「大丈夫ーーー大丈夫だ、」
そう自分にも言い聞かせながら無理やり自分の震える手足を奮い立たす。
たかが一歳、されど一歳。自分は彼女のーーー身代わりとして。
いなくなるとしたら、身寄りのない自分が最適な事はわかっていた。
「歳上の言うことは聞いとけーーーな?」
カッコつけて、自分は大丈夫だと何度も彼女に言い聞かせ背中を押した。
ゆっくりと後ずさりをしながら動き出し、そのあと脇目も振らずに走り出す彼女。その後ろ姿に思わず追おうとする熊の目の前に立って、自分に気をそらさせる。
ポツポツと雨の音が周囲を包み出す。
三文芝居のようなタイミングで降り出してきた雨が目に入り込み、熊を一瞬見失いそうになる、が、熊もどうやらまだ動いていない。
人間というのは本来自分の種族とは別の動物の言葉というのを理解出来ないが、今は何故か分かるような気がする。
『逃げたところで無駄だ、お前を喰った後にあの女も喰らってやろう』
正直生き残れる気はしない。熊に正面向かって立ち向かって時間を稼いで逃げ延びるなんて事は五分五分どころか8対2にすらならない。
再び、熊の金棒のような右腕が振り下ろされる。降りしきる雨でぬかるんだ地面により足を滑らせてしまい、熊の右腕が自分へと迫る。もう駄目かと思ったが、身を仰け反らせることで間一髪、木のあいだに潜り込むことが出来た。
周囲を見渡す限りあと木の残りは3本。木を身代わりにすればあと3回ぐらいは躱すことができるだろうか。
じゃあ4回目は?5回目はーーー
その時初めて、自分の感情に気づくことができた。あんなに彼女にカッコつけたのに、自分も死にたくないのか。
その瞬間、まるで背中に冷水を浴びせられたようだった。
ーーーくない。
ーーーーたくない。
『死にたく·····ないーーー』
その瞬間、視界が黒に染まった。
なにも比喩じゃあない。手で捕まえられた虫の視点のように急に何も見えなくなったのだ。
「ーーー?」
その瞬間、頭の中から何かが消えた。フッっとまるで朝目が覚めた時のような感覚が頭をよぎる。
目がやられたのか、そう不安に駆られ目を擦ると次第にその黒が縮んでゆき、ある一定の大きさになるとその縮小は止まった。
その漆黒ーーー
すると突然その黒は、先程の穏やかな印象とは真逆のまるで獲物を見つけた捕食者のように熊の足元へと一直線に飛びかかった。黒点が狙いをつけた熊の右足にまとわりついている。
数秒、熊は唸り痛みに震えているかのように見えたがそれ以上に血に飢えているのだろう。相も変わらず熊はなりふり構わず身代わりの2本目の木へ突っ込んでくる。
「グルルルぅゥ‥‥」
そして2本目の木が折られ、また10数秒。もう一度熊の足に目線を送り目を凝らすが、先程の黒点のようなものは跡形もなく消え去っていた。
(何が、どうなった。何かが頭から
目をやると、今もなお熊の目はまっすぐとこちらを見据えている。
『ちょこまかと逃げやがって、だが次こそは必ず息の根を止めてやる』
喋る筈がない生き物の意図を肌で感じ取る。
首から噛みつかれるのだろうか、それとも腕?足からか?考えてもキリがない。
なるべくーーー出来れば頭からパクッと一瞬で。できれば痛みの伴わずに死んでいけたらと思うが、野生動物に狩人のような高等テクニックは頼めないだろう。
その願いが恐怖の感情と混ざり合い心の大半を蝕んだとき、女性の、どこかで聞いた声が響いた。
『お願いーー死なないで……』
それは誰の声だったのか、ただの自分の幻聴か。
だが自分を勇気づけてくれた事に違いはない。何故だか分からないが、生気が失われつつあった自分の目にも少しだけ活力が戻った。
ーーーあと少しだけ、足掻いてみるか。
それから、一体どれほど経ったのだろうか。
泥まみれになりながら、そこらじゅうを駆け巡り、何とか未だ命を繋げていた。だが、熊は絶えず唾液を垂らし続け、今にも襲いかかってこようとしている。あと何時間生きれるだろうか。いや何十分、何秒だけだろうか。
自分の両腕が食いちぎられたら足で熊に纏わりついて引き止める。両足をへし折られようが身を呈して熊の動きを止める。たとえ死体になって魂だけになったとしても引き止めなきゃいけない。
周囲を見渡せば、これまでの熊の攻撃で倒れたのであろう大木が辺り一面を囲んでいた。推測するに、熊の隙をついて通り抜けるのは困難だろう。退路を絶たれたという絶望的な状況だが、あの木が邪魔なのは熊も同じことだ。
だから自分はここに残っている。
体に張り付いた服はペタペタと嫌な感触を生み出していた。気持ち悪いと感じさせるのは、降り続いている雨なのか、傷口から流れ出てきた血液のせいか。
今の俺の傷だらけの姿を見たらきっと、彼女は罪悪感で押しつぶされてしまうだろう。
彼女ーーーー? いや、誰だったか。駄目だ、思考がうまく定まらない。雨のせいなのだろうか、既に視界もぼやけている。
以前に猟師から聞いた事柄が頭を過ぎる。確か、人の肉の味を覚えた獣はそれ以降人間だけを好んで食べるようになるらしい。
それに、死ぬ時はーーーなるべく人から見つかりにくい場所で死にたい。
今も振り続けている雨と、自らの汗が混じった水分を右腕で拭おうとするも、しかし何故か自分の腕の重さを感じ取る事はできない。
痛みも最早、感じられない。
降りしきる雨にうたれた体は冷たく、次第に近づいてくる眠気と共に瞼が落ちた。
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