目を覚ますと、あたしは異界にいた。
…………。
……はい? 異界?
なぜそんなことを思ったのか判らない。そこは、夜の森だった。うっそうと樹々が生い茂り、地面は足首まで埋もれるほどの下草で覆われている。空を見上げると、樹々の葉のわずかな隙間から月明りが差し込んでいた。目を覚ますのに適した場所とは言い難いが、それでも、現実的に存在する世界である。それでもあたしが異界だと思ったのは、周囲を漂う独特の空気が理由だ。触れているだけで
なぜ、こんなところで意識を失っていたのだろう。記憶を探ろうとして、突如、強烈な頭痛に襲われた。まるで、頭の中に誰かが手を突っ込んでぐちゃぐちゃかき回しているような痛み。目を閉じ、歯を食いしばり、その痛みに耐える。すると、目を閉じているはずなのに、映像が浮かび上がってきた。森の中の砂利道を歩いている映像。一人称視点というのだろうか。ビデオカメラを構えて歩いているような、あるいは、他人の視界を覗き見しているような、そんな映像だ。視点の主は、左手にライト、右手には草刈り用と思われる鎌を持っていた。なにやら興奮しているのか、呼吸が荒い。時折、低いうめき声をあげている。なんだ? この映像は?
だが、それもほんのわずかな時間だった。頭痛は嘘のように治まり、映像も消えた。なんだったのだろう? 気を失ったとき頭を打ち、幻覚でも見たのだろうか? 両手で頭を触ってみたが、特に怪我はしていない。もちろん、外傷がないからといって異常が無いとは限らない。頭の中を損傷している方がむしろ危険だ。早めに医者に診てもらった方がいいかもしれない。自分の身に何が起こっているのか考えるのは後回しにしよう。あたしは、とりあえずこの森から出ることにした。幸いライトは持っていた。薄暗い森の中でも少しは安心して行動できるだろう。
ライトの明かりを頼りに森の中を進む。少し歩くと細い山道に出た。道があるなら人の行き来があるということだ。人が住んでいる場所も近いだろう。早足で山を下る道を進む。しばらくすると、前方にライトの明かりのようなものが見えた。良かった! 誰かいる! 思わず走り出すあたし。
「あの! すみません!」
声をかけると、その人はこちらにライトを向けた。
その瞬間。
ビクン、と、身体が震え、別の映像が見える。ライトを持った女の人が山道を下りてくる映像だ。その女の人を、あたしは知っている。毎日、鏡の前で顔を合わせている。あるいは、アルバムの中の写真にたくさん写っている。つまり、あたし自身だ。
――え? 何?
あたしが驚いて立ち止まると、映像のあたしも驚いて立ち止まった。まるで、今の自分の姿を他の誰かがビデオカメラで映し、その映像を見ているかのような感覚。
だが、その映像が見えたのは一瞬だった。すぐに、元の自分の視点に戻る。ヤバイ。本当に頭がどうかしてしまったのかも。とにかく、あの人に助けてもらおう。もう一度声をかけようとして、息を飲んだ。
薄汚れた農作業着を着た男の人だった。左手にライト、右手に草刈り用の鎌を持っている。鎌にカバーは付けられておらず、刃がむき出しの状態だ。それだけでずいぶん物騒なのだが、あろうことか、その鎌を振り上げ、こちらに向かって来るではないか。その顔を見て、さらに息を飲む。肌の色は血の気を帯びていないどす黒い灰色で、目からは血のような真っ赤な涙を流している。瞬間的に悟る。そうだ。ここは異界。まともな人間がいるはずがない。あれは恐らく、死人がよみがえった姿――ゾンビ的なヤツだ!
そう思った瞬間、あたしは踵を返して逃げ出した。無我夢中で走る。追いつかれたら、食べられてしまう。幸い、ゾンビだから足は遅いはずだ……と思ったら、あたしに負けないくらいの速さで追いかけて来るではないか。くそう。走るタイプのゾンビだったか。ゾンビに走る設定を加えた映画監督を恨まずにいられない。あたしは昔懐かしい口メ口系のゾンビが好きなんだよ。運動神経にはあまり自信が無いあたし。このままでは追いつかれてしまう。だが、ゾンビも走ってはいるが、決して早くはなかった。このまま振り切れるだろう。そう思ったのもつかの間、崖崩れでもあったのか、道が大量の土砂に埋もれていた。この先には進めない。辺りを見回しても、隠れるような場所も無い。迫るゾンビ。振り上げた鎌は、確実にあたしの脳天を狙っている。あたしは、両手で頭をかばい。目を閉じると。
「食べないでください!!」
と叫び、目を閉じた。
すると。
「――食べないよ!」
女の人の声がした。
かと思うと、ガツン! バタン! と、何かが叩かれ倒れるような音がした。
何が起こったのだろう? 恐る恐る目を開けると、鎌を持ったゾンビは地面に倒れていた。頭が大きく陥没し、血がどくどくと流れ出している。そのそばには、どこから現れたのか、女の人が立っていた。黒縁の眼鏡をかけ、肩まで伸びた髪の一部を丸めて頭の上に乗せたお団子ヘアー、ボーダー柄のシャツにロングカーデガン、ジーンズにスニーカーという恰好。年の頃は二十代前半……あたしと同世代だろう。右手には、片面が釘抜きになった金づち、いわゆるネイルハンマーを持っている。そのヘッド部分には、血がべっとりとついていた。どうやら、この女の人がゾンビを殴ったようだ。
「……ったく。人間を見かけても襲うなって、いつも言ってるでしょ」
眼鏡の女はハンマーに付いた血をハンカチで拭いながら、倒れているゾンビに向かってそう言った。そして、あたしの方を見て。
「ようこそ羽生蛇異界パークへ! あなたは、当パーク三十三人目のお客様です!!」
にっこりとほほ笑んだ。
「…………」
「…………」
「……はい?」
「……ですから、羽生蛇異界パークへようこそ。あなたは、三十三人目のお客様です。まあ、適当ですけど」
「はあ、羽生蛇異界パーク、ですか」
「そうです。ここは、神様が作った世界のひとつ、『異界』です。あなたが今までいた『現世』とは、異なる次元にあります」
「はい。それは、なんとなく気付いていたんですけど、パークと言うのは、どういう意味でしょうか?」
「もともとこの異界は大変危険な場所だったんですけど、あたしがCEOに就任してから大改革を断行し、子供から大人まで安心して楽しめる一大アミューズメント施設に生まれ変わりました」
「そうなんですか。そのワリには、今あたし、だいぶ危険な目に遭ってたような気がするんですけど」
「申し訳ありません。社員教育を徹底し、人間を見ても襲わないよう言い聞かせてはいるんですが、中には、こういう社員もいまして」
「え? そのゾンビ、社員さんなんですか?」
「ゾンビじゃありません。
「はあ……よく判りませんが、判りました」
「ありがとうございます」
「で、その屍人の社員さん、殴り殺しちゃっても大丈夫なんですか?」
「安心してください。あと五秒でよみがえります」
「え? 頭を潰されたのによみがえるんですか?」
驚いて足元のゾンビならぬ屍人を見る。陥没していたはずの頭が、元に戻ろうとしている。そして、眼鏡の女の言う通り五秒ほどで完全に元に戻ると、屍人はゆっくりと起き上った。また襲われる! と、思ったら。
「ぅぉおおあぁらぁ! ぃぎてふぃくびんでんうぉじでごふぃげのくぉぉふさってびっげふふぇじお!」
眼鏡の女が突然あうあう言いはじめた。気でも触れたのかと思ったら、眼鏡の女に答えるように、屍人もぎゃうぎゃう言い返す。しばらく二人の間であうあうぎゃうぎゃうやり取りがあった後、屍人が、ぺこりと頭を下げた。
眼鏡の女があたしを見た。「『生きている人間を襲ってはいけないことは判っていたんですが、すごい剣幕で向かって来たので、思わず迎撃しようとしてしまった、申し訳ない』と言ってます」
「え? 今の唸り声、なに言ってるか判るんですか?」驚くあたし。単にあうあう言っているだけで、とても言葉には思えない。
「はい」と、眼鏡の女は頷いた。「屍人さんの言葉は、いわゆる換字暗号で、日本語で『あ』なら『うおああ』、『い』なら『すぅりいぃ』、という風に言い替えるだけでいいんです。慣れれば、すぐにコミュニケーションが取れますよ?」
「別に取りたくは無いですが……そうですか。謝罪されてるんですか。鎌を振り上げて襲っておいて申し訳ないじゃすまないと思いますが、どうやらあたしの方にも落ち度があったようなので、今回は謝罪を受け入れましょう。今度から気を付けてください」
「ご理解いただき、ありがとうございます」
屍人は何度も何度も頭を下げながら、山を下りて行った。
「……で、あれは、なんなんですか?」屍人が立ち去った後で、あたしは改めて訊いてみる。
「ですから、屍人さんです」
「呼び方は判りました。その屍人というのがどういう存在なのかを訊いているんです」
「はい。屍人は、人が、常世と呼ばれる神の世界、俗に言うあの世へ行くための準備段階の姿です」
「なんだか難しそうな話ですね」
「まあ、簡単に言えばゾンビのようなものです」
「……結局ゾンビなんじゃないですか」
「死んだ人が歩き回ってるという点においては、同じようなものでしょう。決定的に違うのは、屍人さんは不死身だということです」
「死んでるのに不死身なんですか?」
「そうです。さっき見た通り、物理的な攻撃によって一時的に行動不能にすることは可能ですが、時間が経てばよみがえります。たとえ頭を潰そうが首を斬り落とそうが心臓に銀の弾丸を撃ち込もうがはくりゅうのたまを使おうが、完全に倒すことはできません。あいつらを殺すには、煉獄の炎で焼くとか、聖獣の宝刀で斬るとか、神の武器を使うしかありません」
「そうなんですか? そんなラスボス的なヤツだとは思いませんでした」
「はい。特定の武器でないと倒せないようなヤツが普通のザコクラスの敵としてわんさか登場するのが、このパークの最も恐ろしい所なんです」
「あの方は、ザコクラスなんですか?」
「そうです。屍人には何段階かあるんですが、さっきの人は『半屍人』という状態です。この異界で人間が死ぬか、赤い水を一定量体内に取り入れると、まず、あの半屍人になります。ゾンビと違って知能はそれなりに高く、独自の言葉を話し、生前と同じく仕事もしています。屍人同士でコミュニティーを作り、普通に生活しているんです」
「へぇ。そうなんですね」
「そして、条件を満たすことでさらに進化した屍人になるんですが……まあ、その話はまた後にしましょう。立ち話もなんです。近くに事務所がありますので、そこに行きましょう」
ということで、眼鏡の女に連れられ、なんだかよくわからないままあたしは事務所とやらへ向かった。