彼らの前に立ち塞がった使徒達を易々と蹴散らし、彼らは進む。
その先に待つものとは。
楽しんでいただけると嬉しいです。
ネルファ SIDE
──一つ、失ったことを実感した。
己の中から消えていく繋がりと暖かさ。
かつて悪意によって人々を弄び、それ故に我が師によって悪魔へと変えられたモノの一つ。
愚かな民衆で遊ぶのに使う「手」を失った残念さと、自らの死に一つ歩み寄った僅かな恐れ。
そして何より、過ぎたるほどの甘美に思わず笑ってしまった。
「フン、君が笑うと虫酸が走るよ」
……ああ、そういえばここにはもう一人いましたわね。己が色欲に堕落した醜女が。
けれども私は、荒野にて開いた茶会の席に座る彼女に、あくまで優美に微笑んでみせるのだ。
「あら、つれないこと。性根のねじれ曲がり具合から、貴女とは仲良くできると思ったのですが」
「誰が。僕の光輝くんにくっさい香水の匂いを擦り付けておいて、よくもまあぬけぬけと言えたものだよ」
「はて、何のことでしょう。あのような愚者に一度とて触れた覚えはありませんわね」
「チッ」
あらそっぽを向いてしまって。まったく可愛らしいお嬢さんですこと。
微笑みながらも、か細い……そう、赤い糸一本で繋がった〝あれ〟によって近くにいるのを感じる。
じきにここへと到達するでしょう。私が埋め込んだ種を大きく、大きく実らせて。
それまでの間、険悪なティータイムというのも素敵ですけれど……それではつまらないですわ。
どうせならば、そう。とびきり笑ってしまえる喜劇などを一つ、聞いていたいもの。
であれば。
「……どういうつもりだい?」
「あら、紅茶のおかわりはいりませんこと?」
側に控えていた執事に茶を注がせ、彼女の前に置かせる。
その方が滑稽である故に、剥き出しにさせた腐った肉を執事服に包んだそれに彼女は鼻白む。
毒か、あるいは別のものか。そう警戒する瞳は、ああなんて噛み砕いてしまいたくなるのでしょう。
「冷めないうちにどうぞ?」
「………………」
けれどその衝動を抑えて、私は自ら茶を啜ってみせる。
すると、彼女もまた警戒しつつもカップを手に取り、一口飲んで驚いたように少し止まった。
「お気に召したようで何よりですわ」
「……で? 何を聞きたいわけ?」
「ご明察」
案外、狂ったばかりではないのかしら。いえ、あるいはそれさえも?
楽しみですわ。彼女からいったい、どれほど面白く、おかしなお話を聞けるのか。
「まだ少し、時はあります。ですので貴方が、あの愚か者にそこまで拘る理由というのを知りたくなりまして」
「それ、僕に何のメリットがあるのかなぁ?」
「あら、話を面倒臭がる程度の愛ですの?」
「……チッ!! いいよ、そんなに聞きたいなら話してやるよ」
大きな舌打ちを一つ。
彼女はまた彼方を向いて、私とは目を合わせないようにしながら喋り出す。
「…………五歳の時、父親が死んだのさ。不注意に車道に飛び出した僕を庇って、ね」
「あらあら。それは何とも悲しいこと」
悲しくて、なんて劇的なスタートかしら。
「母はちょーっとイカれててね。子供の僕から見ても、父にべったりと、気持ち悪いくらい依存してた」
「子が子ならば、親も親というところかしら」
「うるさいよ……どうやら両親の結婚には一悶着あったみたいでね。そんな最愛の父を失った母は、僕のことを憎みに憎んで、罵り、暴力を振るい、永遠に収まることのない鬱憤を晴らしてた」
「それで?」
「僕は耐えたさ。父の死は確かに僕のせいだったからね、そこは認める。だから耐えきれば、元の優しい母に戻る……なーんて馬鹿馬鹿しい思い込みをしてた」
はっ、と幼い頃の自分を嘲笑って、彼女はその苛立ち……あるいは呆れを呑み下すため一口啜る。
そうして気を持ち直して、なおも視線を合わせぬままに、お話を健気に続けてくれました。
「多分、母にとって僕は父の付属品だったんだろうね。だから父がいなければ大切にする意味もない」
「さぞ甚振られたことでしょうね」
「しかも母は悪知恵は働いてねぇ。僕への仕打ちが露呈しないよう、痣とかは残さないようにやってたよ。みみっちくて、我が親ながら笑っちゃうね、あっははははは!」
それは、矮小な母を嗤うのか。
あるいはそんな人間から生まれた己を笑っているのか。
いずれにせよ、楽しそうな顔ですこと。
「でもね、結局妄想ってのは現実じゃないから妄想なんだ。僕のくだらない現実逃避への依存は、ある日ぶち壊された」
「……ああ、なるほど」
この話の結末は見えた。
「新しい男でも引っ掛けてきたのですね。それも必死にか弱い己を守ることしか脳のない己に相応しい、世に掃いて捨ててもなお溜まり続けるクズを」
「笑っちゃうよね。結局あの女が欲しかったのは依存先で、父は第一号だっただけ。あんな人間のクズの中のクズでもいいっていうんだ、父は哀れで仕方がないよ」
嘲る口調でいながらも、その瞳にはわずかながら理性的な……ひどく濁った怒りがちらつく。
……なるほど。そこが彼女の失望であり、諦観であり、起点であり。
そして何よりも、人間という生物を見限った理由なのでしょう。
いいですわ。いよいよ楽しくなってきました。
「己とそれに類するものに責任を持ち、生きてもいけないものを人間とは呼びません。豚というのです。まあ、そんな豚には生ゴミが丁度良いでしょう」
「はっ、君と初めて意見が合ったよ! まあ嬉しくもなんともないが……」
「それで? 粗雑な舞台劇に出てきそうなその三文役者達の行動は?」
「色々、さ。あのクズがいやらしい目を向けてくれたおかげで僕は髪を短く、一人称を変え、家の中でさえ息を潜めていた」
「あら……」
可愛らしい、という言葉は飲み込んだつもりだけれど、彼女には聞こえたのかしら。
些細な自分の抵抗を軽く見られ、彼女はこちらにひと睨み。
けれどすぐに鼻を鳴らして、視線を外す。
「ま、無駄な行動だったね。結局小学生のガキに欲情したクズは牙を剥き、かろうじて悲鳴を上げたことで近所の誰かに通報してもらって貞操は守り切った。光輝くんのためだけのものを、ね」
「良かったではないですか」
「ところがね。ここから先が本当に、我ながら笑える人生だ。母はまだ元に戻ると信じていた僕に返ってきたのは──それまで以上の憎悪だった」
心底呆れたように、彼女は語る。
男の矮小さを認識し直すでもなく、全てを彼女のせいにして己の感情を暴れ回らせる豚。
女は母でも人間でもなく豚と知った彼女は、過去の幻想と未来なき己に絶望し。
そして、壊れて。
「その矢先に、あの愚者と出会ったと?」
「そうさ! 最初こそ話すのは渋ってたんだけどね、端的に事情を言えば光輝くんは言ってくれた! 〝もう一人じゃない、俺が恵里を守ってくれる〟って! ああっ、今思い出しても震えるよ!」
あらあら、己の身を掻き抱いて欲情して。とてもお似合いなお姿。
蛙の子は蛙、いえ豚の子は豚かしら? まあいいですわ、どちらでも同じことですし。
まあ、あの愚者が何をしたかったのかは凡その所想像できます。
どうせ、ひとりぼっちの女の子を助け出す己に溺れたかったのでしょう。
かっこいい自分を誇りたかったのでしょう。
賞賛を浴びて、己の行為の正当性に浸りたかったのでしょう。
アレはそうした行為を重ねて出来上がった心の脂肪。
そこから溢れる汁は甘く、また更に心の贅を肥やしていく。
……けれど。
3日前に交わった時。
あの時、原型が見えないほど膨れ上がっていた脂肪は全て抜け落ち。
そしてアレは、よもや血で塗りたくられた美しいこの手を……
「……ふ、あはは」
「……そんなにおかしいかな?」
「ああ、いえ、お気になさらず。で、みんなのヒーローに心を奪われたあなたはどうしたのかしら?」
「もちろん、彼のそばにいることにしたさ。その為に児童相談所から人が来た時も、母と仲が良いふりなんてしてね」
「さぞ面白い反応を見せたでしょう?」
「ああ、それはもう。仲の良い母娘を演じてみれば、笑っちゃうくらい顔を青ざめさせてさぁ」
その嗜虐的な顔から、その豚の心が憎悪から恐怖に塗り変わっていった様が想像できる。
驚愕から困惑に、そして恐怖へ。
これまで見下していたものが途端に態度を変えた途端にそれとは。
「悪党としてすら貫けないなど、救いようがありませんね」
「ま、おかげで僕は知れたけどね。やり方一つで、立場や心なんて簡単に変えられるってことをさ。「次は何を奪ってほしい?」なんて聞いた時は傑作だったね、発狂して家を飛び出してったよ」
「あらあら、素敵な関係ですこと」
人間の本性をむき出しにした、醜く歪で、清々しいほど取り繕わない関係。
それはある種、他人を傷つける方法でしか進歩できない人間の真の姿かしら。
「そうやって母を脅し、光輝くんの隣にいる環境を整えたんだ。だけど……」
「誤算が起こった。あの愚者にとってあなたは豚の選んだクズと同じ、ただ己を保つための手段の一つに過ぎなかった」
「おかしいよねぇ? あれだけのことを言っておいて、僕の王子様になっておいて、他の人にも同じことを言ってるんだからさぁ」
心底軽蔑したように、だがおかしそうに言う彼女の心境は理解できる。
その言葉は、従来人間が多くの場合は子供に与える愛情を得られなかった彼女にとっての救い。
けれど天之河光輝にとっては〝台本のセリフ〟でしかなく、いくらでも使いまわせる安い言葉。
また、雫さんや白崎香織……そういった近しい存在によってその矛盾は加速した。
そして、〝王子様の唯一の特別〟という最後の防波堤を破壊された彼女は……
「母が教えてくれた。人の感情や行動なんて、やり方次第であっさりと変えられる。だから僕は思ったんだ──」
天之河光輝が中村恵里を〝その他大勢〟の一人に、〝終わった物語〟にするなら。
彼女自身で中村恵里を天之河光輝の〝特別〟にしてしまえばいのだ、と。
そこまで言って、けれど彼女は一瞬で怒りに顔を染めると。
「……なのに、最後の最後で君のせいで失敗したんだよ!」
「あら。私、何かしまして?」
「したね! 光輝くんの魂にあんなわけのわからないものを植えつけてさぁ!」
……ああ、シンカイの話ですか。
あれは己の負の部分を見せつけ、心を壊し、悪意を喰らって力を蓄える悪魔。
故に自分の闇を受けれた場合、むしろそういった干渉は受けやすくなるものですが。
まあ、今の彼女にそれを説明しても理解はできないでしょう。
「そのせいで〝縛魂〟を使えなかったじゃないか!」
「私はあの愚者が、自分の愚かさに正直になるよう仕向けただけ。それをうまく操れなかったことは貴女の力不足ではなくて?」
「っ、減らず口を……!」
醜く歪んで、お似合いな顔。
ただ自分の思うがままに、自分の欲しい言葉だけをくれる人形が欲しかった。
望み通りに天之河光輝を手に入れていたら、自ら蔑んだ母のようにしなだれかかり、甘い声でも出していたでしょう。
結局は彼女も豚だったのね。やはり豚からは豚しか生まれないということ。
まあ、それはそれとしても。
「あなた、その《色欲》の座に相応しい堕落っぷりですわね」
「………………は?」
「その観察眼も演技力も見事。そして己の欲望のため、他の全てを省みぬ姿勢はまさしく獣のそれ。あの醜悪な神が気に入るのもわかります」
あの魔人族の男のように神に心酔し、自分を見失うわけでもなく。
最初から自分しか見ていない、彼女が自ら蔑んだ母と同じ狂った色情に塗れた魂。
なんとも滑稽でありふれた、狂人の身の上話でした。
実に、この最後の茶会の余興にぴったりです。
「とても楽しいお話でしたわ。暇潰しには最適の、面白おかしいお話をありがとうございます」
「…………はっ。それを言ったら君もそうだよねぇ? 《獣》に成り下がった人喰いの怪物女さん?」
少しだけ冷静さを取り戻したか、冷たく笑う彼女。
私も同じ顔で笑って差し上げれば、彼女は途端に息詰まる。
「確かにその通り。私も我欲のままに食らってきた獣畜生。故に説教をする気など毛頭ございません。ですが……」
「………………」
──少なくとも、己が悪意に溺れることなく前に進んだ天之河光輝の方がまだマシ。
……などと。そんなことを考えるほど、私の方も狂い果てたようです。
「………………そうですわね。私達は似ているのかもしれませんわ?」
「はぁ? 君と僕が? どこが? 何が? 意味が理解できないんだけど? 本当に頭おかしくなってるんじゃない?」
「あらあら、今更それを言うんですの? このネルファ、生まれ落ちたその時から人喰いの業を背負った狂人でしてよ?」
その狂気に身を任せたか、それでもなお優雅であろうとしたか。それだけの違いですけれど。
ただし、この言葉は遊びで放ったものではなく本音。何故ならば……
「己という存在を保つ為に、愛という名の狂気に浸ること。己が誰より美しく優れていると示すために、狂気で弄ぶこと。どちらも同じであるとは思いませんか?」
「僕らがどちらとも狂ってるって? 一緒にしないでほしいなぁ。僕はただ、光輝くんを僕だけの王子様にしたいだけなのに」
はぁ。完全に論理が破綻していますわ。
しかも無自覚な様子、これではどのような言い方をしても堂々巡りになるでしょう。
だからこそ、皮肉にも《獣》という称号という意味においては私と同等と言えますけれど。
そこまで結論を出した時だ。少し離れた場所から、音が響いてきたのは。
「来ましたわね」
「ああ、来てくれたんだね光輝くん! わざわざ僕に愛を囁くために!」
「さあ、行きましょうか。我ら《獣》の勤めを果たしに」
「うん、すぐ行くよぉ光輝くん! 君の、君だけの僕をすぐにあげるから!」
聞いてませんわね。
ともあれ、彼女が興奮で立ち上がったのを見計らって私も立ち、道具を片付ける。
そうして、シンカイの気配がする方を見た。
さて、天之河光輝。貴女は私が下賜した狂気を、どれほど飲み込めたかしら?
読んでいただき、ありがとうございます。