相当力を入れたためか、新世界編で一番出来がいいです。
楽しんでいただけると嬉しいです。
「じゃあ、行ってくる」
靴を履き直し、立ち上がる。
手土産の入った袋を手に、後ろを振り返って並んでいる両親を見た。
「いつも通り、帰りはそんなに遅くならないと思う」
「別に、そのまま〝お泊まり〟してきてもいいんだぞ?」
「そうねえ。ユエちゃん達が気になる所だけれど、そういうのも母さん達好きよ?」
この両親は……
「言っただろ。あいつは友達だ。それ以外にはありえない」
「相変わらず、そこだけは譲らないのねぇ。ユエちゃん達には答えを出し切れてないのに」
「ぐっ」
「むしろ、そこまで頑固に否定してるからこそ、ユエちゃん達が結託してるところもあるんじゃないか?」
「むぐ……」
ぐうの音しか出ないとはこのことか。
愉悦と揶揄いの入り混じる二人のニヤニヤとした顔に、行く前にもう一言何か言ってやろうとして。
けれど、頭の中に用意した言葉が口から出ることはなくて。
いつもならばここでツッコミを入れ、終わるという流れをわかっていた二人も少し不思議そうにした。
「……なあ、父さん、母さん」
「なんだ?」
「どうしたの?」
「…………あの、さ」
代わりに、頭をすげ替えるように浮かんだのは一つの疑問。
その質問をすることは二人の揶揄を受け流すことよりも、よっぽど乾坤一擲の勇気が必要で。
それでもここで聞かなければ、きっと後悔するなどという幻聴がどこからか俺のことを誘惑する。
何故かそれに抗えなくて、結局俺は断腸の思いでそれを口にしてしまったのだ。
「俺、昔からすげえ仲良いやつとか、いなかったか?」
「すごく仲のいい友達、ねえ」
「そりゃお前、美空ちゃんっていう今でも仲睦まじくしている可愛い可愛い幼馴染が」
「違う、そうじゃない」
いつもの如くユーモアに変えようとした父さんの声を、一刀両断する。
すると二人はとても驚いた顔をして、俺自身も自分の声にこもった、強く、重いものに驚いた。
何をムキになってるんだ、俺は。
こんなとりとめのない質問、意味がわからなくて当然だろうが。
「わり、変なこと聞いた。忘れてくれ」
「「ハジメ」」
二人の様子をそんな風に無理やり飲み下して、いざドアノブに手を触れさせた時。
偶然か必然か、重なって呼ばれた名前にピタリと動きを止めてしまう。
「お前が
その言葉だけで、グッと手に力がこもる。
やっぱりそうか、と気持ちを切り替えて言えればいいのに、何も出てこない。
だって、二人なら。
父さんと母さんなら、生まれたその時から俺を見ていた、南雲愁と南雲菫なら。
もしかしたら俺よりも俺を知っている二人なら、あの〝誰か〟のことを、絶対に知っているはずなのに。
なのに知らないことが、どうしようもなく、みっともなく……悲しいのだ。
「でも、お前にとってそれは……大事な人だってのは、なんとなくわかる」
「っ!」
「だからね、ハジメ。もしその人のこと思い出したら、母さん達にも教えて。ちゃんと、思い出すから」
たったそれだけの言葉で気持ちが軽くなっていくのは、親と子だからなのだろう。
八つ当たり以外の何物でもない憤慨は冷めて……だけど少しだけ、しこりが残っていて。
「…………ああ、そうするよ」
どうにか絞り出した一言を置き土産に、俺は少しオレンジが強くなった世界に戻っていく。
その光をわざとらしいほどに注視して、二人の顔を振り返らないようにしながら生家を後にした。
「………………」
道中、これまでのように何か呟くことも、幻想が見えることもなかった。
ただ自分の心という地図には暗澹たる暗闇が立ち込めていて、それが酷く不愉快なのだ。
行き場などあろうはずもない鬱憤を晴らすように、ズンズンと無言で道を突き進む。
あっという間に親しんだ街並みを抜け、駅へと舞い戻るとまた電車に乗り、第二の目的地に移動した。
数駅で下車をして、最初に電車を降りた時よりもさらに早く駅を出る。
結局、陰鬱な気持ちが晴れることはなくて。
あれこれと考えようとする思考を自分で嗜めているうちに、ついに到着してしまった。
「…………いつ来ても、でけえ屋敷だな」
その場所──立派な垣根に囲まれた巨大な日本屋敷の前に立ち、思わず感嘆する。
積み重ねた歴史の重さを醸し出す広大な敷地への入り口、木と鉄が重ねた年月を主張する重厚な正門も、壮観の一言。
いつ来ても圧倒される佇まいに見惚れてしまうが、いつまでもここで突っ立っているわけにはいかない。
門の脇にある木彫りの名札──〝八重樫〟の名の下にある、現代風のインターフォンを押す。
少しの静寂。後に、繋がった向こう側から声がする。
『はい、どちら様でしょうか?』
返ってきたのは、若々しくも落ち着いた女性の声。
聞いていて気持ちの良くなるような、大人らしいその声に返答を返す。
「ご招待に与りました。南雲ハジメです」
『あら、ハジメさん。お待ちしてましたわ。鍵はかかってませんから、中へどうぞ』
「ありがとうございます」
応対の主──俺をここへ呼び出した人物の母である
すぐ隣に見える脇戸を手で押すと、言われた通りに鍵はかかっておらず、すんなり開いた。
門をくぐり、目に入ったのは広い庭。
観光地のそれのように目を楽しませるものではないが、雑草と砂利で整えられた庭だ。
燈籠や少し遠くに見える池に視線を巡らせながら、等間隔に敷かれた石畳を歩いて母屋を目指す。
近づくにつれ、本丸とは独立した平屋の方から激しい音と怒号のように気合の入った声がする。
〝八重樫流〟の門下生達が稽古をしているのだろう。ほとんど日は沈んでいるのだが、熱心なことだ。
そんな風に思いながら母家の玄関までたどり着き、扉に手をかけようとした。
その寸前で内側から引き戸が開かれ、出てきた人物と鉢合わせする。
「おやハジメくん。こんにちは」
「どうも
顔を出したのは、額に切り傷のある道着姿の男性だった。
●◯●
霧乃さんと同じように〝彼女〟の父親である彼は、渋いイケメン顔に笑顔を浮かべる。
その顔は、なぜだか平時より迫力がある気がした。
「あの、母の伝手で美味い和菓子があったんで持ってきました。後で霧乃さんに渡しておきます」
「おや、それはありがとう。娘はいつも通り客間にいるよ」
「わかりました」
軽く頭を下げ、隣を通り過ぎて中に入ろうとした、その時。
不意にポンと肩に手が置かれ、それは絶壁のように俺の体を押し止めた。
「時にハジメくん。学生結婚についてどう思うかね」
「は、え、学生結婚ですか?」
いきなり何を言い出してんだ、この人。
「別に、今時珍しくもない気はしますが……それがどうしたんです?」
「そうか、珍しくもないか。いや何、ちょっと思い浮かんだだけでね。気にしないでくれたまえ」
終始有無を言わさぬ雰囲気のまま、虎一さんは玄関を出て道場の方に行ってしまった。
ジンジンと痛む肩に頭の中の疑問符を増やしつつ前を向くと、そこには微笑む和服美人。
いつからいたのか、きっちりと着物に身を包んだ、一本芯が通ったような印象を受ける美人にたじろぐ。
「き、霧乃さん、ご無沙汰してます」
「改めていらっしゃい、ハジメさん。お土産はここでお預かりしますね」
「あ、はい」
紙袋のうち、化粧箱のような和菓子の箱が入った方を手渡す。
たおやかな仕草で受け取った霧乃さんは、にこりと微笑んだ。
「確かに。ではハジメさん、今日もゆっくり楽しんでくださいね」
「はい、お邪魔しま」
「今日は特に皆張り切っていますので、
「え」
「それではこれで」
霧乃さんは、固まる俺を置いてけぼりに去っていった。
「……虎一さんといい、今日は妙なことばかり言われるな」
おかげで、心に渦巻いていたものがどこかに流されていってしまった。
ぽりぽりと頬をかき、なんとも言えなくなった心境を整えると八重樫家にお邪魔する。
玄関だけでも広いこの屋敷、奥に続く廊下は更に複雑で、現代住宅とは全く異なっている。
幸い
そうして行き着いたのは、とある一室。
扉を引き開けると──露わになるのは、なんの変哲もない和風の客間。
左側に布団などが入っているのだろう襖。右側には壺などが置かれた違い棚に、大きな掛け軸。
それ以外は何もない、いたって殺風景なだけの客間が特別に見えるのは。
きっと、縁側にゆるりと腰掛けているその人物がいるからなのだろう。
「──いらっしゃいハジメくん。待ってたわ」
流れるようにこちらへ振り返る様は、まさに見返り美人。
優しく細められた切れ長の目、その内に収まるのは彼女が背負う黄昏の底のように黒い瞳。
柳眉も睫毛も綺麗に揃えられており、彼女の行き届いた自己管理が伺える。
絶妙な高さの鼻は筋が通っていて、弧を描く唇は透き通った肌と同じように化粧で彩られていた。
華奢な体を紺色の着物で包み、少し正座を崩した足の上には陶器のような手を重ねている。
何よりも、烏の濡れ羽色をした艶やかな黒髪がその背中を流れる様は、天の川よりも美しく。
明眸皓歯とは、彼女のためにある言葉なのだろう。
その美しさは高校生の時より、格段に磨きがかかっていることは確かだった。
そんなことを思いながら、俺は返事をした。
「この間ぶりだな、
「急に呼び出してごめんなさい。何か、予定があったりしたかしら」
「いや、特には。そろそろだと思ってたからな」
後ろ手に引き戸を閉め、彼女──旧友たる八重樫雫に歩み寄る。
俺が隣に座るのを見届けた彼女は、徐ろに反対へ体を捻ることで、傍らにあったものを手に取った。
振り向いた彼女の両手に収まっていたのは、日本酒の一升瓶。
半透明のそれはまだ封が切られていなくて、達筆な字で記された銘の奥でチャプンと中身が揺れた。
「丁度良い物が手に入ったの」
「いつも悪いな、大層なもんを飲ませてもらって」
「あら。今更そんなふうに遠慮するような仲でもないでしょう?」
「それもそうか。じゃあ……ありがとう」
言葉を直せば、満足そうに微笑んだ彼女は酒瓶の蓋を開く仕草をする。
その間に俺は、家から持ってきたもう一方の紙袋からツマミを取り出して縁側に並べた。
配置が終わった頃に、タイミング良く彼女が差し出してきた、並々と酒の注がれた器を受け取る。
いざ器を手に取ったその時、彼女の手を見て俺は硬直した。
「どうしたの?」
「……雫、それは?」
思わず聞くと、不思議そうに雫が俺の視線の先を追い、「ああ」と納得の声を出す。
器から手を離した彼女は、そのまま右手で左手をなぞりながら顔の前まで持ってきて。
その薬指に嵌った、
「後で話すわ。びっくりさせたかしら?」
「ああ、かなりな……」
七年の付き合いになろうかという友人が指輪を付けているのだ、驚かないはずがない。
しかし同時に、虎一さんや霧乃さんの不可解な態度にも納得がいった。
そりゃあ、娘が突然こんなものを持っているのを見れば、真っ先に頻繁に出入りする他人を疑うわな。
当たり前のことだが、ユエ達に誓ってこんなものを渡した覚えはない。
「そんなことよりも。今はこれ、でしょう?」
「……おう」
だというのに、当の本人が特に話そうとするでもなく器を掲げるのだから拍子抜けだ。
妙に考え過ぎて気疲れすることは御免被るので、俺も一旦忘れて、手の中のものを持ち上げた。
「俺達の友情に……って言えばいいか?」
「それらしいわね」
笑みを交わし、杯を打ちつけるように同時に器ごと腕を上下させる。
器を傾けて口に含めば、苦々しくもどこか甘い、日本酒らしい味が舌の上を滑っていった。
「ん……確かに、こいつは美味い。少なくとも俺の好みだ」
「それは良かった。是非最後まで楽しんで頂戴」
「ああ、そうできそうだ」
感想を言いながら、ふと空を見上げる。
ほとんど没した日の代わり、そこに浮かぶのは輝く三日月。
誰かが笑っているように見えるそれは、縁側に広がる庭の一角に優しい光を落とす。
その光こそがまさしく、俺がひと月に一度雫に呼ばれてここにやってくる理由なのだ。
二人だけの静かな宴会が、今夜も静かに開かれる。
●◯●
「それでシアさんに嫉妬されたと。ふふ、罪な人ね」
「それ、父さんにも似たようなこと言われた」
困ったもんだと肩をすくめれば、雫がくすくすと可笑しそうに笑う。
見るやつによっては値千金だろう笑顔は、俺にその気がなくても十分酒の肴にはなった。
器の中に残った分を煽り、置いてあった酒瓶からまたいくらか足してから話を振る。
「道場の方はどうだ?」
「順調、と言っていいかしら。師範代として認められてから随分経つし、そろそろ慣れてきたわ」
「門下生に人気の美人師範代ってわけだ」
「もう、ユエさん達に言いつけるわよ」
「おっと、それは勘弁してくれ」
小さく笑い合ってその掛け合いは終わるものの、しかし言ったことは本心だ。
初めて知り合った高校生の時から、既に雫は雑誌に取り上げられるほど剣の腕前が冴えており。
華奢に見えるその体も鍛え込まれていて、前に見た道場での彼女は修羅と見紛う剣気を纏っていた。
だが……
「でも、未熟なのは変わらない。お父さんやお爺ちゃんと互角に打ち合えるようにはなったけれど、まだまだ強くなれる気がするの」
「大した向上心だよ。尊敬する」
いつ聞いても、彼女の答えは変わらない。
まだ磨き足りない、まだ研ぎ澄ませる。
そうやって自分を認めないばかりで、常に高みを目指すのだ。
現代日本でお前は何になるつもりだと言いたくなるが、その真剣な目を見れば揶揄うのも憚られる。
「少なくとも、天之河の暴走を止めるのには一役買ってたけどな?」
「御堂さんに振り回されるようになってから、めっきり減ったけどね。もう良い思い出と言っていいのかも」
「少なくとも、確実に俺は助かってたよ」
天之河ともう一人、こいつは幼馴染達のストッパー役をずっと務めていた。
酷かった時の天之河を制止する回数は特に尋常でなく、交流が始まったのもそれがきっかけだ。
それが今ではこうして、大学生らしくもない高い酒など飲み、面白おかしく話をしている。
普段も時折思うが、我ながらなんと数奇な人生だろうか。
そんなこの宴会のルールは、二つ。
一つ目は、それまでの一月にあった出来事を話すこと。
幸いユエ達といれば、彼女達に引き寄せられるように起こる数々の事で話題には困らない。
それはあちらも同じで、若くして古流道場の師範代を勤め上げる彼女はいつも楽しい話を提供してくれる。
二つ目は、三日月になる夜に決まって集会をすること。
普通なら満月ではないか、と誰かに言われそうなものだが……正直、俺も雫も理由はわからない。
ただ、何故か満月ではいけない気がした。
何か、大切で欠けてはいけないものが欠けた俺達は、三日月をこそ求めた。
大きな影に覆われて、包み込まれてしまったようにその光の大半を隠した、優しいそれを。
「なあ、雫」
「なぁに? ハジメくん」
しばし三日月を見上げていた俺は、ふと彼女へ話しかける。
視線を隣へ行かせれば、両手で器を持って首を傾げた、どこか可愛らしい美人が一人。
ほんのりと上気している白い頬が、それなりに酒が回っていることを示していて。
それは俺も同じなのだろうなと思った。
「そろそろ、お前が付けてる〝それ〟の話を聞いてもいいか?」
「ん……」
傾きを戻した雫が、少し声を漏らすと押し黙ってしまう。
それが不機嫌になったからではないというのは、長年の付き合いでなんとなく感じ取れる。
しばらく沈黙し、やがて雫は器を置くと左手を月光にかざした。
「夢をね、見たの」
夢。
その単語に、口元へ器を持っていった手がピタリと止まる。
「〝誰か〟が優しく私の手を取って、指輪を嵌めるの。その人のことを、私は誰より愛しく感じていて……でも、手を伸ばした途端に消えてしまう、そんなおかしな夢」
語るその横顔は、どこか意識を深く引き込まれそうな色香があって。
月光を取り入れ、彼女が指を動かす度に変わる宝石の輝き方には、不思議な魔力があって。
どうしようもないほどに、その〝誰か〟を想う雫は美しかったのだ。
「目が覚めれば、手の中にはその残滓が。あの〝誰か〟がくれたものと同じ指輪が、いつの間にか収まっていた」
夢の中に出てきたものが現実に現れるなど、ともすればとても恐ろしい体験。
けれど雫は、不可思議な琥珀色の輝きに強く心を惹かれ、少しも恐怖を覚えなかったのだという。
むしろその反対──指に通したその時、何か決定的に足りなかったものが埋まったような。
「そんな朧げな確信を、ふと得たのよ」
「……不思議な話だな」
「お父さんやお母さん、もし会ってたらおかしな反応をしていたでしょう?」
「お見通しか」
虎一さん達の様子を軽く話すと、それはおかしそうに笑う。
少し眉をひそめれば、「後で私から誤解を解いておくわ」と彼女は言った。
「そうね……でも確かに、おかしな話よね。二人の言い分の方が、よっぽど現実味があるわ」
「言っておくが、俺は一度もお前にそういう感情を持ったことはないぞ」
「あら、それは私もよ。ハジメくんは……そうね。戦友、って感じかしら?」
戦友。彼女とのこれまでの付き合いの中で、何度か言われた言葉だ。
とは言っても俺は八重樫流の門下生でもなく、思い当たるとすれば波乱万丈極まる高校時代を共に過ごしたことか。
確かに破茶滅茶な青春だったが、しかし彼女の信頼に、
それは、どうしてなのだろう?
「でも、私はこの感覚を……あの泡沫に感じた想いを、否定しない。したくない」
解を己の中から探し出す前に、雫が語り出す。
「誰になんと言われようと、この気持ちは幻ではない。確かに私が持っている、唯一無二の想い──たとえそれが、もう永遠に届かないのだとしても」
その声音には、断固とした意思が介在しているように感じられた。
友人として様々な彼女を見てきたが……これまでのどの彼女より、儚く、それでも強く。
さながら──決して折れぬ、刀のように。
「……俺も、夢を見る」
「ハジメくんも?」
「今に始まったことじゃない。何年も前からずっとずっと、同じ夢を」
その在り方に応えたいと思ったのだろうか。
気がつくと自然に、無意識に口が動いて、ユエ達にも明かさぬ秘密を吐露した。
誰もが一笑に伏すだろう戯れ言を、この友であれば受け止めてくれる気がして。
「俺はそいつに手を伸ばす。必死に、全力で、何度も、何度も。でもいつも届かなくて、するとそいつは振り返って俺に笑いかけるんだ」
もう俺のことは気にするな、って。
いつもその一言を最後に、黒風吹き荒ぶ荒野から現実へと追い出される。
「まるであの三日月の光のように、いつまでも捉えられない。それが苦しくて、もどかしくて……だからいつも、忘れようとする」
ユエ達に甘えたこともあるし、成人してからはこうして酒を飲むことで押し流そうともした。
だけど、何も言わずに慰めてくれる優しい彼女達の温もりでも、古来から心の薬と言われてきたこの苦さでも。
「どうしても、忘れられなくて。この胸に空いた穴が埋まったことは、一度もなかった」
むしろ、その穴が今、無力になった俺が
それが虚しくて、心が千切れてしまいそうだ。
どうしようもないまんま、バラバラに。
「……なんてな。こんな話、酒の肴にもなりゃしないか」
そう自嘲して、器の中の酒で口の中を潤す。
ああ、苦い。
ふわふわした気分は自分が何を思っているかさえも曖昧にして、ふと心の内で独白した。
「ふぅ……けど、これでいいと思ってる。苦しくたって、虚しくたって、もしかしたら一生答えが出なくたって、それでいいんだって」
「……そう」
そうやって苦悩している方が、簡単な感情ばかり数えて、あの手の温もりを忘れるよりずっといい。
今そう思えるのは、もしかすると天之河からもらったアドバイスがあったからかもしれない。
「なら」
「……?」
随分とぼんやりした意識のまま、隣を見てみれば。
彼女は、やはり優しく包み込むように笑いかけてくれていて。
「やっぱり私達、似た者同士の戦友ね」
「……だな」
どこまでも頼もしく、何よりも欲していた言葉をくれた雫と、俺は笑い合った。
次回、激動。
読んでいただき、ありがとうございます。