ややこしいですね。
楽しんでいただけると嬉しいです。
それは、今まで体感したことがない恐怖だった。
もう一人の自分。
並行世界というSFじみた場所からこの世界に迷い込んだ、別の天之河光輝。
自分を模した存在であれば、トータスの七大迷宮で対峙したことがある。
……その甘言に惑わされて、南雲にも香織達にも多大な迷惑をかけることになってしまったが。
ともあれ、それとは似て非なるもの。
完全に異なった、別の自分。意思と知性、魂を持った一人の人間。
それと相対した事は、凄まじく奇妙で、恐ろしい事だったのだ。
ドッペルゲンガーという怪異を地球で聞いたことがある。
自分と全く同じ姿をした怪物で、一目見た人間は発狂死するという。
きっとそれは、自分という存在が唯一のものではないという事実に耐えられないからなのだろう。
幸いにも、その天之河光輝は俺とは全くの別人といってよかった。
年齢も性格も、持っている力や──その胸に秘める信念さえも、全くの別物。
だからこそ、かろうじて自分は自分であるという認識を破壊されずに済んだけれど。
それでも、そんな根本的な恐怖とは別に。
俺は、どうにもあの自分が恐ろしかった。
「──さま? 勇者さまってば!」
「うわっ!?」
耳元で叫ばれて、深く思考の渦に沈み込んでいた意識が反応する。
「あ、く、クーネ様?」
「もう、やっと難しい顔をやめましたね。こーんな顔してましたよ、こんな顔」
眉根を指で寄せるクーネ様に、思わず苦笑いしてしまう。
彼女だけでなく、スパイクさんやリーリンさん、侍女のアニールさんもこちらを心配げに見ている。
どうやら気を揉ませてしまったらしい。
せっかくアークエットへ移動中の貴重な休憩、それも雑談中だったのに申し訳ない。
「すみません、少し考え事をしていました」
「ふむふむ。ズバリ、お兄さんのことですね?」
「うっ」
どうして分かったのだろう。これも人の意識を読むのに長けるが故か?
そんな事を思いながら、俺は彼女の姿を飛び越えてその後ろを見る。
そこには、真紅の瞳を輝かせる黒狼が寝そべっている。
恩恵術で守られた四つのテント、それらを警備する護衛隊の人達。
その中心であるこの焚き火を守るように鎮座する、剣を背に刺す影の巨狼。
そいつはじっと俺達を──正確には、守れと奴に命令されたのだろうクーネ様を見ていた。
「勇者さま? どこを見ているのですか?」
「い、いえなんでも。それよりもスパイクさんは、スペンサーさんの養子なんですよね……?」
途中で思考に没頭し、中断してしまった話を無理矢理繋ぐ。
クーネ様達は若干不審げだったものの、問題ないと思ったのかスパイクさんが頷いた。
「はい。《暗き者》との戦いの最中で両親を失った私を、幸運にもスペンサー様が剣の才能を見出し、養子にと迎え入れてくださったのです」
「そうだったんですね……その……」
「ああ、気遣いは無用です。こういった事は、この世界では珍しいことではありません」
彼は本当に含むところがないとわかる、落ち着いていて朗らかな笑顔を浮かべる。
大切な人を失った──その言葉が、俺があいつのことを今思い出したきっかけでもあった。
スパイクさんは二四歳。鍛え抜かれた体に纏う風格は、まさに一流の戦士のもの。
切長の瞳の奥にある鋭さは、スペンサーさんとよく似ていた。
「全く勇者さまは、デリカシーというものがありませんね。ええ、クーネはそう思います」
「うぐっ」
「クーネもお姉ちゃん以外を無くしてますし、アニールはおじいさんを、リーリンもお母さんを先の戦争で亡くしているというのに。ああ、本当に勇者さまときたら!」
「すみません、デリカシーがないとよく言われるんです、本当すみません!」
「ふふん、いいでしょう。クーネは心が広いので許します。しかし、ただとはいきません」
では何をすれば? とみれば、彼女は手に持っていたカップを無言で差し出してくる。
そこになみなみと注がれている、湯気立つものはパル茶。
パルルの実なる、栄養価の高い保温効果のある木の実を使ったもので、砂漠の夜には必須。
しかし苦い。それなりに成長した俺でもそう感じるのだから、クーネ様の子供舌には難敵だろう。
仕方がない。飲む必要があるものだが、失言をしたのは俺なのだし。
グルル……
手を伸ばしかけた瞬間、唸り声が聞こえた。
全員揃って肩を跳ねさせる。そしてこちらをじっと見張る影狼を見た。
重ねた前脚から頭は上げていない。どうやら偶々声を出しただけらしい。
「……びっくりしました、まさかお兄さんに怒られたのかと」
「いや。操作はできても、意識を飛ばすようなことはできないってあいつは言ってましたよ」
「お兄さんは捻くれ者ですからねー。ほんとかどうか……」
やけにあいつに懐いてるんだな……そんな事を、ちょっと複雑な気持ちで考える。
と、その一瞬のうちに背後に回り込んだアニールさんによって、クーネ様の両頬が捻りあげられた。
「い、いひゃいいひゃい! あひーふ!」
「謝罪にかこつけて、苦手なものを押し付けようとするんじゃありません。それにデリカシーに欠けているのはどちらですか」
「ごめんひゃひゃいっ、あひゃまりまふ、あひゃまひますから、ほっへひゅーはやめてくらはい!」
涙目で体をばたつかせるクーネ様に、俺は目を瞬かせる。
この国の人達が互いに気さくなのは知っているが、仮にも王族なのに平気なのだろうか……?
「ご心配なさらずとも平気ですよ。アニールはモアナ女王とクーネ様に幼少から仕えていて、もう1人の姉妹のようなものですから」
「な、なるほど……」
納得がいった。だからこそあそこまで親しげに接することができたのだろう。
聞けば、アニールさんのご祖父は先代の筆頭術師。一代前の王からも信頼の厚い人物だったそうだ。
その人は現筆頭術師リンデンさんの師匠でもあるとか……しかしそうなると、アニールさん自身はどうなんだ?
今もここにいるリーリンさんは、リンデンさんの娘であり、一流の術師だと聞くが。
実は、あれか。
南雲がリリアーナの護衛の為に配備した、某戦闘メイド達のごとく実は超強い侍女だったりするのか。
あの全身に暗器満載の、魔王と首刈りバニー達の英才教育を受けた彼女達のようなのか。
そんなことを思いながら見ていると、アニールさんが苦笑いする。
「私は術士団に入れるほど、才能がなかったんですよ」
「そ、そうだったんですね……」
「ふふ。なんだか難しい顔が板についてきてしまいましたね、勇者様は」
でも気にしないでくださいと、彼女は言う。
クーネ様の顔から手を離した彼女は、それからどこか遠くを見て語り出す。
「幼い頃は、私もお爺様のように立派な術師になることが目標でした。どんな敵にもひるまず、背中にいる王族を、仲間を、民をその力で守れる──そんな存在に」
「……守る存在、ですか」
「はい」
こちらに向き直った彼女は、少し照れ臭そうに笑いながら。
「祖父は、私にとってのヒーローだったのですよ」
「──っ」
ふと、脳裏に祖父の顔が思い浮かぶ。
天之河完治。
俺にとってのヒーロー。俺にとっての理想。いつか追いつかんとした憧憬の形。
そして今は──何よりも遠く、あまりに眩しく目を伏せてしまう、届かないもの。
「……どうやって」
「はい?」
「どうやって、諦められたんですか?」
俺は目をそらすことしかできなかったその事実を、どうしてあんなに穏やかな顔で語れるのか。
何故前を向けたのか──それは、俺とは全くの別人になったあいつのことをも想像したからかもしれない。
「理想の自分になれなくとも、人生は続きますから」
静かで、けれど強い声音だった。
諦観でも失意でもなく、俺には理解し得ないような熱のこもったものだった。
だから俺は……何も言えなかったのだ。
その後も、様々な話をした。
実直で素直な性格のスパイクさんが、思ったままのことを口にして多くの女性が口説かれたと勘違いしていたことだったり。
リーリンさんが思ったよりも過激というか容赦がないというか、戦士気質なことだったり。
そんな彼女は、戦うために生まれてきたと。そう確信を込めた言葉で俺に言ってきた。
心の底からそう自負する姿勢が、見目麗しい彼女の外見以上に魅力的に思えて、「格好いい」などと言ってしまった。
それにはにかむ彼女に、すぐさまクーネ様が反応したりと……まあ、楽しい時間だった。
「守る為、戦う為……自分の意思を貫く、か」
そして、皆が寝静まった頃。
煌々と輝く火の消えた焚き火の前で、俺は一人座り込んでいる。
「みんな、癖が強いけど……でもまっすぐだったな」
俺にはないものを持っている。
モアナ女王を筆頭に、この世界に来てから接してきた人々皆に思ってきたことだ。
そしてその出会いは、ある場所で止まっていた俺の心に何かを流し込んでいた。
不思議な感覚だ。
「……もしかしたら、お前と話せばこの感覚にもはっきりと名前がつくのかもな」
そんな冗談めいたことを言いながら、俺はなおもそこに鎮座する巨狼を見る。
すると、あちらも初めて頭をもたげ、こちらを見てきた。
ぱちくりと目を瞬かせると、じっと赤い瞳で俺のことを見ていた巨狼は──
《それはきっと、お前自身が形を定めるものじゃないか?》
「──っ!?」
思わず身構えた。
立ち上がって腰の聖剣に手をかけると、巨狼は意思無き使い魔らしからぬ笑みを浮かばせる。
《大袈裟だな》
「お前、まさか俺か……!?」
《お前もそれじゃあややこしいだろう? フールって呼んでくれ》
「いやっ、呼び名なんかどうでもいい! 意識を飛ばすことはできないんじゃなかったのか!」
テントの中にいるクーネ様達を起こさないよう、小声で詰問する。
すると、大きな身体を持ち上げた巨狼──フールは俺の前まで来て、焚き火を囲むようにまた寝そべる。
《今日一日練習して、どうにか会得した技術でな。魔力のパスを通じて、肉体から一時的に魂を同期させてるんだ》
「今日一日、って……そんな技術を、たったそれだけで?」
《勿論、色々と制約はある。俺の肉体は眠っていて完全に無防備だし、こうして話せるのも同じ魂を持つお前だけだ。何より三十分と持たない》
……それでも凄まじい力だということを、事もなげに言うこいつは理解してるのだろうか。
戦慄を感じながらも、攻撃的意思はないようなので俺も臨戦体勢を解く。
それでも心に一定の警戒心は持ちつつ、椅子に座りなおした。
「……それで、どうしてここに?」
《前に言っただろう、ちゃんと話をしようと。なんだかんだで腰を据えて話し合う機会がなかったからな》
「みんな寝静まった今がちょうど良い、ってわけか」
《理解が早くて助かるよ》
その時、フッと奴は消えた薪に向けて息を吹きかける。
すると巨狼の口から吐き出された黒い炎が飛び、新たな火種となって燃え始めた。
それから、奴は知性を湛えた赤い瞳で俺のことを見てくる。
《悩んでいるみたいだな、色々と》
「……お前には、子供っぽく見えるんだろうな。俺の葛藤なんて」
思わず拗ねたような口調で、そっぽを向きながら悪態をつく。
俺にはない力を持ち、信念を持ち……俺よりも大人なこいつが、どうも苦手というか。
とにかく、馴れ合いたくないと思ってしまう。
《まさか。むしろそこまで色々な事情を抱えて、複雑な心境の中葛藤できることに感動すらするよ》
「……嫌味か?」
《本心だ。だって俺は、もうとっくの昔に〝悩む〟なんて選択肢は奪われたからな》
──君は愛する人を救うことになった時。その為に相手を殺すことができるか?
ふと、以前質問をして正体を確かめようとした時の言葉が蘇る。
俺への挑発か、揶揄いのようなものだとばかり思っていたが……今思うと別の何かも感じている。
何か、別の答えを探しているような……自分にはない何かを求めるかのような。
そう思ったせいだろうか。気がつけば俺はこんなことを聞いていた。
「どうして、そのやり方を選んだ?」
《ん? それは前に聞いた質問についてか?》
「ああ。なんでお前は……その人を、手にかけるなんてことができた?」
以前は怒りと正義感に似せた何かから、感情に任せてぶつけた言葉だった。
けれど今は、純粋にその理念を知りたい。そんなふうに思いながら、こちらを見る赤眼を見返す。
すると、黒い火に視線を移した巨狼は、しばらくしてから鼻を鳴らす。
《そう彼女が望んだから、かな》
「じゃあ──」
《でもきっと、それはただの言い訳さ。俺の力が足りなかったことへの免罪符でしかない》
別のことを望まれたら答えたのか、という続きの言葉を寸前で呑み込んだ。
だって、その瞳の中に……とても見覚えのある、どうしようもない後悔と失望が見えたから。
《紆余曲折あって、今でこそ彼女は生きている。俺をあの腕の中に絡め取り、あまつさえ身も心も求めてさえくれている》
「…………命を奪ったのに、か?」
《ああ、そうだ。…………彼女にとって、あれは救いだった。愛だった。極上のご馳走だった。そう笑顔で語るけど、でも俺は、まだあの時の自分がどうしても許せないままなんだ》
「──っ!」
命を奪うことが、救い。
そんな価値観は、俺の中に一片も存在していなかった。
かつて、恵里の魔法で操られ、エヒトの人形に成り下がり、死に物狂いで助けに来た幼馴染達が叱ってくれた。
その時に、俺ばかりが正しいなんて、そんな我が儘は通じないことをようやく認めらた。
だからこそ……俺の知らない救いが、希望が、愛があるのだと、心底驚いた。
「それじゃあ……一番大切な人の命を奪ったから、他人の命を預かることなんてしないっていうのか?」
《そう考えた頃もあったけど、今は違うな》
「何故?」
そう問いかけると、奴は狼の顔で苦笑を浮かべて。
《だってそれも、結局は自分が何もしない為の言い訳じゃないか》
「何も、しない為の……言い、訳……」
《そんな誤魔化しは、もう二度としないと決めた。自分というどうしようもない人間と、決して偽らずに向き合っていこうと誓った。そうしないと……きっと、彼女の側にいる資格さえも失ってしまう》
たとえ他のどんなものを見捨て、あるいは自らの手で壊しても、それだけを失うのは恐ろしい。
苦悶と懊悩、葛藤と寂寥に塗れた声が、俺の頭の中に髄まで染み込むように響き渡っていく。
呆気に取られていると、奴は使い魔を通して、一度も見たことのない顔を向けてくる。
《改めて、すまなかった。俺自身が答えを出し切れていないことを、自分のことで手一杯な君に八つ当たりして。大人気なかったよ、本当に反省してる》
「…………まあ、俺も色々お前に言ったし、やったからな。おあいこってことで」
《そう言ってくれると助かるよ》
ちょっと気が楽になったように笑った。多分俺も同じ顔を向けている。
それから奴は……あいつは、また炎を見つめながら、真剣に表情を引き締めた。
《でも、だからこそ。これだけは俺の中で信じられる。貫ける》
「…………」
《何もかも中途半端で、無責任で、無力な俺だけど……彼女の心を救えた。たった一つのその奇跡が、俺という人間に生きる為の力を、道標を与えてくれた》
だから、その人の側にいて、一生守り続けるのだと。
この唯一の願いを、傲慢を叶える為ならば、全力であらゆる困難に臨もうと。
これまでどこか俺に似通っていたものとは違う──そう、アニールさん達のような目で。
《いつか、俺が彼女を受け入れるにふさわしいと、自分自身に胸を張れるように。俺は頑張るよ》
それは、やっぱり俺の求めていた答えとは、もしかしたらと期待した未来の姿ではなかった。
酷く悪い言い方をすると期待外れだったけど……でも、ああ、なんて。
なんて、まっすぐで目が眩むような、血と汗と願いに塗りつぶされた、赤い光なのだろう。
《君は、どうしたい?》
あいつは、こちらに振り返って問うてくる。
優しく、まるで人生の後輩を見るような慈しみに満ちた目で。
《きっと君も、酷い失敗をしたのだろう。顔を上げたくなくなるような後悔をしたんだろう》
「……俺は」
《でも、彼女も言っていただろう? 続くんだよ、人生は。だから持たざるをえない。決して譲れない、たった一つの何かを》
君はそのたった一つに、何をはめ込むのだろうね?
その言葉が、深く胸の奥まで溶け込むような気がした。
読んでいただき、ありがとうございます。