大車輪ってご存知だろうか。少林寺拳法の技の一つなのだが、ご存知ないよって人にわかりやすく言えば、まあ、いわゆる側転である。
拳法の技の一つなので、当然隙を少なくするために体操の側転よりも短いモーションでぐるんと回らなければならないのだが、側転が出来れば大抵の人は大車輪もできる。
姉も私も、この大車輪なる技が結構得意だった。
私達の通っていた道場ではウォーミングアップとして、道場の端っこから端っこまで走ったりスキップしたり跳んだり跳ねたりするのだが、そのウォーミングアップのラストが大車輪だった。
端っこから端っこまでぐるんぐるん回りながら進んでいく少年拳士たち。
そのうち何人かは綺麗に回れてない子もいるが、そんなのもご愛嬌というやつだ。
自分で言うのもなんだが、私の大車輪は中々に綺麗なフォームだった。
ふわあっと、それこそ白鳥の湖のプリマの様に可憐で繊細、それでいて敏捷といえるのではあるまいか。
対して姉の大車輪は力任せで豪快だ。
パワフルといえば聞こえは良いが、なんだかその様は崖を転がる岩石を思わせるものだった。
スピードだけ取ってみれば私より姉の方が格段に速いのだが、それでも、巧いのは絶対私の方だという自負がある。
「どうだ! 今日も私のほうが速かったぞ」
大車輪で先に道場の端まで辿り着いた姉が、腰に両手を当てた格好で威張る。
確かにアンタの方が速かったが、フォームが綺麗だったのは私の方だ。あんまり威張らないでもらいたい。
私と姉が道場の端っこで1メートルほどの距離を開けて睨み合っていると、私達姉妹の丁度真ん中の空間に女の子が倒れ込んで来た。
「きゃーっ」
可愛らしい悲鳴をあげて倒れこんで来たのは私の一個上、姉と同学年の千明ちゃんだった。
「大丈夫かっ、ちあきちゃんっ」
姉と私は千明ちゃんに手を貸して助け起こす。
正直に言うと、千明ちゃんは大車輪が下手だった。回る時の体勢は斜めに傾いているし、膝は曲がっている。
しかし、私達の通っていた道場は出来ない子は出来ない子なりに頑張ればそれで良いという方針だったので、大車輪が出来ないからといって千明ちゃんが怒られたりする事は無かった。
そもそも、大車輪が出来ないとか、怖いという人は、ウォーミングアップの最後の大車輪はせずに、普通に端から端まで走るだけでも良いと言われていたのだ。
千明ちゃんもついこの間まで大車輪には挑戦せずに、走るだけだったはずなのに。
疑問に思った私が、その旨を千明ちゃんに質問すると、彼女はこう答えた。
「私、一年生の頃からこの道場に通ってるから、もう三年目なの。なのに、コトちゃんとミィちゃんはもちろん、虎雄くんまで大車輪できるのに、私だけできないのは嫌だったの」
唐突だが、『コトちゃん』というのは姉のあだ名で、『ミィちゃん』というのは私のあだ名である。
コトもミィも私達の名前が由来の安直なあだ名だが、私は存外気に入っている。
姉は何故か、私もミィちゃんって呼ばれたいなどと言っていたが、姉妹揃ってあだ名がミィちゃんって可笑しいだろうに。
姉が何故そんなことを言い出したのかは、謎である。
それはともかく、千明ちゃんの目は真剣だった。
本気で大車輪を覚えたいのだろう。
「ねえ、コトちゃん、ミィちゃん、大車輪ってどうやったらできる様になるの? コツとかない?」
千明ちゃんに問われた私達姉妹は頭を悩ませる。
正直言って、私達は全く苦労せずに大車輪を覚えた。
元々私達は幼稚園に通っている頃には側転が出来たのである。
大車輪は側転のモーションを小さくするだけだ。
道場に通い始めて初日に、ヒュッとやってパッとやったら出来たのである。
千明ちゃんに対してそんな下手なアドバイスは出来ない。
姉も難しげな表情で頭を悩ませている。姉は悩むのが苦手な子なので、あと一分ほど頭を酷使したらショートして煙を吹くかもしれない。
「どうかしたんですか?」
そうこうしていると、虎雄が話し掛けて来た。千明ちゃんは虎雄にも私達にしたものと同じ質問をする。
「えっ、大車輪ですか? ヒュッとやってパッとやったら出来ましたけど」
虎雄の言葉に千明ちゃんはショックを受けた様子で目を見開いた。
男の子とはいえ、二つも年下の子にこんな風に言われたら、そりゃあショックだろう。
虎雄め、デリカシーの無い奴だな。
「どうしたんだい、次は型稽古だよ」
私達年少組が集まって何やら話しているのが気になったのか、おじいちゃん先生もこちらにやって来た。
私は、ショックを受けて固まっている千明ちゃんのかわりに事情を説明する。
おじいちゃん先生は私の説明を受けると、ふむ、と頷く。
そして、道場生みんなを一旦集合させて座らせると、私の姉に、「見本を見せてあげなさい」と言った。
こういう場面で、姉は無駄に張り切る人だ。わざわざ道場の端まで行き、そこから助走をつけて走って来たかと思うと、大車輪からのロンダート、そこからバク転のコンビネーションを見せた。
「はい、今のは悪い見本」
おじいちゃん先生が言うと、姉は「なんでぇ!?」と叫ぶ。
当たり前だアホの子め、誰がアクロバット見せろっつったよ。
姉はすごすごとみんなの所に戻ってきて座る。
次に見本を見せるように言われたのは私だった。
私は姉のような失敗はしない、普通で良いんだよこういうのは。
ただ、見本だからな、私はいつもよりも綺麗で正しいフォームを意識して、地面に手を着くまでのモーションを小さく、それでいて回転中には脚を綺麗に真っ直ぐ伸ばしてくるんと回った。
どうだ、私のフォームはめっちゃ美しいだろう。
「はい、今のも悪い見本」
なんでぇ!? 奇しくも私は、姉と同じように叫んでいた。
なんでだなんでだ、私のフォームは完璧だったはずなのに。
私も先程の姉と同じように、みんなの所に戻って座った。
「じゃあ、良太くん、見本を見せてあげなさい」
おじいちゃん先生の指名に、良太くんが立ち上がる。
良太くんは六年生で、みんなのリーダーみたいな人だ。
確かに良太くんの大車輪は上手いけど、正直言って、私との違いはそんなにないと思う。
そう訝しみながら良太くんを見ていると、彼は徐ろに千明ちゃんに話し掛けた。
「千明、おまえ側転は出来るのか?」
良太くんの問いに、千明ちゃんは首を左右にぶんぶん振って「できないです」と答えた。良太くんは「そっか」と言って頷く。
そして、「千明、まずは側転から練習してみろ、手は大きく上に振り上げて良い」と言いながら、両手を頭の斜め上に伸ばした。
「それで、怖がらずに勢いよく手を着く事と、回った後の着地は足からすることだけ考えろ。回転中は脚は伸ばさなくていいし、体が斜めになっててもいい。ただ、体から倒れ込まないようにだけ気をつけるんだ」
良太くんはその言葉通りに、不恰好な側転を見せた。
体は思いっきり斜めに傾いているし、脚は曲がってカエルみたいだし、見た目だけで言えばその姿は格好悪いのかもしれない。
しかし、私の目にはとても格好良く見えた。
「はい、今のが良い見本です。千明さんは、良太くんの真似をするところから始めましょう」
おじいちゃん先生はパチパチと拍手をしながらそう言った。
成る程、姉のアクロバットは論外として、私の大車輪は千明ちゃんに見本として見せるには完璧過ぎたのだな、姉のアクロバットは論外として。
「お姉ちゃんもセンパイも、引き立て役になっちゃいましたね」
うるせえ虎雄。本当にお前はデリカシーが無いな。
少林寺拳法を習っていると、偶に宿題というものが出る。
拳法の宿題っていうと、特訓して次までに必殺技を覚えて来いとかそんなん? などと誤解を受けるかもしれないが、もちろんそんなんでは無い。
武道というものは剣道にしたって空手にしたってなんだって、とにかく礼と道徳を重んじるものだ。
拳法などという一見物騒な名称である少林寺拳法も、やっぱり礼と道徳を重んじる。
少林寺拳法の宿題は、学校の授業でいうところの道徳の問題みたいなもので、ちょっとした作文を書いて提出するのだ。
要領よく大人の顔色を伺う事が出来る妹気質な私にとっては、道徳の問題なんて楽勝にも程があったし、その日に出る宿題に関しては『法話』の時間におじいちゃん先生がわかりやすく教えてくれる。
法話というのは、これもわかりやすく言うなら道徳の授業みたいなものなのだが、おじいちゃん先生は子供にもわかりやすく教えるためか、紙芝居にしてお話ししてくれる。
正直に言うと、その紙芝居はお話としてはあんまり面白くない。
スペクタクルやエンターテイメントを盛り込んだ内容ではないので、とっても地味だ。
でも、私はこの法話の時間が意外と好きだった。
お話を聴くだけで、人間的に一回り大きくなれるような、そんな気分になる。
対してアホの姉は、この法話の時間がとても苦手だった。
大抵、話の終盤にはこっくりこっくり舟を漕ぎだすので、いつも姉の隣に座っている私か千明ちゃんが体を揺すって目を覚ましてやるのだ。
その日も案の定、目をつぶってゆらゆらし始めた姉の肘を掴み、私はぶんぶん振ってやった。
「はっ……法話おわった?」
微睡みから覚めた姉が、小声で話し掛けてくる。まだだよ、見りゃわかるだろ。
私とは反対側で姉の隣に座っている千明ちゃんがくすくす笑った。
情けない姉で申し訳ないよ。ごめんね千明ちゃん。
道場での練習が終わって家に帰った私達は、晩御飯を食べた後、姉妹共用の部屋に引っ込んだ。
私達の部屋は十二畳ほどの広さで、部屋の丁度真ん中にアコーディオンカーテンの間仕切りがある。
アコーディオンカーテンを閉めれば、六畳の部屋が二間できるわけだが、私達はそのカーテンを殆ど使った事がない。意外と私達の姉妹仲は良いのである。
私には、間仕切り部分を境にしてこっち側が私のテリトリーで、あっち側が姉のテリトリー、みたいな意識が何となくあるのだが、そういう細かいことを気にしない姉は、あっけらかんとした態度で私のテリトリーに浸食してくる。
なので、私の使用スペースにも、姉が買ってもらったはずのドラえもんの人形が置かれていたりする。
まあ、私にもドラえもんを可愛いと思う程度の乙女心は備わっているので、人形を置かせてやるくらいは構わないさ。
私達の部屋にはそれぞれの学習机が置いてあるが、私も姉も学習机はあまり使わず、勉強には大抵、共用の四つ足ローテーブルを使う。
その日も私達は、ローテーブルに向かい合わせで座って宿題に取り掛かった。
学校の宿題は後回しで、まずは少林寺拳法の宿題からだ。
「妹よ、今日の法話、よくわかんなかったんだけど」
そりゃそうだ、アンタは半分眠っていたからな。
まあ、完全に起きていたとしてもわかんないとか言い出す事があるのが、この姉の困ったところなのだが。
そういう時、私は姉の大好きなドラえもんに例えて、わかりやすく教えてやる。
のび太くんが宿題を忘れて、廊下に立たされたりするだろ? 怠けたら怠けた分だけ、自分の身に返ってくるって事だ、とか。
ジャイアンが映画で、友達のピンチに立ち上がったりするだろ? 友達の為に頑張るのは、尊い行いなんだ、とか。
ドラえもんに例えて話すと、姉は途端に理解し始める。
「なるほどな、やっぱりドラえもんは良いな。ドラえもんは全てを教えてくれる」
待て、教えてやったのは私だ。ドラえもんは例えに使用しただけだ。
「妹よ、アンタももっとドラえもんを観るべきだぞ。アンタはちょっと性格がわるいところがあるからな。ドラえもんを観て、人間的に一回り大きくなるべきだ」
うるせぇ、もう教えてやんないぞアホ姉。
次の練習日、私達姉妹と虎雄、それに虎雄のお母さんは、四人で連れ立って道場に向かっていた。
私達の家と虎雄の家は近所なので、交代でどちらかの家の母親が送り迎えするという取り決めになっていた。
私は、今日提出する宿題も、ドラえもんに例えて姉に教えてやったんだという話を虎雄にした。虎雄は、声を立てて笑った。
「あ〜、笑ったなぁ、とらお。アンタだってお母さんとかに教えてもらってるんだろ?」
姉は憤慨して虎雄に言った。しかし、虎雄は「なに言ってるんですか、ボクはちゃんと自分で考えてますよ。大体、宿題は親とかに教えてもらったらダメって、いつも先生が言ってるじゃないですか」と反論した。
虎雄は、まあまあ利口な少年だったので、少林寺拳法の宿題も結構得意なようだ。
「私は、親じゃなくて、妹に教えてもらってるから良いんだも〜ん」
姉よ、自慢気に言うことじゃないよ、それ。
「まあ、お姉ちゃんはそういうところが可愛いと思いますよ」
「えっ、そう? 私可愛いか? そっか、やっぱりな。私可愛いもんな」
待て、姉よ、虎雄が今言っている『可愛い』は見目麗しい女性に言う『可愛い』ではない。
小動物とかに対して言う『可愛い』だ。喜んではいけない。
「あっ、センパイも勿論、可愛いですよ」
なんだとこの野郎、それはどっちの意味だ。
私達三人の会話を、虎雄のお母さんが微笑ましそうに眺めていた。