低血圧の人は寝起きが悪いらしい、という話を聞いたことがある。
現代医学的にはいまだ証明されていないらしく、低血圧の人は常に一定の眠気を感じるので寝起きも悪くなるとか、低血圧の人は自律神経のコントロールができていないので目覚めるのが難しいとかいう話がある一方、起き抜けに低血圧の人は大抵健康体である為、寝起きが悪いというのは主観的感覚であり、むしろ高血圧の人の方が寝起きは悪いという話もあるらしい。
何が言いたいのかというと、つまり、私は低血圧もしくは高血圧な人間だという事だ。
私はとにかく、寝起きが悪い。
私が小学三年生の時、夏休みのとある朝、急な用事が出来た母は、姉と私の共同部屋に入ってくるなり私たちに向かって大声で叫んだ。
「起きなさーい! 起きて! お母さん出かけるから!」
微睡みの中で私は、うるさいなあ、お母さんが出かけるくらい別にどうでもいいよ、眠いし、と寝返りをしつつ内心で文句をこぼし、薄目を開けて姉の方を見遣った。
起きる気配を見せなかった私に対して、健康優良児である姉は、すたんっ、とアクション映画ばりの跳ね起きネックスプリングを見せた。
「どしたの、お母さん。なんか用事?」姉は寝起きにも関わらず、既にシャキッとしている。
「お母さんの昔からのお友達がついさっき交通事故にあったらしいの。命に別状は無いみたいなんだけどお母さん今からお見舞いに行きたいから、あなた達二人で留守番できるわよね」
母はとても焦った様子で姉に言い聞かせた。
姉よ、大丈夫と言え、留守番くらい楽勝だ、と私はうとうと微睡みつつ姉に向かって念じたのだが、声にはならなかった。
だって、私は寝起きが悪いんだもの。
「おお、それは大変だ! お母さんはすぐお友達のところに行ってやるべきだよ! 友達の為に立ち上がるのは尊い行いだって、少林寺のおじいちゃん先生が言ってた!」
姉よ、それは確かにおじいちゃん先生が教えてくれた法話だが、アンタに教えてやったのは私だ。
劇場版ジャイアンに例えてやらなければ理解できなかったアホの子のくせに、立派な人間のフリをするんじゃないよ。
「妹の事は私に任せてよ! 大丈夫、私お姉ちゃんだもん!」
姉は胸を叩いて誇らしげに言った。
姉よ、立派な人間のフリをするんじゃないよ。
でも、まあ、留守番程度雑作もない。姉の事は私に任せて、母はさっさとお友達のところへ見舞いに行ってやるべきだ。
私は寝起きのはっきりしない意識でそう思ったのだが、やはり、言葉にする事は出来なかった。
だって、私は寝起きが悪すぎるんだもの。
「ごめんね、朝御飯は用意してあるけど、お昼は適当に食べて。炊飯器にお米は炊いてあるから、ふりかけでもかけて食べれば大丈夫よね? それと、冷蔵庫にウィンナーがあるから、レンジで温めなさい」
「だ〜いじょうぶ。私に任せといてよ!」
一食くらいふりかけごはんとウィンナーでも、なんの問題もない。
胸を張って勢い込む姉の姿を薄目で見ながら、私は意識を手放した。
私が完全に目を覚ましたのは、母が出かけてから一時間ほど経過した時だった。
パジャマから着替えてリビングに行くと、既に朝食を済ませた姉はソファに座ってドラえもんのコミックスを読んでいた。因みに九巻。
私はドラえもんの九巻の表紙絵があまり好きではない。左下あたりに描かれた、でんでん虫の殻から顔を出しているのび太くんを見ると、なんだか不安になるというか、妙なおぞましさの様なものを感じてしまうのだ。
九巻の内容自体は結構好きなのだが。
この巻に収録されている『ぼく桃太郎のなんなのさ』とかは面白かった。
ああ、でも、第十六話の『デンデンハウスは気楽だな』はちょっと微妙だったかも。
単純に私は、でんでん虫が苦手なのかもしれない。
「おはよ、あのな、お母さんの友達がな」と、コミックスをパタリと閉じて説明を始める姉に、大丈夫、起きてたから聞いてた、と手を横に振る。
「なんだ、あのとき起きてたのか、アンタ寝起き悪いからな。そのまま二度寝したんでしょ」
からかい気味に言う姉に対して、私は何も反論できなかった。
姉の言う通りなんだから仕方ない。
「じゃあ、顔洗ってきなよ。朝御飯、あっためといてあげるから」
テーブルの上には朝食が並んでいた。姉はその朝食に掛けられたラップを取り、卵焼きとアジの塩焼きをレンジの方に運ぼうとした。
いつになく世話焼きモードになっている姉に、卵焼きは冷めてる方が好きだから、アジだけ温めてほしいと言って、私は洗面所に向かった。
私が洗面を済ませてリビングに戻ると、姉は茶碗にご飯をよそってくれた。
ペットボトルの烏龍茶も注いでくれる。なんだか至れり尽くせりだ。
母に、『私に任せといて』と言ったからには、有言実行しようと頑張っているのだろう。
我が姉ながら微笑ましいなあ、と思った私は、彼女に温かい眼差しを向けた。
「なんだその目つき、キモいぞ」姉は半目を開けて眉根を寄せた、胡乱な者を見る表情で言った。
なんだとテメエ、途端に気分を害した私は、卵焼きに醤油をぶち撒けて一口頬張り、白米をかき込んだ。
いつもより少し早いペースで朝食を食べ終えた私は、行儀よく手を合わせてご馳走様でしたと呟く。すると、自分が作ったわけでもなかろうに、「おそまつさまでした」と言って姉は食器を片付け、流しの方へ持っていった。
そして、そのまま洗い物を始める。
スポンジを手に取り、洗剤を泡立たせる姉を背後から眺めていると、姉も日々成長しているのだなあ、と感慨深い気持ちになった。
数十秒ほど、そうしてテーブルの椅子に座りながら姉の後ろ姿を眺めていたのだが、ふと気付いた私は素早く立ち上がって姉の隣に行った。
ダブルシンクの空いている方に立った私は、手伝うから皿を寄越せと姉に手を差し伸べる。
「アンタは別に休んでていいぞ。テレビでも観てれば?」
そういうわけにいくか、このままではデキる姉とダラシない妹の構図ではないか。
そんな構図ご勘弁願いたい。私は、デキる妹を自負しているのだ。
二人で競う様に食器を洗い終えた私達は一息つこうとリビングのソファに並んで座った。
姉はドラえもんのコミックスを開いて続きを読んでいる。
手持ち無沙汰だったので、私も漫画でも読もうと思い、ソファの肘掛けを掴んだ。
うちのソファには肘掛け部分に収納スペースがある。蓋になっている肘掛けを開けると、その中にはドラえもんのコミックスが並んでいる。
私はその中から適当に一冊選んで読み始めた。ドラえもんは一話完結の話が多いから、適当に選んでも読みやすいのが良いね。
ペラペラとページをめくって読み進めていると、隣に座っている姉が話し掛けてきた。
「なあ、お母さんの友達、大丈夫かな?」
大丈夫でしょ、朝のお母さん、結構慌ててる感じだったけど、命に別状は無いって言ってたし。せいぜい骨折くらいなんじゃないの。
私がそう言ってやると、姉は「むう〜」と唸る。
「骨折って痛いのかな? 私骨折したことないからわかんないや」
そりゃ痛いでしょうよ、骨が折れるんだから。
私も骨折はしたことないから正確にはわからないけど。
「お母さんの友達って、誰かな、私らの知ってる人かな?」
コミックスに目を落としながら言う姉の質問に、私は少し考え込む。
私たちの良く知っている人、例えばママ友なんかだったら名前を言うだろうし、『昔からの友達』という言い方にはそぐわない。
多分母が子供の頃からの友達だ。しかし、突然交通事故に遭って、いの一番に母に連絡してくるという事は、かなり親しい友人だろう。
おそらくソフトボール部関係だな、と私は睨んだ。
母は小学校から高校までソフトボールをしていた。その頃の友人達とは、今でも結構プチ同窓会なんかを開いている。
「あ〜、ソフトボールの友達か」
姉が納得して頷いていると、ルルルルル、と固定電話の呼び出し音が鳴った。
私と姉は一瞬、顔を見合わせる。ひとつ頷いた姉は、立ち上がって電話に向かった。
受話器を上げて応対している姉の口調から考えて、相手はやはり母だろう。
姉は頻りに大丈夫大丈夫と繰り返している。
数分の会話を終えて、姉はソファに戻ってきた。
「二時ごろには帰るから、お昼は適当に済ませといてだってさ」
姉の言葉に、私はコミックスを読みながら頷いた。
「やっぱりソフトボール部の時の友達だって。あと、その友達、右脚を骨折したみたい」
ぽすん、とソファに座った姉は、私の方に顔を向けた。
なんだよ、人の顔をじろじろ見て、なんかゴミでもついてるか?
「アンタの言った通りだったね。アンタもしかしてエスパー?」
そんなわけあるか、エスパーなんかこの世にいないよ。
「良いなあ、私も超能力とか使いたいなあ」
エスパーじゃないってば。羨ましそうに私の顔を眺める姉を無視して、私は欠伸をひとつした。
まだ、ちょっと眠かった。
暇を持て余した私達は、母を喜ばせてやろうと掃除をする事にした。
大晦日ばりの大掃除をしてやれば、帰宅した母が驚く事うけあいである。
私と姉は競い合うかの如く家中をピカピカにしていく。
何を隠そう私達は掃除が得意なのだ。少林寺拳法では、掃除は作務といって、大事な修行のひとつなのである。
二人で二時間程かけて、整理整頓と雑巾がけと掃除機がけを行なった。
見違える程綺麗に、とまではいかなかった。そもそもうちは普段から結構片付いているのだ。
時刻は十一時、さて、何しようかねえ、と姉を見遣ると、「よし、手を綺麗に洗え」と急に言い出した。
なんだよ、別に洗わなくても綺麗な手だよ私の手は、と反論すると、姉は含み笑いをしながら目を閉じた。
「今からお昼ご飯作るから、まずは手を綺麗にしろーっ!」
ええ? お昼ご飯作るの? ふりかけごはんとウィンナーでいいんじゃないかと私は思うのだが、姉としてはオムライスに挑戦してみたいらしい。
オムライスなんかどうせ失敗するだろうから、とりあえずもうちょっと簡単なものにしなよ、と説得したところ、作る料理は鶏なしチキンライスという事になった。
鶏肉は火が通ってないと怖いので、加熱なしでも食べられるウィンナーで代用するのだ。
これなら食べられないものが出来上がる事はあるまい。
姉は早速タマネギの皮をむいてみじん切りにし始めた。
ご機嫌な様子で、再放送で観たキテレツ大百科のエンディングを口ずさんでいる。
その曲を歌いながら作ったら、コロッケが出来上がるのではなかろうか。
いや、無理か、無理だな。コロッケなんて上等な料理を姉が作れる筈もない。
私にも作れない。そもそも私は料理なんかした事ないのだけれど。
姉は料理とかした事あるのだろうか、と疑問を覚えた私は、姉に訊いてみた。
「料理したこと? あるぞ〜、家庭科の調理実習で、目玉焼き作ったんだ」
姉は偉そうに踏ん反り返る。
目玉焼きくらいで威張るんじゃないよ、そのくらい私でも作れるさ。多分。
みじん切りを終えた姉は、私にご飯をよそう様に言った。
私はタッパーに二人分の白米を盛り、コンロの方に持っていく。
姉はフライパンを温めて、バターを引いた。
そして、みじん切りにしたタマネギを炒める。
姉よ、タマネギはよく炒めてくれよ。生焼けのタマネギなんてご免だからな。
それなりに火が通ったところで、白米とケチャップを投入した。よかった、それなりにまともなものが出来そうだ、と安心したのも束の間、姉はフライパンの中にお酢を入れた。
「あははは、ビネガーフェスティバ〜ル!」
おいおい! なんでお酢!? 素人の下手なアレンジは危険なんだぞ!
熱したフライパンに投入されたお酢は蒸気となってあたりに広がった。
酸っぱい、蒸気が酸っぱい。鼻がつーんとする、明らかに入れ過ぎだ。
姉に指摘すると、「そう? じゃあご飯足そう」と言ってタッパーにもう二人分のご飯を盛り、フライパンにそれを全てぶち込んだ。
「ご飯が増えたからケチャップ足りなくなったな。ケチャップ追加。あと、ペッパーも入れとこ」
待て、姉よ、それはペッパーはペッパーでもチリペッパーだ! 胡椒じゃない、赤いだろうが! 私の制止は間に合わず、姉はチリペッパーの瓶の底をとんとん叩きながらライスにかけた。
辛いよ、絶対辛いよ。
「あ〜、ウィンナー切るの忘れてた。まあ良いや、手でちぎって入れちゃえ」
ぶちっぶちっと姉がウィンナーをちぎる音を背後に聴きながら、私は固定電話の方へ歩いて行った。
そして、虎雄の家に電話をかける。
電話先で応対に出た虎雄のお母さんに、美味しい鶏なしチキンライスがあるので、虎雄と一緒に食べに来ませんか、と告げた。
電話してから然程時間を置くことなく、虎雄と彼のお母さんはウチにやってきた。
虎雄のお母さんは、「二人でお留守番なんて、偉いわね」と褒めてくれるが、私ももう小学三年生だ。留守番程度で褒められても困る。
彼女は、御招待のお礼だと言って、片手にさげた竹かご製のランチボックスを渡してくれた。中身はサンドイッチらしい。
やった! これで、少なくとも昼ご飯抜きは免れたぞ。
私と姉は、どうぞどうぞ、と虎雄たちをリビングに招く。
四人掛けのテーブルには、既に皿に盛られた鶏なしチキンライスが並べられていた。
虎雄のお母さんに頂いたサンドイッチをテーブルの真ん中に置き、各々席に着く。
「二人とも、料理なんか出来たんですね」
「こら、失礼よ虎雄。二人共、もうお姉さんだもんね。料理くらいできるわよね」
訝しげに呟く虎雄に、彼のお母さんは注意する。
だが待ってほしい、この料理を作ったのは姉だ。私はちょびっと手伝っただけだ。
具体的にいうとご飯を盛っただけで、味付けには関与していない。
「へえ、お姉ちゃんが作ったんですか」
「そうだ。遠慮なく食べて良いぞ、とらお」
私達四人は、いただきます、と手を合わせる。
他の三人がチキンライスを食べようとするなか、私は一人サンドイッチに手を伸ばした。
あ、美味しい。シンプルなタマゴサンドだけど、マスタードがきいてて食欲をそそる。
虎雄のお母さんは料理が上手いなあ。
途端に私は、虎雄母子を食事に招いた事を申し訳なく感じた。
すまない、姉が大量に作ったとんでもチキンライスを二人で処理する自信が無かったんだ。
「あら、ちょっと変わった味だけど、美味しいわ」
虎雄のお母さんが、チキンライスの味を褒めた。おそらく、お世辞だろう。
「ちょっと酸味があるわね、レモンでも入れたの?」
「違うよ、お酢いれてみたの」
姉は自慢げに言った。お世辞に対してそんな自信満々に返すんじゃないよ。
「成る程、お酢を入れるとこんな味になるのね。唐辛子の辛味も良いアクセントになってるわ。酸味と辛味のバランスがとれてるから、夏にはぴったりの味ね」
「うん、美味しい」
さらに虎雄母子が賞賛すると、姉はますます有頂天になった。
それはちょっと甘口採点過ぎやしないだろうか、味はチリペッパーのせいで辛口の筈だが。
今更、味が気になった私はスプーンで一掬いして、チキンライスを頬張る。
むう、確かに美味しいぞ、これ。
姉は私に向かって満面の笑みで、「どうだ?」と訊いてくる。
素直に答えるのは癪だったが、嘘をつくのもどうかと思うので、美味しいよ、と言っておいた。
「だろ? あはは、私、料理の才能あるかも!」
姉よ、あまり調子に乗ってはいけないぞ。最初、お酢は明らかに入れ過ぎだった。
ご飯を足して量を調整したのは、私のアドバイスのおかげだという事を忘れないでもらいたい。