プロローグ
その怪物は、充血した双眸を光らせ、こちらを伺っていた。
一フィールあろうかというその両目をよくみると、膿がはびこり、黒蠅たちが飛び交っている。緑色の瞳をぎょろつかせ、こちらをじっと見ている。鋭い眼光は、岩石をも貫き通すほどの威圧をあたえる。
「で、契約というのは?」
ゴドル・オルートス大公(公爵(デュクス))は、その醜い目を直視することは出来ず、ひとまずそう尋ねた。
「契約というのは何ゆえ?」
しかし、その怪物はなにも答えなかった。
巨大な牛の如くその顔を突き出し、ひたすら涎を垂らしている。眼前にいる小さい男を品定めでもするかのように、嘗め回し、褐色の皮膚の毛を逆立て、口元に溜めた泡を循環させている。ゴドル・オルートスはその悪臭に耐えられなかった。
これが元来伝承された魔物の姿なのか? これが世に伝え聞く邪悪の化身なのか?
とてもこの世のものとは思えない。
その異形のかたまりは生気のない蛇のような気味悪ささえ感じさせる。顔の大きさは大公のそれをはるかに越え、全身となると恐らくは五十フィールはあろう。
背中には大木にも似た巨大な翼が生え、手足は黒ヒョウのような猛獣を思わせる。この巨大な怪獣は、おそらく人類を支配した畏敬の世界から飛び越えてきたのだろう。悪夢からの使者だろう。ゴドルはこれが幻覚なのだと悟った。
しかし、ここコーカサス火山の麓において、灰が降り注ぎ、燃え上がった溶岩が激烈に噴出し、空は夕闇に覆われ、暗闇と朱色が混じり合っている様は、現実としか云いようがなかった。
大公は意識を取り戻し、この山岳へ辿り着くまで運んできた荷物を馬車から降ろした。麻縄で括られたその荷物を紐解くと、中にはひとつの長剣があった。
長さは三フィール、重さは3・5斤。
ゴドル大公は前のめりになりながら、その剣を怪物の前に突き出した。
暗黒の支配の地ではその輝きは、一層際立ち、銀色に輝くその刃先は溶岩の明るさを受け、燃え上がっていた。
悪魔は、それをじっと見ていた。
ゴドル・オルートスは大声で、「こ、これが、魔物を切り捌く、オーエンの剣だ。ここに持ってきた! さて、条件とやらをお聞かせ願おうか」
ゴドル・オルートス大公にとってそれは長い時間に感じられた。
この対峙が始まって以来、眼前にいる魔物の口が突然開き、血のような赤い口内へ自分が飲み込まれるのではないか、鋭い牙により身が引き裂かれるのではないか、という思いが常に先行していた。
コーカサス火山のこの一角に、膨張された空気が突風のように巻き上がった。大公の足元にある雑草も靡(なび)き、背にしている黒く焦げた樹木たちも騒ぎだした。怪物も物凄い形相でこちらを睨んでいる。
大公は身の縮む思いを否めないでいた。
魔獣は静かに口を開いた。
オマエノ、ヨウキュウハワカッタ・・・ワレワレト・・ケイヤクヲ、ムスボウトイウノダナ・・・
「そ、その通りだ・・・」
大公は言葉を絞り出した。
すると、地震のように大地が揺れ、突風が巻き起こり、大公の乗ってきた荷馬車さえもひっくり返った。砂塵が吹き上がり、灰が飛び交う。ゴドル大公は、砂塵に目を潰されそうになる。
魔獣の巨大な耳が突然立つ。
そして背中から皮膚が寄せ集まった両翼が飛び出した。その両翼は寝起きの赤ん坊のように無邪気に羽を広げ、激しく身震いした。悪魔は顔を傾けたかと思うと、両足を屈伸させ、その勢いで、天空に飛び立った。
ゴドル大公は目を伏せた。
天空に舞った悪魔は両翼を蝙蝠のようにばたつかせながら、大公をじっと見ている。
そして、その巨大な黒塊は、地獄の入り口のようにぱっくり割れた暗闇の天空へ、消えていった。
たった数刻の出来事だったが、生気をすべて吸い取られたような感覚に大公は陥っていた。恐怖に打ちのめされ、その場から動くことも出来ない。
残された大公は茫然となった。
そして、笑い出した。
「私は勝った・・」
カールスの神々よ・・
ロマリアの民たちよ・・・
私は勝ったのだ!
すべてのロマリアの国民に捧げる・・