一本のダークな色の
無機質な白い床に描かれた奇怪な紋様。その上に、試験管を悩ましげに見つめながら撹拌する白衣の男、露出の多い服を着た褐色肌で口元が布で隠された女、ギョロりと大きな目で魔導書を持つ色白の男、ローブに身を包みフードで顔を隠す女――などなど、数多の怪しい人物がそこにいた。そして彼等彼女らに囲まれた紋様の中心に、聖母のような微笑みを浮かべる女がいた。
「ありがとうございます。これでようやく、カルデアの皆様を苦しみの牢獄から解き放つことが出来ますでしょう……」
尼服姿の女は慈悲深く、恍惚と笑う。
「さあ、宴の始まりですよマスター?」
◇
「はあ、はあ……」
肩で息をしながら、徐々に呼吸を落ち着かせていく。右見て左見て、追っ手がまだ追いついていないことを確認し、とりあえず安堵の息を漏らす。
人類最後のマスター、藤丸立夏は今――追われていた。何に追われているのかといえば、己が使役するはずのサーヴァントにだ。語弊のないようにいえば、彼は十把一絡げの魔術師ではないのでサーヴァントを"使役する"などとは少しも思っていないが、そこは言葉の綾である。
どうしてこうなったのか、そう頭を抱えるが心当たりは微塵もない。謀反、というわけでもないと思う。どのサーヴァントとも関係は良好なはずだ。そも、今は人理が燃え尽きるかどうかという瀬戸際である。悪に
「こんなところにいたのね、子イヌ!」
「エリちゃん……!」
迂闊だった。いつの間にか前方に、エリザベート・バートリーが立ちはだかっていた。背中には壁。どう考えても、逃げ切れる状況ではなかった。
「ダメじゃない、逃げたりなんかしたら。子イヌは私のモノなんだから、大人しく飼われてなきゃ!」
「どうしたんだよエリちゃん……! 今日の君は……いや、今日のみんなはちょっと変だよ! 俺はエリちゃんの物じゃないだろ!」
「ふうん、私に口ごたえするのね……」
――こめかみを、鋭い何かが掠めた。壁の一部が崩れ、倒壊する音が響く。数秒して、それが竜骨槍であることに気づく。
「な……っ!」
「言うこと聞かない子には、お仕置きが必要よね……?」
ハイライトの消えた瞳。歪む口角。それはさながら、獲物を狩ろうとする竜のようで。こちらに手を伸ばすエリザベート。スローモーションのような視界の中、立夏は、視界の端から何かが飛んでくるのを見た。それが牛若丸だと気づいたのはエリザベートが吹っ飛んだ後のことであった。
「大丈夫ですか、主どの!」
「う、牛若丸!?」
「話はあとです、一先ず逃げましょう!」
「えっ」
「待ちなさい! 逃がさないわよ子イヌー!」
ひょい、と立夏は軽々抱え上げられ、牛若丸の八艘飛びにより遥か遠くのマイルーム、その前まで跳躍する。
「……ふう、何とか逃げられましたね」
「そ、そうだね……俺の体が少しも大丈夫じゃないけど……」
抱えられながらとはいえ、唐突に時速数百キロという勢いで跳躍したのだ。体に負荷がないはずがない。「とりあえず、部屋に入ってお休みください」と、牛若丸が立夏を
シュウウ、と近未来的な音を立てて扉は開いた。
「うう、運んでもらって悪いね……」
「いえ、貴方に負担をかけてしまったのは私の未熟さ故。お気になさらないでくださいな」
「いや、助けてもらったんだし気にしないで……あーもう、みんなどうしちゃったのかな……」
昼下がり、食堂でお茶をしていた時に一部の女性サーヴァントがおかしくなった。立夏に攻撃的であったり、気味が悪いほど好意的にくっついてきたり。どさくさに紛れて退避したが、食堂は今もしっちゃかめっちゃかかもしれない。原因――と呼べそうなものに心当たりはないが、あの時――何か変な香りがしたような……?
そんなことを考えている間に、牛若丸は立夏をベッドに優しく寝かせた。未だグロッキーな気分を変えようと、彼は目を閉じる。
「ほんとありがとね……ごめん、ちょっと疲れちゃったから、一眠りするわ……」
「それはいけませんね、今すぐ寝るべきです! そうだ、どうせならより効率的に寝た方がいいでしょう」
「効率的……?」
「ええ」
人肌の温もりを感じた方が、安心して眠れますよ――そういって、牛若丸はベッドへと潜り込んだ。
「え……っ!?」
「僭越ながら私が、湯たんぽ代わりに貴方を暖めましょう――
「牛若丸……!?」
グロッキーな気分は、吹き飛ばさざるを得なかった。隣に潜り込んできた牛若丸から離れようと、体を動かす――が。
「駄目ですよ、体調が優れないのですから……大人しくしていてください? 兄上は働き者ですから……休める時に休まなければ勝てる戦も負けてしまいます。まあ、私も人のことは言えませんが」
彼女に背後から強く抱き締められ、引き止められる。もがくことは出来るが、サーヴァントの腕力にはとてもじゃないが敵わなかった。そしてこの部屋はオートロックである――中から開けない限り、外から開ける手段はほぼない。助けが来ることはありえない。
「違う……違うよ! 俺は、源頼朝じゃなくて藤丸……ッ!?」
「……何を言っているのですか?」
ぐぐ、と抱き締める力が強くなる。息が、苦しくなるほどに。
「兄上は兄上です。それ以外の誰でもないでしょう……? ああ、少し記憶が混濁しているのですね……ふむ、接吻でもすれば、治りましょうか」
「ひ……ッ!?」
体を無理矢理反転させられ、彼女の目を見てしまった。普段の凛々しい瞳とは違う、虚ろな、ここではない何かを見ているような――立夏ではない、誰かを見ているような目。
「大丈夫です。ふふ、これでも私は百戦錬磨の牛若丸なので……こちらでも、良い戦をしてみせましょう……」
「やめてくれ……! 牛若丸……ッ!」
顔を抑えられ、あと数センチで唇が触れようかというその時。ゴーン、という強い衝撃音が聞こえた。目の前から。同時に、聞き慣れた声と荒い息が耳に入った。
「はあ、はあ……大丈夫ですか、先輩!」
「マ……マシュ!? どうしてここに……!?」
「先輩ならきっとここに戻ってくるだろうと推測し、シャワールームの方に隠れてました! 誰かと入ってきたのは分かったので少し様子を伺っていたのですが、牛若丸さんの様子がおかしかったので飛び出し――乱暴ですが、気絶してもらいました」
「ありがとう――助かったよ」
マシュがいなければどうなっていたことか、と立夏。それを聞いて、マシュは照れたように笑った。
「やっぱりマシュが、一番頼れる相棒だよ」
「ありがとうございます、先輩――!」
「それにしても、何でみんなおかしくなっちゃったんだろう……うーん」
ダヴィンチちゃんやドクターロマンに相談したいが、外の様子がわからないうちに出歩くのは危険だ。話が通じるか不安だが、まずは牛若丸から話を聞いて――その後に動くのがいいか、とこれからの計画を立てた。
「牛若丸さん、起きたらまた暴れ出してしまう可能性もありますよね――申し訳ないですが、拘束させてもらいましょうか」
「そうだね」
立夏が頷くと、マシュは部屋に落ちていた縄で手際よく牛若丸を拘束した。サーヴァントであるが故、やわな拘束じゃ簡単に外されてしまうので、何度も強く強く厳重に厳重に縛っているようだった。
「…………ん……?」
何か今、おかしくなかったか……? そう思ったが、既に手遅れだった。マシュは、振り返ってベッドに飛び込む。
「これで二人きりですね、先輩?」
「ま、まさかマシュまで……!?」
今まで見せたことのないような艶やかな表情。色っぽい微笑みと共に、立夏を組み敷く。
「先輩、好きです……! 好き好き好き、大好き。炎に巻かれた私に、手を伸ばしてくれた、あの時からずっと――!」
「マ――ひゅ――!」
マシュの手は立夏の首へと伸びていた。強く優しく、さながら掌の中の小動物でも潰すように――慈悲深く、力を強めていく。
「だから、今度は私が先輩を助けます。サーヴァントとして、先輩を――」
息が苦しい。喉が痛い。呻いているうちに、徐々に思考もできなくなっていく。マシュの声が聞こえなくなった頃には、立夏は意識を手放していた――
「初回ですから、こんなものでしょうか」
尼服の女は呟く。その言葉に、試験管を撹拌する長髪の男が頷いた。
「そうですね、初回としては得られた成果も大きかったですし、こんなものでしょう。ただ、このように派手にやってしまっては目立っていけない。これを繰り返していては、すぐに気づかれてしまう」
「では今回の結果を踏まえて、また近いうちにこの宴を開きましょう。やはり、一度につき数人が限度でしょうか……ゆくゆくはカルデア全域に張り巡らせたいところですが……」
「このまま
試験管の男と数人が部屋から消える。少し広くなってしまった部屋で、女は腰をくねらせた。
「ああ……なんて素敵なのでしょう。これからのことを考えるとそれだけで胸が高鳴り、昂ってしまいます……ふふ。どうか、ゆっくり楽しんでくださいね? ――マスター」