「美奈と寝たんでしょ」
屋上から眼下の崩れたビル群を見下ろしていると、後ろから冷たい声が届いた。
振り返ると、煤で頬を汚した東堂遥(とうどう はるか)が立っていた。
吹き付ける風で、彼女の後ろで括られた髪が大きくたなびいた。
「絵梨花とも、由良とも、京香とだって。全部知ってるよ」
僕は答えに困って、彼女の言葉の続きを待った。
「四人とも、死ぬの?」
「それは分からないけど、次の作戦行動に組み込まれてる」
彼女たちは、首都奪還作戦の尖兵に選ばれている。
「そう……」
彼女の暗い瞳が、僕を見る。
「もし私が次の作戦に志願すれば、私とも寝てくれるの?」
「……遥。僕たちは兄妹なんだよ」
「それが、なんなの」
遥の視線が絡みついて離れない。
開いた瞳孔が、瞬きする事もなく僕を注視している。
「このコミュニティにいる男は兄さんしかいない。近親婚を禁止してた国だってもう残ってない。兄妹なんて鎖、いまさら何の意味があるの?」
遥の足が一歩、僕に向かって踏み出す。
「それに私は」
彼女の揺れるポニーテールの向こうで、胞子が舞っていた。
「世界がこんな事になっちゃう前から、ずっと兄さんのことが好きだったよ」
辺り一帯を胞子が舞う中、遥は真正面からはっきりと好意を告げた。
「私、ずっと我慢してたんだよ。でも、もう良いでしょう? だって――」
空から舞い降りてくる胞子が、大雪のように数を増す。
「――もう、世界なんて殆ど滅んでるんだから」
遥の肩越しに、空を飛ぶ花が見えた。
白く、このビルよりも大きい花だ。
高度二百メートルほどを巡航するそれを、僕たちは飛行船と呼んでいる。
それがばら撒く胞子は、災いを起こす。
「……遥。中に入ろう。胞子が強くなってきた」
彼女の手を取って、歩き出す。
「誤魔化さないでよ。私と寝てくれないの?」
僕は少し考え、それから目を閉じた。
「いいよ。添い寝しようか」
「兄さんはすぐにそうやって私を子供扱いする」
遥が頬を膨らませる。
そういう仕草が子供っぽいのだけれど、指摘すると不機嫌になってしまいそうだったので、僕はただ笑って繋いだ手を引っ張った。
最後に屋上を振り返ると、雲間から無数の飛行船が降りてくるところだった。
はじめて飛行船が下りてきたのは、僕らが小学生の時だった。
空に咲いた花を、人々は物珍しそうに見上げていた。
それがばら撒く胞子は雪のようで、みんな呑気に写真を撮っていた。
紛れもない死の合図だったというのに、誰も気づかなかった。
少なくとも僕たち男にとって、それは死の象徴だった。
胞子がもたらす災いは、男だけを狙って命を奪う。
不思議と女性は狙われない。
と言っても、世界人口の半分は男で構成されていて、男女が一組になってはじめて子孫を残せるのだから、世界そのものが死滅しようとしていた。
最早国家という枠組みは崩壊し、コミュニティと呼ばれる数百人単位の集落で分かれて細々と生き残っているのが実情だ。
そして、今のコミュニティで生き残っている男は僕一人だった。
だから、こんな嫌なことだって我慢しなければならない。
「亜希(あき)くんは可愛いね」
僕を後ろから抱きかかえるように包む彼女は、そう言いながら僕の身体をゆっくりと触っていた。
西村明美。二十九歳。
工学部出身で、彼女は生き残った非常用発電機の操作方法や、非常用バッテリーに汎用コンセントを繋ぐ電気工事などに詳しい。
つまり、このコミュニティに必須の人材であり、支配層に君臨していた。
「腰も細くて、女の子みたい」
彼女の腕が、腹部を撫で回す。
僕は黙ってそれに耐えていた。
耳元に彼女の熱い吐息がかかる。
「ねえ。今日の夜は空いてるの?」
「……今日は、静香さんに呼ばれています」
「そうなんだぁ。残念」
明美さんはそう言いながら、そっと服の下に手を潜らせてくる。
冷たい手が、ゆるりと蠢いた。
「……あの、お腹すきました」
「そうなんだ。お姉さんもお腹すいてるんだ。目の前に美味しそうな食事があってね。ずっと我慢してるの」
背後で明美さんが舌なめずりするのがわかった。
腹部を撫でていた手が、そっと下におりてくる。
「……ッ……あの、明美さん」
その指が、ベルトに触れる。
金属の擦れ合う音が小さく響いた。
「なぁに?」
彼女の荒い息が耳にかかる。
そっと明美さんの手を止めると、途端に後ろの気配が変わった。
「なに? 抵抗するの? 私に?」
低い声だった。
「お姉さんショックだなぁ。お仕事やる気なくなっちゃうかも」
「あの、ちが、ぼく、お腹が減って、ご飯、食べたくて」
「ちょっとくらい我慢しようよ、ね?」
明美さんは、どこか調子を外した明るい声でそう言った。
そこにノックの音が響く。
「兄さん、いますか? 食事です」
遥の声だった。
明美さんの舌打ちの音が届く。
「あーあ。時間切れ。行っていいよ」
「あの、ごめんなさい」
明美さんの膝の上から立ち上がり、小走りでドアへ向かう。
廊下に出ると、遥が泣きそうな顔をして待っていた。
「嫌なことされなかった?」
「ううん。何も。雑談してただけだよ」
にっこり笑うと、遥も安心したように笑った。
遥と並んで、食堂へ向かう。
いつも通り、そこにはコミュニティの支配層が並んでいた。
「亜希くん。こっちへいらっしゃい」
その中で、コミュニティのリーダーである静香さんが僕を手招きした。
隣に座ると、五十歳を超えた彼女はやや疲れた笑顔を見せて、僕の腕を撫でた。
「いつ見ても可愛いねえ。孫がいたらこんな感じなんだろうね」
そう言いながら、彼女はどこか粘着質な撫で方で僕の腕を触り続ける。
その触れ方は孫に向けるようなものではなく、明らかに性的な意味が混じっていた。
おぞましさに寒気を感じながら、作り笑顔を浮かべる。
僕は、この人達の可愛い人形でなければならない。
お気に入りだからこそ、妹の遥に良いものが食べさせてもらえる。
「スープが冷めてしまいますよ」
向かいに座った遥が無表情に言う。
静香さんはにこにこと笑いながら、そうねえ、と僕から手を離した。
「では頂きましょう」
みんなが一斉にスプーンをとり、食事を始める。
僕たちのそれは、缶詰のような保存食が多い。
劣化しづらい粉スープと合わせたそれは豪華とは言えないが、お腹を満たすのには十分な量だった。
コミュニティの下位に位置する女性たちは、満足な食事が与えられていない。
「ちょっとすっぱいねえ。そろそろスープは限界かもしれないねえ」
静香さんが溜息混じりにそんな事を言う。
僕もスープを食べてみたけれど、あまり良くわからなかった。腐ってはなさそうだけれど、あまり状態が良くないのかも知れない。
そのまま食事を終えると、すぐにまた静香さんが僕の腕を握ってきた。
「亜希くんは、ここの生活に不便を感じていないかい? なにか嫌なことをされたりしていないかい?」
僕はいつもの作り笑顔で、首を横に振る。
「静香さんのおかげで、何一つ不自由ない生活をさせて頂いています」
「そうかい?」
静香さんが穏やかに笑う。
その時、誰かの吐く音が聞こえた。
見ると、斜め向かいの席で食料管理を担当している花子さんがテーブルの上で吐き出しているところだった。
「おい、どうした」
誰かがすぐそばに駆け寄っていく。
同時に、僕の手を握っていた静香さんの手が震え始めた。
視線を向けると、どこか青白い顔をした静香さんが僕を見ていた。
「あ、亜希くん……」
「……静香さん?」
震えが大きくなり、視線が定まらなくなっていく。
「静香さん!」
声をあげると、花子さんに注意を向けていた周囲の人たちがようやく異変に気づいた。
「リーダー! 大丈夫ですか!」
口の端から、小さい泡が漏れ出る。
震えが手だけでなく、全身に広がっていく。
その異常な様子に僕は椅子から立ち上がり、思わず一歩下がった。
「おい!」
誰かの怒声。
声のした方に目を向けると、更にもう一人誰かが嘔吐したところだった。
「食中毒か?」
「いや、これは……」
三人目の嘔吐が始まる。
既にほぼ全員が顔色を悪くし、どこか調子が悪そうな様子を見せていた。
「兄さん!」
不意に遥が僕の手を取った。
「逃げるよ!」
彼女はそう言って、僕の手を引っ張るように走り出す。
「遥?」
後ろから悲鳴が聞こえた。
誰かの昏倒する音。
「毒、盛ったの」
前方を走る遥が、泣きそうな顔でいう。
「逃げよう。こんな所、ダメだよ。おかしくなっちゃう」
僕は呆気に取られて、前を走る遥を見つめる事しかできなかった。
毒?
遥が?
暗い階段をおりて、そのまま一階を目指す。
途中ですれ違う女性たちが、怪訝な顔で僕たちを見ていた。
「遥、どこへ行くつもり?」
「わかんない!」
悲鳴のような声だった。
泣き叫ぶように顔をくしゃくしゃにして、彼女は走り続ける。
「こんな所、もういやだ!」
入り口に立っていた見張りの女性たちが、僕を見て驚いた顔をあげる。
「亜希さん? ちょ、ちょっと、一体どこへ――」
制止の声を無視して、外の世界へ飛び出す。
胞子が雪のように舞っていた。
「ずっと遠くまで行こう」
駆けながら、遥が叫ぶ。
「二人だけで生きていこうよ!」
空には、花が咲いている。
白い花だ。
「こんな世界、私、どうでもいいもん!」
白い花はたしか、死と再生を意味していた気がする。
なんという皮肉なのだろう。
遥は、止まらない。
降り注ぐ胞子が、視界を奪っていく。
「兄さん!」
ようやく足を止めた遥が、振り向く。
それから、唇が軽く触れ合った。
遠くで災いの音がした。
もう、どうでもいい。
どうせ、この世界は壊れてしまう。
滅ぶ世界の中で遥の体温だけが確かに存在していて、僕の身体を温めてくれた。
満開の空の下、今日も世界はゆっくり死んでいく。