「小さい頃は、こうやってよく手を繋いだよね」
割れたアスファルトの上を進みながら、遥が懐かしそうに呟いた。
地面の割れ目からは、新たな生命が顔をのぞかせている。
「遥が幼稚園くらいの時かな?」
答えながら、ボクはアスファルトの間から生える植物たちを注意深く観察していた。
ヨモギは食べられるし、止血や痛み止めにも使える。
あらゆる物資が経年劣化していく中、こうした自然の恩恵は年々無視できなくなってきていた。
「うん。引っ込み思案な私を、兄さんは色々なところに連れていってくれた」
いまは反対だった。
遥がボクの手を引っ張って、前を歩いていた。
彼女の背中を、ぼんやりと見つめる。
あんなに小さかった後ろ姿が、いつの間にか大きくなっていた。
今にも崩れてしまいそうな世界で、遥は立派に成長した。
「兄さんは」
遥の声が低くなった。
「だんだん私とは遊んでくれなくなったよね」
あまりにも遥がボクにべったりだったからだ。
寝る時も、登下校の時も、お風呂の時だって、遥はボクから離れようとしなかった。
父も母も、遥のことを心配していた。
妹が自立できるように、ボクは自然と距離をとるようになった。
「私はね、ずっと寂しかったよ」
知っていた。
知らないはずがなかった。
家の中では、いつも遥の視線がまとわりつくのを感じていた。
リビングでテレビを見ている時だって、遥の目は画面ではなくボクに向けられていた。
「私が悪いのはわかってる。物事には限度があって、ちょっと普通じゃなかったのかなって今は思う」
でもね、と遥は言葉を続けた。
「本当に寂しかったの。兄さんが遠くに行ってしまったような、ずっとそんな気がしてた」
肺腑の奥から、ゆっくりと息を吐き出す。
辛い思いをさせているのは知っていた。
けれど、必要なことだと思っていた。
不意に遥が足を止める。
振り返った遥は、唇の端を釣り上げていた。
「だからね、世界がこんな風になった時、嬉しかったの」
強い風が吹いた。
遠くから胞子が流れてくる。
胞子の向こうで、遥は微笑んでいた。
「兄さんは、また私を見てくれるようになった。いつも気にかけてくれるようになった」
ずい、と遥が距離をつめてくる。
「世界がこんな風にならなかったら、きっと兄さんは冷たいままだったよね。私を突き放そうとするんだ」
すぐ目の前に、遥の目があった。
透き通るような瞳だった。
僅かに広がる瞳孔に、自然と視線が吸い込まれていった。
「冷たくしていたわけじゃないよ。ただ、心配だったんだ。あの頃の遥には、自主性がなかったから」
まるで親鳥に引っ付いていく雛鳥のように、遥はボクにべったりだった。
事実、遥にとっての親はボクしかいなかったのかもしれない。
父と母は悪い人ではないけれど、愛情表現の薄い人だった。
幼少期の遥にもっとも長く接していたのは、多分ボクだった。
「一緒だよ。そこに思いやりがあろうとなかろうと、兄さんは一度、私を突き放そうとしたでしょう」
遥の瞳に、怒りの色はない。
そこにあるのは、深い哀しみだけだった。
「このまま緩やかに滅んでいくんだって思った。兄さんに突き放されてしまうのと、世界が滅んでいくのなんて変わらないもの。なら、兄さんが私を見てくれる最期のほうがいい」
けど、と遥は目を伏した。
「結局、滅ばなかったね。男の人だけが次々死んじゃって、生き残った兄さんに色目を使う女の人ばかりになっちゃった」
遥はそう言って、空を見上げた。
釣られて上空を見上げると、見慣れた白い花が空に咲いていた。
花の色は白いままだ。
他の色に染まる様子はない。まだ大丈夫なはずだった。
「私ね、我慢できなかったんだ」
空を見上げたまま、遥は懺悔するように言った。
「コミュニティの人たちは、兄さんを道具みたいに扱ってた」
道具。
多分、その通りだった。
ボクは人間として扱われていなかった。
「たった一人の男の人になった兄さんを傍に置くことは、権力を誇示する分かりやすい方法になってた。貴金属も紙幣も価値を失ったいま、兄さんは王冠に似た役割を押し付けられていた」
支配層以外の人に気軽に話しかけることは許されなかった。
まるで、ペットのようだった。
「性欲とか支配欲がぐちゃぐちゃになって。汚いものがいっぱい兄さんにぶつけられて。あそこにいると兄さんが壊れていく気がしたの」
だから、と遥は掠れる声で言った。
「殺しちゃった」
目の前の小さい身体を抱きしめる。
嗚咽が聞こえた。
「ごめん」
手を汚させてしまった。
綺麗な手を持つ人なんて、きっと今の世界にはいない。
けれど、遥はまだ人殺しを経験していなかった。
その一線だけは超えないようにしていた。
「私は」
しゃくり上げる遥が、腕の中で震えていた。
「後悔してないよ」
遠くで爆発音がした。
遥を抱きしめたまま、音のした方を振り返る。
黒煙が見えた。
「兄さん?」
遥も顔をあげて、泣き腫らした目で黒煙を凝視していた
首都奪還作戦だ。
生き残った多くのコミュニティが継続している軍事行動。
ボクが知る限り、計六つのコミュニティがこれに参加している。
そして、これまでに軍事的勝利を得たことはなかった。
「また、人が死んだのかな」
食料は日に日に消費されていく。
各コミュニティが貯蔵している食料は、目減りし続けていた。
首都奪還作戦の本当の目的は、人員の整理にある。
地域一帯の食料の接収が完了したコミュニティは、どこも似たような末路を辿っていた。
抵抗運動と称される多くの軍事行動は、支配層の権力の誇示と食い扶持の削減以外の意味を持たない。
空に咲く花が落ちるのと同時に、多くの人命が失われていく。
「胞子が、強くなってきたね」
風に流されてくる胞子の量がみるみる増えていく。
首都奪還作戦で加えられた攻撃に対して、報復準備が始まったのだろう。
災厄は基本的に男性を標的にするが、報復行為では例外的に性別が関係なくなる。
「災厄に襲われる時は、苦しいのかな」
脳裏に、京香の声が甦った。
首都奪還作戦に参加する女性たちは、最後に男性と謁見する権利が与えられる。
随分と安上がりな報酬だった。
けれど、コミュニティが志願者に差し出せる報酬はそれくらいしかない。だからこそ、支配層の人たちは生き残った男性を希少物として扱い、その価値を高めようとする。
美奈。絵梨花。由良。京香。
最後に会った彼女たちは、それぞれの不安をボクに零していた。
泣いていた子もいた。
特に、由良はまだ十二歳の子供だった。
コミュニティは殆どの場合、長期的な視点では運営されない。
独自の知識を持たず、他のコミュニティとの衝突でも使いみちのない子供は足手まといでしかなかった。
死の戦場に送り出される彼女たちを、ボクはずっと見送ってきた。
「亜希くんは男の子だし、きっと辛いことがいっぱいあると思う。でも。生きていればきっと楽しいこととか嬉しいことも、いっぱいあると思うんだ。だから、諦めちゃダメだよ。私の分まで長生きして、いつか私のお墓作ってよ」
出兵の前日に笑顔でそう言ったのは、果たして誰だっただろうか。
随分と前の出来事で、すでに記憶は曖昧だった。
忘れてしまうくらい、多くの人の背中を見送ってきた。
みんな、死んでしまった。
「兄さん?」
二度目の爆発音があがった。
ボクは抱きしめていた遥を離して、黒煙のあがる方へ歩き出していた。
「遥」
歩きながら、後方の遥を呼ぶ。
「助けに行こう」
何もかもが、うんざりだった。
死地へ向かう人たちの背中を見送るのは、もう耐えられなかった。
「ダメ! 報復の災厄が降りてくる!」
遥がボクの腕にしがみつき、叫び声をあげた。
それでもボクは足を止めなかった。
名前すら覚えていない誰かは、お墓を作って欲しいと言った。
ボクは一体、いくつのお墓を作れば良いんだろう。
名前も人数も、正確にはもうわからない。
ここ数年で死んでいった人は、あまりにも多すぎた。
「大きなお墓を作ろうと思うんだ」
名前のないお墓をつくろう。
誰もが見上げるような、無銘のお墓を。
「支配層も、末端も関係ない。大人も子供も関係ない。男も女も関係ない。そういうお墓を作ろう」
たった一つあれば、きっとそれだけで十分だった。
「誰もが平等なお墓だ。生前に、みんなでそこに入ることを誓う。誰も切り捨てない、見捨てないことを誓う」
しがみつく遥に視線を向ける。
遥は驚いたようにボクを見上げていた。
「兄さん、もしかして……」
「遥。ボクたちでコミュニティを作ろう。たった一つのお墓に集う人たちを集めよう」
遠くない未来、人類は滅ぶだろう。
きっと、その運命を覆すことは難しい。
けれど、死に場所は自分で決めることが出来る。
「あたらしい、コミュニティ……」
遥が呆然と呟く。
ボクは、十六歳になった。
遥は、十五歳になった。
身体は大人になりつつある。
「ボクたちはもう、子供じゃない」
当たり前のように大人たちに支配される必要はない。
死にいく人たちの背中をぼんやりと見ている必要は、どこにもない。
「遥。一緒についてきてくれないかな。支配されるのは、やめてしまおう」
「私は――」
遥の透明な瞳が、ボクを見上げていた。
掠れた声が、力強く調子をあげていった。
「――いつだって、兄さんの後をついてきたよ。それはこれからも変わらないし、できれば隣を歩いていきたいと思ってる」
三度目の爆発音がした。
遥の手をとると、彼女も力強く握り返した。
最後に一度、確認するように頷きあう。
それから、ボクたちは走り出した。
割れたアスファルトの上を飛び越えていく。
ふと、視界の端にヨモギが見えた。
アスファルトの割れ目から顔を出すそれは、太陽に向かって真っ直ぐ成長している。
命の息吹は、尊い。
こんな世界でも、生き続けている命が無数にある。
夏がくれば、セミが大声で鳴く。
夕方になれば、カラスが鳴く。
満開の空の下、生命の灯火は消えることなく揺れ続けている。
こんな世界になったからと言って、全てを諦めて理不尽を受け入れる必要はない。
美奈。絵梨花。由良。京香。
あの四人が死ななければいけない理由など、どこにもない。
「私のお墓を建てたらね、花を添えて欲しいの。黄色いチューリップ。もうお花屋さんなんてないし、探すの大変だよね。でも見つけて欲しいな」
いつか、誰かがそう言った。
黄色いチューリップの花言葉は、たしか「望みのない恋」だった。
死の間際で、彼女はいったい何を想っていたのだろう。
彼女が涙を見せることはなかった。
最期まで笑顔だった。
交わした言葉も、表情までも鮮やかに思い出すことができる。
けれど、彼女の名前を思い出すことはできない。
夜空に咲いた青い花が、ボクの記憶の一部を食い破ってしまった。
災厄の形は、一つではない。
命を奪われないものもあるし、一度災厄に巻き込まれれば生存が困難なものだってある。
ボクは、男だ。
数多くの災厄を間近で見てきた。
それがどのように命を奪うのか、周囲にいた女性の誰よりも知っているつもりだった。
「兄さん! 花の色が!」
遥が叫び声をあげる。
上空の花の色が変わるところだった。
純白の花が、黄色く染まっていく。
黄色に染まった花は、これまでに四回見たことがあった。
広範囲の命を奪う危険な色だ。
けれど、生存が困難な色ではない。
四度目の爆発が起こった。
黄色の花が、黒煙に包まれていく。
おそらく、迫撃砲だろう。
ボクたちの所属していたコミュニティは、立ち上げ初期に元自衛官の男性がいた。
実質的なリーダーだった彼は、抵抗運動の象徴だったという。
彼の指揮により、多くの女性が空を支配する花の撃墜を試みた。
結論から言えば、火砲による攻撃は有効だった。
しかし、飛行船の報復は性別を問わない。
抵抗運動で多くの人たちが亡くなり、リーダーだった彼も災いに呑み込まれた。
残った装備は同じ人間に向けられるようになり、周囲のコミュニティを接収するようになった。
腐敗した組織によって抵抗運動は形骸化し、いまでは食い扶持を減らすための口実にされてしまった。
人々のために自由を取り戻そうとした彼の意志は、誰にも引き継がれることなく失われてしまった。
「兄さん!」
前方に人影が見えた。
地面に固定した迫撃砲を中心に、影が四つ。
そのうちの一人は、背丈が極端に低かった。
十二歳の由良だと一目でわかった。
「報復攻撃が来る! 建物の中へ!」
砲撃音があがる中、叫び声をあげる。
ボクの声に気づいた四つの影が一斉に振り返った。
「亜希さん!」
由良が真っ先に駆け寄ってくる。
ボクは彼女を抱きとめながら、残りの三人に向かって怒声をあげた。
「はやく! 胞子が強い! 報復がはじまる!」
残った三人が弾かれたように駆け出す。
頭上で爆発音が聞こえた。
見上げると、別の場所から撃たれたらしい迫撃砲によって黄色い花が堕ちていくところだった。
今回の攻撃に参加しているコミュニティは、恐らく六つ。
二十五人から三十人ほどの女性が戦いに参加しているはずだった。
別コミュニティの女性たち全てを助ける時間はない。
「中へ!」
近くにあったビルへ走り、自動扉を両手でこじ開ける。
空いた隙間から最年少の由良を中へ押し込んだ時、後方から金属音が響くのが聞こえた。
はじまった。
報復の狼煙だった。
「はやく!」
開けた自動扉に、残りの三人と遥が入る。
最後に空を見上げると、舞い降りる胞子が閃光に包まれるところだった。
考える余裕なんてなかった。
次の瞬間、空を舞う胞子が一斉に爆発を起こした。
連鎖するように空が爆発に包まれていき、熱風が吹き荒れた。
思わず顔を背けながら、ビルの内部へ身体を滑り込ませる。
咄嗟に自動扉を閉めると、ガラスが熱風で震えるのがわかった。
表通りの電柱や標識が爆風で吹き飛ばされていく。
どこかのガラスが割れる音がした。
振り返ると、破れたガラスから胞子が流れ込むところだった。
「ガラスから離れて!」
遥と由良の腕を掴んで、奥へ飛び込む。
一面ガラス張りになっていた側面が次々と粉々に落ちていき、熱風が吹き荒れた。
遥を守るように抱きしめながら、広範囲を焼き尽くす胞子を観察する。
黄色の花をはじめて見たのは確か、この国がまだ国家の形を維持していた時だった。
紫の花によって国中の通信が途切れている中、国道を多くの戦闘車両が通過していった。
誰が花を攻撃したのか、記憶は曖昧だった。もしかしたら誰も攻撃なんてしていなくて、戦闘車両が集結すること自体が攻撃とみなされたかもしれない。
とにかく、それは急にはじまった。
街中に積もった胞子が一斉に爆発し、戦闘車両を薙ぎ倒していった。
胞子は、街中に堆積していた。
爆発はどんどん連鎖していって、信じられないほどの広範囲が一度の攻撃で焼け野原になった。
大多数の人たちは、自らの死因を理解する余裕すらなかったと思う。
爆心地の上空を巡航する花の色を確認できたのは、極僅かの生存者だけだった。
いまでも覚えている。
地獄絵図みたいな地上を、黄色の花が悠然と空から見下ろしていた。
黄色いチューリップが欲しいと言った彼女は、そういえばあの攻撃で家族を亡くしていた。
彼女が欲していた花は、もしかして空に咲く満開の花だったのだろうか。
黄色いチューリップには仇をとってほしい、という意味が込められていたのかもしれない。
熱風でガラス片が舞う中、ボクは彼女の真意について今更ながらぼんやりと考えていた。
「次の攻撃がくる!」
熱風が弱まると同時に、遥を抱えて前方に駆け出す。
黄色い花の報復攻撃は、一度だけでは終わらない。
割れたガラスを超えて、外に躍り出る。
空に咲く黄色い花の中心部が、黒く染まっていくところだった
まるで、鮮やかに咲き誇るルドベキアのようだった。
ルドベキアの花言葉は、正義、公平。
もう名前も思い出せない彼女は、いつか僕にそう教えてくれた。
報復の攻撃は、性別を問わない。
相応しい花言葉だと思った。
公平なる正義の鉄槌が、空から堕ちてくる。