「ラットレース、という言葉を聞いた事はあるか?」
空にまだ花が咲いていなかった時。
自室で僕に勉強を教えてくれていた父は、ふとそんなことを言った。
「ラットレース?」
「ネズミが回し車を回すように、一抹の生活費を稼ぐために働き続けることだ」
僕は首を傾げた。
「サラリーマンは皆そうなんじゃないの?」
「ああ。働いても働いても定年まで終わりがない。誰もそれを疑問に思わず、回し車を回し続けるんだ」
ネズミと一緒だな、と父は自嘲するように笑った。
「雇われるということは、自分の時間を切り売りするということだ。ラットレースから抜け出すには自ら事業を起こすしかない」
くるくる。
老いるまで、回し車を回し続ける。
籠の中のネズミは、それを疑問に思わない。
きっと、僕もそうだった。
「世界経済は、毎年約3%の成長を続けている」
父は小さく息をついて、視線を外した。
「富める者の元には自然と富が集まっていく。持たざる者は回し車を回し続けるしかない」
だから、と父の唇が歪むように波打った。
「今は勉強に力を入れろ。人の上に立てるようになるんだ。それが籠の中に閉じ込められず、自由になれる唯一の方法だ」
たしか、父の実家は経済的に苦しい状況だったはずだった。
父は優秀だったが、大学には進学できなかった。
若い頃は苦労したのだと何度も母から聞いた。
だから僕は小学校から受験して、私立に通うことになった。
自分が経験した苦労を子供にさせたくない、という父の思いはよく分かっているつもりだった。
けれど。
遥は私立小学校の受験に失敗した。
たぶん、僕たちに必要だったものは教育ではなかった。
ありふれた家庭的な愛情があれば、それだけでよかった。
きっとこれは、我儘なのだろう。
父と母は仕事が忙しい中、僕たちに根気よく勉強を教えてくれた。
苦労させたくないのだという気持ちも、わかっているつもりだった。
ただそれでも、もう少しだけ遥に構ってあげて欲しかった。
受験に失敗した後の遥には、どう考えてもケアが必要だった。
その役割に回ることができるのは僕しかいなくて、遥は僕に依存するようになった。
くるくる。
回し車を回すように、机に向かって勉強をして、遥を甘やかせる。
代わり映えのない暮らしの中、遥の依存心だけが膨れあがっていった。
父と母は、悪い人ではなかった。
自分たちがした苦労を、僕たちには決してさせまいと誓っていたのだろう。
ただ少しだけ、僕たちが欲しいものと違っていただけ。
くるくる。
働き続ける両親は、まるでレースをするネズミのようだった。
籠の中、みんなそれぞれの回し車を回し続けている。
誰もそれに気づいていない。
今だってそうだった。
大人たちに支配されて、道具のように利用されていた。
コミュニティの下位の人たちは、使い捨ての道具のように抵抗運動に駆り出されていく。
「今は勉強に力を入れろ。人の上に立てるようになるんだ。それが籠の中に閉じ込められず、自由になれる唯一の方法だ」
父の言葉が、脳裏に蘇った。
僕はもう、子供じゃない。
回し車から下りて、籠の外へ出る時期だった。
「走って!」
上空の黄色い花が、ゆっくりと回転を始める。
僕は大声をあげて、遥の手を引っ張った。
「次はなにがくるの!」
後ろで美奈が叫ぶ。
頭上で回転速度を早めていく飛行船を確認しながら、僕は叫び返した。
「花弁が飛んでくる!」
「花弁?」
全体が見渡せる開けた場所に出る必要があった。
大通りから離れて、低い雑居ビルが並ぶ裏道を駆け抜ける。
「飛行船が!」
誰かの声に頭上をもう一度確認すると、回転速度をあげた飛行船から金属音が響くところだった。
くるくる。
まるで回し車のようだった。
ふと、思う。
空に咲くあの花たちも、何かに支配されているのだろうか。
籠の中に閉じ込められ、回し車を回し続けることを強いられているのだろうか。
金属音が一際大きくなる。
次の瞬間、巨大な花弁が飛行船から切り離されていった。
「冗談でしょ?」
誰かの呆然とした声。
ミサイルのように、花弁が次々と打ち出されていく。
どこかを狙うわけでもなく、四方に放たれた花弁がビル群に激突し、轟音が響いた。
瓦礫が飛散し、複数の巨大な建物が崩れていく。
大地が揺れ、後ろを走っていた四人がその場に座り込むのが見えた。
遥が手を引っ張り、何かを叫ぶ。しかし、轟音で彼女の声は掻き消されてしまった。
百メートルほど離れた地点で、一つのビルが倒壊を始める。
「離れよう!」
叫ぶ。
たぶん、僕の声は届いていない。
それでも遥は何かを察したように大きく頷いた。
崩れ落ちるビルから粉塵が舞い上がり、四方へ広がっていく。
由良を抱え起こし、後ろから迫る粉塵から逃げる。
信じられない速度で広がる粉塵が瞬く間に僕たちに追いつき、視界が灰色に染まった。
「飛行船はッ!?」
遥の声。
粉塵で視界が遮られて、飛行船どころではなかった。
咳き込みながら、ただ闇雲に走る。
こうしている間にも花の色が変わっているかもしれない。
飛行船の報復パターンは、まだ不明なことが多い。
「亜希さん!」
数メートル先すら見えない粉塵の中、由良が腕にしがみついてくる。
遥と由良を引っ張りながら、崩れたアスファルトの上を無我夢中で駆けた。
息が切れ、口内に鉄の味が広がった。
金属音が響く様子はない。
徐々に粉塵が薄れていく。
僕は足を止め、息を整えながら空を見上げた。
薄っすらと見える飛行船。
全ての花弁を落としたそれは、鉄球のような奇妙な形になってゆっくりと墜落を始めていた。
命を散らすように、球体が崩れていく。
「終わったの?」
後ろから京香が恐る恐るといった様子で声をかけてくる。
「たぶん」
種子が割れるように、球体に亀裂が入った。
中には、何もない。
ただ空っぽな空洞を晒して、墜落していく。
「ねえ、ほかの人たちは?」
美奈の声。
誰も答えなかった。
荒い息遣いだけが、そこにあった。
右腕に絡みつく遥の腕が、小刻みに震えていた。
上から手を包み込むようにそっと握る。
縋るような目で、遥が僕を見上げる。
「遺体を探そう」
また一つ、花が堕ちた。
英雄たちに捧げる手向け花を探さなければならない。
青空にはまだ、無数の花が咲いていた。
当分、摘む花には困りそうにない。
遺体は、残っていなかった。
胞子の爆発は、地表の殆どを吹き飛ばしていた。
ひとつだけ、自動小銃が落ちていた。首都奪還作戦に使われたものだろう。
高熱で歪み、もう使い物になりそうになかった。
瓦礫の山に、壊れた自動小銃と花弁を添える。
死者の数すら正確にわからない、無銘のお墓だ。
これまでに散っていった仲間たちと、これから散ってしまう仲間に向けて、手向け花を送る。
黄色いチューリップは見つかりそうにない。
いまは、飛行船の花弁の切れ端で我慢してもらおう。
少なくとも、仇を討つ事はできた。
「兄さん」
遥の声。
振り返ると、分解した迫撃砲を抱えた遥がじっと僕を見ていた。
「弾もある。私たちはまだ戦えるよ」
煤で頬を汚した僕の妹――東堂遥の双眸には、強い意思が宿っていた。
一瞬、言葉を失った。
遥は自分の足で立とうとしていた。
僕に寄りかかる事をやめ、自立した精神性を獲得しようとしていた。
僕たちはもう、子供ではない。
回し車から降りて、籠の外に出ていく時期だった。
空を見上げる。
満開の空が広がっていた。
死と再生を意味する白い花たち。
この世界は、滅びつつあるのだろうか。
それとも、再生しつつあるのだろうか。
わからない。
けれど、遥は確かに再生の道を歩もうとしていた。
「亜希さん」
由良の声。
見ると、遥を含めた五人全員が僕をじっと見ていた。
「リーダー」
絵梨花が茶化すように言う。
どうやら指示を待っているようだった。
息を吸う。
冷たい空気が肺腑を満たした。
「西へ行こう。三度目の大震災以降、西の情勢がわからなくなってる」
「了解」
一斉に移動の準備を始める彼女たち。
僕は最後に、無銘のお墓を見やった。
添えられた黄色い花弁。
いつか、本物の黄色いチューリップを捧げよう。
君が好きだった色々な花を育てて、満開の空を彩ろう。
さようなら、好きだった人。