「まさむねさん、おはようございます。起きてください。時間がもったいないから。」
猛暑猛暑の夏の日が続く8月。盆暮れ正月、人並みに出版関連の奴らが休もうと思うからこんなに大変なんだと高野正宗は布団の中でそんな恨み言を飲み込んだ。
確か夕べベッドに入ったのは日にちが変わってからだったはずだ。普段は寝起きの良さを自負していたけど、汚泥のようにたまった疲労に押しつぶされるように寝入ったのを覚えている。
起きあがろうと腕を突っ張って高野は上半身を持ち上げるけど、普段の何倍もの重力がかかっているかのように身体が重くてついでにまぶたも重い。
「う…、」
どうせ日曜日…、言葉にならない唸り声が喉の奥から沸いて、自分を起こす声さえ幻聴に聞こえてくるから不思議だ。
「大丈夫ですか?フルーツジュースとカフェオレがありますよ。起きたら食事も用意してあるので食べましょう。」
目を瞑ったまま、額に細い指が触れたのが分かって、そのひんやりと心地よい感触と少し掠れた聞きなれた声にホッとする。
でも、律…、お前体調を崩して寝てたんじゃなかったか?
高野は昨日の記憶を手繰り寄せるように引き出しながら、すっかり夏にやられた元恋人で今の自分の思い人の事を考えていた。
薄目でみると逆光に浮かぶシルエットは未だ欲しい返事をくれないかつての恋人のもののはずだが、高野はその違和感に自分がまだ夢の中にいるのだろうと寝起きのまどろみで起こしかけた身体をまた布団に沈めた。
律が自分のことを名前で呼ぶなんてありえない。ましてやこんなに穏やかな目覚めをくれるわけがない。
フウ、とため息を吐いて目を瞑り、もう一度眠りの世界に自分の意識を戻そうとすると、
「だから、起きてくださいって。もう時間がそんなにないんですから。」と、フフっという柔らかい笑い声と共に今度こそはっきりとその声は高野の耳に聞こえた。
細めていた目をはっと見開くと、目の前の人物は高野に手を伸ばしていて、咄嗟にその指を掴むとカサリとした感触は普段の律とは異なるものだ。
「おはようございます。まさむねさん。お支度をされたらこっちの部屋に来てくださいね。」
シルエットは律と同様に相変わらずマッチ棒みたいに細くて、身体を揺するたびにサラサラとした毛先が揺れる。
しかし、その髪の色はミルクを入れた紅茶のような赤茶色ではなくほぼ白。
細い頬にも、柔らかく笑っている目じりにも、深い皺が幾重にも刻まれていた。
「そんなにじろじろ見ないで下さい、恥ずかしい。始めましてではないですよ。だってここは50年後の世界で、私は50年後の小野寺律なんです。」
▽
目の前の老人の律はにっこりと高野に笑って見せた。
どういうことなんだろう?やっぱり…、やっぱり今は夢の中なんだろうか?
だってこんなに老人の律なんているはずがないじゃないか。
気持ちは混乱したまま差し出されたシャツとズボンを身につけて、高野はもう一度当りを見回した。
よく漫画の中でこれは夢か?と頬をつねったりするシーンがあるけど、まさに自分も同じようにほっぺたをつねってみたくなった。
自分の置かれている現状は夢とは思えないリアルさだけど、起こっている出来事はとても現実とは思えない。
「ベタ過ぎる…。」
高野は脱いだスエットを軽く畳んでわざと言葉にしてみるけど、自分を取り巻く状況は何も変わらなかった。
見覚えのない寝具、見覚えのない家具、見覚えのない部屋。
50年後とか言うならメチャクチャ未来ってことだよな?しかし辺りを見回しても特別にハイテクという感じもしない。
ただ、カーテンのない部屋の窓ガラスに見えるものは光を遮断しているようで外を映さない。この時代はもはやカーテンというものも不要なのだろうか?
不思議に思って指で触れたら、スモークがかかったように暗い色だったガラスの一部が一瞬だけ透明に変わり、そこから見えた外の景色はやはり見覚えのないものだった。
グズグズとここに居ても仕方がないか…。
高野はあきらめて、小野寺律と名乗った先ほどの老人が出て行った方へと自分も行くことにした。
「どうぞ。おかけください。」
明るい部屋は自分たちが未来はこうだろうと想像していたものとは異なり、それほどあっちの時代との違いは感じなかった。
「50年後ってわりにはアナログなんだな。」
「そうですか?確かに宇宙服みたいな格好もしてないし、タコみたいな宇宙人も侵略には来せんでしたね。」
相変わらず柔らかく笑う老人の律は白っぽいさらりとしたシャツとベージュのチノパンのようなズボンを着ていた。
「ファッションとしては、若い子はかなり前衛的な服も着ていますが、私たち老人は楽なのが一番ですからね。」
ソファーに座れと手で招かれて、先ほど言っていたジュースらしきものとお茶が盆に乗せられて老人の律の手によって運ばれてきた。
ロボットのお手伝いさんが居たりしないんだな。
皺の寄った指がグラスとカップを丁寧に目の前に並べて「物流は格段と良くなって、欲しいと注文をすると10分とかからずにこういうものは届けられるようになってますよ。」と説明をしてくれた。
「でも、まさむねさんが生きているあの時代が、一番科学の躍進があった頃なのかもですね。確かに今はホイールの車もなくなって、痛ましい交通事故もほぼなくなりました。でも世界のあちこちでは紛争や戦争もありましたし今もあります。日本も先進国と言って威張ってばかりもいられない時代で、情勢は相変わらず不穏ですよ。でもそういう情報はあまり入れないほうがよいですよ、すぐに元の時代に戻るのですから。」
「え?」
「確か…、お昼過ぎにはあなたはあちらに戻ると思います。だから少しだけ年寄りの酔狂にお付き合い下さい。なにしろまさむねさんはずっと私の年上なので、年下のあなたに会えるなんて本当に奇跡でうれしいです。」
「と言うか、この時代でもあんたとオレは一緒にいるのか?」
「もちろん。」
いままでのふわりとした笑顔の中でも一番の笑顔で老人の律は目を細めて笑う。
しかし部屋を見回すけどオレらしき人物はいなかった。
確かに老人の律が一人暮らしをしているという感じはなく、別の誰かの気配はある。
「じゃあ、オレは今どこに?」
それでも二人が本当に一緒にいるのかと不安に駆られる。ここが50年後というのが本当でも、50年前のオレと律はまだなんの約束もできていない。
50年後も一緒にいるなんて、やっぱりこれは自分にとっての都合のいい夢を見ているのではないかと、気持ちが落ち着かない。
「入れ違いにあっちに行ってます。」
「あっち?」
「ええ、」
ふっとわざとらしくため息をついて、急に眉間に皺を寄せて、老人の律が怖い顔をして見せる。
そのそっぽを向いてふて腐ったような表情がおかしくて、さっきからの時間の中で初めて気持ちが緩んだ気がした。
「あの人、もうすっかり枯れたと思ったんですけどね、若い律に会いに行くぞ~って張り切って準備していきました。」
「はあ?」
「私は体調不良で確かこの日は寝込んでいたので、未来のあなたが来たことは覚えてないんですが、あなたが元に戻ったあとここでの出来事を散々聞かされました。」
ガラスのテーブル面に手をかざすと大きな数字のカレンダーが映り、今日のその日の数字8月5日を律がくるりとなぞるように指差した。
「だから今日ここにあなたが来ることは50年前から知ってたんです。」
老人の律は相変わらず上品な笑顔で、でも愛おしそにそういって笑った。
「オレと律の間にはまだそんな幸せな未来は見えない…、あいつはいまだにたった二文字の言葉さえくれない。」
目の前の律が未来の律だと言うならそれはなぜだと、若干責める意を込めて高野が愚痴に近い呟きを漏らすと「ごめんなさい。私もそれは申し訳ないとしか言えません。あの頃の私は何もかもが怖くて一歩が踏み出せなかったんです。」と老人の律は目を伏せてそう言った。
「怖い?」
「怖いでしょ?なににも代えのきかないたった一人を決めてしまうって、怖くないですか?」
代えがきかないという言葉にドキリとした。代えなどどこにもないことは何より高野自身が知っていたから。
「だって…。」
この時代でもまだ陶器製のコーヒーカップは健在らしく、老人の律はその取っ手をもてあそびながら茶色の液体をタプリと揺らし、言葉を探すように少しだけ口をつぐんだ。
「だって、本当に心が壊れたんですよ、一回…。」
「オレに回し蹴り食らわせて逃げたとき?」
「そうそう、未だに回し蹴りって分からないんですけど。人と喧嘩もしたことなかったし、そもそもそんなに俊敏ではないはずなので、」
老人の律は楽しそうに笑うから、いつかこんな穏やかな律と本当に暮らすことができるのだろうかとその幸せそうな顔を見ていると、だんだんと高野は逆に不安になる。
本当にこれが俺たちの未来なのだろうか?
ひょっとして自分たちの何かがどこかでずれたらこの未来はないのではないのだろうか?
こんなところで自分がこんなことをしている時点で未来は変わるんじゃないのだろうか?
そんな風に高野の瞳が揺らいだのが分かったのか、老人の律がグイっと瞳を覗き込んで「あら?またメンタル弱いまさむねさんが顔を覗かせているみたいですね。」と笑う。
「メンタル弱い?」
「そうでしょ?不安ですか?」
「不安…。」
「お願いですから揺らがないでください。あなたたちのこれからにはまだまだ色々なことが起こります。」
「色々?」
「ええ。別れたほうが楽ってあなたが思ってしまったら終わってしまいそうなほど大変なことも…。」
「脅かすね。」
「脅しじゃないですよ。でも私は揺らぎません。そう決めてからは、一切あなたのことで揺れないって決めたんです。だからあなたにも揺れないで欲しい。それだけ言いたくて…。」
「オレは…。」
「返事なんていりません。そうしてください。」
老人の律はそう言ってちょっと厳しい目をしたけど、また柔らかい表情に戻った。
「食事をしましょう。」
話は終わったとばかりに老人の律は高野をダイニングに案内した。
テーブルの上には二つの大きめのトレイが置いてあって、トレイ自体は熱くもないのに
乗っている料理は出来たてのようにホカホカだった。
「ね、これあたりは便利になったものの1つかもしれないですね。」
トレイを指で指して老人の律はやはり柔らかく笑った。
▽
遅い朝食を食べ、あまり重要でない思い出話をしていたはずなのに昼のチャイムが鳴り終わる頃、高野は急に眠気を感じソファーで寝入ってしまった。
そろそろまた交代の時間みたいですね。高野さん、お幸せに。
『ひとごとじゃないだろ…。』
そんな風に呟いた気もしたけど、それは老人の律に届いたかどうか、高野には分からなかった。
▽
「おかえりなさい、まさむねさん。」
「ただいま、律。」
ついさっきまで若者の高野が座っていたソファーで、パチリと目を開いた高野のつややかだった黒髪はすっかり白くなっていて、頬も目じりも年相応に年輪のごとき深い皺が刻まれていた。
ごく当たり前の挨拶を交わしたというのに、高野はいきなりぐっと律の腕を引きよせるからバランスを崩した律はかなり派手に揺らいで身体を高野に預けた。
「やめて下さい。そういうことすると年よりはすぐに骨折とかします。」
しかし、律のちょっと本気目の抗議に高野は悪びれもしない。
「なに言ってやがる。この大嘘つきめ!」
「ふふ、ばれました?」
「なにが体調不良だ!しっかり元気に俺の相手をしたじゃねーか。」
「だって、あんなに未来のネタバレされて、全部正直に言えっこないじゃないですか…。」
「なのになんで!」
急に高野の顔がクシュリと歪む。それは苦いものを飲み込み切れず辛さをこらえるような表情だった。
「ずっと体調に気をつけて用心してきました。ちゃんと食べたし、定期的な検査も受けてました。でも…。76歳で余命3カ月って、別に特別ダメなことじゃないでしょ?」
「お前がオレより先に逝くのはいやだ。」
「ふふ、いやだって言われても…。精一杯用心してたんですから…、それに他の教えてもらった事だって一生懸命回避しようと努力したんです。でも…、運命って何をやっても変わりませんでした。」
「…。」
「でも、あなたが私をあきらめないでくれたから今があります。私は幸せな人生でした。だからあの二人にも一生懸命生きて欲しいですよね。」
ソファーの上の高野の膝に乗ったまま律が高野の首に手を回す。
もはや身体を重ねることも深く熱いキスをすることもなくなっていたけど、相変わらずこうやって肌を合わせて抱擁しあうことは気持ちがよかった。
「あなたがあの時に来て、未来の私に死んで欲しくないと泣いてくれたから、私はあなたに好きですと伝える決意ができました。一分でも一秒でも無駄にしたくなかったから。それに未来は分からないですよ?明日画期的な何かが起きて二人で100歳でも200歳でも生きられるかもしれないじゃないですか。」
「お前ホントメンタル強い…。」
「あなたが弱すぎなんです。」
「そうだな。」
「私たち二人には、たとえ死でさえも分かつことはできないって言ってください。何度生まれ変わっても二人は出会って恋をするんですから。」
今頃…、律が高野さんに好きですって言ってる頃かな?
それは今から50年前の8月5日、忘れられないあの日に始まった二人の物語なんだから。
おしまい。