応接室に戻ると、その中はいつの間にか静かになっていた。
先ほどまでの音の発生源は、と思い机にコーヒーカップを置くと、応接用のソファに横になって、すぅすぅと寝息を立てる少女が約一名。
スリッパは無造作に脱ぎ置かれていて、足はソファから外に出ている。まさに座った状態から横になったのが丸わかりな姿勢。
机の上にあった羊羹は丁寧に全部――俺の分も含めて――無くなっていて、口元には羊羹の欠片が付いていた。
ソファに汚れを付けられたらかなわんとティッシュで口元を吹いてやると、「うぅ、ん……」と寝言を漏らす。起きたか、と思いきや、声はそこで止まって、またすぅすぅと可愛らしい寝息が聞こえ始めた。
「本当……なんなんだろうな、この子は……」
小学校一年生、スズと名乗った少女。今は、子どもらしくぐっすりと眠っている女の子。
今日の依頼は、この子がいなければ解決に相当な時間がかかっていただろう。
見た目上はどこにでもいる、白い花の髪留めを付けた女の子。けれど――
「ぅ、うぅ、ん」
スズは小さく身じろぎをしたかと思うと、再び寝息を立て始める。
その寝顔はどこか満足げで、口元は三日月型を描いていた。
「分かんないな、本当……」
啓二は、そう呟いて左手に付けたヴィンテージものの腕時計に触れる。
部屋の中は、安らかな寝息が聞こえるだけだった。
◇◇◇
『山口探偵事務所』
駅から徒歩八分。アーケードがある商店街を通り抜けた先に、その事務所兼自宅がある。
今は休日の午前十時。人で溢れているわけでもないが、閑古鳥が鳴いているわけでもない、適度な賑わい具合をみせるアーケードの中を啓二はゆっくりと歩いていた。
『第一、第三日曜日は蚤の市』と書かれた看板の横を通り過ぎると、急に通路が狭くなった。 ちょうどこの日は露店が開かれる日のようで、普段は通路となっているアーケードの両側を利用して、雑貨屋や食品の移動販売車等が出店を構えていた。
特に用件も無いと足を止めずに歩き続けていたところで、青いビニールシートの上に陶器を並べている露店が啓二の視界に入った。
大きい壺や皿、湯呑みのようなものまでが所狭しと並んでいるが、雑然としていてお世辞にも綺麗なレイアウトとは言えない。店主は呼び込みをすることもなく座っているだけで――というよりも寝ているようにも見える――なかなか売る気は無いように見えた。
これが道楽商売というものか、と思いながら通り過ぎようとし、
「……む?」
ふと足が止まった。
ただの陶器売りなら、特に目を引くこともないはずだった。
しかしそのブルーシートの前で商品をまじまじと見ている人物がいることに気づいたのが一度目。その人物が、小学校に入っていようかどうかほどの少女だったことが二度目。そして茶碗を持って、にこにこと笑みを浮かべているのに気づいたのが三度目。
思わず目線だけで何度もそちらを見やってしまうほど、その光景は異様なものだった。思わず瞬きをし、目を擦って再度その場所を見ても、その光景は変わらなかった。
近くに祖父でもいるのなら話は分かる。少女が、おじいちゃんが何かを買ってくれるのを期待して付いてきたのだろうと。しかしその場にいたのは少女ひとり。保護者らしき姿はどこにもなかった。
出店の前に座っている少女、頭には白い花があしらわれたヘアピンを付け、一本に結った髪は首筋を隠すほどの長さがあった。青を基調としたワンピースは、サイズが若干大きいように見える。しゃがんだ姿勢でもスカートの裾が脛近くまであった。
器を両手で大事そうに持ち、顔に近づけてにこにことしている表情。少女が自発的にそこにしゃがみ込んでいるのだと思った時には、啓二の足は止まり、視線はその不思議な子に釘付けになっていた。
「あはははっ」
ふと聞こえてくる明るい声。目の前にいる少女が発した声ということに気づくまで、少しの時間が掛かった。
まるで同年代の友人と談笑するときのような、小学校のグラウンドで元気に駆け回っているときのような、そんな嬉しい、楽しい、そんな感情が伝わってくるような声。屈託の無い笑みを浮かべて、少女は笑い声を上げていた。
どこか笑うポイントでもあるのだろうかと器をのぞき見るけれど、それは至って普通のガラのお猪口。小学生ほどの少女が面白がるような絵柄ではないように思える。
感覚が独特の子だろうか――少女はうんうんと頷きながら、にこにことした笑みを絶やさないままそこにしゃがみ込んでいた。
「…………?」
ひとしきり頷きながらその器との対面をしている最中、ゆっくりとその顔がこちらを向くのが見えた。くりくりとした目で、不思議なものを見るような表情がそこにある。
「……おじさん、どうしたの?」
ふわふわとした声でそう言って、首を右に傾げてから「あ、お客さんかな。ずれるね」としゃがんだままカニ歩きで横にずれる。
そして別の器を持ち上げ、器との対面を再開した。彼女はここの店主の娘かもしれない、との考えも浮かんでくるが、聞いてみないことには分からず、疑問は深まるばかり。
「…………?」
再度振り返った彼女と目が合う。今度も視線が自分にあることに気づいたのか、眉が寄って怪訝な顔になる。
ふと少女がポケットの中に手を入れるのが見え、一瞬で背中に冷や汗が伝った。
――今の子は防犯ブザーを持っているから、安易に話しかけると碌なことがないぞ。
同業者の言葉を思いだす。
人通りがそれほどでしかない商店街とはいえ、けたたましい通報音を鳴らされればたまったものではない。
「……い、いやっ、なんでもない!」
何か行動を起こされる前に場を離れるが吉、と判断した啓二は、そそくさとその場を離れる。背後からはブザー音が聞こえることはなく、振り返ると少女は器との対面に戻っていた。
ほっと胸をなで下ろし、先ほどと同じ足取りで事務所へと足を向ける。
「え、そうなの? そうは見えないけどなぁ」
商店街の喧噪の中、ふわふわとした声が、啓二の耳に入った気がした。
◇◇◇
『山口探偵事務所』と掲げられた看板のある一軒家。事務所スペースに入ってノートパソコンを立ち上げると、メールが一通届いていた。
『依頼について』とタイトルがあったそのメールは、「町内会の祭りで使用するポスターのデザインをお願いします」と書いてあった。「詳細は別添を確認ください」とテキストファイルが添付されていたので、締め切り日を確認し、本文と合わせて出力だけしておく。
従業員一名で経営しているこの探偵事務所は、開業して5年ほどになる。『探偵』と掲げている事務所にも関わらず、依頼される内容は探偵業に関係するものだけではない。――むしろ圧倒的に本業の方が少ない。開業したての頃に依頼される内容を片っ端からこなしてきたという過去もあってか、今日となっては『地域の何でも屋』としてのポジションを確立しているような節さえ有る。
昨今の依頼内容と言えば、ポスターやビラのデザイン、内職のような何か、蜂の巣駆除に引っ越しの手伝い、それに失せ物探し、等々。掲げている看板の割に多岐に渡っている。
一般の人がイメージするような、張り込みや事件解決などは一度もしたことは無い。殺人事件の場に居合わせたことは無いし、探し人は猫か犬が大多数。
今日の予定に何もないことをスマホのカレンダーで確認をし、さて一仕事始める前にコーヒーでも、と台所に向かおうとしたその時。
「山口屋さん! お願いがあるの!」
カランカランとドアベルが鳴り、それと同時に女性の声が飛び込んできた。
『山口屋さん』と呼ぶということは、おそらく便利屋扱いをする商店街の中の人だろう。身長は160センチほど、服装は普段着にほぼ近く、自宅からまっすぐにここにきたことが覗える。見覚えこそは無いが、比較的若い部類に入る年齢の女性に見えた。
この店まで急いできたのだろう、肩で息をし、たどたどしく言葉を伝えようとしてくる。その意思はひしひしと伝わってはくるが、内容を把握するまでには至らなかった。
「依頼のお話でしょうか。でしたらこちらへ」
よそ向けの努めて落ち着いた対応を見せて、応接用のソファーへと案内する。コップを二つ準備し、冷蔵庫から取り出したアイスコーヒーを入れる。焦って何かを言って、後になって話に食い違いが出てくるのはよろしくない。落ち着いてもらおう、まずはそこからだ。
アイスコーヒーを一口飲んで、大きく息をついて。もう一口飲んで、ハンカチで額をぬぐう。女性はようやく息も整ってきたように見えた。
「――それで、お願い、とは?」
「そうなの!」
持ち上げていたコップを机に叩きつけ、事務所内に大きな音が響く。
ソファーに背を預けていた姿勢から前屈みになり、顔が一気に近くなる。その目は大きく開き、今にも食われそうな気さえした。
お客さん曰く。今日起きたら寝室の貴重品を入れていた引き出しの鍵が無くなっていた。鍵は普段は大きな古ぼけた時計の中に入れていたはずなのに、今日見かけたら無かった。空き巣に入られた形跡も無いし、鍵の場所を知っている人物はいるはずが無い。中には大事なものが入っている。毎日見ないと気が済まない。鍵が開かないのならこじ開けてでもいいから中を確認したい、と。
ソファーから腰を上げて一息でしゃべりきった彼女は、また息を大きく吸う。
失せ物、鍵。以前時計の中。今朝紛失。と手元のメモ帖に書き残す。
「なるほど……うぅん。ではいくつか質問させてください」
失せ物探しの依頼。そして鍵。よくあるパターンだと思いながら、顔と口には出さないようにする。事件性は無し、ただし依頼人に難有り。
手のひらを見せてソファーに座るように合図を送り、相手が腰を落ち着かせるのを見てから聞き取りに入る。
「大きな古ぼけた時計というと、どのくらい?」
「時計の扉の裏に……明治、5年、って書いてあったかしら。木製のふっるいやつよ」
「いいえ、すみません。鍵を入れ始めてから、です」
「ああそっちね。二月くらいかしら」
「ふむふむ、ありがとうございます」
二月ほど使用、とメモに記入。
女性足が細かく揺れているのを見るに、相当焦っているようにも、いらだっているようにも見えた。
これまでの行動から、どちらかと言えば女性は几帳面でないように思える。とすれば考えられるのは鍵の紛失。どこかに落としたか、置き忘れた可能性が一番高い。
――ここは直接現場を見せてもらった方がいいか。
「それではその部屋を見せていただいても?」
「もちろん」
失せ物探し、特に鍵探しの依頼は少なくない。
考えられる全ての場所を探し、数日経っても解決できない場合は、最終手段として鍵屋に依頼して、鍵を開けた後に合鍵を作ってもらう方法もある。仕事柄、簡単な鍵なら開けられるようになった――なってしまった、と言うべきか――けれど、流石に本職には敵わない。
「準備をしますので十分ほどお待ちください」
「ええ、待ってるわ」
ソファーから腰を上げて、事務所の二階へ通じる階段を上る。
「大きな古ぼけた時計の中にあった鍵の、紛失。昨日から今朝にかけて、か」
依頼内容を復唱するように呟いていると、ふと啓二の頭の中にメロディが浮かんできた。
――大きなのっぽの古時計。おじいさんの時計。
子どもの頃、音楽の時間に歌ったことがあるそれは、少し前に有名なアーティストが歌ったことで再び脚光を浴びた。
おじいさんのことを知っていることかのように歌っているその曲。幼少期の啓二は、どうにもその曲の歌詞に納得がいかなかった。時計が、おじいさんのことを知るわけが無いだろう。よしんば知っていたとして、誰がそれを聞いたのだ、と。物は物、人は人だと。ませた子どもだった頃の啓二は、そう思っていた。
「そもそも。物が知っているなら、失せ物の在処でも、教えてもらいたい、ねっ、っと」
クローゼットから工具箱を取り出す。依頼の度に出番があるこれは、今では大分使い込まれた様子が見て取れるようになった。
――まさか、これを使っているのが『探偵事務所』の人間だなんて、普通は誰も思わないだろうに。
頭の中で自嘲しながら工具箱を持って階段を降りると、女性は腕を組んで床を鳴らしていた。
「準備できた? 行くわよ?」
「承知しました」
「ち」と「し」の間のくらいには女性はおもむろに立ち上がり、「た」を言うのと同時にドアベルが甲高い音を鳴らした。
せっかちだということ、そして言葉に気をつける必要がありそうだと考えつつ、啓二はその後を追った。
◇◇◇
通されたのは、事務所から歩いて数分の距離にある呉服店。途中で例の白い花の髪飾り少女がいた陶器屋の前を通ったが、彼女は相変わらずそこにいた。
『千代田呉服店』と文字が大きく描かれたショーウィンドウの中には、艶やかな服を着たマネキンが数体佇んでいる。
『臨時休業』の張り紙が付いているドアを開け、店中から居住スペースへ。廊下をまっすぐ通って一番奥の部屋の扉を開ける。「ここよ」と言われて通された部屋の中に、一際存在感を放つ存在があった。
大通りに面していない部屋ということもあり、商店街のざわめきはほとんど聞こえてこない。その分――こち、こち、と大きな時計が奏でる軽い音が、部屋に満ちていた。
「あれ、ですか」
「――ええ。時計の扉を開けたところに、鍵があるの。……あったはずなの」
一度後ろを見て、それから幾分声を落として話しかける。誰もいないことを確認したからの言葉とすれば、よほど用心深い相手だということになる。そうだとすれば、口頭での情報流出は無いはずだが……。
「ここ最近、この部屋に誰かが入ったことは?」
「ゼロよ」
「……はぁ」
「ゼロよゼロ。一人も入れたことが無いわ。鍵の隠し場所だって知ってる人がいるはずがないの! でもないの! ねぇどういうことだか分かる?」
そう言って、女性は啓二の肩を揺さぶってくる。
冷静に考えなければいけないときに感情的になるのは勘弁してもらいたい、と言葉には出さず、極めて冷静にその手を払う。
「……ごほん、では時計の中を探させてもらってもいいですか? それで無ければ、まず室内を探して、それでもなかった場合、一度こちらで鍵を開けます。それで合鍵を作る方法が適切かと」
「その業者、信用できるんでしょうね?」
「商店街の中にある、長年続く老舗です。信用はできると思います」
「そ、ならまずはもう一度探してみましょ」
鍵が開かないという事態は避けられると分かったのか、女性は目に見えて落ち着いて見えた。まずは依頼主を安心させるのが大事。解決策を考えるのはその次だ。
時計の中、無し。
時計付近の床、無し。
女性のかばんの中、無し。
部屋の中の床、二人がかりで探しても無し。
他に思い当たる場所を聞くも、無し。
残るは、彼女がどこかに持っていって忘れた可能性だけだが……。
「まず応急処置として、鍵を一度開けて、中身を確認してからそれからを探すという方法もありますが……いかがでしょうか? 最初の依頼としては、中身を確認したい、とのことでしたし」
「そうね。まずは中身を確認して、それから鍵を探すのもいいわね」
女性の焦りの表情が、少しだけ和らいだように見えた。よほど大事な物が入っているのだろう、まずは安心させてやる方が先だろうと啓二は考えた。
「それでは、失礼して」
啓二は、工具箱から、ライトと細かい作業ができる道具を取り出し、鍵穴をライトで照らして、おや、と声を上げた。
「…………ん。あれ、この鍵、少し特殊ですね」
「そうなの?」
「ここの鍵、そこらで見るものより太くありません? この机も年季入ってますから、ここにある道具だとちょっと無理そうですね」
「できないの?」
依頼人の言葉にいらだちの色が再び表われた気がした。その先を聞け、と言う言葉は胸の中に押しとどめて、にこやかに笑いかける。
「いえ、できますよ。ただ事務所に道具を取りに行かないといけないので取ってきますね」
女性の承諾を得、啓二は一度店から出ることに。
決して二人だけの空間が息苦しかったわけではない。決して一息付きたかったわけではない。そう、道具を取りに行くだけなのだ――という体で依頼人と共に部屋を出た。啓二が先、依頼人は後。
背後から、かちり、と部屋の鍵がかけられる音が聞こえた。
店の入り口から外に出ると、商店街のざわめきが急に耳に入ってくる。依頼人の寝室がいかに静かだったかが分かる。
物品を取りに事務所へ戻ろうと一歩踏み出し――ふと、啓二は呉服店のショーウィンドウの前に人がいることに気づいた。
ただ通りがかりに見るというレベルではなく、その人物は両手と額をぴったりとガラスにくっつけて、文字通りかじりつくように、中にあるものを見ていた。
その女の子の背丈は、学校に通っていればランドセルを背負いはじめたかと思えるくらい。ガラスの向こうのマネキンが着ているような着物を纏うのは、おそらくまだまだ先のことだろう。けれど少女は横顔で見ても分かるくらいに、目をきらきらと輝かせている。
微笑ましいなぁと思いながら視線を事務所の方へ移そうとして――啓二は頭のどこかに引っかかる物を感じた。
頭の白い花が付いたかんざしに、後ろで結った髪に、青いワンピース。
白い花が風に揺れるのを、どこかで――――
特徴的なかんざしを凝視しながら考えていると、ふと少女の顔が啓二の方へと向く。くりくりした目が、大きく見開かれた。
「あれ? さっきのおじさんじゃない」
「…………ああ。……おじさんじゃなくてお兄さんと呼んで欲しいな。おにーさん」
おじさん、という呼ばれ方で、女の子が先ほどの陶器に夢中だった子だと思いだす。
よく見ると、不思議そうに首を傾げる仕草は先ほどと同じだった。
「おじさん、こんなところで何してるの? あいびき?」
そして、少なくともその年では決して使わないであろう言葉を投げつけて来た。ドラマか何かの影響だろうか、最近の子どもは言葉が達者で仕方が無い。
「逢引きって……」
さてこの子の質問には返さなければならない。逢引きなどと言いふらされてはたまらない。
――しかし仕事と言うのは簡単だが、子どもに話すような内容でもないし、内容が内容だ、わざわざこの少女に言う必要はどこにも無かった。
「あー、えっとだなぁ……」
未だに下方向からの視線を感じつつ、なんと返そうかと悩んでいた矢先。
ふと、少女は先ほど出てきた店のドアの方を不思議そうにのぞき込み、また首を傾げたかと思うと、
「まぁおじさんが言うのはおいといて。ねーねーおねーさん」
啓二に興味を無くしたと言うかのように、今度は依頼主の方へ歩み寄る。
きらきらとした目はそのままに走り寄るのを見、依頼人が少したじろぐのが見えた。――子どもが苦手なのだろうか
「ねー、おねーさん。このお店の中に、ふるーい、年季が入った物って何かあったりする?」
一度見かけた人物にはおじさんと呼び、一方で依頼人に対してはお姉さんと呼ぶあたり、どうも最近の子どもはどこかませてるように思える。ここでおばさんと呼んだ時には――手を上げるかは分からないが、少なくとも機嫌を損ねるだろう。
「え、ええ、あるわよ。大きな時計」
「……時計。うん、やっぱり」
少女の勢いに気圧されたのか、素直に答えると、何か得心したようにうんうんと頷いたあと、ずんずんと近づいてきて再び啓二の裾を引っ張った。
「ねーねーおにーさん、お店の中、連れてって?」
おじさんと呼んでいたのが、急におにーさん呼ばわりになる。お願いする時はご機嫌を取るつもりなのだろうか。
遊んで、とも聞こえるその言葉に、眉が寄るのを感じる。今は仕事中であり、隣にいるのは依頼人で、しかも解決の道がまだ見えていない。そんな状況なのに、そんなことをしている暇はない。
上目遣いでお願いされたところで、それはできないお願いで。
「お嬢ちゃん。お兄さんたちはお仕事してるの。分かる? 邪魔されちゃ困――」
「鍵の場所、知ってるんだってー」
少女の一言に、啓二と依頼人の二人はぴたりと動きを止めた。そしてぎこちない挙動で、お互いの顔を見合わせる。
間違っても、不特定多数がいる場所で鍵の話なんてしていない。それなのに、なぜこの少女は鍵を探している等と知っているのか。
しかも、場所を知ってる、と。伝聞口調で言うというのは、一体――。
「――なに、を?」
「だからね、おねーさんの鍵の場所、分かるかもしれないんだってー」
誰の、までを言い当てる。口から出任せにしては、当たりすぎている。
臨時休業と張り紙がある店の中には、今は誰もいないはず。けれど少女は、誰かに聞いたような口ぶりで、無邪気に声を上げる。
両手を体の後ろで組んで、少しだけ胸を反らして。「お願い」と「できるよね」と二つの意思を込めて、見上げる。依頼人は啓二の方を見つめていた。こくりと頷いたのを見て、小さくため息を付いてからゆっくりと口を開いた。
「…………こっちだ」
「ありがとー、おにーさん」
依頼主がくるりと振り返って、足を向けて歩き出す。
お願いの表情をしていた少女は、にこーっと表情を緩ませた。
◇◇◇
「おい……ええと……」
「スズ、だよ」
振り向いてにへら、と笑みを浮かべて自分の名らしきものを名乗る。「すずしろ、って言いにくいから、スズでいいよー」と続けて、その言われに得心がいった。
なんと呼ぼうかと言葉にできないうちに、あちらの方からそれに応えてきた。表情を読むのが得意なのだろうかと思うと、その笑みが更に深くなった。
「他人の家だ。むやみやたらに触るんじゃないぞ。何度も言うが――」
「遊びじゃないんでしょ? 分かってる分かってる。けーじさん?」
こちらから名乗る前に、名前と同じ発音をされて思わず足が止まる。警察かと勘違いしているのならそれはそれで、と思っていると。るんるんと歌い出しそうな足取りで、「探偵さんなのに、けーじさんっ」と歌うように続ける。
「…………」
一度も会ったこともないのに、名前と職業を言い当て、近所からの言われまでもを言い当てられた。ここの商店街の子だろうか、いや、このくらいの年の子は、少なくともこの商店街に住んではいないはずなのに――
腰の後ろの方で手を組みながら、少女――スズ――は頭の白い花びらをひらひらと揺らしながら依頼人の後ろを付いていく。
「わぁー……!」
寝室に入り、ぐるりと中を見回したスズは歓声を上げる。真新しいものなどは無く、至って普通の寝室のように見えたが、スズにとっては何か感銘を受けるところがあったのだろうか。うきうきしている、という気持ちが前面に出ているような、そんな表情をし。
――そして、寝室の中を駆けだした。ベッドの近くにあるランプに触れ、電気を付け、消し。古時計の元へ行っては愛おしそうに撫で、その向かいの化粧台に向かっては一番下の引き出しを開け――ようとして鍵がかかっていて開けられなかった――ようとした。数分前の『分かってる』などどの口が言ったのだろうか。思わずため息が出た。
物色、と言うと聞こえは悪いが、寝室の中を駆け回る少女を見て、依頼主は何も思わないのだろうかと隣を見ると、ペットの粗相を見るような、そんな優しい目をしている。こんな表情もできるのだ、と頭の片隅で考える。
探検が済んだのだろう、依頼主の元へ帰ってきたスズは、頬をつやつやとさせていかにも『満足した』と言わんばかりの表情を浮かべていた。
「ここのお部屋。部屋も物も、とても大事にされてるんですねっ」
「え? ええ、まぁ……」
依頼人もスズのペースに巻き込まれているのか、啓二に見せた勢いは鳴りを潜めている。
もう一度ゆっくりと部屋の中を見回したスズは、大きな時計に視点を定めながら、依頼主の裾をついついと引っ張って自分に注意を向けさせた。
「ねーねーお姉さん。探してる鍵の形と、分かりやすいものがあれば教えて? あと最後にそれに触ったのはいつごろ?」
注意を引くときに裾を引く動作をするのは癖なのだろうか。年相応らしく、可愛らしいとは思うのだが、今は仕事中なのだ、集中集中。
スズに問われたことに対して、依頼人は膝を折ってスズと目線の高さを合わせる。
「銀色の鍵で、全体的に角張って――かくかくしてて、このくらいの大きさをしているわ。小さな鈴が付いていて、最後に触ったのは昨日。これでいいかしら?」
「ふんふん、なるほどなるほどぉ……」
依頼人が両方の人差し指で鍵の大きさを説明すると、スズも同じように顔の前でその大きさを作り、「こんなくらい?」「そのくらい」と認識が合ったことが分かると、にまーと笑みを作った。それから納得したように首を前後に何回も振る。鍵の場所を知っているなどと言っていたようだが、この少女はそんなことを聞いてどうするのか。
「じゃあねぇ……」
スズの視線の先にある大きな時計。スズには鍵の隠し場所という情報は教えていないはずだが、視線はずっとその時計に向いていた。
とことこと時計の前に歩いて行ったスズは、昼に陶器屋で見かけたときのような笑みを浮かべて――――
「こんにちわっ!」
手を後ろで組んで、小さく首を傾げて。スズは、その時計に向かってそう話しかけた。
「あー、あのな、お兄さんは遊びに来たわけで」「ちょっとしずかにしてて」
釘を刺そうとした声に、ふわふわした――それでもどこか真剣味を帯びた――声が重なる。
「ねぇ、角張った形をした、鈴がついた銀色の鍵ってどこにいったか分かる? 昨日お姉さんが使ったらしいんだけどー」
スズは話を続ける。端から見ると一人遊びをしている子どものようでほほえましい光景ではあるのだが、こちらは仕事で来ているのだ。そういった遊びは、昼に会ったときのようにひとりのときにしてもらいたいものだ。
「なによあの子。私幽霊とかそういうの信じないんだけど」
「僕だって知りませんよ。入りたい、鍵のこと知ってる人がいる、って言ってましたけど」
隣からこっそりと話しかけられ、大きな声で反論しかけたのを、スズの声を思いだしてトーンを下げる。
スズと名乗る少女が行っていることは、ただの子どもの遊びのようにしか見えなかった。
――そう、思っていたのだが。
「ふむふむ、あなたのところから鍵を取り出して、机の引き出しに刺して、中から小さなものを出してなにやらにやにやしてた。鍵を閉めて、そのまま化粧台の方に歩いて行って、化粧を始めて、部屋をばたばたと出て行った。あー、なるほどねぇ。それで鍵は? ああ、化粧台の上に置いたんだ。え、じゃあそこに? 違う? ご主人さまが出てく時に? あー、なるほどぉ」
スズは両腕を組んで、うんうんとしたり顔で頷いて見せる。ご主人さま、鍵、化粧、その日。啓二が事情聴取をするときのようなやりとりを、たったひとりでやっていて。
「うんっ、ありがとね! たぶん分かった!」
スズはくるりと振り返る。口角が上がり、目をきらきらとさせ、目に見えてご機嫌なように軽い足取りで、逆側にある化粧台の前へとてとてと歩いていく。
化粧台の椅子を引いたと思うと、手を使ってそれに乗り、化粧台の引き出しをがらりと開ける。引き出しの中を凝視するようにじぃっと見ていたかと思うと、椅子から飛び降りて再び椅子を数㎝ずらして、また飛び乗る。
引き出しを出し切れなかったのだろうか。依頼主に言えばやってもらえただろうに、と思いながら、スズは先ほどと同じように引き出しを引っ張って――――
「あっ」
スズの声が聞こえたと思ったその瞬間、がしゃん、と部屋に音が響き渡った。
「……………………」
「……………………」
かち、こち、と時計が時を刻む音だけが部屋に響く。
スズも、依頼主も、もちろん啓二自身も、声を出すことができない。おそるおそる隣に立っている人物を見ると、依頼主の表彰が固まっていた。
はっと我に返ったスズは椅子から飛び降りて、引き出し――だったもの――の中をのぞき込む。かと思うと、引き出しの中に手を入れて、何かを取り出した。
依頼主の方へと走り寄ったスズは、依頼人を見上げながら、握った手を開く。
「探しているモノは、これ?」
その手のひらには、銀色の物が光っていた。
◇◇◇
「本当に、本当にありがとうございました!」
依頼主は、ぺこぺこと何度も頭を下げる。
啓二そのものに対してなのか、はたまたその隣で満足げに微笑むスズに向けてなのか、それは分からない。
「いえいえ、見つかってよかったですね」
まったく人騒がせな、との言葉は胸の中にだけ留めておいて、営業スマイルでやり過ごす。
そして、その隣にいる小さな立役者は、と言うと。
「ありがとねー。おかげでお姉さんの鍵見つかったよー」
まるで離れたところにいる友人に話しかけるように、手を上げた。
「え? お姉さんはそそっかしいから心配だ? そーなんだ。……はぁ、化粧を落とさないまま寝ちゃうことが多くって風邪引かないか冷や冷やする。化粧も濃くなってきた? おじいさんもなかなか大変だねぇ」
そして誰かとの会話を再開する。けたけたと笑いながら話すスズは、視線の先に話し相手がいるかのように、頷き、返し、そして笑う。
依頼人は、最初はばつが悪そうに頭を掻いていたが、その表情はだんだんと硬化していった。
「……そうなんですか?」
「………………、なんで知ってんのよ」
試しに、聞いてみた。
たっぷりと時間をかけて、依頼人は苦い物をかみしめたときのような表情で、それだけを呟いた。
「なぁ」
「はーい?」
先ほど探検を終えたあとと同じくらい、つやつやとした表情をして店を出たスズに、思わず話しかけていた。
振り返って見上げるその顔には、好奇心が満ちているように見えた。
「ちょっと話がある。事務所へ来てもらえるか?」
「あらー、人気の無いところへ連れ込んでどうするの?」
人差し指を頬に当て、思わせぶりな顔をして体をくねらせるのを見、周りに誰もいないことを啓二は幸運に思った。端から見ると、明らかに怪しいやりとりでしかない。
「応接室は外から見えるようになっている」
「なら中で甘いお菓子、ちょーだい」
両手の手のひらをみせて、にっこりと笑う。
調子がいい奴だと思いながらも、啓二はその条件を飲むしか無かった。
「あっちで見せた物は……何だったんだ?」
「むぐ、んっ……もぐもぐ、え?」
差し出された羊羹に大きな口でかじりつき、頬張った姿はさしずめハムスターのようでほほえましさを感じる。たっぷり時間をかけて咀嚼して、ごっくんと音を立てて飲み込んだあと、首を右に傾げる。
「え? じゃなくて。その……どうやって鍵を見つけたか、だが」
「そりゃあ……もぐもぐ、ん。聞いたのよ?」
もう半分の羊羹を大きく開けた口に放り込み、もぐもぐごっくんともう一度繰り返し「それがどうかしたの?」とでも言わんばかりに首を今度は左に傾げる。
「聞いたって、誰に?」
「時計のおじいさん」
「…………え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。誰に聞いたって? 時計?
「時計って、何の?」
「お部屋にあった、あの大きな時計よ?」
「部屋にあった時計がどうしたって?」
「だからー、その時計のおじいさんに聞いたの。鍵の場所を」
それで答えは十分でしょ?とでも言いたげに、スズは羊羹をもう一切れ口に運ぶ。
「あの時計が、……しゃべったとでも――」
「ん」
――言うのか、と言う前に、スズは目を瞑って縦に首を振った。
困惑する啓二を尻目に、スズは口の中の羊羹を飲み込み、もうひとつの羊羹へと手を伸ばす。口の中に入れようと口近くまで運んで、視線に気づいたのかそこで手は止まる。
「おにーさんたちが出てきたときにね、お店の奥から『鍵の場所なら知っとるぞぉ』って声が聞こえてきたの。だからおにーさんに話して、中に入れてもらったの」
スズが言うのは店で会ったときのことだろう。その時点で、聞こえていたとスズは言う。
「そして、お部屋の中に入ったら、その声が時計のおじいさんだって分かったの。時計のおじいさんに、昨日、姉さんがどんなことをしていたか教えてもったの。そしたらけしょーだいに鍵をもってっちゃったって言うじゃない? もしかしたらその引き出しの中にあるんじゃないのかなーって思って、引き出しの中を見たら。……落としちゃってけどね。きらって光る物があって。それかなぁって取って見たんだけど、大正解!」
腕を組んで、したり顔でうんうんと頷くポーズは、どこか大人びていて、けれど子どもが背伸びをしているようにしか見えなくて。
「時計に、教えてもらった」
「ずず……ぷはぁ。そうだよー。お姉さんの家にあった大きな時計さんとか、今日見かけたおちょこさんとか、しゃべるひとはいっぱいいるよ? あたし、そのひととお話しするのが好きなんだー」
にこやかに話す様子には、当たり前のことを話すときのように、一切のよどみが感じられない。
このくらいの年で言えば、嘘をつくときには明らかにうろたえたり、言葉が途切れ途切れになったりと何らかの兆候があるはず。けれどスズにはその兆候は無い。
話を聞く限りでは、眉唾ものでしかないが。しかし、今日の呉服店の中の様子では、確かに――――
「…………物が、話すことが、……ある?」
「私が話しかけたら、嬉しそうに返事してくれるし、お話ししてくれるよ?」
まさか、そんなことが。いや、でも今日の依頼は確かに――
考え事をしている間に、啓二の前にあった自分の分の羊羹は、いつの間にかこつぜんと無くなっていた。
◇◇◇
「ありがとー、おかしもおいしかったー!」
お腹をさすりさすり満足げに言うスズは、夕日に照らされてその頬がやけに明るい色に見えた。あれからスズがソファで寝ていたのはほんの数十分ほどで、起きたと思えば次の来客用にと準備していた煎餅やらに再び手を着け始めた。「ダメだ」と言っても「おかし食べさせてくれるって約束でしょ? げんちはとってるよ?」などとませた言い方をされ、結局は押し負けて「好きなだけ食べるといい」と言わされたのだが、それはまた別の話。
――その日。事務所にあった羊羹が一本まるごと無くなった。
スズは羊羹や煎餅など、渋い趣味のものを食べていった。その一方で、クッキーのような洋菓子はどうも苦手なようで、手を付けなかった。
駅の方まで帰るというので、啓二は一応着いていくと持ちかけた。
もしかしたらスズのことが何か分かるかも知れないと思った、ただそれだけのこと。
スズは後ろで手を組んで、ゆらゆらと体を揺らしながら気分良さそうに歩く。そしてその足は、今朝居た場所――陶磁器の前で止まった。
露店の方へと手を振ってから、「おにーさん、やっぱりいい人だったよ。ありがとね」と笑顔で言う。店主に言っているようにも見えるし、その前に並んでいるブルーシートに言っているようにも見える。今朝であれば間違いなく前者だと思うのだけれど――今はどっちに向けて言っているのかは、判断が付かなかった。
出店の陶器屋は何回か見かけたことはあったにせよ、店主などと話をしたことなど無いはずだ。まして名前や職業などは言ったことが無い。
「店主から聞いたのか? ……その、俺の名前とか、」
「んーん、おちょこさんから聞いたの」
「……おちょこさん?」
「ほら、おじさんの目の前にある」
おじさん、は店主を指しているのだろう。その前、スズが指さしたものは――陶器で出来ている、所謂日本酒を飲むための――――
お猪口。……さん?
午前中に見た光景が脳裏に過ぎる。
聞いたと、彼女は言った。
お猪口を手に取って、彼女は頷き、笑っていた。
まさか、あの時計だけでなく、こんな小さな陶器とまで?
「えへー。おにーさんのことは、いろいろ、教えてもらってたよっ」
こちらの表情を読んだのか、イタズラっぽく、にへーと笑う。いろいろ、との言葉に、含みがあるような気がした。
「街灯さんに、看板さんに、マネキンさんに、……えっと、あと、たくさん!」
指折り数えて、彼女は笑う。
風が吹いた。
一本に結った髪の毛と髪留めの白い花がふわりと揺れる。
「ね。あそこのお店でお仕事してる。やまぐち、けーじさん?」
――大きなのっぽの古時計。おじいさんの時計。
――嬉しいことも悲しいことも、みな知ってる時計さ。
ふと、有名なアーティストが歌っていた童謡を思いだした。
時計が知っているなんて、比喩でしかない。
啓二は子どもの頃からずっと、そう思っていた。