綺麗なまま死ねない【本編完結】   作:シーシャ

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17〜16年前
31.現実の世界


 

 

目を開けたら懐かしい天井が見えた。目尻からこめかみに何かが伝った感覚があって、なんだろう、と指で触ると透明な雫が指先に溜まっていた。随分と、長い夢を見た気がする。すごく嫌な思いをするのに、なぜか抜け出せなかった。蟻地獄みたいな夢だったけれど、悪夢を見た後の奇妙な気持ち悪さはなかった。むしろ、どこか満ち足りたような…。ピリリリリ、と鋭い電子音にビクッと体が震えた。頭がまだ寝ぼけていたからか、スマホのアラームだと気付けなくて音源はどこだと随分探し回ってしまった。

 

「7時…?」

 

こんな時間にアラームを鳴らすなんて、今日は何かあったっけ、と頭を回転させるも、とんと思いつかない。何だろう何だろうと思いながらベッドから降りた先に、見慣れたスーツが吊られていた。

 

「…………かいしゃ!!!」

 

何で忘れていたんだろう、会社だ会社!30分後の電車に乗らないと遅刻する!慌ててパジャマを脱ぎ散らかしてスーツを着込んだ。その途中途中で奇妙な感覚がして、着替える手が何度も止まりそうになった。私の肌の色はこんな色だっただろうか。私の足はこんなに太くて綺麗な肌だっただろうか。私の腹や腕もこんなに肉が付いていただろうか。

 

(私の胸はこんなに貧乳……アッ、なんで朝からこんなセルフ自虐してんだ)

 

混乱しながらもキッチリ服を着て、さっさと化粧をしようと鏡の前に立った。そこで、強烈な違和感に見舞われた。私、こんな顔だった?こんな髪だった?こんな目の色だった?鏡の中で同じように困惑した顔をしている女がいた。どこにでもいそうな平凡な人間だ。そう、これが私だ。私以外の何者でもない、……はずなのに。震える手で洗顔をして、さて化粧水をと思った段階でとうとう手が止まってしまった。

 

(……化粧水、どれだっけ)

 

いくつか並んだボトルは、確かに見慣れたものだった。量も半分ほど使っている、私のものだった。なのになぜかそのボトルが不思議なほど洗練されたデザインに見えた。これは絶対におかしい、異常事態だ、そう思ったけれどそこで仕事を休むなんてありえなくて、ボトルの文字を読みながらなんとか化粧水をしていった。駅まで走っている時も、私はこんなに走れただろうかと思ったし、定期を改札にかざすことも一瞬忘れていた。電車は乗り間違えそうになるし、あまりの人の多さと密度に悲鳴が出そうになったし、極め付けに見ず知らずの人の手を掴みそうになってしまった。彫りの深い外国の方で、背が高い男性だった。

 

(いや、いやいやいや!私何しようとしたの!?痴女!痴女なの!?)

 

道に迷いながらもなんとかギリギリの時間で会社に着いた。けれどその後も、仕事の内容を忘れていたり、朝食を抜いたことを忘れていて強烈な空腹に死にそうになったり、同僚の名前が出てこなくて名札を何度も見たりしている私を見かねたらしく、上司から病院に行ってこいとまで言われてしまった。あれ?うちの会社ってこんなホワイトだっけ?いつも殴る蹴るの暴行と言う名の訓練があって骨とかしょっちゅう折られていた気が……?

 

「あんた、大丈夫?ってかそんな会社普通にありえないから。さっさと病院行ってきな?もしかしたら何かヤバい頭の病気なのかもだし。あー、ほら…若年性アルツハイマーとか」

 

うんうん、と頷く同僚たちと上司に促されて、午後から休みをもらって首をひねりながら家に帰った。保険証を家に置いてきていると気付いたからだ。もしかして本当に病気なんだろうか。寝ている間に頭でも打ったのか?でもどこにもタンコブとかないんたけどな…痛むところもないし。私、本当にどうしちゃったんだろう。ため息を吐いて家に帰り、保険証はどこだったかなとあちこちを探しているうちに、ふと本棚が目に付いた。

 

「……ああ、この漫画…懐かしいなぁ」

 

主人公が海賊王目指すやつ。少年漫画らしく努力友情勝利な漫画で、50巻を越えてからどハマりしたから全巻揃えるのが大変だった…。

 

(あれ?懐かしい?)

 

まだ連載は続いているのに、最新刊まで買ってるのに、生まれ変わるまで何度か読み返していたはずなのに。

 

「うまれ、かわる…まで……」

 

キリキリと胃のあたりが痛くなった。けれどそれを無視して、漫画を手にとってみた。海賊船の絵が出てくると、スループ型帆船だとか、ガレオン船だとか、キャラベルだ、なんてぽこぽこと湧き出るように船の種類が分かった。悪魔の実の能力者が出てくると、ああ、ここが弱点なんだよな、でもこの人はこういう戦い方もするから割と隙がなくてやりにくいんだよな、なんて漫画に載っていないことまで考えてしまった。

 

(…なんで?)

 

キリキリ、キリキリと胃が存在を主張する。……違う、胸が、刻まれるように痛んだ。なのに病院のことも忘れて食い入るように漫画を読み直した。そう、脳に、目に、記憶に焼き付けるように。そしていつしか、どうすればこの人を欺けるだろう、どうすればこの人が死なないだろう、そんなことまで考えながら読みふけっていた。夢中になるほど楽しくて大好きだった話なのに、娯楽として他人事みたいに楽しめなくなっていた。

 

「ドゥルシネーアって…なんだっけ」

 

記憶に引っかかっているのに、その単語が漫画に出てこない。スマホで検索して、笑ってしまった。大昔の小説の登場人物だった。ドン・キホーテという架空の騎士になった男が、ある女性を架空の貴婦人に仕立てて、彼女の素晴らしさを世に伝える旅をするらしい。その架空の貴婦人の名前が、ドゥルシネーア…ドゥルシネーア・デル・トボーソ。その正体はアルドンサ・ロレンソという、宿屋の下働きをする、ただの田舎娘。

 

「よくもまぁ、こんな名前を付けたものだわ…」

 

架空の貴婦人だなんて、まさにその通りすぎて笑ってしまう。ドゥルシネーアの正体は、平和な日本で平凡に生きる、ただの会社員なのに。そう、私の名前はーーー。

 

 

 

ぐわん、と頭が揺れた。いや、船全体が大きく揺れたのだろう。目を開けたら見慣れた船室の天井が見えたから。

 

(ああ…やっぱりこっちが現実か…)

 

漫画のコマ一つ一つを鮮明に思い出せる。けれど、こっちの世界が私の現実になっていた。確かめるのは簡単なことだった。だって、泣きながら架空の貴婦人の名前を必死になって私に呼びかけてくる、ドジっ子な兄に抱きしめられていたのだから。

 

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