今日こそ言うぞ、と大きく深呼吸した。今日こそ、今日こそと思い続けて長く経ってしまったけれど、今日こそは本当に言うんだ、と腹を決めた。ドフラミンゴからの独立を宣言する、それだけのことなのに、めちゃくちゃ緊張してしまう。今まで露骨に、面と向かってドフラミンゴに言ったことがなかったから。これが裏切りとカウントされなければ殺されないし、裏切りとカウントされれば殺される。それだけの話なんだけど。痛覚がなくてよかった。きっと殺される時は痛いだろうからなぁ。ごくんと生唾を飲み込んで、意を決してドフラミンゴの自室の扉をノックした。
「…兄上、ちょっといい?」
「ああ、入れ。何かあったか?」
部屋にはドフラミンゴの他にロシナンテもいた。そのことにホッとする。いざって時は守ってね、お兄ちゃん。戸を閉めてドフラミンゴと対面する位置に立って、気合いを入れて口を開いた。
「ドフィ兄上、私、独立したい」
「………あァ?」
いつものニヤニヤした口元が、ギュンッと逆向きになった。完全なる不機嫌顔だ。あ、やっぱこれ殺されるパターンかも。同じことを思ったのか、視界の端でロシナンテが険しい顔をしていた。
「……すまないなァ、ルシー。おれの聞き間違いか?お前が、何だって?」
「私は、兄上に食わせてもらうタダ飯食らいの寄生虫を、卒業したい」
分かりやすく卑下して言ったら、ドフラミンゴはいつものように笑う余裕すらなかったのか、目頭を指でほぐしながら天井を仰いだ。
「…………ハァー………いいか、ルシー。お前が独立する必要はねェし、お前1人独立したところでガキの頃みてェに迫害を受けるのがオチだろう。何よりお前は大切な家族だ。タダ飯食らう寄生虫だなんて思ったことは一度もねェ!」
覇気とまではいかないものの、それに近い圧をぶつけられた。思わず引き下がりそうになる足を気合いで留めて、ならばと口を開いた。こんな風に言い返されるなんて、百も承知だ。
「それなら私にも仕事をちょうだい。何でもいい。家事だって、売られた人たちの世話だって何だっていい。私はこれからもずっと、一生食わせてもらうだけの役立たずなんて嫌だ!」
ドフラミンゴの側から逃げ出すことを拒否されるなら、せめて働かせろと要求した。私は間違ったことは言っていないはずだ。なのに。
「ダメだ!お前に任せるような仕事はねェ!」
全てが、押し潰されてしまう。拒絶されてしまう。私の存在などあってないようなものだと、そういう意味なのだろうか。…いや、きっとドフラミンゴは本当に、無意識のうちに私を人形扱いしているのだ。お気に入りの人形を、いつまでも手元に置いておこうとしているんだ。その人形に意思があることも、ひとりの人間であることにも、理解できないままに。そう気付くと、頭の中がカッと熱くなった。冗談じゃない…ふざけるな!私にだって自分の人生を生きる権利はあるのに!罵倒が口から飛び出てきそうになったが、その直前に頭のなかにポンとベッジさんの顔が出てきた。そうだ、この間ベビー5と話したじゃないか!
「じゃあ…じゃあ!結婚する!結婚して、ここから出て行く!どうせ兄上だって私の活用方法を考えてるんでしょ?どこかと同盟を組む時の道具になるようにって!」
「ルシー!!!」
とうとうドフラミンゴが席から立ち上がって怒鳴ってきた。一瞬怒りで我を失ったのか、覇王色の覇気をぶつけられてビリリと体が震え、意識が吹き飛びそうになった。けれど私が泡を吐いて失神する前に、視界いっぱいに、真っ黒のモフモフが現れた。
「…退け、コラソン」
自分が妹を攻撃しようとしたことに気付いたのか、覇王色の覇気がフッと消えて、いささか冷静になったドフラミンゴの声が聞こえた。ロシナンテは無言のまま、後ろ手で私の手を握りしめてきた。ドフラミンゴの命令を無視して、私の盾になるようにドフラミンゴの視線から自分の体で私を隠してくれた。大きな手のひらに、私の手なんてすっぽりと包み込まれてしまう。温感も触覚もないのに、記憶の中にある温かさと包み込まれる感触が、脳裏に再生された。この手の優しさに、涙が出そうになった。
「ハァ……。ルシー、お前を同盟の道具に使う気なんざねェ。そもそもお前を結婚させることもない。お前はおれの大事な妹だからだ。それは、分かるな?」
「………うん」
「お前が結婚を望むなら、相手はおれが選ぶ。お前に相応しい人材、人格、血筋、権力…それらを加味した上で、良さそうな男をお前に選ばせてやる」
「………そんなの、なくたって、いいじゃない」
ロシナンテの手を握りしめて、もう片方の手で目の前のコートにしがみついた。久しぶりに、目の前がくるりと回りかけた。ドフラミンゴの言葉があまりにも独善的で強烈で、倒れそうだった。
「フッフッフ……お前は『おれ』の妹だからだなァ…!」
「っ…!!!」
「……話は終いだ。そろそろ次の商談の時間だ。コラソン、片付けておいてくれ」
この話題は終わったと言わんばかりに、ドフラミンゴはいつも通りに部屋を出て行った。姿が見えなくなって緊張が解けたのか、私は立っていられなくて床に座り込んでしまった。…圧倒された。ドフラミンゴの、歪みきった思想を、思い知らされた気がした。ドフラミンゴがどれほど自分自身に付加価値を見出しているのか、私自身に何を求めているのか、そのことを否応無しに無理矢理脳内にねじ込まれたようにすら感じた。ぶるり、と体が震える。怖い…怖い、怖い!!!
「………」
スッと目の前にロシナンテがしゃがみ込んだ。しゃがんでなお大きなロシナンテは、口を開いて何かを伝えようとして、けれど音が出ていないと途中で気付いたとばかりに真面目な顔をしたり、慌てたり、不思議な行動をした。そして涙をぼろぼろ零しながら見上げる私の顔を大きな両手で左右から挟み込んで、じいっと目を覗き込んだ。漫画でローにここから出て行けと行った時のように、真剣な顔で、何度も同じ単語を繰り返し訴えてきた。『大丈夫』、『大丈夫だ』…と。何の根拠もない、気休めだ。けれど、聞こえずともその言葉は今の私に効果抜群で、まるで特効薬のように効いた。マイナスにまで落ち込んだ心が、ゼロに戻されたようだった。
(たすけて…)
ずっとずっと、助けてほしかった。ずっと誰かに守ってもらいたかった。私が守るのではなく、私を守って欲しかった。子どもの頃から、いや、理不尽なこの世界に生まれた時から、ずっと。私の『心』を守ってくれる人が欲しかった。
「…ロシー……たすけて…」
涙腺が崩壊したみたいに涙が止まらない。目の前のロシナンテに縋り付いて、私は声を上げて泣いた。ロシナンテは大きな体ですっぽりと包み込むようにして私を抱きしめて、トン、トン、とゆっくりとしたリズムで慰めるように背中を叩いてくれた。全て知っている私が、殺されるであろうロシナンテを守らなければならないのに。こんな私がロシナンテに守ってほしいと縋り付くなんて、本末転倒だ。結局私はどこまで行ったって、自分のことしか考えられてないのだろう。…優しいロシナンテに甘えて、犠牲にさせるようにして。
(…優しい人は、勝手な人に頼られて、振り回されて、可哀想だって。本当に、その通りだ…)
そう言っていた登場人物がいた。あれは一体何の本だっただろうか。