わあん、わあん、と鍋の蓋が落ちたみたいな、子どもが泣いてるような…そんな音が遠くから聞こえていた。体を揺さぶられる感じがあって、ああ、もう朝なんだとぼんやり思った。なんだか長い間、お母さんのごはんを食べてない気がする。そうだ、久しぶりに和食がいいなぁ。料亭のごはんみたいなのじゃなくていいよ。白いごはんとお味噌汁、それから卵焼き。焼き魚があったら万々歳かな。あと肉じゃがも食べたい。ううん、やっぱり何でもいいよ。お母さんの作ってくれたごはんならなんでもいい。
(お腹いっぱいごはんを食べて、綺麗であったかい布団でたくさん寝たい。ただ生きるだけのことなんかに心配せず、誰にも怖い思いをさせられないで…)
そこまで考えて、おや?と疑問が浮かんだ。平和な日本に生まれ育った私が、なぜそんなことを心配するのか、と。
「………ぅ……」
ほんの少し身じろぎしただけで、腹部を中心に激痛が走った。まるで全力で動き回って筋肉痛になったみたいな、前世で毎月地獄のような苦しみを感じていた生理痛が内臓全部に広がって出てきたみたいな。息が止まるほどの苦痛にしばらく耐えて、なんとか目を開けてみればボロボロで粗末な天井が視界に広がった。やだ、私の部屋にいつの間に改修業者が入ったの?お母さん何も言ってなかったじゃん。部屋の片付けとかしてないからその辺に雑誌とか放置して…。
(ん?前世…?………あ)
切れた糸が繋ぎ合わさったように、記憶がギュルギュルと急激に戻った。私は生まれ変わって、ドンキホーテ家の娘になって、家を焼かれて、ドフラミンゴたちと買い物に行って、それで…それで……。
「……る、ルシー!?」
ぐわん、とベッドが沈んで体が揺れた。ベッドに飛び乗ってきたらしいドフラミンゴが、真上から私を見下ろしていた。
「……あに、うえ…?」
「ルシーッ!!!」
「ぐえっ!」
容赦ない抱きつき攻撃で体中が悲鳴をあげた。今度こそ息もできなくて目の前にチカチカ星が飛び散った。だというのにドフラミンゴはこっちの様子などおかまいなしでぎゅうぎゅう抱きしめてくる。そろそろ死ぬ、と意識が薄れかかった時、外からロシナンテの声が聞こえてきた。
「兄上、母上にお花を…ルシー!?」
バフッとベッドから埃が舞って、ベッドが沈んだ。…嫌な予感。反対側からロシナンテの顔のアップが視界を占めて、ガッチリ拘束されるが如く体をホールドされた。
「ル"ジィィィ…!!!」
「ぐぇぇ…」
「ル"ジー…ごべん…ごべんね"……っ!」
これは一体何事なんだろうか。ドフラミンゴは無言で絞め殺さんばかりに抱きついてくるし、ロシナンテは鼻水まで滝のように流しながら謝罪の言葉を繰り返している。二人ともが、あっという間に私の服がびしょ濡れになるほど、号泣している。なんとか痛みを堪えつつ身をよじって、気道を確保した。何か分からないけれど、この子ども二人が泣きじゃくるなんてそうそうない。手は何故か動かなかったから、頭を左右に動かして、頬をそれぞれの頭に擦り付けた。
「泣かないで、ドフィ兄上、ロシー兄上」
「でも"…っ!」
「……ルシー…!?」
ガラン、と金属の何かが床に落ちる音がして、父親の声が聞こえた。
「父上?」
「ああ……ルシー!ああ、あぁ……よかった、ルシー…!よかった!!!」
「ぐえー」
父親が子どもをまとめて抱きしめるようにしてきたせいで、せっかく呼吸できていたのにまた酸欠になった。本当にこいつら似た者親子だな!親子……おや?そういえば母親の姿が見えない。というか私が寝ているここってベッドだよね?ベッドって母親がずっと使ってたよね?あれ、母親どこいった?もしかして治った!?
「父上、ねえ、母上はどこ?」
父親が、ピタリと嗚咽を止めて表情を暗くした。ドフラミンゴが一層強く抱きついてきた。ロシナンテがびくりと震えて一層激しく泣き出した。そんな彼らを見て、ひどく嫌な感じがした。
「母上は、どこ?」
父親の反応を見ながら、慎重に尋ねた。じわりと滲んだ嫌な汗に、気付かないフリをして。
「ーー…ぁ………」
「母上は!出て行ったんだえ!!!」
「…ドフィ兄上?」
か細く息を吸った父上が声を出すより早く、ドフラミンゴはそう声を張り上げた。
「『こんな所はもう嫌だ』と、母上は出て行ってしまったんだえ!だから、もうここには帰って来ないんだえ!」
「兄上…〜っ!」
「だから!ルシーは母上のことは忘れてしまうんだえ!」
「ウゥ…ッ!」
嘘だ。ロシナンテが絶望したような顔で泣いている。父親が悔しさをにじませる顔で泣いている。何よりドフラミンゴが、以前の癇癪の時のような、思い通りにならない全てに対して激怒する顔で、泣いている。
(ああ、死んだのか)
あの弱い女性は、死んでしまったのか。人に虐げられたのに、復讐も何も考えず、怯えて暮らすだけだった弱い人。雨に打たれても、石を投げつけられても、我が子を細くて頼りない腕の中に隠して守り続けた弱い人。前世の記憶のあるバケモノのような私を、周囲の天竜人のように気持ち悪がりもせず、ただただ笑顔で慈しんで愛してくれた人だった。……ああ、もしかしたら、そんな天竜人たちから私を遠ざけたくて、夫の計画に賛同したのかもしれない。だからって天竜人をやめてしまうなんて、今でも私は馬鹿だと言ってやりたいけれど。
(……最期まで、あの人を母親と愛することはできなかったなぁ)
前世の年齢と比較しても、彼女のことは姉妹と同じ感覚でしか見ることができなかった。腹を痛めて産んでくれても、ずっと愛してくれていても、私は彼女を母親として愛することができなかった。私の母親は、前世でのお母さんただ一人だけだったから。もし、彼女の今際の際に私が寄り添っていたとしても、きっと最期の最後まで、私は彼女を母親と見ることはなかった。けれど、彼女は本当に、この世界で私が出会った誰よりも、『母親』だったと思う。
「……そう…母上は、いってしまったのね…」
彼女が逝った先は、きっとこんなゴミ捨て場なんかよりも、ずっとずっと綺麗であたたかい所だろう。
(お腹いっぱいごはんを食べられて、綺麗であったかい布団でたくさん寝られて。ただ生きるだけのことなんかに心配せず、誰にも怖い思いをさせられないで…)
「…ぁ。……ふふ…」
ふと、頭の中で繋がった。私が前世で生きていたあの場所は……今はもう遥か遠く、手の届かないあの世界は。
きっと、天国と呼ぶにふさわしい場所だったのだ。