三十路手前でこんなに困惑することがあるだろうか、いや無い。頭の中で反語を繰り返しても、現状は何一つ変わらなかった。現在私がいるのはピーカの中。もう一度言おう、『ピーカの中』である。どうしてこうなった。
「ルシー、何があっても声を出すな。お前を外に出した後もだ。お前は一言も喋らず、おれの横に立ってろ…いいな」
「……トレーボル、ピーカ。私は船の中で待機じゃないの?」
「この方がドフィのためだからなァ〜!暇ならそこで寝てりゃいいぜ〜?べへへへ!」
石に反響してくぐもった声で、トレーボルはシレッと前言撤回していた。おいドフラミンゴ!あんたの参謀めちゃくちゃ腹立つんですけど!?ってか参謀の意見を受け入れてよ!
(船の中で全部終わるのを待ってたいってのに!)
なんとなく、ドフラミンゴの考えは分かる。…30年近く一緒にいるんだから、多少は考えが読める。ドフラミンゴは、ドラマチックに演出したいのだろう。自分が国王として迎え入れられるよう、私が王女として認められるよう。チッ、と舌打ちすると、ピーカからお叱りの声をいただいてしまった。
「ルシー、上品にしていろ」
「ふんだ!」
「ルシー…」
あ、困ってる。やっぱりピーカは私に甘い。ディアマンテなんて外で笑ってる声しか聞こえないってのに。
「フッフッフ!おれの妹はワガママだなァ…だが、そうでなきゃ困る」
「ハァン?何言ってんの兄上」
「フッフッフ…!随分と『らしく』なってきたじゃないか、ルシー」
前言撤回。やっぱりドフラミンゴの頭の中は意味が分からない。何がよ、と言い返したかったけど、外から悲鳴が聞こえてきて口を閉ざした。悲鳴…数多の、悲鳴だ。人の泣き叫ぶ声…いっそ殺してくれと懇願する声……石の壁に渦巻くように、反響して消えない。空気穴は空いているけど、夜の暗さも相まって、自分の手すら見えない暗闇の中で聞くその怨嗟の声は…さながら地獄のようだった。
(気持ち、悪い)
あの声は、ドレスローザの人々の叫びだ。平和に生きていた人々の、その全てを踏みにじる…悪魔の所業に対する叫びだ。それはつまり、私たちへのーー。感覚もないのに、ぞわ、と背中が粟立った気がした。怖い。怖い。あの悲鳴が、怖い。あれはいつか私たちに向けられる。必ず、私たちは報いを受ける。殺せと叫ばれる対象になる。『原作でそう決まっている』。その瞬間、不意に、あの迫害の日々を思い出した。
「ーーーぁ……っ!」
ドフラミンゴとロシナンテを庇おうとした、あの日を思い出した。気が付いたらベッドに寝ていて母親が死んでいたけれど…私はあの日、大人たちに『ああされた』んだった。足元の、街から響く悲鳴に、記憶の中のドフラミンゴとロシナンテの悲鳴が重なる。殴られた。蹴られた。踏みにじられた。罵声を浴びせられた。髪を掴んで投げ飛ばされた。酒瓶で頭を殴られた。ナイフを投げて遊ばれた。オモチャみたいにーーー捨てられた。
(っ嫌だ……思い出したく、ない…っ!)
失ったはずの痛覚が蘇ったように、全身に痛みを感じた。体がガクガク震えた。…歯の根が合わない。呼吸が浅くなって、頭がぼんやりした。それでも、一度思い出した記憶は、消えてくれなかった。
「……ルシー、どうした?」
ピーカの声が、遠い。反応しない私を訝しんだのか、ピーカの顔が内側に出てきた。
「ルシー!?どうした、何があった!?」
「どうした?」
「ドフィ、ルシーの様子がおかしい…!」
「!?」
石の壁が崩れて穴が空いた。そこから伸びてきた腕が、私を引きずり出した。ぐるりと変わった視界に、地上でごうごうと燃える炎の赤が映った。
「ルシー!おい、しっかりしろ!」
『ルシー、しっかりしろ!目を…目を開けるんだえ!』
幼い頃のドフラミンゴの声が、耳元で聞こえた気がした。もしかしたら私が暴行を受けた時に、同じように声をかけてくれたのかもしれない。じわりと視界がぼやけて歪んだ。
(ドフィは、何も、変わってないよね…?)
ドフラミンゴにも…優しいところが、本当はあるんだよね?でもそれ以上に苛烈な性格すぎるだけで、世界中全部が憎いだけ。そうだよね?ねえ、そうだと言って欲しい。私に救いを与えて欲しい。こんな風に…神さまみたいに、無数の人の悲鳴をあざ笑うだけの人間じゃないんだって…!
「兄上…もう、やめてあげてよ…っ」
掠れた悲鳴のような声を、ドフラミンゴは腕に閉じ込めるように、私を抱きしめてきた。
「ーーお前は本当に弱いなァ、ルシー…」
呆れか、落胆か、そんなのは分からない。だけどドフラミンゴは、弱い私を炎の明るさから遠ざけるように包み込みながら、ひどくつまらなさそうにそう言った。