真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜   作:ヨシフおじさん

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96話:金の暴力

 

 日は既に暮れゆこうとし、藍色の幕が下りてくる空を背景に火の手が上がる。最初の標的となった、市長の館が焼き討ちにされたのだ。

 大歓声と口笛が耳をつんざく。近くの豪奢な屋敷にも火が放たれ、ごうごうと燃え上がる炎の音があたりに響く。大理石の壁が、木の屋根が、棍棒でたたかれ、石を投げられ打ち崩される。道路脇に並ぶ商店には、イナゴの群れが押し寄せるように暴徒達がなだれ込み、軒先を壊して中の商品を奪い去る。

 

 突然の悪夢に驚愕し、怒る間もなく逃げ惑う人々の声もかき消されるばかり。肌を斬るような冷たさに重く湿っていた空気は、ひるがえって肌を焼く炎の熱が充満してカラカラに乾いている。忌まわしい黒煙が夜のとばりを覆い、金粉が踊り狂うように火の粉が飛ぶ中、容赦ない破壊と略奪は続けられた。

 

「やったぞ、はははは!」

 

 次の放火先を探してながら、めらめらと燃える松明を振りかざしていた男が叫んだ。それを聞いた暴徒たちは、昂ぶりきった表情でいっせいに反応した。

 

「袁家を倒せ!」

 

 大合唱と共に歩く群れの中には、涙を流す者も、狂ったように高笑いする者もいる。袁家打倒の掛け声は炎と共に広がり、宛城に一晩中響き渡っていた。やがて暴徒は踵を返し、大宮殿の方へと未開始める。

 

 暴動の発端となった広場を中心にして、数々の重要な建物が火事に見舞われた。政府要人の大邸宅から、大商人の商館まで、ほとんどの建物が焼き尽くされた。暴徒達は、いよいよ袁家の大宮殿にも火を放つ。

 複雑なレリーフの彫られた正門も、その奥の人民委員会議事堂も、黒い煙と赤い炎に包まれる。

 

 処刑場らへの襲撃を合図としたように、張勲の目の前で宛城の街は様変わりしていった。

 

 処刑場のあった中央広場は突如として正体不明の武装集団に占拠され、大通りでも所属不明の鎧を付けた一団が表通りを進んでいた。謎の武装勢力はその後も続々と数を増やし、瞬く間に道路や各種重要施設を制圧し、政府機関を包囲して大勢の役人を投降させた。宛城のあちこちにある警官の詰所を中心に、夜の街には断続的に剣戟の音と悲鳴が続いている。恐らく今も、警官と兵士と民衆が殺し合っている事だろう。

 

 部下の報告によれば、今回の騒動に対して大半の名士たちは自衛をしながら時間を稼ぎつつ、屋敷や別荘から本当に大事な書類や財産などを手にして、避難を始めているらしい。謎の武装集団はやたら統制された動きで交通機関を次々に封鎖していき、さらには民衆を扇動して暴徒化させている。このまま放置すれば、三日と経たない内に袁家は分断され、人民の海に埋葬される事になるだろう。

 

 

 恐れていた事が現実になった――張勲は自室の窓から、行政府庁舎や豪邸の周囲で火災が発生していく様子を見続けていた。念のため、袁術も隣にいる。

 

 中央区画外縁では、政府機関に詰めている警備兵と警官が反撃を始め、苛烈な市街戦が始まっていた。通りでは火災の煙をぬぐって、矢と石が飛び交う。建造物の一部が砕け散り、直撃を受けた人間が倒れ、死者と瓦礫が折り重なっていく。

 

 行政機関に襲撃をかけてきた暴徒に対し、袁家は数少ない兵士を動員して防衛させていた。対人戦闘のレベルではプロである袁術軍兵士たちの方が優っているようだが、暴徒達は多数の損害を出しながらも次々と溢れてくる。郊外の駐屯地や要塞に詰めている部隊にも出動命令を出してはいるが、その到着にはまだ時間が必要だった。

 

「状況は!? いま外がどうなっているか把握できましたか?」

 

 張勲が入室してきた侍従に問う。その顔には珍しく焦りがあった。彼女だけではない。傍にいる袁術も含め、全員が蒼ざめた表情で報告を待っていた。

 

「現状、確認できた侵入箇所は25か所。奮戦虚しく、そのすべてが暴徒の制圧下に置かれつつあります」

 

 武装した暴徒は街中を暴れまわっており、政府のコントロールは分断されつつあった。どうやら扇動者は、入念な計画を練っていたらしい。袁家では様々な情報が入り乱れ、何が起こっているのか誰も正確に把握できない様子であった。

 

 ――既に最初の蜂起から、8時間以上が経っている。人民委員会議も中断されたまま、一同は肩を縮め、息を凝らしてひたすら嵐が過ぎ去るのを待っていた。まだ外は明るさが残っているというのに、美しいモザイク画に彩られた広間は深い暗雲が垂れ込めたかのようだった。

 

 少しでも気を紛らわそうと、張勲は隣にいる袁術に声をかけた。

 

「美羽さま、昼寝はもういいんですかぁ? 眠れないなら、私が歌でも……」

 

 しかし袁術は心配そうに張勲を見遣り、ふるふると首を振った。普段の陽気な彼女とはまるで違う、凍り付いた青白い人形のような姿であった。

 

(美羽さまをこんなに怯えさせて……!)

 

 頭の中を駆け巡るのは、このまま反乱軍が宮殿に押し寄せてくるのではないかという恐怖以上に、不甲斐ない軍隊と家臣に対する怒りだった。

 

「軍と警察は何をしているんですか!? それから他の人民委員たちは今どこに?」

 

「その事なのですが……」

 

 言いにくそうに口を開いた侍従を見て、張勲は嫌な予感がした。

 

「劉書記長を始め、人民委員の大半は持てるだけの財産を馬車に積み込み、郊外にある軍の駐屯地に避難したそうです。残っているのは忠誠心のある家臣と、逃げ遅れた人間だけかと」

 

「………っ」

 

 案の定、あっさりと主君を見捨てて逃げていた。ある程度の覚悟はしていたものの、ここまで多くの、しかも高位の人間が逃げ出したとなると、流石に茫然として項垂れた。

 

「……つまり、本来お嬢様を守るはずの家臣たちが安全な所に逃げおおせ、君主であるお嬢様だけが逃げ場のない片隅に取り残されているという訳ですね」

 

 こういう時ほど、誰が敵で誰が味方かはっきりすることは無いと張勲は思った。今更のように、仮面を被っていた家臣たちお顔が脳裏に浮かぶ。楊弘、袁渙、閻象……そして劉勲。

 

 もちろん反撃の為に、一時的に避難したという事もありうる。しかし脱出してから既に半日が経とうというのに、軍の反撃があったという話は一向に聞こえてこない。

 

(あの女狐……!)

 

 悔やんでみるが、どうしようもない。張勲は深いため息をつき、肩をがっくりと落とした。袁術の下に留まる方が得なのか、反乱軍に寝返った方が賢いか、もう少し静観して様子を見ようというのである。賢しい劉勲らの考えそうな事ではある。取り巻きの貴族どころか、日々命がけで自分たちを守るはずの軍隊すら仮面を被っていたという事実に、衝撃を隠せなかった。

 

 

「――気を付けろ!倒れるぞ!!」

 

 誰かが叫んだかと思うと、続いて地震と間違うほどの振動が張勲たちを襲う。外を覗き見れば、火災によって宮殿の塔が崩れ落ちていた。行政府庁舎の巨大な庭にも、煙が満ちる。やがて煙の中から現れた暴徒の姿に、張勲には目を見開いた。

 

「破城槌!?」

 

 煙の中から、出現したのは巨大な丸太。先端は威力と強度を増すために金属で補強され、十数人が両側から抱え持っている。

 

 破城槌を抱えた暴徒の集団は、行政庁舎の正門へと近づいて行った。警備兵が建物の影から攻撃を続けるが、数に勝る暴徒は被害を出しつつも前進していく。中には弩のような飛び道具で武装した暴徒までおり、退避しようとする警備兵に射撃を加える。

 

「急ぎなさい!――いいですか、一秒遅れるごとに一人の命とお嬢様の寿命が一秒分縮まると思ってください!」

 

 ようやく腹をくくった張勲は、遅ればせながら脱出の指示を飛ばす。認めたくはないが、早々に宛城を脱出した劉勲らの判断は正しい。

 

(今の宛城は絶海の孤島も同然。ここじゃ外で何が起こってるか分かりませんし、外にいる友軍も美羽さまの安否や残存兵力の把握が出来なければ動けない……)

 

 大多数の諸侯や武将が静観を決め込んでいるのは、袁術の安否が不明だという点が大きいと思われる。袁術軍は典型的なピラミッド状のトップダウン組織であり、上の指示なくして下は動けない。それには軍の暴走や反乱を抑止するという効果的があるも、上の指示が無ければ何も出来ないという負の側面もあった。

 

 単に勝ち馬に乗らんとする不届きな輩もいるだろうが、誰が敵で誰が味方で誰が中立なのかを知る上でも、宛城の外に出る必要がある。どの道、援軍のアテもないまま籠城するのは愚策でしかない。

 

「七乃よ――あれはどうするのじゃ?」

 

 思案にふけっている張勲に、袁術が声をかけた。視線の先には幾段にも積まれた木箱があり、中には金貨がずっしりと入っている。袁術が貯め込んだ、個人的な資産だ。こんな時でもまだ、袁術は呑気に場違いな事で悩んでいるらしい。

 

「お嬢様、残念ですが嵩張るものは置いていくしか……」

 

 残念だが、放置するしかないだろう。あれだけの財宝を移送するとなると、脱出計画は大きく遅れることになる。

 

「嫌じゃ! あれは妾のものじゃ!」

 

 しかし正論で納得するなら袁術ではない。案の定、駄々をこねて突っぱねる。

 

「愚民どもにタダでくれてやるなど、もってのほかじゃ! 金をあげるからには、妾も何か貰うわんと気が済まぬ!」

 

「……っ?」

 

 不意に、張勲の手が止まった。袁術の言葉に、何か違和感を感じたのだ。

 

(そうか……“タダ”では……!)

 

 張勲は驚く袁術をよそに、小柄な彼女を力一杯抱きしめ、大声で叫ぶ。

 

「お嬢様……お嬢様は、天才です!」

 

 

 **

 

 

 破城槌が正門扉まで達すると、暴徒たちは容赦なくそれを扉へとぶつけた。木片が飛び散り、一目で高価と分かる扉が見るも無残な残骸と化す。不利と見た警備兵たちは態勢を立ち直すべく、庁舎内へ後退している。

 

 もはや暴動のレベルではなかった。そこで行われているのは訓練の差こそあれ、武装した2つの戦闘集団による市街戦だ。

 

 

「行政府庁舎の陥落も、時間の問題だな」

 

 甘寧と孫権は、名士たちの豪邸が並ぶ富裕地区に近い丘に立っていた。勝ち誇った気分で視線を移し、火災の黒煙が噴き上がっている中央地区に向けた。名士たちの豪邸はすでに暴徒によって破壊と略奪の限りを尽くされており、街は無法地帯となっている。

 いまだ多くの煙が上がっている宮殿周辺には、直属の戦闘部隊を送り込んである。彼らは袁家の兵士と交戦中のようだった。

 

「甘寧、まだ安心はできない。袁術と袁家高官を確保しない限り、必ず将来に禍根を残すわ」

 

「ですが、それも時間の問題です。組織だった抵抗は、昨日から報告されていません」

 

 甘寧の意見はもっともだ、と孫権も思う。もはや袁家の命運は風前の灯だ。

 

 頭に血を昇らせた暴徒達は、郊外から中央区画へと雪崩を打って襲い掛かっていた。役所を荒し、破壊行動を続ける。普段から溜まりに溜まった怒りを爆発させ、数にモノをいわせて歴戦の兵士たちを圧倒する。多数の死者が出て遺骸が道に折り重なるも、破壊に酔いしれた暴徒たちが留まる様子は見られなかった。

 

(これが、あの栄華をほこった袁家の最期なの……?)

 

 正直な話、孫権は未だに信じかねる思いだった。

 

 袁家は膨大な軍隊を持ち、いくつもの大きな都市を造った。至る所に運河と道路を作り、その支配下で江東の人口は倍増した。

 

 孫権は内政担当という職業柄か袁家にも多くの知り合いがいるが、彼らはおしなべて賢かった。袁家家臣の大部分は孫家に残酷な仕打ちをしたが、そうでない者たちもいる。似たような立場にあった賈駆や華雄は同情的だったし、紀霊などは他人に興味が無いがために公平だった。

 

 しかし、彼らもまた袁家の一員であることに変わりは無い。際限のない欲望と、自分さえ良ければいいという自己中心主義。最終的には、それが彼らの首を絞める事になったのだ。

 

「……あれは」

 

 ふと孫権が目を凝らすと、行政府庁舎の屋上に誰かが立っているのが見えた。豪奢な服をまとった袁家幹部に、警護の衛兵。そして使用人と思われる人々が、大きな木箱を次々と建物から運び出していた。

 

「まさか……張勲と袁術か!?」

 

 

 **

 

 

 幼い領主の突然の登場に、暴れていた民衆は呆気にとられた。一時的に物を壊す手を止め、袁術をよく見ようと視線を凝らす。後ろの方にいて良く見えない者は、前にいる人間を押して近づこうとしたため、大勢の人々が行政府庁舎前に集まる事となった。

 

 そのタイミングを見計らって、袁術は張りのある声を響かせる。

 

「皆の者!そち達は大きな勘違いをしておる! ――妾たちは、民の味方じゃ!」

 

 あれだけの弾圧と恐怖政治を敷いておきながら、何を今更――張勲の言葉は民を鎮めるどころか、却って火に油を注いだようだった。罵詈雑言の嵐が吹き荒れ、さすがの袁術も顔を強張らせる。

 

「もう一度、はっきりと言おう。袁家は民の味方であると!」

 

 袁術が大声で言う。その姿に、孫権はひどく嫌な予感がした。

 

「これが、その証拠じゃ!――七乃!」

 

「はい!」

 

 張勲は使用人たちに合図し、木箱の蓋を開けさせる。ガシャリ、と金属同士がぶつかり合う音が響いた。

 その箱の中にギッシリと詰められていたのは、袁家が貯め込んだ古今東西の金銀財宝。袁術の持つ、最後にして最強の武器だった。

 

「皆の者、今までよくぞ耐えた!そち達の我慢の成果が、この財宝なのじゃ!」

 

 群集が「おお」と声を上げる。

 

「袁家当主、袁公路の名のもとに命ずる! これは褒美じゃ!――受けとれぃ!」

 

 袁術を彼らに見せびらかすように金貨を掴むと、思いっきり遠くへ放り投げた。張勲ら家臣たちも袁術に倣い、人々の頭上に雨のように金銀財宝をばらまいた。

 

「か、金だぞ! 本物の金貨だ!」

 

 民衆の一人が、素っ頓狂な声を上げる。

 

「本当だ! 金だ! 金貨だぞ!」

 

「おお、こっちは宝石だ……こりゃ凄ぇや」

 喧騒は瞬く間に辺り一面に広がった。群集の視線は、すっかり地面にばら撒かれた金貨に釘付けである。むべなるかな、田舎では金貨一枚で一月はゆうに暮らせるのだ。

 

「この金貨こそが、袁家が民の為を思っているという動かぬ証拠! 手に取って、噛んで確かめてみよ! 妾がそち達に与えるのは、生活の役に立つ金貨なのじゃ!」

 

 じゃり、と金属音が鳴り響き、人々は武器を捨てて金貨を追う。空から落ちてくる財宝をかき集めんと、我先にと群がってゆく。

 

「どけっ!それは俺のだ!」

「んだとぉ!? 俺の方が早かったじゃないか!」

「あんた達、争ってるヒマがあったらさっさと拾いな。時間がもったいないよ」

 

 もう誰一人として武器を取る気は無かった。袁術を武器で脅す暇があったら、地面に落ちた財宝を探したほうがよっぽど得だからだ。それほど袁術の撒いた財宝は多く、鷲掴みにして服にねじ込もうとする者もいれば、両手に抱えきれず口の中にまで宝石を詰め込む者すらいた。

 

 袁家に対する怒りなどどこかへ吹き飛んでしまったかのように、民衆は金集めに没頭していた。皆が顔を紅潮させ、興奮しながら必死に金貨を回収する。暴徒どころか孫家の工作員たちですら、民衆に交じって金貨を集めていた。

 

「待てっ! みんな待つんだ!」

 

 甘寧が叫ぶも、この狂乱の中では無意味だった。そんな彼女をあざ笑うかのように、袁術はよくもこれだけの金があったものだと感心するほどの財宝をぶん投げている。張勲はそれすら面倒なのか、木箱ごと投げ捨てていた。

 

 

「妾はこれでそち達の忠義を買おう! 袁家に従えば、いずれもっと沢山の金貨を与えようぞ!」

 

 

 忠誠心を金で買う……賢い統治者である曹操や孫策なら、そんな安い忠誠心を鼻で笑うだろう。金で忠義を買えると思っているような暗愚な君主、それが袁術だ。

 

「妾は袁家に忠誠を誓う全員に、目に見える金貨を与える!それで家でも服でも何でも買うが良い!」

 

 しかし、愚かだからこそ。彼女は同じく愚かな大衆を制御できるのだ。

 

 情けない勝利かも知れない。

 

 ――だが、それでも。

 

 

 これは正真正銘、袁術の力で手に入れた勝利なのだ。

 

 

 耳を凝らせば、先ほどまでの罵詈雑言が「袁家万歳」の歓声に代わっている。民が袁術を賞賛すれば、袁術も応えるように追加の金貨をばら撒いてゆく。

 

 金の切れ目が縁の切れ目――裏を返せば、金がある限り縁は続くという事だ。あっさりと手のひらを返した民衆を、甘寧は信じられないような目で見ている。孫家の武将として、意識を高く持つ彼女には信じがたい光景なのだろう。

 

 あやふやな大義や理想のために武器を取るより、目の前の金貨のために武器を手放す――その姿はまさしく愚民。しかし、それを責められる人間がどれだけいるだろうか。むしろ暴動に参加した人間の多数が食い詰めた貧乏人となれば、金に釣られるのは当然の結果ともいえる。

 

(いつの世も、変わらぬのは人の方か……)

 

 茫然とする甘寧を見守る孫権の瞳は、ひどく哀しげだった。

 

 金の暴力。金持ちだけが手にできる大金という、強大な暴力だった。有無を言わせずすべてを押し潰す、圧倒的な資金力。その前では、言葉も大儀も全てが無意味になる。

 

「あれほど袁家を恨んでおきながら、現金を出された途端に手の平を返して……!」

 

 民衆のあまりの愚かさに、甘寧は毒づかずにはいられなかった。

 

「だが、それが人の本質でもある……」

 

 自分自身に言い聞かせるように、孫権が言う。苦労しながら少ない資金で孫家の運営をやりくりして来ただけに、民衆の心情が理解できた。

 

(本気で袁術に忠誠を誓っている者など、ほんの一握りに過ぎない。今回の危機で劉勲らが一目散に逃げ出したのが何よりの証拠)

 

 結局のところ、正義や夢、理想や忠義より目先の幸せが欲しい――それが普通の、そして大多数の人間の心理なのだ。

 そしてそれを実現できるのは、理念や絆といった抽象的な概念ではない。目に見え、手で触れてることのできる物質………服を買え、家に住め、飯を食うことができる金なのだ。

 

 

 **

 

 

「そうか、蓮華さまと思春は失敗したか……」

 

 宛城における蜂起の失敗が、建業の周瑜の元に届けられたのは翌日だった。

 

「さ、作戦の失敗を受けて孫権様と甘寧様の両名は宛城から脱出。賈駆の率いる武装警官隊が反転攻勢に出たことにより、南陽郡は敵に掌握されました」

 

 そして宛城を制圧した張勲は持ち前の政治センスを生かして、間髪入れず袁術の生存および勝利を全土に向けて宣言した。

 軍事的には勝利に程遠いその場しのぎだとしても、宛城の一件が政治的に持つ意味は重要だ。人口250万を誇る南陽郡はそれだけで1州、例えば公孫賛の持つ全ての領民数に匹敵する。

 

「日和見ないし我々に寝返った豪族や名士たちの間に、きな臭い動きが見られます。加えて再編成を済ませた紀霊軍団が南陽郡に到着、行方不明だった華雄将軍が合流したとの報告も……」

 

 その後も孫家にとって喜ばしくない報告が続いた。全ての報告を聞き終えた後、周瑜は緊張する部下を「気にするな」と言って下がらせる。

 

(ッ……!)

 

 内心で舐めきっていた袁術にしてやられた事に、今更ながら少しの後悔を覚える周瑜。どう取り繕おうが、慢心して足元をすくわれた事実は揺るがない。

 

(劉備を真似て民衆を扇動した結果が、このザマという訳か)

 

 ロクな訓練もされていない大衆など、やはり烏合の衆の過ぎない。そんな連中を頼りにしたのが、そもそも間違いだったのだ。劉備の件は恐らく、例外だったのだろう。

 

「少なくとも今回の件で、方針はハッキリと定まった。やはり……信じられるのは、苦楽を共にした仲間たちだけだ」

 

 周瑜はそう呟くと、机の上に置かれた地図の駒を並べ替える。

 

「江東はほぼ制圧、残るは宛城のみ。揚州南部の豪族たちは……しばらくは放置しておくか」

 

 所詮は利害が一致する間だけの仲間だ。袁家を始末すれば、後は切るだけ。孫権などは「曹操や劉表などの外圧に備えて協力関係を築くべき」という融和論を唱えているが、彼女も今回の件で考え直すだろう。

 

「部隊の配置も考え直さなければならんな。流れは未だ我が方にあるとはいえ、油断は出来ない」

 

 そう、孫家が優勢を保っているように見える現状でさえ、薄氷の上を歩いているようなものなのだ。奇襲によって混乱を引き起こし、圧倒的な戦力差を一時的に誤魔化しているに過ぎない。何か1つ歯車が狂えば、瞬く間に全てが水泡に帰してしまう。

 周泰からは、曹操や劉表が不穏な動きを見せている、という報告もあった。

 

(だが……負けるわけにはいかない。あともう少し……あともう少し耐えれば江東は我々のものになる。今度こそ、孫家の悲願を……!)

 

 先人たちと仲間たちの無念が、胸を押し潰しそうになる。周瑜はそれを受け止めつつ、彼らに報いるために改めて策を練るのだった。

 

 

 **

 

 

 先手、先手と先を読み、着実に手を打ち、主導権を握り続けてきた孫家一党。しかし、やはり、彼らは神ではなく、思わぬ誤算が静かに始まっていた。

 

 袁家は瀕死状態にある……大多数の人の目にはそれが事実のように映っており、それは真実でもあった。辛うじて首の皮一枚でつながったとはいえ、あくまで一時しのぎ。孫策の率いる本隊が到着すれば、南陽にいる弱体な袁術軍はひとたまりもないはず。

 

 しかし、その時だった。袁術、張勲、そして劉勲。袁家の頂点に君臨する三者が織りなす政治的魔術に、中華はまもなく腰を抜かすことになる――。

            

   




 金>>>>>理想とか、やりがい(笑)とか

 これをしっかり弁えてる袁術は間違いなくホワイト経営者

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