真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜   作:ヨシフおじさん

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42話:3枚舌外交

 兌州・陳留――

 

 

「やってくれたわね……」

 

 曹操は会議室の中央に置かれた地図を見やり、口元を僅かに歪めた。

 

「袁術陣営が進めている自由貿易協定……経済圏の拡大という名目も間違っては無いのでしょうけど、もう一つの目的は私たちへの締め付けと牽制ね。協定加盟国を攻撃すれば制裁に出る――これで青州への出兵は不可能になったわ」

 

 曹操は腹立たしげにつぶやく。どうにか朝廷から討伐命令を賜ったものの、領土拡張の動きもこれまでだった。

 彼女のあからさまな拡張主義に対し、袁術陣営は『洛陽体制の維持・相互内政不可侵という“諸侯の権利”の擁護』を掲げ、曹操の行動を内政干渉として非難。続けて孔融・公孫賛との間に『3州協商』を締結し、曹操陣営を牽制。

 また、袁術は涼州~司隷の一部に権益を持つ馬騰とも安全保障条約を結んでおり、背後の劉表とも経済的な関係が深い。司隷でも曹操影響力下からの独立を狙っている李傕達や、朝臣の一部が曹操の影響力を割こうと画策している。加えて今回の自由貿易協定だ。司隷・豫州・徐州・青州・幽州を結ぶ曹操・袁紹包囲網。全面戦争となれば曹操陣営は最悪、東・西・南で3正面作戦を強いられてしまう。

 

 しかも頼みの袁紹はというと、自領の統治強化を理由に、青州への出兵には非協力だった。荀或が袁紹臣下時代のコネを使って根回しをかけたのだが、逆に「オマエら自重しろ」との手紙まで来る始末だ。

 

「それにしても、意外だな。まさかあの袁紹が己の威光を見せつける機会を、みすみす放棄するとは」

 

 む、というような顔で首をかしげたのは夏侯惇だ。袁紹の性格からして、自身の影響力を拡大できる青州出兵をためらうとは思えない。夏侯惇の疑問も尤もだったが、荀或は小馬鹿にするように鼻を鳴らして口を開く。

 

「ふん、それだけあの家柄だけが取り柄の無能が華琳様に嫉妬しているってことでしょ。目先の感情で物事を判断するから、南陽の守銭奴たちに利用されてることにも気づかないで……これだから、華琳様の足を引っ張ることしか考えてない暗愚な連中は困るのよ」

 

「袁紹本人はそうかも知れんが、部下も同じとは限らないだろう。何か裏があるんじゃないか?」

 

 袁家のような巨大組織になればなるほど、意志決定における一人当たりのの役割は小さくなる。逆に言えば、個人の能力が全体に小さな影響しか与えないから、上が無能でもそれほど問題は生じない。夏侯惇はその点を指摘した。

 

「袁紹の取り巻きは取り巻きで、とっくに袁術に買収されてるわよ。今朝渡した報告書にもそう書いたでしょ」

 

「あー……20枚目までは読んだのだが、気分転換に朝練をしたらつい……」

 

「~~~ッ!これだから猪は嫌いなのよ!あの報告書、袁紹の領土から帰ってから寝る間も惜しんで書いたのに!あたしの睡眠時間を返しなさいよっ!」

 

 気不味げに頭を掻く夏侯惇を、荀或はキッと睨みつける。

 袁紹と同盟を結んで青州出兵を行うため、彼女はつい数日前まで袁紹の本拠地・南皮に派遣されていた。荀彧がかつて袁紹に仕えていた頃のコネを使った事もあり、最初は比較的うまく交渉が進んでいたのだが、土壇場になってキャンセルされたのだ。密偵の報告によれば、袁紹側が袁術から受け取った賄賂の総額は、小さな県ひとつ分の年間予算にも匹敵する。結局、袁紹との交渉は失敗し、曹操陣営は外交的に孤立してしまった。

 

「くっ、あの閻象とか言う袁術の使者の×××男っ!思い出しただけで腹立つわ!あと少しで交渉が纏まりそうだったのに、あの男に大金積まれた途端にどいつもこいつも目の色変えて……!」

 

 荀或が悔しそうにギリギリと歯ぎしりする。袁術側の使者・閻象は露骨な買収工作を行う事で、まとまりかけていた交渉をご破算にしたのだ。まさに金の暴力と言うべき物量戦。もともと袁紹達に青州を攻撃する必要性は無く、当主の袁紹がノリで参戦しようとしていただけに、当然の結果だった。

 夏候淵もその辺を察して荀或をフォローしにかかる。

 

「落ち着け桂花。袁術の味方をする訳じゃないが、それほどの額の金を用意するのは向こうも大変だったはずだ。相手も相当な労力を費やして資金を調達したのなら――」

 

「――負けても仕方無い、とでも言うわけ?冗談じゃないわよ、あたしは華琳様の軍師なの!こんな所で華琳様の覇道が阻まれてなるもんですか!2度と負けない、負けられないんだから!」

 

 頭で仕方ないと分かっていても、納得できない。純粋な外交交渉で負けるならまだしも、底なしの資金力という物量に押しつぶされる――軍師にとってはこれ以上ないぐらいの屈辱だろう。それがプライドの高い荀或なら尚更だ。

 

「たかが金。されど金、か。使いようによってはどんな英雄よりも役に立つ。袁術陣営の厄介な所は、これでもかと言うぐらい効率的に金を使ってくる所だな」

 

 夏候淵が難しい顔をする。人望の無い袁紹と袁術に、多くの人々がつき従い、沢山の名士や豪族たちが媚を売る理由はそれしかない。大半は本気で袁家に忠誠を誓っている訳では無く、単にいい給料が欲しいだけだ。

 だが、それが普通の反応というものだろう。衣食足りて礼節を知る――世の人間の大半は、何だかんだで正義や理想より明日の食事や家族の生活を優先するものだし、「個人の幸福」という観点に立てば何ら責められるべき価値観では無い。

 

 金の切れ目が縁の切れ目――利益に基づく結び付きは、ドライで脆い結び付きとされる。だが、それだけにシンプルで有効範囲も広い。世の中には金で買えないモノもあるかも知れないが、大抵のモノは金さえあれば買えるのだから。

 

 

「……とりあえず、青州への出兵は当面中止よ。」

 

 曹操が苦々しげにつぶやく。

 いま無理に戦端を開けば、本当に全周囲包囲されかねない。悔しいが、ここは一旦兵を引いて外交関係の修復を図るべきだろう。

 

「問題は今後の身の振り方ね。外交において最優すべき相手は、やはり勢力の大きい袁家になるわ。粘り強く麗羽たちと交渉していくか、それとも袁術との関係改善を図るか……桂花はどう思う?」

 

「……単純に相性の問題で考えれば、袁紹になるしょう。いくら多額の賄賂を受け取ったとはいえ、その効果は一時的なもの。賄賂の効果は支払いが終わればすぐ切れる――袁術陣営もその辺は分かっているはずです。本気で袁紹の取り込みを図ったというより、単なるその場しのぎである可能性の方が高いかと」

 

 国の要人の大半を動かすほどの賄賂など、そう何度も送れるものでは無い。袁術陣営にしても関税同盟の締結直後という、一時的な格付け上昇のタイミングを見計らって何とか資金調達が間に合った、というのが実態だ。

 ゆえに荀或は、そう遠くないうちに袁紹と袁術は再び対立すると予想した。その場合、変革を望む袁紹と現状維持を望む袁術では、前者の方が親和性は高いはず。

 

「ですが――少なくとも1度は袁術と取引すべき、とも考えます。」

 

「その理由は?」

 

「袁術陣営に、本気で我々を潰す気が無いからです。」

 

 どういうことだ、と頭に疑問符を浮かべる夏候姉妹を尻目に、荀或は自分の見解を述べる。

 

「袁紹につけばあらゆる支援を期待できますが、向こうは確実にこちらを従属させようとするでしょう。なぜなら袁紹の最終目標は中華における覇権、その過程で我々はいずれ排除せねばならない敵だからです。

 対して袁術の目標は勢力均衡の維持――洛陽会議の時から終始一貫してそれだけです。我々が強大化すれば均衡が崩れる為、今まで袁術は敵に回ってきました。ですが勢力均衡を保つには、我々が必要以上に弱体化することも避けたいはずです。」

 

 反董卓戦以降、中華では一度たりとも大きな戦争は生じていない。勢力均衡による各諸侯間の軍拡競争はあれど、平和が続けば経済は発展する。その恩恵を一番受けている袁術陣営が、自らそれを放棄するような真似はしないだろう、というのが荀或の意見だった。

 

「世間でも言われるように、結局のところ連中の本質は“商人”で、それ以上でもそれ以下でもありません。勢力均衡だの何だのを掲げていても、最終的に行きつく先はカネです。日頃は誰にも言い顔をしておきながら、自身の景気が危うくなった途端に、徐州に一方的な要求を叩きつけているのがその証拠。逆に考えれば、ある程度の見返りを与えれば、それ以上の損失を恐れて手出しはしてこないはずです。」

 

 袁術が、徐州の陶謙に対して一方的な自由貿易を押しつけた事は、曹操軍内部でも知られていた。劉勲など一部の人間は勢力均衡を第一に考えているようだが、大抵の袁家家臣にとってはより多くの利益を得る為の方便に過ぎない。

 

「徐州との自由貿易交渉や袁術領の内情を聞く限り、袁家の経済・財政も万全とは言えないようです。我々が付けこむべきはそこでしょう。」

 

 袁家が繁栄バブルを回すのに腐心しているのは、少し調べれば誰でも分かること。なればこそ、目には目を、歯には歯を、金には金を。荀或の予想では、ある程度の経済的利益を与えれば、歩み寄る事も可能なはずだった。

 

 だが、と夏候淵が言い――顎に手を当てながら再び問いを投げる。

 

「……それならば、袁術が各地の諸侯と盛んに同盟を結んでいるのはなぜだ?劉表のように誰とも同盟を結ばず中立でいた方が、拘束力のある条約に左右されず均衡維持に有利だと思うのだが」

 

「“外交”だけなら、そうなるわよ。でも、“経済”がある」

 

 荀或が答える。

 

「全ての諸侯が袁術陣営の主張する『自由貿易』に賛成なわけじゃない。でも、いちいち全員を説得していたら時間がかかってしょうが無いし、結果が出せなければ担当者の首が飛ぶわよ。あそこの出世競争は激しいらしいから、すぐに目に見える成果を上げようと躍起になってるんでしょ」

 

 多国間でルールを決めるというのは時間がかかる割に、妥協に妥協を重ねていくので目立った成果をあげられない事が多い。経済的な利益を考えれば、弱小諸侯と自由貿易協定を結ぶのが、一番てっとり早い。

 

「それに、いざという時には同盟国を盾や囮として利用できる。甘い言葉で誘って、いいように利用して疲弊させつつ、自分は出来るだけ距離を置いて国力を温存……あいつらの3枚舌外交はいつもの事じゃない」

 

「袁術と取引しようと言った割には辛辣だな、桂花」

 

「ふん、取引は取引よ。別に未来永劫、仲良しになろうなんて考えてないわ。充分に力を蓄えたら、さっさと縁を切って敵に回る。向こうもそのつもりで交渉に臨むでしょうし、お互い様よ」

 

 荀或と夏候淵の会話を聞きながら成程、と曹操は思った。

 確かに袁術と取引する利点は大きい。実際、袁術・陶謙・孔融の間で結ばれた関税同盟によって、兌州経済は大打撃を受けた。周りの州が自由貿易を行い、大きな経済圏の中に入っているのに、自分だけそこから外れれば事実上の経済封鎖も同然。輸出品は売れず値下げ競争に陥り、逆に輸入品は不足し値段が高騰してしまう。

 

 対抗して袁紹との繋がりを深めるという方法もあるが、それだと荀或の指摘通り袁紹に首輪を嵌められてしまう可能性が高い。袁紹の治める冀州は、土壌が良いため農業生産力も高く、人口も多い裕福な土地柄だ。黄巾党の乱や董卓の暴政による被害もほとんど受けておらず、まともに経済力で勝負すれば主導権を握られてしまうのは明白だった。曹操も屯田兵制度など創意工夫によって改善を図っているが、良いアイデアは袁紹にもマネ出来るのに対し、良い土壌などは固定資産なので絶対にマネ出来ないのだ。

 

 

 曹操が玉座から立ち上がる。

 

「――袁術と、講和を結ぶわ」

 

 有無を言わさぬ断定口調。名士の力が強い袁家と異なり、ここでは曹操を中心とした独裁体制が敷かれている。独裁制の利点の一つは意思決定の素早さであり、強力なリーダーシップでもって政策を実行に移せる点であった。

 地方分権と合議制が進んでおり、何をするにも賄賂や談合による根回しが必要な袁術陣営とは好対照といえよう。

 

 曹操は続けて、居住まいを正す側近たちに講和締結の旨を伝える。

 

「私たちの事実上の経済封鎖を止めてもらうために、青州に侵攻予定だった軍を引き上げるわ。必要なら豫州周辺に駐屯させた部隊も撤退させて、袁術に誠意を見せなさい。」

 

「よろしいのですか?」

 

「ええ。桂花の言うとおり、袁術達も戦争は望んでないはず。相互不可侵条約程度なら向こうは確実に乗ってくるでしょうし、それだけでも財政負担はだいぶ減るはずよ。」

 

 この時代、平時でさえ公共支出の5~8割は軍事費が占めており、戦時ともなれば更に増える。その事実を考えれば、袁術との講和による軍事費削減効果はかなりのもの。勿論それは袁術にも言える為、経済最優先の袁術陣営ならば喜んで曹操との戦争を回避しようとするだろう。

 であれば、浮いた資金でしばらくは領内の統治と発展に重心を移し、力を蓄える。それが曹孟徳の決定だった。

 ただし。

 

(――このまま何も起こらなければ、の話だけど)

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 1週間後、荊州・襄陽にて――

 

 

「これは……まずいな」

 

 荊州牧・劉表は一般公開された『豫州平和維持条約』の内容を聞いて、思わず嘆息した。

 曹操の読み通り、劉勲は背後の安全を確保すべく新たな外交条約を曹操陣営と結ぶ。陳留にて両陣営の間で会談が行われ、『豫州平和維持条約』が締結される。内容は“豫州を平和維持するべく、州境に『非武装中立地帯』を設け、両陣営は該当区域から軍を撤退させる”というもの。

 

「曹操は並行して青州出兵の取りやめを発表したし、袁術側も兌州への経済封鎖を部分的に解除した。どう見ても同盟国への裏切りだね。」

 

 一応は公孫賛や孔融などの同盟を結んだ諸侯を意識したのか、『講和条約』では無く『戦時における交戦規定』となっている。ゆえに非武装地帯以外へ攻撃する事は曹操・袁術ともに可能だが、非武装地帯は豫州と兌州の境界全般にわたって敷かれており、事実上の和約にも等しいものだった。

 

「自分から曹操に対する同盟を結んでおいて、当の本人は曹操と講和……いや、“非武装中立地帯”を設定しただけか。貧乏くじを引いたのは、公孫賛と孔融の方みたいだ。」

 

 面白い玩具でも見つけた子供のように、劉表は楽しそうな表情を浮かべた。

 本当に、劉勲は言葉遊びがうまい。堂々と曹操・袁術間で講和を結べば、それは公孫賛らへの裏切りとなる。同盟とは通常、相手国と単独講和することは許されないからだ。

 

 だが、敵との国境に非武装地帯を設ければ、講和条約を結ばずとも事実上の講和が達成できる。“敵対しているが、たまたま互いを攻撃できない位置に非武装地帯が置かれただけ。だからお互いに戦争はしない”などという屁理屈が見事に通ってしまう。ハイリスクな戦争は同盟国に押しつけ、自らは安全な場所から対岸の火事を見るごとく、のんびりと両者が疲弊するのを眺められるのだ。

 

 

「ですが劉表様、外交における彼女らの勝利は……」

 

「そうだね。それは私たちにとって凶報だ。袁術達が負けすぎても困るけど、勝ち過ぎても荊州にとっては良くない。」

 

 かつて袁術とは荊州を巡って争った事もあるが、孫堅の横死以後に台頭した劉勲らとは友好的中立の状態にある。長年の因縁から政治的には未だ対立も多いが、ここ数年でお互いが最大の貿易相手となるほど、経済的な結びつきは強まっていた。

 

「この条約は私たちと彼女達の均衡を、根本から崩しかねない。これではまるで、袁術が荊州を包囲しようと目論んでいるようじゃないか。」

 

 劉表の危惧は尤もだと言えよう。

 現在、袁術は公孫賛・孔融・馬騰・陶謙と同盟を結んでいる。しかも劉表は隣の益州の州牧である劉璋とは仲が悪い。

 益州牧の劉璋は皇族である事を鼻にかけるばかりか、益州をあたかも独立国のように扱い、しかも皇帝への不遜な発言が目立っていた。劉表は、そんな劉璋の態度を諌めるべく皇帝に手紙を送った事があり、それが原因で劉璋から逆恨みされていた。それ以降、益州と荊州は常に冷戦状態にある。

 

 つまり袁術陣営は完全に荊州を包囲する形となり、劉表は孤立無援の状態に置かれてしまうのだ。この状態で袁術が曹操と講和を結んでしまえば、片や袁術は後顧の憂いなく南方に全力を注げる。今の所、袁術陣営の南下政策はまだ揚州の植民地・衛星国化に専念しているが、何時その野望が荊州に向けられるとも限らない。

 

 

「私達の望みは荊州の保全、その一点をおいて他には無い。それを妨げるような条約は、いくら私でも見過ごせないよ。」

 

 かねてから劉表の関心は全て荊州内部に向けられている。彼は中原の争いから極力距離を置く事で国力を維持し、文化と領内の発展に務めていた。おかげで荊州は黄巾党の乱・反董卓連合戦という二つの未曽有の危機からも殆ど無縁であり、投資家の格付けでは高い評価を得て多額の投資を受けていた。

 だが、現時点における袁術と曹操との講和は、この蜜月を終わらせかねない。覇権主義的な曹操・袁紹を抑える為だと思いって劉表はこれまで見過ごしてきたが、流石に今回の曹操との条約はやり過ぎた。

 

 

「劉書記長には何度も忠告したのだけど……やはり、若さゆえの焦燥かな?自信が無くて悠長に構えられないから、結果をすぐに欲しがる。それが彼女の弱点だ。」

 

 残念、全く以て残念だ。劉勲にあと少しの経験と忍耐があれば、共にこの中華に平穏をもたらす事が出来たのかもしれないというのに。

 どこか名残惜しそうに、彼は南陽の方角を見やる。

 

 もとより劉表と劉勲の基本戦略に大きな違いは無い。目指す所は同じく、策略と外交を駆使しての勢力均衡。両者の外交政策に違いがあるとすれば、アプローチの掛け方だろう。

 劉勲はどちらかというと、条約を結ぶ事で他の諸侯の動きを制限し“想定外の事態”防止に重点を置いている。片や劉表はというと、徹底的に『中立』と『孤立主義』の姿勢を崩さない事で、他者の争いに巻き込まれる事を避け、常に外交上のフリーハンドを得るように努力していた。

 

「……しかし、それも今日までみたいだ。悲しい事だが、もはやこの荊州も中原の争いと無縁では居られないようだ。均衡は崩れかけている。ならば、それを修正するのが私の役目だ。」

 

 戦火を逃れた知識人と文化が集まる荊州――この世界に残された、最後の楽園。劉表の采配で長きに渡る平和を謳歌したこの地も、今や中華を覆う暗雲に飲み込まれてしまった。

 

 劉表は立ち上がり、緊急会議を開くよう部下に伝える。守るべきもの――荊州とそこに住む民、そして文化の為、彼は再び立たねばならないのだ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 曹操と袁術との間に締結された『豫州平和維持条約』によって、両陣営は事実上の講和を達成。北部における軍事負担の軽減に成功した袁術陣営は、豊富な経済力を背景に経済圏の拡大を推し進めていく。

 

 

 表向きは公孫賛・孔融・馬騰らと同盟して彼らを操り、裏では袁紹と取引する事で敵対勢力の行動すらも制限する。その一方で袁術陣営は、曹操とも独自に不可侵条約を結んで後背の安全を図り、同盟勢力を体の良い“盾”とした代理戦争を展開。

 自らは傷つく事無く、同盟諸侯への物資給与や軍資金貸付によって、中華を影でコントロールしようとする様は、後世において“3枚舌外交”として多くの批判を浴びる事となった。

 

 とはいえ3つの条約そのものは、解釈次第では殆ど矛盾はしていないとされる。

 『3州協商』は“袁紹・曹操の侵略行動に対する共同防衛”を目的としたもので、相手陣営と単独で講和を結ぶこと自体に問題は無い。そもそも『協商』とは軍事上の義務を伴わず、また締結相手国に対する援助義務もない緩やかな協力関係だ。協力内容さえ守っていれば、軍事上の利敵行為を働こうが咎められる筋合いはない。

 他方『二袁協定』は情報共有と同盟勢力の単独行動抑制を約束したもので、こちらも秘密条約である事を除けば内容的には矛盾は無い。

 もっとも、内容を知らされていない諸侯からしてみれば、劉勲の主導した袁術陣営の外交政策は、複雑怪奇で不可解なモノとしか写らなかったのだが。

 

 

 袁術と曹操、袁紹に公孫賛。馬騰、劉備そして劉表。諸侯の織りなす、蜘蛛の巣のように張り巡らせられた秘密条約と、様々に入り組んだ同盟関係。黄昏の平和を享受する中華の裏で、それぞれの思惑と数多の陰謀が渦巻く。条約と密約は複雑に絡み合い、それはもはや仕掛けた本人すら、全貌を把握するのが困難なほど。徐々に暴走を始めた外交は、やがて軍事を、経済を、そして最終的には政治すらも飲み込んでゆく。

 

 その崩壊が始まった場所は洛陽――漢帝国の首都にして、反董卓連合戦の最終決戦地。洛陽体制によって李傕と郭汜、李儒の3人が分割統治していたこの都で、内戦が勃発する。奇しくも洛陽体制は、その始まりの地から終わりを迎えようとしていた。

 同時にまた、微妙なバランスで中華に平和をもたらした劉勲の曲芸にも、終焉の時が迫りつつあった。

                    




 繁栄バブルと3枚舌を駆使して、曹操の青州兵GETフラグをへし折った劉勲(本当にそこまで考えていたか怪しいが)。でも一難去ってまた一難。
 GDPばっか大きくても、冷静に考えてみるとかなり自転車操業な気が……。

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