真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜   作:ヨシフおじさん

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47話:狂った運命

         

 長安郊外におかれた劉焉軍の作戦司令部は、恐慌状態の一歩手前であった。突然の曹操軍からの宣戦布告に、外交などを含む戦略そのものの変更を迫られていた。

 

「う、うろたえるんじゃないッ!帝国軍人はうろたえないッ!」

 

 焦燥感に声を震わせながら劉焉が叫ぶ。

 

「確かに我が軍は不意をつかれた!しかし袁紹から宣戦布告は届いておらず、目下の敵は曹操軍ただひとつ!敵の数は所詮6万、すなはち我が軍の4分の3!つまり数ならこちらの方が有利!至急、迎撃態勢を整えて裏切り者を返り討ちにせよッ!」

 

 死亡フラグを連発しながら部下を鼓舞しようとする劉焉だったが、彼の元には各地から悲鳴のような報告が届いていた。

 

「袁紹の元より緊急の報告が届きました!――『司隷に対する侵略行為に対し、我々は益州牧・劉焉に最後通牒を通告する。 ①司隷からの即時撤兵 ②益州軍の縮小 ③益州牧以外の全ての官職の返上 以上の3つが受託されなかった場合、即時開戦も辞さない』とのことです!」

 

「おのれ、袁紹ぉおおおーーっ!……ええい、こうなったら両方とも叩き潰してくれるわ!よいか、連合軍とはいうが、まだ袁紹軍は動員が完了して無い。連中の動員が完了する前に各個撃破すれば――」

 

「馬騰から最後通牒です!司隷から即刻撤退しない場合、西涼は4万の軍を動員する用意があると言っております!」

 

「なっ……!くそっ、予想より早いッ!……やはり袁紹との密約の噂は本当だったのか!?」

 

 馬騰はかねてから司隷の交易安全に腐心している。単独で戦争をすることはないだろうが、便乗参戦は十分に考えられた。

 

「袁術は!?南陽の判断はどうなっているのだッ!?」

 

 劉焉は最後に残った希望――勢力均衡の担い手たる袁術陣営に一縷の望みをかけるも、人民委員会からの手紙は非情なものだった。

 

 ――我々は問題の平和的解決を望んでいる。が、我々は馬騰とも相互安全保障条約を結んでおり、彼らに危害が加わるような事があれば、これを見過ごす事は出来ない。諸侯には賢明な判断を期待する。

 

 要約すると、劉焉は袁術にも見捨てられたということ。それはつまり、中華の有力諸侯の大半が敵に回るか劉焉を見捨てた事に他ならない。素人目にも絶望的な戦力差だった。

 

「これは……げ、現実なのか……!?」

 

「現実です」

 

 現時点で宣戦布告してきた諸侯は曹操、袁紹、馬騰の3人。これに李儒ら司隷の現政権が加われば、劉焉軍の抵抗は絶望的になる。袁術は敵対的武装中立といったところだが、地理的に南方からも圧力が加わる形となり、まさに最悪の状況だった。

 

「……もう駄目だ。終わりだ……いや、もう終わった……」

 

 あまりの出来事に思わず絶句する劉焉。中華を代表する列強3つに、同時に宣戦布告される事など今だかつて無かった事だ。

 しかし、冷静に考えてみればあり得ない話ではない。袁紹主催の諸侯会議が中止になった後、曹操がすぐさま司隷に侵攻しなかった時点で、袁紹との同盟を疑うべきだったのだ。

 

 劉焉が司隷に攻め込むまでの間、曹操は軍に動員をかけたまま州境に待機させていた。だが、軍というのは単に維持するだけでも莫大な金が必要な金食い虫。常備軍を整えつつある曹操軍でさえ半数は半農半兵の屯田兵だ。もし仮に全軍を動員してもすぐ戦争を始めないとなれば、“何か”を待っていると考えるのが妥当だろう。

 

 そして劉焉はここで致命的な失敗を犯した。彼は元より司隷侵攻を行う予定であり、曹操は単に自分達の被害を少なくするべく、劉焉軍が先に洛陽に攻め込むのを待っているものと思いこんでいた。だが曹操にしてみれば劉終焉による司隷侵攻はあくまで“可能性が高い”だけであり、今まで僻地に引き籠っていた彼が本当にそれを行うという保証は無い。劉焉が動かなかった場合、曹操は莫大な軍資金を失う事になる。かといって単独で攻め込めば孤立してしまう。

 逆に袁紹は諸侯会議の開催を画策したり、各地の諸侯に工作を行ったりと精力的に活動しており、司隷侵攻はほぼ確実だ。ゆえに彼女と同盟を結んでおけば劉焉が動かずとも孤立せずに戦争を始められ、劉焉が動いてもより確実な大義名分と強力な同盟相手を手に入れられる。

 

「結局のところ、最初から曹操の本命は袁紹との同盟だったということか……!」

 

 曹操が裏切る可能性が思い浮かばなかった、と言う事は無い。だが劉焉は心のどこかで「皇族である自分を無下にするはずが無い」と胡坐をかいており、慢心があったことは否めなかった。

 

  

(もはや私は、いや皇室の権威など過去のものだと言いたいのか――曹操!)

 

 劉焉は内心で絶叫する。

 利用価値が限られていれば、たとえ皇族だろうと使い捨てる――劉焉には曹操が言外にそう言っているような気がした。古い権威など気にも留めず、己の道を突き進む覇王。その片鱗を思い知った劉焉は、どこか空寒いものを感じていた。

 

 彼の問いはある意味で正解であり、ある意味で間違いでもあった。より正確にいうならば曹操以外(・ ・ ・ ・)の諸侯全員も内心では、皇室の権威を安っぽい大衆向けプロパガンダ程度にしか感じていなかった。

 いや……それどころか、皇室を軽んじる風潮は皇族の中にすら存在した。

 

「荊州より報告です!『益州牧の行動は中華の平和を著しく脅かす行為であり、誠に遺憾である。即刻、司隷から撤兵する事を望む。さもなくば、我々は中華の平和と秩序を維持するのに必要な、あらゆる措置を講じる事になるだろう』――荊州牧・劉表からの公式声明です!」

 

「なんということだ……」

 

 劉焉は悲痛な表情で、天を仰ぐ。劉表が参戦すれば益州は直接攻撃を受ける可能性があり、下手をすれば曹操の参戦より危険な事態だ。

 

 だが、劉焉にとってより重要だったのは、同じ皇族である劉表にすら見放なされたという事実だった。自分と同じ皇族の血を引く劉表に、劉焉はどこかライバル意識を感じていた事もあってか、よく領土を巡って揉めていた。

 それでも、心の奥底では同じ皇族として、劉表は劉表なりに皇室と国の未来を考えているものだと思っていた。考えは異なれど皇族同士、いつかは分かり合えると期待していた。それなのに――

 

「劉表、お前もか……」

 

 劉表は曹操、袁紹の側に同調した。狙いは恐らく、経済圏を着実に拡大しつつある袁術陣営への牽制。袁術と仲の悪い曹操らに恩を売ると同時に、曹操達が司隷を占領した際のおこぼれも期待できる。皇族としてではなく、一諸侯として見れば極めて妥当な行動だ。

 

「どいつもこいつも、寄ってたかってこの私を……!」

 

 恨むべくは曹操か。それとも便乗参戦した諸侯たちか。あるいは、この足の引っ張り合いを画策した人物か。

 大方の予想に反して、勢力均衡システムはまだ(・ ・)健在だった。当事者の誰もがそれを守ろうとしなかったにもかかわらず、それは劉焉と曹操の一人勝ちを防ぐべく自動的に発動した。前回の失敗から慎重になった曹操は、同盟を組むことで図らずもバランスを維持する側に回り、一人勝ちする寸前だった劉焉は外交的に孤立し、一転して窮地に立たされることになる。

 

 劉焉軍にとって不幸中の幸いといえるのは、先行部隊が函谷関をほぼ無傷で占領したことぐらいであろう。通常の倍以上の高さを持つ城壁が3重に張り巡らされ、2層の楼閣が守りを固める大要塞。戦上手と名高い曹操との野戦が自殺行為である以上、劉焉軍が敵の侵攻を食い止めるにはここで防御に徹するしかない。

 

「やむをえん……東州兵とその他使える兵は全て投入しろ!全軍、急いで函谷関に向かえッ!軍需物資も出し惜しみはするな――総力戦だッ!!」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「フッ、……やはりここは籠城戦に出るか」

 

 全軍で長安を守る関に籠った劉焉軍を見て、曹操は唇に薄い笑いを浮かべた。そんな彼女の前に、準備完了の報告を受けた夏侯淵が現れる。

 

「全部隊、所定の位置に着かせました。ご命令があれば、いつでも出動できます」

 

「麗羽たちの部隊は?」

 

「あちらはどうやら本隊の到着を待つようです。3日後には到着するとの話ですが……」

 

「――戦闘で私たちが疲弊するまで待つ、というのが本音かしら。麗羽はともかく、あそこの軍師の田豊が考えそうなことだわ。時間をかけて圧倒的な戦力を整え、それでもって敵味方双方に対し常に政治的優位性を確保する……戦後交渉まで見据えた手堅い戦略ね」

 

 田豊の思惑を読み取りつつも、曹操は敢えて函谷関を攻めることにした。戦いの主導権を袁紹に取られてしまうかもしれない、という危惧はある。だが曹操にとっての問題はそこでは無かった。列強中最強の一角、三公を輩出した名門袁家を戦場に引き摺り出す――その事実こそが重要だったのだ。

 彼女がもっとも憂慮すべき事態は、戦争で勝ったがゆえに孤立し、戦後交渉で負けること。逆に言えば、戦争そのものはどうにか出来る自信が曹操にはあった。

 

「以前、汜水関を攻めた時はまだ単なる太守だったけど、今の私はれっきとした州牧。攻城兵器も豊富に揃えてあるわ。――李典隊に通達、工兵は状況を開始しなさい!」

 

 函谷関を守る3重の城壁に対し、曹操軍も攻城兵器でもって対抗する。曹操軍は正面に陣取り、集めた木材で瞬く間に十数の攻城塔を組み上げる。兵が昇り易いよう梯子と階段も備わっており、城壁に乗り移るための渡り板、射手の為の足場まであった。さらに火を使った攻撃で焼かれないよう、剥いだ荷役獣などの生皮によって覆われており、大きい攻城塔には破城槌まで付けられている。

 

「よし!これが工兵隊の初仕事や!敵に目にモノ見せたるで!」

 

 ドクロの髪止めで紫色の髪を左右で束ねた少女――李典の指揮のもと、曹操軍工兵隊は少しづつ函谷関へと近づいてゆく。攻城塔の高さは函谷関を守る城壁とほぼ同じであり、劉焉軍との間で激しい矢の応酬が繰り返される。

 

「くそっ、アイツらいつの間にあんな巨大な攻城兵器を……!」

 

「まだ敵が俺達の前に現れてから、3日も経っていないんだぞ!?」

 

 劉焉軍兵士が数人、焦りと狼狽の混じった声で呻く。函谷関の城壁は通常の倍以上の高さであり、自分達は有利な位置から一方的に撃てると思っていただけに、それを覆された時の動揺も大きかった。攻城塔を作られるという可能性も考えない事は無かったが、攻城塔が完成するのはもっと先の話だと劉焉軍の誰もが考えていたからだ。

 実際、常識から言えば彼らの判断は間違っていない。攻城塔はその巨大さと重量から移動に難があり、大抵現地で資材を調達して組み立てられる。

 

 だが曹操軍は、製作時間と輸送の問題をいっぺんに解決する方法を編み出した。それは、本国であらかじめ規格の共通した部品をある程度まで作っておく、というシンプルなもの。半完成品が既に出来ていれば現地では組み立て作業だけすればよく、工兵の指示を仰げば専門的な知識の無い一般兵も製作に携わらせる事が出来る。更に曹操の領地である兌州と司隷は黄河で繋がっており、ブロック化した部品ぐらいなら船でも輸送可能だ。

 単純な話のようだが、『規格共通化』という概念はこの時代にはほぼ皆無。劉焉軍の目には、まるで曹操軍が魔法でも使ったかのように映っていた。

 

(ま、その『規格共通化』ってのが今の技術力じゃ難しいんやけどな。部品の長さや強度を統一するのにえらい時間かかるし、それも全部職人技や。組み立て時間しか掛かっとらんから、早いように見えるってだけで、製作時間全部合わせたら普通にその場で作った方が早い。曹操様がすぐに攻め込まなかったのも、ウチらが規格の同じ部品作るのに手間取ったからやし……タネを明かせば魔法でも何でも無い、おっかなびっくりのカラクリや)

 

 だが、それだけの時間を費やした甲斐あってか、李典の作りだした兵器群は劉焉軍を圧倒し始めていた。絶え間なく矢の雨を降らせ続ける攻城塔の下には、井蘭と呼ばれる車型の兵器や、雲梯という折りたたみ式のハシゴが付いた台車が移動しているのが見える。さらに数十台の衝車が正面から函谷関にぶつかっており、城壁が削り取られる不快な音が辺りに響いていた。

 

 

 ◇

 

 

「くそっ、このままじゃ城内に突入されて乱戦になる……!」

 

 劉焉軍指揮官の一人、張任は焦っていた。兵力では勝っているが、そもそも関所の構造は数の優位を生かすように出来ていない。曹操軍が函谷関に突入すれば、狭い建物内での乱戦になるだろう。乱戦では一対一の戦闘が多く、勝敗を分けるのは主として士気と兵個人の錬度。東州兵もそれなりのものがあるが、難攻不落の函谷関を破って意気揚々と突撃してくる曹操軍の精鋭相手では、いささか分が悪かった。

 

「仕方ない……弓兵以外は第一城壁から撤収させろ!どうせ乱戦になったら負ける!代わりに貴様らには別の任務を言い渡す!」

 

 張任の怒鳴り声を受けた劉焉軍が慌ただしく移動を始め、ほどなくして弓兵だけが城壁に残される。彼らは曹操軍の攻撃を少しでも鈍らせるべく、攻城兵器に火矢を撃ちこむ任務を言い渡されていた。

 この時代の攻城兵器は総じて木製であり、最大の弱点は高い位置からの火矢による集中射撃。だが李典たちの作った攻城塔は劉焉軍による攻撃を防ぐばかりか、逆に矢を撃ち返して劉焉軍の攻撃を妨害。激しい矢の掃射によって劉焉軍は他の攻城兵器を防ぐことまで手が回らず、奮戦空しく戦闘開始から一週間ほどで函谷関の外壁は突破されることになる。

 

「よし、突入を開始しろ!各部隊、周囲への警戒も怠るな!」

 

「「了解!」」

 

 だが、外壁を突破し意気盛んに乗り込んできた曹操軍兵士の前には、相手をすべき劉焉軍歩兵はいなかった。代わりに現れたのは簡易式の空堀と、それを掘った土で作られた土塁。

 

「くそっ!劉焉軍のやつら、数にモノを言わせて余計なマネしやがって……!」

 

 曹操軍指揮官の一人が思わず愚痴を漏らすも、もはやどうしようもない。

 張任は最初の城壁で稼いだ貴重な時間を無駄にせず、歩兵を動員して2層目の城壁の前に新たな陣地を張り巡らせていた。空堀には落とし穴としての側面もあり、これによって曹操軍の攻城兵器は投石機や攻城塔の援護射撃を除いて大部分が使用不能となってしまう。最終手段は空堀を突破した歩兵が城壁によじ登るかハシゴをかける事のいずれかとなり、函谷関を巡る戦いは一旦鎮静化することになる。

 

 

 ◇

 

 

 ――5日後、曹操軍の本陣にて

 

「ふぅ……」

 

 戦場の疲れが、曹操に何度目かの溜息をもたらす。予想以上に劉焉軍の抵抗はしぶとく、地の利も相まって曹操軍は苦戦を強いられていた。

 

「追い詰められた人間って厄介なものね。何もかも放り投げて逃げ出すか、死に物狂いで戦うかの2極端しかない。李傕達はアテにできないし、どうしたものかしらね……秋蘭?」

 

 主君に問われ、夏侯淵が前に進み出る。天幕の中央には地図が広げられており、両軍を表す駒がその上に置かれていた。

 

「このまま力押しで行けば、いずれは函谷関を奪取できましょう。袁紹軍の本隊に加え、再編成を完了した李傕ら連合軍が加われば20万近く集まります。

 また、もとより劉焉にこの地で決戦をする気は無く、本拠地たる益州の防御を万全にすべく時間を稼いでいるだけかと。この期に及んでも劉焉軍の士気が高いのは、ここで時間を稼がねば故郷が蹂躙されるという思いがあるからこそ。

 あるいは、こう着状態に目を付けた他の諸侯に仲裁を依頼する腹積もりなのかも知れません」

 

「袁術か……。だとすれば、私たちは一刻も早くここを突破しなければならないわね。問題は――やはり数か」

 

 曹操軍の抱えていた問題は、至極シンプルなもの。いくら百戦錬磨の精兵いえども人間である以上、長時間戦えば疲れるし休息も必要だ。短期決戦ならいざ知らず、地道に波状攻撃をかけるしかない攻城戦では、常にローテーションしながら戦い続けられる兵力数がモノを言う。

 

「それにしても……麗羽たち、遅いわね」

 

 曹操の表情が険しくなる。もともと曹操は足りない兵士数を、同盟相手の袁紹軍で埋め合わせるつもりでいた。増援の3万という数は決して少なくは無い。だが、袁紹の本隊がいっこうに現れないのだ。

 

「華琳様、もしや我々を裏切って……!」

 

 最悪の予想が夏侯淵の脳裏をよぎる。何せ他ならぬ彼女達自身が劉焉の味方につくような素振りを見せ、土壇場で裏切ったのだ。袁紹が自分達と同じことをしないとも限らない。しかし、曹操はかぶりを振ってそれを否定する。

 

「麗羽がそのつもりなら、わざわざ3万も増援なんて送らないわよ。例え戦闘になっても6万と指揮官不在の3万じゃ明らかに不利だし、かといって捨て駒には多すぎる。たぶん、一種の人質みたいなものよ。」

 

「では、単純に遅れて……?」

 

「そうとも言い切れないのよね。相変わらず袁紹軍本隊の動向が分からない以上、今は何とも言えないわ。……とにかく、警戒だけは怠らないように」

 

「……わかりました。配下の者にも気を抜くなと伝えます。」

 

 夏侯淵は頷くと、席を立って天幕を後にした。

 その後ろ姿を見送ると、曹操は余計な心配を振り払うべく再び地図へと視線を戻す。疑心暗鬼になっていては、いらぬ問題を自分から引き寄せるものだ。だがそう納得したところで不安が取り除かれる訳もなく、疑念が新たな疑念を呼ぶという悪循環。

 まるで嵐の前の静けさの中にいるような、そんな得体の知れない胸騒ぎ――。

 

「……何か、嫌な予感がするわね」

   

 ――やがて、その不安は現実のものとなる。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 徐州・某所にて

 

 電気が発明されるまで、夜を支配するものは暗闇だった。日の出とともに起き、夕暮れと共に眠りに付く。それが一般的な人間の生活であり、灯りといってもせいぜい寒さをしのぐ焚き火程度のもの。

 だが、どんな世界にも例外はいる――社会の支配層たる名士たちだ。松明と高級品である蝋燭をふんだんに使用することで、自らの屋敷に光を灯した。松明をもった兵が屋敷の周囲を巡回し、篝火が通路を照らす。暗闇という人の根源的な恐怖からの解放は、名士たちに自信と安心を与えた。

 だが、そんな環境に慣れてしまった人間は、もはや以前の状態には戻れない。安全を保証するものが失われた時、恐れ慄く以外の術を忘れてしまうのだ。

 

「敵襲だっ!見張りの兵がやられたぞ!」

 

「待て、矢を撃つな!こっちは味方だぞ!」

 

「クソッ、暗闇と煙で何も見えない!誰か篝火を持ってこいっ!」

 

 ここは、とある名士の屋敷。突然の夜襲によって、屋敷の中は恐慌状態に陥っていた。視界が悪い中、音だけが聞こえるというのは人に多大なストレスをもたらす。モノが割れる音、兵士の喧噪、誰のものだか分からない足音。それは暗闇の恐怖を忘れた人間を、夜という超自然的な存在が嘲笑うかのように見えた。

 

「な、何があった……!我らが曹家の者と知っての狼藉か!?」

 

 この屋敷の主、曹嵩――曹操の父親であり、太尉として徐州に赴任していた――は寝間着姿のまま、窓の外へと目をやる。外では松明を持った兵士が駆けずり回っており、曹嵩は尋常ならざる事態であることを確信させた。

 

「誰かっ、誰かおらぬのかッ!曲者だ、今すぐに――ぬぅッ!?」

 

 突如、乱暴に破壊される扉。部屋に飛び込んできたのは、血濡れの青年が一人。漆黒の外套を纏っており表情はよく見えないが、額に奇妙な刻印が彫られているのが印象的だった。

 

「――め、今頃になってこんな下らん仕事を押し付けやがって!……裏から操るなんてお上品な手段にこだわらず、最初からこうすれば良かったんだ……!」

 

 その端正な表情は何かに苛立っているようだったが、やがてゆっくりと曹嵩の方へ体を向ける。

 

「誰だ……お前は一体……っ!」

 

「俺の事より、自分の身を心配した方がいいんじゃないか?」

 

 青年は怜悧な瞳で、すっかり腰を抜かした曹嵩を見下す。曹嵩はせめてもの抵抗として青年を睨み返そうとし――思わず情けない悲鳴を上げそうになった。青年の瞳に映っていたのは、つい目を背けたくなるような、冷たく激しい憎悪。まるで世界そのものを憎んでいるような――。

 青年はそのまま懐に手を入れ、ギラリと輝くナイフを取り出す。

 

「ま、待て!もし、これが娘……華琳に関係のある事なら、わしは何も知らん!」

 

 曹嵩の話に偽りはない。彼と娘、曹操はもとより仲が良いとは言えなかった。悪いというほどでもなかったのだが、親子と言うには冷めた関係だった。それゆえ兌州牧となった曹操から陳留へ来るよう言われた時も拒否していたし、曹操もそれ以上は何も言わなかった。

 

「わしはただ、陳留へ来るよう言われただけだ!娘に関係のある情報はもちろん、徐州の事だって巷で言われている以上のことは知らんぞ!」

 

 曹嵩が徐州に来たのは数年前の事になるが、それは単に中原の大乱を避けてのこと。ごく普通に役人として生活していたし、自分の仕事以上の話には首を突っ込むこともなかった。

 だが、陶謙が袁術との関係を強化するにつれ、そうも言っていられなくなる。万が一のことを考え、曹操は今度こそ父を自領へ連れ帰る事にした。曹嵩は渋々ながらこれを受け入れ、近日中には兌州へと向かう予定であった。

 

「貴様が自分の事を何と思おうと、本当にどれだけの価値があるかなど関係ない。問題は周りから貴様がどう思われるかだ。」

 

 だが、青年は知らんと言わんばかりに曹嵩を一瞥すると、ナイフを振り上げた。

 

「は、話を聞けっ!話せば分かるッ!」

 

 ――その動作は流れるように美しく

 

「問答無用」

 

 ――今ここに、歴史の針は再び動きだす。

     




 西の長安でドンパチやってる間、東では曹操の親が暗殺されるというエライ事件が発生。灯台下暗しって諺もありますし、他人を騙したつもりでも実は自分も……なんて事はよくある話です。
 いくら警戒しても警戒し過ぎる事は無い、とはよく言いますけど、あんまし黒い事ばっか考えて疑心暗鬼に陥っても精神上よろしくないのですしね。世間で独裁者と言われてる人なんて、謀略に手を染め過ぎたおかげで最後は人間不信による被害妄想が……。

 作者は華琳様に限らず、諸侯全員の心身のご健康をお祈りしております!

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