真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜   作:ヨシフおじさん

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52話:決意の刻

 

 そろそろ木が枯れてくる季節ですね……馬の背に揺られながら、劉備はそんな事を考えていた。

 彼女の生まれ故郷に比べると、内陸部にあるこの地方はやや乾燥している。雪が降る季節まではまだ時間はあるが、周囲の自然に水気は見られない。情景的にはどこか物悲しさを感じさせる風景だが、冬に備えて薪を切る人々の姿がそこかしこで見られるのが何ともアンバランスであった。

 

 次の峠を越えれば、袁術の領土を抜けて徐州に入る。だが、馬の手綱を握る手には力が入らず、頭の中に浮かぶのは先日まで自分がいた場所でのことだった。

 

「桃香」

 

 後ろから声を掛けられる。振り返ると、後ろから駆けてくる一刀の姿が見えた。

 

「やっぱり悩んでいるのか?桃香」

 

 自分の心の内面を見透かすような、一刀の声。普段はどこにでもいるような普通の青年なのに、こういう時は本当に『天の御遣い』という名に恥じない鋭さを感じる。それでいて自分を気遣ってくれているのが分かる、不器用な優しさも。

 

「確かに劉勲の言葉は真実の一つだと思う。でも、世の中はそれだけじゃないはずだ」

 

「……ご主人様」

 

 劉備は静かに振り返って、一刀と向き合う。

 

「わたし達は……わたし達がしようとしていた事は……――間違ってたのかな?」

 

 聞くのが怖かった答えを、劉備は想い人に問いかける。

 義勇軍を結成して以来、共に戦ってきた仲間達。辛い時も、楽しい時もずっと一緒にいてくれた大好きな仲間たち。だが出世して政治の世界へ足を踏み入れた途端、現実の非情さを思い知らされた。それでも皆が自分の理想の為にそれぞれの戦場で戦ってくれた。

 

 だけど、結果としてそれは良い選択だったのだろうか。今の自分には分からない。

 これから先は、さらに険しい道のりが待っているだろう。自分と共に進めば、命を落とす事だってあるかもしれない。もし無理をしているようなら、これ以上の負担は――。

 

「痛っ!?」

 

 こつんっと軽い音が鳴り、頭部に小さな痛みを感じた。その原因を作った張本人、北郷一刀は穏やかに微笑み、短く答えを告げる。

 

「言わなくても分かるだろ?」

 

「え?」

 

「その答えは、桃香が一番よく知ってるはずなんだから」

 

 ぽかんと口を開ける劉備。そんな彼女に、一刀は優しく笑いかける。

 

「桃香の理想は、決して楽な道なんかじゃないと思う。たぶん、今まで以上に厳しい道のりになるだろうな。でも……自分達で作った道なら、それも悪くないさ」

 

 前方に、関所が見えてきた。山の麓にそびえたつ検問所を通過すれば、小沛城はもうすぐだ。既に会議の内容は早馬で報告してあるから、早ければ明日にでも下邳からの報告が届くだろう。

 

「小沛城に着いたら、久々に街で散策でもするか。桃香はどこか行きたい店とかあるか?」

 

 隣を進む一刀の馬の速度が速まる。それに遅れないよう、劉備も手綱を握る手に力を込めた。

 

「う~ん、わたしはね――。」

 

 

 ◇

 

 

 実の父の死を利用してまで曹操が実行しようとした徐州侵攻は、土壇場で危機を迎える。彼女は最後まで袁術陣営のとった行動を非難したが、青州への独立保障によって道義的にも物理的にも不可能に近い状態に追い込まれていた。劉表や陶謙、公孫賛は袁術の行動を賞賛し、当時の曹操にそれを阻止できるだけの力は無かった。

 

 勢力の均衡――その維持を図るべく劉勲は複雑怪奇な政治外交を駆使したが、最終的な目的は一度たりとも変わっていない。彼女の目標はただ一つ。世界を止める――終始一貫してそれだけだった。李傕らの内戦に端を発した一連の騒動はここに決着の流れを見せ、最終的な勝利者は自ら直接手を下す事無く均衡維持を達成した袁術になるかと思われた。

 

 しかし、劉勲は知らなかった。

 

 確かに彼女は現状における『最善手』を打ったが、その最善手自体が“他の条件が一定ならば”という仮定のもとで想定されたもの。劉勲は、いわば将棋の盤上でしか物事を図れていなかった。全ての駒は、既に決まった動きでマス目を移動するものだと勘違いしていたのだ。

 

 ゆえに彼女は気づけなかった。現実には“変化を起こさないため”の『最善手』こそが、変革へ第一歩であったことを。そして彼女の知らない内に、連鎖的に戦争への引き金が引かれていたことに。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ――わずかに時を遡る。

 

 

 劉備達が袁術と交渉していた頃、戦争の嵐は最北の地・幽州にも迫っていた。

 

「それは本当なのか……?」

 

 幽州牧・公孫賛は届けられたばかりの報告に、思わず耳を疑った。だが、続く趙雲の言葉が誤報でないことを確信させる。

 

「間違いありませぬ。先ほど袁術と孔融の大使にも確認を取りましたが、やはり徐州は恐慌状態にあると」

 

 徐州にて曹操の父・曹嵩、暗殺される。犯人は未だ捕まらず――しかも暗殺者は徐州の兵士らしい、という情報に公孫賛は絶句した。

 もし徐州側がこの事件に関与していたとなれば、確実に戦争になる。

 

「だっ、だが私の知る徐州牧・陶謙殿はこんな真似をするような人じゃない!何か裏があるんじゃないのか?」

 

「そうかも知れませぬが、そうで無いかも知れませぬ。問題は、徐州の地にて曹操の父君が殺害されたという事実。真実がどうあれ、陶謙殿は他州の要人の安全も守れぬ指導者として、周辺諸侯からの信用と評価を共に失いつつあるのです」

 

 そしてそれは、徐州と友好関係にある幽州にとっても他人事では無かった。世間的には親の仇討ちをする曹操が善とされ、陶謙が悪とされるだろう。最悪、曹操が皇帝から勅命をもらうような事があれば、徐州に味方する事は自分で自分の首を絞めるようなもの。連座で逆賊のレッテルを貼られれば、領内の豪族からも離反者が出かねない。

 

(だが、青州や并州に袁紹を止められる力は無いし、袁術は遠すぎる……各個撃破だけは避けなくては)

 

 ここで徐州を見捨てれば公孫賛は有力な同盟国を失い、曹操・袁紹連合に対して政治・軍事的劣勢に追い込まれる事になる。一番の問題は袁紹だ。もし曹操が司隷と徐州の両方で2正面作戦を行うような事態になれば、彼女は袁紹に対して大幅に譲歩せざるを得ない。然る後に、袁紹は曹操の裏切りを気にする事無く、全力で公孫賛を攻められるのだ。

 

「……」

 

 表情を崩さぬまま、沈黙を保つ公孫賛。だが、内心はその限りでは無いだろう。そのアンバランスさが、彼女の葛藤をより一層際立たせていた。

 だが彼女の逡巡も長くは続かず、やがて意を決したように口を開いた。

 

「星……軍を召集してくれ。それと、徐州に使者を送る準備もだ。――桃香達を、全面的に支援する」

 

「……よろしいのですか?徐州を支持すれば、曹操・袁紹連合との全面戦争になるやもしれませんぞ?」

 

 今回の件は客観的に見て徐州側に非がある。親の仇討ちは儒教思想的に支持されるべきものであり、それに反するような行動をとれば、領内の名士からの反発は必須――懸念をあらわに、趙雲が疑問を呈す。

 

「まず領内の意見を統一するのが先では?事を急げば、思わぬところで足元を掬われかねません」

 

「それはそうなんだが……桃香たちの相手はあの曹操なんだぞ?あまり悠長に構えていると手遅れになるんじゃないか?」

 

「むむ、それも一理ありますな。……しかし、だとしても動員は流石にやり過ぎでは?」」

 

「いや、やるなら今しかない。むしろ今だからこそ、やらなければいけないんだ」

 

 公孫賛は領主としての顔で、きっぱりと断言する。

 

「軍を動員する理由は二つある。一つは、私の手元には今、かつて無いほどの大軍がいるという事。私はこれを機に君主権力を確立し、幽州の支配を一枚岩にするつもりだ。」

 

 公孫賛は長らく名士と対立しており、その権力基盤は軍であった。これは権力と軍事力に優れる支配体制であるが、名士を敵に回す以上、どうしても地方の支配が脆弱になる。公孫賛はこれまでも何度か反抗的な名士や豪族を討伐しようと試みていたが、理由もなく軍を集めれば当然相手もそれに気づく。大規模な常備軍が一般的では無いこの時代、君主一人が支配権確立の為に兵を集めれば、地方領主達の元にはそれ以上の兵が集まってしまうのだ。

 

「だが、麗羽達が誘導した内乱のおかげで、今では3万の歩兵と2万の騎兵が私の直接指揮下にある。内乱中の動きと、徐州支持を打ち出した時の反応を探れば、誰が体制派で誰が反体制派なのかも分るはず。……例え再び内乱になろうと、今度こそ先手を討って各個撃破してみせる」

 

 公孫賛は覚悟を決めるように、拳を強く握り締める。自らの取ろうとしている行動が悪手だという事は、本人が一番よく分かっているだろう。しかし、これは領内を統一する千載一遇の機会でもあるのだ。チャンスは一度きり。今を逃せば次はいつになるか分からない。

 

 だが、理由はそれだけでは無い。もう一つの、もっと切実な理由が、公孫賛を軍事的冒険へと駆り立てていた。

 それは南に位置する列強、袁紹が曹操と結んだという事実。世間では司隷を併合するためと言われているが、袁紹軍主力部隊は南皮から動こうともしない。不気味なまでに沈黙を保っていた。

 

「本当に司隷に攻め込むつもりならば、私の行動は無駄どころか骨折り損だ。無能、悲観論者と非難されても仕方無いだろう。だが……」

 

 ――もし袁紹の真の狙いが幽州だったとしたら?

 ――曹操と結び、彼女の東西で戦争を煽る事で、後顧の憂いを無くすことだとしたら?

 

 口には出さずとも、己の主君が何を言いたいかは趙雲にも分かった。

 

「私が軍を動かせば、袁紹たちも当然同じことをする。最悪、彼女達と戦争になるかもしれない。

 それでも……私は幽州の州牧だ。此処に住む領民のことを、何よりも優先するのが私の責務だ」

 

 皇帝から地方の統治を任された州牧として、彼女には領民を戦乱から守る責任がある。そして戦乱が回避できないのなら、可能な限り被害を少なくするという義務も。すなわち最速で領内を統一し、州境上で水際防御を行い、必要ならば予防的先制攻撃にて敵を排除するということ。

 

「もしここで無責任に平和を信じ、何の準備もしないまま袁紹に蹂躙されるような事になったら、私は自分を一生許せないだろう。私のような凡人をここまで取り立ててくれた、陛下にも顔向けできない」

 

 そこまで言った所で、公孫賛は自嘲するような苦笑を浮かべた。

 

「いや……何を言っても所詮は言い訳でしかないか。結局のところ、私のやろうとしている事は幽州ただ一州の事情ために、中華全土に混乱を招きかねない行為なんだから」

 

 無理に笑顔を浮かべてはいるが、その裏では苦しい自問自答の繰り返しがあったに違いない。統治者としての責任感と、漢の臣下としての忠義が彼女を追い込んだのだろうか。

 

「だから星……分かってくれ、とは言わない。それでも――侵略されてからでは遅いんだ。」

 

 声に諦観と寂しさを滲ませ、公孫賛はゆっくりとかぶりを振る。

 

「平和の時代は終わったんだよ。勢力均衡体制が機能不全に陥るつつある以上、自分達の身は自分達で守るしかない。それには軍事力が必要だ」

 

「………」

 

 趙雲は何も答えない。公孫賛が漢帝国の臣下であることを誇りに思っているように、趙雲もまた公孫賛の臣下であることに矜持を持っている。ゆえに主君が心を決めたならば、全身全霊をもって応えるまで。それが臣下の務めなのだから――。

 

「もうすぐ中華全土を巻き込んだ戦争が始まる。もし徐州が墜ちれば……次は私達だ」

 

 静かに告げる公孫賛。決断は下された。

 黙って主の言葉を待つ趙雲に、幽州を統べる郡雄は静かな声音で断じる。

 

「――戦の、準備を」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 冀州・南皮――袁紹の本拠地であり、華北有数の大都市でもある。袁術の治める宛城ほどではないにしろ、ここもまた袁家のお膝元だけあって街は賑わいを見せていた。

 そしてこの日、南皮城内では主君である袁紹と軍師である田豊が、激しい舌戦を繰り広げていた。

 

「田豊さん!これは一体どういうことですの!?」

 

 袁紹は苛立ちを隠そうともせず、感情をむき出しにしたまま指で窓の外を指す――南皮城から見える練兵場には、地面を埋め尽くさんばかりの兵士に溢れていた。

 軽く見ただけでも、少なくとも4万人はいるだろうか。僅かな空間にさえ、収まりきらなかった兵が無理やり詰め込まれている。本来なら定員オーバーした分の兵士は場外に出す事になっているのだが、敢えて場内に押し込む理由があるとすれば、理由は一つしか考えられない。つまり、練兵場の外にはこれを上回る数の兵士が展開している、ということ。

 

「現在、南皮には約10万の兵を集結させております。装備も錬度も万全の態勢にて待機中。後は姫様のご命令さえ頂ければ、いつでも作戦行動に移れるかと」

 

「じゅ、10万……!?」

 

 袁紹の叱責に怯んだ様子もなく、田豊は堂々と答えた。その言葉に、周囲に居並ぶ家臣たちも改めて愕然となる。10万の兵が南皮に終結――それは冀州全体で動員できる兵力の実に3割にも及ぶものだった。そして常識的に考えれば、南皮に全ての兵士が集結しているはずもない。

 

「そんな事は聞いてませんわ!田豊さん、わたくしの言った言葉を覚えていませんこと!?」

 

「いえ、一字一句明瞭に把握しております。――確か“幽州に対して勇ましく、そして雄々しく圧力をかけなさい”、と」

 

「なら、どうしてそれが総動員(・ ・ ・)になるんですの!」

 

 袁紹は声音に怒りを滲ませながら叫ぶ。その表情は余裕を失っていた。

 いくら世間の評価が低いとはいえ、彼女もまた一州を治めるれっきとした州牧。自軍の「総動員」が中華全土に無視しえない影響を与えるであろうことは容易に想像できた。そして、彼女にはまだその覚悟がなかった。

 

「わたくしの華麗なる軍隊なら、そんな大袈裟なことをしなくても充分ですわ!北の貧乏太守や田舎の引きこもり州牧ぐらい、簡単にメッタメタのギッタギタにして差し上げますわよ!」

 

「姫様、それは無理だと何度も申し上げたはず。青州は袁術に取り込まれ、并州の動向も不明。公孫賛が総動員を開始した今、我らに限定戦争という選択肢はあり得ませぬ。部分動員では手遅れになりましょう」

 

 だが、田豊の方も一歩も譲らない。

 東の青州、西の并州、南の兌州、北の幽州……四方を囲まれた袁紹の冀州にとって、他正面からの同時攻撃は現実感を伴う恐怖であり、袁紹軍のドクトリンはいかにしてこれを防ぐかにあると言っても過言では無い。もし袁紹が部分動員しかかけず、その後に青州や并州が宣戦布告してきた場合には、兵力不足のまま多正面作戦を強いられてしまう。

 

 公孫賛は“我々の動員はあくまで非常事態に備えた圧力”と宣言しているものの、袁紹側からすれば単なる口約束に過ぎず、先制攻撃されないという保証はどこにもなかった。そもそも仮想敵国が動員をかけているのに自国は何もしない、というのは愚行でしかない。

 

「我々の軍は曹操軍と違って常備軍にあらず。豪族の私兵が中心の連合軍……悪く言えば寄せ集めの武装集団にすぎませぬ。戦争をするに当たり、各豪族の意見調整と役割分担、恩賞金や負担の分配など煩雑な作業が必須なのです。併せて集まった私兵集団同士の行動の統一、錬度・戦力把握が必要であるゆえ、動員計画の途中変更など不可能に等しいでしょう」

 

 これは名士を優遇し、彼らの協力を得ることで国力を充実させていた袁家ならではの弱点であった。この政策自体は大成功を収め、冀州は安定した統治によって大いに繁栄している。それに伴って人口も増大し、最大動員時の兵力は30万にも達すると言われていた。

 しかし、なまじ大所帯である分、何をするにしても時間がかかってしまう。加えて当時の戦闘は比較的短期間で終結する事がほとんどであり、開戦後に動員を始めるのでは戦争に間に合わない。だからこそ、開戦前に可能な限り多数の兵員を集結させる必要があったのだ。

 

 無論、こういった問題点は田豊ら袁紹陣営首脳部も痛感しており、それを解決するべく日々頭を悩ませていた。それゆえ袁紹陣営にもまた、曹操同様に大規模な戦争に備えた計画が以前から存在していた。

 

 ――『第17計画』

 

 袁紹軍の戦争計画の一つであり、青州と幽州を同時に敵に回した場合を想定したもの。北からの攻撃を防御しつつ青州を先に下し、然る後にすぐ軍を引き返して公孫賛軍を殲滅する。移動には主に船を使い、黄河と渤海を渡って大兵力を素早く輸送。戦略機動能力を強化することで局地的な数の優位を確保し、迅速で堅実な勝利を求める軍事ドクトリンだ。

 

「青州牧・孔融は袁術による独立保障を受け入れた。そして袁術は我らの敵、公孫賛と経済的に協力関係にある。転じて、孔融は敵の味方の味方……つまり我らの潜在的な『敵』なのです。表向きは中立とはいえ、どうして我らに連中を信じる事が出来ましょうか?」

 

 かねてから田豊は2つの戦線を同時に抱えるのは厳しいと考えており、まず弱体な青州から潰すべしと結論付けていた。もともと青州は袁紹派と公孫賛派の2つの派閥が存在しており、袁紹派がやや劣勢とはいえ、内部分裂ぐらいなら造作も無い。加えて青州は袁紹の本拠地である南皮から近く、青州黄巾党という内患すら抱えていたからだ。

 

「こちらとしても、中立を表明している諸侯への攻撃は望むところではありませぬ。しかしながら、公孫賛は我々の動員中止要請を断り、総動員を強行しました。先に向こうが啖呵を切った以上、こちらも総動員をかけて対抗せざるを得ないでしょう。さもなくば致命的な遅れが生じ、下手をすると全てを失いかねませんぞ」

 

「全てを……?」

 

「左様。軍事作戦上の制約を抜きにしても、限定動員は不可能なのです。理由は至極単純、兵力不足の恐れがあるゆえ」

 

 田豊とて、好きで袁紹の意見に反対している訳では無い。彼もまた一人の臣下として、可能な限り主君の意志を尊重したい、という気持ちはある。しかしシミュレーションの結果、それが不可能な事が発覚した。

 理由は司隷へ5万もの軍を送った事にある。先日、曹操のもとから派遣された荀或から『共同統治』案を提唱された袁紹は、当然ながらこれを即座に受諾。最初から派遣していた3万の兵に加え、増援として2万の兵を送ると約束してしまったのだ。

 

 そして袁紹軍首脳部の判断では、限定動員で支える事の出来る戦線は多くて2つとされ、それ以外の方面には中央に残した予備兵力であたることになっていた。

 だが、現実には司隷の内戦に介入してしまった為、この予備兵力にあたる兵力がいなくなってしまったのだ。劉焉の脅威が健在で曹操との約束も履行せねばならない以上、司隷方面軍を領内に退却させる事は不可能。かといって別の方面軍から兵を引き抜けば、今度はそちらの戦力が弱体化してしまう。加えてこの地方を拠点とする黒山賊などに備えた領内の治安維持等もあり、兵力を確保するには総動員しかないとされたのだ。

 

「……ですが、青州に攻め込めば、袁術さん達を刺激してしまう恐れがあります」

 

 袁紹に代わって口を開いたのは、不安げな表情をした顔良だった。

 

「青州の独立保障は劉書記長の肝入りで行われたものですし……私たちが正面から泥を塗るような真似をすれば、いくら袁術さん達でも黙っていないんじゃ……」

 

 下手をすれば、袁術軍の介入すらあり得る。それどころか袁術陣営の国益を考えれば、むしろ何の介入もないと考える方が不自然だ。

 

「でも、袁術軍って確かスゲー弱いんだろ?だったら戦争になっても、あたいらがブッ潰しちゃえば問題無いっしょ!斗詩は考え過ぎだってば」

 

 顔良とは対照的に、文醜は袁術がどう動こうが気にしていないようだった。袁術兵は中華一の弱兵とも言われ、軍事的な名声は無きに等しい。

 それでも、と顔良は思う。袁術陣営は全ての列強の中で最大の人口と経済力、財政力を有する巨大組織。諜報機関も発達しており、外交においても指導的な立場にある。その潜在的な力は計り知れない。それに――。

 

「仮にそうだとして……何か問題が?」

 

 にべもなく田豊に返され、全員が唖然とする。

 

「地図を見るがよい。万が一袁術が戦争に介入しようとも、その矢表に立つのは我らではなく曹操の小娘であろう?今は味方でも、いずれ排除せねばならない脅威だ。今のうちに両者が共倒れになれば、これ以上の僥倖はあるまい」

 

 またもや絶句する一同。だが、田豊の意見は完全に理に適っていた。両袁家の間には曹操の領地があり、直に矛を交える事は不可能。最近占領した司隷東部が唯一の接点だが、南陽群方面にもいくつかの関所が存在する為、守るだけなら問題ないはず。そう、仮に袁術と戦争になろうとも袁紹の懐は何も痛まないのだ。

 両者の共倒れを狙うという、傍から見れば下劣な謀略。だが田豊がそういった献策を行うのは、ひとえに袁紹のため。居並ぶ重臣たちもそれを知っているだけに、敢えてそれを指摘する者はいなかった。

 

「このまま動かずにいれば、曹操はますます力を付けるでしょう。かの者の実力は姫様が一番よくご存じのはず。袁術ごときの小細工で、動きを止められる相手ではありませぬ」

 

 曹操――その単語に、袁紹は黙り込む。

 思えば、彼女とは幼少時からの長い付き合いだ。生自の卑しさゆえに不当な評価を受ける事も多かった曹操だが、袁紹はあの優秀な幼馴染が決して侮れない相手だという事を誰よりも良く理解していた。そして曹操と共に、もう一人の洛陽で知り合った学友の事も。

 

(劉勲さん…………)

 

 だが袁紹が内心を外に現す事は無かった。じっと腕を組んだまま、臣下の議論の耳を傾ける。田豊はその意を汲み取り、続けて口を開く。

 

「“兵は巧遅より拙速を尊ぶ”……我らの取るべき方針も防御や傍観ではなく、先手必勝なのです。姫様、もはや一刻の猶予もありませぬ。どうか、ご命令を」

 

 語り終えた田豊は、袁紹に向けて深々と頭を下げる。

 

「……」

 

 言うべきことは全て語った。後は主君の判断を待つのみ……長年仕えてくれた老軍師が何を考えているのかは、言葉に出さずとも袁紹には伝わっていた。

 

(このわたくしに、袁本初に歴史を動かせと……。そういう事なのですね、じい……)

 

 袁紹は静かに目を瞑る。

 田豊は、主君である袁紹に対しても容赦なく反論するし、ダメ出しもすれば、数え切れないほどの小言も言う。だが決して主君の決断に逆らいはしない。もし袁紹がここでハッキリと総動員に反対すれば、その時は彼も一臣下として君命を忠実に実行するだろう。主君に媚びへつらいはしないが、臣下としての領分は弁える――そんな田豊の愚直さと頑固さは、袁紹が一番よく知っていた。

 

「……正直に言わせてもらいますわよ。わたくしは名門袁家の跡取りとして、幼い頃から英才教育を受けてきましたし、今でも田豊さん達のように優秀な方が周りに大勢いますわ」

 

 頭を垂れた姿勢で微動だにしない田豊。それと対を為すかのように、袁紹はゆっくりと立ち上がる。

 

「それなのに……何が正しくて、何が間違っているのか、どなたが味方でどなたが敵なのか、わたくしには未だによく分かりません。上辺ばかりで中身が無い、と巷で言われるのも仕方ありませんわ」

 

「姫様……!?」

 

 袁紹の言葉に、居並ぶ家臣たちが目を見開く。皆、袁紹とは長い付き合いだが、プライドの高い彼女が自身を卑下するなど、未だかつて無かった事だからだ。

 だが、彼女ももはや子供ではない。外面ばかりで中身が伴わない……自分が周囲からどう思われているか、薄々気づいていたのだろう。

 

「ですが……だからこそ、敢えて言わせてもらいますわ。袁家に勝利をもたらす存在は、このわたくしでは無いと!」

 

 袁紹は腰に手を当て、勢いよく剣を引きぬく。

 

「あなた方が!あなた方全員の力が!我ら袁家に勝利をもたらすのです!」

 

 高く掲げられた剣は日の光を反射し、全員をまばゆく照らす。太陽の光を浴び、金色の鎧を身に纏う袁紹の瞳には、一切の迷いも見られない。その自信に充ち溢れた堂々した態度は、名門袁家の当主という肩書きに違わぬものだった。

 

「わたくしは、みなさん全員の力を信じます!存分におやりなさい!責任は全て、この袁本初が取りますわ!」

 

 ――王とは臣民を導く者のみにあらず。

 

「汝南袁家の現当主・袁本初の名において命じます!――必ずや、袁家に勝利を!!」

 

 ――臣民を信じ、全面的に任せることもまた、一つの“王”としての姿。

 

 

「 「 「 袁家に、勝利を! 」 」 」

 

 

 華北に、戦の風が吹く。

 

 

「 「 「 必ずや、袁家に勝利を!!! 」 」 」

 

 

 今、歴史の歯車は再び軋みだす――。

        




袁紹軍の計画……知っている方はご存じの通り、シェリーフェンプランをモデルにしています。史実で

「あ…ありのまま今起こった事を話すぜ……。
 オーストリアがセルビアに宣戦布告したと思ったら、いつの間にかドイツがベルギーに攻め込んでいた……!」

 ってヤツです。

 本作でも公孫賛、袁紹、袁術、そして曹操も全員が「最善」手を打ってるはずなのに、それが「最悪」の結末に向かうという……。
 『囚人のジレンマ』がこれに近い状態かも知れませんね。知らない人同士じゃ相手の事なんて信用できないし、国なら尚更……。そう考えるとある程度相手と交流深められる「政略結婚」も悪くないんじゃないかと思ってみたり……。

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