真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜   作:ヨシフおじさん

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70話:名門の距離感

          

 界橋の戦い以降、華北の情勢は一気に袁紹優位に傾いている。破竹の勢いで進撃する袁紹軍は瞬く間に冀州を奪還し、故安城に籠る公孫賛軍残党を包囲。公孫賛の本拠地・幽州の地に足を踏み入れていた。

 

 袁紹の大逆転は、ひとえに界橋の戦いでの勝利のみが原因ではない。田豊や逢紀、郭図、沮授など様々な名士が活躍している事からも分かるように、袁紹の統治政策は『名士優遇政策』であり、地元の有力者である名士・豪族がこぞって袁紹のもとに馳せ参じた事が大きい。対照的に公孫賛は中央集権化・君主権力の確立のために名士冷遇政策をとっていたこともあり、敗戦によって権力基盤である軍事的優位性が失われた途端、支配地域がドミノ倒しのように次々に袁紹陣営に寝返ってしまったのだ。

 

 

「麗羽さまー! 文醜隊、さっき中山国を占領しましたー!」

 

「常山国ですが、主な名士達はみんな袁家へ恭順するそうです。えっと、こちらがその連名表になりますね」

 

 冀州北西部の再征服を命じられていた、文醜と顔良が袁紹の前に現れる。公孫賛が土地勘の無い冀州での遅滞防御を諦めた事もあってか、どちらも苦労せず目標を達成したらしい。

 

「おーほっほっほっほっほ! 名門の跡継ぎたるこの袁本初に歯向かおうだなんて、やはり田舎太守には過ぎた思い上がりでしたわね! やはり勝利は名門にこそ相応しいのですわ!」

 

 次々と届けられる勝利の報告に、袁紹は上機嫌で高笑う。袁紹と袁術という2つの名門を旗頭とした『二袁の戦い』は、袁術側の2大巨頭であった陶謙と公孫賛が敗北したことにより、少なくとも華北一帯では袁紹の覇権が確立したといっても良い。

 

 注目すべきは、これらの成果が「敵を返り討ちにしたこうなった」というような受動的なものではなく、きちんと計画された大戦略の中に組み込まれていたという事である。その基本的な構想を提案したのは田豊や沮授といった名士たちであり、彼らは光武帝・劉秀の後漢成立故事をベースとした大戦略を一歩づつ、着実に実現させていた。

 後世においても、また当時においても個人的な評価は芳しくない袁紹であるが、明確な天下統一の方針と大戦略を掲げていた郡雄は、諸侯多しといえども彼女の陣営のみであった。彼女より有能とされる曹操や孫策などが野望こそあれど、まだこの時点では長期的な将来展望を見いだせないでいる中、凡愚と評された袁紹のみが天下統一に向けて着々とその勢力を拡大していたのだ。

 

 すなわち、第一段階として華北でもっとも豊かな冀州を拠点とし、第二段階で弱体な東の青州を制圧。第三段階では、そのまま反時計回りに兵を移動させ北の公孫賛を打つことで幽州を平定、第四段階でも同じく反時計回りに旋回して西の并州を従える。然る後に南下し、華北四州の総力を上げて華南征服に乗り出す。ここまで来れば中華の心臓部は抑えたも同然であり、後は洛陽にいる皇室の威光を利用できれば、天下統一は時間の問題となる……常に自分より弱い相手を下しながら勢力を拡大するという方針は、正しく戦略の王道に忠実であった。

 

「――此度の勝利、実にお見事でした。我ら軍師一同、改めて感服致しました」

 

 最大の仮想敵であった公孫賛軍を撃破した達成感と安心感からか、この時期の袁紹軍全体が戦勝ムードに包まれていた。評価の辛辣なことで有名な田豊ですら、珍しく主君へ褒め言葉をかける余裕があったじほどだ。何事にも厳しいこの老漢が人を褒めた事など、袁紹の記憶の中でも数えるしかない。しかも今回の戦いにおいて袁紹本人が立てた功績といえば、兵を煽って士気を高めたことぐらいか。沮授などは下手に煽り過ぎると暴走の恐れがあると、褒めるどころか諫めていたほどだが、田豊の見解は異なっていた。

 

 あの愚直ともいえる底なしの自信、己こそが至高と信ずる傲慢さ――いかなる状況であれ、それを徹底して貫き通せる人物はそう多くは無い。主が揺らいでいては、臣は道を見失う。生死の境目をさまよう戦場であろうと自己を失わず、強烈な意志でもって周囲の人間を導く……そんな人間こそが王に相応しい、田豊はそう考えていた。

 その意味では天下広しといえども、袁紹ほど揺らぎのない人間もまた2人といないだろう。

 

「では姫さま。次の作戦計画ですが……」

 

「即、全面侵攻ですわ!」

 

 田豊の話の腰を折って、相変わらずの脳筋思考……もとい、実に袁紹らしい解答が返ってくる。

 

「このまま勢いに乗って突撃!粉砕!そして勝利ですわ!」

 

「よろしい」

 

「えっ、認めちゃうんだ!?」 

 

 割とあっさり袁紹の意見を認めた田豊に、顔良は困惑を隠しきれない。無意識のうちに有能な軍師=慎重派みたいなイメージが出来上がっていた事もあるが、公孫賛軍の侵攻で荒らされた領地の再建もそこそこに反撃に移れば、一揆などで足元を掬われかねないとの懸念もあった。その事を田豊に問うと、経験に裏付けされたシビアな解答が返ってくる。

 

「姫様も言っておられたが、現時点で勢いは我々の側にある。大勝利の直後に勝者の召集令を断る豪族はいなかろう」

 

 この時代の多くの諸侯と同じように、袁紹の権力基盤は豪族・名士を中心に形成された家臣団である。日本でいえば戦国大名と国人集のようなもので、戦時には直属の常備軍というよりは家臣に軍役を課すことで軍を形成する。そのため配下の豪族・名士たちは主君と家来というよりは緩やかな同盟関係に近く、袁紹ら諸侯も絶対的な君主ではなく盟主に近かった。ゆえに配下の豪族が主君の意向を無視したり、軍の召集を無視することも多々あった。

 実際、公孫賛が優勢だった時期には様子見を決め込んだ輩も大勢いる。だが袁紹の優位が定まった現在なら、軍役を拒めば叛意ありと見なされ粛清されるため、召集を拒む間抜けは現れまい。

 

「つまり我らが配下の豪族に軍役を拒否する口実を与えずに、大軍を組織できるのは今しかない。そして――これは彼らの忠誠心を試す良い機会にもなるだろう」

 

 勝ち馬に乗りたければ相応の活躍を示せ……田豊は今度の侵攻を、彼らの忠誠心を試す踏み絵にするつもりであった。

 

「後は戦火で土地を失った農民の対処、だったか? それなら彼らが土地失う原因となった公孫賛にツケを払わせればよかろう」

 

「え……」

 

「土地を失った農民は、武器を与えて兵士にすると言っておるのだ。潜在的な反乱分子はこの際、公孫賛軍と一緒に死んでもらう」

 

 これぞ一石二鳥というものだ――青ざめる顔良に淡々とそう語った田豊の姿は、紛れもなく漢帝国が生みだした1人の怪物であった。民が守られるのは君主がそれを必要とするからであり、君主にとって必要のない民なら排除されるべきである……田豊は天才であると同時に、そういった「民は君主の付属物である」と考える古いタイプの人間でもあった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

    

   

 この時期、天下に最も近づいている諸侯が袁紹であるとするならば、もうひとつの袁家――袁術らは何をしていたのであろうか。

 

 それを知るためには彼女らの対外政策から始める必要があるが、袁術陣営は戦争のただ中にあっても、相変わらず軍事というハード・パワーよりも外交などのソフト・パワーを重視していた。『――軍などに頼らずとも、外交で全てを解決できる』などと言えばひどく傲慢に聞こえるが、曹操や公孫賛らが国益追求のために軍備拡張に熱を上げるのと同じように、袁術陣営は外交に力を注ぐことで自らの国益を最大化しようとしている点が特徴とされる。

 書記長・劉勲の言葉を借りるならば“――か弱い女子が身を守るには、自分で剣術を学ぶより、剣士と関係を持って護ってもらう方が効率的”であった。

 

 

 では逆になぜ、袁術陣営が外交重視の政策をとった、あるいはバランサーとして外交重視政策をとることが可能だったのか?

 それには、袁術陣営の抱える特殊な事情が大きく分けて3つ関係している。

 

 まず、袁術陣営は領土の拡大を必要としない、数少ない諸侯の一つだった。劉勲らに代表されるように当時の袁術家臣団には市民・商人出身の都市貴族が多く、他の諸侯の家臣団の大部分を占める地方貴族に比べ、民衆からの直接的な税収に頼る割合が低い。

 舗装された道路、水上航路、運河、商業特権、自由貿易、奴隷売買、金融取引、輸送・情報ネットワーク、豊富な低賃金労働者や農奴に支えられた安価な工芸品と農作物――等に代表される“市場”こそが、袁術陣営にとっての“領土”だった。

 

 ――商品が関所を越えられない時、兵士が関所を越える。

 

 ――統治は可能ならば非公式に、不可能ならば公式に。

 

 軍総司令官の張勲ですら、上の条件が満たされた場合のみ軍事力を行使すると明言している。つまり袁術陣営は経済活動の自由や権益の保護、市場の安定化といった条件さえ満たされるのならば、領土の獲得は必ずしも必要ではないと考えていた。むしろこの時代の政府支出の大部分が、軍事費で占められていた事を考えれば、直接支配はリターンの割にかかるコストが大きい。人口や領土が拡大すればするほど内にも外にも敵が増えてしまい、『国家収入を維持する為の軍事力』がいつの間にか『軍事力を維持する為の国家収入』へと変化してしまう事は歴史が証明している。

 

 更に袁術陣営は中央集権化を進める曹操らと違い、地域主権・地方分権の間接統治形態を好んだ。勢力圏内の豪族は経済的には従属下に置かれるものの、政治的には在来の身分や支配が保証される。反抗さえしなければ危険が無いどころか、市場さえ解放すれば自領で如何なる振る舞いをしようとも咎められず、この“自由放任”支配は豪族たちにとって都合の良い体制ですらあった。

 実際、この期間に袁術陣営が直接支配してたのは南陽群、汝南郡の2群のみ(もっとも、この2群だけで袁術領人口の半分ほどに達するが)。その他の勢力圏は全て現代で言う衛星国、保護国、自治領、租借地、委任統治領といった形体で、現地諸侯の大幅な自治が許されていた。彼らの要求はただ一つ……“自由に取引できるよう、市場を解放すること”のみであった。

 

 

 次に、袁術陣営の高度な金融・信用制度が挙げられる。

 元々袁術の治める南陽群と豫州は、中華の中心に位置し、商業が盛んであることから貨幣経済が進んでいた(公孫賛の領地などでは未だに物々交換がかなりの割合を占める)。よって保有する貨幣の量は抜きんでており、それらは袁術領のみならず、中華の広範にわたる運輸・商品取引・決済管理・信用業務を支えていた。

 

 また、黄巾の乱から続く政情不安によって戦費は増大する一方であり、各諸侯は対策を迫られていたが、過酷な増税は民衆反乱を呼び起こす危険を伴うため、最も手っとり早く安全な戦費調達方法は借金だった。となれば、商人や金貸しから大規模に金を借りようとするのは驚くに値しない。だが、袁家のように“絶対破産しないだろう”と誰もが認める金満諸侯ならいざ知らず、大半の諸侯はいつデフォルトに陥るか分からないため、必然的に民間からの資金調達は高利となる。低利で融資を受けられる、という点において、袁術との同盟・経済協力ほど魅力的な融資契約はなかった。

 袁術陣営の方でも積極的に勢力均衡政策を取り、『軍隊で戦争をする諸侯』では無く『金で戦争を支援する諸侯』の立場を取った事によって、彼女らの金融市場はいっそう大規模になり、取引も活発化した。

 

 

 3つ目の原因は、袁術陣営が中原の争いから距離を置いた事にある。

 伝統的に中華の政治・経済の中心は『中原』と呼ばれる華北平原周辺であり、多くの諸侯がしのぎを削っていた。だが袁術陣営は最低限の利権を維持するのみで、中原における勢力圏を積極的に拡大しようという動きはあまり見られなかった。ゆえに覇権主義を振りかざす袁紹・曹操に比べて、諸侯の警戒心も和らぐ傾向にあった。

 

 だが、これを平和主義や覇権主義の放棄と見るのはいささか早計だ。袁術陣営は華北のバランス・オブ・パワーを推進する裏で、江南ではむしろ覇権主義的傾向を見せていたからだ。この時期、劉勲は“袁家の将来は南方にあり”とのスローガンを掲げ、中原を巡って国力を疲弊させるよりも、もっぱら未開発地域であった揚州、交州を半植民地化する事を公式路線としていた。

 

 当時、長江以南は地元豪族が強い力を持つ、政治・経済の中心地からも離れた未開の僻地であり、そこまで列強の警戒を買うものでも無い。なお未開拓のうっそうとした森林が茂り、シカやサルにくわえて小型の象すらいたという。長江には淡水イルカが泳ぎ、大自然の中では水路や水田開発といった人工物は少数だった。入植者たちはこのような土地にクワを入れ、人が生活できる土地へと作り変え、都市も拡張し、以後の発展を担う。彼らと時を同じくして次々と袁家の商館も建てられ、地元の有力者と癒着することで莫大な利益を挙げていた。

 

 これは明らかに、中華の伝統的な華北重視の外交政策とは異なる。理由は諸説あるが、一番説得力のある理由は“ビジネスチャンスの有無”だといわれている。中原は早くから発達していた弊害として『行』――いわゆるギルドに近い同業組合――が既得権益化しており、彼らと戦うにしろ袖の下を送るにしろ、その市場参入コストは高くつく。

 ならばそんな所で余計な体力を消耗するより、中原より発展スピードの速いフロンティア・江南に活路を求めたほうがよっぽど将来性がある。しかも幸いなことに、中原と違って発展途上の江南に強力なライバルはいないのだ――南陽の商人たちが、そういった考えに至るのは自然な流れであった。

 

 結論づけると、中原で積極的に勢力均衡政策を行う一方で、南方では交易と経済支配によって影響力を増大させ、その富をもってバランサーとしての地位をより強固なものにする……その循環こそが、袁術陣営を中華のバランサーと成らしめた要因であり、基本的な外交方針であった。

 

 

 **

 

 

 徐州・下邳城――

 

 雷のように大きな銅鑼の音が街中に鳴り響く。それが合図に破壊から復興した下邳城のあちこちで歓声があがった。 

 

「ふわはははは――! 見よ七乃、すごい数なのじゃ!!」

 

 本城のバルコニーから下々を見下ろし、大いにはしゃぐ袁術。彼女の視線の先には、整然と隊列を組んで街路を行進する兵士たちの姿がある。隊列の先頭には煌びやかに飾り立てた騎兵が、街路の脇には軍楽隊が並び、勇壮な音楽を奏でている。そして騎兵の後ろには、鎧で完全武装した槍兵が続く。ガチョウ足行進と呼ばれる、膝を曲げずに伸ばした脚を高く上げる行進スタイルが特徴的だった。

 

「「「袁家万歳!!!」」」

 

 数万の群衆から歓呼が沸き起こり、空気に波紋を起こす。袁術は天真爛漫といった笑顔で、嬉しそうにそれに応えて手を振る。可愛らしい姫様が無邪気に喜ぶ様は、少なくとも一個人として徐州の住民に好印章を与えているようだった。

 

「ふっふっふ、みな妾を見て喜んでおる。これも妾の日頃の行いのお蔭じゃな! 」

 

「いや、あんた何もしてないでしょうが」

 

 背後から呆れたような賈駆の声――彼女の方はというと、泰然あるいは鷹揚な態度で拍手を繰り返している。保安委員会の長という地位も徐々に板に付き始め、安心したような、それはそれで嫌なような、微妙な気分で毎日を過ごしていたりする。

 彼女の隣では、同僚の張勲もまた、ニコニコと柔らかい表情でパレードを楽しんでいた。

 

「別に細かい事はいいじゃないですかぁ。せっかくの祭りなんですし、賈駆さんも楽しまないと損ですよ~」

 

「ぐっ、なんでこういう時だけ微妙に正論なのよ……」

 

「まぁ、賈駆さんに限っていえば、立場上あまり祭りにうつつを抜かされると困りますけど。万が一のことが無いよう、しっかり警備して下さいね~」

 

「祭りだから楽しまなきゃって言ったの誰だっけ!?」

 

 さらっと嫌な現実を見せられる。保安委員会議長という地位にいる賈駆は、今回の軍事パレードの警備責任者でもあり、もし暗殺騒ぎなどがあった場合には責任を問われる立場にあった。

 

「……やっぱり心配になってきた」

 

 念の為、近くにいた副官をひとり呼びつけて警備状況を報告させる。

 

「はっ!――現時点では窃盗による被害届が25件、酔っ払いによる迷惑行為が14件、未成年誘拐未遂が6件、公序良俗違反が9件、原因不明の爆発事件が3件、乱闘騒ぎが1件となっております!」

 

「治安悪っ!?」

 

 思わず大声で突っ込んだ賈駆だが、副官は“いつもんこんなんだし”と言わんばかりのやる気の無さ。もうどうにでもなれと思わなくもない賈駆だったが、張勲にクギを刺された手前もあるので放っておくわけにもいかない。一応、自分のクビもかかってるし。

 

「ああもう! 仕方ないから窃盗とかは後で対処するとして、騒乱とか爆発とか破壊行為を優先して止めなさい! 予備の警護兵はもう動員した!?」

 

「その事なのですが、――当の警護予備として控えていた傭兵隊の詰め所で乱闘があったので、そちらの鎮圧および処理に当たっています。ゆえに人手不足であります!」

 

「やっぱアンタたち無能でしょ!? 知ってたけど!」

 

「――そして乱闘の原因ですが、詰め所に出張役務していたと思しき風俗嬢を巡り、複数の兵が奪い合って暴行に発展したとのことです!」

 

「突っ込みどころ多すぎるけど、とりあえず勤務中に風俗嬢とか呼ばないでくれる!?」

 

 他にも治安維持する側が率先して治安乱してどうするのよ?とか、そもそも何で傭兵隊みたいな半ゴロツキ連中に警護任せようと考えたのかなど聞きたいことは多くあったが、上げればキリが無いので我慢して呑みこむ。

 

 この軍事パレードには徐州の要人も数多く集まっており、袁家の力を分りやすい形で示す絶好の機会。間接統治とはいえ、袁家の支配が始まって日の浅い徐州人には不満も持つ人間も少なくはない。強大な軍事力を見せつけることは、内憂に対する威圧効果と外患に対する安心感を増幅させる。逆にいうと失態を犯せば、袁家組み易しとの印象を与えかねない。

 苛立ちを抑えて“職務怠慢であると判断された職員は減俸と僻地に出向”との旨を、副官から兵士たちに伝えさせると、力が抜けたように賈駆は柵にもたれる。

 

「はぁ~、疲れた……」

 

 パレードで流される陽気な音楽も、今の彼女にとっては何かの嫌味にしか聞こえない。

 隣の張勲に目をやると、こちら同僚の苦労など気にも留めずに楽しんでいるらしい。相変わらずご立派な軍服を着こんで、独裁国家の指導者がよくやる感じの拍手をしている。一応は彼女も軍人なのだから当然といえば当然だが、いつになく糊のきいた軍服をパリッと着こなしている姿が新鮮だった。

 

「……そういえば今気づいたけど、また軍服新調したの?」

 

「ええ。劉勲さんと今日の巡行の計画を決めていた時、なんか“せっかくの閲兵式なんだし、軍服はもっとキリッとした感じの方がよくない? あ、でも飾り服とか装飾とか色々凝ってる方がカッコイイし、軍隊って見栄えも大事だからぁ、そうなるように変更できたりする?”とか言ってたので、思い切って新調してみました♪」

 

「うわぁ……」

 

 流石は名門袁家、金銭感覚が違いすぎる。気持ち的にダサい軍服の軍隊よりストイックな軍服着た軍隊の方がいいという感覚は分からなくもないが、ファッション感覚で士官制服まるごと変更するとか普通の諸侯ではありえない。貧しさに定評のある西涼出身の賈駆の思考回路がセコいだけなのかもしれないが、曹操軍あたりでも“そんな金があるなら優秀な武将雇うとかそういう方面に使った方が実利的”と考えるだろう。

 

「劉勲さんの押しで流行りの胡服の要素を入れてみたんですが、なかなか好評みたいですよ」

 

 胡服というのは、いわゆる洋服――体にフィットするズボンをはき、開襟で袂(たもと)がない筒形の袖と短い裾の上着――であり、本来は中央ユーラシアの遊牧民が、乗馬の際に便利なように作り上げた服装だ。今や国際商業都市になりつつある南陽には遊牧民も多数訪れ、実用性と目新しさも手伝ってか袁術領ではちょっとしたブームになっている。

 

「そういえば、劉勲ってつくづく胡服好きよね」

 

「私も詳しくは知りませんけど、胡服はゆったりした漢服に比べて身体の線がくっきりと出るので“カラダ見せつけるのに有利じゃない!?”とか、そーいう理由だった気がします」

 

「あー、なんか凄く納得したかも」

 

 劉勲、ちやほやされるの好きそうだし。

 

「まぁ、ボクとしては動きやすいし、西涼で慣れた服装だから有難いんだけどね」

 

 開襟の背広型上着、肩ベルトに乗馬用ブーツ、縦長の楕円形帽章、階級を表す肩章。その装飾には金の葉模様刺繍をふんだんに用い、後世のネクタイの原型となるスカーフがワイシャツに巻かれている。張勲の好みは青と白を基調としたタイプだが、他にも灰色や黒、濃紺、緋色、濃緑、茶褐色など様々なタイプがあり、所属する組織ごとに配色も異なる。

 戦闘能力はともかく、士官用の軍服デザインだけはやたら先進的で見栄えがする袁術軍であった。

 

「見て下さい、賈駆さん。槍兵の次は軍楽隊の行進ですよ」

 

 張勲の言に従い、下を見れば煌びやかな軍楽隊が行進しているのが見える。大規模な軍事パレードなだけあって、楽器の種類も実に様々だ。琵琶、二胡、秦琴、月琴、革故(中華風チェロ)、木笛、チャルメラ、竹笛、、洞簫、葫芦絲(ひょうたん笛)、腰鼓、、太鼓、銅鑼、揚琴……数々の楽器を巧みに使い分けながら勇ましい曲を奏でる軍楽隊の脇には、浮かれて興奮した数万の民。それが普段は見ること適わぬ袁家の姫を一目見んと、足を運んだ人々が人海と呼ぶにふさわしい密度で密集している。

 

「この歓呼の声をよーく覚えといて下さいね。今お嬢様を讃えている群衆の崇拝は、去年まで死んだ陶謙さんに向けられていたものですよ」

 

(―――っ!?)

 

 不意に投げかけられたのは、達観と鋭い洞察を含んだ張勲の声。

 

「賈駆さんには見覚えのある光景じゃないですか? ここに来る前、洛陽で」

 

 洛陽……それは賈駆にとって罪と辛苦を意味する単語。張勲の指摘通り、董卓軍は逆賊にされる前、都でまさに目の前にあるような熱烈な歓迎を受けていたのだ。周知の通り、それはいとも容易く利用され、罵倒と憎悪の感情へと変化していったのだが。

 

「「「袁家万歳!」」」

 

「「袁術様に栄光あれ!」」

 

 見れば脇では、袁術がバルコニーの上から道脇に集まる人々に手を振っている。群衆もまた花を持った花などを振りながら、大声で袁家万歳と歓呼する。これも移ろう数多の王朝が、ことごとく経験してきた光景なのだろう。

 

「……なんでそんな話をボクに?」

 

「袁家には優秀な人民委員が多く集まっていますが、仮に私が大衆の危険性を説いても耳を貸さないでしょうね。彼らは有能だからこそ分らないんですよ、大衆の移ろいやすさと愚かさが」

 

「一度身をもってそれを知った、ボクなら話が早いと?」

 

「ええ。従順を装う民の外見に惑わされず、忠実に職務を遂行して下さい。外様である貴女の立場を考えるに、そうするのが身のためですよ」

 

 張勲の微笑みを受けて、賈駆は微かに自分の指が震えていた事に気付いた。

 脅しと身の安全の保証、それを同時に示して一層職務に励むことと組織への忠誠を誓わせる――呑気な笑顔で取り繕ってはいても、やはり張勲もまた名門袁家の古参幹部なのだ。伊達に権力闘争を生き抜いてきたわけではないのだと、改めて再確認させられる。

 

「……そうね、忠告はありがたく受け取っておくわよ」

 

 同時に何ともいえぬ胸焼けを覚え、賈駆は新鮮な空気を吸おうと息を呑む。寒冬ただ中の冷たい風が、少しばかり喉に痛かった。 

                           




 前回の投稿からだいぶ間が空いてしまい、申し訳ございません。一応ここで生存報告を。

 話が進んでるような進んでないような今回の話ですが、とりあえず袁家は今日も安泰。でも権力と栄華は永遠ではなく、民も家臣も移ろいやすいがゆえに、権力者はいつひっくり返ってもおかしくない……そんなシビアな田豊さんと張勲さんの一面でした。

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