真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜   作:ヨシフおじさん

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76話:乖離

  

 揚州牧・劉繇との会談が不首尾に終わった後、一刀たちは曲阿の大通りに向かった。会見でも充分に驚かされてはいたが、市街地にたどり着いた途端、それが序の口でしかなかったことを思い知らされる。

 

 伝統的な中華の都市というのは、自然発生的に形成されたというより、政治・軍事的な必要性に基づいて作られる。城壁が先に建造され、宮殿や官公庁などの建物を中心に、町全体を東西南北に貫く道路が作られるのだ。それが完成してから、埋め合わせるように建物が内部にも建築される。

 

 だが、曲阿の街は違った。臨海工業都市とでも評するのが妥当だろうか。街の至る所に金属精錬、染色、製材、織物といった工場が所狭しと並んでおり、大量の排煙が吐き出されていた。空を見上げると、変わりやすい揚州の天気は曇りつつあり、低く垂れこめた雲に工場の煙が混ざって空を黒く覆っている。すぐ隣を流れる長江には大量の廃棄物が流れ出し、泡立った水面はよどんでいた。

 

「この光景からは想像もつかないでしょうが、10年ほど前までこの町はちょっと大きめの漁村でしかなかったんですよ」

 

 揚州政府の役人が、一刀たちを案内しながら解説する。

 

「誇れるものといえば、月に数度開かれる魚市場ぐらいのもの。それが今では鉄に布に陶器、加工食品と何でもござれです。しかもモノが増えれば値段も下がるし、揚州は本当に豊かになりましたよ」

 

 声には誇らしげな響きがあった。一刀は解説にうんうんと頷きつつ、あるものに目を止めた。

 

「あれは……水車、だよな?」

 

「ええ。流石、いい所に目をつけられました」

 

 一刀が目を付けたのは、長江に張り出すように設置されている工業用水車だった。それも1つや2つではない。川沿いに何十とある工場から無数の水車が垂直に突き出しており、その回転による動力を歯車で伝達することで、様々な用途――臼挽、革なめし、研磨、ふいご、製材、石切り等――に使っている。

 後世で広く使われることになる蒸気機関にはパワー面で及ばないものの、水車を使った機械化によって単純作業にかかる時間は劇的に削減され、生産性は明らかに向上しているらしい。工業化と呼ぶのは早計だろうが、他の地域で一般的な家内制手工業からの決別は一目瞭然だ。古代版の臨海工業地帯とでも呼べるような、大量の水車に支えられたコンビナートがそこにあった。

 

「モノが増えた一番の理由は、やはりあの水車を使った工作機械の普及でしょうね。なんといっても、今まで人間が4,5人がかりでやっていた作業が、今では小型の水車ひとつで何日でも連続運転できますから」

 

「でも生産性が上がれば、原料の消費も増えるだろう? あれだけの原料を素早く、しかも安く調達するとなると……」

 

 つい厳しい質問をしてしまう。実は一刀もかつて徐州で工場制機械工業を導入しようとして、挫折したという苦い経験がある。試しに水車と風車を使った工場を作ってみたはいいが、生産速度の上昇に原料資材調達がついてこれなかったのだ。その時は製鉄工場だったのだが、すぐに周囲の木々を刈りつくしてしまい、遠方から輸送しようにも運搬コストが高くつき、結局は断念せざるを得なかった。

 未来知識があるからといって、必ずしも急速な近代化が出来るわけではない。知識はあくまで理論であって、現実に即した形にするのは別問題だからだ。知識だけで近代化がなされるのなら、アフリカの生活水準はとっくにアメリカ並みになっているだろう。

 

「おや、お忘れですか? ここ、揚州は水の国ですよ。水路を使えばどんなに重い原料でも、安く早く輸送できます」

 

 そういえば、中華の歴史は黄河から始まっていた。近代以降でさえ、大河の存在が物流に与える影響には計り知れないものがある。電車も車もないような時代ともなれば猶更であった。

 

「特に木材は何かと用途が多いくせにかさばるのが難点ですが、幸いにも揚州にはいくらでもありますからね」

 

 これは他の地域には見られない特徴だろう。木材はその用途の豊富さから重要な資源とされていたが、輸送コストがかさむために他地域では再生可能エネルギーとして細々と利用するしかなかった。しかし未開の地が多く残る揚州では、うっそうとした森林がまだまだ広範囲に広がっており、安価な輸送コストを提供する長江の存在がそれらの乱伐を可能にした。並はずれて大きい動力エネルギーを供給する水車も、本来ならば「川沿いにしか建てられない」という立地制限があるものの、長江とその支流が州全体を覆っている揚州では、ほとんど問題にならなかった。

 人口に比べて過多な燃料資源と、長江デルタのよる安価な輸送コスト、豊富な水資源を利用した工業用水車が提供する動力エネルギー……それらがもたらす生産性の増加を有機的に結び付けたネットワークこそが、揚州の繁栄の原動力であった。

 

「すごいな……」

 

 目覚ましい発展であることは間違いない。しかし何より一刀を関心させたのは、それが極めて自然発生的に起こっていたという事だった。結果だけを見れば紛れもない偉業であるが、各々をひも解いてみれば、別段に変わったことをしているわけではなかった。水車の利用にしろ、河川デルタの利用にしろ、エネルギー源としての森林伐採にしても、既に誰かが考えていたものばかり。どこにも奇抜なアイデアなどない。

 だが、そういった既存のものをうまく組み合わせ、そのネットワーク化をなし得たのもまた、揚州が初であった。

 

 しかし同時に、別の疑問も浮かび上がる。なぜ今になって急に発展しだしたのか、という問題だ。

 

 改めて考えてみれば、揚州にはもともと有利な条件が揃っていた。繁栄の芽も、既にあちこちで自然発生していたように思える。であれば猶更、もっと早くから発展しても良いのではないか、という発想に至っても不思議ではない。

 考えられる原因としては、今までは産業の発展に必要な資本蓄積が足りなかった、というのが第一にあげられる。機械化と工場制手工業を実施するためには、水車や大規模工場を建設できるだけの初期投資額が必要となる。だが、中華経済の中心地・中原から遠く離れた揚州にはその資本がなかった。

 

 一刀の脳裏に、ひとつの影がちらつく。それだけの資本をいとも容易く調達でき、かつ揚州のような辺境にまで投資できるだけの余裕のある諸侯。そんなものは1つしか思い当たらない。

 

「やはり、この繁栄の裏には袁家の……」

 

「――いいえ」

 

 一刀が最後まで言い終わらない内に、揚州政府の役人はそれを遮った。

 

「これは我々の(・ ・ ・)努力の成果です」

 

 釘を刺すような言い草だった。どうやら想像以上に揚州人は袁家を嫌っており、かつプライドの高い人種らしい。

 もっとも発言内容自体は――袁家の者がいれば大いに憤慨しただろうが――あながち的外れな意見ともいえぬ。袁家の資本がなければ発展できなかっただろうが、資本さえあれば発展できるわけでもない。最終的に繁栄をもたらしたのは揚州人と努力と創意工夫であるのだから、袁家主導で進められたかのように思われるのは彼らにとって不快なのだろう。

 

 思わぬ地雷を踏んでしまった……そんな気まずさを残したまま、一刀らは宿泊施設に案内された。案内の役人とはそこで別れ、隣の飲食店に入る。太い木材でできた頑丈そうな骨組みに、竹や漆喰を塗った木壁で作られていて、歩道の上にかかげられた看板が揺れていた。地酒と饅頭がおいしいと評判の店で、地元の名士たちもよく立ち寄るという店らしい。少々腹が減っていたこともあり、一刀たちは今晩の夕食をそこでとることに決めた。

 

 店内に入ると、きれいに磨かれたテーブルの周りに何人もの客が座っているのが見えた。とりあえず適当な食事を頼み、今日見たことについて話し合う。 

 

「おかしいな……うん、やっぱりおかしい」

 

 一刀がそう呟くと、糜竺が興味を引かれたような表情を見せる。

 

「どうしたんです?」

 

「劉繇も揚州も……俺たち、いや世間で言われていたことと違う。袁家の傀儡っていう評判だったけど、全然そんな感じじゃなかった」

 

「確かに。むしろ袁家の影響下から脱したい、と思っているような印象を受けましたね」

 

 「運河襲撃事件について協力を仰ぐ」という簡単な任務のはずだったが、それでは終わらないような気がしてくる。知らない内にもっと大きな事件に巻き込まれているような、そんなイメージが次々に心をよぎる。ここに来て徐州使節団の全員が、ひどく嫌なものを感じ取っていた。

 

「――やはり、噂は本当だったのか」

 

 しばらく無言でいると、一刀の隣からそんな声が聞こえてくる。ただならぬ気配を感じ取った一刀たちが振り返ると、先ほどまでのんびりと食事をしていた客たちが、真顔でいずまいを正している。よく見れば、客の大半はそれなりに上物の服を着ており、地元の有力者たちがかなり集まっているようだった。

 

「もっと詳しい話を聞かせてくれ。徐州で何があったんだ?」

 

 店内がしんとなり、ひげを生やした青年が立ち上がる。

 

「先週、取引があって下邳に行ったときの話です。下邳には沢山の難民収容所が建てられていますが、どうやら難民ばかりではなく、戦場で負傷した兵士もそこに送られるそうです」

 

 徐州の大部分から曹操軍は駆逐されていたものの、琅邪国などの北部は未だにその占領下にある。どうにか追い出そうと、袁術・劉備連合軍がたびたび攻撃をしかけているのだが、うまくいっていないのが現状だ。

 

「そのときに聞いた話では、4度目の琅邪城攻撃も失敗に終わったとか。連合軍は彭城まで撤退し、再編成をしていたところを逆に襲撃され、相当数の死者が出た模様です。袁家はその戦費を埋め合わせるために、増税を考えているらしい」

 

 一刀ら徐州使節団は、思わず顔を見合わせる。彼らは当然ながらその情報を知っているのだが、ここまで正確な情報が、こんなにも早く揚州に伝わっているのは意外だった。

   

「豫州でも各地で暴動が起こり、袁家はどんどん求心力を失っています。兵力が半数以下に減った曹操軍相手に、倍の兵力でも勝てないのがその証拠です」

 

 場がざわめき、あちこちでささやき声が聞こえる。続いて、腰のまがった老人が立ち上がる。

 

「しかもだ。袁家は反省の色を見せるどころか、反対する者をことごとく暴力でねじ伏せていると聞く。人民委員会は非情な報復こそが最善策だと思い込み、強制収容所には罪なき人々の悲鳴が響き渡っているらしいじゃないか」

 

 老人が言い終わると、誰もがそわそわした様子で身じろぎした。不安がる者、憤る者、顔をしかめる者……そんな中、気の強そうな女性が声を上げる。

 

「みんなで抗議するのよ! このまま泣き寝入りしていても、袁家は譲歩なんかしてくれない! 感謝されるどころか、残らず財産を絞り取ろうとするはずだわ!」

 

「どれもこれも戦争と袁家が悪い。揚州は平和に発展しているのに、あいつらのせいで……」

 

 一刀の近くにいた中年男性が、誰にともなく呟いた。揚州の人々の不満の原因は、そこにあったのかもしれない。『袁家の裏庭』たる揚州は、否が応でも袁家の影響を受けざるを得ない立場にある。袁家が戦争を始めれば、自動的に揚州にも負担がのし掛かってくる。だが、華北で起こっている戦乱は、本来なら揚州には関係ない話であるはず――。

 

 袁家にとっては差し迫った脅威である袁紹・曹操軍も、揚州人にしてみれば対岸の火事でしかない。いくら軍拡や社会統制の必要性を宣伝されたところで、数万里も彼方の出来事に実感など湧くはずもなかった。ましてや重税を課せられたり、見覚えのない容疑で秘密警察に絡まれる事を許容しろなど、はた迷惑以外の何物でもない。それならいっそ独立してしまえ、という論理にはかなりの説得力があった。

 

「しかもだ。今度は徐州まで大運河を建設すると来た。そんな事をしたら徐州人に富をむしり取られるだけだ」

 

 大運河が完成すれば、徐州と揚州の間でヒト・モノ・カネの移動は容易となり、ひとつの経済圏が誕生する。荒廃した徐州の人間から見ればいいことづくめだが、好景気に沸く揚州にとっては負債を抱え込むようなものだ。徐州からの難民が大挙して押し寄せてくれば社会不安が増大するし、曹操との戦争に巻き込まれるかもしれない。しかも運河建設費用の一部は、揚州が負担することになっているのだ。揚州人の袁家に対する視線は厳しいものとなり、不満が見え隠れするようになった。

 

 そして、ついに怒りが現実のものとなる。

 

 最初は小さな事件が動機も目的もバラバラに起こっていたため、原因は別のものだと考えられた。たとえば南陽商人の商館に石が投げられたり、袁家資本の工場で賃上げストが起こる程度のものだった。どれも規模はそれほどではなかったが、連日のように発生する事件と暴動は大きな社会不安の原因となり、何ら解決策を打てない袁家への失望は怒りへとつながる。そうした噂が職場や酒屋で繰り返し話題に上り、何度も尾ひれがつくことでスケールの大きい話へと変化し、やがて袁家支配への漠然な不満として大衆の心に根付きつつあった。

 

「だが、具体的にはどうするんだ? 腐っても袁家は名門、その気になればいくらでも金と兵をつぎ込んでくるぞ」

 

「他の諸侯がいるだろう。曹操の工作員が密かに武器を提供している、という噂を聞いたことがある。劉表あたりも、条件次第では資金提供をしてくれるだろう」

 

 あり得ない話ではない。が、どちらにしても妄想の域を出ないものだった。ある意味、これが現状での限界なのかもしれない。不満こそあれど、自らの身を危険にさらしてまで、虎に首輪を嵌めようとは思わない。議論が他人任せの方向に走ると、議論は段々と現実味を失っていった。やがて誰かが腰を上げ、それを合図としたかのように会合自体も終了した。

 

 しかし、このような光景が、今や揚州の各地で見られるようになっていた。そしてその回数と規模は大きくなる事こそあれ、小さくなることは無かったのだ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「また事件が?」

 

 部下の報告を受け、劉勲は算盤をはじく手を止めて渋面を作った。

 

「で、どこ?」

 

「今度は広陵です。移動中の警備部隊が襲撃されました」

 

 劉勲はそれを聞いて、またか、と息の詰まる思いをする。実を言えば彼女はこのところ、不信感のようなものに絡めとられて喘いでいた。それは些細な事柄が発する、何かがおかしいという漠然とした違和感の積み重ね、不安の積み重ねによるものであった。

 

 劉勲はオーバルタイプの伊達眼鏡を外し、夜の職場を見渡した。知的な印象が和らぎ、額に前髪が垂れて物憂げに見える。己の容姿を引き立てようと意識的にそういった仕草を取ることも多いが、この日ばかりは本当に憂鬱であるようだった。

 

 外務人民委員会――後世でいえば外務省と植民地省を兼ねたような部署であり、他の諸侯ないし勢力圏内の名士・豪族たちとの交渉を担当している。劉勲は特定のポストこそ持っていないが、要職に自派の人間を送り込むことで組織の実権を掌握していた。

 また、外務人民委員会は、交渉の窓口として大抵の地域に駐在員を派遣している。その裏には情報収集拠点としての目的もあるのだが、同時に賄賂を受け取る窓口としても名高い。しかし最近になって、それが随所で渋り始めている感触があった。『同志たち』と呼ばれる情報提供者からのリークも、賄賂で袁家にすり寄ろうとする人間もだ。

 

 こんな話も聞く。ある者は袁家の主催する事業に投資していた金を、他の袁家の関わらない事業にそっくり移し替えるか、土地などの堅実な物件へと変えてしまう。もちろん完全に引き上げられることはないが、こういったリスク回避的な傾向は、長期的には袁家に対する信用の低下に結びつく。

 

 同じような話なら、他にもある。以前ならば袁家主催の社交パーティーを開けば、会場に入りきらないほどの人間が集まった。要人が一堂に会する場での情報収集を目的とする者もいれば、パーティーに参加することで袁家との親密さのアピールしようという者もいた。

 ところが最近ではその参加が徐々に悪くなっているらしい。急に来なくなることもあれば、以前なら商会の頭が直々に来ていたのに、支店長クラスの微妙な人材だけが送り込まれたり、ということもある。まだ情報収集や外交活動に支障をきたすほどではないが、感覚的に距離を置がれているような印象があるという。

 

 袁家内部でも、状況は似たり寄ったりだ。例えば、ここ最近でやたらと離職率が増えている。これも他がいつも通りであれば、特筆するほどのことではないかもしれない。県令が辞め、他にも辞職した職員や、突如として行方知れずになった職員もいる。補充はされているものの、仕事に慣れない新規雇用の職員比率が増加し、仕事の能率は著しく下がっている。おかげで劉勲ら管理職と古参職員の残業も増えていた。

 人員不足による残業時間の延長だけではなく、新人による業務ミスの増加も大きな問題だ。それをなんとか隠ぺいするための煩雑な仕事も増えている。しかも外に漏れれば投資家からの煩い介入があるため、袁家はこれらの小さな不具合を外部に悟られることを望んでいない。そういった隠ぺい体質に加えて、ミス自体も新人ゆえの初歩的なミスなだけに、なんとか内部で処理しようという傾向になっていた。

 

 そして追い打ちをかけるかのように、治安の悪化が加わる。運河建設以来、袁術領では襲撃事件が続いていた。デモやストライキも増え続けており、今や暴動関係のニュースには事欠かない。

 こんなに秩序が乱れるものだろうか、という劉勲の疑問は、初期には笑いと同情を持って受け止められた。運河建設に劉勲は大きな役割を果たしており、成功如何がメンツと権威に関わるので神経質になっているだけだろう、と。劉勲自身、不安から逃げるようにそうなのだと思い込もうとしていた。

 

 しかしながら、治安の悪化がいよいよ本格的になると、周囲からは笑みが消えていった。そしていつの間にか、笑みだけではなく、同情の色もまた消えていった。残ったのは、腫れ物に触るような生暖かい気まずさだ。

 被害妄想じみている、と劉勲は自分でも思う。だが、劉勲は最近になって自分が孤立しつつある、という感覚を覚えるようになっていた。会食などに誘われる回数が減り、賄賂を贈っても受け取ることを躊躇う相手が増えた。会議で討論する時も、なんとなく自分の意見に同意してくれる人間が減ったような気がする。

 

 とるに足らない違和感の蓄積、ごくごく小さな不快感、普段なら気にも留めないわずかな祖語、おかしな印象を与える出来事……ひとつひとつは大したことのない変化に過ぎない。しかしそれらは積み重なり、気付けば劉勲と彼女を取り巻く人と世界の間に、目に見えない障壁を築いていた。周囲の世界に拒まれ、疎外され、排除されている感覚。

 

(でも……どうして?)

 

 どうにも納得できなかった。自分はただ、純粋に責務をこなしただけだ。与えられた地位と責任に相応しい振る舞いをしただけ。一から十まで私利私欲で動いているわけではない。派手なパーティーを開くのも、他の諸侯や傘下の豪族に袁家の財力を見せつけ、畏怖させるため。賄賂を贈ったり、政敵を謀略で排除するのも、政権を安定運営させて政治的混乱を最小限に抑えるため。美貌と肉体を活用して有力者に媚びるのも、人付き合いの延長線として避けられない事だってある。

 仮に儒家の望むような清廉な指導者であったなら、今ここに自分はいなかったはず。当人の意思がどうであれ、魑魅魍魎の跋扈する政界では手を汚さねば何もできなかったし、生き残れなかったのだから。

 

 それを「言い訳に過ぎない」と断ずる者もいるだろう。だが、正当な理由と言い訳の境界線はひどく曖昧だ。今や何もかもが信用できない。巨大組織の高位に属しているという安心感を奪われ、劉勲は寄る辺を失っていた。

 

 ここ最近の間に、何かが狂った……劉勲はそう思わずにはいられなかった。近頃はどこかおかしい。こういった社会不安の時勢には必ずといってよいほど陰謀論が囁かれるが、劉勲はそれを信じていなかった。自身が陰謀家であるがゆえに、その難しさを劉勲はよく知っている。どれだけ状況予測をしたところで、想定外の事態というのは纏わりついてくるもので、そうそう都合よく陰謀が成功することなど滅多にない。もし誰かが裏で糸を引いているとしても、そんなにうまく行くものだろうか――。

 

 そう思う一方で、ありきたりな陰謀論ぐらいでしか現状を説明できないのも理解している。偶然と断じるには、あまりにも状況がうまく出来過ぎている。元から猜疑心が強く小心な一面もあってか、治安の悪化に対する劉勲の危機感は周囲の人民委員よりずっと深かった。連続するテロと暴動、それは拡大しているように見える。このまま手をこまねいていれば、いずれ袁家は死滅するのではないか。

 

(北の戦乱……)

 

 そう、華北で戦乱が起こって以来だ。袁紹が公孫賛を撃破し、曹操が徐州を荒廃させてから、袁家もおかしくなっていった……劉勲は自分の理論展開に論理性がないことを承知していた。混乱と焦燥が感情を暴走させ、脳が混乱しているだけであると。

 

 にもかかわらず、日に日にそれは膨れ上がり、自分でも気づかぬうちに確信へと成長していく。自分に降りかかる苦痛、そのすべては戦争にある。そしてその戦争を引き起こしている何か。人か、あるいは社会か。戦争のせいで自分が苦境にあるという感触から、どうしても抜け出すことができなかった。

   




 袁術の住む南陽郡はたしかに大都市ですが、地理的な事情を考えると江南一帯が一番理想的な条件を備えているんですよね。
 殖産興業を狙って経済優先政策を取るとこまではいいとして、袁家は基本的に放任主義なので、気付けば本国そっちのけで植民地が発展してたり。 
 しかも技術的にはそこまで目新しさが無いという……。

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