真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜   作:ヨシフおじさん

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79話:方向転換

 華雄は、自分の中に蓄積していく割り切れないものに困惑していた。賈駆から呼び出されて保安委員会の建物に向かう途中、人通りもまばらな裏道を馬で駆けながら、出勤することを憂鬱に思っている自分に気付いた。

 職場には同僚がいる。賈駆のような友人も、反董卓連合戦によって仕方なく此処に逃れてきた戦友たちもいる。最近では、ようやく西涼時代からの知り合い以外に、袁家に移ってからの友人や仲のいい上司・部下もできたところだ。強固な昔からの縁、新しく出来た絆、徐々に作られていく自分の居場所……それなのに、そこに居ることで疲れてしまう。周りとの関係を大事にしたいというより、そうしなければならぬという義務が優る。こんなことは初めてだった。

 

 夕方になると少しづつ通行人が減り、街灯が消える。暗闇の方が増えていき、それが華雄をなおさら不安にさせた。モノは周囲に溢れているのに、どこか孤独感を感じるのだ。ありとあらゆる“繋がり”から切り離され、空虚な世界の中で孤立して、一人ぼっちになってしまったような感覚。

 

 『汝の神は金貨なり』――かつて袁家の富と繁栄を誇り、傲慢ともとれる自尊心を誘ったはずの言葉が、今では空しく心に響く。それは己の栄華に絶対の自信を持つ者の台詞ではない。もっと寂しく虚しい、目の前にある物質の他に何も拠り所とするもののない、不安と孤独感に満ちた人間の言葉だ。無数の物質の海の中で、自分がどこにいるのか、どこに行きたいのかも分からず、遭難しているような気分にすらなる。

 

「どれもこれも、ここ最近に何かがおかしくなったんだ……」

 

 そう思うのも、理由がある。もちろん仕事の関係でいくつもの事件を知る機会はあるが、それより更に身近なレベルとして、同僚や知り合いが着実に減っているのだ。もともと友人がさほど多くもない華雄なだけに、かなり早い時期から彼女はそれを感じ取っていた。まだ殺されたりした者はいないが、唐突に実家に帰ったり、手続きもそこそこに転勤・出向で遠くに行ってしまう者が多い。たとえば突然、職場に来なくなり、どこそこにどういった理由で行きます、といった手紙だけが残される。時折、ツテを辿ってその後の情報が入ってくるので、失踪したのではないのだが、ある意味ではそれに似ていたのかもしれない。

 もっと広いレベルでも、やはり何かがおかしいと思わざるを得ないような事ばかりを聞く。運河建設以来、乱れつつある秩序と増え続ける社会不安。偶然で済まされる時期はすでに過ぎ、明らかに異常事態だと誰もが感じるようになっていた。こうした時に人気の陰謀論が、今週だけで新たに数十の仮説が立てられている。なるほど、と思うものも幾つかある一方で、真偽を疑いたくもなる。

 

 

 そうした中で、久々に違和感の少ない事件があった。孫賁をはじめとする、豫州の有力者たちによる抗議活動――実質的には殆ど反乱であるが――である。様々な理由で袁家に反感を持つ人間がなし崩し的に参加したことで、日和見の勢力も合わせれば豫州の6割が袁家の支配下を離れる大事件であった。

 これも大問題であることに違いは無いのだが、少なくとも因果関係はハッキリしている。目に見える形での反抗という点では、これまでの事件よりは幾ばくか救いがあった。

     

『 ――武器所有の権利―― 』

 

 抗議活動の理由として、孫賁らが発表した大義名分である。袁家支配からの脱却と既得権益の防衛という裏事情が見え隠れするも、袁家に対する武力抵抗を正当化する根拠としては無難なものといえよう。

 もともと中華には、古くから五行思想にもとづく『易姓革命』という概念がある。ありていに言えば近代の『抵抗権』と同じく不当な権力に抵抗する権利であり、それを孫賁ら豫州名士たちは「地方により権力を委託された、中央の不当な権力行使に対し、地方が抵抗する権利」と置き換えることで自らの抵抗(反乱)を正当化したのだ。

 

 

 ◇

 

 

 暗澹とした気持ちが残ったまま保安委員会議長室に入ると、中には賈駆と張纏がいた。賈駆は困惑したような表情をしている。それは張纏のとある提案が原因であった。

 彼女は豫州で起こった反乱の鎮圧に、孫家を利用すべきだいうのだ。

 

「疑わしきは何とやらって言うじゃん。とりあえず怪しげなトコから潰していけば、モヤモヤした感じも少しは晴れるんじゃない? いい機会だと思うんだけどなぁ」

 

 一種の『踏み絵』とでも形容すべきか。要するに疑わしい人間の忠誠心をテストすることで、敵と味方に区別しようというのである。まこと古典的な手法で、これといって目新しい発想ではない。それだけに一定の有効性は期待できるものの、内容が内容だ。華雄のような武人肌の人間にとっては、些か眉を潜めざるを得ないアイデアでもある。

 

「たしかに最も怪しい黒幕候補は孫家だが、だからといって余りにも短絡的過ぎはしないか? 何の確証もないまま篩にかければ……」

 

「だーかーらー、その確証をとるために篩にかけるって言ってるの! どんだけ雑でも一応確かめてみれば、ハズレでもスッキリするってもんでしょ。そもそも今まで誰も動こうとしなかったから、なんも分からなかったんじゃない?」

 

「む、それは……そうかもしれんが」

 

 テストされる側の事情はさておき、一抹の道理はある。

 

「張纏」

 

 賈駆は息を吐いた。張纏の理屈は分からないでもない。だが、手口があまりにも強引なのだ。独断と偏見だけで物事を進めてしまっては、仮にそれが正しくとも却って信頼性を下げてしまう。

 しかし張纏にそのまま言ったところで、恐らく彼女には理解できまい。軍と秘密警察の常識は「疑わしきは、とりあえず罰しておけ」であり、張纏はそちら側の人間である。それゆえ賈駆は別方向からの説得を試みた。

 

「有効かどうかはともかく、前の人民委員会議で孫家の軍事利用は否決されたじゃない。もし再度提出するにしても、劉勲をどう説得するつもり? あの感じだと、どう考えても同意は得られないと思うけど」

 

 だが張纏は首を傾げ、逆に「何を当たり前のことを言っているんだ?」といった顔で賈駆を見る。

 

「そりゃあそうでしょ。あの目は本気だったからねー。もっかいバカ正直に言ったら、マジで粛清されるんじゃない?」

 

 目を瞬く賈駆と華雄に、だから、と張纏は声を低める。

 

「袁術に直接言えばいいじゃん」

 

 賈駆は即座に否定した。

 

「それは暴挙よ」

 

「えー」

 

 一応の最高権力者は袁術なのだから、袁術の許可さえ取り付けてしまえば問題はない……はずである。そう主張する張纏の論理は(恐らく)間違ってはいなかったが、別次元で問題が多すぎた。しかし賈駆がそれを説明する前に、張纏は憮然とした表情で再び口を開く。

 

「手段はともかく、確かめることが大事なの! とりあえず敵も孫一族だし、反乱潰しに孫家を使えば敵か味方かハッキリすると思わない?」

 

「危険を冒して孫家を使ったところで、その程度しか分からない、とも考えられるわね」

 

 賈駆の眼光が険しくなる。

 

「孫家が反旗を翻せば、たしかに孫家が敵だという事は分かるわ。でも、本当にそれで全てが終わるとは限らない。前に張纏が言ったみたいに、孫家が氷山の一角に過ぎなかったら? また危険を冒しながら、次から次へと容疑者を篩にかけるの?」

 

「いや、だから」

 

「逆に反旗を翻さなかったとしても、それで綺麗さっぱり孫家の容疑が晴れたことにはならない。たまたま今回は袁家に従っただけ……そんな風にも考えられるわ。 結局のところ、大きな危険を冒して、周囲の評判と信用を下げて、得られるのはその程度のことよ」

 

 張纏は苛立ったように机を叩いた。

 

「じゃあさ、他に方法があるっていうの!? それとも、ただボーっと見てるだけ?」

 

「そういう意味じゃ……」

 

 何かいい言葉は見つからないものかと、賈駆は援護を求めるように華雄を見る。しかし華雄はすまん、と前置きして上で口を開いた。

 

「詠、今回ばかりは私も張纏に同意させてもらう」

 

「華雄まで……!」

 

「ここ最近で、どれだけの人が死んだと思う? それもまだ続いている。いや、むしろ被害は拡大しながら増えている。原因は特定できないし、対応も後手に回っている。目の前でこれだけの人が死んでる状況で、やっと原因解決に至る手がかりを見つけたかも知れないんだ。多少は荒っぽいからといって、何もせず事態を見守るのが最善とは思えない。我々の問題は、我々が自分で解決しなければ誰も助けてはくれないぞ」

 

 なんとかしなければならない。八方塞がりな現状を打破できるなら、どんな些細な手掛かりでもよい。どんなに愚かだと思える手段でも、確かめる値打ちがある……そのぐらい事態は逼迫しているのだ。敵は内だけではなく、外にもいる。グズグズしていれば、いつ曹操や袁紹に侵略されてもおかしくはない。

 

「この戦争で無傷なのは実質、袁家と劉表ぐらいのものだ。華北の諸侯は全員、この豊かな土地を喉から手が出るほど欲している。この調子で弱体化していれば、間違いなく来年には南陽は廃墟になっている」

 

 悪化する一方の社会秩序。膨大な数の人間が犠牲になった。異常すぎる日々、どれだけ規制を強めてもそれが鎮火する気配はない。不審な事件、それが社会不安を引き起こし、更なる暴動と混乱を引き起こす。

 ――たしかに敵は、袁家の至る所にいるのかもしれない。そもそも、これを普通の状態だと考える方にムリがあった。

 

「……悪かったわよ」

 

 賈駆が言うと、張纏も激高したことを恥じるように小さくなる。華雄も気にするな、と軽く返す。

 

「どちらかというと問題になるのは、もし本当に連中が黒幕だったらどうするかだな。 孫家に軍を与えて豫州に向かわせれば、絶対に反乱軍と連合を組むはず。そうなれば……」

 

 孫策軍とは氾水関でやりあった事があるだけに、華雄はその実力を身に染みて感じ取っている。残された袁術軍と自分たちだけでは苦戦は免れない――敢えてみなまで言わなかった所が、武人としてせめてものプライドだった。

 

「人質でもとれば?」

 

 相変わらず下種なアイデアだけは尽きない張纏であった。道理はあるが、道義はない。互いの立場さえなければ案外、劉勲あたりと気が合うのではないのだろうか。

 

「人質か……」

 

 倫理的な問題はさておき、中々に魅力的な提案ではあった。張纏は単に保険の意味で人質を提案したのだろうが、賈駆はその更に先を見ていた。

 

 人質は恐らく、孫権あたりが第一候補となるだろう。彼女を残すことを拒否すれば、それが叛意の証拠となる。豫州の反乱軍と合流させる前に敵であることが分かれば、宛城で安全に孫家の粛清にとりかかれるだろう。

 逆に、もし孫家に後ろめたいことが無ければ、人質を置いていくはず。特に孫権はその実務能力の高さと次期当主という重要性から、まず身内から切り捨てられることは無いだろう。孫権を人質に残すと決めた時点で、孫家が反乱軍と合流する可能性は限りなくゼロに近い。しかも人質の承諾は孫権を犠牲にした形となるため、やりようによっては孫家に楔を打ち込むことができる。孫家では近年台頭しつつある若手の文官を中心とした孫権派と、昔からの武官中心の孫策派の間に分裂しつつあり、その不信感は一掃増すだろう。そしてそれは、袁家にとって悪い話ではなかった。

 

 

 ***

 

 

 劉勲は思わず、報告を伝えに来た閻象の襟を掴んでいた。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ! もう一回言って。何があったの?」

 

 ですから、と閻象の声は宥めるようにゆっくりと低い。

 

「同志賈駆が孫家の軍事利用を提案、それを袁術様と同志張勲が許可したらしいとの噂です」

 

「嘘でしょ――」

 

 劉勲は絶句した。同時に小さな怒りのような感情も湧き上がってくる。依然の人民委員会で自分があれほど釘を刺したというのに、孫家の軍事利用を提案する者がいたということ。そしてそれを自分に何の相談もせず、張勲が頭ごなしにゴーサインを出したこと。これではまるで、自分の存在が無視されているようではないか。

 

「でも、どうしてよ!? 袁術様はともかく、張勲だって孫家を使うことの危険性は知ってるハズ……」

 

「私もそこが疑問なのですが、残念なことに“やってみれば分かる”の一点張り。同志張勲らしくないといえば、らしくないですねぇ」

 

「……それで、あの鬼畜メガネの方は何をするつもりなの?」

 

「私の見聞きしたところ、同志賈駆は孫策を反乱鎮圧部隊の指揮官に任命する一方で、叛意なき証拠として孫権を人質に残すとのことです。なお、実際に現場の指揮をとるのは同志張繍だという噂も……」

 

「冗談じゃないわ――」

 

 閻象から聞いた話に、劉勲は目を剥く。それだけは避けたい。張繍のような破綻者が陣頭指揮をとれば、却って真実の信憑性が下がる。人は得てして話の内容よりも、話し手の信用によって事の真偽を判断してしまう。どんなに孫家黒幕説を訴えたところで、担当者が張繍だと分かれば誰も信じようとしないだろう。彼女は実力主義の保安委員会において、No2に昇りつめるだけの実務能力と政治的手腕を合わせ持った聡明な敏腕官僚だが、それ以上に人格面での悪評が高い。

 しかも手段が手段である。保安委員会の暴走は止めねばならない。憶測を根拠とした場当たり的な対応は、失敗すれば取り返しのつかない不信を招く。

 

(いや、でも……)

 

 不意に別の考えがよぎる。これを放置しておくのもひとつの手かもしれない、と思った。保安委員会は劉勲の目から見ても間違いなく暴走しているが、事態を正確に把握している。

 

 保安委員会の暴挙を敢えて見過ごす。そうすれば彼らが孫家を挑発する。事前に警官隊を待機させておけば、たとえ人質を拒否した孫策がその場で暴発しても取り押さえられるだろう。特に張繍は人格はともかく、能力に関しては信頼がおける。

 人質に応じたとしても、それはそれで袁家が損をすることはない。どれだけ身内を信頼していようと、やはり人質に出されれば誰もが心穏やかではいらないだろう。孫家が2派閥――孫策を筆頭としたベテランによる武断派と、孫権を中心とする若手による文治派――に分かれつつある状況では猶更だ。しかも打倒すべき豫州の反乱軍の首謀者は孫賁、孫策の従弟にあたる。これで孫家の内部に不信感が生まれないはずがなかった。

 

 危険な賭けではある。だが座して静観していたところで、残り物の福にありつけるとも限らない。軽く髪をかき上げると、劉勲は呼び鈴を鳴らして部下を呼んだ。

    

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 後日、豫州で起こった反乱に対し、袁家は実に迅速に方針を決定した。武力鎮圧という決定には数分を要さず、反乱に加わった者は全員処罰する旨が直ちに決定される。会議の注目はもっぱら誰が司令官となるかという人事についてであり、幾人かの将軍が名乗りを上げる中に孫策と周瑜の名もあった。

 この事実は幾ばくかの驚愕をもって受け止められたとはいえ、内心では誰も孫家が本心から討伐を希望しているわけではなかろうとも考えていた。反乱軍の首謀者・孫賁は孫策の従弟である。どこに好き好んで身内を討ちたいと考える人間がいるというのか。両者が名乗りを上げたのは単に、袁家への叛意なき証として処断の口実を与えぬためだと思われた。

 

 しかし、ここで袁術の口から意外な人事が決定される。彼女の鶴の一声で、まさかの孫策が討伐軍司令官に決定されたのだ。

 

(ひょっとしてあの子、バカなの? 死ぬの?)

 

 とっさに孫策は袁術の真意(そんなのがあるとすれば、だが)を把握しそこねた。まさか本当に自分たちを信用して討伐軍司令官に推薦したという事はあるまい。もしかしたら張勲あたりが悪知恵を働かせて、孫家同士を潰し合わせようと考えているのか。とはいえ、そんな事をすれば自分たちが反乱軍と合流する事は明白だ。それがどういった意味を持つのか分からぬ張勲でもないはず――。

 

 とっさに孫策は隣に立つ周瑜を見やるが、周瑜は逆に緊張した面持ちで表情を殺していた。迂闊な対応が命取りになるとでもいうかのように、彼女は全身の神経を研ぎ澄ませているかのようであった。

 

「じゃが、お前らは信用できぬ。だから孫権を人質として置いてもらうぞ」

 

 不信を当の相手に向かってそのまま口にする袁術。慌てて張勲が「あ、今の忘れてください。孫権さんには宛城で私たちと共同作業してもらうだけですよ~」とフォローをするも、それが茶番に過ぎないことは明白だ。

 

(はっ、この私も甘く見られたものね。いっそこの場で切り伏せてやろうかしら)

 

 孫策の脳裏に、そんな考えが宿る。それも良いかも知れない。人民委員会議に入室するにあたって武器は取り上げられているが、その気になれば警備兵の得物を奪うぐらいの事は造作もない。いったん武器を手にさえすれば、瞬きする間に袁術の喉元へ刃を突き付けられる。文民統制の強い袁家中枢に、本当の意味での武将はほとんどいない。生粋の戦士たる孫策に言わせれば、袁家の武官などはせいぜい「軍服を着た文官」に過ぎなかった。例外は華雄と紀霊ぐらいのものだ。――しかし。

 

「(――落ち着け、雪連。周りをよく見ろ)」

 

 周瑜が小声で囁く。彼女の視線を追えば、数人の武官がチラチラち視線を交わせ合っているのが見えた。何かの合図、いや連絡をしているのだろうか。

 

(いや、それだけじゃない。隣の部屋にも人がいる……?)

 

 孫策はほとんど野生動物的な感覚で、会議室の外に大勢の人間が待機しているのを感じ取った。更に目を凝らすと、時おり会議室の窓に影やら反射した光やらが移っている。単なる野次馬ということはあるまい。巧妙に殺気を隠した兵士たち――ここまで孫策に気付かれなかったことからも、相当な手練れが集まっているのだろう。

 再び隣を見ると、周瑜はほんの僅かに首を振った。今は耐えろ、という事なのだろう。自分たちの命は敵の手の内にある。それが分かって尚、暴走するほど孫策も愚かではなかった。

 

「――我らは客将に過ぎぬ身分。ご命令とあらば、御意に従うのみ」

 

 堅苦しい台詞を口にしながら、屈辱の味を孫策は噛みしめる。隣にいる周瑜も同様であった。油断していた、というのは正確な表現ではないが、彼女らの心に一種の思い込みがあった点は否定できない。孫策らは孫策らで、不安定な孫家の立場を守るために十重二十重の防衛策を用意してはいた。

 

(おかしい……劉勲にしろ張勲にしろ、ここまであからさまな手口を使う人間は、今までの袁家にはいなかったはず――)

 

 周瑜は頭を捻った。口惜しさも感じるが、それ以上に違和感を感じる。

 “謀略は貴人の嗜み”という言葉があるが、ともすれば袁家のそれは芸術の領域まで高められていた。不義を誠実に、建前を本音に、無理を道理に、虚構を真実に。醜い欲望を社会的正義の名において巧妙に覆い隠し、多数派の好みそうな勧善懲悪のストーリーを作り上げるのが従来のやり口だったはず。

 

 しかし今回に限っていえば、そういった南陽流の“社交舞踏会”に見られるような洗練さが無い。むしろ自らの直感に忠実で、独断と偏見に満ちた泥臭い野性味がある。猜疑心の深さゆえに周到で慎重な劉勲の権謀術策はかなり理詰めな部分があるのに対し、今回の敵はどこか直感を優先させているように思えた。

 

「もう下がってよいぞ。2人とも」

 

 孫策らに退出を促す袁術。彼女は恐らく意識していなかったであろうが、この瞬間に袁家の方針は大きく転換したのだ。これまで飼い殺しにしてきた孫家を、再び世に送り出す――それが袁家当主たる袁術によって公認されたのである。

 檻に閉じ込められてた虎は、弱々しい首輪を付けて解き放たれた。総司令官は孫策、軍師は周瑜、人質は孫権。しかしながら、少なくともこの時点までは、事態は保安委員会の思惑通りに進んでいたのである。

     




 

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