真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜 作:ヨシフおじさん
豫州の反乱に対し、孫策率いる討伐部隊は交渉の期限が切れると同時に全面侵攻を開始。当初、反乱軍の数は豫州全土で約7万2000と見積もられ、対する袁術軍現地部隊は不正規兵を合わせて1万8000程度。これに孫策が率いる2万5000ほどの討伐部隊が加わるものの、それでも倍近くの兵力差があるのだから、少なくとも3か月はかかると予測されていた。
しかし孫策軍は臨時徴募の兵を含むというハンデにもかかわらず、「無慈悲で電撃的な」と呼称された快進撃を続ける。獲物の喉元に喰いつかんとする虎となって疾走する孫策軍は、瞬く間に州境を制圧。橋頭堡を確保した孫策軍は休む間もなく進撃を再開するも、相変わらず敵の反撃は見られず、無人の野を行くかのようであった。さらに前進した孫策軍は早くも一週間後には反乱軍の本拠地・許昌まで辿り着く。途中で抵抗らしい抵抗も受けず、ほとんど落伍者を出すこともなかった。
「豫州の連中、何がやりたかったんだ?」
孫策の監視役として随伴していた華雄が思わず頭を捻るほど、反乱軍は撤退に撤退を重ね続けた。斥候の情報から軍を集めていることは確からしいのだが、その行動からは戦おうという素振りも意思も無いように見受けられた。あまりの不甲斐なさに軍師の大部分がありもしない罠を疑い、当初の予想を超える侵攻スピードに補給が追いつかなくなるほどだった。
こうして一か月も経たぬ内に孫策軍は許昌を包囲し、完全に反乱軍の生殺与奪の権利を握るに至った。途中でわずかに形ばかりのゲリラ的抵抗を受けた他は、大規模な決戦は一度として起こることは無かった。許昌にはまだ1万4000ほどの兵がいるという情報だったが、孫策が開門を迫ると許昌は何の抵抗もなく城門を開け放つ。
かくして孫策軍は無血開城を成功させ、城下の盟を従わせるに至った。一度は地に堕ちたかつての栄光を、孫策は長い時を経て取り戻したのである。
新生した孫策軍の、完全なる勝利であった。――少なくとも、表面的には。
「孫伯符……」
孫策軍の快進撃は、華雄の想像を絶していた。
弱体な敵に助けられたとはいえ、その用兵は実に見事だった。戦といえば戦場での戦闘のみが注目されがちだが、そればかりではない。将兵の意思統制から物資の調達、進軍速度の調整に兵の健康管理などといった後方業務も同じくらい重要だ。それには武官というよりはむしろ文官としての素質が重要であり、孫策と彼女を支える軍師たちが、単なる武一辺倒の人間ではないという事の証明であった。
江東の虎、再来す――その噂は瞬く間に広まり、多くの民を熱狂させる。孫家の影響力が根強く残る揚州ばかりではなく、袁家の牙城たる南陽郡でもその名声は高まる一方だ。
「これで納得してもらえたかしら?」
孫策に声をかけられ、華雄は我に返った。彼女の後ろでは孫家の武将が、兵士たちに向かって占領の指示を飛ばしている。治安を守るための巡回、武器の押収、敵残党の捜索等々……実に的確な指揮で許昌を再び袁家の支配下におさめる孫策軍。動きに迷いも見られず、袁術兵との連携も上々だ。
「……ああ」
「そう、分かってくれて何より。私たちに対していろいろ思うところがあるみたいだけど、これで少しは冷静になってもらえたかしら?」
聞きようによっては挑発ともとれる孫策の言葉だが、不思議と怒りは湧いてこなかった。それどころか華雄は自分でも驚くほど、孫策の言葉を素直に受け止めている。
ひと段落して、落ち着いてみれば孫策の言い分はもっともだ。言葉だけではなく、行動によってそれは示されている。自分の親類が反乱の首謀者だというのに、孫策は迷うことなく兵を進めたのだ。
それに引き換え、自分たちはどうだったか。疑心暗鬼に駆られてロクに証拠を集めることもないまま、憶測と偏見で孫家を「反乱分子」だと決めつけた。愚かな事をしてしまった、という自責の念が湧いてくる。
――そもそも自分たちは孫家が反乱を起こすことを期待している訳ではない。むしろ孫家が袁家に忠実であるなら、それは望ましい事ではないか。
心の中でそう言い聞かせても、どこか失望にも似た無気力感を感じずにはいられなかった。自分は本当に客観的な証拠に基づいて孫家を疑っているのか、それとも単に分かりやすい敵を欲して孫家を
(そうかもしれん……)
華雄は思う。自分は敵の見えない疑心暗鬼と恐怖から逃れたくて、心のどこかで分かりやすい標的を欲していた。他の人間も恐らくは似たようなものだろう。
自然と自嘲のため息がこぼれる。用心と被害妄想を履き違えたまま、思い込みで行動してしまった。それは本来、あってはならないことだ。 ――本当に、愚かだった。
◇◆◇
『孫賁の乱』――袁家支配に抵抗する豫州名士たちによる武力蜂起。世間から注目を浴びたその反乱は、袁術の命を受けた孫策らの活躍により、実にあっけなく幕を閉じた。蜂起から鎮圧までひと月とかかっておらず、一度の大規模戦闘もないまま集結したこの事件は、過程だけを見れば袁家の大勝利である。
だが、それが偽りの勝利であることはすぐに知れた。許昌に立て籠もっているとされた1万以上の兵の姿はどこにもなく、聞けば事前に用意していたらしい地下通路を通って脱出したのだという。他の占領地でもだいたい状況は似たようなものであり、反乱軍はまるで雲隠れしたように消え去ってしまったのだ。
本当に消失したのではないだろう。可能性として最も高いのは、正規戦での不利を悟った相当数の将兵がゲリラとなって山や都市の暗部に籠ることだ。実際、残された豫州の役人たちはこぞって征服者たちにぬけぬけと説明した。反乱軍は僻地へと逃走したため、その動向は自分たちの知るところでは無い、と。保安委員会の執拗な追及にも知らぬ存ぜぬを決め込むばかりで、挙句の果てには「自分たちも被害者であり、戦災を補償するための援助金を頂けないか」と袁家にたかる様は、いっそ怒りを通り越して呆れを催すものであった。
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「豫州の話を聞いたか? いったい反乱軍はどこへ?」
「分からんが、このまま放置するわけにもいかんだろう。何か良からぬ企みのあってのことだろうよ」
「しかし、どんな名将だろうと敵が見つからなければ勝利もできん。上層部はどうするつもりなのか」
そのような会話を、宛城の内外で賈駆は耳にした。
今回の件において、袁術軍と反乱軍が正面からぶつかり合う決戦を期待していた人々――政治家や軍人、貿易商人、そして大半は単なる野次馬であった――は落胆した。今までの政情不安で感じていた、政治的な圧迫感を戦争が解消してくれるものだとばかり思っていたからだ。
「この状態はいったい全体、いつまで続くのやら。いつどこに反乱軍が隠れ潜んでるかも知れぬと考えると、おちおち外にも出かけられん」
「それにしても、保安委員会の監視網も大したことなかったな。あれだけの大軍が消失したというのに、未だに手掛かりをつかめてないとは」
この反乱で最大の恩恵を被ったのが孫家であるとしたら、保安委員会はその対極に位置する存在であった。反乱軍の大半が雲隠れしたとあっては、その諜報能力と存在意義を疑われる。孫家を貶めるどころではない。保安委員会本部ではこの大失態に直面して、蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。
「とにかく、ありったけの情報をかき集めて!」
当然の指示が、保安委員会本部から出されていた。本部の指示に応えるべく、休日を返上してまで働いた保安委員会職員たちは、実に精力的だった。豫州中の“同志たち”を総動員することで、秘密警察は反乱軍の行方を“200か所も”見つけ出したのだ。作戦室の地図は、敵の存在を示すピンによって囲碁のように埋め尽くされた。
「くッ……!」
賈駆は小さく舌打ちした。情報の量はともかく、精度を高めるには時間がかかる。されど悠長に調査している時間は与えられず、素早い成果を求められた結果がこのザマだ。情報の大部分はガセ情報であるか、既に賞味期限の切れた情報であるかのいずれかであった。
(それにしても、なんて狡猾な……!)
腹立たしげに唇をゆがめて、賈駆は濁った声を押し流した。同時に言いようのない不安をも感じる。7万近くいたとされる反乱軍兵士の全員が参加することはないだろうが、それでも2万人ぐらいはゲリラ化するのではないだろうか。
進攻当時、抵抗らしい抵抗をしなかった反乱軍。だが、それは勝ち目の薄い大規模戦闘を早々と放棄することで、攻勢を受ける間に野へ下り、武器をこっそり隠して、攻撃を停止した袁術軍に対してレジスタンス攻撃をしきりに行う為だとしたら――。
「そんなに落ち込まないでよぉ。悪いことばっかじゃないって」
今後の展望について暗い見通ししか立てられない賈駆だったが、張繍の方はというと、どうやら全く異なる受け取り方をしたようだった。
「豫州は“反乱なんて知らない”ってシラを切った。だったら反乱を起こした孫賁たちは、豫州にとっても重大な犯罪者ってこと。なら、重罪人を捕まえるために強制捜査とかやっても仕方ないよね?」
反乱の首謀者たちの身柄拘束を理由に、張繍はすぐさま非常事態宣言を発令。賈駆らの不安を余所に、豫州と徐州、南陽郡から揚州に至る全ての袁家勢力圏での公安活動に対する“理解と協力”を“要請”する。措置には令状によらない逮捕・家宅捜索、集会などの取り締まり、手紙の検閲など様々な制限が含まれていた。
当然ながら全領地から不満が噴出するも、張繍と保安委員会はこれを『反政府活動』と見なして多数の秘密警察を動員、敵対勢力を徹底的に弾圧したのだ。
『 街道はことごとく封鎖され、反体制派の拠点は武装した警官の大部隊に包囲された。戦闘が各地で展開され、無実の人間が乱暴に逮捕される中、逆らう者は殲滅の憂き目にあった。裏付けのない密告で多くの人間が摘発され、袁家への忠誠を宣誓した者だけが秘密警察の取り調べを免れた。袁術とその勢力圏は、さながら内戦の様相を呈したのである 』
――後漢書・袁術伝より
この暴挙に対し、賈駆は弱り切っていた。治安維持の観点からいえば張繍の行動は然るべき対応であったが、今回はあまりにもタイミングが悪過ぎる。最大の不安要素であった孫家は裏切りという手段をとることなく、しかも親族の起こした反乱を鎮圧したというのに、保安委員会は治安維持を名目に暴虐の限りを尽くしている……少なくとも大衆の大部分はそう見なすだろう。孫家の人気が天井上がりに伸びる一方で、保安委員会の評判は反比例するように下がっていった。
(それにしても……)
賈駆は官庁街を歩きながら、苦いものを噛み殺していた。
道行く官僚たちは、照れ隠しと自嘲を含んで笑っている。もはや孫家を疑う要素は皆無といってもよかった。「裏切り者なんているはずがなかったのだ」「やっぱり反乱分子なんてただの被害妄想だ」と笑い、迂闊に不安になって心のどこかで信じそうになった自分を笑っているのだ。
(真相がどうなのか、これじゃ余計に分からないじゃない……!)
あまりにも手痛い、と賈駆は思う。これで自分が同じように「他州の工作員を見つけた」といっても信憑性はゼロに近い。それどころか孫家の行動は、袁家家臣が自発的にスパイを疑う機会をも奪い取ってしまった。もう誰もそんなことを考えたり、真剣に考えようとは思わないだろう。
◇
考え込みながら保安委員会本部へ戻ると、応接室で劉備が待っていた。
「賈駆さん……」
劉備の声は硬い。下邳から宛城へ急行してきた彼女の目的は、張繍の発令した『非常事態宣言』への抗議であった。限られた面会時間を精一杯使って、劉備は保安委員会の横暴を停止するよう願い出た。
「争いは終わったはずです! なのに、なんでまだ身内を疑う必要があるんですか!? わたし達も孫家の皆さんだって……!」
劉備の声には隠し切れない怒気が含まれており、あまりに理不尽な袁家の行動に憤慨している様子であった。
「孫家の疑いは晴れたわよ、一応ね」
劉備はきょとんとして、「それから?」と聞く。賈駆は疲れたように低く息を吐き出した。
「報酬を与えて、それなりの官位と兵も与えたわよ。宛城の一等地に屋敷を与えて、監視できる状態には置いてるけどね」
「じゃあ、やっぱり誤解だったんですね! だったら――」
ぱぁっと顔を輝かせた劉備に、賈駆は「ただし」と声を低める。
「一番疑わしかった孫家の容疑が晴れたからといって、他の容疑者全員がシロになるわけじゃない。この社会不安が収まらない以上、敵は必ずどこかにいるはず」
不景気、凶作、暴動、戦争、格差問題、内乱……袁家は数え切れないほど多くの爆弾を抱えている。しかし根本的な原因は依然として誰にも分からず、それを引き起こした切っ掛けが誰なのか、何なのかはまだ分からない。それでも袁家が何らかの被害を受けているのは事実であり、そうである以上はその元凶がいるはずなのだ。
「本当に、そうでしょうか?」
「………」
「袁家の皆さんのいう“敵”を裏付ける証拠は不確かですし、ひょっとしたら疑心暗鬼によって重大な間違いをしてるんじゃ……」
「たしかに、証拠は無いわね」
賈駆はソファに身を投げ出す。
「孫家が証拠をくれると思ったんだけどね。そうすれば釣られて集まった反対派もろとも――」
まとめて始末できたのに……そう言おうとして、賈駆は自分が失言をしたことに気付いた。とっさに振り返ると、劉備の顔色が変わっている。しまった、と思ったが時すでに遅し。
「どういう意味ですか? まさか……賈駆さん達はそのために孫家を利用したんですか?」
「いや、始めからそういうつもりだったワケじゃ――」
「そういえば……張勲さんの命令で、孫権さんだけが宛城に残したのは、袁家文官との共同作業の為という話だったはずですが……まさか」
そこまで感づいたなら、もう隠し通せないだろう。賈駆は身を起こし、ため息交じりに告白する。
「ええ、そうよ。 少し試してみたの、あれでボロを出すかと思って」
「どうして、そんなことを……」
「どうして? じゃあ逆に聞くけど、民衆の不満を止められたとでも? 社会情勢が悪化し、不安が高まれば、人民が不満を持つのは必然よ。ボク達が孫家を焚き付けようと焚き付けまいと、遅かれ早かれ袁家を吊し上げるに決まってる。だけどボク達だってバカ正直に人民の不満を鎮めるための生贄になるつもりはない。どうせ止められないのなら、せめて有効に利用してやろうとと思っただけ」
「また、あなた達はそうやって……!」
語気を荒げる劉備を、賈駆はやや苛立ったようにねめつける。
「あいにく、ボク達はなりふり構ってられないの」
雨後のタケノコのように次から次へと湧いて出てくる事件を1つづつ解決していたら、いつまでたっても埒が明かない。敵に撤退を判断させるには、散発的な連射より、一度の一斉射撃で印象付けさせることが重要。希望というのは、それが高まれば高まるほど、打ち砕かれた時の絶望も深い。袁家が完膚なきまでに完全勝利を収めれば、もはや袁家に逆らおうとはするまい。
そのため張勲は敵を煽って一か所に集結させ、それを一網打尽にすることで「袁家健在なり」とのアピールを行うと同時に、反対派の希望を一気に打ち砕こうとしていた。賈駆はその意を汲み、実行に移しただけだ。
「たしかに傍目からは、汚い手に見えるかもね。でも劉備、アンタが潔癖なことは分かってるけど、そんなこと言ってる場合? 連中はボク達より汚い手を使っているかもしれないのに」
相手が汚い手を使っているのに、なぜ己にはそれが許されないのか? 民を救いたいのであれば、手段の是非は問うべきではない。それほどの余裕は袁家になく、これは2者択一の問題だ。袁家を救いたいのであれば、反体制派を根絶せねばならず、根絶せねば惨劇は止まない。だとすれば、手段の是非に拘るべきではない。
それに、と賈駆は続けた。
「ボク達は孫家を嵌めるつもりだったけど、蓋を開けてみれば嵌められたのはボクたちの方かも知れない」
「それはどういう……」
「ボクたちも含めて、袁家の大部分が孫家に疑惑を抱いていた事は周知の事実よね? だから孫家はボクたちの策に踊らされた振りを装って、充分に注目を集めた上で真っ向から疑惑を否定した――というのが真相だとしたら?」
誰だって、本心では身近な人間を疑いたくはないものだ。最大の不安要因だった孫家が反乱を起こさず袁家に従ったことで、他の諸侯や名士たちもそうだと思い込むに違いない。これで袁家の人間はますますスパイ説を信じようとはしなくなるだろう。裏切り者などいないと味方を無邪気に信じ、用心を怠る。疑心暗鬼になっていた自分たちの直感を否定し、「疑わしきは罰せず」の原則に立ち返るはず。
だが、それすらも自分たちを陥れようとする“敵”の罠だとしたら――。
(まさか、そんな事……)
狂っている――口には出さなかったが、劉備はそう思わずにはいられなかった。自分たちを騙そうとする、敵の罠を推測するのも賈駆ら軍師の仕事なのかもしれない。だが一度それを疑い始めればキリがないではないか。相手の裏を読み、されど相手も裏の裏を読んでいるかもしれないから、自分はそのまた裏の裏の裏を……と終わる事のない消耗合戦に陥るだけではないだろうか。
「不満そうな顔ね。……まぁ、だいたい何を考えてるか想像はつくけど。だけどね――」
賈駆の口調は、劉備を窘めるようだった。
「その
劉備は沈黙したが、賈駆の言に納得したからではないことが表情からよく分かる。険しい顔をしたまま黙って目を伏せ、踵を返す。ドアを閉めるときに、深いため息を吐いたのが聞こえた。
「……分かってるわよ」
劉備の主張には納得できないが、指摘された点は間違っていない。非難されても仕方のない行動をとってしまった、自分にも腹が立つ。
残された賈駆は一人、俯きながら苦いものを持て余していた。
◇
部屋を出た劉備もまた、ゆっくりとした足取りで廊下を歩いていた。
袁家は今までにない危機を迎えている。秘密警察が身動きできなくなるほどの暴動。たしかに賈駆の言う通り、形振り構っている場合ではないのかもしれない。誰かがこの惨劇を止めねば。このまま放置することは許されない……そうした賈駆の気持ちは分からないではなかった。その任務の性質も分かっている。孫家を煽ったのは当然の義務であり、しかも彼女らが負う責任からすれば妥当な判断ですらあった。その結果は予測不能なものであり、責めても始まらない。
(けれど……)
保安委員会の目指す場所が分からない。彼らが袁家を救おうとしているのは分かるが、何を以てそう思うのか。平たい言葉でいえば、そこに『徳』や『義』はあるのか。袁家には袁家の正義があるのだろうが、それと人質をとったり、民を弾圧することがどうして並び立つのだろう。
自分の望む結果のためなら手段は選ばない――保安委員会のそうした振る舞いは、ひどく自己中心的なものに見えるのだ。
◇◆◇
陸遜は二階の窓から、何度か家の前の坂道を見下ろした。以前は袁家の人間が数十人も通行人や浮浪者を装って監視していたものだが、いつの間にかその大部分が姿を消している。月に照らされた夜の坂道からは、今度こそ本当に人通りが絶えたようだった。
佇まいを直し、窓辺から踵を返す。廊下を奥へと辿って、裏手に面した最も奥の部屋へと足を運んだ。廊下に面した樫のドアを開けると、中には書をしたためる周瑜の姿があった。
「こんな時間まで残業ですかぁ~、大変そうですねぇ」
「ああ、全くだ。どこかの被害妄想集団のおかげで、ここ数日は散々だった」
周瑜は筆を止め、椅子にもたれかかる。
「取り調べやら監視やらで、おちおち仕事も出来なくてな。――もちろん、袁家から押し付けられる雑用の方ではないぞ?」
陸遜は口元に手を当てて笑った。
「保安委員会の人たち、よっぽど驚いてたでしょうね~」
「そのようだ。あの時の連中の顔は、なかなか見物だったぞ」
周瑜は何を思い出したのか、おかしそうにフッと笑う。
「それで、保安委員会はどうします?」
「さて、どうしてくれようか」
周瑜が微笑み、墨の乾いた筆を指先で弄ぶ。
「――消しますか」
「それはあまり利口ではないな。表立って我々を糾弾した人間が不幸に逢えば、かえって怪しまれる」
「でしょうね」
陸遜は部屋の中央にある湯沸かし器に向かい、急須から茶器にお茶を注ぐ。
「……そうだな、何人かには退去願おうか。我々の家に土足で忍び込むような、不届き者には出て行ってもらおう」
陸遜から茶を受け取る周瑜。それと入れ替わるように、陸遜の手には周瑜のしたためた手紙が握られている。
「二度と、踏み込んで欲しく無いですね」
ああ、とだけ周瑜は呟いた。陸遜はそれ以上何も言わず、部屋を出ていく。
「……早ければ明後日には連中の耳に入るだろうな」
恐らく張繍か、あるいは更に下の人間から。孫家とその関係者に張り付けた密偵が、次々に連絡を絶っていることに気付く。賈駆はこちらの意図を理解するだろう。
――まだまだ、これからだ。やるべき事は沢山残っている。