真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜   作:ヨシフおじさん

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82話:謎解けるとき

  

 『 有能な人材を発掘し、出自に関わらずそれを厚遇する 』

 

 いささか使い古された感はあるが、名将の素質としてあまりに有名な条件のひとつである。後世の記述では曹操や劉備がこれに該当し、血縁や同郷出身者ばかりで固める傾向のあった、袁紹ら他の諸侯と一線を画していると評された。

 

こうした論理に基づいて判断するならば、袁家は間違いなく前者の側に属していると断言できよう。縁故どころか、君主と家臣の個人的な信頼感という人間関係すら無視した、金銭という透明性の高い手法によって勢力を拡大しているのだから。

 

「――宮廷では官位が収入を決める。されど袁家では収入が官位を決める」

 

 曹操は後年、上記のように袁家の人事制度を皮肉ったと言われている。何を隠そう、世に悪名高い『売官制度』そのものである。

 しかし別段、売官制は袁家独自のアイデアというわけではない。古今東西の歴史をひも解けば、売官制やそれに連なる制度はごまんと出てくる。漢帝国においても、前皇帝・霊帝の治世などは『銅臭政治』と呼ばれ、賄賂による売官が後を絶たなかった。しかし袁家のそれは質・量ともに群を抜いており、芸術とも呼べる領域まで高められていた。袁家において金で買えない地位は無いに等しく、最高幹部である書記長の肩書を持つ劉勲ですら「金で買える安い女」《荀彧の評》であった。

 

 この制度には批判も多い。売官制はその誕生の瞬間から、常に否定的な意見に晒されてきた。結局のところ、金儲けしか取り柄のない人間が集まってくるだけではないか、というリスクは常にある。そこまで行かずとも、金に釣られて集まってくるような人間は、結局のところ金で他に釣られてしまう……その程度の忠誠心と器しか持ち合わせない人間が寄り集まったところで、果たして本当に袁家の発展につながるのであろうか。

 ただ、それも袁家の人間に言わせれば「――個人の嗜好まで吟味するほど袁家は狭量ではない。要求するものは報酬に見合う労働と成果のみ」との事であった。

 そうした背景があったからか、袁家は比較的新参者に寛容であった。

 

 たとえば孫家の屋敷では、孫権が夜遅くまで大量の書類と議題と案件を通過させている最中だった。これらは全て、袁家とその傘下の豪族たちから集まった嘆願書である。彼女はその一枚一枚に目を通し、関係者全員が納得できる形での仲裁案を考えていた。

 

「しかし大したものですね。つい先月までは潜在的反乱分子扱いだった私たちが、今や袁術領の地方行政に関わっているんですから」

 

 声をかけたのは呂蒙だった。反乱軍を倒してからというもの、孫家に対する待遇は格段に良くなっている。袁家は自らにとって有益な人物を厚遇し、それを物質的に実体化させることに努めており、それは孫家に対しても同様に適応された。管理職や出世コースには一切入り込めなかった孫家関係者にも門戸が開かれ、給与と人事考査は全面的に見直されていた。

 

「逆に待遇が上がり過ぎて、罠なんじゃないかと疑ってしまいます」

 

 中でも呂蒙ら若い世代は問題視される経歴もなく、論理的思考を得意とする点で袁家にすんなりと馴染んでいた。

特に目を見張ったのは孫権の栄達である。もともと素質があったのだろう。活躍できる機会と功績に見合うだけの待遇を与えられた彼女は、政治家として非凡な成果を上げていた。これまで10を超える豪族の領地経営に介入して、徴税や財務制度を改革し、適切な人事を行い、複雑な相続問題を仲裁して、袁家の統治を安定させてきた。袁家の収集した膨大な資料を閲覧する権限も与えられ、猛烈なスピードで袁家が蓄積した知識を学習している。

 

「袁家の考えは正直、私にも分からない。ただ、私たちにとっても悪い事じゃない。袁家の高官ともなれば、自由裁量でいろいろな事が出来る」

 

 袁家は人材を重んじる。有益だと見なした人材には、袁家の元での出世街道か、転落人生のどちらかを選ぶ権利を与えた。

 袁家は守銭奴ではない。協力者に対して報酬を惜しんだ事はなく、たった一度の功績によって一生遊んで暮らせるだけの恩賞を与えられた者もいる。例えば、かつて袁術に九九を覚えさせることが出来た教師は、その後の生涯を富と名誉で覆い尽くされた。

 

「とはいえ、急に仕事が増えるとそれはそれで、な」

 

 孫権は苦笑し、凝った肩をほぐそうと背伸びする。

 

「暴動、放火、殺人、破壊行為………これだけの数ともなれば、異常事態というのも頷ける。しかも原因が不明ときた」

 

 あるいは考え得る可能性が多過ぎて、かえって根本的な原因が見えづらいのか。いや、そもそも本当に根本的な原因など存在するのか。優秀なエリートを多く擁する袁家のブレーンでさえ、仮説こそ立てられど、その自説に確信を持てる者は皆無だった。

 

 人気のある仮説は、貧困を原因とするものだ。なぜなら暴動で逮捕された者のほとんどは、若年グループを中心とする貧困層だったから。戦争によって経済活動が停滞すれば、当然ながら彼らの生活は苦しくなり、不満は高まっていく。

 

 また、ある者は農奴制や小作制度の存在を理由にした。どれだけ働いても儲けの大部分を地主に持って行かれるような体制では、生活も厳しく将来に希望を持つこともできない。袁家が『自由競争』の名のもとに大地主制度や奴隷制を許容しているという背景は、人口の大部分を占める貧農を反政府活動に向かわせる。

 

 別の者は、警察への不信感を理由とした。袁家における警察の主な業務は通常の犯罪の取り締まりではなく(「小さな政府」志向の袁家では、そもそも法律や規制が少なく、現代から見れば無法地帯もいい所であった)、スパイ・テロリストの監視などの政治警察業務である。通常犯罪と違ってスパイ・テロ対策などは事件が起こってからでは遅く、相手もプロであることからまた証拠が少ない。そのため秘密警察では冤罪が発生しやすく、拷問など道義的に問題のある行動をとっても仕方ないとされる風潮が蔓延している。加えて最近の強権的手法と失態の連続によって、民の警察に対する不信感は強まるばかりだ。

 

「気が重いですね。蓮華さま」

 

 呂蒙の声には、孫権を気遣うような響きがある。それというのも、ここ数日の孫権は朝から晩まで仕事詰めだったからだ。必要な仕事とはいえ、自分の体の方も大事にして欲しい。

 そうした呂蒙の微妙な声音の変化を、孫権は敏感に感じ取っていた。嬉しさを感じる一方で、少し困ったような表情で口を開いた。

 

「そうね。でも、私には姉上のような戦の才は無い。だから地道に民の願いを叶え、少しづつ世の中を良い方向に変えていければ、と思っている。いつまでも気が重いとか、そういう贅沢は言っていられないわよ」

 

 そう……自分に出来るのはこれぐらいしかない。

 だから手の届く範囲で、やれる事をひとつづつ。確実に。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

「あのさぁ、案ずるより産むが易しって言うじゃん?」

 

 無駄に甘ったるい果実酒を一気呑みした後、張纏は口から言葉とアルコールを吐き出した。目の前にある暗赤の酒――白酒をベースにリンゴやザクロなどの果汁を付け込んだもの――が盃から無くなるや否や、すぐさま傍で待機していた召使いが次の一口を注ぐ。

 

「頭で考えることも大事だけど、答えの出ない考えをいつまで続けても意味なくない?」

 

「いや、だけどさ」

 

 西方からの輸入されたガラス製の盃を揺らす手を止め、劉勲が張纏をジト目で軽く睨む。

 

「ロクに目途も立てないまま、闇雲に動いても無駄な労力使うだけじゃないの? 何か行動を始めるときには、それにかかる労力と得られる効用を見極めてから動くのが賢い行動よ」

 

「でも結論出てないじゃん。ただ考えてるだけだったら、それはそれで考え損じゃん」

 

「まぁ、それもそうだけど……」

 

 むすっとした表情でそう言い、劉勲は手元のナイフを動かす。箸ではなくナイフを使うのは西涼のスタイルだが、劉勲はやけに慣れた仕草で食事を続ける。直火で炙った羊肉の塊をナイフで一口サイズに切り、上品に口へと運ぶ。ゆっくりと噛んでから、細い指で絹の手拭きを摘み、脂に濡れた唇を丁寧に拭く。

 

 バリバリの中央育ちの癖にどこで覚えたんだろうなー、などと思いながら、ふと張纏は自分の皿を見る。乱雑に切り落とされた肉片、べっとりと脂まみれの盃、ナイフも一番大きい肉塊に突き刺さったまま。手づかみや指で千切ってる事も多いから、指には肉脂やら香辛料やらが張り付いている。実に対照的だ。

 対照的と言えば服装も同様で、張纏は半そでのシャツに3分丈のズボンとサンダルというラフな格好なのに対し、劉勲は焦茶のジャケットに白のフリルブラウス、黒のプリーツスカート(その全てがオーダーメイド品で)、下着ひとつで農民の生涯年収に匹敵した)。加えて完璧に整えられたメイクと、計算された髪型、ネイルも綺麗に磨かれている。

 

「……なんつーか、劉勲ちゃんは周りの事、気にし過ぎ。もっと気楽に考えて、やりたい事をやりたいよーにやればいいと思うよ」

 

 つまりは、そういう事なのだろう。とことん自分本位の張纏と違って、劉勲は外面に気を使う。だから何をするにも根拠と理由づけと、周囲の評判を吟味してからでないと動かないのだ。「アンタはアタシの母親か」と独り言のように呟いた劉勲の仕草も、やはり無意識に男の視線を意識したそれだった。

 面倒臭い人だなー、などと思いながら張纏は再び口を開く。

 

「劉勲ちゃんは、今ここで何が起こってるんだと思う?」

 

 肉汁を面包(パン)で掬っていた劉勲が顔を上げた。

 

「何って……」

 

 分かりきった事だ。袁術領全体がおかしくなっている。全てはそれに尽きる。対策は打っているが、まるで袋小路に迷い込んだよう。対策を打っても打っても、異常事態はそれをすり抜けてしまう。原因を探せば探すほど答えは遠ざかり、その間にも異常事態はじわじわと袁家を締め上げ、内側から蝕んでゆく――。

 

「ひょっとしたら、答えが分かったかもしれないんだ」

 

「ふぅん……本当?」

 

 劉勲の視線はひどく懐疑的だったが、張纏は気にしないことにした。

 

「工作員だよ」

 

「……はい?」

 

「だから、工作員だってば。密偵とか内通者とか間諜とか、言い方はいろいろあるけど」

 

「いや、そうじゃなくて」

 

 これは何かの比喩なのか、あるいはタチの悪いのジョークなのだろうか。一瞬そんな考えが劉勲の頭をよぎるも、張纏は至って真面目な顔だ。

 

「ここ最近の、暴動と内戦の増加は異常過ぎるよ。小さな不況が次々に対立を引き起こして、あっという間に大恐慌になる。金持ちと貧乏人、移民と現地人がうまく強制していた社会に、突然すさまじい軋轢が噴出する」

 

「………」

 

「だけど、対立それ自体は問題じゃないよ。だって人間だもの」

 

 人は生まれも違えば、育ちも違う。移民と現地人、富豪と貧者、貴族と平民、有能と無能……多様な人民の存在は、多様な価値観をも生み出す。

 社会レベルでは革新と保守、個人主義と集団主義、政教一致と政教分離、多元主義と一元主義。

 政治レベルでは福祉国家と夜警国家、中央集権と地方分権、民主主義と権威主義、武断と文治。

 経済レベルでは自由市場と統制市場、インフレ政策とデフレ政策、自由貿易と保護貿易。

 軍事レベルでは軍拡と軍縮、攻勢と防勢、火力と機動力、短期決戦と長期消耗戦。

 外交レベルでは一国覇権と勢力均衡、穏健外交と強硬外交、孤立主義と介入主義。

 

 しかも袁家は後世の政府のような高度に中央集権化された組織ではなく、名士や豪族、貴族と呼ばれる様々な有力者によって統治されているのだ。領地の大部分もそうした者たちが支配しており、袁家が直接支配する地域は全体の1割にも満たない。法令と政策は合意形成を行わずして施行はされず、政府の権限は地方領主たちによって厳しく制限されていた。張勲ら袁家家臣は君主権力の確立に努める傍ら、反乱を避けるために地方有力者により一層の権限を譲渡することを強いられている。

 

『 ――6つの州境(徐州・兗州・青州・荊州・司隷)、5つの言語(江淮語・呉語・贛語・客家語・湘語)、4つの民系(北方民系・呉越民系・赣鄱民系・閩海民系)、3つの州(豫州・徐州・揚州)、2つの主食(米・小麦)、1つの君主 』

                           

 同時代の人間にこのように評されるほど、袁術とその支配圏は実に複雑な多様性を内包していた。様々な努力と偶然の巡り会わせの結果、袁家は人口希薄地帯であった江南に、突如として巨大な経済圏を誕生させたが、それは非常に脆い靭帯で繋がっているに過ぎなかった。

 

「そうよ、対立の火種なんていくらでもあったじゃない。これまでだって、対立がなかったわけじゃないでしょ」

 

 劉勲が口をとがらす。袁術の南陽郡太守就任以来、文化や習慣、価値観の違いから、異なる社会集団同士の対立が絶えなかった。

 4つの州に広くまたがる袁術領では、いくつかの文化を異にするグループが、いろいろな地域に複合的に混住し、なおかつその構成の状況は郡単位で異なっていた。例えば揚州では呉越民系が圧倒しているが、豫州では赣鄱民系がそれなりの勢力をほこっている。荊州南陽郡では『華夏族』と呼ばれる北方民系が最大グループではあるものの、それでも郡人口の4割に過ぎない。そして出生地のよく分からない移民は、どこの州でも全人口の1割を、最低でも占めていた。

 

 こうしたグループの対立の起源は、交通網の整備にまで遡ることができる。経済発展のために袁家が行った施策の一つは、道路や運河を建設してヒト・モノ・カネの流れを潤滑にすることであった。並行して関所の撤廃および通行税の廃止を行った結果、袁術領ではかつてない規模で人々が移動し始めた。小沛の農民が建業の漁村に出稼ぎに行き、宛城の職人が汝南に移り住む。そこそこ大きい商会に努める商人ともなれば、州をまたぐ転勤など日常茶飯事であった。

 

 

 社会階級間の対立もまた、大きな問題だった。当時の袁術領における身分別割合は、特権階級(貴族・豪族・高級官吏など)1.5%、商人1.5%、町人(都市労働者、役人、小間使いなど)10%、職人3%、農民77%、奴隷7%である。

 しかし支配階級は裕福な人間に限られており、先に挙げた特権階級と一部の商人だけが特権的地位を有していた。これに以前から人民の間では不満が高まっていたものの、支配階級側は軍隊と秘密警察でこれを抑えつけていた。しかし華北の戦乱によって監視が弱まりつつあるこの時期、被支配階級は活発に動き出した。工業を握る職人組合の発言力が増し、都市の拡大によって商人と町人もまた発言力を増した。

 そこで支配階級側は、人口の10%を有する都市住民と友好を結ぶことで、現政権を維持しようと考えた。これなら特権的地位を手放すことなく、社会の劇的な変化も起こらないからだ。こうして大きな経済力を持つ都市を味方につけたとはいえ、それでも所詮は人口の15%程度が体制側に回っただけ。その後も階級闘争は鎮静化せず、むしろいっそう激化し始めた。

 

 これに対して袁家は、自分でも処理しきれなくなるほど、大規模なパージを行う事を決意した。「非常事態」「特別措置」の名のもと、次から次へと国家機関や役人の権限が拡大されたのである。秘密警察は締め付けを強化し、わずかな抗議にさえ非常事態を宣言し、軍と武装警察隊を導入して徹底的に弾圧した。

 

 このような袁家の強権的手法に対して、人民の側でも過激な行動を行う者が増えてきた。彼らは対話では力の前に押しつぶされるだけだと考え、大部分が武力闘争へと傾いた。かつての一揆はせいぜい高利貸しの家を取り囲んで借金の証文を燃やす程度だったが、今やひとたび一揆が起こればその家族と屋敷の使用人まで惨殺されるのが当たり前になってきている。

 

「そう、対立の火種は昔からあった。内紛を誘発する下地も、とっくに出来上がっていた」

 

「だったら……」

 

 言いかけた言葉を、張纏は遮った。

 

「でも、なぜ今になって(・ ・ ・ ・ ・)?」

 

 なぜ、今なのか。どうして、このタイミングなのか。対立の火種が昔から燻っていたのなら、もっと早い時期に危機が起こってもおかしくないはずだ。

 

「そんなの分かり切った事でしょ。華北の戦乱、あれが原因よ」

 

 何を今更分かり切ったことを、とばかりに劉勲が鼻を鳴らす。

 

(そう、危機が本格化したのは大運河建設あたりだけど、戦争が始まった時から予兆はあった……)

 

 かつて江南の経済成長を支えたのは、主として自由競争と自由貿易であった。しかし自由競争は格差を増大させ、華北の戦乱は交易を断絶し、比較優位説に基づく地域分業を構築しつつあった、袁家の貿易モデルを根本から揺るがせた。

 

 にもかかわらず、袁家は思いきった経済改革の実施に踏み切れなかった。なぜなら袁家では自由競争と地方分権の名の元で、政治でも経済面でも極限まで分権化が進められていたからである。袁家は“市場の失敗”について何ら処方箋を投与することが出来ず、バラバラな対応をとる地方政府の足並みを揃えることが出来なかった。経済危機が進行するにつれて、階級間の利害が対立して、かつては一枚岩であった袁家が求心力をもち得なくなっていき、その支配の正統性が崩れていった。ここにおいて、袁家の経済的、社会的、政治的危機はますます深刻化していくことになる。

 

 さらに経済危機は、袁術領内の地域格差をも際立たせることになった。地域格差の背景には、沿岸部(特に長江デルタ周辺の都市)では経済発展が進む一方で、内陸部(特に農村地帯)は非常に貧しく、不況のあおりを受けた領主が農民への搾取を強めるなどの問題が発生している。

 こうした地域格差を危惧する声が無かったわけではない。しかし格差是正のために農村内陸部への補助金を与えれば、当然ながら都市沿岸部から不満が生じる。特に揚州沿岸部では「なぜ自分たちが必死に稼いだ金を、内陸部にタダ同然で分配してやらなけばならないのか」という声が根強く、分離独立の動きすら見られる事態となっていた。袁家による抑圧が加えられた結果ではなく、むしろ自己の利益を優先させる先進地帯ゆえの経済的な要因が大きく作用し、それが反政府活動へと結びついている点で特徴的である。

 

 同時に経済危機に伴う、袁家の求心力の低下も問題であった。俗に“袁術領”と呼ばれる地域は、正確には“勢力圏”ないし“影響下の地域”である。袁術の公式な役職は『南陽郡太守』でしかなく、彼女がトップダウン的に地方豪族たちを支配するというより、地方豪族たちがボトムアップ的に袁術を担ぎ上げていると考えた方が正しかった。袁術の本拠地・南陽郡はほぼ一州に匹敵する人口(240万)を抱えていたが、それでも全体の15%ほどに過ぎず、地方豪族同士が組んで反抗すれば抑えようがなかった。

 そこで、求心力維持のために採用されたのが「小さな政府」「地方分権」「資本主義」の三本の柱である。

 

 1点目の「小さな政府」というのは、文字通り政府・行政の規模・権限を可能な限り小さくしようという政策である。自由競争や市場経済との親和性が高いために、今日では経済政策とみなされがちである。しかし実際には既得権益の維持をもくろむ豪族や名士たちが、君主権力に制限を加えた結果でもあった。袁家の側も彼らと全面的に対立することより、譲歩によって協力を引き出す共存を選んだ。

 

 2点目の「地方分権」も本質的には同じことであるが、広大で多様な領地を中央政府が一元的に管理するより、ある程度の行政権限を地方の有力者に付与した方が、適切で柔軟な統治を行えるという一面もあった。

 

 3点目の「資本主義」は、「拝金主義」や「利益至上主義」とも言い換えられる。「汝の神は金貨なり」との言葉とおり、袁術領では利益の追求が社会のあらゆる原動力であった。その本拠地が商業の発達した南陽郡・宛城であったこと、劉勲ら家臣の大半が商人と強い繋がりをもっていたこと、等が袁家に拝金主義の風潮を生み出した。名門出身とはいえ、袁術の本質的な力の源泉は商業利益によって生み出される富であり、曹操のように精強な軍隊でもなければ劉備のような大衆の支持でもなく、劉表や劉焉のような名族の威光でもなかった。

 このような背景が「拝金主義」の空気を生み出した側面は否めないが、同時に雑多なグループの寄せ集めに過ぎない“袁術領”の統合を維持する機能を果たしてきたことも指摘されなければならない。富はそれ自体は公平かつ中立的であり、定量的で流動的な唯一の価値であった。そのため袁家は富という共通の価値を最大限に保護することで、多様な領内の統合を保とうとしたのである。

 

 こうした体制は時代の要求にもマッチしたものであり、袁術は列強の一角として揺るぎ無い地位を築き上げる事に成功する。しかし曹操の徐州出兵を期に、袁家は政治・社会的危機に直面することになった。

 まず、三本柱の一つである「資本主義」が、華北の戦乱による市場縮小の煽りを受けて崩壊していった。そして人民委員会の指導力に疑問が持たれるようになり、袁家は求心力を失ってゆく。しかもその対応として行われた様々な非常事態宣言や政府の介入は、「小さな政府」「地方分権」という残りの2本の柱を自らへし折るものであった。既得権益を脅かされると感じた豪族や地方政府はますます分離・反政府的傾向を強め、それが更なる危機を生み出し、それを収束させるために袁家はより一層強権的なアプローチに頼るようになる、といった悪循環が生み出されていったのである。ここにおいて、内戦勃発の下地はでき上がっていたのであった。

 

「確かに、劉勲ちゃんの言うとおりだよ。華北で戦争が始まってから、袁家は領内で立て続けに起こった内戦や独立運動、地域紛争と暴動に巻き込まれてる。それだけのことが半年も経たない内に起って、今や軍はてんてこまい」

 

 肩をすくめる張纏。

 

「でもね、これ見てよ」

 

 そう言って張纏がポケットから取り出したのは、クシャクシャに丸められた数枚の紙だった。劉勲はそれを広げ、中身に目を通す。そこに書かれていたのは、ここ最近の領内で起こった暴動の詳細データだった。どういった原因で人々が集結したのか、誰が中心人物だったのか、破壊行為に及んだきっかけは何だったのか、といった情報が詳細に詰み込まれている。

 しばらく目を通す内に、劉勲はある事に気付いた。きっかけとなる対立は様々だが、その後で暴動に至るまでのプロセスは驚くほど似通っているのだ。

 

「一部の暴徒による投石や放火、略奪をきっかけに全面衝突が発生……」

 

 しばしばデモやストライキが破壊行為を伴う暴動へと発展するのは、こうしたファースト・ペンギン(集団の中で最初に行動を起こす者)の存在如何にかかっているという。そもそも暴動は破壊行為が目的ではなく、何らかの要求を相手に認めさせるのが目的であり、破壊行為はあくまで付随行為に過ぎない。むしろ一たび群衆が暴徒化すればかえって収集がつかなくなるため、運動の指導者は自制を呼びかけるほどだ。参加者も興奮状態にあるとはいえ、実際には理性がブレーキをかけることで感情のままに動き出すことは稀である。

 

 しかし、今の袁術領は違う。ここ最近というもの、どうやら領民全員が戦闘民族と化したかのようだった。

 豫州で、揚州で、徐州で、領地のありとあらゆる場所で対立や抗議活動が立て続けに起こり、一たび衝突が起これば、その殆どが暴動を経て内戦へと突入する。対立から暴動、そして内戦へ……それはまるでデフォルト機能か何かのように、あまりに自然な流れで進んでいった。ブレーキの故障した電車がレール上を高速で突き進むがごとく、そのほとんどが破滅的な終末へと急速発進してゆく――。

 

 あっという間に江南全土が混沌へと突入していった。「万人の万人に対する闘争」と評するにふさわしい、無秩序な世界が誕生しつつある。そして町中には落ち葉のごとく、無数の人民の躯が転がっているのだ。

 

 

 何故だ、と劉勲は自問せずにはいられない。それは彼女に限らず、人民委員の全員が抱いている疑問でもあった。

 どうして誰も紛争の激化を止めようとしない。なぜ対話もせず、互いの敵対心と恐怖を煽るのだ。いかなる理由で人々の心から寛容の精神が失われ、破壊衝動が皆を突き動かすのか。袁家は対立より共存を選んでいたはず。それが何ゆえ、共生が不可能なほど憎悪が拡大してしまったのか。

 

 なぜだ。どうしてだ。誰か答えを出してくれ。分からない――。

 

 

 ………工作員。

 

 

 ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。謎が、今まさに明かされようとしている。劉勲は抱え続けていた疑問が、ほとんど氷解しかけているのを感じた。

 

「そうだよ。それしか考えられない」

 

 張纏のささやきが、鼓膜を刺激する。澄んだ緑色の瞳を切なげに揺らめかせ、劉勲は張纏を見つめた。

 

「劉勲ちゃんだって、本当は分かってるんでしょ?」

 

 頭の内側が熱かった。血圧と体温が上がり、たまらなく熱い。頬も次第に朱を帯びてくる。熱病にでも冒されたかのように、息づかいが少しづつ乱れてしまう。

 

「張纏、それはダメよ。どうかしてる――」

 

 劉勲は必死に首を振った。赤い唇から、否定の声が洩れる。しかしその声に断固とした強い意志はない。それは怯えであり、恐怖だった。それを認めてしまったら、今までとは確実に何かが変わってしまう。

 

「どうして? ここに実例があるのに」

 

 再び、張纏の声が耳元で囁かれる。それは些細な対立から始まり、経験則からは考えられないほど急速に激化して、暴動を経て内戦を誘発する。現状を見る限り、明らかに法則性を持っているものの、本来なら法則性を持ちえないはず。これは単に既存の常識で説明できないだけでなく、何かがおかしい。対立が即暴動に結びつくとは限らないし、暴動が即内戦に結びつくとも限らない。和解や自然解消といった道をたどっても良いはず。状況は社会学的な常識を逸脱していた。

 

「で、でも……」

 

 劉勲の声は弱々しい。

 

「ここで工作員という存在を仮定すると、この奇妙な謎の答えが求まる。状況と綺麗に整合するわけよ」

 

 劉勲は返答に窮し、切なげにうめく。張纏はその様子を見て微笑むと、声に力を込めた。

 

「今の袁術領内では、対立が起こったら不思議と殺し合いたくなるみたい。でも、それで得をするのは誰?」

 

 暴動、あるいは内戦で当初の目的を達成したとしよう。しかし非平和的な解決方法は社会に大きな傷跡を残す。若者の多くが殺され、田畑は荒れ、社会インフラは破壊される。そんな状態で独立だの権利だのを獲得したところで、果たしてコストに見合う成果といえるのか。なぜ暴動を起こす側の人間はそんな単純な事に気付かないのか。

 

(それとも、気付いた上で、敢えてやっている……?)

 

 まさか、と劉勲は戦慄した。対立の連鎖と暴動の蔓延。工作員とは異常事態の別名なのだ。社会不安の原因があるとすれば、どこかに全ての黒幕がいると今までは考えていた。しかし特定はできなかった。誰もが犯人でないのなら、それは誰もが犯人であることと同義であるという張繍の暴論は、ある意味では正しかったのかもしれない。

 

「工作員の存在を否定するのは常識的な判断だけど、非常識な現実が残る。劉勲ちゃんはどっちを選ぶの?」

 

 張纏は低く笑ってから、ふいに表情を引き締めた。劉勲が返すべき言葉を失っているのに構わず、彼女の耳元でささやく。

 

「もし今の一連の異常事態に原因があるとしたら、誰か別の人間が煽っているんだよ。要因は内部だけじゃなく、外部にもある」

 

 劉勲は返答できなかった。そんな仮説はありえない――言えて当然の言葉が、なぜか喉を通らないのだ。

 今や異常事態は領土全体に広がっている。たとえば孫家が全ての黒幕であったなどではなく、逆に「孫家ですら氷山の一角に過ぎない」と考えた方が自然なほどに。

 

「それは人知れず始まった。袁家に侵入したそれは、空気のように拡大して、息を吸うようにいつの間にか人々の中に浸透している。こうしている間にも被害は広がって、暴動を引き起こす。負の悪循環は意志を持って、社会全体を蝕んでゆく。そして紛争激化を煽った先に、外敵が最大の利益を得る――工作員だよ。他にどう考えればいいの?」

     




 どことは言いませんが、暴動とか独立運動とかって、いつの間にか広がってるんですよね。そして気づくと、当初の予想を上回るスピードで事態が進んで行くのです。

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