真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜   作:ヨシフおじさん

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86話:待ち伏せと罠

     

 北郷一刀はうす暗い部屋の中で目を覚ました。まったく見覚えのない部屋だった。肩から腕には包帯が巻かれており、胸の傷口には軟膏が塗られている。何がどうなっているのかわからず、一刀はしばらく呆然としていたが、気を取り直して周囲を見回す。

 

(そうか、俺はあれから馬で宛城まで逃げて……)

 

 一刀が寝かされていたのは、上等のベッドだった。布団も羽毛が詰め込まれた上物。小さな部屋の窓には布地のカーテンが引かれ、隅の方には煉瓦造りの暖炉が置かれている。入口の木扉は閉じられ、脇の机には蝋燭が灯っていた。そして机の傍にあった椅子には、小さな人影も。

 

「……一刀さん」

 

 掠れた声で、諸葛亮が自分の名を口にした。彼女は立ち上がると、一刀が寝ていたベッドに寄ってその手を握る。諸葛亮は目から小さな雫ををこぼし、二度と側から離れまいと力を込めた。

 

「っ――!」

 

「はっ、はわわっ! ごめんなさい!」

 

 つい強く力を入れ過ぎたようだ。諸葛亮は慌てて一刀から距離をとる。医者から命に別状はないと診断されたものの、しばらくは安静が必要だとも言われていた。

 

「すみません、しばらくじっとしていてください。お医者さんは、しばらくすれば良くなると」

 

「ありがとう、朱里」

 

 一刀は微笑もうとしたが、やはり傷が痛むのか少し顔をしかめている。

 

「それで……ここはどこなんだ?」

 

「宛城の徐州領事館ですよ。そこの門で気を失っていた一刀さんを、兵士の皆さんが見つけてくれたんです」

 

 宛城――その名を聞いて一刀は嫌な予感がした。諸葛亮も一刀が考えていることを察したのか、幾ばくか険しい表情になる。

 

 瀕死の一刀を保護した後、諸葛亮は厳しく追及されていた。劉勲の書記局からは辛辣な警告が届き、一刀への薬物投入を拒んだことを、捜査妨害と見なして告訴すると脅されさえした。

 その旨を伝えると、一刀は厳しい顔をしたまま黙り込む。なにか、思いつめているような表情であった。

 

 ◇

 結局、一刀と相談の結果、孫賁の件はしばらく伏せる事になった。一刀の部屋から自室へ戻ると、諸葛亮は机のそばに立ったまま考え込む。オフィスの窓には夜が迫り、外の通りはしんとしていた。体は疲れ切り、すぐにでもベッドに倒れこみたいという衝動に駆られる。

 中庭側のドアが突然ノックされたのはその時だった。とっさに諸葛亮は身を強張らせる。耳を澄ませていると、さらに続けて三回ノック。強い音ではないが、有無を言わせぬ意志が感じられる。

 

 こんな時間にいったい誰だろう――まずは恐るべき秘密警察の姿が思い浮かんだが、諸葛亮は邪念を振り払い、胸を張ってドアに近づく。取っ手を回してドアを開けると、果たしてそこに立っていたのは周瑜だった。深い知性を宿した瞳に、南方人の特徴らしい浅黒い肌。噂通りの知勇兼備の人物らしく、文官でありながら動きやすさを重視した服装をしている。

 

「お邪魔だったかな? 少し、中に入りたいのだが」

 

「は、はいっ! どうぞ」

 

 周瑜は軽やかな身のこなしで部屋に入ると、さっとドアを閉める。何が目的なのだろうか、と諸葛亮は考える。孫家と自分たちにはあまり接点は無かったはずだが。

 

「なに、ちょっと話をしに寄っただけだ」

 

 諸葛亮の思考を先読みしたように、周瑜が不敵に言う。

 

「それとも、仕事の邪魔だったか?」

 

「いえ、ちょうど終わったところです。話があるというなら、是非とも伺いたいですね」

 

 単なる世間話をしに来たという訳ではあるまい。孫家が無能で無いなら、先の一件もすでに耳に入っているはず。その上で自分に話を持ち掛けてきたという事は、何か狙いがあってのこと。諸葛亮はなるべく平常通りに礼儀正しく耳を傾けていたが、内心では周瑜の一言一句を聞き漏らすまいと集中していた。

 

「最近の人民委員会のやり口を見て、気付いたことがあるだろう。今の人民委員会は、ひどく不安定になっている」

 

 権力の分散は、独裁を防ぐ一方で意思決定の鈍化を招く。人民委員会ではこれまで、政治工作で多くの支持を得た者が多数決で最終決定を下していた。劉勲が影響力の強い財務・外交関係者の支持を得て、人事権で更なる多数派工作を行い、文官主導政治への反発が予想される武官達は、軍部のトップである張勲が抑える……両者の政治センスがあってこそ、この権力分散モデルは成功していたのだ。

 

「ところが乱世が始まってからというもの、過激な主張をする強硬派が台頭してきている。特に保安委員会の張繍と軍務委員会の袁渙はその筆頭だ。近頃の騒動に乗じて、劉勲らを蹴落として影響力を拡大している」

 

 戦争の激化とともに劉勲の影響力は低下した。中華の大部分が敵味方に2分される状況では、外務委員会の重要性は低下するのが当然だったし、戦争によって財務状況と景気はどちらも悪化していていた。張勲にしても同様で、平時ならともかく戦時下で軍部の強硬論を抑えることは難しかった。

 

「特に張繍、彼女は危険だ。袁渙はただの野心家だが、張繍は違う。あれは快楽殺人鬼のそれだ。袁家に混乱を引き起こし、それが広がるのを愉しんでいる」

 

 諸葛亮は黙って聞いていた。周瑜のような切れ者を相手にするときは、用心し過ぎてもしすぎることは無い。発言も、話が核心に入るまで控えるつもりだ。

 

「この前にあった、豫州の件などその最たるものだ。張繍があれを口実に、我ら孫家を潰そうと企んでいたのは周知の事実だ」

 

「容疑をかけられた事は存じています。そしてそれが杞憂に終わったことも」

 

 諸葛亮は慎重に言葉を選ぶ。もう少し、周瑜の出方を見るつもりだった。

 

「その通り。幸い、あまりにも事実無根だったから我々も事なきを得たが……このような事が2度と無いとは言い切れまい。ゆえに我々としては、保安委員会がこれ以上の力をつける事は望ましくないと思っている」

 

 つまり共同で保安委員会を抑え込もう、という事か。諸葛亮は心の中で軽くガッツポーズをとる。何かにつけて介入してくる保安委員会には徐州も手を焼いており、周瑜の提案は渡りに船といえた。

 しかし同時に危険度も跳ね上がる。未だに孫家を色眼鏡で見る人民委員も多く、うまく立ち回らなければあらぬ容疑をかけられる恐れもあった。

 

「しかし保安委員会は強大です。張勲さんや劉書記長とも協力関係にありますし、私たちに何か出来るとは……」

 

「ほう」

 

 周瑜が笑う。まるで面白い冗談でも聞いたように、口元と頬の筋肉が緩んでいる。

 

「たしかに諸葛亮殿の言われる通りだ。保安委員会は強大で、それに比べたら我々などちっぽけなものだ。だが……だからといって、何もしていないと。そう言われるか?」

 

 含みを持たせた言い方だったが、諸葛亮はたちどころにその意味を悟った。

 周瑜は気づいているのだ。自分が袁家に隠し事をしているということを。

 

「そう硬くならなくていい。隠し事など、誰にでもある事だ。それに、私とて全てを知っている訳ではない。せいぜい知っているのは、君たちが袁家に隠れて何かを探しているらしいという事だけだ」

 

 諸葛亮は体を強張らせたままだった。正直なところ、周瑜の耳の速さに驚愕を禁じ得ない。孫家の諜報機関は優秀だ、とは聞いていた。しかし、これ程だとは。組織の規模はともかく、質では保安委員会にすら匹敵するのではなかろうか。

 

「ええ。たしかに私たちは現在、内密に調査を進めています」

 

 諸葛亮は観念した。ここまで知られているからには、口で何と言われようと、調査の内容についても大よその見当は付けられているはず。だとすれば、シラを切り続けたところで意味はない。周瑜がその気になれば、すぐにでもバレるだろう。最悪、袁家に告発されるかも知れない。

 

「揚州の件の裏で、豫州反乱軍が関係している可能性があります。少なくとも我々はそう睨んで、調査を進めています」

 

「なるほど」

 

 声を低める周瑜。あまり驚いた様子ではない。むしろやっと腑に落ちた、というような表情だった。

 

「雲隠れした豫州の反乱軍がどこに逃げたのか、それは我々もずっと考えてきた事だ。揚州という線も一度は考えていたのだが、裏付けが無かったために保留にしていた。しかし、やはりか……」

 

 周瑜は顔をしかめた。

 

「正直、あまり考えたくは無かった事態だ。知っていると思うが、我々は揚州に多くの知り合いがいる。彼らにも豫州反乱軍について知っている事を聞いたのだが、その時は異口同音に知らないと言われた」

 

「誰かが虚偽の報告をして孫賁さん達を庇った、という事ですか?」

 

「残念ながら、そうなるな。我々とて一枚岩ではない。それが証明されてしまった訳だ」

 

 周瑜はわずかに苦笑いを浮かべると、一転して真面目な表情になる。

 

「孫家も捜査に協力しよう。周泰らにも探させる。内部に裏切り者がいるとなれば、もはや我々にとっても他人事ではないからな。 豫州反乱軍の居場所が判明したら、徐州政府にはその逮捕を頼みたい。彼らの逮捕に成功すれば、運河襲撃事件をはじめとする、一連の事件の手がかりも得られるだろう。その功績があれば保安委員会も抑えられる」

 

 たしかに周瑜の言う通りだ。徐州の発言力は間違いなく増大するだろう。実績さえあげれば、袁家が掌を返したように態度を変えるのは、孫家が豫州の件で証明済みだ。

 

 だが、危険も大きい。どうも足元を見られて、周瑜にうまく乗せられた気もする。袁家と同じく孫家も己の野望のために、自分たちを利用しているだけなのかも知れない。

 とはいえ、選択肢が他に存在しないのも事実。無策のまま手をこまねいていれば、今度の人民委員会議で劉勲は自分たちを生贄にするだろう。

 

「本当なら我々がそのまま逮捕したいところではあるが、知っての通り我々は保安委員会に目を付けられていてね。下手な動きを見せれば、あらぬ容疑で一斉検挙されかねない。その代わり、手柄は全てそちらに譲ろう――この話、頼めるかな?」

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

(本当に、なんで自分はこんな所に来てしまったのか)

 

 廬江太守・陸康の気分は最悪だった。理由は単純、敵地のど真ん中にいるからだ。

 ここは荊州南陽郡・宛城。江南一帯を支配する、否、していた(・ ・ ・ ・)袁術の本拠地である。

 

 もちろん賓客や公人としてではない。身分を偽わり、“ある物”を受け取りに来たのだ。相手は揚州の独立運動を影から支援している人物で、袁家と戦う上で欠かすことの出来ない存在だ。

 

(だが、何もわざわざこんな危険な所を取引場所にしなくても……)

 

 つい愚痴が出てしまうが、そのぐらいは相手も承知しているはず。あるいは敢えて危険な場所を指定することで、こちらがどれだけ本気か試すつもりなのかも知れない。

 

 宛城来たのは初めてだったが、全体的に雑多な印象を受けた。目の届く限り地平を覆い尽くす都市。そこに無数の館、宿屋、煉瓦造りの倉庫、露店、骨董屋、木造の長屋、墓地、商館、売春宿、宗教施設などなどが連なり、市場の喧騒は遠くからでも聞こえるほどだ。建物の間の道路は幅が広く、両側に並木が植えられている。かと思えば曲がりくねった街路や、子供一人分の幅しかない裏道もあった。

 中心街のやや外れにある丘の上には巨大なドーム状の人民議事堂がそびえ、その反対側には大理石の外壁を持つ市政庁が立っている。それらのちょうど中間にあって、すべてを睥睨しているのが袁術の居城だった。

 

 指定された集合地点は、中央広場から東に半里ほどの荒れ果てた地域にあった。宛城の東区は貧民が多く住む区画で、倉庫や空き家が広がっている。この一帯は治安が悪いため、警官もほとんどいない。そういう場所だからこそ、今回の集合地点に選ばれたのだろう。

 

(目印は猫と戯れている人物、か。まったく、分かり辛い条件を付けてくれたものだ)

 

 陸康は道の脇から好奇の視線を投げてくる物乞い達を無視し、不衛生な通りを足早に進む。路地や静まり返った建物、窓や半開きの扉に絶えず目をやりながら、しばらく歩いては止まって耳を澄ます。路地のつきあたりに出ると、スラム街には珍しい二階建ての建物が目に入った。

 近くでは浮浪児の集団が何のものか分からない肉を漁っていたが、それと扉を挟んだ反対側に小さな人影が見える。ぼろ布をまとい、しゃがんだ状態で猫と戯れている。華奢な体格から判断するに、相手は子供、恐らくは少女だろう。

 

(あそこか……)

 

 陸康は通りを渡って、猫と戯れる少女に近づいた。

 

 ――もうすぐ、もうすぐだ。あと少しで目当ての物が手に入る。それがあれば、揚州での劣勢も覆せるはずなのだ。

 

 

 **

 

 

「……お目当ての奴が来たらしいな。朱里も見てみるか?」

 

 一刀が窓にかけられた布をめくり、諸葛亮は外をのぞいた。窓の先には、2人の人影が見える。

 

「どうやら、周瑜さんの情報は正確だったようですね」

 

 周瑜の訪問から2週間が過ぎた頃、再び連絡があった。まだ裏切り者の正体は掴めていないが、彼らと揚州反乱軍の高官が、大胆にもここ宛城で接触するらしい情報を掴んだという。

 

 誤情報ではなかったようだ――話し込む2人の人影を見ながら、諸葛亮はほっと胸をなでおろす。正直なところ、目の前の光景を見るまで諸葛亮は半信半疑だった。

 諸葛亮は後ろを振り返ると、控えていた徐州兵に頷いてみせる。それを合図として、徐州兵たちは音をたてないようにして散らばった。目標が逃げられないよう、退路となりそうな道を塞ぎに行ったのだ。

 

 徐州兵たちが出ていったのを確認すると、諸葛亮は再び窓の外に注意を向ける。2人はしばらく何やら話し込んでいたようだが、ややあって小さな人影の方が何かを手渡した。大きな人影の方はそれを大事そうに懐にしまい込むと、おもむろに立ち去った。一刻も早く遠くに行きたいように見える。

 

「どうやら話は終わったみたいですね。目標が移動し始めました」

 

「らしいな。じゃあ俺たちも――………っ!?」

 

 一刀が扉を半分ほど開けたその時、路地の物陰からすっと大きな影が現れるのが見えた。濃い灰色と黒の制服が暗がりに溶け込んでいたためか、まるで幽霊が突然出て来たようにも感じる。しかし輪郭は紛れもない人間のもので、しかも屈強な戦闘員のそれ。行く手を塞がれた男性は、明らかに狼狽えた様子だった。

 

「しまった、秘密警察だ」

 

 一刀は顔から血の気が引くのを感じた。そうこうしている間にも、警官がぞろぞろと集まってくる。数は11人ほど。哀れな男性を取り囲む形で、詰め寄っている。会話の内容は聞き取れないが、何やら言い争っているようだ。その内しびれを切らした警官の一人が剣を抜くと、他の警官も警棒やら矛槍で威嚇を始めた。 

 

 助けるべきか、それとも様子を見るべきか。一刀が判断しかねていると、警官の一人が男性の胸倉を掴み、乱暴に突き飛ばした。男性は何かを訴えるも、今度は別の警官がその脇腹をブーツで蹴りつけた。苦悶の表情を浮かべる男性を見下しながら、警官たちは前に一歩踏み出す。

 

 その時、建物の横から5つの影が飛び出してきた。目の前で倒れている男は宛城に乗り込むにあたって、護衛を付けることを忘れなかったらしい。法服のような黒い外套をまとった彼らは、突然のことに驚く警官たちに短刀を振り上げた。

 

「おのれ、仲間がいたか――!」

 

 警官のリーダー格が叫び、剣を構えた。部下の警官たちもそれに倣い、襲撃者たちと激しい戦闘を開始する。数は秘密警察の方が多いが、もともと実戦より捜査や警備などを担当する治安部隊なだけに、戦闘のプロである護衛たちに圧倒されていた。すでに3人の警官が倒され、2人が傷を負っている。

 しかし護衛たちの方も、隠密性を重視した短剣しか装備していなかったのが仇となって、長柄の武器を装備した警官たちがひとたび反撃に出てからは、リーチの差で苦戦を強いられていた。

 

 一方の男性はというと、すでにドサクサに紛れて逃走を始めていた。警官たちは戦闘に夢中で気付いていない。

 

「朱里、このままだと逃げられる! 後を追おう!」

 

 一刀は一息整えると、ベルトから短刀を抜いて走り始めた。後からは諸葛亮が必死に走ってくる。幸いにも男は自分たちが潜んでいた場所に向かって逃走している。一刀は先回りして、建物の影に潜んで待ち伏せた。

 

「んな……ッ!?」

 

 素っ頓狂な声を上げ、男が斜め前方につんのめる。建物の横から飛び出してきた一刀のタックルを、もろに受け止めたからだ。

 バランスを崩して床に転がった男を見て、一刀は荒い息を吐きながら立ち上げる。

 

「動くな、私服警官だ」

 

「っ……」

 

 なおも男は逃げようとする。近くにあった建物のドアを蹴飛ばし、中に侵入する。

 しかし、それまでだった。部屋にはもう一つ出口があったのだが、運悪く家具がそれを塞ぐ形で置かれていたのだ。一刀は思いがけない幸運に感謝しながら、男に詰め寄った。

 

「逃げ道はもうないぞ。後ろでは別の私服警官が待機している。無駄な抵抗はよせ」

 

 咄嗟にハッタリをかます一刀。言っていることは一から十まで全てが嘘なのだが、男性には確かめようもない。なおも未練がましく戦闘を続けている護衛たちの方を見やるも、そこまでだった。現場では騒ぎを聞きつけた別の警官隊が到着し、護衛たちは完全な劣勢に持ち込まれていた。やられるのも時間の問題だろう。

 さらに男に追い打ちをかけるように、2人の徐州兵が姿を現した。この付近に配置されていたペアが、騒ぎを聞きつけて応援に来てくれたのだ。どちらも一刀と同様に私服を着ているので、徐州兵だとは分からない。男は私服警官の増援だと勘違いしたらしく、大きなため息を吐いた。

 

「これで終わりだな。さぁ、大人しく投降したらどうだ」

 

 声の震えを隠しながら、なおも一刀は演技を続けた。状況は急を要する。何としても秘密警察がやってくるより先に、目の前の男性の身柄を確保しなければならない。

 

「………わかった」

 

 ようやく男は観念したようだった。諦めたように両手を上げ、口を開いた。

 

「逮捕するなら早くしろ。できれば今すぐに、窓の無い部屋に連れて行ってくれ」

 

 怪訝な顔をする一刀に、男は切羽詰まった表情で言う。

 

「まだ分からんのか? 自分ほどの重要人物を、連中がみすみす逮捕させるとでも思うのか?」

 

 その時、一刀は見た。夜空に広がる暗闇の一点が、月明かりを反射して煌めくのを。

 次の瞬間、男の背後にあった建物の窓が割れ、真っ赤な鮮血が視界を染めた。

 

「狙撃!?」

 

 諸葛亮が叫ぶと同時に、男は衝撃で前屈みに倒れた。矢は心臓を一突きにしており、すでに致死量の血がどくどくと溢れ出ていた。

 

 ――口封じ。

 

 一刀と諸葛亮は同時に、その矢の意味を悟った。目の前で倒れた男もその可能性を案じていたから、あれほど急かしていたのだ。

 

「嘘だろ!? 窓の外から、どうやって狙いを……!」

 

「一刀さん! それより早く手当を!」

 

 諸葛亮に一喝され、一刀はハッと我に返る。このままでは不味い。今の怪しげな取引が何だったのか、それにはどういった背後関係が絡んでいるのか。全ての疑問が謎のまま闇に葬られてしまう。そして何より、目の前で人が死にかけているのだ。

 

「早く処置をしないと! 一刀さん、まずは傷口を塞いで……!」

 

「ああ……」

 

 一刀はすぐに自分の上着を脱いで、止血にかかる。だが、それでも血は止まらない。よほどの腕のいい狙撃手が狙ったのだろう。矢は背中から心臓を直撃し、循環器系を完全に破壊していた。心臓が動くたびに、本来血管に入るべき血液があらぬ方向へと噴き出してゆく。

 

「朱里、残念だが……」

 

 諸葛亮が慌てる傍らで、一刀が悔やむように言う。

 

「矢は心臓を完全に貫通しているみたいだ。だから、彼はもう………――ッ!?」

 

 話の途中で一刀の動きが止まり、体が強張る。原因は死んだ男の懐から転げ落ちた『ある物』だった。一刀はそれを手で摘むと、恐る恐る諸葛亮にも見えるよう持ち上げる。

 

「―――っ」

 

 金色に光り輝くその物体を目に留めると、諸葛亮は息を飲んだ。その物体を見たことは無かったが、話なら何度も聞いていた。

 

 

 『 受命於天 既壽永昌 』

 

 

 黄金の印鑑。竜の彫刻が施されたつまみがあり、大きさは4寸四方。印文には篆書で上記の文字が刻まれている。秦の始皇帝以来、時の皇室が代々受け継いできた、皇帝の証。

 

「伝国の玉璽………そういう事ですか」

 

 揚州牧が欲していたもの。漢王朝が生まれる前から、代々の統治者へと受け継がれてきた、中華の至宝。その権威は袁家など容易に凌ぐ。取引材料としての魅力は充分過ぎるほどだ。

 玉璽の権威で豪族たちの足並みを揃えるもよし、外交の席でも有利に働くだろう。宮廷で大きな発言力を持つ袁紹・曹操との同盟あたりを視野に入れていたのかもしれない。

 

 だが、今となってはそれも分からなくなってしまった。真相は闇に葬られたまま、もの言わぬ死体と輝く玉璽だけが残される。横からジャリ、と靴が地面を踏みしめる音が聞こえたのはその時だった。

 

「――貴様ら、何をしている!!」

 

 呆然としている一刀たちに、突然大声が飛んでくた。驚いて振り返ると、4人組の警官が武器を持って立っていた。一刀が弁明するより先に、警官たちは徐州兵に目を留める。

 

「その武器……さては、連中の仲間だな!?」

 

 乱闘が始まった。徐州兵2人に3名の警官が斬りかかり、一刀たちも逃げる間もなく、突進してきた別の警官の警棒で殴られる。隣では諸葛亮が息を飲み、ぼんやりと霞んだ視界に警棒を構えた秘密警察が映った。

 

「そこの女も動くな、警察だ! 殺人容疑の現行犯で逮捕する!」

 

 警官は続いて諸葛亮にも警棒を振り上げたが、一刀はなんとかその足を掴んで引っ張ることに成功する。バランスを崩した警官が倒れ、しばらく一刀と揉み合いになった。

 

「やめろ! 大人しく署まで……!」

 

 なおも抵抗を止めない一刀を抑えるべく、警官は懐からナイフを取り出し、切っ先を突き出した。幸いにも急所は逸れたが、上腕が切り裂かれる。一刀を悲鳴をあげ、警官から離れた。

 

「貴様ら……ッ!」

 

 逆上した警官は落とした警棒を拾い上げると、再び一刀に殴り掛かる。しかし横から諸葛亮が慌てて投げつけた玉璽が鼻に命中し、くぐもった悲鳴をあげた。鼻血を垂らして顔面を赤く染めた警官が体勢を立て直す前に、一刀は身を沈めて肘打ちを叩きこむ。ここまで来ると流石の一刀も逆上したのか、好戦的な衝動に支配されてしまったらしい。ぐったりした警官から警棒を奪い取ると、徐州兵たちに加勢する。

 タックルで一人を突き飛ばし、跳ね除け、奪い取った警棒で殴打をかわした。一方の警官たちも蹴飛ばし、斬りつけ、正当防衛による殺害も止む無しと考え始めていた。

 

 

「――はいはい、3人ともそこまで」

 

 

 呆れたような声に、全員の動きが止まる。振り返ると、賈駆が背後に立っていた。隣には面白そうに状況を眺めている張繍と、屈強そうな警官が大勢いる。矛槍や弩など本格的な武器を持った警官も何人かいた。

 

「この地区は完全に封鎖したわ。今は120人の武装した警官が見張ってるから、逃げようとしても無駄よ。大人しく武器を捨てて投降なさい」

    

「いや、俺たちは……その……」

 

 一刀らは咄嗟に弁明を試みようとするも、すぐに諦めた。血塗れになった自分たち、負傷した警官、目の前の死体。全ての状況証拠がこちらに不利に働いている。賈駆は再び呆れたような溜息をついた。

 

「北郷一刀と諸葛孔明、貴方たち2人を騒乱罪および公務執行妨害、そして殺人と反逆罪の容疑で逮捕する。 もし言いたいことがあるなら、話は署で聞くわ」

 

 賈駆が目配せすると、張繍が頑丈そうな金属の手錠を引っ張り出した。

           




 怒涛のフラグ回収回。ちなみに袁家は早い段階から警察が登場していますが、いわゆる“お巡りさん”ではなく、準軍事組織としての『国内軍』に近いです。袁家だと軍隊=国防軍(外敵からの防衛)、警察=国内軍(内部の治安維持や反乱鎮圧)みたいなイメージ。

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