真・恋姫†無双 仲帝国の挑戦 〜漢の名門劉家当主の三国時代〜   作:ヨシフおじさん

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90話:民を導くもの

 

 部屋の中には一人の男が、台に縛り付けられ裸で横たわっている。男の両手足は革ベルトで固定されていた。足元にはヤギがいて、足裏を熱心に舐め回している。

 

「もぉ、緊張しなくてもいいのにぃ。連れなくされると、わたし寂しくて泣いちゃうよ?」

 

 その隣では、ゆったりとした薄いガウンを着た若い女性――劉勲が愉しそうな表情を浮かべていた。気味が悪いほど丁寧に服を脱がせていき、細い指で一刀の顎を持ち上げる。

 

「それ、牛革でつくった特注品なの。革製の方が肌傷めないからね。付け心地最高でしょ」

 

 既に三日にわたって、一刀への取り調べが行われている。その間一刀は一睡も許されず、ぶっ通しで責め立てられていた。

 

「もう一度、質問するわね。そっちの企みについて知っていることを洗いざらい吐きなさい。そしたらラクにしてあげる」

 

「ぁ……はぁっ……俺は……何もッ!」

 

「あぁん、そんな顔で睨んじゃダメだってば。アタシ、滾っちゃいそう」

 

 獲物を嬲る獣のような微笑みを浮かべ、劉勲は次なる拷問に取り掛かる。相手が反抗的であればあるほど、彼女の愉しみも増えるのだ。

 袁家の取調べにおいて拷問は禁じられていないが、証拠としての信ぴょう性は下がる。そのため容疑者を責め立てるためには、工夫が必要だった。拷問ではないと解釈できる責め立て方法――法で重要なのは解釈だ。実質的に拷問でも、拷問ではないと解釈できればよいのだ。文官のトップに位置する劉勲が、そうした事実を知らないはずがない。

 

「これで完成♪ うんうん、苦しそうで実によろしい」

 

 一刀は、身をよじりながら痙攣していた。既に何時間もヤギに足を舐め回され、笑い過ぎて体中の筋肉が強張っている。日頃は端正な顔も、汗と涙と鼻水とよだれが混ざり合って憔悴しきっていた。

 

「うぅん……やっぱりキミの目、すっごくイイ。キミのそういう目、表情……アタシすっごく好みかも」

 

 わざとらしく言う劉勲。一刀の口は、特殊な器具によって開きっぱなしになっている。劉勲はそこからクジャクの羽でできた小さな羽箒が出たり入ったりさせ、一刀がそれを口いっぱいにほおばりながら、濁音交じりの嘔吐を繰り返す様子を観察していた。

 

「が、がはっ!ごはっ!」

 

 苦しげにもがく一刀。痙攣するように身をよじらせるも、劉勲は容赦なく羽箒で一刀の喉を刺激し続ける。激しい嘔吐感がこみ上げ、脳内の中枢器官が胃の内容物を逆流させてゆく。嘔吐反射を何度も繰り返したせいで、体中の筋肉も悲鳴を上げていた。

 

「ムリムリ、頑張っても自分の意思じゃ制御できないわよ。ニンゲンのカラダって、そーいう風にできてるんだから」

 

 満面の笑みを浮かべ、頬を上気させた女が言う。

 

「もぉ……カズト君ってば可愛過ぎ」

 

 劉勲は嬉しそうな顔でそう告げると、今まで挿入されていた羽箒を取り出す。

 

「げぇ……はぁ、はぁ、はぁ…………」

 

 やっとの事で吐き気から解放された一刀の、荒く短い息が地下牢に響く。目の前の女は恍惚とした表情ででそれを眺め、唾液まみれの羽の先端を赤い舌でゆっくりと舐めていく。完全に下の、逆らえない存在を嬲るように、見せつけるように――。

 

「苦しかったでしょう? ふふっ、でもね、コレも慣れると気持ちよかったりするんだよ。実際、アタシは苦しかったり痛くされるのも好きだし、その内――っ!?」

 

 一刀は呼吸を乱しながらも劉勲を睨み付けると、その顔に唾を吐いた。劉勲は目の周りについたそれを白く細い指でふき取ると、「ちょっと止めてよね。化粧が崩れちゃうじゃない」と頬をふくらます。

 

 しかし、それは決して起こっている風ではなくて。そうした小さな抵抗すら楽しもうとしているようであった。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 ――小沛城が陥落した

 

 その知らせに、徐州名士たちは民衆ほど我を忘れて狂喜しなかった。冷静に考えれば、城がひとつ落ちたくらいで袁家の屋台骨は揺るがない。州都・下邳には依然として、袁家の軍勢が控えている。その兵力が投入されれば、烏合の衆でしかない民衆暴動など一瞬で鎮圧されるだろう。

 

「浮かれるにはまだ早い。まだ暴動でしかないのだから」

 

 民衆の勝利が続くとは思えなかった。下邳の駐屯部隊だけならともかく、南陽に無傷で温存されている袁術軍本隊は恐るべき脅威である。

 それ以上に危惧すべきは内部崩壊だ。いまは袁家憎しでまとまっているものの、生活も価値観も千差万別の民衆がいつまでも団結できるとは思えない。正直、あそこまで一致団結して小沛城を落としたという事実のほうが異常なのだ。

 

 

 街では今なお、民衆の歓声が轟いていた。兵士たちを指揮していた大隊長を討ち取り、その上領主の身柄を確保できたのだから、大勝利と言って間違いない。これまでずっと袁家の恐怖政治に怯えていた徐州の民は、袁術軍を撃退した快挙に自信と誇りを取り戻し、興奮していた。

 

 しかし、そんな歓喜が渦巻く中にあって、劉備はひとり顔をゆがませていた。奪還したばかりの領主官邸の寝室で、ひとり部屋の片隅で悩む劉備。彼女の脳裏にあったのは、歓喜に沸く民衆の姿だけではない。破壊された家と、小競り合いの犠牲者たちの姿、これから起こりうる袁家の報復――。

 劉備の口から、ぼそっと呟きが洩れる。

 

「どうしよう……」

 

 袁家は今回の件を決して認めるまい。大衆運動に対して為すすべもなく屈した……そんな評判がたてば政府の存在意義が疑われてしまう。報復として、さらに強硬な手段をとると考えた方が自然である。

 

 かたや徐州の民は、小沛城を落とした実績を以て袁家恐れるに足らずとして、いよいよ全面的な闘争に入る勢いだ。徐州から袁家を追い出し、独立戦争を戦い抜くつもりなのか。

 

 ――しかし、それで徐州は乱世を生き残れるだろうか。

 

 答えは否、とは言わざるを得ない。もともと袁家という共通の敵がいたから、本来ならば目的も価値観もバラバラな集団が、たまたま敵を前にして共闘しているに過ぎないのだ。そこにあるのは互いへの信頼関係などではなく、単なる一時的な利害関係だ。一時的な利害の一致による団結は、同じく一時的な利害の不一致によって容易く分裂する。

 

 それは袁家として同じ。たとえ一時的に力の論理でこちらの言い分を認めさせても、本心から納得していなければ機会を伺って再び報復にかかるはず。必要なのは、心からの共感をもって支持させること。すなわち、袁家自身に徐州の独立を認めさせることなのだ。

 

 それには、やはり対話しかない――劉備なりの信念はあった。徐州にだって言い分はある。それを袁家は理解するべきだった。少なくとも、理解しようという姿勢ぐらいは見せるべきだった。

 しかし、残念ながら袁家は言葉ではなく暴力で、自分たちの論理だけを押し通そうとした。

 

 ――だが、だからといって自分たちは抵抗だけしていればよいのか。

 

 袁家と戦い、滅ぼすのが目的ではない。自分たちは、ただ自分たちの生き方を認めてほしいだけなのだ。

 それは暴力によってではなく、言葉によって、相手を共感させることで達成されるべきなのだ。

 

 

 **

 

 

 広場に集められた人々の前に立った劉備は、自分に集まる視線に圧倒されていた。目の前を埋め尽くす何百人もの人々が、ただ自分ひとりに視線を注いでいる。それは無形の圧力となって、彼女の小さな身体を押しつぶそうとするかのようであった。

 しかし、ぎゅっと拳を強く握りしめて、劉備は覚悟を決める。そして、胸いっぱいに息を吸うと、圧力に負けじと声を張り上げた。

 

「わたしが現・徐州牧の劉玄徳です」

 

 陶謙の元で小沛城主を務めていた頃から、すでに彼女の名声は徐州全土に響き渡っていた。人徳に溢れた仁義の聖母……噂にたがわぬ可憐な容姿の少女に、あちこちで息を飲む声が聞こえる。

 

「あんたが袁家の代わりに徐州を治めてくれ! 州牧さま!」

「劉備様はいつだって、俺たちの事を気にかけてくれていた。だから俺たちも劉備様になら喜んで従いますぜ!」

「そうだそうだ。あんな異民族と売女どもに支配されるなんて、真っ平ごめんだね!」

 

 格好の神輿を見つけたとばかりに、劉備は民衆に担ぎ上げられていた。

 

「なぁ、劉備さま。もし袁家の軍隊が攻めてきたら、戦うんだろ? その時にゃ、俺たちも戦いますぜ!」

「そうだ、そうだ! 袁家に復讐するんだ! 秘密警察どもを血祭りにあげなきゃ気が済まねぇ!」

 

 どうやら小沛城を落としたことで、ある種の精神的な垣根を超えてしまったらしい。毒食らわば皿まで、という訳だ。身内を殺されたのだから、犯人を死刑にしなければ腹の虫が治まらない。袁家の報復を恐れての防衛案は、いつの間にか積極的な復讐戦へと屈折していた。

 しかし劉備の口から出た言葉は、そんな彼らの期待を真っ向から裏切るものであった。

 

「復讐はしません。暴力を振るっても、何の解決にもなりません」

 

 想像すらしていなかった劉備の拒絶に、誰も彼もが耳を疑った。戦いの当事者である民衆たちはもとより、良識のある名士たちから見ても、この劉備の拒絶はあり得ないものだった。

 差し向けられるであろう南陽の討伐軍は、小沛城の民衆をまとめて皆殺しにできるだけの兵力を揃えて来るはずである。暴力抜きで、どう対抗しようというのか。

 ざわつく広場を鎮めるように、劉備は落ち着いた口調で語りかけ始める。

 

「暴力をもって為された変革は、暴力によって封じられます」

 

 暴力によって達成された理想があるとすれば、その正当性は根源である暴力でしか保証されない。であるならば、その理想は暴力によって支えられ、変質し、壊される。変革側が暴力によって自己を正当化するならば、体制側もまた圧倒的な暴力でそれを弾圧することで己を正当化できるのだ。

 

「それでは何も変わりません。袁家の作った暴力という秩序の枠組みの中で、ただ立場が入れ替わっただけのこと」

 

 役者が変わっただけで筋書きは一緒。強き者が弱き者を虐げるという構図は、何も変わっていない。

 

「あわよく袁家を追い出したとして、新しい政府は暴力によって生まれ、存在しているものになります。それでは袁家と同じです。新政府は暴力によってでしか存続しえず、また暴力によって打ち倒されるでしょう。私たちは、この負の連鎖を断ち切らなければいけません」

 

 劉備は暴力を否定するという。では、どうやって?

 

「私たちの武器は、暴力ではなく言葉です。相手が理不尽でも、暴力による抵抗はしません」

 

 この時、劉備の真意を理解した者はほとんどいなかっただろう。事実、後世までほとんどの人間が、無抵抗で弱腰の非暴力主義と勘違いされている。

 

「ですが暴力を振るう相手には、たとえ殺されても従いません。それこそが、私たちが持つべき最大の武器なのです」

 

 この主張において、劉備は楽観的な非暴力主義者と一線を画す。彼女の主張の肝は、むしろ後半の「不服従」にこそある。たとえ命を奪われようとも、暴力を振るう者には従わず奴隷にならない、という主張であった。

 

 これは戦争の、数倍の覚悟がいる行動である。なぜなら自らが生命の危機に瀕しても、暴力による防御をしてはならないからだ。ただひたすらに、対話を求め続ける。それは無力を覆い隠すための「非暴力・無抵抗」ではなく、死すらも恐れず自らの意志を相手に伝えるための「非暴力・不服従」であった。

 

 

 **

 

 

 情報が錯綜している――それが張纏の抱いた最初の感想であった。

 

 彼女の元へは、小沛が大事になっているとの情報が、様々な筋からもたらされていた。だが、どれも信憑性に欠ける。本来ならば事態が整理できるまで待ちたいところだが、状況がそれを許さなかった。かくなる上は、自ら確かめに行くしかない。

 

 そう決断した張纏は早速、子飼いの部隊を率いて小沛へと急行していた。

 『武装警察軍』………秘密警察である保安委員会が組織する、独自の軍事兵力だ。領内活動向けに新設された準軍事組織であり、軍務委員会の統制する通常の軍隊とは指揮系統も予算も編成も違う。その任務は関所の警備や要人の護衛、そして難民の統制や反政府活動の弾圧などの汚れ仕事ばかりでなく、通常の戦闘行為も含まれている。

 

「張纏司令――」

 

 なにやら不穏な感覚を覚えたらしい。張纏のすぐ傍にいた新人が、不安げな表情で告げた。

 

「なんかヤバげな雰囲気じゃないっすか」

 

 街路を進むうちに、その言葉に現実のものとなった。前方に、100人を越える人々が道を塞ぐように立ちはだかっているのが見えたのだ。適当な廃材で作られたバリケードすらあり、怪しい雲行きである。

 ただならぬ空気に、張纏たちも陣形を組んで周囲の警戒を強化する。

 

(また抗議運動? だとしたら、よく飽きもしないで続けるもんだ。いつまでも反抗的なのを許すわけにはいかないけど、いま強硬手段に出るのは得じゃない。適当な頃合いを見て、食糧の特別配給を実施するとでも言っとけば機嫌も直るだろうし)

 

 しかし頭の中で懐柔策をめぐらせつつも、張纏は異様としか言いようの無い光景に困惑していた。いつもなら獣のように大声を張り上げるはずの市民たちが、全員直立不動のまま声1つあげないのだ。警察軍の兵士たちも逆に不安に駆られ、奇怪な圧迫感に包まれた雰囲気に危うさを覚えていた。

 

 そして緊張の糸がぶつりと切れたかのように、抗議の声が次々と上がった。

 

「この前の事件のことを説明しろ!」

「もっと物価を下げろ!」

 

 ものの数秒も経たない内に、あちこちので雄叫びの大合唱が沸き起こった。

 

「政治犯を解放しろ!」

「増税反対!便乗値上げを許すな!」

 

 老いも若きも、四方八方に配置された先導役の一人として、市民たちを煽っていた。戸惑いと恐怖をあらわにしていた人々も、次第に熱気を帯びる叫びにつられて、知らず知らずのうちに声を上げている。

 

「秘密警察は帰れ!」

「夜間外出禁止令を取り下げろ!」

 

 男も女も、証人も農民も、顔という顔はみるみる紅潮して狂騒に酔い始める。広場のどこかしこでも、若芽がにょきにょきと伸びるように観衆が立ち上がっていた。

 せめてもの幸いは、劉備の演説にあった「非暴力・不服従」のフレーズのおかげで、兵士たちに危害を加えた者がいなかった事だ。しかしそれも、当事者である張纏たちにとっては気休め程度でしかない。

 

「……っ」

 

 張纏は舌打ちした。保安委員会としては、ここで引くわけには行かない。元々禁じられている無許可の集会――そもそも許可される集会などないが――を前にして、秩序維持を目的とする保安委員会が引けるはずもない。その実働部隊たる、警察軍が出動しているとなれば猶更だ。ここで撤退しては組織のメンツにかかわるし、何より存在意義が疑われる。

 

「貴様らッ! 何をしている! ただちに解散しろ!」

 

 民衆の罵倒に耐え兼ねた、副隊長が激昂する。しかし、そんな命令に対して平民達は引く気配を見せない。さらに悪いことに、時間を経ることにその人数は徐々に増えているようだった。

 

 一触即発のにらみ合い……そんな状態がしばらく続く。その膠着状態に終止符を打ったのは、群集の中から現れた劉備その人だった。

 

「はぁ……はぁ……、これは一体、何の騒ぎですか……?」

 

 どうやら騒ぎを聞きつけて、慌てて駆けつけたらしい。隣には関羽と鳳統の姿もある。劉備の視線が集まった民衆から、苦笑いを浮かべる張纏へと移る。

 

「その軍服……保安委員会の方ですか?」

 

「初めましてだね、劉徐州牧。自己紹介は……時間がもったいないから後にしよっか」

 

 なるべく余裕を装いつつ、張纏は口を開く。暴力装置は、恐れられてこそ意味がある。少しでも隙を見せれは、怒れる民衆に文字通り飲み込まれてしまう。

 

「さっそくだけど、小沛城で大規模な暴力事件があったとか。事情聴取のために、一緒に署まで一緒に来てくれる?」

 

 それを合図に、周囲にいた兵士たちが一斉に弩を構えた。もちろん事情聴取というのはお題目で、その真意は劉備を監禁することにある。小沛城に閉じ込められていたはずの劉備がここにいる時点で、小沛城で何があったかは想像がつく。当初の目的は達したものの、あそこまで罵倒されて手ぶらで帰れば後々「保安委員会は民に怯えて逃げ出した」と批難されかねない。

 

 身構えた民衆たちを意識しないようにして、張纏は劉備の周りをぐるぐると回りながら続けた。

 

「あっそうそう、宛城のご友人についてはご安心していいよ。こっちが責任もって警護しとくから」

 

 劉備の表情に、苦いものが混じる。要するに張纏はこう言いたいのだ――もし抵抗する素振りを見せれば、宛城にいる諸葛亮たちの身に不幸が起こる、と。

 

 秘密警察らしい卑劣な手法――しかし劉備は、臆することなく張纏と対決した。

 

「分かりました、事情聴取に応じましょう。小沛城で何が起こったか、知る限りの事はお答えします――雛里ちゃん、紙と筆を」

 

 実にあっさりと、劉備は事情聴取に応じた。鳳統が紙と筆を用意するのを見て、張纏は内心で舌打ちする。もとより事情聴取など単なる名目に過ぎず、本来の目的は劉備を同行させて身柄を拘束すること。

 

「では、何からお話しましょうか?」

 

 毅然とした表情で、劉備が問いかける。複数の弩を突き付けられてなお、その顔には恐れも迷いもない。武器を持っているはずの張纏たちの方が、丸腰の劉備に戸惑っていた。

 

(あー、こりゃ良くない展開だわ……)

 

 顔に薄笑いを張りつけながらも、張纏の黄色い瞳は周囲をせわしなく観察し続けていた。そこに移るのは、続々と集結する徐州の民。リアルタイムで人の牢獄が作られているような感覚に、流石の張纏も本能的な危機感を隠せなかった。

 

(こうなったら……!)

 

 とりあえず身柄さえ拘束しておけば、後はどうとでもなる――張纏が目で部下たちに合図を送ると、すぐさま兵士たちが劉備を取り押さえようとする。

 だが兵士が劉備の肩に手をかけた途端、誰かが叫ぶ声がした。

 

「劉徐州牧を守れっ!」

 

 興奮状態にあった大衆を刺激するにはそれで充分だった。それが2度目のきっかけとなり、前方にいた民衆が劉備を守ろうと兵士たちの前に立ちはだかる。

 

「ええい、貴様ら邪魔をするな! 全員監獄へしょっ引くぞ!」

 

 副隊長が民衆を一喝する。しかし民衆の動きが止まることは無く、兵士たちとの間でもみ合いになった。

 

「劉備さんは渡さねぇぞ!」

「袁家の狗は帰れ!」

 

 民衆は雪崩を打ったように、一斉に袁家へ罵声を浴びせかけた。それは誰もが持つ政府に対する不満という共通意識を土台として、さらにその周囲の人々から外周に向けて同種の影響を与え、その意識はまるで伝染病のようにして瞬く間に広がっていく。誰かが今まで内心で圧殺していた不満意識の噴出をこらえきれなくなったのだ。

 

「何が袁家だ!クソ食らえ!成り上がり者!」

「偽善者の人殺し!」

「南陽に帰れ!」

 

 そんな言葉と共に、警察軍へと殺到する民衆。前にいる人間は後ろの人間に押され、人の波となって兵士たちを圧迫する。これだけの数なのだ、もはや兵士たちは劉備を逮捕するどころではなくなっていた。

 

 荒ぶる民衆の波に押しつぶされつつある中でも、張纏は周囲に目を凝らして制止するための声を挙げようとする。

 

「静かに! これは警告――――」

 

 そんな時、揉み合いの中で振り回された腕が張纏の横顔に直撃した。

 

「くッ……」

 

 張纏の口から一瞬、呻きが漏れる。どんなに鍛えた人間でも、頭部への衝撃を受けてはただでは済まない。張纏も例外ではなく、右の額から血を流していた。

 

 

「このおっ!」

 

 一向に止む気配を見せない民衆の圧力に、我慢がならなくなった若い兵士の一人が弩を構える。今にも引き金を引こうとする寸前、張纏の鋭い声が飛ぶ。

 

「待って!」

 

 その言葉に怯えていた兵士は一瞬動きを止めた。

 

「落ち着いて。大丈夫、……引き金から指を離して」

 

 張纏は優しくも厳しい声で、引き金から指を放すよう告げる。この状況で流血沙汰になれば、最終的にはこっちが皆殺しにされてしまう。

 

「しかし――!」

 

 それでも興奮した隊員は止まらない――いくら武装警察軍が精鋭部隊だとしても、ここまで多くの群集に囲まれた経験などそうは無い。そもそも彼らの主武装としている弩は、多数の暴徒を鎮圧する任務には向いていない。最初からこれだけの民衆を相手にすると聞かされていたならまだしも、予想外の展開が次から次へと起きては対処のしようがなかった。

 

 そして、初めての戦闘――と呼べるのかはわからないが――に興奮したその隊員は引き金を引いてしまった。

 

 

 ◇

 

 

「え……?」

 

 緊迫した場に不釣り合いな、気の抜けた声が響いた。声の主は、最前列で民衆と兵士の両方に落ち着くよう宥めていた劉備。興奮した兵士が思わず放ってしまった太矢は、そんな彼女の腹に突き刺さっていた。

 

 どう、という音と共に劉備は地面に倒れる。致命傷ではないが、意識を失うレベルの出血。

 だが、民衆の目には劉備が射殺されたようにしか見えなかった。

 

 そして劉備が撃たれたという事実は、興奮した民衆に残された最後のブレーキを取り払ってしまった。

 

 ――袁家が、丸腰の劉備を射殺した。

 

 劉備の隣にいた関羽が拳を振り上げたのと、張纏が飛びのいて逃げ出したのは同時だった。

 続いて爆発したような大音量と共に、一斉に民が動き出す――。

         




 南陽は今日も平和

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