ピンチはチャンスとはよく言うが、逆にいえばチャンスはピンチなんじゃないか?
痛む頭をさすりながら、私はそんなことを慧音に訴えかけた。
「何の話だ」
「例えば、だ。私が今から紅魔館に行って、無事食料を貰えたとする。でも、それが食えるという保証はないじゃないか。もしかすると、腐っている物を押し付けられるかもしれないし、毒入りの可能性もある」
「そうじゃないのを貰ってこい」
早く行けと、コバエを払うように手を振った慧音を無視し、言葉を並べる。
「つまりだ。私が言いたいのは、リスクが大きすぎるってことだ。目の前の大きな餌には大抵釣り針が刺さってんだよ。チャンスなんてものは巡り巡って自分の喉を締めることになる」
「大丈夫」やさしく私の肩を撫で、にこりと笑った。寺子屋でよく見かける先生としての笑顔だが、どういう訳か私には獲物を前に舌なめずりする猛獣にしか見えない。
「釣り針にかかるのはお前だけだし、餌を食べなかったら私が手づかみにしてやる」分かったなら早く行け! という叫び声と同時に、私は一目散にその場から飛び出した。
怖い怖い半獣のおばさんに脅された私は、しぶしぶながらも紅魔館へと向かった。まだ怪我も完治していないというのに、あいつは労わりという言葉を知らないらしい。満身創痍な状態で、危険で溢れている人里の外に出るのは不安だった。だったが、拍子抜けするほど簡単に目的地に着くことができた。例の憎き氷の妖精にも会うことなく、それどころか他の妖精すらに一度も遭遇せずにたどり着いた。逆に恐ろしいくらいだ。
紅魔館、とはよく言ったもので、目的の館は壁、天井、門にいたるまで全てが赤く、まさしく血塗られた館という表現がぴったりなところだ。ちょうど西日に照らされて、赤黒い外装が不気味に輝いている。正直、今すぐにでも帰りたいが、このまま帰ったら慧音の説教が待っているに違いない。それに比べればましだ。あれは酷い。
とりあえずどうやって中に入ろうかと、門の中を覗き込む。門といっても、精々5mくらいの塀のようなもので、空を飛べる妖怪で溢れる幻想郷では大した意味を持たない。精々見栄えを良くするためのオブジェだ。
「私の管轄をオブジェだなんて、口が達者ですね」
後ろから、いきなり声をかけられる。威圧感のある低い女性の声だ。背筋が凍る。全く気配を感じなかった。あたふたと慌てふためいた私は、そのまま地面に落下し、盛大に門に頭をぶつけてしまった。大丈夫ですか? とおろおろとした声が聞こえる。どうやら独り言をつぶやいていたらしい。
「大丈夫じゃねぇよ。なんでお前らは後ろから急に話しかけてくるんだ。死ぬことになるぞ、私が」
「大丈夫そうですね」
いやー、すみませんでした。とにこやかに笑いながら、座り込んでいる私に手を差し伸べてくる。緑色の大陸風な服を着た女性だ。人当たりの良さそうな笑顔を見せ、私より高いであろう背を少しかがめていた。ごつごつした、丸太のような腕にぐいっと引きよせられる。勢いがつきすぎて、少し体が浮いた。女性であるが、かなり力が強い。何の妖怪かは分からないが、明らかに人間の力を凌駕していた。
「もしかして、あなたが鬼人正邪さんですか?」
帽子に隠れた紅色の長い髪を揺らしながら、彼女は太陽のような笑みを見せた。
「待ってましたよ。私は紅魔館で門番をやっている紅美鈴です。慧音さんのご友人の鬼人正邪さん、でいいですよね?」
「いいわけないだろ」
私が慧音の友人だと? 冗談にしても勘弁してほしい。私にとって慧音とは、よくいえば天敵、悪く言えば害悪だ。確かに、たまにご飯を奢ってもらえるのは助かるが、それ以外が致命的に私と合わない。白と黒、ハブとマングース、イノシシと人面牛だ。
「人面牛って、慧音さんのことですか? 怒られますよ」
「慧音を怒らせることに関しては専門家だからな。というか、私はまた口に出していたのか」
あー、と気の抜けた声を出した彼女は、えへへと誤魔化すように笑い、後ろ手に頭をかいた。ちろりと舌を出す仕草は子供らしく、長身の彼女がやるには似つかわしくないように思えたが、不思議と様になっている。根が子供に近いのだろうか。慧音と同じだ。
「実は私、耳がいいんですよ。ほら、こう見えても門番なので」
「なんで門番は耳が良くないといけねぇんだ。コンサートの指揮でもとっているのか?」
紅い門の前にずらりと楽器や騒霊が並び、門番が指揮棒を振っている姿が頭に浮かぶ。が、そんなわけないじゃないですか、と彼女はすぐに否定した。
「門番も大変なんですよ。他にも体力、集中力、あとは耐久力が必要ですかね。そして何より大切なのが、忍耐力です」
「忍耐力? 門の前に立っているだけだろ。何に堪えるんだ? 空腹か」
「あはは、あなたとは違いますよ」
どういう意味だ、と睨むも、彼女は再びあははと笑うだけだった。心底不愉快だ。彼女は妖怪にしては珍しく親切で、俗にいう良い人なのだろう。私と違って。だからこそ気に入らない。そして何より腹が立つのは、自分と相手の能力を比べ、弱いと判断した相手にはそれ相応の態度をとっていることだ。馬鹿にするのではない。壊れ物を扱うように、慎重に対応している。それこそ、子供を相手にした大人のように、無意識に優しく接しているのだ。それが見下すことと同義だとも知らずに。
「空腹じゃないなら、なんで忍耐が必要なんだよ。お前みたいな強い妖怪に我慢は似合わない」
私の渾身の皮肉を前に、彼女はまた、あははと笑った。
「そうですね。例えば来客を待つときなどは気を使います。特に、その来客がなかなか来ない時は」
「へぇ」
「最悪なのは、日を跨ぐときですかね。今日中に来ると聞いていたのに、その日に来なかったら、疲れがどっと来ます。まして」
そこで彼女は少し笑顔を崩した。口元は相変わらず緩んではいるが、目元には少し影が見える。それが帽子の陰か、疲れによる隈か、それとも怒りによる皺かは分からない。
「まして、三日も待たされたとなると、それは疲れますよ」
ああ、これは怒っているなと分かった時には、すでに門の中へと引きずり込まれていた。
「正邪さんは、この館についてどう思いますか?」
長い廊下を歩きながら、紅美鈴は訊ねてきた。あの恐ろしいと噂の紅魔館の門番を怒らせた。これは指の一本や二本は切られてもしかたない。そう思っていたが、彼女はあっけらかんといった様子で、びっくりしました? と笑った。
「いやあ、正邪さんの反応が面白いから、つい」
悪びれもせず朗らかに言う様子は、どこかの誰かを彷彿とさせる。この世界にはこんな奴しかいないのか、と頭を抱えていると、いつの間にか紅魔館の扉をくぐっていた。
「どう思うもクソも」
円を描くように、ぐるりと辺りを見渡す。が、見渡したはずなのに視界に映るものにほとんど変化はなかった。紅。紅紅紅紅! この館は外も内も紅に染まっていた。窓すらないのには驚きだったが、そんなことが些細に感じるくらいだ。
「目に悪いしセンスもない。この館を設計した奴は赤色以外認識できない病気だったんだな。無様だ」
「それ、絶対に本人を前に言わないでくださいね。怒りますから」
彼女はその場面を想像したのか、ぶるりと震え、自分の身体を抱きしめるように腕を背中に回した。その本人とやらはかなり恐れられているらしい。出来れば会いたくないものだ。
「にしても、趣味が悪すぎだ。限度というものがある。紅は紅でもこんな血のような色にしなくてもいいのに」
「もし」
彼女は人差し指を立てて、天井を見つめた。カツンカツンと私たちの足音が響く中で、その鈴のような声は透き通り、よく響く。そういえば、結構歩いたにもかかわらず、廊下の終わりが見えないな、とそんなことを呑気に考えていた。だからだろうか。彼女の言葉は、頭の中をかき回すように、深く染み渡った。
「もし、本当に血だと言われたらどうします?」
「え?」
「壁を塗るために、数多の人間の血を搾り取ったといわれれば、どう思います?」
前を歩いていた紅美鈴が急に立ち止まった。一体どうしたのだろう、と首をかしげていると、「どうかしましたか?」と逆に訊かれる。どうかしているのはこの館だ。そう呟き、腰を上げようとした時、初めて自分が床に崩れ落ちていたことに気がついた。大丈夫ですか? と差し伸べてくる手をはねのけ、自力で立ち上がる。まだ少し足が震えているが、痺れているふりをした。
「そんなに驚くとは。逆にこっちが驚きましたよ」
「驚いてねぇ。あまりに馬鹿な事を言うから、拍子抜けしただけだ」
「拍子抜けして、腰が抜けたんですね」
あははと笑う彼女に舌打ちし、天井を見上げる。少し前までは、ペンキで塗られたかのように色むらなく均一に見えた紅色も、心なしか血しぶきを擦り付けたように、黒と赤のまだら模様に見えてきた。
彼を包丁で刺した時を思い出す。彼の命が消えようとしているにも関わらず、血は噴水のように勢いよくふき出した。そんなに血を出す元気があったのか、と感心するほどだった。赤く染まった服は捨てた。丁寧に床を吹き、これでもかと手を洗った。それでも部屋に残る血生臭さは消えなくて、一晩中部屋を拭きまくった。その時のことを思い出す。
頭を下げ、自分の手のひらを見つめる。一瞬、その手に赤黒い液体がこびり付いているように見え、悲鳴を上げそうになる。目を閉じ、もう一度手の平を見ると、その赤色は消えていた。
「もうそろそろ、お嬢様の部屋につきます」
「お嬢様?」
「紅魔館の主ですよ。くれぐれも失礼のないように」
緑色の帽子を脱いだ紅美鈴は、素早くそれを折りたたみ、強引に懐へと押し込んだ。手で何度も髪の毛をいじり、私から見れば何が変わったか分からなかったが、大丈夫、と頷き、頬を両手でペチンと叩く。顔にきれいな紅葉が二つ刻まれた。
「これでばっちりです」
「何がだ」思わず、聞き返す。
「心の準備ですよ。お嬢様に怒られないためにも、心の準備が大切なんです」
「心の準備が大切とか、あまり口にしない方がいい」
口元のにやけが抑えられなかった。自然と、手が額へとのびる。はたしてあの“準備”に意味があったかどうかは分からない。ただ、焼酎で痛む傷口を守ってくれたのは確かだ。
「包帯でぐるぐる巻きにされるぞ」
「何です、それ」
「実体験だ」
怪訝そうに私の目をみる彼女に向かい、私はあははと声をあげて笑った。
長い廊下の一番奥にあったのは豪華絢爛な扉だった。色は例に漏れず真っ赤だが、まず大きさが異常だ。館の周りを覆っている門よりも高い。その大きな赤いキャンパスを埋め尽くすかのように金の装飾やダイヤモンドが埋め込まれている。喜知田の家の扉よりも、はるかに上等なものだった。その、触れることすらおこがましいような扉を紅美鈴は躊躇なく開けた。ノックすらしないのか、と驚く。
「お嬢様。客人をお連れしました」
恭しく礼をした紅美鈴だったが、返事は返ってこない。彼女を盾にするように後ろに隠れながら、中の様子を窺う。気づかぬうちに、ため息が漏れた。あまりの豪華さに感動したわけでも、お嬢様と呼ばれる妖怪の威圧感に気圧されたわけでもない。またか、と呆れたのだ。また、紅色か。
「ようこそ、お客人。待っていたよ」
前にいた紅美鈴の背筋が、ピンと伸びた。これ以上伸ばしたら背筋が脱臼しそうだ。かくいう私も気づけば背筋が伸びていた。そうしたくてしたわけではない。せざるを得ないような迫力が、その声には籠っていた。高く、そして幼い。少女の声だ。寺子屋の子供たちの声と混ぜても、違和感がない。だが、不思議とその声には高貴さが混じっている。有無を言わさぬ強制力が含まれていた。恐怖のあまり、卒倒しそうになる。喜知田の家での烏と同じくらいに恐ろしい。
その、声を発した妖怪は私たちの目の前にいた。金色で縁取られた大きな玉座に座り、不敵な笑みを浮かべている。自分の想像よりも遥かに小さく、そして幼い。今朝の三郎少年と同じくらいの背丈だろうか。雪のように白い肌は陶器のような輝きを放ち、肩口までに切られた銀の髪は、どこか浮世離れしている。薄紅色のドレスとナイトキャップを纏い、身体より大きな黒い禍々しい羽根が小刻みに震えている。紅の館に住み過ぎたせいか、瞳は真っ赤になっていた。かわいそうに。
その少女は肘置きに体重をかけ、頬を右手に載せている。左足の上に右足をのせ、つま先をぶらぶらと揺らしていた。身長と服装も相まって、幼子のようにも見える仕草だが、どういう訳か彼女がやると、威厳に溢れた行動に見える。
「そんなに怖がらないでくれよ。私たちはあなたが来るのを楽しみにしていたんだ。何ていったって、あの八雲紫のお墨付きだからね」
「は? え?」
「おっと。口が滑ったか。まあ、土産話という事にしてくれ」
クツクツと笑う彼女を前に、私の頭は真っ白になっていた。八雲紫のお墨付き? 会ったこともない大妖怪に、いつの間に墨をつけられていたのか。どうして。なぜ。
「それは置いといて。私に頼みがあるんだろう? 遠慮なく言うがいいわ。このレミリア・スカーレットがその望み、聞いてやろう」
「その置かれた情報が気になるんだが」
「気にするな。早く頼みを話せ」
有無を言わさぬように、彼女は小声で、それでもはっきりと言った。
「……頼みというか、慧音からの伝言だ」
ここで慧音の名前を出したことに、大した理由はなかった。事実、食料調達を頼んできたのは慧音であったし、何の間違いもないはずだ。下心があるとするならば、レミリアが不機嫌になった時に、責任をなすりつけることができるかも、と思ったぐらいか。
「慧音? ああ、あのワーハクタクか」
人里の半獣だったかな、と淡々と口にする彼女の顔は、どこか嬉しそうだった。自分の子供の成長を思い出しているかのように、過去を懐かしんでいる。
「ああ思い出してきたぞ。寺子屋の教師をやってる、石頭の」
「そうだ。あいつはかなりの石頭だ」
ニタリと口を開いた彼女は、喉を鳴らすように笑う。二本の尖った犬歯が光り、真っ赤な口の中を照らしているようだった。
「そうか。あいつが私に頼みごとがあるのか。面白いな」
「面白い?」
「あの頑固者が紅魔館の主である私に借りを作るとは、意外だったからね」
まあ、それも運命か。とよく分からないことをいっている彼女を尻目に、私は隣で突っ立っている門番の脛を膝で小突いた。この小さな支配者は機嫌がいいのか。頼みごとをするタイミングは今でいいのか、と呟くと、彼女は小さく頷いた。
「その頼みなんだが、まあ単純だ。人里の食糧が不足しているので、少し分けてくれ、いや分けてください、だってよ」
「ふむ。なるほど」
顎に手を置き、なぜか片目だけ閉じた彼女は、熟考しているのか低い唸り声を上げた。ビリビリと空気が震え、その迫力に思わず後ずさってしまい、後ろにいた紅美鈴に支えられるように受け止められる。振り返ると、彼女はレミリアをじっと見つめ、焦るようにパクパクと口を動かしていた。何と言っているかは分からない。
「いやだ」
「は?」
「いやだ、と言ったんだ」
「お嬢様!」紅美鈴が、責めるように、叫んだ。
「打ち合わせと違うじゃないですか!」
打ち合わせってなんだよ、と突っつくも、紅美鈴は返事をしない。彼女は混乱しているようだった。あたふたとその場で足踏みをし、あれだけ恐れていたはずのレミリアに向かって、馬鹿ですか、何してんすか、いつもの我儘ですか、と捲し立てている。
「考えてもみろ。私は高貴な吸血鬼だぞ。なんで人間なんぞに施しを与えなければならん」
「で、ですが」
「美鈴」
レミリアの声は、決して大きいわけではなかったが、研ぎ澄まされた剣のような鋭さがあった。私に向けられたものではないにも関わらず、気が遠くなりそうだ。
「私に同じことを二度言わせる気か」
「はい!」
椅子上のレミリアの頭がカクンと落ちた。張り詰めていた空気に綻びが生じる。巨大な空気の塊が肩にのしかかっているような感覚だったが、それが急激に薄れていった。
お前はそういう奴だったな、と苦笑いをしたレミリアは、片頬を上げたまま私に視線を移した。体が強張り、今すぐ背中を見せて逃げたくなるが、足が動かず、それすらできなかった。しかし、口は動く。
「紅魔館の主がここまで貧乏性だとは驚きだな」
「なんだと」
右眉をピクリと動かしたレミリアにおののき、口が固まるが、何とかして言葉を紡ぐ。今朝の三郎少年の暗い顔が頭をよぎった
「自分の尻ぬぐいもできないなんて、赤子よりも間抜けだ」
「おい待て。いま尻ぬぐいと言ったか」
てっきり、顔をこの館のように真っ赤にして怒ってくると思っていたが、予想に反し彼女は冷静だった。冷静でないのは後ろの門番の方で、そうだそうだ! 間抜けだ! と大声で叫んでいる。普段の鬱憤を晴らそうとしているのだろうか。
「ああ言った。お前らの霧のせいで作物が育たなかったツケがきているんだ。いつだってそうだ。強者の気まぐれで弱者が犠牲になる。あんたらはそんなことすら知らんのだろうがな。哀れだよ。弱い者は助ける。常識だろ?」
「そんな常識は知らない」
「奇遇だな。私もだよ」
大きく息を吐いたレミリアは、目頭に人差し指を重ね、ぐりぐりと押し込んでいる。そんな仕草ですら、私にとっては驚異的で、恐ろしい。
しばらくレミリアは動かなかった。後ろにいる門番は、相変わらず空気を読まずに馬鹿、チビ、歩くゴミ! と暴言を吐き続けているが、それにすら反応していない。そんなレミリアに目をやろうとするも、溢れ出る威圧感に負け、そのまま奥の壁の方を向いた。もはや慣れつつある赤色に、金色の額縁に飾られた写真がかかっている。この館全員の集合写真だろうか。後ろで騒いでいる門番と、前で考え込んでいる館主。その他にも4人の女性が映っていた。ピンボケはしていない。天狗にでも撮ってもらったのだろう。
「写真、気になるか?」
私の視線を辿ったのか、彼女は一瞬振り返り、愛おしそうに写真を見つめた。
「大切な私の家族だ」
「家族」
「そうだ。我らが紅魔館は血のつながりよりも強固な運命で結びついている。運命の赤い糸でな。それは、私にとってはかけがえのないものだ。お前には分からないかもしれんが。……まあ、そこの門番は今日から家族で無くなるけど」
「え」
私を追い越して、玉座の前に座り込み、レミリアの足に縋るように纏わり付いている門番を嘲笑しながら、私はレミリアが言った家族という言葉について考えていた。
家族。私とは最も縁遠い存在だ。暖かくて、優しくて、きっとそれは素晴らしいものなのだろう。だが、そう思えば思うほど、この世の理不尽さに嘆息する。妻が死んだときの、彼の苦笑いが頭に浮かんだ。弱者は、家族を失うのをただ黙って見過ごすしかないのか。強者の犠牲になるのを、我慢するしかないのか。
「どうした天邪鬼。なぜそんな悲しい顔をしているんだ」
「は?」
「お前にも家族がいたのか」
いる訳がない。私は天涯孤独で生まれながらの天邪鬼だ。
「そもそも、私は悲しい顔なんてしてねぇよ。してたとしても、お前らの愚かさ加減に同情していただけだ。“ああ、なんて阿呆な妖怪なんでしょう。神様は残酷だわ”ってな」
で、でも。と何かを言おうとした門番を手で制したレミリアは、 ゆったりとした佇まいで玉座から降りた。腰に手を当て、威張るように胸を張りながら私に近づいてくる。俯いているので表情は見えない。以前のような肺を直接潰すような威圧感はもうないが、それでも本能的に足がすくみ、身体が震え、ぺたんとその場に座り込む。最近、足がよくすくむな。年だろうか、なんて現実逃避をしたくなる。
「鬼人正邪。お前に一つチャンスをやろう」
凍えるような冷たい目で見下ろしてくる。その手には門番の帽子が握られていた。
「お前には友人がいるか? 自分のために命を懸けてくれるような、そんな仲間がいるか? 私の家族のような、赤い糸を持っているか?」
「人相書きで紡いで、枝豆で梳いて、アジの開きで結んだ、血で赤くなった糸なら」
「お前は何を言っているんだ」
なにか不味いものでも食べたかのように口を噤んだ彼女は、私の顔の前に手を掲げた。人差し指だけを突き立てて、愉快そうに一日だ、と笑う。
「一日の猶予をやる。それまでに命を懸けてくれるような友人を連れてこい。ああ、慧音は駄目だぞ。あいつは友人以外でも命をかけてきそうだ」
「もし、連れてこれたなら」
「いくらでも食料を提供してやる。言ったろ、これはチャンスだ」
私は座り込んだまま、そのまま背中を地面につけ、寝転んだ。紅の天井が私を馬鹿にするかのようにあざ笑う。それにつられて、私も口から乾いた笑い声が零れた。カラカラと、壊れた玩具のように同じ音を繰り返す。友人を連れてこい。そうすれば、望み通り食料をやろう。いいか、これはチャンスだ。何度も同じ言葉が頭を巡った。まったくもって馬鹿らしい。
「せめて、釣り針を隠す努力をしろよな」
お前は何を言っているんだ、と嘆くレミリアの声が赤い館に吸い込まれていった。