天邪鬼の下克上   作:ptagoon

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ハッピーエンド

「食料って言ったって、まさかなぁ」

 人里の前で妹紅が声を零した。腕を組みなおし、何度も首をかしげている。

「まさか野菜しかないとは」

 

 しばらくは図書館でくつろいだ、正しくはお菓子と紅茶を貪るように腹に入れた私は、久しぶりの満腹感を堪能しつつ、鶏ガラを馬鹿にしていた。それに耐えられなかったかは分からないが、鶏ガラは、どこから取り出したのか籠一杯の野菜を私に持たせ「これで満足でしょ? もうそろそろ帰って」と面倒くさそうに言った。野菜しか入っていないことに腹を立て「私たちは馬じゃないんだが」と反論してみたが、「あら? イノシシも豚も野菜さえ食べれば生きていけるじゃない」と早口で巻くしたてられ、退散するしかなかった。意外に根に持つタイプらしい。

 

「まあ、食えればなんでもいいだろ」

「そういうもんか」

 

 地面に置かれた籠を、膝と両手を使い何とか持ち上げる。ふらふらとよろけながら、籠についている紐に手を通し、背中に背負った。想像よりも重く、後ろに引っ張られる。

 

「はやいとこ慧音に届けに行こうぜ」

 そして、慧音の家にひっそりと居候しようぜ、と私は続けた。

 

「あれ? 貰った食料は自分で食べるとか言ってなかったか」

「言ってない」

「嘘だ、絶対いったね。さすが天邪鬼だ」

 

 ニヤニヤと笑う妹紅に舌打ちし、人里へと歩みを進める。のっそりと、一歩一歩踏みしめるように道を進んだ。周りの雑草は綺麗に刈り取られており、地面が剥き出しになっている。よく人が通るからか、土が削れ、水が溜まっていた。その水たまりに真っ青な空が反射している。その時、初めて朝日が昇っている事に気がついた。清々しいな、と思う。清々しくて、ムカつく。近くの土を蹴り飛ばし、水たまりに入れた。一瞬にして茶色く濁り、清々しさは消えていく。何でこんなことをしたのか分からず、自分が馬鹿らしくなった。いったい、何をしてるんだ、私は。

 

 しばらく道なりに進むと、人里が見えてきた。ちらほらと古い民家が現れはじめ、心なしか町の喧騒がここまで聞こえる気がした。少し、うんざりする。

 

「じゃあ、私はこの辺で別れるとするよ」

 

 唐突に妹紅がそう切り出した。私はてっきり、慧音の家に野菜を届けるまでついて来てくれると思ったので、何でだよ、と怒るような口調で文句を言った。

 

「あと少しぐらい、来てくれてもいいじゃないか」

「何だよ、寂しいのか?」

 

 違う、とは言い切れなかった。寂しいわけではないはずだが、一人でいるのも落ち着かない。人里に入った瞬間、どこからともなく人が現れ、帰れ帰れ! と騒がれるような、そんな予感がした。それだけだったら別に屁でもないのだが、また殴られて怪我をするのは御免だ。鶏ガラのおかげで喜知田から受けた傷が完治したのは不幸中の幸いだった。この幸いを何とか維持しなければいけない。そうしなければ、喜知田への復讐を果たすことなんて、夢のまた夢だ。

 

「何だよ、急にしおらしくならないでくれ」

「なってねぇよ」

「そうか? ならいいけど」

 

 銀色の髪を手で撫で、妹紅は真面目な顔で私の目を見つめた。赤色の大きな瞳に吸い込まれていくように、自然と私も彼女を見つめる。なぜか緊張して、汗が垂れた。

 

「その野菜は、正邪が持っていくべきだ。それが、慧音の願いなんだ」

「あの救世主が云々ってやつか」

「少しの間、正邪と一緒にいたけど」

 

 妹紅は照れくさそうの頬を掻き、目を逸らした。あー、うー、とうなり声をあげ、小さな声でぼそぼそと言う。

 

「少しの間一緒にいたけど、それなりに楽しかったよ。正邪が悪い奴じゃないってのは分かった。慧音がお前を救おうとしている理由が分かった気がするよ。言いたいことはそれだけ、じゃあな!」

 

 私が返事をする前に、彼女は風のように去っていった。あっという間に姿が見えなくなり、間抜けに口を開けた私と野菜が入った籠だけがその場に残される。

 

「悪い奴じゃない、か」

 

 高々半日いっしょにいたお前に何が分かる。慧音が私を救うだと。誰がそんなことを頼んだ。救ってほしいなんて、誰が言った。そもそも私は救われなければいけないような高尚な妖怪じゃない。慧音も他人を救えるような器ではない。何もかもが役不足で、足りていないのだ。

 

 正邪は悪い奴じゃない。何度も頭の中で同じ言葉が繰り返される。この私が悪人ではないだと? 針妙丸や彼にもさんざん言われた。馬鹿馬鹿しい。この私が悪人で無かったら、誰が悪人なんだ。

 

 もうここにはいない妹紅の首を掴み、ぐらぐらと大きく揺さぶる。いつの間にか妹紅の顔は、赤いかさぶたが目立つ、老人の顔に変わっていた。それでも私は揺するのを止めない。一回大きく揺する度に、皮膚がはがれ、顔が砂のように砕けていった。ボロボロと地面に落ちていく。気がつけば、目の前には何もなくなっている。あるのは、血にぬれた包丁と、私の手だけだ。

 

「悪人に決まってるだろうが」

 

 喉の奥から、声を絞り出した。ずしりとした重みが肩にかかり、ふらつく。秋の朝独特の、冷たい風が肌を刺した。どいつも、こいつも、いったい私を何だと思っているんだ。

 

「私を誰だと思ってるんだよ」

 天邪鬼だろ? どこからか、声が聞こえたような気がした。

 

 

 

 そういえば、紅魔館で笠を探すのを忘れていたな、と思い出したのは自警団の男に胸倉を掴まれた場所が見えてきた時だった。流石に早朝に外出する人はわずかで、昨日のような人混みは無かった。ほっと胸を撫で下ろす。最初は、顔を隠すようにいそいそと身を縮めて歩いていたが、堂々と歩いていた方が返って目立たないのではいかと思い立ち、何で私が隠れるように歩かなきゃならないんだ、と馬鹿馬鹿しくなって、結果的にいつも通り顔を上げて歩いた。

 

 道行く人々はまばらで、私と目を合わす者もいれば、俯き早足で去っていく者もいる。だが、いきなり糾弾してくるような奴はいなかった。昨日のあれは、もしかすると偶々ではないか。慧音がいないという非常時ゆえの悲劇だったのではないか。そんな甘い考えが脳裏に浮かんだ。このまま私は、慧音の家に居候して人里で暮らせるのではないか。楽観的にもほどがあるが、そうとでも考えなければやってられない。人里の外で生活するなんて無謀であるし、何より喜知田への復讐のチャンスが遠のくからだ。

 

 私の背中に積まれている野菜の重みで肩が悲鳴をあげ始める。この野菜を慧音にあげれば、あなたは救世主だ。妹紅の言葉を思い出した。救世主になれば、堂々と人里を歩くことができ、元の生活に戻れる。野菜を届ければ、彼は、台無しになってしまうという言葉を地獄で撤回し、私は針妙丸と普通に暮らすことができる。罪を清算できる。そう自分に言い聞かせ、慧音の家までの長い道のりを進む。

 

 しばらくは、大した問題もなく歩くことができた。精々が、野菜の重みでよろけ、溝へと足をすべらせたぐらいで、順調に人里の中心へと近づいていった。だからだろうか。前方に見えた人だかりに気づいていたにも関わらず、私はそのまま歩き続けた。油断していたのだ。きっと、また烏が新聞でも配っているのだろうと思い込み、呑気に鼻歌を歌ってすらいた。

 

 よくよく考えれば、あのクソみたいな烏の新聞に人だかりができる訳もなく、しかもそこにいるのが男ばかりだったことからも、危険な匂いがプンプンしていたが、私は気づくことができなかった。頭からその可能性を排除していた。いや、排除したかったのだ。

 

「あ、あいつ」

 

 その、人混みの中にいた男の内の一人が私に気がついた。周りの連中に声をかけ、険しい顔で何やら喚いている。この時やっと私は、これはまずいと気がついた。背筋が凍る。恐怖のためか足がすくみ、逃げることすらできなかった。ただ、男たちが群を成して向かってきているのを、黙ってみている事しかできなかった。

 

「いや、流石だわねぇ正邪さんはよぉ。むしろ惚れ惚れするくらいだ」

 

 背が高い男連中のなかに埋もれている小さい男がキヒヒと笑った。どこかで見たことがあるような、と記憶をまさぐるが、中々思い出せない。

 

「やっぱ、お前みたいな弱小妖怪でも、腐ったトマトだけじゃ満足いかなかったようだな」

 

 くしゃくしゃの髪を撫であげ、小さな男は鼻を鳴らした。その仕草を見て、ようやく思い出す。道端で野菜を売っていた縮れ毛の男だ。そいつが偉そうに私をあざ笑っている。

 

「お前みたいなやつがいるから、食い物が無くなるんだっての」

 

 いつの間にか、私の前にいたはずの男たちが後ろに回り込んでいた。円を書くように、私を取り囲んで、じりじりと近づいてくる。

 

「何だよ、お前ら」

 通りすがりの一般人にしては余りにも物騒すぎる。

「私に何か用か?」

「本当は分かっているくせに、しらを切っているつもりか?」

 

 縮れ毛は顔を歪める。状況を理解できていない私に苛立っているようにも、これから起こる何かに期待を寄せているようにも見えた。

 

「最近、よく盗まれるんだよなぁ。いくら優しい俺たちでも、みなの命がかかっているなら、一肌脱ぐしかねえ」

「何の話だ」

「最近、食料の値段が上がっているのは知っているよな」

 

 さも、嘆かわしいといった表情で男は首を曲げた。周りの男たちも同調するように頭を垂れている。お前のせいだ、と責めらているような気がし、腹が立つ。

 

「知っている、というよりもお前らのせいだろう」

「え?」

「お前ら金持ちが、食い物を買い占めてるって聞いたぞ。それを割高で売っているとも」

 

 確かに、この縮れ毛は路上で野菜を法外の値段で売っていた。こんな裕福そうな男が店を構えないのは不思議だったが、何のことはない。こいつは普段野菜なんて売っていないのだ。食糧が不足している状況に便乗して、安い値段で買った野菜を横売りしていた、そんなとこだろう。

 

「酷い言いがかりですな」

 縮れ毛の隣にいた、肥えた老人がそう言って、腹を撫でた。

「我々は、ただですら少ない食料を腐らせぬよう専用の倉庫に貯蓄しているのです。その為に食料を買い集めた。売るときには管理費を上乗せしなければなりませんから、相当の値段になってしまいますが、仕方ないと言えるでしょう」

「言えねぇよバーカ。どうせならもっとましな言い訳をしろよ。子供よりも酷いぞ、それ」

「そうですか」

 

 男は表情を変えない。そう言うのが分かっていたかのようだ。隣の縮れ毛も、満足そうに笑っている。嫌な予感がした。

 

「なら、あなたはもっと良い言い訳をしてくれるんですか?」

「言い訳? なんで私がそんなことをしなきゃならない」

「それですよ」

 

 男が私に指を向ける。それに追従するように、とり囲んでいた男たちも人差し指を突き出した。それと言われても分からねぇよ、そう呟こうとした時、彼らが何を指差しているのか、分かった。分かってしまった。

 

「たんまりと背負ったその野菜はよぉ。うちらから盗んだもんだろ? 最近多かったんだよ。盗みはいかんわ。そんなようけぇ盗りよってからに。広い堪忍袋もぷちんよ」

「違う。これは盗ったもんじゃねぇ」

「なら、なんだってんだよ」

 

 縮れ毛の男は、さあ、言えよと意気込んでくる。愉悦と嗜虐心に満ちたその顔には見覚えがあった。あの時の、喜知田の表情とよく似ている。無駄な抵抗をするものを、いたぶろうとする顔だ。

 

「これはな」

 

 頭を咄嗟に動かす。お前は誰だ。天邪鬼だ。なら、こんな奴らを言いくるめことなんて楽勝だろ、と思い込む。が、一向に言い訳を考えることができない。頭が真っ白になる。

 

「この野菜はな、あれだ。紅魔館から貰ってきたんだ」

 

 その場が静まり返った。さっきまではしゃいでいた縮れ毛も、太った男も呆然と口を開けている。きっと、私も彼らと同じような表情をしているだろう。なぜ、こんな時に限って本当のことしか言えないのか。いや、とすぐに考え直す。逆に考えろ。案外こういう時は正直に言った方が、信ぴょう性が高まるはずだ。そうに違いない。

 

「お前」

 

 縮れ毛が小さな声で言った。眉を下げ、少し申し訳なさそうにも見える。もしかして、と思った。信じてもらえたか? 

 

「流石にその言い訳は子供よりも酷いぞ」

 私もそう思う、と言うことしかできない。

 

 

 

「もう、お前が俺から野菜を盗んでるのは分かってんだよぉ!」

 

 縮れ毛が叫ぶ。その声は早朝の人里に染み渡り、町の至るところまで届きそうだった。朝っぱらからそんなに大声を出したら迷惑にならないのだろうか、と心配になるが、案の定何事かと家の中から様子を窺おうと人々が出てくる。

 

「逃げられねぇからな。お前のせいで食料が足りなくなってんだ」

「いや、ちげぇよ。私にそんな力はない」

「証人もいるんだからな」

 

 もはや、彼らにとって私の言葉はどうでもいいようだった。何でだよ、と呟く。話が違うじゃねえか、慧音。

 

「証人なんて、いくらでもでっち上げれる」

「おいおい、俺たちを信じねぇのかよ」

「なんで信じると思ったんだ」

 

 周りを見渡すと、騒ぎを聞きつけた人々が集まってきていた。単純に野次馬根性で駆け付けた奴もいれば、野菜泥棒に対する怒りを露わにする奴、または、単純に弱小妖怪が責められているのが楽しいのか、やれ、殺せ! と歓声を上げる奴すらいた。

 

 分が悪い。とっととこの重い荷物を捨てて立ち去ろう。救世主だなんて、似合わないことをするからこんな目に遭うんだ。こんな奴らにかまってる暇はない。とっとと逃げるしかない。どこへ? どこへ逃げるというんだ。私に逃げる場所なんてあるのか。そんなの、ない。

 

「ほら、ここにいるぜ。その証人は」

 

 威勢の良い縮れ毛の声に押し出されるように、一人の少年が前へと出てきた。自発的に歩いてきたというよりは、誰かに押されて無理矢理出されたと言った感じだ。

 

 その少年の顔は青ざめていた。よく見ると瞼に青い痣があり、顔が全体的に腫れている。嘘だろ、と私は呟いていた。一瞬何かの間違いだと思い、何度も頭を叩いた。どうして、なんでお前がそっちにいるんだよ。三郎。

 

「ほら、三郎くん。君がみた泥棒はこいつで合っているかい?」

 

 縮れ毛が拳を見せながら、優しく三郎少年に話しかけた。びくりと体を震わせた少年は、涙ながらにこくこくと何度も頷いている。その顔は恐怖で引きつっていた。

 

「お前」

 

 自分でも気づかぬうちに声を出していた。その声は野獣の唸り声のように低く、そこで初めて、あ、私は怒っているのか、と気づく。

 

「お前、そいつに何をした。おい、何をしたんだよ」

「何もしてないっつの」

 

 へらへらと縮れ毛は笑う。握っていた拳を解き、その手で少年の頭を撫でた。ぎゅっと目を閉じ、ひぃと悲痛な叫び声を上げた少年は、その場に尻餅をついた。つまらなそうに縮れ毛が見下げている。

 

「ほら、証人もいるだろ? それともなんだ。お前はこのガキが嘘をついてるとでも言うんか? だとすれば、このガキにも痛い目に遭って貰わないかんけどな」

 

 喜知田といい、こいつといい、どうして人里の連中はこんな奴らばかりなのだとため息が洩れる。だが、私は天邪鬼だ。こんな未熟な悪人とは違う。正真正銘の悪人だ。そんな悪人の私が、三郎少年を売らないメリットはあるか。ない。こんな糞ガキは痛い目にあって当然だ。だから、私は今すぐに、こいつが本当の犯人で私はやってない、と言い張ればいい。そう頭では理解しているが、口から出た言葉は、反対の言葉であった。

 

「ああ、私が犯人だよ! この野菜はお前から盗んだんだ」

「知ってたっつの」

 

 三郎少年は、縮れ毛が「もう帰っていいぞ」と言った瞬間に一目散に去っていた。どこか安心している自分がいて、嫌気が差す。私は天邪鬼だ。悪人だ。悪人だったら、この状況で何をするだろうか。答えは簡単だ。逃げる。ただそれだけ。

 

 荷物を置き、地面を蹴った。逃げる場所なんて分からなかったが、それでも逃げるしかなかった。垂直に飛び上がり、空へと舞い上がる。追ってこないかと不安になり、後ろを振り返る。流石に空を飛んでは来ないようで、すぐに追ってはこないようだった。が、男たちが蜘蛛の子のようにばらけ、必死に私の進む方へと駆けだす。先回りをしようと企んでいるようだ。速度を上げ、大きく旋回する。人里の外へ逃げるようなしぐさを見せ、私から、奴らが見えなくなったところで、急いで降りた。結果的に降りた場所は人里の中心付近だったが、遠くへ逃げたと思い込んでいるのか、人の気配はない。やっと胸を下ろすことができた。

 

「いったい、何だってんだ」

 

 私はわざわざ野菜を持ってきてやったというのに、どうしてこんな目に遭わなきゃならない。別にあいつらに嫌われるのは構わないが、それでもムカつくことに変わりはない。そもそも、私が食料を持ってくるなんて、間違っていたんだ。

 

 ゆっくりと足を進める。民家が入り組む細い路地に入り、音を立てぬよう慎重に歩く。逃げる場所に心当たりはないが、目的地は決まった。

 

 困っている人を助けるのは、いつだって先生の役目のはずだ。

 

 

 

 

 寺子屋へは意外にすんなりと着くことができた。途中、何度か人とすれ違ったが、流石に人里中の人々が私を追っているわけもなく、ただ目を逸らして去っていくだけだった。扉を開け、中をのぞく。しんと静まりかえっていて、物音一つしなかった。

 

「慧音、いるかー」

 

 返事はない。まだ帰ってきていないのか、それともまだ寝ているのか。乱雑に靴を脱ぎ捨て、中に入る。がらんとしている教室を抜け、奥の休憩室へと向かう。扉を開けた瞬間、待ち伏せしていた男どもが飛び出してくるのではないか、と緊張が走るが、ただ無人の部屋があるだけだった。ほっとし、座り込む。

 

 部屋は相変わらず汚いままだった。布団も敷いたままで、掛布団に至っては、起きた後そのままほったらかしにしていたのか、くしゃくしゃと丸められていた。

 

「時間ができたとか言った割には整頓してねぇじゃねえか」

 

 相も変わらず本は散乱していて、机の上に物の置き場もくらいに積まれていた。机の使い方を完全に誤っている。その内の、一番上の本を手に取った。よく見るとそれは子供向けの絵本のようで、周りの分厚い古びた本とは異彩を放っている。表紙には、太めのひらがなで「いっすんぼうし」と書かれていた。有名なおとぎ話だ。小人が打ち出の小槌を使い鬼を退治するというのは、新鮮で面白い。何よりも気に入っているのが、弱者である一寸法師が鬼を倒すという奇抜さだ。まさしく、おとぎ話らしく現実的でないところが好ましい。弱者が強者に勝つというのは、不可能だという事を暗に教えてくれるから、好きだ。

 

 本を戻し、立ち上がる。足元にあった紙を蹴とばしてしまったが、気にしない。明らかに前よりも部屋が散らかっている。

 

 壁にかかった箒を見た時、初めは何も思わなかった。単純に、慧音はまだ片づけていなかったのか、と呆れただけだ。だが、この前来た時、慧音は入り口近くの壁に箒を立てかけていたはずだったが、なぜか部屋の隅に移動しているのに気づき、おや、と思った。

 

 確かに、いくら慧音が忙しかったと言っても、流石にここまで汚い部屋をしばらく放置しておくとは思えない。しばらく外出するなら尚更だ。しかも、私は何のためらいもなくここに入ってきたが、普通に考えて、しばらく家を後にするにも関わらず、鍵をしないのは余りにも不自然だ。

 

 怪しい。逆さまにひっくり返った箒を見つめる。意味は、この部屋から出ていけ。胸が騒めく。急いで、この部屋から出なければ。だが、焦ったせいで、床に散らばっている書類に足をすべらせ、その場に倒れ込んでしまう。顔面をぶつけ、目の前が真っ暗になる。顔を擦りながら立ち上がると、足元の書類の中に長方形の紙切れがあるのを見つけた。所せましと文字が書かれ、遠くから見るとその文字が模様のようになっていた。どこからどう見ても、お札だ。

 

 胃が締め付けられる感覚に陥る。喜知田の護衛のうちの一人に札を使う奴がいたことを思い出した。なんで、どうして。こんな所に札があるのだ。

 

 すぐにこの部屋から出ようと廊下に出た時、入り口の扉が開く音が聞こえた。思わず、悲鳴を上げそうになる。近くの戸を開き、急いで飛び込んだ。

 

「靴がある、いるぞ」

 

 男の唸るような声が聞こえ、どたどたと慌ただしい足音が響いた。動悸が激しく胸を打ち、その音が男たちに聞こえないか心配になる。

 

 

 ガタンガタンと忙しなく戸を開いたり閉じたりする音が聞こえてくる。どうやら男たちは一つ一つの部屋を虱潰しにしているようだった。時間はそう残されていない。

 

 何とかできないかと、飛び込んだ部屋を観察する。どうやらトイレに入ってしまったらしく、狭い縦長の空間に一つの便器があるだけだった。窓もない。武器になるようなものもなかった。

 

 手詰まりか、と諦めかけた時、ふとチルノの言葉を思い出した。心に再び希望が生まれていく。

 

「抜け穴」

 

 狭い部屋に身体を押し込めるようにして、周りを調べる。壁を叩き、便器の中をのぞき、床を踏みしめる。音で居場所がばれないか心配だったが、恐怖心を押し殺す。

 

 便器右上の床を押した時、軽い感触が手に伝わった。おっ、と声が洩れてしまい、心臓が止まりそうになる。はやる気持ちを押さえつつ、慎重に力を加えていく。すると、パタンと子気味のいい音を立て、床が抜けた。小さなトンネルのようになっていて、光が差し込んでいる。外へと繋がっているようだ。胸の中で、小躍りした。流石チルノ。お前が寺子屋に通っていて本当に良かった。

 

 音を立てぬように、身体を折り曲げてゆっくりと降りていく。どうやらここは少し高い位置にあるらしく、下には地面が見えていた。妖精が通るための穴なのか、酷く狭かったが、何とか通り抜けることができた。思わず拳を握る。寒々しい風が吹いていたが、それが脱出できたという達成感を伝えてくれた。すぐに立ち去ろうと、地面を蹴る。が、空を飛ぶことができなかった。なぜだ、と不思議に思っていたが、その理由はすぐにわかる。後ろにいた誰かに身体を引っ張られていたからだ。慌てて、後ろを振り返る。

 

「捕まえたぞ、この野郎」

 

 知らない男が、私の腕を掴んでいた。必死に抵抗するが、相手は全く動かず、それどころか関節を固定される。やっぱり罠だったのだ。

 溢れ出る憎しみに意識が覆われていく中、私はチルノに文句を言わずにはいられなかった。

 

 何だよ。全然秘密じゃないじゃねえか。

 

 

 

 

 唖然としていた私は、寺子屋前の大通りにそのまま放り投げられた。受け身を取る事すらできず、身体を強く地面に打ち付ける。皮膚が地面にこすれ、ずりずりと嫌な音を立てた。

 

 なんとか仰向けになり、芋虫のように体を這わせ、辺りを見渡す。入るときには誰もいなかったはずの寺子屋の前に、溢れんばかりの人が押し寄せていた。その誰もが這いつくばった私を舐めるように見ている。先頭の男が、大きく声を上げた。その手には、大きな枝が握られていた。真っすぐに伸びたその枝は、先が小刀のように尖っている。とても、道端に落ちている物とは思えなかった。

 

 しなるように体を反らし、大きく腕を振り下ろした。手に持っていた尖った枝がくるくると回転しながら私に向かってくる。地面に飛び込むようにし、何とか躱そうとするも、右腕にかすり、電気が走ったかのような痛みが襲う。

 

 歓声が上がった。甲高い悲鳴のような絶叫があちらこちらから聞こえてくる。まばらに起きた拍手をかき消すような大声で、男は叫んだ。

 

「今こそ、この鬼人正邪に正義の鉄槌を下す時が来た! 人里に住み着く虱を駆除するのは誰だ? 慧音先生に頼りっきりでいいのか? 駄目だ! 俺たちが、俺たちこそが立ち上がらなければならない!」

 

 一際大きな声が人里に木霊した。周りにいる人間が腕をあげ、彼の言葉に追従するように言葉を発している。いつの間にか、私を取りかこむ人の輪は巨大化しており、人里中の人間が集まっていると言われてもおかしくない。それくらい、多くの人間が集まっていた。そして、彼らの手には石や枝など、思い思いの武器が握られている。その武器を掲げ、正義のために! と不穏なことを合唱していた。彼らの目は充血しており、息は荒い。その誰もが憎々しげに私を睨み、愉悦の笑みを浮かべている。嫌な予感しかしない。

 

「やれ!!」

 

 誰が発したか分からないが、その一言を切欠に、その喜劇は始まった。悪い妖怪に人里の人間が力を合わせて立ち向かう、素敵で楽しい物語だ。だが、その実態は満身創痍の弱小妖怪を遠距離から滅多打ちにするという残酷なものだった。

 

 初めのうちは、小さな石がまばらに飛んでくるだけだったが、私の膝に直撃し、痛みに眉が下がったのを見た彼らは興奮し、放ってくる弾幕に厚みが増した。たまらず空を飛ぼうと地面を蹴るが、何かに引きずり降ろされるように、地面に叩き落された。体が重くなり、動くことすらできない。人混みの中をよく見ると、見知った顔があった。右手になにやら札を持ち、ぶつぶつと呟いている男。間違いなく、あの攻撃的な護衛だ。そいつが、私に向けて何やら術をかけている。

 

「喜知田ぁっ!」

 

 私の叫び声は、大量の弾幕にかき消された。避けることを諦め、頭を守るように体を丸くする。背中に何度も鈍い痛みが走り、くぐもった声が出てしまう。その声を聞いたからか分からないが、より一層激しさは増していった。

 

 右の手の甲に大きな石が当たる。耐え切れない痛みに脳が焼ききれそうになり、その場で体をくねらせる。横目で見ると、直角に手首が折れていた。その手を庇うように体の中に入れるが、今度はがら空きになった頭に枝が突き刺さる。目がチカチカとし、猛烈な吐き気に襲われ、その場で吐しゃ物をまき散らし、その上に倒れ込んだ。それでも、彼らは石を投げるのを止めない。顔を上げようとすると、狙いすましたかのように顔面に泥が直撃する。視界が一瞬で奪われ、左手で必死に拭う。そして、これが泥ではなく肥である事に気がついた。また、嘔吐する。目が何度も針で指されているかのように痛み、涙が止まらない。

 

 もうどこが痛いのか、目が開いているのか、骨が折れているのかいないのか、内臓が潰れているかどうかすら分からくなったころ、唐突に弾幕が止まった。なぜ止まったのか分からないし、知りたくもない。何も考えることができない。

 

「おやおや、皆さんお揃いで。いったい何ごとですか?」

 

 この場に相応しくない、のんびりとした声が聞こえた。その声は決して大きいわけでも、鋭く通る声でもないが、不思議と頭の中に入り込んでくる。その悠然とした態度と、柔らかく優しい声から、人里のリーダーを任されているような貫禄がにじみ出ている。別に任されていないはずだが、本人がそう思い込んでいるのだ。

 

「おお、来て下さりましたか」

 

 野太い声が、僅かにうわづっている。最初に私の前に躍り出た、あの体格のいい男の声だ。よく来てくださいました、と宴会に上役が来たかのように言った男は、こいつが人里を堂々と歩いていたんですよ、と私を指差した。その声には感情がまるで籠っておらず、台本を読み上げるように、淡々と言った。

 

「この妖怪は……」

「鬼人正邪ですよ。あの射命丸さんの新聞に会った」

「ああ、あの」

 

 まるで初めて見たかのように、確かに目つきが悪人のそれですね、と私を見つめる。その口は真一文字に結ばれており、悲しそうに眉を下げていた。薄気味悪い。

 

「ああ、おいたわしい姿に」

 

 地面を擦るような音がしたかと思えば、そのふくよかな男は私に向かって歩き出していた。円から外れるようにし、一人でゆっくりと進んでくる。私の頭のすぐ近くにまでくると、彼は腰を下ろし、私の耳元で囁いた。

 

「会いたかったですよ、天邪鬼」

 

 薄れていた意識が急激に戻ってくる。荒れ狂う波が思考を流し、怒りのみしか頭に残らない。止まりかけていた鼓動がバクバクと音を立てた。潰れていた喉に力が入る。

 

 私も会いたかったよ、喜知田。

 

 

 

 

「この世で最も愚かな行為は何だと思いますか?」

 

 周囲をぐるりと見渡した喜知田は声を張り上げた。出来の悪い生徒に物を教えるように、ゆっくりとした口調だ。だが、その質問に応えさせる気はないらしく、すぐに言葉を繋げた。

 

「それはですね、復讐です」

 

 ふくしゅう、とぽつぽつと囁くような声が聞こえてくる。

 

「そうです。復讐とは愚かで、意味のない行動です。よくよく考えてみてください。いくら憎い相手を痛めつけたところで、殺したところで、愛しいあの人は返ってくることはありません。それどころか、時間を無駄にし、使わなくてもいい労力をかけることになります」

 

 人々の先頭にいた男が確かに、と頷いた。その通りだとあちらこちらで声が聞こえる。それはまるで私に向かい言っているように聞こえた。

 

「みながこの妖怪を憎む気持ちは分かります。ですが、ここは一つ私に免じて退いてもらえないでしょうか」

 

 喜知田は頭を下げた。その行動に人々は驚き、おののいている。どうしたもんかと互いに困惑し、困惑している人を見てさらに混乱しているようだった。かすれる声で、何を考えている、と喜知田に声をかける。私の声を無視した喜知田は、後ろ足をあげ、折れた私の右手を思い切り踏みつけた。ぐしゃりと嫌な音がし、無意識に身体が痙攣する。叫び声を上げることすらできない。

 

「黙っていてください」

 小さく、そう言った喜知田は正面を向き、がたいのいい男と向かい合った。微かにだが、小さく頷き、目で合図を送った。やはり、あの男と喜知田はぐるだったのだ。

 

「でも、喜知田さん」怒りが抑えきれないといった様子で男が言う。

「それでは、私たちの気が収まらない。どうして人間を殺した妖怪が、盗みを働いた妖怪が人里で暮らせるのか、巫女は動かないのか、納得がいかないんですよ」

 

 そうだそうだ! と同調する声を尻目に、喜知田は顎をさすりながら、何やら考え込んだ。正確には、二重になっている顎をたぷたぷと揺すりながら、考えている振りをしている。気に入らないが、身体が全く動かない。歯を食いしばる事しかできない。

 

「では、こうしましょう。今から私が鬼人正邪を説得します。それで、心を入れ替えていたら、チャンスをやる。これでどうでしょうか?」

「でも、心を入れ替えたかどうかなんて、どうやって判断するんですか?」

 

 分かっているだろうに、教えて下さいと熱心に喜知田に質問をする。

 

「それは、私の匙加減次第ですね」

 なるほど、と男は大袈裟に頷いた。

「みなさんも、これでいいですね?」

 

 疑問形であったが、反論は受け付けないと、暗に言っているようなものだった。周囲の人々も、反論を言う勇気がないのか、それともそこまでの興味はなく、単純に日々溜まった鬱憤を私で晴らしたかっただけなのか、文句もなくただじっと見つめている。その中に、縮れ毛の姿を見つけた。愉快そうに私を見下し、大口を開けて笑っていた。キヒヒと声を出しているに違いない。

 

 冷たい風が吹いた。いつの間にか、太陽が完全に昇り、辺りを眩しいくらいに照らしている。冷たい風が体を撫で、傷口をつんざいていった。目の前の汚物のツンとした匂いが充満し、また吐きそうになる。

 

「危ない所でしたね、正邪さん」

 

 嫌そうに鼻をつまみ、私の前に立った喜知田は汚らわしそうに私の顔を蹴った。折れた歯が口の中から飛び出し、コツンと音を立てた。

 

「私が来なかったらどうなっていたことか」

 

 立ち上がり、彼の顔を殴ろうとするも、地面に押し込まれるような感覚が強まっていき、もぞもぞともがくことしかできない。喜知田を殺す千載一遇のチャンスだというのに。悔しさで、顔がくしゃくしゃになる。

 

「どうして、こんなことをしたか。不思議ですか?」

 

 聞いてもいないのに、喜知田はそうですよね、と微笑んだ。殺す。絶対に殺す。

 

「理由なんてないです。強いていえば、弱者をいたぶるのは楽しいから、ですかね。私にかかれば、大衆を動かし、一人の弱小妖怪をいじめることなんて、娯楽と同じですよ」

「お前の力じゃないだろ」

 血を泡立てながら、私は言った。

「どうせ、金の力だろ」

 

 少しの間、きょとんとしていた喜知田だったが、しばらくすると腹を抱えて笑い始めた。ゲラゲラと品無く笑い、私の鳩尾を蹴り上げる。視界が反転し、仰向けに転がったことがやっと分かった。

 

「ええ、その通りです。あの大男も、途中で行けと叫んだ男も、便乗するようにそうだと言った女も、全員私が金で雇ったんです。金さえあれば何でもできるんですよ」

 

 そういえば、と喜知田は手を叩いた。シンバルを両手に持ち、シャンシャンと鳴らす熊の人形のように、陽気で無邪気な笑顔を見せた。

 

「そういえば、何でも願いが叶うってものを最近手に入りましてね。どうですか? 羨ましいですか?」

「羨ましくねぇ」

「まあ、いずれにせよ、あなたはここで終わりなので、関係ないですが」

「チャンスをやると、いっていたじゃないか」

「知ってますか? チャンスはピンチなんですよ」

「違いない」

 

 喜知田は満足そうに息を吐いた。激痛を無視し、身体を動かそうともがくが、まったく動かない。まるで自分の身体ではなくなってしまったかのようだ。

 

 せめて、と喜知田を睨みつける。どこかの神話の化け物みたいに、私が睨めば相手が石になったりしないかと期待を込めて、顔を上げた。

 

 喜知田は固まっていた。銃を出そうとしたのか懐に手を突っ込んでいるが、その奇妙な体勢のまま人混みを凝視していた。

 

 何事かと、そちらを向くと坊主頭の男が、私たちのすぐ近くに近づいていた。黒縁眼鏡をかけた、大柄な男だ。そいつが、鬼気迫る表情で私を睨んでいる。彼が右手を真っすぐに伸ばしているのが分かった。

 

「枳殻さん。手を出すな、といったはずですが」

 

 私と少し距離を取るように歩いた喜知田は優しく男に声をかけた。その頬は面白そうに吊り上がっている。全てが予想通りにいった、と喜んでいる顔だ。

 

「ですが! こいつは、こいつだけは私に殺させてください!」

 腰をかがめ、押し込むように私の額に銃口を当ててくる。真っ黒な銃が目に入った。恐怖で、身が固まる

「私の両親を殺した仇だけは、私が!」

 

 こいつは何を言っているんだ、と最初は思った。頭がおかしくなったのか、と心配になるくらいだ。だが、神妙な顔で俯く喜知田を見て全てを察する。きっと、喜知田がまた情報を弄ったのだ。この男の両親を殺したのが私だと、納得できるだけの証拠をでっちあげ、男を騙した。金があればなんだって買える。その通りだ。情報も、人間の心だって買える。

 

「分かりました。残念ですが、任せます」

 非常に残念ですが、と喜知田は繰り返した。感情の抜けた棒読みの声は、余計に私を苛立たせる。

「待て、私はやってない」

「うるさい! 犯人は誰だってそう言うんだ!」

 

 余計な一言が男を刺激してしまったのか、額にあたる銃口の強さが増した。カタカタと震える手を左手で押さえながら、男は引き金に指を掛けた。

「お前のせいで、お前のせいで!」

 

 寒空の青白い空が私を見おろしていた。どうして、こんな目に遭っているんだ。私はお前らのために野菜を取りに行ってたってのに。ただ、もう一度だけ、針妙丸と何の心配もなく話し合いたかった、それだけだったのに。それすら、許されないというのか。

 

 男が大きな声を上げた。掛けられた指が沈んでいくのが見える。彼の悲痛な絶叫をかき消すように、大きな爆発音が青空に溶けていった。

 

 

 爆発音の直後、私は恐る恐る目を開き、まだ生きていることに驚いた。何度も体の痛みを確認するが、新たな痛みはなかった。最初は玉詰まりかと思ったが、違った。

 

「何だよ、これ」

 

 男が呟く声が聞こえる。その目は上空を向いていた。他の人々もみな一様に空を見上げていた。私も、それにならう。そこには、大きな花があった。青空を塗りつぶすかのような赤い色の巨大な花が視界に飛び込んでくる。

 

「花火だ」

 

 大きな音が、もう一度空に響いた。太陽がもう一つ現れたのではないか、と思うほどの光が辺りを包む。誰もが呆然と空を見上げていた。どうやらそれは札を使っている奴も例外では無い様で、身体が自由に動く。痛む体を無視して、何とか立ち上がり、地面を蹴った。必死に足を動かし、路地裏へと進む。魔法って凄いでしょ、と自慢げに話す鶏ガラが思い浮かんだが、すぐにかき消す。逃げる私に気づいたのは、丸刈りの男だけだった。待て、と叫んだが、その声もまたすぐに爆発音にかき消されていく。

 

「ドッキリ大成功ってね」

 

 私の言葉が彼に聞こえたかどうかは分からなかった。

 

 

 

 しばらく路地裏をくねくねと曲がり続けていたが、内臓が傷ついているのか、口から大量の血を吐き出し、その場に座り込んだ。血を出し過ぎたからか、目の前がぼやける。折れた右腕は赤黒くはれ上がり、骨が皮膚を突き破っていた。もはや、痛みすら感じない。

 

 空にはまだ花火があがっていた。どれだけあいつらの注意を引き付けられるか分からないが、綺麗だねー、と和気藹々と鑑賞するほど馬鹿ではないはずだ。のんびりしている暇はない。

 

 立ち上がり、前へ進む。肩を壁に押し付けるようにし、ふらつく足で前に進んだ。肩から溢れた血が壁に赤い線を描いている。これでは、居場所がばれてしまうのではないか、と心配になる。包帯を巻いておけばよかった、と後悔した。

 

 目の前にいきなり人が現れたのは、引きづっている右足をさすっているときだった。一瞬のことに戸惑い、すぐに後ろへ下がる。背を向け、一目散に駆けだそうとするが、身体はいう事を聞かず、気持ちだけが先走る。逃げろ、逃げろと頭の中の信号が騒ぎ立てた。そうだ。私は逃げなければならない。逃げて、生きて、そして喜知田の野郎を殺す。せめてそれくらいは許されるような気がした。何から? この世のしくみから。

 

「ちょっと待って!」

 

 逃げようとする私に難なく追いついた追跡者は、私の腰に抱きついた。勢いに負け、そのまま地面へと叩きつけられる。今日は何回地面とキスをすればいいんだろうか、と苦笑いしていると、その追跡者の顔が見えた。目に涙をためている、子供の顔だ。

 

「あの、その」

 

 私の胸の上に乗ったそいつは、まじまじと私の顔を見つめた。血で汚れた口元に気づいたのか、小さく悲鳴をあげ、飛びのいた。蛙のように地面に這いつくばり、額を地面に擦り付ける。首に紐でくくられた一文がぷらぷらと揺れた。

 

「ごめんなさい。僕のせいで、僕のせいで!」

 

 土下座をする三郎少年を前に、私は乾いた笑いをあげることしかできない。全身には痛覚が戻り、身悶えするほどの痛みが襲うが、意識ははっきりとしていた。驚かせやがって、と笑う。

 

「まったく。お前らは謝るのが大好きだよな、ほんと」

 

 左手をつき、身体を持ち上げる。支えはなくとも歩くことは出来た。さっきよりも、歩みはしっかりしている。もはやふらつくこともない。そのまま、地面にひれ伏している三郎少年へと近づく。

 

「ごめんなさい! その、あの人に泥棒がバレちゃって。そしたら、言う事を聞いたら許してやるって。断ったら、殴られて。お母さんも殴るって言われて。それで」

「ああもう、分かった分かった」

 

 涙と鼻水で顔をぐちゃくちゃにしながら、三郎少年はもう一度、ごめんなさい、と謝った。痣だらけの顔と腕が、彼が何をされたのかを鮮明に語っていた。何故か悔しくて、歯ぎしりをする。

 

「それ、首に掛けてたんだな」

「え?」

「私があげた一文だよ」

「あ、うん」

 少し表情を緩めた三郎少年は、胸の前のそれを両手で掴み、神に祈るような格好で頷いた。

「お守りにしたの」

「そうか」

 

 少年の頭を撫で、涙をぬぐう。お前は何をしているんだ、と声が聞こえた気がした。懐かしい男の声だ。しわがれた、偉そうな声で天邪鬼はそんなに優しい妖怪じゃないだろ? と挑発するように、語尾が上げる。うるせぇ、と叫んだ。蕎麦と同じだ馬鹿野郎、と怒鳴る。

 

「お前は悪くねえよ」

「でも」

「でもじゃねぇ。お前は悪くねえ。悪いのは喜知田ってやつだ」

「でも」

「だから、でもじゃねぇんだって。喜知田だよ、喜知田。悪いのは喜知田。ほれ、言ってみろ」

「わ、悪いのは喜知田」

 

 どこか不満そうに私を見上げる三郎少年をよそに、私はもう一度彼の頭を撫でる。悪いのは喜知田。いい言葉だな、と思った。

 

「そんなに私に負い目を感じているなら、お前の家へ案内してくれよ。少し、休みたいんだ」

 

 私の言葉を聞いた途端、三郎少年は顔を輝かせた。こっち、と元気に指を刺し、私に気を使うようにゆっくりと歩きはじめる。単純で、いい奴だ。

 

 小さな三郎少年を見つめる。そこで、彼の頭に血がついている事に気がついた。私の血が、撫でた時についてしまったのだ。

 

 ただ、それだけであるはずなのに、私は黒い髪についた赤い色の液体から目を離すことができない。言いようもない不安に襲われ、嗚咽を漏らしそうになる。もしかして。もしかしてこいつは、私と関わったばかりにこんな目にあったのか。あの日、たまたま私と会ったから、全身痣まみれになるまで、殴られたのか。違う、とすぐに否定する。そんなはずはない。どちらにせよ、三郎少年は殴られていたはずだ。

 

 本当にそうか? お前のせいじゃないのか? そう声が聞こえる。今度は彼の声ではない。誰の声でも無かった。本当にそうなのか。私のせいなのか。お前と一緒にいると、水の泡になってしまう。

 

 本当に、そうだったのか。

 

 

「ただいまー」

 

 少し小さな声で、三郎少年は扉を開いた。かけるように部屋へと入っていく。私も後に続いた。

 

 部屋の様子は前来た時と変わっていなかった。もしかすると、さっきの男たちに荒らされてないかと、心配していたが、杞憂だったようだ。

 

 部屋の真ん中に敷かれている布団に、母親が眠っていた。寝相が悪いのか、右手を中途半端に上げたまま、安らかな顔をしている。

 

「お母さん、最近よく寝てるんだ」だから、うるさくしちゃだめだよ、と口元で人差し指を立てた。

「そうか」

 

 靴を脱ごうとして、慧音の家に置きっぱなしだったことを思い出した。足の裏を見ると、砂でこすれたのか、血まみれになっている。部屋に足を付けないように、膝立ちになって布団に近づいた。そして、はっとする。絶望にも似た恐怖が胸に流れ込んだ。

 

「少年、頼みがあるんだが」

「ん、何?」

「少し、外を見張っていてくれないか。誰か来ても、何もしなくていい。ただ立っていてくれ」

「よく分かんないけど、分かった!」

 

 とたとたと去っていく三郎少年に、小さくよろしくと声をかけた。分かっているのか、分かっていないのかどっちなんだ、と軽口をいう元気すら私には残っていない。

 

 母親が寝ている布団を引き寄せ、彼女の額を撫でる。さらさらとした髪が手に纏わり付いた。それでも、彼女は起きない。奇妙な形で固まっている手を胸の前へと動かし、そのまま心臓に左手を置いた。人間とは思えないほどに冷たく、硬い。鼓動はしていなかった。

 

「どうして」

 

 すがるような気持ちで、手首をつかむ。ぷらりと力なく垂れた手は、青白く変色し、爪の隙間からは蛆が湧いている。必死になって肩をゆするも、首が激しく揺れるだけで、返事はない。

 

「どうしてだよ」

 

 何でこんなことになってんだよ。あいつはどうするんだ。お前が育てずに、あの罪を背負った少年はどうするんだ。そう喚くも、彼女は当然目が覚まさない。

 

「なんだってんだよ!」

 

 彼女の肌に水滴が垂れた。私の涙だ。それが彼女の目へと垂れていき、まつ毛にしみ込んでいく。だが、そこから生命が蘇るなんて奇跡は当然なく、そのまま水滴は頬へと落ちていった。

 

 なんで彼女が死ななきゃならない。どうして。おかしいじゃないか! 彼女が何をしたっていうんだ。私が何をしたって言うんだ。何で私の周りでこんな事ばかり起きるんだ。私はただ人里に野菜を持ってきただけじゃないか。少しでもこいつらの役にたてればと、必死に天邪鬼の自分を騙したのに、なのに! 

 

「なんで、こんな目に遭うんだ」

 

 物音一つしないボロ屋に私の声は吸い込まれていく。私には、資格が無いのか。幸せになる資格が無いのか。ああ、神様と願わずにはいられない。この結末はあまりにも理不尽すぎやしないか。釣り合いが取れない。

 

「いいか、人ってのは本当に必要なときは自分で行動しないといけないんだ」彼の言葉が頭に響く。「人に頼るのも当然駄目だが、神様なんてもっと駄目だ。いいか、覚えておけよ。神は何もしてくれないんだ。期待するな。自分でやれ」

 

 そうだ。神なんて当てにならない。こんな理不尽は認められない。なら、私がどうにかするしかない。自分でやるしかない。手段なんて、もう選んでられないんだ。

 

「正邪お姉ちゃん。お腹空いた」

 

 呑気な顔で、三郎少年が帰ってきた。痣だらけの顔を輝かせて、無邪気にトマト以外なら何でもいいかな、と笑う。

 

 そんな彼に顔を見せないように、私は「お母さんが寝てるから、静かにしろよ」という事しかできなかった。


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