天邪鬼の下克上   作:ptagoon

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悲劇と喜劇

――白沢――

 

「いったい何が起こっているんだ」

 

 誰に聞くでもなく、自然と私の口からはそんな言葉が零れ出た。だが、それも仕方がないだろう。どうして寺子屋に帰ったら、射命丸の探していた少年が正邪に包丁を向けているのか、そもそも彼女たちは知り合いなのか、何一つ分からなかった。ただ、一つ言えることとすれば、かなりまずい状況ということだ。

 

 焦る頭をなんとか落ち着かせようとするも、考えれば考えるほど混乱していく。ただ、そんな混乱した状態でも、一つの解決法が思い浮かんだ。それは、驚くほど単純で、だからこそ混沌としたこの状況では有効に思えた。

 

 その解決法とは何か。目の前の小さな少年を、力づくで取り押さえる。ただ、それだけだ。いくら包丁を持っていようが、流石に半獣の私であれば、労せず取り押さえることができるはずだ。その後で、何があったかを問いただし、反省させよう。そう思い付いた。

 

 姿勢を低くし、タイミングを見計らう。正邪と少年の間に向かって飛び出し、後は包丁を叩き落すだけ。そこまで難しくはない。少年が、大きく息を吐いた瞬間、私は地面を蹴ろうと、足に力を入れた。が、そこで思わぬ邪魔が入った。

 

「止めてくれ、慧音」

 その少年の向かい側にたっている正邪が、軽口をたたくように私を止めたのだ。

「お前の出る幕はねぇよ。こんなガキ相手に本気になるなっての」

「だが!」

「うるせぇな。私がこんな子供相手に後れを取る訳ないだろ?」

 

 耳を小指でほじりながら、正邪は私に向けて舌を出した。一切の怯えも見せず、生意気にふふんと鼻を鳴らしてさえいる。どうしてそんなに余裕なのか分からない。

 

 歯ぎしりをし、正邪の言葉を無視して飛びこもうとしていると、隣にいた妹紅が肩にそっと手を置いてきた。振り返ると、目を閉じたまま、首を横に振っている。

 

「たぶん、私たちは介入しちゃいけない。正邪の問題だ」

「でも」

「大丈夫だ。さすがの正邪も子供一人に負けたりしない」

 

 力強く頷き、大丈夫だ、と再び口にした妹紅は、自分に納得させるように「そうだろ?」と私に訊いてきた。

「そうだな」

 

 私も大きく首を縦に振る。正直に言えば、あの妖精にすら負ける正邪が、いくら子供とはいえ刃物を持った相手に無事で済むとは思い辛かった。だけど、大丈夫だと、そう信じるしかない。

 

「それで? もう怪我は平気なのか、三郎」

「ごめんなさい」

「謝ってちゃ分かんねぇっての」

 

 正邪に声をかけられた少年は、分かりやすく動揺していた。顔は真っ白で、涙でぐちゃぐちゃになっている。来ている服も、正邪と同様酷い有様だった。その、破けた服の隙間から、青い痣が見え隠れしている。そんな痣を隠そうともせず、少年は正邪と対峙し、身体を震わせていた。

 

「それで? なんだその包丁は。もしかしてあれか? 私に対する謝罪の粗品か? 残念だが私の怪我はもう完治したんだ。そんなもんいらねぇよ」

「ほんとうに、ごめんなさい」

 

 はぁ、とため息を吐き、肩をすくめた正邪はじれったそうに頭をかいた。寺子屋で子供の面倒を見ている私を見直したのか「慧音も大変だったんだな」と感慨深そうに眉を下げている。が、私からすれば、今の正邪の方がよっぽど大変だ。

 

「お前の口は謝るためにあるのか? 違うだろ? いいから、なんでそんなプレゼントを持って私に会いに来たか教えろよ。トマト食わせるぞ」

 

 正邪の言葉にびくり、と体を振るわせた少年は、唇を震わせて、所々言葉を詰まらせながらも、なんとか口を開いた。

 

「あのね、あの。お母さんがね」

「ああ」

「おかあさんが、死んじゃったんだ」

 

 頬から流れ落ちる涙の粒が大きくなった。鼻をすすり、歯をカタカタと震わせながらも、手に持った包丁の切っ先は真っすぐに正邪に向けられている。

 

「正邪お姉ちゃんが出ていったあともね、おかあさん目を覚まさなかったんだ」

 

 それでね、と続ける少年は口調こそ幼く、可愛らしいものだが、涙で枯れた声と、薄暗い雰囲気は背筋をぞっとさせるものだった。

 

「それでね、きっと僕が頑張れば、起きてくれると思ったんだ。だから、部屋を掃除したり、おかゆを作ってみたり、落ちているたべものを探しに行ったりしたんだけど」

「その話はもういい」

「だけどね、全然おかあさん起きなくて」

 

 私と妹紅は、少年の話に聞き入っていた。あまりにひどい現実に、目を覆いたくなる悲劇に、吸い込まれるようにただ立って聞いていた。何かがあればいつでも動けるようにと、そう準備していたはずなのに、いつの間にか体重をどっしりと後ろに置いていた。ただ、正邪だけが違った。正邪は、少年が一言一言発するたびに、頭を抱え、目を見開き、唇をかみしめている。よくは聞こえなかったが、水の泡だと小さく呟いていた。

 

「おかあさん、てっきり怒ってるかと思って、謝ったけど起きなくて。だから、起きてって体を揺すったの、そしたら!」

 

 感極まった少年は大声を出して、言葉を詰まらせた。少し腰をかがめ、包丁を持った手を腰にまで引いている。

 

「そしたらね、首がガクガクして、変な風になっちゃったの。口から芋虫が出てきてね。びっくりして手を離したら、バタンって布団に倒れてね」

 

 そこで少年は、その当時の状況を思い出したのか、口元を左手で抑えた。嗚咽に混じって、込み上げてくる吐き気を必死に我慢しているようだ。心配だったのか、正邪が少年に駆け寄っていく。彼が包丁を持っているにも関わらず、気にした様子もなく背中をさすっていた。

 

 しばらく口元を抑え、うずくまっていた少年だったが、収まったのか、また顔を上げた。正邪とは目を合わせず、ただ包丁を見て、呪いのようにぽつぽつと言葉を零し始める。

 

「倒れた拍子に、お母さんの首が取れちゃって、そこから芋虫がもっと出てきて、慌てて部屋から飛び出したの。そうしたら、外には人が集まってきてて、臭い臭いって文句を言って部屋に入っていったの。そしたら、死んでるってみんなが騒ぎ初めて、こわくて。逃げちゃって。そのとき初めておかあさんが死んだって分かって。どうしたらいいか分からなくて」

「もういいんだ。言わなくていい」

「おかあさんもおとうさんも死んじゃった」

「大丈夫だ、私は死なない」

 

 眉間を、これでもかと顰めた正邪は、三郎少年をきつく抱きしめ、背中をさすっていた。その目には光が灯っていない。少年よりも深い絶望に囚われていると言われても、納得してしまうほどだ。

 

「なあ慧音」

 そんな中、突然妹紅が声をかけてきたので、私はかなり驚いた。

「これ、どっかで射命丸が隠れていたりしないか」

 

 だとすれば面倒だ、と辺りを見渡している妹紅は、私とは違いまだ冷静だった。未だ包丁を離していない少年に注意しつつ、神経をとがらせている。

 

「あいつは霧の湖に向かったから、その心配はないよ」

「そうか」

 安心したわけではないだろうが、ふぅと息を漏らした妹紅は、それにしても、と私の耳に顔を近寄せた。

「正邪とあの少年はどういう関係なんだ」

「さあな。ただ、正邪とあそこまで踏み込んだ関係を持っているのは、あと針妙丸ぐらいだ」

 

 だから、それって誰だよ、と恨めしげに見てくる妹紅だったが、少年が口を開いた途端、反射的に意識をそちらへ戻した。慌てて私も正邪と少年を見やる。少年はまだ泣いていた。正邪はもう笑っていた。だが、はたから見て、正邪の方が悲しい顔に見えるのは何故だろうか。

 

「でも、やっぱりおかあさんにもう一回会いたいの。あって、謝りたい」

「これ以上謝るのかよ」少年の言葉に苦々しく口を歪めた正邪は、心底辛そうに首を振った。

「でも、それは無理だ」

「どうして」

「死んだ人間は生き返らない。絶対にだ」

「ごめんなさい」

 

 その時、少年の目の色が変わった。悲しみと絶望に濡れた黒色の瞳は、使命感と自己暗示に満ちた漆黒へと落ちていく。鳥肌が立ち、頭の中の信号が自動的に全て赤色になった。発作的に正邪の元へと駆けだす。

 

「正邪お姉ちゃんごめんなさい」

 

 最初は、それが何の音かは分からなかった。ザンと鈍い音が、決して大きな音で無かったにも関わらず、嫌に耳にこびり付いた。背中に冷たい汗が流れる。

 

 少年を抱きしめていた正邪の腕が緩んだ。そのまま、ゆっくりと後ろへ下がっていく。最初は、彼女も何が起きたか理解していないようだった。だが、自分の腹を見た途端、彼女は目を丸くした。糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ち、白い顔を粘り気のある液体で赤くなった手で覆っている。

 

 少年が正邪の腹に包丁を刺した。頭ではそう理解したものの、どうしてこんなことになったのか、何一つ理解できていない。頭をぐるぐると回転させている内に、いつの間にか少年の前に立っていた。当の少年は、私が目の前に立っているにも関わらず、倒れ込んだ正邪の方を呆然と見つめている。そして、自分の手についた赤い液体を見て、大声で叫んだ。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。なんでこんなことを。一体どこでまちがえちゃったんだろう」

 

 正気に戻ったのか、それとも発狂したのか、手にこびり付いたものをこすり、とれないとれないよ、と虚ろな目で呟いている。

 

 どうしてこんなことをしたんだ、そう少年に怒鳴りつけたいのは山々だったが、今はそれどころじゃない。正邪は無事か。それだけが気がかりだった。

 

「謝んじゃねぇよ。馬鹿野郎」

 

 後ろから、絞り出すような正邪の声が聞こえた。心配そうに手を差し伸べている妹紅を退け、自分の足で立ち上がっていた。腹に刺さった包丁を右手で掴み、大きく息を吐く。そして、目を瞑ったかと思うと、一息に引き抜いた。ぽたぽたと音がし、彼女の足元に赤色の水たまりができる。

 

「正邪!」

「大丈夫だってのに。焦んなよ慧音」

 

 顔を真っ青にしながら、気丈に笑った彼女は、自分の服の中に手を突っ込んだ。唖然とする私たちを前に、ごそごそと何かを手探りで探し、取り出した。ぶらぶらとそれを得意げに揺すり、人を食ったかのような不敵な笑みを浮かべている。

 

「言ったろ? ケチャップは盾代わりになるんだよ」

 

 

 

 

 

 

「正邪おねえちゃん!」

 私の脇を通り過ぎ、少年が勢いよく正邪へと飛び込んでいった。よろけながらも、何とか少年を受け止めた正邪は、だから言ったじゃねえか、と少年の頭を撫でた。

 

「私は死なねぇよ」

「ごめんなさい」

「だから謝んなって」

 

 二人とも、体中を赤く濡らしていながらも、絵の具を使って遊んだ子供の様に無邪気に戯れていた。私は心底安堵し、気が抜けたせいか、柄にもなく妹紅へ走り寄って行き、肩を組んだ。一瞬ぎょっとした妹紅だったが、すぐに表情を緩め、同じように肩に手を回してくる。

 

「何だかよく分からんが、無事に解決したみたいだな」

「本当に何だかよく分からなかったけどな」

 

 おいおいと泣き続ける少年を宥めている正邪は、温かい目で見ている私たちに気づいたのか、ぴくりと眉を動かした。何か込み上げてくるものを飲み込むように口を固く結び、すぐに解く。そして、ゆっくりと語りだした。

 

「私とこいつは単なる知り合いだよ」

「にしては仲が良すぎないか?」妹紅がケラケラと笑いながら言った。彼女も緊張の糸が切れたからか、どこかだらりとしている。

「知らねぇよ。勝手に懐かれたんだ」

「でも、なら」

 

 私は少年の絶望的な顔を思い出した。正邪に包丁を刺した後の、あの真っ白な顔だ。

 

「ならなんで包丁で刺したんだよ」

「さあな」

「さあなって」

「不倫でもしたからかしら?」つまらなそうに真顔でそう言った正邪は抱きついてくる少年を引き剥がし、よっこらしょと床に座り込んだ。

「だがな、今日、こいつは偽物の包丁で私を脅かしに来た。ただそれだけなんだよ」

「何を言って」

「そういうことにしてくれ」

 

 そういうことにできるだろ、と呟く正邪の言葉には、これ以上ない説得力があった。彼女は既に二度“そういうこと”の影響を強く受けている。一度目は、夫婦殺害の罪を被り、二度目は、野菜泥棒の罪を被った。ただ、今回の件に限って言えば、目撃しているのは私と妹紅だけだ。だったら、何の問題もない。そもそも何も無かったことにするからだ。

 

「なあ、少年」少し泣き止み始めた少年に、妹紅は声をかけた。正邪の後ろに隠れながらも、しっかりと妹紅の方を向いた少年は「なに?」と可愛らしい声を出した。返事ができてえらいぞ、と笑ってみせる。

「なんで正邪を包丁で刺そうとしたんだ?」

 

 正邪の袖をぎゅっと掴み、顔を強張らせた少年は、おさまり始めていた涙をまた目にためだした。だが、心を決めたのか、強く頷きゆっくりと口を開いた。私はまた、えらいぞ、と相打ちを入れる。

 

「おかあさんを生き返らせたくて」

「はい?」素っ頓狂な声を出した妹紅は、聞き間違いだと思ったのか、私に向かって首を傾げた。「いま、なんていった?」

「死んだおかあさんを生き返らせたくてって言った」

 

 おっかなびっくりといった調子で話す少年は、自分の行いを反省しているのか、ごめんね正邪おねえちゃんと声を震わせていた。

 

 残念なことに、私も妹紅も少年の言葉の意味が理解できなかった。目をぱちくりとさせ、どうして正邪を刺せば彼の母親が生き返るのか、と真面目に考えていたが、分からないものは分からない。

 

「どうして正邪を刺せば、おかあさんが生き返ると思ったのかな?」

 

 極力おびえさせないように、目線を下げてゆっくりと言った。それでも少年はびくりと体を震わせ、その場にうずくまる。だが、ぽつりぽつりとひねり出すように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「約束したの」

「約束?」

「正邪お姉ちゃんを刺せば、おかあさんを生き返らせてくれるって」

 

 馬鹿げている。傷心した子供の隙につき込み、そんな物騒なことを頼むような奴が、人里にいるという事実自体が信じられなかった。怒りのあまり、唇が震えたが、それでも私は笑顔を崩さず、少年に声をかけた。

 

「誰に言われたの?」

「男の人」

 

 男の人。あまりにも範囲が広すぎて特定できない。正邪に恨みをもつ男の人。このように考えても結果は同じだ。逆に、村人の中で正邪に好印象を抱いているような人はいない。

 

「どうして、それを信じようと思ったんだ?」いつになく不躾に、妹紅が訊いた。

「ふつう、そんな嘘信じないだろ」

「持ってたの」

「持ってたって、何を」

「何でも願いが叶う魔法の道具」

 

 少年の言葉を訊いた正邪は、愉快そうに歯を見せた。フフと肺から直接息を吐き出すようにし、馬鹿だな、と少年の頭を撫でている。

 

「何でも願いが叶う魔法の道具なんて、都合のいいものある訳ないだろ」

 

 眉を下げながら、変な笑い方をする正邪を尻目に、私と妹紅は戦慄していた。何でも願いが叶う魔法の道具に、一つだけ心当たりがあるからだ。

 

「なあ、それって打ち出の小槌のことか」恐る恐る妹紅が訊ねる。

「そうだよ、知ってるの?」

「打ち出の小槌なんて、実在するわけないだろ」

 

 正邪が、馬鹿にするように鼻を鳴らした。身をよじらせ、笑っている。

 

「実はあるんだ」切ない笑みを浮かべる正邪を窘めようと、真剣な顔をしている妹紅を手で制し、正邪に向かい合う。正邪に白を切った様子はなかったし、彼女の嘘を見抜けないほど私は節穴ではない。が、一応確認しておきたかった。

 

「正邪、お前妹紅に紅魔館に連れてかれたんだったよな」

「ああ、鶏ガラに怪我を治しにもらいにな。つっても、意識がなくてほとんど覚えてないが。ああ、ケチャップはそこで貰った」

「その後は」

 

 はぁ? と不服そうな顔をした彼女だったが、真面目な私たちの雰囲気に気圧されたのか、ぶつぶつと呟くように答えた。

 

「知ってるだろ。人里に草履を取りに来たんだよ。そしたら、阿保みたいに殴られて、お前らがいる甘味屋に突っ込んだんだ」

「針妙丸には会ってないのか」

「なんであいつに会わなきゃならねぇんだよ」

 

 つまらなそうにそう吐き捨てた彼女は、もう人里には戻らねえから、針妙丸とも会う事ねえよ、と自嘲気味に笑った。

 

 正邪は、小槌のことを本当に知らない。だとすれば、少年の言った事は事実だろう。そうなると、少年にそんなことを唆したのは誰なんだ。そいつのことを思うと頭が沸騰する。ふつふつと怒りが湧き、居ても立っても居られなくなった。

 

「誰が持っていた!」

 

 私は考えるよりも早く少年に詰め寄っていた。肩を掴み、強引に揺する。

「なあ、男の人ってどんな人だったか覚えているか。髪型は? 年齢は? どんな背格好だ。教えてくれ!」

「慧音、落ち着け」

 

 ガツンと首に衝撃が走り、目の前に妹紅の顔が現れる。少年から引き剥がすように私を引っ張り、もう一度落ち着け、と強い口調で言った。

 

「そんなんじゃ、答えられないだろう」

「あ、ああ。すまない」

 

 頭に昇っていた血が少しずつ冷えていく。これでは駄目だ、と額に手を置いた。常に冷静でいなければ、人里の守護者は務まらない。そんなことすら忘れていた。

 

「あ、あの」私の言葉に面食らったのか、おろおろとしていた少年だったが、はっきりとした口調で「白髪の太った人でした」と私たちに向かい言った。

「あと、高そうな着物を着て、周りに怖い人を引き連れていました」

 

 胸が押し潰されるような感覚に襲われた。目の前が真っ暗になり、世界中から自分が責められているように後悔が押し寄せてくる。白髪で、太っていて、護衛を連れている人間。そんな奴は、一人しか心当たりがいなかった。

 

「喜知田か」

 気づけば、口からそう言葉が出ていた。座っていた正邪が立ち上がり、目をまん丸にしている。

 

『最近思ったんですよ。物は使いようなんだなって』

 頭の中で、喜知田の言葉が再生された。彼の口元がぽぅと画面に映り、それを私は眺めている。そんな気分だった。

『多くの馬を動かすのには人参一本でいい、っていうじゃないですか。仕事をこなせば、これを食わせてやる、とお願いする。それをたくさんの馬に行うんですよ』

 

 まさか。まさか喜知田は。打ち出の小槌を使って、願いを叶えてやると嘘をついて、こんな年端もいかない少年を騙したのか。正邪を殺させようとしたのか。嘘だろ。私は喜知田のことなんて何も知らない。ただ、こんな非情なことをするような子ではなかったと、そう思っていた。思い込んでいた。なぜ、どうして。

 

 そこでふと、記憶の重箱から中身が零れ落ちるかのようにして、数十分前の光景が頭に浮かんだ。射命丸と共に、針妙丸の家に向かっている途中で、後ろから喜知田に声をかけられた場面だ。なぜ、あんなところに彼はいたのか。後ろから声をかけてきたということは、私たちの先に用があったということだろう。私たちの進行方向にあるもの。そんなもの、一つしかなかった。

 

「針妙丸が危ない!」

 

 正邪の顔が、本当の鬼ように恐ろしい顔になっているのが、私には分かった。

 

 

 

 

――魔女――

 

 河童の置き土産がさく裂した図書館には、まだ僅かに紫煙が漂っていた。火薬の焦げ臭いにおいが充満し、とても図書館に相応しい雰囲気ではなくなっている。だが、そんなことすら気にならないほどに、私は作業に没頭していた。打ち出の小槌という秘宝の道具を、レプリカとはいえ作り上げる。それほど難しくはないが、胸が高鳴った。いつもよりも凝って、極細部にもこだわろうと決意していた。

 

「なあ、鶏ガラ」

 

 そんな集中した私に水を差すように正邪が声をかけてくる。しばらくは河童に対する恨みつらみを吐露していたが、吹っ切れたのか、それとも落ち着かないのか、私をじっと見つめていた。

 

「何よ、私は今いそがしいのよ」

「お前が言っていた鬼の世界ってどんなところだ?」

「人の話を聞きなさいよ」

 

 写真という平面をもとに、立体を想像する。頭の中に蓄積された打ち出の小槌の情報を引っ張り出し、全体像を組み立て、それに対応する術式を組む。確かに多少難解な作業ではあるが、会話をしながらもできる範囲ではあった。忙しいと言ったのは単純に、正邪と会話するのが面倒になってきただけだ。

 

「小槌の代償ってので鬼の世界に連れてかれるんだろ? もしかすると、以外にその鬼の世界とやらは快適だったりしねぇのか?」

「する訳ないでしょ」

 

 だよな、とため息を吐く正邪は、本当にそう思ったわけでは無いらしく、希望的に私に訊いてきただけのようだった。それにしても、楽天的過ぎるが。

 

「諦めなさい。小人はただの道具なんでしょ? 全てを救おうとするのはただの傲慢よ」

「分かってるよ。ただ、一応知っておきたいじゃねえか」

 

 優しいのか、それとも臆病なのか。机にだらりと顔を付けた正邪は、教えろよ、と懲りずにまた訊いてきた。呆れて、息が漏れる。だが、こうなった彼女は質問に答えない限りネチネチと訊いてくるのは分かっていた。また、息が漏れる。

 

「例えば、そこは何もない世界なのかもしれない」

「何もない? 鬼の世界なのに鬼もいないのか」

「そう。誰もいないし、何もない。光もなく真っ暗で、時間すらない。死ぬことすらできず、永遠にそこで漂い続けるの」

「そんな場所があるのか」

「例えばよ」

「例えばにしては、随分と具体的だな」

「まあ、実際にそういう場所があるってのは知っているわ。それが鬼の世界かどうかは知らないけど」

「まるで地獄みたいだな」

「馬鹿ね。地獄なんかよりよっぽど地獄よ」

 

 そうか、と呟く正邪の顔には生気がなかった。今更になって怖気づいたのかもしれない。だが、こればかりはどうしようもないのだ。憐れな小人の辿るべき運命としか言いようがない。関われば、私たちですら無事でいられるか分からないのだ。

 

 そうこうしている内に、着々とレプリカは完成に近づきつつあった。設計図は既に頭の中で完成している。後はそれを元に術式を整え、魔力を籠めるだけだ。手元にある魔導書をペラペラと捲り、案の定探していたページのところで綺麗に開いたので、早速作業に取り掛かろうとする。と、そこで正邪がまたもや口を挟んだ。

 

「レプリカ、もうそろそろ出来そうか?」

「誰かさんが話しかけてくるから遅れたけれど、あと少しよ」

「なあ、鶏ガラ」気まずそうにそっぽを向きながら、正邪は頬をポリポリとかいた。

「お前、私にとって、見た目だけ完全に同じで、性質がまったく異なるものを作る事なんて、朝飯前なの、ってムカつく顔で言ってたよな」

「ムカつく顔ではなかったけれど、確かに言ったわね」

「ならよ」

 

 ガタリと乱暴に席を立った正邪は、あー、と間の抜けた声を出し、一つお願いがあるんだが、と小さく呟いた。

 

「そのレプリカに魔法を付け加えて欲しいんだ」

「なに? 振れば花火が打ち上がったり?」

「違げえよ。どんだけ花火が好きなんだ」

 

 じっとしていられないのか、ぐるぐると同じ場所を回り、口元を手で覆っていた。草履が床に擦れ、ずりずりと音を立てている。その、正邪の煮え切らない仕草がじれったく、私はつい、早くしなさいよ、と語気を強めてしまった。あと少しでレプリカが完成するという時に作業を中断させられていて、やきもきしていたのだ。

 

「あの、だな」

「なによ」

 意を決したのか、私の方を真っすぐに見た正邪は大きく息を吸い込んだ。

「痛いの痛いの飛んでい毛」

「はい?」

「だから、痛いの痛いの飛んでい毛の魔法を、レプリカにつけて欲しいんだ」

 

 予想外の願いに、私は呆気に取られていた。馬鹿なことを言うな、と憤る気持ちよりも、なぜそんな魔法を頼むのか、疑問だった。ただ、いずれにせよ褒められたことではない。

 

「止めといた方がいいんじゃないかしら?」

「どうしてだ」

 むっとした表情を隠そうともせずに、正邪は指を突きつけた。

「難しいってわけじゃないだろ」

「確かに難しくはないけれど、問題はあるのよ」

「問題って何だよ」

「あなたよ」

「はあ?」

 

 目を三角にしてこちらを睨む正邪に対し、私はわざとらしく肩をすくめた。いったい彼女は何を考えているのだろうか。どうせ碌でもないことだろう。

 

「魔法を使う側に問題があるって言ってるのよ。もしかすると、あなたは自分の怪我を他の誰かに移そうと考えているのかもしれないけれど、そう上手くはいかないわ」

「なんでだ」

「この魔法は、同時に決められた言葉を言わなければならないの。レミィの時もそうだったでしょ? あなたが急に一緒に声を合わせて叫びましょう、だなんて言われても誰も相手にしないわよ」

「なあ、鶏ガラ。一緒に叫ばないか?」

「嫌よ」

 

 ふん、と鼻を鳴らした正邪は、なぜか自慢げな笑みを浮かべて椅子に腰を落とした。怪訝な表情をする私を見つめ、にやにやと笑っている。

 

「それでも大丈夫だ。四の五の言わずにやってくれ」

「ほんとに、碌でもないわね」

「ってことは三か?」

 

 何が面白いのか、腹を抱えだした正邪は、よろしくな、と無責任に私に告げた。少しの困惑と、多大な苛立ちが胸をかき乱すが、深呼吸をして、なんとか落ち着く。

 

「分かったわよ、やればいいのね、やれば」

「ああ、そうだ」

 

 礼の一つもよこさない正邪に、怒りどころか笑いが込み上げてくる。が、それでいい、と同時に思った。鬼人正邪はこれでいい。不遜で、人を馬鹿にする態度を常にとる、嫌な奴。それでいて、どこか放っておけない不器用で優しい捻くれもの。そんな彼女のことを、私は存外気に入っていた。

 

 早速、くみ上げた術式に変更を加え始める。本当に大丈夫なのか。少しの不安が首をもたげた。正邪が何を企んでいるか知らないが、あの弱小妖怪にできることなど、高が知れている。きっと、たいしたことにはならないだろう。そう自己弁護しながら、魔導書に手を掲げる。

 

「あっ、そういえば」

「何だ」

「いえ、さっき、魔法を発動するには同時に特定の言葉を叫ばなければならないと言ったけれど、何がいいかしら?」

「あ、ああ」

 

 どうしようか、と首を傾げた正邪は、腕を組み熟考し始めた。そんなに悩まなくてもいいのに、と声をかけるも返事は返ってこない。これは、意外に長期戦になるかもしれない、と思っていると、彼女は手を叩き、その言葉を私に告げた。

 

 あまりにも彼女らしい言葉に苦笑いしつつも、その通り術式に入れる。そして、魔導書に意識を集中させた。頭の中から、余計な情報が一切消え去っていく。ただ、目の前の魔導書と、レプリカの術式。それだけを考える。本の中から、湧水がふき出すように、光が漏れる。目を閉じているにもかかわらず、視界が明るくなった。加える魔力を更に増やす。すると、カチリと頭の中で何かがはまった感触がし、魔導書を持つ手に更なる重みが加わった。明るくなった視界が徐々に戻っていく。

 

 期待と、ほんの僅かな不安を胸に抱きつつ、ゆっくりと目を開く。私の手の上には、想像した通りの小槌が乗っかっていた。思わず、やった、と声が零れた。正邪に聞かれてないか心配になり、彼女の方を見やる。正邪は、レプリカを見て、片頬を上げていた。眉を下げ、これでいいんだ、と卑屈な笑みをみせている。どうやら聞かれては無かったようだ。

 

「どう? ご期待に添えるできかしら?」

「ああ、完ぺきだ」

 

 目を見開きながら、一歩一歩踏みしめるようにして私に近づいてくる。魔導書の上に乗っかっているレプリカを恐る恐る手を取ると、舐めまわすようにそれを見つめていた。

 

「やっぱ、魔法はすげえな」

「そうでしょ」

 

 鼻を高くし、自慢げに胸を張る。正邪はよっぽど気に入ったのか、これでいいんだ、と幾度も繰り返していた。

 

 私は達成感と疲労で浮ついていた。椅子に深く腰掛け、声にもならない声を出す。そんな私と対照的に、正邪はぎくしゃくとした動きで、図書館の扉の前へと歩いていった。

 

「それなら、ちょっとばかし行ってくるよ」

「行ってくるって、何しに」

「そりゃあ下克上に決まってるじゃないか」

「あら? もう小槌に願ったなら、下克上は始まっているんじゃないの?」

「願わねえよ」 

 

 じゃあな、と言い残し、例によって礼も言わずに正邪は去っていった。行ってしまえば呆気ないもので、あんなに騒がしかった図書館も一瞬で、静かになる。心の中に、何かもやもやとした感情が芽生えた。寂しさと、そして不安だ。正邪に何か、よくないことが起こるのではないか、と心配だった。なぜ、そこまで正邪に自分は肩入れしているのか。そう客観的に確認するほどには、気に病んでいる。

 

 彼女の、レプリカにかけた魔法を発動する際の言葉を思い出す。何度聞いても、彼女らしく、愚かで小物らしい言葉だ。

 

「すべてをひっくり返せますように、か」

 

 しんとした図書館に染み渡った私の声は、不安をより膨らませていった。

 

 

――天邪鬼――

 

「みんな行っちゃったね」

「そうだな」

 

 それでは、各自巫女に喧嘩を吹っ掛けるように! と何とも物騒な号令の下に、付喪神と小魚は勢いよく輝針城から飛び出していった。

 

 あれだけ賑やかだったここも、しんと静まり返り、壁際に置かれている白い光を発する提灯の、じりじりという音だけが部屋を覆っている。その静けさが、私を責め立てていた。覚悟をしたのだろう? 巫女が来る前に言わなければならないじゃないか。諦めろ。そう頭の中で声が響く。

 

「そろそろ下克上の山場ってところだね」

「山場なんて言葉よく知ってたな」

 

 私は馬鹿にするつもりで言ったのだが、針妙丸は褒められたと思ったようで、えっへんと胸を張った。

 

「たぶんだけど、巫女とたたかって、勝てば下克上は大きく進むと思うんだ」

「勝てると思っているのか?」

 

 ふんふんと鼻歌を歌っている針妙丸に対し、私はつい、責めるような口調になってしまっていた。いくら小槌の力で体が大きくなっているとはいえ、あの針妙丸が巫女と戦う、ましてや勝つことなど不可能だ。むしろ、そうでなくては困る。

 

「正直に言えば、私は勝てないと思う」

「え、そうなのか?」

「うん。よっぽど運がないと無理だよ。だって、あのけいね先生でも勝てないっていってたもん」

 

 意外だった。無鉄砲ではしゃいでばかりいる彼女が、純粋に巫女と自分との力量差を見極めることができるとは思いもしなかった。負けるわけないじゃん! と怒り狂うと思っていた。

 

「巫女に勝てる見込みはないってか」

「面白くないよ、それ。わたしはね、巫女に伝えたいんだ」

「伝えたい? 何を」

「弱者の気持ちだよ」

 

 どこか遠い目で彼方を見つめた針妙丸は、眉を下げ、力なく笑った。身長が大きくなったからか、その表情はどこか憂を帯びていて、色気づいている。そんな彼女を見て、私は愕然としていた。彼女は、平和で穏やかな世界で生きていると、私はそう思い込んでいた。いや、そうでなくてはならないとすら考えていた。が、そんな彼女ですら、弱者でいる苦しみを、逃れられようもない理不尽を感じていたというのか。いったいなぜ。答えは明確だった。私のせいだ。

 

 落ち着かない心を誤魔化すように、畳に置かれていた布を掴む。九十九姉妹が餞別にくれた、青い布だ。非常に薄く、寒さを防ぐことすら出来そうになかった。懐に入れるため、小さく折りたたむ。ふわりと、嗅ぎなれた匂いが鼻についた。紅茶とインクの混じった匂いだ。どうして、鶏ガラの匂いがするのか、と疑問に思ったが、すぐにそれどころではなくなった。布にくるまっていた手が、見えなくなったのだ。透明になったといってもいい。慌てて手を布からだし、無理矢理懐に突っ込んだ。その時に、隠している物が針妙丸にバレていないかと不安になったが、気づかれた様子はない。

 

「それで、弱者の気持ちを伝えたいって、どういうことだよ」

 誤魔化すように、早口でそう尋ねた。

「きっとね、強者は弱者の気持ちなんて考えたこともないと思うの。だから、もしわたしが負けても、そのきっかけになればいいかなって思ったり」

「馬鹿じゃねぇの」

「も、もちろん勝つ気ではいるよ!」

 

 私が馬鹿と言ったのはそこではなかったが、面倒だったので訂正するのはやめた。まさか彼女が、彼女たちが下克上にここまで興味を抱くとは思わなかった。選択を完全に間違えた。もっと、適当なものにしておけばよかった。だが、今更変更はできない。だったら、今やるべきことをするしかない。今やるべきこと。それは何か。針妙丸と縁を切ることだ。

 

「なあ、針妙丸。お前って、私の口にする言葉は嘘だと思うか?」

「突然なに?」

「いいから」

「思わないよ」一切の逡巡も見せず、彼女はそう言った。いつものような浮ついた笑みすら浮かべずに、真剣にそう言ったのだ。

 

「正邪は、確かに捻くれてて間抜けで意地悪で救いようがないけど」

「おい」

「けどね、本当に優しい人はそういう人だと思うんだ。けいね先生も優しいけど、正邪の方がもっと優しいよ。だから、私は正邪の言葉を信じる」

 

 顔を赤らめもせず、当然の事実を述べるようにそう語った針妙丸を前に、私は固まっていた。まさか、そんなことを面と向かって言われるとは。末恐ろしい奴だ。心に芽生えていた暗い感情がすっと晴れていく。固まったのは身体だけではない。僅かに揺らいでいた決意も固まった。

 

「ならよ、もし」自分を落ち着かせるために、一度大きく息を吐いた。大丈夫だ。どちらにせよ、今更引き返せない。だとすれば、憂いはすべて断っておくべきだ。

「もし、私がお前を騙していたといったら、信じるか?」

「騙すって、どういうこと?」

「例えばだ」私は針妙丸と目を合わせないように下を向きつつ、言葉をなんとか並べる。

「幻想郷に小人がいないのは、別に強者に迫害されたからではないといったら」

「え?」

「私が下克上をしたいがためにお前に吐いた嘘だと言ったら、信じるか?」

「どういうこと」

 

 あたふたと慌て始めた針妙丸は、手に持っていた小槌をそこら辺に放り投げ、私に詰め寄ってきた。私なんかより、よっぽど小槌の方が大切なのに。

 

「だから、幻想郷の強者はそこまで暴虐じゃなかったんだよ。小人が幻想郷にいないのは偶然だ。ただ、私がお前を、幻想郷を支配するための、小槌の力を利用するための嘘だったんだ」

「嘘でしょ」

「ああ、嘘だったんだ。よくあんな嘘で騙されてくれたよ」

 

 言葉を切らないまま、一息でそう言い切った。途中で言葉を止めてしまうと、躊躇してしまいそうだった。何度も心に決めたはずなのに、それでも言い訳が頭に過る。別に、嫌われる必要はないんじゃないか? 単純に姿を消すだけで、しばらく旅に出るとでも言っておけばいいんじゃないか? そう声が聞こえる。だが、それでは駄目なのは分かっていた。共犯ではいけない。彼女に一切の罪を背負わせてはいけない。だったら、こうするしかないはずだ。

 

「驚いたか? こうも上手くことが運ぶとは思わなかったが、結果往来だ」

「どうして、そんなことを?」

「私がやるしかなかったからだ」

 

 大きなお椀で顔を隠し、俯きがちに発した針妙丸の声は震えていた。そんな物悲しい声を聞きたくなくて、食い気味に返事をする。

 

「いいことを教えてやる。本当に大事なことってのは、自分でやらなきゃならないんだ。人に頼らずな」

「だから、自分で下克上をしようとしたの?」

「そうだ」

 

 全く質問の答えになっていなくて、驚いた。だが、それも仕方がない。私は天邪鬼のくせに、嘘をつくのが苦手なのだ。針妙丸を騙したのは下克上のため、ということですら嘘なのだから、まともに辻褄を合わせられるはずがなかった。

 

「私は信じないよ」手をぎゅっと握り、勢いよく立ち上がった彼女は、私の目をはっきりと見つめた。私より高い位置にあるその目には、僅かに涙が溜まっている。が、身じろぎするほどに鋭く、強い意思に満ちていた。慧音のようだとも思ったが、それよりも彼に似ていた。

「嫌だよ。私は信じないよ」

 

 ぶんぶんと首を振った針妙丸は、ぽつりぽつりと言葉を零した。

 

「そんなの信じない。信じられないよ」

「さっき、私の言葉を信じるっていったじゃねぇか」

「だったら、わたしは正邪の言葉は全部嘘だと思う」

「そんなのありかよ」

 

 この頑固者が、と内心で歯ぎしりする。家族揃って分からず屋だ。

 

「家族」

「え?」

「ちょうどいい機会だ」

 

 針妙丸に背を向け、一歩二歩と足を進める。畳が僅かに沈み、小さく音を立てた。そんなことすらも煩わしい。大きく体を伸ばし、天井に顔を向ける。そうしなければ、涙がこぼれてしまいそうだった。

 

「お前の父親と私の関係について話してやるよ」

「お父さん?」

 

 事態の急な展開についていけていないのか、えっえっと何度も繰り返し呟いていたが、そんな彼女を無視して話を続ける。そういえば、蕎麦屋の親父も私の言うことなんか無視していたな、と思い出した。

 

「お前の父親はな、ごく普通の人間だったよ。一応蕎麦屋をやっていたが、それでも普通の人間だった。確かに、お前に似て頑固で、変なところにこだわる奴だったが、芯の通った心が強い奴。そんな範疇に収まる程度だ」

 

 嘘だ。人生をかけて妻の復讐をするような奴が普通の人間であるはずがない。

 

「そんな父親だったが、ある時命を落としてしまうんだ」

「え」

「まあ、人間はいずれ死ぬけどな。そうじゃなくて、彼は殺されたんだよ。どんないい人間だって死ぬときゃ簡単に死ぬ。そして死んだら生き返らねぇんだ。当然だがな」

「正邪は」

 

 か細い声が後ろから聞こえる。いま、針妙丸がどのような心境かは分からない。だが、少なくとも、涙を流していることは分かった。

 

「正邪はお父さんとどんな関係だったの?」

「いい質問だな」

 

 気取ったように右手を上げ、拳を握る。親指だけを突き立て、自分の首近くまで持っていった。そのまま、切るように鋭く動かす。

 

「さっき言っただろ、お前の父親は殺されたって。包丁で一突きだ。凄かったぞ。目を見開いてな、顔がみるみる白くなっていくんだ。血で辺りは赤くなっているのに。残念なことに悲鳴は無かったな。痛みを堪えたのか、それとも出すことすら出来なかったのか。断末魔はどんな感じか興味があったんだが、残念だった」

「止めて」

「刺したのは腹だったか、胸だったか。もう覚えてねぇけど、たぶん即死だったはずだ。楽に死ねてよかったじゃねぇか。まあ、死体は人里の外でしばらく野ざらしになっていたが」

「止めてって!」

 

 大きな金切り声が耳を貫いた。足元から細かい振動を感じ、壁際の提灯がちかちかと白い光を点滅させる。あまりに大きな声に、頭が真っ白になった。

 

「どうしてそんな酷いことを、酷い嘘を言うのさ!」

「嘘? どうして嘘だと思ったんだ」

 

 だって、と絞り出すような声が聞こえたが、その先に続く言葉を彼女は続けなかった。代わりに、どすんと、針妙丸が畳に座り込んだ音がむなしく輝針城を覆う。

 

「だって、そんなことは殺した奴しか分からない、って言おうとしたのか」

 

 自然とはっ、とあざ笑う声が零れる。その通りだ。こんなことを知っている奴は、この世に一人しかいない。

 

「その通りだ。お前の父親が死ぬ瞬間なんて、殺した奴しか分からない」

 

 彼の死ぬ直前の顔が脳裏に浮かんだ。振り払おうと頭を叩くも、こびりついて離れない。あいつは普通の人間ではない。殺される直前に、あんな安らかな笑みを浮かべるなんて、おかしいじゃないか。

 

「つまりだ。私が何を言いたいかと言えば」

 

 娘を見守ってくれ、懇願するように目を細める彼の目には涙が浮かんでいた。

 

「お前の親父を殺したのは私ってことだよ」

 

 

 針妙丸は押し黙っていた。もしかすると、彼女の心には、拭い切れない深い傷が刻まれているかもしれない。そう思うと、自分の胸が切り裂かれるように、痛い。だが。それでも、幻想郷を混乱に陥れた事件の共犯だと、輝針城を出現させてしまった加害者だと認定されるよりは、ましなはずだ。

 

「どうして」

 

 畳と何かが擦れる音が聞こえた。気になり、僅かに首を動かして、後ろの様子を窺う。音の正体は単純だった。目を真っ赤にし、涙を畳にこぼしていた針妙丸が、それを着物の裾で拭いていたのだ。

 

「どうして、そんなことをしたの?」

 

 今度は嘘だな、と言わないのだな、と安堵のため息を吐く。その息と共に、僅かに嗚咽が零れ出て、驚いた。胸の中に黒い液体が流れ込み、身体を重くしていく。その液体は段々と上へあがっていき、瞼から零れ落ちそうになった。

 

「どうして、父親を殺したか、か。それは簡単だ。打ち出の小槌の場所を知りたかったからだ。あいにく、最後まで口を割らなかったけどな」

「そこまでして、下克上をしたかったの?」

「ああ。そうすれば、私が幻想郷を支配できると思ったからな。妖精より弱い私なら、ひっくり返った世界では誰よりも強い。あ、でもお前の父親よりかは私の方が強いか」

 

 カラカラと乾いた声で笑う。私があいつより強い? あり得ない。我ながら、冗談にしても荒唐無稽だ。

 

「でも、もし正邪が言ったことが本当だとしても」

 

 その言い回しが、すでに私の言葉を受け入れていると言っているようなものだった。右手に、何かぬめりとした液体がたれる。あまりに強く握り過ぎて、爪が皮膚を突き破っていた。

 

「別にわたしに言わなくてもいいじゃん。言わなかったら、今まで通りに」

「それは」

 

 こいつは、父親を殺した奴とでもできれば仲良くしたいと、そう考えているのか。呆れを通り越して尊敬すら感じる。どれだけ友達が欲しかったのだろうか。

 

「それは?」

「私が天邪鬼だからだ。人の嫌がることをするのが大好きな、そんな妖怪だからだよ」

 

 そう言い残し、私は部屋から出ていこうと、廊下へと足を進めた。後ろから追ってくる気配はない。これで良かったのだ。そうに違いない。自分を納得させるように、繰り返し呟く。

 

「ねえ、正邪」

 

 針妙丸の声は、もはや震えていなかった。むしろ、怒気が含まれており、私の心を直接刺すような、そんな声だった。

 

「いつ頃に帰ってきますか?」

 

 騒めく胸を黙らせる。引きつる頬を何とか整え、満面の笑みを向けて、針妙丸に振り返った。

 

「晩御飯までには帰りますよ、姫様」

 


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