天邪鬼の下克上   作:ptagoon

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天邪鬼の下克上

──白沢──

 

「なんで針妙丸が危ないんだよ」私の背中に捕まっている正邪が、低い声でそう訊いてきた。「いったい何が起きてやがる!」

 

 喜知田が小槌を盗んだ張本人だと知った私は、焦りに焦っていた。一刻も早く針妙丸の家へ向かおうと、寺子屋を飛び出していきたかった。が、流石に少年を放ってはおけない。

 

「私が少年を預かっとくよ」

 そのことが顔に出ていたのか、妹紅は得意げに胸を張った。

「今度は包丁を持って誰かが乗り込んできても、きちんと対応するからさ」

 

 頼もしい友人は、そう言うや否や私の背中を強く押し、早く行け、と叫んだ。その声に押し出されるように寺子屋から飛び出し、そのまま飛び立とうと、足に力を入れた。

 

 予想外だったのは、正邪が私の背中に飛び乗ってきたことだ。

 

「どうして着いてきたんだ」

 私の背中を抱きしめた正邪の手は、力がなく、震えている。

「お前、私が喜知田をどう思っているかぐらい知っているだろ」

「恋人か」

「冗談にしても殺意が湧くな、それは」

 

 結局、私は正邪という重りを乗せたまま針妙丸の家へと向かっていた。正直、正邪と喜知田を鉢合わせさせるのは気が引けたが、説得している時間はない。それに、喜知田の今回の所業が本当だとすれば、あまりにも度が過ぎている。流石に見逃せる範囲ではなかった。

 

「何が起きているか、話せば長くなる」

「短く話せ。私は正しく、はらわたが煮えくり返りそうなんだ。冗談抜きにな」

「分かった分かった」

 

 そうは答えつつも、私は針妙丸の家へ一刻も早く着こうと必死だった。荒れる息を必死に整え、なんとか言葉をひねり出す。

 

「正邪、打ち出の小槌って知ってるか?」

「だから知らねぇっていってるだろ」

「あれはな、使うと厄介なんだ。少なくとも巫女は確実に出てくるような、異変と呼ばれる事態に陥る」

 正邪からの返事はない。だが、気にせず話を続けた。

「その小槌は小人にしか使えない。そして、その小槌が喜知田に盗まれたんだ」

「慧音にしては分かりやすいな」

 

 馬鹿にするように私の頭を撫でた正邪は、そういえば、と声を漏らした。自然と力が入ったのか、撫でる手をそのまま強く握り、私の髪の毛を掴んでいる。

 

「あいつ、願いが叶う道具とか何とか言ってたな」

「本当か?」

「多分な。気づかなかったか? 寺子屋に攻撃的な護衛の札があったぞ」

「え」

「なんでお前が気づいてねえんだよ」

 辛そうに笑った彼女は、喜知田への怒りを目に滲ませていた。

 

 どういう意図で喜知田が寺子屋から小槌を奪ったのかは分からない。もしかすると、単純に興味本位だったかもしれないが、それにしては、手際が良すぎる。

 

 考えても仕方がない、と私は速度を上げた。しつこかった雲は再び晴れ、もはやその面影すらも残していない。真っ青な空を貫き、澄んだ空気を裂くように進む。そんなに距離はないはずだが、嫌に遠く感じた。はやく着いてくれ、と意味も無いのに足をばたつかせる。

 

 針妙丸の家が見えたとき、私は思わず息をのんだ。その家の前で、喜知田が悠然と突っ立っていたからだ。護衛もつれず、たった一人で。大声で喜知田と叫ぶも、向かい風に押し流されていく。重力に従うように、一直線に地面へと向かっていった。

 

 喜知田から少し離れた場所に着地した私は、そのまま足を動かし、喜知田へと向かっていった。流石の喜知田も私たちに気がついたようで、目を細めてこちらを見つめていた。

 

「あれ、どうしたんです? 慧音先生にしては珍しく焦ってますけど」

「とぼけないでくれ」

 

 喜知田は私が来たにもかかわらず、一切の動揺を見せなかった。それどころか、嬉しそうに頬を緩め、手を振ってさえいる。その仕草が、ますます私を焦らせた。

 

「打ち出の小槌だよ。私の部屋から奪っただろう!」

「あ、ああ。小槌ですね」

 

 そんなの知らないですよ、ととぼけることもなく、喜知田はとうとうと言った。一切の悪意も見せず、むしろ誇るようですらある。小さく、開き直りやがって、と正邪が呟いた。

 

「確かに、慧音先生の家から小槌を持っていったのは私です。けれど、決して盗んだわけではありません」

「どういうことだ」

「知ってますか? 私は優しい善良な人間なんですよ」

「馬鹿じゃねぇの」

 たまらず、といった様子で正邪が口を挟んだ。

「お前が善良だったら、この世に悪人が私一人になってしまう」

「あ、あなたは彼の悪名高き鬼人正邪さんじゃありませんか」

 

 初めから分かっていたはずなのに、さぞ今気づいたといった様子で驚いてみせた喜知田は、大袈裟に手をバタバタと振った。

 

「どうしてこんなところに」

 

 口をあんぐりと開け、私と正邪を交互に見つめている。彼がいったい何故そんな過敏な態度を取っているか分からない。

 

「慧音先生、あまり褒められたことではありませんよ」

「何がだ」

「その妖怪と一緒に行動することが、ですよ」

 

 それは打ち出の小槌を利用して少年を騙すことよりもか、と口にしたが、無視された。

 

「その妖怪は人里の敵ですよ? そんな妖怪と人里を一緒に行動していては、どんな悪評が立つか分かりません」

 

 喜知田は私ではなく、正邪に向けて言っていた。未だ私に抱えられているので、正邪がどんな顔をしているかは分からない。だが、必死に私の手から抜け出そうとしていることを考えれば、今すぐにでも喜知田を殺したい、と憤慨しているのは明らかだった。正邪を離さないように、しっかりと体を固定させる。今はとにかく、喜知田から情報を引き出したかった。

 

「それで? 私の部屋から小槌を持っていくのが、どうして盗みじゃないんだ? まさか部屋に落ちてました、とか子供みたいな言い訳するんじゃないだろう」

「先生。こう見えてもう還暦ですよ」

 

 朗らかに笑った喜知田は、私の顔を覗き込むようにじろりと見てくる。表情こそはいつも通り親しみやすさに溢れていたが、どこか暗い雰囲気を感じさせた。私の知っている喜知田とは似ても似つかない。

 

「届けようと思ったんです」

「届けるって、誰に?」

「本来の持ち主に」

 

 あまりに堂々と、悪びれもせず語る喜知田のせいで、なるほどそうだったのか、と納得しそうになる。が、喚く正邪の声で、目が覚めた。

 

「どうして寺子屋にあるものを勝手に本来の持ち主に返そうとするんだ」

「それは当然」

「当然?」

「そっちの方が面白いと思ったからですよ」

 

 その時だけ、彼の後ろにあった暗い雰囲気が消え去り、彼の表情が子供の様になった。無邪気で、一切の悪意もない溌剌としたその表情は、私のよく知る喜知田の笑顔だった。

 

「面白いって、お前は事の重大さを理解しているのか?」 

「重大さ、ですか?」

 

 両手を擦り合わせ、寒いですねぇと呑気に息を吐いている彼の様子を見ると、とても理解しているようには思えない。

 

「打ち出の小槌はな、単に願いを叶えるだけじゃないんだ。もっと危険で、恐ろしい物なんだよ」

「知ってますよ、そんなこと」

 

 平然とそう嘯いた喜知田は、私の背中で力なく手をバタバタと振っている正邪を見て煽るように笑った。息を荒くした正邪が、ますます体を大きく震わせる。ケチャップだろうか、何か湿った物が背中に触れた。

 

「もし危険じゃなかったら、私が小人に使わせてますよ。危なそうな感じがしたから、わざわざ使わずに、色々利用してるんじゃないですか。物は使いようです」

「それであの少年を正邪に差し向けたのか」

「ああ、三郎に会ったんですか」

 

 だから、正邪が生きているんですか、と何の気も無しに口にした喜知田は、つまらなそうに地面を蹴った。

 

「あの少年は私とは何の関係もありませんよ」

「でも、あいつはお前と約束したと!」

「慧音先生」

 

 憤る私たちとは対照的に、喜知田は落ち着き払っていた。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。ここで熱くなってしまえば、相手の思うつぼだ。いったい、いつから喜知田はこんな風になってしまったのだろうか。やはり、あの時。彼が一人の女性を殺してしまった時、きちんと裁かなかったのは間違いだったのか。冷静になろうと心掛けると、余計に雑念が頭を覆った。

 

「私の言う通りにした方がいいですよ、先生」

 

 太い体を大きく揺すった彼は、その丸々とした腹を撫でた。多くの人々が痩せこけている中、彼だけはそのふくよかな体型を維持している。

 

「三郎のことを思うなら、私とは無関係ということにした方がいいでしょう。彼が包丁で鬼人正邪を殺そうとしただなんて、無かったことにした方がいいに決まっています」

「それはそうだが」

「この世の中には知らなくていいこと、知らせなくていいことがたくさんあるんです。先生も、知らない訳じゃないでしょう?」

 

 笑みを浮かべたままの彼の目は、ぐるぐると渦巻いていた。小さな蠅が角膜に無数に張り付き、蠢いているように見える。いつから、と声が漏れる。いつから喜知田の心は、こんなにも絶望に呑まれてしまったのか。今から、彼をその闇から抜け出させることは本当にできるのだろうか。寺子屋の先生として、人里の守護者として私はどうしたらいいのか。

 

 また、頭が混乱し、堂々巡りを始めたところで、ふと、妹紅の言葉が頭に浮かんだ。「困ったなら、即行動だ」 目の前に広がっていた霧が、立ち消えていく。そうだった。うだうだ考えている暇はない。いまは小槌について考えなければ。

 

 背中で抑え込んでいた正邪をほどき、ゆっくりと地面に下ろす。うぅと声を漏らし、顔をしかめながらも、正邪は喜知田に飛び掛かっていきそうだった。それより早く喜知田へと体をすべらせる。右足で宙を漕ぎ、喜知田の正面へと肉薄した私は、彼の左足を躊躇なく蹴り上げた。どこかに護衛が隠れていないかと警戒を怠らないようにしつつ、そのまま喜知田へと体重をかける。体勢を崩した喜知田はそのまま地面に倒れ込んだ。彼の飛び出した腹に膝を置き、馬乗りになる。打ち出の小槌を探そうと、身体をまさぐる。

 

「先生。人里の守護者が人間に手を出したらまずいんじゃないですか?」

「小槌を盗んだ人間なら、妖怪の賢者も許してくれるさ」

「持ってないですよ」

 

 組み伏せられながらも、余裕を崩さない喜知田に違和感を覚える。急いで、彼の金の刺繍があしらわれた着物の懐に手を入れる。が、手ごたえはない。慌てて腹や肩などに手を当てるが、隠し持っている様子でも無かった。目の前に浮かんでいた光が途切れていく。

 

「おい、どこだ」

「はい?」

「どこに隠した!」

 

 首元を掴み、大きく揺さぶる。だが、相も変わらずその不敵な笑みを崩さない喜知田は、隠してなんかないですよ、と優しく頬を緩めた。

 

「最初に言ったじゃないですか、本来の持ち主に返すって」

「まさか」

「もう、小人に渡しましたよ。残念でしたね」

 

 満面の笑みを浮かべた喜知田を乱暴に倒し、急いで針妙丸の家の前に立つ。その小さな扉を力いっぱい引っ張ると、大した手間もなく開いた。中を覗きこむ。が、どこからどう見ても、もぬけの殻だ。

 

「おまえ、針妙丸を」どこへやった。そう喜知田に怒鳴ろうとしたが、それは叶わなかった。人里から少し離れた地点。ちょうど妖怪の山との中間地点から、禍々しい魔力が溢れ出してきたのだ。喜知田は気がついていないようだが、ゾンビのように喜知田に迫っていた正邪は、足を止め、悲痛な顔でそちらを見つめていた。間違いない。小槌の魔力だ。

 

 考えるよりも早く、体が動いた。正邪を掬い取るように背中に乗せ、肌をピリピリと刺す魔力の発生源へと飛び出す。どうしたんですか? と訊いてくる喜知田の声は、一瞬で小さくなっていった。

 

「なんだよこれ」うろたえているのか、小さな声で正邪が呻いた。

「これ、まさか針妙丸と関係しているとか言わないよな」

「その、まさかだ」

 

 私にかかる正邪の体重が、ぐっと重くなる。水の泡だ、と呟く声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 魔力の発生源へと近づくにつれ、胸の奥のざわめきは増していった。もしかして、もう小槌を振ってしまったのか。そんな辺鄙な場所では、妖怪に襲われるかもしれないじゃないか。そんな心配が胸を刺す。

 

 だから、青々とした広い草原の真ん中に立つ針妙丸を見つけた時、私は心底安堵した。正邪の、ほぅと零れ出た息が耳をくすぐる。

 

 おーい、と声をかけながら針妙丸に近づくも、彼女は聞こえていないようだった。緩んだ緊張の糸が、再び引き締められる。そして、彼女に近づくにつれて、その糸は引きちぎれそうになった。

 

 なぜか。彼女が打ち出の小槌を持っていたからだ。大声で、それを手放せと叫ぶも、案の定聞こえていないようだった。

 

 急いで、彼女の元へと突っ込む。すると、妙な違和感に襲われた。彼女の姿がやけに大きいように感じたのだ。最初は、単純に距離が離れているせいで、私が見間違えているのかと思った。だが、彼女の手に持つ小槌の大きさと、近づくにつれ分かってくる彼女の背丈が、そのあり得ない事実を私の目に突き付けてくる。針妙丸の背が、私たちと同じくらいまで大きくなっていた。

 

「針妙丸、聞こえるか! その小槌を離せ。離してくれ!」

 

 頼む、頼むから、と鬼気迫る声で叫んだ正邪の声も、彼女の耳には届いていないようだった。あと少しで地面に着く。針妙丸に聞こえないはずはないのだが、それでも彼女は聞こえていないようだった。

 

 針妙丸が大きく小槌を振り上げるのが見えた。止めろ、と声が零れる。足に草の感触がした。目の前に針妙丸がいる。だが、それでも彼女に気がついた様子がない。そこで初めて私は、彼女の目が小槌に集中していることに気がついた。止めてくれ、と叫びながら彼女に近づこうとするも、溢れ出る魔力のせいか、足が動かない。

 

 針妙丸の握った小槌が無慈悲にも振り下ろされていく。正邪の、声にもならないような呻き声が耳を突いた。それをかき消すように、シャリンと音がする。私は何もできず、ただ、小槌から漏れ始めた光を見ていた。

 

「友達ができますように!」

 

 威勢のいい彼女の願いは、小槌から溢れる光と共に世界を覆っていった。

 

 

 

 

 

 光が収まったにも関わらず、私は立ちあがることができなかった。遅かった。間に合わなかった。まんまと喜知田の罠に引っかかった。なんて私は愚かなんだ、と自分の頭を強く殴りつける。

 

 ふと、晴れているにもかかわらず、影に包まれていることに気がついて、空を見上げた。青々とした澄んだ寒空が視界を覆うはずだったが、違った。ゆっくりとであるが、何かが空中に出現していく。まるで、薄っすらと霧の奥から現れるように、その姿は段々と鮮明になっていった。元々そこにあったかのように、自然な様子で佇んでいるそれに、私は心当たりがあった。小槌の代償の代名詞。美しく、そして禍々しい絶望の城。上下が逆さまになっている空上の城は、確かに針妙丸の願いを叶えたことを表していた。輝針城が現れてしまったのだ。

 

 もはや、乾いた笑いを出すことしかできなかった。

 

「あ、けいね先生!」

 

 そんな私の絶望など、つゆほど知らない針妙丸は、やっと私に気がついたのか、とてとてと駆け寄ってきた。あまりにも気がつくのが遅すぎた。

 

「みてみて! わたし、ついにけいね先生と同じくらい大きくなったよ」

 

 いつの間にか地面に座り込んでいた私の頭を、嬉しそうに針妙丸は撫でた。その顔は、幸せに満ち満ちている。

 

「ああ、よかったな」

 

 私は、そんなことしか返すことができない。彼女には、いつか小槌の代償についての話をしなければならないのだろうか。そう思うと、心が痛んだ。この世には知らなくていいことがたくさんある。喜知田の言葉が言い訳がましく心を蝕んだ。

 

「なあ、針妙丸。その小槌はどうしたんだ?」

「これ? 凄いでしょ」

 

 目をキラキラと輝かせ、胸を張った彼女は、おじさんから貰ったの、と嬉しそうに小槌を叩いた。

 

「無表情で、怖そうな人だったけど、こんな凄い物をくれるなんて、いい人だったんだね」

「どうやってこんな所に来たんだ?」

「そのおじさんと話してたら、気づいたら眠くなって、いつの間にかここにいたの」

 

 なんでだろうね、と笑う彼女は、大きくなれたことがよっぽど嬉しいのか、しきりに自分の身体を弄っている。

 

 その、おじさんは喜知田の護衛で間違いないだろう。ということは、私が射命丸と共に彼と会った時には、既に彼の手に小槌がなかったということか。完全に虚を突かれた。時間稼ぎに引っかかってしまった。針妙丸の家の前で、彼が護衛もつれず立っているのは、よく考えればあまりにも不自然だった。今更気づいた自分に腹が立つ。

 

「おいチビ」

 

 後ろから、苦しそうな正邪の声が聞こえた。振り返ると、草原で横になった正邪が、真っ白な顔で輝針城を見上げていた。

 

「おまえ、なにしてやがる」

「もうチビじゃないもん!」

 

 私の脇を抜けて、正邪へと駆け寄っていった針妙丸は、ほら、大きくなったでしょ、と体をくるくると回転させた。草の上に座り込んでいる正邪は、渋い顔で、馬鹿じゃねぇのと笑っている。

 

「それになんだ。友達が欲しいだなんて、しょうもないことを願いやがって」

「しょうもなくない! だって、正邪ぐらいしか友達がいないんだもん」

「なら、一人もいないな。私はお前の友達じゃない」

 

 ええー、と大声で叫んだ針妙丸は、ほっぺたを膨らませた。体が大きくなったとしても、彼女は何も変わっていない。それが唯一の救いのように思えた。

 

「というか、なんでお前大きくなってんだよ。それも願ったのか?」

「ううん。なんか小槌を持ったら大きくなった」

「それはまずいな」薄っすらと涙を浮かべている正邪は、ひねり出すように口を動かした。

「大変な事になるぞ」

「たいへんなこと?」針妙丸は小さく首を傾げた。

「どうなるの?」

「生態系が崩れてしまいます」

「何てことを言うんだ、あなたは」発作的に、私は口を挟んでしまった。その私の答えに満足そうに頷いた正邪は、ゆっくりと肩を下ろしたかと思うと、うめき声を漏らした。

 

 そこで、正邪の様子がおかしいことに気がついた。顔こそ針妙丸の方を向いているものの、その虚ろな目は何も映していない。きゅっと、胃が締め付けられるような感覚に陥る。

 

「針妙丸、お前は安全なところに身を隠しておいてくれ」

 正邪の頭を撫でている針妙丸の肩に手を置き、笑顔を作る。

「急にどうしたの?」

「ちょっと、急用ができてな」

 

 少し悲しげに眉をハの字にした針妙丸だったが、うん、と力強く頷いた。ちらりちちらりとこちらを名残惜しそうに見ているものの、それでも私たちに背を向け、また後で、と手を振っている。いい子だ。こんな、暗くて鬱屈とした悲劇には、絶対に巻き込んではならない、とひとり胸に決意をする。

 

 針妙丸が離れていったのを確認して、というより、輝針城へと向かっていったのを見た私は、正邪に向かい合った。頬をあげ、馬鹿にするように笑っているが、身体はガクガクと震えている。

 

「おい、正邪。大丈夫か」

「大丈夫か、と訊かれて大丈夫じゃないって答える奴がいると思うか?」

「正邪なら言いそうだ」

 

 今度聞かれたらそう返すよ、と力なく笑い、ばたりとその場に寝転んだ。息も荒く、辛そうだ。

 

「お、おい。どうしたんだ」

「さっき、言ったじゃねえか」

 

 笑おうとしているのか、不格好に顔を歪めた正邪は、吐息で喉をかすり、妙な音を立てた。

 

「はらわたが煮えくり返りそうだって」

「お前」

 

 慌てて正邪の腹に目をやる。いつの間にかケチャップの染みは大きくなっていた。彼女の服が、たぷたぷと液体を吸って、膨らんでいる。その服の、腹辺りに出来た切れ目から、薄黒いぬめりとした光が見えた。私は思わず尻もちをつき、悲鳴をあげてしまう。込み上げてくるものを堪えることができず、嘔吐く。酸っぱいものが口を覆った。

 

「おいおい慧音、大丈夫か?」

「大丈夫じゃない」

 口元を拭った私は、おずおずと正邪に声をかけた。

「お前、ケチャップが盾代わりになったって」

「馬鹿じゃねぇの。無理に決まってるだろ。あんな薄っぺらいもん、貫通するに決まってるじゃねぇか」

「じゃあなんで」そんな嘘をを吐いたのか。そう言おうと思ったが、止めた。この捻くれた弱小妖怪の、残酷なまでに優しい天邪鬼の考えが分かってしまったのだ。

「少年のためか」

 私の声は震え、湿り気が混じっていた。

「あの少年がお前を刺したことでショックを受けないように!」

「そんな訳ないだろ」

 

 こひゅ、と血と共に息をを吐いた彼女は、焦点の合わない目でこちらを見た。その口は僅かに笑っている。

 

「あんなガキに負けたなんて、認めたくなかったんだよ」

 

 そう軽口をたたきつつも、このままでは長くはもたないのは明らかだった。鋭く裂かれた彼女の服の隙間から、薄黒い内臓が露わになっている。どうする、どうすると頭の中で必死に考える。と、そこで彼女の首にかかっていた一枚の布切れがふわりと宙に浮かんだ。私が預けた、市松模様の手ぬぐいだ。それが吸い寄せられるように彼女の腹に滑っていき、傷口を覆うように被さった。

 

「つ、付喪神か」

「なんだって?」

「なんでこの布が付喪神に? 小槌の影響なのか」

 

 どうして”友達ができますように“という願いで付喪神が宿ったかは分からないが、彼女の布に付喪神が宿っているのは確かのようだった。

 

 もしかすると、針妙丸の友達である正邪を助けるということも小槌の内容に含まれているのではないか、と邪推してしまう。そんな訳ないか。

 

 菌が入ってしまってはまずいと思い、彼女の首に再び布を括りつけた。同時に、頭に手を当てる。べたりと汗がついたが、その割には体が冷たすぎる。そこで、ふと、妹紅のことを思い出した。正邪の白い肌が彼女を想起したのかもしれない。妹紅は、傷だらけの正邪を見つけてどうしたのだったか。

 

「パチュリー」

「え」

「紅魔館の魔女のとこへ行くぞ」

 

 ああ、鶏ガラのことか、とよく分からないことを呟いた正邪を腕に抱きかかえ、私は遠くに見える真っ赤な館へと目を向けた。

 

 

 

 

 

「またですか」

 

 正邪が目を閉じ、死んでしまうんじゃないか、と恐怖しながら紅魔館にたどり着くと、門の前に立っている美鈴は、大きなため息と共に私たちを向かい入れた。普段の気さくな彼女とは違い、なぜか今日は気が立っているようだ。

 

「また、って。正邪はいつもこんな死にそうになっているのか?」

「なってねえよ」

「なってますね」

 

 正邪の言葉を遮るように、美鈴が口を挟んだ。その言葉には覇気がなく、疲れ切っている。

 

「彼女は何回かここに来ているんですよ。というか、慧音さんがお使いを頼んだんでしょう?」

「ああ、まあ、そうだが」

「なんでお使いをするだけで彼女はあんな怪我を負うんですか」

 

 私は答えることができなかった。もごもごと口を動かして、何と答えようかと逡巡していると、後ろから「まあ、いいじゃないの、美鈴」と淡々とした声が聞こえた。

 

「そんなことより、今は彼女の治療が先でしょ」

 

 相変わらず辛気臭せぇな、と無表情で言った正邪を私から受け取った彼女は、その紫の髪をたなびかせながら、あなたも大変ね、と微笑んだ。

 

「久しぶりだな、たまには人里に来てくれよ、パチュリー」

「気が向いたらね」

 

 そう短く言った彼女は、正邪を見て、大きくため息を吐いた。そして、美鈴の方を一瞥すると、疲れ切った彼女を見て驚いたのか、辛そうね、と目を丸くしている。

 

「パチュリーさまぁ、私もう疲れました。お嬢様の命令多すぎませんか?」

「頑張って、としかいいようがないわね。門番になった自分を恨みなさい」

「いい転職先知りませんか? 図書館の司書とか」

「知らないわ」

 

 そう言い残した彼女は、門に背を向け、紅魔館へと入っていった。私も彼女に続き、中に入ろうとするも、美鈴に止められる。どうやら、私はお呼びじゃないらしい。

 

「いま、パチュリー様の仕草みました?」

「え、いや。見てないが」

「右手でこぶしを握ってましたよ。正邪さんの相手が楽だからって、ずるくないですか?」

「はあ」

「ほんと、忙しくて目が回ります」

 

 アハハと笑った彼女は、本当にお嬢様にも困ったものです、と愚痴を零し始めた。よっぽど疲れているのか、門にもたれかかるようにした彼女は、仕切りにあくびを連発し、「妖怪の山の会議から帰ってきてからも酷かったんですが、最近は特に酷くて」と喚いている。

 

「本の並びを変えたり、図書館の壁に札束をかけたり、大変なんです」

「図書館の仕事はパチュリーがやるんじゃないのか?」

「私も手伝ってるんですよ」

 眉を下げ、やつれた頬を掻いている彼女は不憫だったが、今はそれよりも気になることがあった。

 

「正邪さんのことが心配ですか?」

「え、どうして」

「顔を見れば分かりますよ」

 

 心配性ですね、と暖かい目で見てきた彼女は、大丈夫ですよ、と当然のように言った。

 

「パチュリー様の魔法は凄いですから。なんなら、下半身が吹き飛んだとしても、きっと大丈夫ですよ」

「それ、普通なら即死だからな」

 

 また、アハハと笑った彼女は、「もしかして、あの城と関係したりするんですか?」と首を傾けた。

 

 どう答えようかと逡巡していると、彼女は小さく頭を掻き、感慨深そうにその城を指差した。その目には、恐れと尊敬が浮かんでいる。

 

「あれ、お嬢様がついさっき出現を預言したんですよ」

「え」

「なんか、そういう運命らしいですよ」

 

 その言葉をどう受け止めればいいか、私には分からなかった。だが、レミリアに対し、怒りが浮かんだのは確かだ。どうして事前に教えてくれなかったのか。もしかしたら、止められたかもしれないのに、といった理不尽な怒りだ。実際に教えてもらったとしても、できることなんてないというのに。

 

 そんな複雑な私の感情を読み取ったのか分からないが、美鈴は「二度あることは三度あるというけれど」と突拍子もなく言った。

 

「急にどうしたんだ」

「いえ、パチュリー様の声が聞こえてきましてね」

 

 私、耳がいいんですよ、と胸を張った彼女は、自慢げに耳を叩いた。

 

「この館の声なら、大体聞こえますよ」

「凄いな」

「“仕方ないだろ。二度あることは三度あるなら、三度あることが四度あっても”ですって。正邪さんの言葉です。結構余裕そうですね」

 

 彼女の言葉に、私は胸を撫で下ろした。とりあえず正邪が無事だと分かっただけで、肩の荷が下りたような気がしたのだ。だが、「え」と美鈴が素っ頓狂な声を上げるのを聞いて、私の不安はまた大きくなった。

 

「お嬢様のケチャップを持っていったのって、正邪さんだったんですか」

「はい?」

「いや、許せませんね。八つ当たりで仕事を増やされたんですよ。酷くないですか?」

 

 きっと、野菜を人里に持って行って、すぐに妹紅さんに担がれて帰ってきた時ですね、と憤慨し、もう昔のようにも思えます、と目を細くした。

 

「パチュリー様が、正邪さんの歯を抜きたくなる気持ちも分かりますよ」

「そんな物騒なことを言っているのか、パチュリーは」

「ええ、正邪さん相手だと、結構饒舌になるんです」

「そうなのか?」

「はい。“歯の一本や二本は魔法で何とかなるわよ”なんて軽口も言っちゃってますよ」

「普段はそうでもないのか?」

「少なくとも、私は言われたことありません」

 

 妬けちゃいますよね、と朗らかに笑った彼女は、私に向かい片目を閉じた。

 

「驚きました?」

 

 美鈴の言葉に頷いた私は息を思いっきり吸い、美鈴に向かい大きく口を開く。心の中のもやもやをかき消すようにと、全力で叫んだ。

 

「驚天動地!」

 

 なんですかそれ、と笑う美鈴の声が、宙に浮かぶ輝針城にまで届いた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

──魔女──

 

 

 正邪がいなくなった図書館で、私はひとり呆然としていた。魔導書を読むでもなく、紅茶を飲むでもなく、ただ図書館の扉を名残惜しそうに見つめている。

 

 どうして、ここまで胸騒ぎをするのか、分からない。だが、何か大事なものを見落としたような気がしてならないのだ。正邪を追っていくべきだ。理由なんてものは無かった。でも、追っていかないと後悔する。これだけは確かだった。

 

「外出は億劫だけど、仕方ないわね」

 

 誰に言うでもなく、独り言をつぶやいた私は、ドアノブへと手をかけた。そこで、ふと、視界の端に見慣れないものが映った。図書館の本棚の隅に、布のようなものがかかっていたのだ。水色で、かなりの大きさのあるそれは、人ひとりであれば平気でくるめそうだった。

 

 確か、名前は光学迷彩とかなんやらだったはずだ。河童が強引に売りつけていった発明品。それが、不思議と気になった。考える間もなくそれを手に取り、頭から被る。はじめは、ただ単純に布を被った時と同じように、目の前が真っ暗になっただけだった。

 

 騙されたか、と落胆するも、すぐに変化が現れた。足元から、段々と周りの風景が布越しに見え始め、ついには完全に視界が開けたのだ。布ですっぽりと体を覆っているにもかかわらず、普段と同じように辺りを見渡せる。私は素直に感心していた。魔法でこれと同じものを作ってみようと胸に決める。鏡の前に移動すると、そこには確かに何も映っていない。まるで透明人間になった気分だ。これは使える。

 

 もう一度、図書館の扉の前に立ち、ゆっくりとドアノブを開く。すると、目の前に美鈴が立っていて、驚いた。何か図書館に用があったのだろうか。

 

「こ、これが噂の自動ドアってやつですか」

 

 よく分からない事を言って図書館に入っていった彼女を尻目に、長い廊下を進む。美鈴がパチュリー様、と叫んでいたが、無視した。

 

 いったい正邪はどこに向かっているのだろうか。そう考えると、すぐに結論は出た。空に浮かぶ逆さの城。そこにいったのだろう。

 

「どうして、私は彼女にここまでかまうのでしょうね」

 

 きっと、そういう運命だからだ。そう声が聞こえた気がした。

 

 霧の湖をこえ、妖怪の山へと続く草原に、正邪はいた。上空には輝針城が悠然と浮かんでいる。紅魔館から見た時と違い、その大きさと、威圧感に圧倒された。かなりの高さにあるはずなのに、その大きさから近くにあるようにも見える。黒々とした瓦が、日光を反射し、煌びやかに輝いていた。だが、決して美しくはない。その見た目など気にならないような、不穏な魔力を放っていた。

 

 その魔力は、輝針城の真下にいる少女が持つ小槌へと続いている。身長は正邪と同じくらいだったが、不思議とかなり幼く見えた。かなり大きな茶碗を頭に被っているが、そんな奇天烈な格好にも関わらず、違和感が無い。

 

 彼女たちは、何か楽しそうに話していたが、内容までは分からなかった。そして何より、正邪をつけるようにした私自身が、何がしたいのかが分かっていなかった。ただ、迷っていても仕方がないのは確かだ。

 

 取り敢えず、正邪たちの会話が聞こえる辺りまで近づこうと、草原に足をつける。なにか隠れるものはないかと見渡すが、今自分の姿は消えているのだということを思い出し、堂々と彼女たちに向かい、歩いていった。

 

「正邪がわたしに用があるだなんて、珍しいね!」

 快活な声が、耳に届いた。足を止め、耳をそばたてる。

「もしかしたら、明日は雪が降るかもな」

「冬だから降ってもおかしくないじゃん」

 

 楽しそうに笑ったお椀の少女は、身体をくるくると回し、喜びを全身で表していた。右手に握った打ち出の小槌を、くるくると同じように回している。私が作ったレプリカではない。正真正銘、本物の打ち出の小槌だ。ということは、その小槌を持っている彼女こそが小人なのだろう。それにしては、全然小さくない。小槌の影響だろうか。そんなことを考えていると、あっと短い叫び声が聞こえた。慌てて目を彼女たちに戻す。

 

「返してよー。小槌は小人族の宝なんだよ」

「うるせぇ」

 

 右手で針妙丸の顔を鷲掴みにしている正邪の反対の手。左手には、打ち出の小槌が握られていた。さっきまで小人が持っていた、本物の小槌だ。彼女がよそ見をしている内に、強引に奪ったのだろう。小人は、うがーと手を振り回している。そういえば、小槌を強引に掴んだせいで、右手を駄目にしてなかったかしら、と首を捻っていると、案の定正邪の左手は一瞬でくたりと垂れ下がり、手から零れた小槌はころころと転がっていった。だが、小人はそれに気がついていないようだった。

 

「分かった分かった、返すよ」

 

 左手をちらりと見た正邪だったが、すぐに視線を戻し、小人に向かい合った。右手で懐を漁り、小槌を取り出す。今度は私が作った、偽物の小槌だ。それを針妙丸に手渡した。嫌な予感がする。

 

 まったく正邪は、とぷりぷりと怒ったような仕草をみせた小人は、「用って何?」とジト目で正邪を見つめていた。

 

 正邪が一度大きく息を吸うのが、私にも分かった。彼女は口を開かずに、小人の持つ小槌を指差す。そして、そのまま指を上下に振った。

 

「打ち出の小槌を振ればいいの?」

 どこか嬉しそうな小人は、こてんと首を傾げた。

「何か願い事があるの?」

 

 無邪気な小人とは対照的に、顔を真っ青にさせた正邪が、「私の、私たちの野望のためだ」と震える声で言った。そこで、私は、あれ、と首を捻った。確か正邪は下克上を願って城を顕現させたはずだ。ならば、なぜ改めて野望やら何やらを小人に説明しているのだろうか。

 

「私たちって、その野望には私も関わっているの?」

「むしろ当事者だ」

 

 正邪の顔が酷く歪むのが、ここからでも分かった。落ち着きなく、腕を組み替えている。一体、彼女が何を考えているのか、分からない。

 

「お前、自分以外に小人を見たことがあるか?」

 

 突然正邪が、そんなことを言い出した。「ないなー」と答えた小人を見て、満足そうに頷いていた。何を言い出すのか、と不安になる。授業参観に来た親のような気分だ。

 

「迫害されたんだよ」

「え?」

 

 思わず声が漏れてしまい、焦る。バレたのではないか、と焦って身を隠そうとするものの、彼女たちは気づいた様子もなく、話し続けていた。

 

「強い奴らに酷い目にあわされたせいで、小人はひっそりと暮らさなくきゃならなくなったんだ。そのせいで、幻想郷にはお前しか小人がいねえんだよ」

 

 あまりにも安直な嘘に、私は逆に驚かされた。こんなので騙されるような奴はいるのかしら、と呆れていると、「そんな! 酷い!」と叫ぶ小人の声が聞こえてくる。なぜ、こんな見え見えの嘘に引っかかってしまうのか、とまたもや驚かされた。

 

 見返してやろうぜ、とはしゃいでいる二人は、輝針城の下という何とも言えない場所にいたが、とても仲がよさそうに見えた。それこそ、姉妹のようだ。だが、それと共に危うさも覚える。特に、あの小人の方だ。あまりにも正邪の言う事を真に受けている。

 

「強者が弱者を支配するのではない、弱者が強者を支配するんだ。幻想郷を本当の理想郷に変えようぜ。さあ、弱者が見捨てられない楽園を築くのだ!」

 

 威勢の良い正邪の声が辺りに木霊した。弱者が見捨てられない楽園。彼女自身が、弱者は幸せになれないと断言していたにも関わらず、そんなことを嘯いている。やはりおかしい。

 

 いったい、彼女は何をしようとしているのか。もう一度下克上を願うのか。分からない。が、「でも、なんて願えばいいの?」と首を傾げた小人の言葉を聞いて、やっと彼女の意図に気がついた。気がついて、背筋が凍った。まさか、と声が漏れる。例の言葉を彼女らが呟いているのが聞こえた。小人が持っている偽物の小槌に目を向ける。それは、既に高々と振り上げられていた。なぜ。どうして。小人なんて道具だって言ってたじゃないか。正邪を止めようと、そう思ったが間に合わないのは明確だった。現実を直視したくなくて、背を向けてその場を去る。

 

「「すべてをひっくり返せますように!」」

 

 シャリンという音が響き、まばゆい光が溢れ出す。見慣れた、私の魔力による光だ。私がレプリカにかけた魔法がしっかりと発動するのが分かった。小槌の呪いが、小人から正邪へと移っていく。それに目を逸らすように、私は早足で紅魔館へと進んだ。

 

 

 

 

 

 失意に明け暮れ、泥酔者のようにふらつきながら、私は飛んでいた。後ろには、憎々しい輝針城がこちらを見下ろしている。やはり、あの魔法を、痛いの痛いの飛んでい毛の魔法を、レプリカにかけるべきではなかった。正邪に使わせるべきではなかった。まさか、あんな使い方をするなんて、自分に呪いを移すなんて考えてもいなかった。

 

 そんな考え事をしているときに、急に強い風が吹いた。身を切るような冷たい風だ。突然の寒さに、私は思わず布を握っていた手を離してしまった。ぶわりと一度大きく舞った光学迷彩は、水色の大きなそれを翻しながら、ゆっくりと下へと落ちていく。ぼんやりとそれを見つめていた私だったが、霧の湖のほとりに落ちたそれを見て、ようやく取りに行こうと降下を始めた。あまりの出来事に思考がまとまらない。

 

「見て見て姉さん」

 

 ゆっくりと降りていると、その布を見つけたからか、陽気な声を出した女性が姿を現した。光学迷彩を拾い上げ、

 

「布があったよ、水色の」と叫んでいた。

「でかした八橋」

 

 すると、奥の方からもう一人、姉さんと呼ばれた女性が現れる。そんな彼女たちは、なんの悪意もなく、「餞別だ、餞別だ」とはしゃぎながら光学迷彩を持ち去ってしまった。取り返しても良かったが、そんな元気もない。諦めて、その場を去ろうすると、いきなり後ろから肩を掴まれた。慌てて振り返る。

 

「もしかして、紅魔館の魔女さんですか?」

 

 見たこともない妖怪が、そこにはいた。湖の中から出てきたからか、全身が湿っている。こちらを見てニコニコと微笑んでいるその妖怪は、青い髪と妙な耳が印象的だったが、その下半身はより印象的だった。

 

「こんな近所に人魚がいたなんて、驚きね」

「知られてなかったんですか。それは悲しいですね」

 

 およよ、と袖で目元を拭った彼女は、「私はわかさぎ姫と申します」と恭しく頭を下げた。ぽたぽたと水滴が垂れている姿は、どこか官能的にも思える。

 

 いきなり現れた人魚に面食らったものの、すぐに不愉快になった。私はこんなところでおしゃべりをしている暇はない。

 

「それで? 結構な期間ここに住んでいるにも関わらず、中々声をかけなかったあなたが何の用かしら? 私は今疲れているのだけど」

 

 いじめようと思ったわけではないが。私の口調は強くなっていた。疲れと自身への苛立ちがつのり、相手に気をやる元気すら残っていなかったのだ。だが、そんな失礼な私の態度にも関わらず、彼女は平然としていた。彼女から感じる力は、確かに弱所妖怪のそれにも関わらず、それに見合わないほど肝が据わっていた。不思議と、頭が冷えていく。

 

「実は、相談がありまして」

 

 頬に手を当て、眉を下げているその姿には、可愛らしさと共に、いかにもなお姫様のように見えた。彼女の話など聞かず、はやく紅魔館に帰りたかったが、しぶしぶ聞くことにした。

 

「先日、いきなりこれを押し付けられてしまって、困っていたんです」

「これって何よ?」

「これです。この笠です」

 

 そう言い、彼女は懐に手を突っ込んだ。がさごそと漁ったかと思えば、みすぼらしい、ぼろぼろの笠を取り出す。あまりにも酷いその笠に、私は見覚えがあった。

 

「これ、正邪の笠じゃない」

 

 私のぼやけていた頭は、はっきりとした輪郭を持ってきていた。相も変わらず、気分は暗く、訳もなく泣きだしたいが、正邪の笠がここにあるという事実だけは、何とか頭に入った。

 

「この笠はどこで、いつ拾ったの?」

「拾ってないんですよ。貰ったんです」

「貰ったって、誰に。正邪?」

「射命丸さんです」

 

 予想外の返事に、私は戸惑った。ここで、射命丸の名前が出てくるなんて、考えもしなかったのだ。どうして射命丸が正邪の笠を持っていたのか、ふつふつと疑問が湧いてくる。

 

「なんか、人里の民家で見つけたらしいですよ」

 

 そんな私の疑問を感じとったからか、わかさぎ姫は訊いてもいないのに、答えた。

 

「事故物件のボロ屋に落ちてたとか言ってました」

「それで? どうしてあなたがそれを持っているのかしら」

「報酬らしいです」

「報酬? 何の」

「取材の」

 

 ああ、と私は声を漏らしてしまう。こんな愚問は全く意味がなかった。彼女が報酬を渡す相手なんて、取材相手以外にあるわけがない。

 

「それでも、人の物を勝手に報酬として渡すのはどうかと思うけれど」

「正邪さん、でしたっけ」

「ええ。最近よくこの上を通っているはずだけど、知らない? 目が鋭くて、頭に小さな角のある」

「ああ、あのいつもボロボロの」

「そうそう」

 

 だから笠もこんなにボロボロなんですね、と笑った彼女は、そういえば、と声を零した。記憶を辿っているのか、目を上に向けている。

 

「確か、射命丸さんの取材が終わったすぐ後にも、正邪さんは湖の上を通ってましたね。おんぶされてましたけど。ほら、あの浮かんでいる城が出来た時です」

 

 きっと、正邪が内臓を剥き出しにして紅魔館に来た時のことだろう。慧音に抱えられ、不敵に笑っている彼女の姿は鮮明に覚えている。どうして草履を回収しに行くだけで腹に穴が空くのか、甚だ不思議だった。

 

「わかさぎ姫、っといったかしら」

「はい。なんでしょう」

「あなたに一つ任務を命じるわ」

「任務、ですか」

 

 怪訝そうな顔を見せるかと思ったが、予想に反し、彼女は楽しそうにこちらに身を乗り出した。いきなり、親しくもないような私に命令されたにも関わらず、嬉々としてそれを聞こうとしている。

 

「この笠を、正邪に届けてくれないかしら」

「届けに?」

「ええ」

 

 どうしてこんなことを言っているか、自分でも分からなかった。きっと、正邪がどこか遠い所へ行ってしまうことに、少なくないショックを受けていたのだろう。だから、彼女と私のつながりが欲しかった。そんなところではないか、と自分自身に言い聞かせる。

 

「分かりました。正邪さんに届けに行きます。ただ」

「ただ?」

 

 びしりと指を突きさし、真剣な顔つきになった彼女は、湖の表面を軽く撫でた。この寒さで、薄く氷が張っている。よく見ると、彼女がいるところだけ、氷の色が少し違っていた。

 

「綺麗な氷ができてから、行きます」

 

 やっと冴えてきた頭に、どかりと疲労がたまるのが分かった。

 

 

 

 

 

 霧の湖で余計な道草をしてしまったからか、紅魔館につくまでにいつもより長い時間がかかった。輝針城を見上げる度に、どこか重い気分になり、意識が朦朧とする。どうやってここまで来たのかも覚えていない。

 

 門をくぐり、扉を開ける。美鈴はいなかった。門を守らない門番の存在価値はあるのか、と下らないことを考える。空を見上げると、真っ青な空に輝針城がよく映えていた。幻想的というよりは、狂気的だ。太陽の位置はいつの間にかずっと西に寄っている。どうやら、随分遠回りしてきたらしかった。そのせいか、酷く疲れている。いや、疲れたのはそのせいではないか。

 

 紅魔館へと入り、図書館までの長い廊下を進む。途中で、訳もなく立ち止まったり、壁にもたれかかったりしていると、そこでも時間が経ってしまった。やっとのことで図書館にたどり着くと、そのまま倒れ込むようにして転がり込んだ。絨毯に寝転び、力なく手を投げ出す。もう何も考えたくなかった。こんな姿、誰にも見せられないな、とひとり自嘲気味に呟いていると、「遅いじゃねえか」とせせら笑う声が聞こえた。

 

 ぎょっとし、慌てて立ち上がる。声がしたほうへ急いで目をやる。そこには、不遜な態度で椅子に座る正邪の姿があった。

 

「なんで、いるのよ」

「そりゃあ」

 

 あんなことをしたというのに、彼女は一切の後悔も見せていなかった。むしろ清々しそうですらある。

 

「怪我をしたからに決まってるだろ」

「あなたねぇ」

 

 こんなにも憂鬱な気分にも関わらず、つい口元が緩んでしまう。体を起こし、いつも通り、正邪の体面に座る。怠けている脳を叩き起こすために、大きく身体を伸ばした。正邪の前で情けない姿を見せるのは、癪だったのだ。机を挟んだ正面にいる正邪に目を向ける。彼女が向こう側にいることが、もはや当然のように思えた。

 

「少しは学習しなさいよ。小槌を持ったら駄目だって、分かってたじゃない」

 

 小人の前で、本物の小槌を握った彼女の姿を思い浮かべた。今も正邪の左手は、プラプラと力なく揺れている。

 

「だから、今度は利き手じゃない左手で」

 

 右手で頬杖をつき、面倒くさそうに言った正邪は、そこで言葉を切った。一度目を大きく見開き、すぐに鋭く細める。その険しい目つきで私を睨んだ。一体どうしたのだろうか。

 

「お前、どうして分かった?」

「どうしてって、何が」

「私が左手を小槌で怪我をしたって、どうして分かった」

 

 ああ、と気の抜けた声が漏れる。そういえば、そうだった。自分自身が、姿を消してあの場面を覗き見していたということすら忘れていた。

 

「いい演技だったわよ。ただ、小人が迫害される、ってとこが現実味に欠けていたけど」

「お前、どこから見て」

「さあね。ただ、あなた達は仲が良すぎるのよ。そんなんだと、痛い目に遭うのはあなたよ」

 

 これでもかと顔を顰めた正邪は、頭をがしがしと掻きむしった。うう、とうめき声をあげ、しきりに足を組み替えている。

 

「説明してもらおうかしら」

「説明って何を」

「全部よ」

 

 がくりと顔を落とした彼女は、観念したのか両手を上げ、息を吐いた。その耳は興奮したからか、それとも羞恥のせいか真っ赤に染まっている。

 

「分かったよ」

 吐き捨てるようにそう言った正邪は、がばりと顔を上げた。

「ただ、絶対に他言無用だからな」

「大丈夫よ。絶対に誰にも言わないから」

 

 私の言葉に納得したかどうかは分からないが、彼女はぽつりぽつりと説明を始めた。その顔は、一見無表情のようにも見えるが、溢れ出る感情を必死にこらえていることが、私には分かった。やけに素直な彼女に違和感を覚える。もしかすると、彼女は私にこれを伝えたくて、それが目的で来たのではないか。そんな気がした。だとすれば、気に入らない。それではまるで、もう二度と会えないと言っているようなものでは無いか。

 

「野菜を人里に届けにいって、満身創痍になってここに来たことがあったろ。私はあんまり覚えてないが」

「妹紅に連れてこられた時ね」

 

 忘れるはずもない。あの時の彼女は、意識がないに等しく、ただ、私がやるしかない、とうわ言のように呟いていた。

 

「あの後、人里に草履を取りに戻ったら、甘味屋で慧音たちに会っちまって」

「ええ」

「そのまま寺子屋まで行って、そこで何とか草履を回収できたんだが」

「良かったじゃない」

「その後に、色々あって私の腹に穴が空いた」

「なんでよ」

「さあな。色々あったんだ」

 

 これ以上ないほどに苦々しい顔をした彼女は、小さく首を振った。答える気はない、ということだろうか。

 

「そこでだな、打ち出の小槌が慧音の家から盗まれたと知ったんだ。取り返そうとしたが、まあ失敗した」

 

 両手を強く握り、机を思いっきり叩いた。彼女の鋭い目に、黒い何かが宿っているようにも見える。

 

「そうしている内に、小槌は針妙丸の手へと渡ったんだよ。代償のことなんて、何も知らない無邪気なあいつの元ヘな。そして、当然のように彼女はそれを使ったんだ。なあ、なんて願ったと思う?」

「知らないわ。分かるわけないじゃない」

「友達ができますように」

「え?」

「そう願ったんだよ、あいつは」

 

 馬鹿みたいだろ、と微笑む正邪は、呆れというよりも、馬鹿な娘を思い出すような、そんな表情をしていた。

 

「純粋だろ?」

「純粋といっていいのか分からないけれど」

「あいつは眩しすぎるんだよ」

 

 小人は道具だと言っていたくせに、とつい声に出してしまったが、聞こえてないようだった。

 

「それで? その眩しすぎる小人を置いて、あなたは慧音にここへ連れ込まれたのね。腹に穴を空けて」

「連れ込まれてねえ。遊びに来たんだ」

「これ以上嬉しくない言葉もないわね」

 

 慧音が彼女を連れてきてから、色々なことがあった。本は勝手に漁るし、いきなり怒り出す。河童と喧嘩をしたかと思えば、レプリカを作れと無茶を言う。だが、そんな日々も悪くないと私は思っていた。

 

「あなたはこれからどうするのよ」

 

 このまま正邪が私の手の届かない場所に行きそうで、怖かった。が、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、「決めてねえ」と彼女は呑気に笑った。

 

「とりあえず輝針城にでも行くさ」

「小人のことが心配なの?」

「そんな訳あるか。あんな立派な城はあいつには勿体ないだろ。だから、私が貰ってやるんだ」

 

 そこで、正邪は浮かべていた笑みを消した。目に怒りをためたかと思えば、かき消すように頭を振り、頬を叩く。パチンと子気味いい音が図書館に反響した。

 

「私には義務がある」ぽつりと、正邪は抑揚なく言った。

「義務?」

「あのバカで綺麗な針妙丸を、私たちの汚れた世界に引き込んじゃいけねえんだよ。弱者には幸せになる資格がないなんてことをな、分からせちゃいけないんだ。だから」

「だから、あなたがその代償を引き受けたの? 痛いの飛んでい毛で」

 

 正邪は、否定も肯定もしなかった。彼女の胸の中にあるだろう、小槌のレプリカからは、確かに禍々しい魔力が溢れている。どんな怪我も呪いも他人に移すことができる使い勝手の悪い魔法。彼女がそれを欲しがった理由は、小人の呪いを自分に移すためであった。

 

「でも、だとしても、願いが下克上だなんて変な嘘をつかなきゃいいのに。面倒なことになるわよ」

「あいつが、幻想郷を壊すような異変の引き金だと分からせてはいけない。共犯じゃいけねえんだよ。だったら、私が下克上を起こすための道具として騙したと言えば、同情があつまるだろ」

「だとしても、別の方法があったはずよ。別にあなたじゃなくても、他の誰かに押し付けてもいいじゃない」

 

 たまらず、私は言った。どうして正邪がそこまで小人を庇うのか。小人のために泥をすするのかが分からなかった。文字通り、残りの人生を犠牲にしてまで彼女を守る必要があったのか。彼女のために、そこまでの悪評を被るのが正邪の役目だったのかと、喚いた。納得いってなかったのだ。だが、どうやら納得していなかったのは、私だけのようだった。

 

「普通に考えれば、得意分野はそれぞれのプロに任せた方が良いと思うだろ? 適材適所ってやつだ」

 

 得意げに正邪は笑った。その目には一切の迷いもなかった。

 

「私は嫌われるプロだからな」

 

 面白そうにクツクツと笑った正邪は、きっと上手くいくと自分に言い聞かせるように呟いた。恐怖と決意が入り混じった、澱んだ目で私を見つめてくる。

 

「確か、小槌の代償で、私は鬼の世界とやらに封印されるんだろ? だったら、そのついでだよ」

「そんなにうまくいくかしら?」

「いかせるんだよ」

「誰が」

「お前が」

 

 はあ、と息が漏れる。それは、あまりにも自分勝手すぎる頼みで、面倒くさいもので、呆れた。ただ、それよりも、その願いを叶える気でいる自分自身に呆れる。

 

「だったら、初めから言えばいいじゃない。別に私にまで、小槌に下克上を願ったとか、小人は道具だとか言わなくても」

 

 そんな大事なことを最後まで隠されていたことに、少し腹が立った。天邪鬼に信用という言葉があるかどうか分からないが、とにかく、彼女にとって私はそこまで軽率な奴だったのか、と悲しくなる。

 

「ほら、よく言うじゃないか」そんな私をちらりと見上げた正邪は、嫌味に鼻を鳴らした。その顔は、いつもの彼女と変わらず、憎たらしい笑みを浮かべている。

 

「敵を騙すにはまず味方からだって」

「意味、違うわよ」

 

 微笑む私の目から、一筋の水滴がぽとりとたれた。

 

 

 

 

 

 

 

──天邪鬼──

 

 針妙丸に今生の別れを告げた私は、輝針城の長い廊下を歩いていた。何をしに行くのか。単純だ。巫女と戦い、そして負ける。そのために私は足を進めていた。

 

 “いつ頃に帰ってきますか? ”

 

 針妙丸の、冷たい声が頭に何度も木霊する。私と彼女を結んでいた繋がりが、確かにぷつりと切れたような気がした。敵を騙すにはまず味方から。私は間違ったことはしていない。そのはずだ。きっと、針妙丸は巫女たちに、私は鬼人正邪という妖怪に騙されたんだ、と主張するに違いない。それが信用されるかどうかは鶏ガラの努力次第だ。だが、逆に私が悪事をしたと言われて、信じないような奴の方が少ないように思えた。

 

 きっと、あの鬼人正邪が下克上をたくらみ、幻想郷を混乱に陥れようとしました、と言われても、多くの人は、ああやっぱり、と納得するに違いない。今までの私の行動によって、私の信用は、大きく下へと振りきれている。

 

「身から出た錆っていい言葉だよな」

 

 何の気も無しに、頭に浮かんだ言葉を呟く。それは間違いなく彼の言葉だった。思わず、笑みがこぼれる。なんだよ、まだ声を覚えてるじゃねえか。

 

「まあ、私の呪いはお前と違って、錆びないけどな」

 

 その私が呟いた声は、すぐに轟音にかき消されることとなった。ごうごうと、山なりのような音が、輝針城全体に響き渡ったのだ。その大きな音に驚いた私は、その場で飛び跳ね、辺りをきょろきょろと意味もなく見渡した。

 

 目の前のものすべてが、徐々に左に傾いていく。最初は、私の目がおかしくなったかと思った。針妙丸と縁を切ったことが堪えたのか、眩暈に襲われたのかと、そう勘違いした。ただ、視界が左に傾いていたのは、私が疲れていたからではなく、実際に輝針城の天井が動いているせいだった。

 

 床、天井、壁がゆっくりと、しかし着実に回転していく。床から壁に滑り落ちた私は、たまらず宙へと浮かんだ。結局、ちょうど逆さまに、天井と床の位置が入れ替わったところで、止まった。いったい何が起きているのか、混乱した頭で考える。そんな私をあざ笑うかのように、後ろから猛烈な魔力の風が吹きつけてきた。あまりの激しさに、吹き飛ばされそうになる。振り返ることすら出来なかった。

 

 この城に何が起きているのか。もしかして、もう小槌の魔力が切れようとしているのか。鬼の世界へと封印されてしまうのか、と恐怖したが、違った。廊下のはるか先、辛うじて白い提灯に映し出されているその姿を見て、私はようやく理解した。これは、輝針城の罠だ。侵入者が来た時の合図だったのだ。その、遠くにいる侵入者に目を向ける。

 

 あまりにも早すぎる。流石と言うべきか、それとも恐ろしいと言うべきか。その侵入者は、頭に付けた赤いリボンを揺すりながら、恐ろしい速度でこちらへ近づいて来ていた。くるくると体を回転させ、舞うように突っ込んでくる。赤と白の特徴的なその服も相まって、可憐な梅の花の様だ。だが、私にとってはそんな美しさですら、恐ろしく思える。その巫女の手にはお祓い棒は握られていなかった。私たちを倒すには、それすら必要ないということだろうか。

 

「やっとお城についたっていうのに、これじゃ休めそうにないわね」

 

 気づけば、すぐ近くにまで巫女が近づいていて、驚く。恐れを悟られないように、胸を張り、彼女を睨みつけた。

 

「何だ? お前は。ここはお前たちの人間が来る場所でない。即刻立ち去れ」

「はいそうですか……って立ち去る訳がないでしょ? 空中にこんなお城を建てて何考えているのよ」

「何考えてるか、ねぇ」

 

 この輝針城を経てた張本人。彼女が一体何を考えていたか。おそらく、この巫女が考えている以上に、下らなく、それでいて切実なことを考えていたのだろう。だが、そんなことはどうでもいい。針妙丸、いや、私がこの城を建てた理由はただ一つだけ、下克上をするために決まっている。決まっていなければならない。

 

「聞きたいか? 聞きたいよな? 何を隠そう我らは下克上を企んでいるのだ!」

 

 柄になく、気取った態度でそう言った。身体をぐるりと回し、鶏ガラがよくやっていたように、唇を手で撫でる。余計なことを口にしてしまわないか心配だったが、それでも、私の口は勝手に動いた。

 

 私の言葉に、へー、と単調に返した巫女は、半目で私を睨んできた。その目は凶弾してくるというよりは、呆れや哀れみに満ちている。ますます腹が立った。

 

「本気で下克上を考えている奴がいたのね。そんなの、成功すると思っているの?」

「なんだ? 驚かないな」

「だってさっきお琴の付喪神がそんな話してたもん」

 

 お琴の付喪神、九十九姉妹の片割れの、八橋のことだと分かるまでに、そう時間はかからなかった。

 

「会ったのか? 琴の付喪神に」

「会ったわよ。下克上が云々とか言ってたわね」

 

 さすが八橋だ、と小さく呟く。同じ姉妹でも弁々とは違う。

 

「他に何か言ってなかったか?」

「えっと、そういえば、私は悪くないよー、天邪鬼が悪い、とか何とか言ってたかな」

 

 その時のことを思い出しているのか、うーん、と首を傾げた彼女は、見慣れない妖怪が暴れているから、頭がこんがらがってきたわ、とどこか他人事のように首を捻った。

 

「もしかして、小魚も暴れていたりしてたか?」

「あ、ああ。してたわね。弱かったけど」

「弱かったのか」

 

 なんて名前だったかな、と一瞬だけ考える素振りをした彼女だったが、すぐに諦めたのか、小さく息を吐いた。答えを教えてやろうとも思ったが、止めた。おそらく、それを聞いたところで彼女は興味を持たないと思ったからだ。

 

「とにかく、こんな面倒なことをしでかしたのは、あなたってことでいいわね」

「まあ、な」

「だったら、すぐに止めてちょうだい」

「そいつは無理な相談だな」なんていったって、輝針城から溢れる魔力の止め方を知っている奴なんている訳ないんだから。

「そんなに下克上したいの?」

「当たり前だろ?」

 

 何が当たり前なのか私にも分からなかったが、その心を覆い隠し、得意げに鼻を鳴らした。片方の口角だけ、嫌味に上げる。

 

「これからは強者が力を失い、弱者がこの世を統べるのだ!」

「あんたねぇ」

 

 その大きなリボンをひらひらと揺らした彼女は、じりじりと私に近づいてくる。背中を向けて逃げたくなったが、必死にこらえた。ここから、外へ脱出する経路を必死に頭の中で考える。私は死なない。三郎少年との約束を思い出した。死ぬもんか。鬼の世界に封印されるまでは、絶対に死ぬわけにはいかない。

 

「呆れたわ。そんな誰も得をしない事をする妖怪がいるなんて」

「誰も得をしない?」

 

 恐怖のあまり、凍り付いたかのように固まっていた体が熱くなっていくのが分かった。何かが頭の中でぶくぶくと泡を立て、沸騰し始める。顔が熱くなっていくのが分かった。きゅっと視界が狭まり、巫女の姿だけが鮮明に映っている。その巫女の後ろに、血まみれの三郎少年と、笑顔の針妙丸が左右に並んでいるのが見えた。軽く頭を振ると、その姿は立ち消えていった。

 

「誰も得をしない……だと? 我ら力弱き者達が如何に虐げられていたか、お前達人間には判るまい」

「虐げられてきた、ねえ」

 

 不服そうに眉をひそめた彼女は、ぽりぽりと頭をかいた。こちらは命がけなのに、その余裕な態度が気に入らない。これだから人間は、と吐き捨てる。そして何よりも、私の選択を否定されたようで、怒りが込み上げてきた。

 

「誰も得しないなんて、どうしてお前に分かるんだよ。私たちが味わった苦労を、屈辱を、悲劇をどうせお前は知らないのだろう。いつだってそうだ。どうせ、人里で殺人があったと請願していっても、管轄外だと言うんだろ?」

「何の話よ」

「こんな世界なんてひっくり返っちまえばいいんだ。弱者を糧に生きて、そしてその罪悪感にすら目を逸らし続けてる世の中なんて、クソ食らえだ。何もかもひっくり返る逆さ城で念願の挫折を味わうがいい!」

 

 彼女に向かい、一直線に突っ込んでいく。背中側からふいてくる魔力が私を後押ししているような気がした。

 

 巫女は逃げもせず、ただその場に立っていた。眠そうに欠伸をしてすらいる。なめやがって。

 

 速度を上げ、両手を突き出す。巫女がすぐ目の前で突っ立っている。そのまま突進しようとしたところで、目の前が急に明るい光で包まれた。身の毛がよだつ、恐ろしい光だ。反射的に横へと身を投げ出す。身体のすぐそばを、熱い光の弾が通過していくのが分かった。くるくると無様に身をよじり、そのまま壁にぶつかる。慌てて体勢を立て直し、巫女へと振り返った。彼女は何の気も無しに、手をぶらぶらさせている。

 

「初っ端から突進だなんて、裏を突いたつもりかしら」

「裏も表もねえよ。それしかできねえだけだ」

 

 面倒ね、と首をがくりとさせた彼女は、何やら呟き始めた。すると、陰陽玉が現れ、札のようなものが彼女の後ろに大量に出現した。ふよふよと浮かんでいるそれらは、一つ一つが私の全力を凌駕している。

 

「おいおい嘘だろ」

「何が嘘かどうか知らないけれど、とっとと終わらせるわよ」

 

 不敵に笑った彼女は、身体をくるりと回し、勢いよくこちらへ飛び込んできた。それと共に、周りの札が私の方へと向かってくる。四方八方から、流れ込むように辺りを覆いつくすそれは、嵐の中の雨粒のようだった。到底避けられそうにない。

 

 懐に手を入れたことに理由は無かった。何時もの習慣か、それとも、もしかしたら無意識的にそれの存在に気がついていたのかもしれない。懐には、小槌のレプリカの他に、何か小さな袋のようなものが大量に入っていた。それが何かが分からなかったが、焦っていた私はそれを取り出し、乱暴に投げる。その袋は、すぐに巫女の札とぶつかり、破れた。が、それと共に大きな爆音がし、周囲の札をも巻き込み破裂する。視界が炎で包まれた。一瞬の判断だった。身体が熱で悲鳴をあげるのを無視し、その隙間へと入り込む。爆風と炎で身体に傷ができているのが分かるが、それでもあの博麗の巫女の札に当たるよりかはマシだ。

 

 爆発の光が収まっていき、視界が回復する。体中が痛かったが、まだ痛みを感じている内は大丈夫だということを、経験から知っていた。札がこないかと、辺りを見渡すも、なぜか札はすべて消えていた。一枚の紙が、ペラペラと上から落ちてくる。拾おうと思ったが、止めた。内容は分かりきっていたからだ。あの憎たらしい河童もたまには役に立つ。

 

 巫女の方に目を向ける。一瞬、どこにいるか分からなかったが、自分の真下にいることに気がつき、心臓が止まりそうになった。慌てて後ろへ下がる。が、彼女は追ってこなかった。一体どうしたのか、と訝しんでいると、彼女はふらふらと酔っ払いのように動き、頭を押さえている。

 

「何がどうなっているのよ」と混乱しているのか、焦燥を滲ませていた。もしかすると、輝針城の魔力に当てられたのかもしれない。

 

 チャンスだ。どこからともなく、行けと自分を鼓舞する声が聞こえた。懐から河童のお守りを取り出し、巫女に近づく。こちらをきつく睨んだ巫女だったが、まだふらふらとしていた。握りしめた大量のお守りを思い切り投げつけ、距離を取る。まばゆい閃光と共に、けたたましい爆音が辺りを包んだ。爆風で吹き飛ばされた私は、無様に打ち上げられ、畳に頭を打ち付ける。そして、そのまま天井へと落下していった。

 

 手をつき、立ち上がる。煙が深く、先を見通すことができない。これで勝っただろうか。いや、無理だ。巫女があの程度の攻撃で負けるはずがない。だが、善戦と呼べるくらいにはなっただろう。下克上の首謀者と、認められるくらいの活躍は見せただろうと、そう思っていた。 

 

 だが、現実はそんなに甘くなかった。煙が晴れた先にあったのは、一切の傷を負っていない巫女の姿だった。忌々しそうにこちらを見下し、また、面倒ね、と呟いている。

 

「なんで無傷なんだよ、おかしいだろ」

「そういうのは、もう少し後にやった方がいいわよ。万全な状態で絨毯爆撃をくらっても、結界とかで防げるでしょ?」

「時期尚早だったか」

「そういうこと」

 

 そもそも、普通の人間は結界なんて張れないと思ったが、彼女は普通の人間ではないことを思い出した。妹紅といい、こいつといい、人間離れした人間が多すぎる。もっとも、普通の人間にすら、私は勝てないのだが。

 

「下克上だなんて……幻想郷を混乱に貶める行動は許さないわ!」

 

 使命感に満ちた目で、私を見つめてくる。それは勇ましく、貴くて、素晴らしい目だった。幻想郷を守ろうと、そのために彼女は戦っているのだろう。なんて感動的なのだろう。人の身でありながら、死屍累々の妖怪と戦うなんて、泣かせるじゃないか。だが、だからこそ私はそれを否定する。薄気味悪いものだと嫌悪する。なぜか? 私が天邪鬼だからだ。

 

「混乱だと? だから人間に何が判る。ただ力が無いだけで悪の汚名を着せられ虐げられてきた私の歴史。今こそ復讐の時だ!」

 

 巫女の頭上に色とりどりの光の弾が集まっていた。それは、まるで自分が今まで不幸にしてきた者たちを、自分が関わってしまったばかりに、酷い目に遭った奴らを代弁するような、そんな気がした。

 

 私は悪人だ。これだけは誰がなんていようと変わらない。変えてはいけない。悪人は、追いつめられたらどうするか? そんなの決まっていた。

 

 私は巫女に背を向け、全力で窓へと向かっていく。爆発のせいか、開けっぴろげになっていた。後ろから、光の弾が近づいてくるのが分かる。どうやら追尾性のようだ。その威力は明らかに、一匹の弱小妖怪に加えるにしては過ぎたものだった。避けることもできないだろう。窓から勢いよく飛び出した。冷たい空気が肌を刺し、風が身体を覆う。眩しい太陽の光が目を貫く。

 

 ちらりと後ろを振り返ると、光弾がすぐ後ろにまで迫っていた。躱そうと身をひるがえすも、瞬時に方向を変え、近づいてくる。こんなの反則じゃねえか、と悪態をつく。

 

 追えばいいんでしょ! と巫女の叫び声が聞こえたかと思えば、身体に強い衝撃が加わった。目の前が真っ暗になり、妙な浮遊感に身体を包まれる。これでいい。輝針城異変はもう終わりだ。薄れゆく意識の中、私はなぜか、困ったように笑う針妙丸の顔を思い浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

「あら、目が覚めたようね」

 

 気がつくと、私は輝針城のすぐ下の草原で横になっていた。目の前には、真っ青な青空が浮かんでいる。太陽の位置はさほど変わっていない。痛む頭をさすりつつ、何が起きたのかを思い出していた。確か、私は巫女に負けて、そのまま気を失ったはずだ。そう気がついた瞬間、私はがばりと立ち上がり、空を見つめた。相も変わらず輝針城は浮かんでいて、その魔力に変化もない。拍子抜けした私は、その場にぺたりと座り込んだ。そこで、ようやく隣に誰かが座っていることに気がついた。

 

「それにしても、霊夢にあんな喧嘩を吹っ掛けるなんて、死ぬところだったわよ?」

「え」

 

 ぼうっとした頭で、声をしたほうを向く。そこには、金色の長い髪を手で撫でている白い肌の女性がいた。どこかで見たことがある、禍々しい妖怪だ。私は、再び気が遠くなるのが分かった。

 

「ちょっと、人の顔を見てその反応は酷いんじゃない?」

 

 その威圧感に見合わないほど、軽々しい口調でそう笑った妖怪の賢者は、手に持っていた扇子を口元で開いた。そんな一挙手一投足にも、私の防衛本能は反応する。いっそのこと、ここで舌を噛み切った方がいいのではないか、とそう思うほどだった。だが、私は天邪鬼。口から生まれた妖怪が、その舌を失うなんて、あり得ない。

 

「どうして、お前がここにいる。なんで八雲紫がいるんだ。私をどうするつもりだ」

「あら、命の恩人に対して随分と敵対的じゃない。あなた、あのまま落ちてたら死んでたわよ」

「何が命の恩人だ。私はお前みたいな強者が大嫌いなんだよ」

「奇遇ね。私もあなたみたいな弱者は大っ嫌いよ」

 

 うふふ、と笑った彼女は私の頭に手を置いた。そのまま首を捻り殺されるのではないか、と背筋が凍る。

 

「長い事私は幻想郷を見守っていたけれど、あなたみたいな妖怪は初めて見たわ。でも、私は妖怪の賢者なのよ? 弱小妖怪の嘘なんて全てお見通しなんだから」

「何の話だ」

 

 要領を得ない彼女の言葉に、私は苛立ちではなく、恐怖を感じていた。命の恐怖ではない。今までの私の準備が、計画が狂ってしまう恐怖だ。折角の演じたピエロが台無しになってしまう。そんな危機感を覚えた。

 

「一度目は、夫婦殺害の罪を被り、二度目は、野菜泥棒の罪を被った」

 微笑みながら、彼女は歌うようにそう言った。

「三度目は、小槌を使った事の罪を被るのかしら? 下克上の罪を。二度あることは三度あるというけれど、あまりにも安直ね」

「何の話だ。私は正真正銘下克上の主犯だ。小人を騙し、弱小妖怪を脅し、付喪神を利用した、悪名高いただの天邪鬼だよ。そんな事も知らないのか?」

 

 必死に絞り出した声だったが、その声は震えていなかった。彼女の目をしっかりと見つめ、怒気を含めて話す。恐怖はあった。絶望もあった。だが、針妙丸が目の前の妖怪の毒牙にかかることに比べれば、幻想郷から拒絶されることに比べれば、屁でもない。

 

「天邪鬼は嘘しか言わないと聞いたのだけど」

「誰からだよ。そんな訳ないだろ」

「まあ、いいわ。納得してあげる。下克上を起こしたのは、鬼人正邪だということにしてあげるわ」

「してあげるじゃない、事実だ。私がやったんだ」

 

 頑固ねぇ、と微笑んだ妖怪の賢者は、輝針城へと目線を移した。つられて、私も同じ方向を見ようと、顔を上げる。が、丁度その時に、身体に重い何かが入り込んでくるのが分かった。体中の力が抜け、その代わりに、重い鉛が血管中に入り込むような、そんな感じがした。胸元のレプリカから黒々とした重い物が全身を覆い、息すらできないほどの圧迫感が襲う。その場に這いつくばり、なんとか呼吸しようと、口をパクパクとさせた。

 

「まったく、情けないわね」

 

 頭上から、妖怪の賢者の声が聞こえたが、私は返事をすることができなかった。草むらに顔を突っ込み、体中を襲う不快感に必死に耐えていた。このまま鬼の世界へと引きずり込まれるのだろうか、と恐怖に襲われる。

 

 大きく息を吸い、吐く。少し、不快感が和らいだような気がし、腰を上げようとしたが、吐き気が込み上げてきた。言いようもなく気持ちが悪いが、段々と慣れてきたのか、体が動くようになってくる。

 

 身体をこてんと回転させ、仰向けになる。そのまま空を見上げた。輝針城は当然のように空に浮かんでいる。が、そこからはもう魔力は発せられていなかった。あれ、と疑問に思う。

 

「あそこ、霊夢じゃない?」

「え?」

「ほら、そこよ」

 

 私の頭のすぐ横に腰を落とした妖怪の賢者は、扇子で城のすぐ横を指示した。目を凝らし、見つめる。確かに、そこには巫女がいた。所々服は破れているものの、体に傷はないようだ。だが、そんな巫女のことなど、どうでもよかった。彼女の手には鳥かごが握られていた。そして、その中には見慣れた少女が、見慣れた姿で笑っている。針妙丸が、小さな、本来小人としてあるべき姿でそこにいたのだ。内容は分からないが、何やら巫女と楽しそうに談笑していた。それは、彼女がいつも見せる、無邪気で、眩しい笑顔だった。友達が欲しいと願った彼女の願いは、巫女にまで及んだのだろうか。

 

「どうして泣いているのかしら?」ふふ、と笑った八雲紫は顔を歪めた。

「もしかして、あの小人に感情移入しちゃったの? 騙したと言っていた彼女に」

「馬鹿な」

 

 体を起こし、八雲紫に向き合う。私が針妙丸に感情移入? あり得ない。あいつのことなんか大嫌いだ。

 

「私は天邪鬼だぞ。人の嫌がることをするのが大好きなんだ。下克上が失敗したことが悔しかっただけだよ」

「そう」

 

 そうだ。私は天邪鬼。そもそも針妙丸たちとは住む世界が違ったんだ。これからは、文字通り住む世界が変わるが、それも微々たるものだろう。

 

「なら、そんな天邪鬼にとっては悲しいかもしれないけれど、一つ伝えないといけないことがあるわ。あの小人についてだけれど」

 

 虚空に手を伸ばした彼女は、空を切るように扇子を振り下ろした。すると、まるで空間に裂け目が現れたかのように空が割れ、真っ暗な隙間が現れた。無数の目がこちらを窺っている。その隙間に腰かけながら、彼女は笑った。

 

「こう見えて私は幻想郷の賢者なのよ。私が烏は白いといえばそうなるし、眠れと命じれば荒れ狂う動物も静まる。私が慧音に危険物取扱の資格を授与すると言えば、彼女はそういう立場にもなるわ」

「急にどうした」

「だからね」

 

 魅力的な笑みを浮かべながら、彼女は目を細めた。それは、私をぞっとさせると共に、どこか悲しい印象を持たせた。

 

「この私が、小人に幸せになる資格を授与するわ。私がそういえば、彼女はそういう立場になるのよ」

 

 そう言い残し、彼女は隙間へと消えていった。残された私は、冷たい風が頬を撫でる中、一人で呆然と突っ立っている。空を見上げると、逆さまになった城が、私を見下ろしていた。その姿は、かつてあったような恐ろしいものでは無く、ただのちんけな建物へと変わっている。

 

「ざまあみろってんだ」不思議と、笑みがこぼれた。一度湧いたそれは、中々おさまらず、勢いを増していく。しまいにはケラケラと大きな声で腹を押さえていた。

 

 巫女と楽しそうに笑っていた針妙丸の姿を思い浮かべる。私がいなくても、彼女は大丈夫だ。満足な友達にめぐまれた。妖怪の賢者に、幻想郷にも認められた。これからは、博麗の巫女が守ってくれるだろう。私の選択は正しかった。小人という弱小妖怪が、幸せになる権利を得たんだ。誰もが傷つくことがない、糞みたいなハッピーエンド。その代償が弱小妖怪一匹なんて、なんと気前がいいのだろうか。多少の代償は仕方がない。やっぱり私の選択は間違っていなかった。弱肉強食という、世界の摂理に勝った。この理不尽な運命に、抗うことができた。最高に最低で、それでもやっぱり最高だ。

 

「これが、私の!」

 

 笑いながら、私は叫ぶ。“お前はきっと、困ってるやつを見たら助けるような奴だよ”と懐かしい声が聞こえた気がした。違げえよ、と頭の中で返事をする。視界はなぜかぼやけていた。

 

「天邪鬼の下克上だ!」

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