行きつけの蕎麦屋の親父に、身から出た錆っていい言葉だよな、と言われたことがある。
「俺にも、お前にもぴったりな言葉だ」
身から出た錆、自分の犯した言動が原因で、苦しんだり災いを受けたりすること。その時には意味が分からなかったが、今考えると、確かにその通りだ。私はともかく、彼にはこれ以上ない程ぴったりな言葉であろう。
「それはあれか? 自分の不倫を反省しているのか?」
「おい。不倫とか大声で言うんじゃねぇよ」
珍しく椅子に座っている彼は、慌てるでもなく、怒るでもなく、淡々とそういった。
「誰かに聞かれるかもしれないだろう」
「こんな閑古鳥すら来ねぇ店に、聞き耳を立てるような奴はいない」
目の前に置かれた蕎麦を一気に啜る。ズズズという威勢のいい音が店を包んだ。暖かい露と共に蕎麦の香りが口いっぱいに広がる。
「まぁ、お前の奥さんが天国から見てるかもしれんが」
「だったら、困る」
彼は小さく咳払いをして、頬を緩めた。それはおいといて、と小さく呟いて、頭をかく。妻をおいといて、どうしようというのか。不倫か。
「いいか? 身から出た錆ってのは、蕎麦にも言える事なんだ」
「は? 蕎麦が錆びるっていうのか?」
不倫ではなく、蕎麦の話だった。また来た、と思わず身構えてしまう。彼の、何でも蕎麦になぞらえるのは悪い癖だが、その話が長くなるのも更に悪い癖だ。
「そんな訳ないだろう。馬鹿かお前は」
馬鹿にするように鼻を鳴らした親父に、つい、手に持った箸を乱暴に投げつけてしまいそうになる。ゆっくりと息を吐き、心を落ち着かせる。怒りを覆い隠すように、蕎麦の香りをかいだ。いきり立った心がゆっくりと冷えていく。冷静になった私は、改めて正確に彼の額めがけて箸を投げつけた。
「あっぶねぇな」
不格好に、よろよろと体を傾かせた店主を見て、溜飲が下がる。
「まったく、年寄りを労われよ」
「まだ五十だろ。それに、私のほうが年上だ」
苦虫を嚙み潰したような顔になった彼は、ゆっくりと右足を撫でた。
カタカタと扉が揺れた。客が来たのかと思い後ろに目を向けるが、ただ風で揺れただけだった。どこか安心をしてしまう自分がいて、驚く。嫌悪感と罪悪感が胸を満たした。私はこのくそジジイとの二人きりの会話を楽しんでいるのか。いや、そんなはずはない。ただ、蕎麦を食べるために来ているのだ。そうに違いない。
「いいか、よく聞けよ」やけに大きい声が耳に響いた。
「人間は妖怪と違って、か弱いんだ。死ぬときは簡単に死ぬんだよ。だから、妖怪であるお前は人間を労わらないといけないんだ。弱い者は助ける。この世の常識だろ?」
「そんな常識は知らない」
「いいか。皆が言えばそれが嘘でも本当になる。そしてそれが常識となるんだよ。そんなんだから、蕎麦が錆びるなんて言うんだ。これでは明日のかき揚げも無しだな」
彼は楽しそうに、言葉を続けた。目元を細め、どうだ? と私に問いかけているようにも感じる。腹立たしい。小癪だ。
「なら、身から錆うんぬんと、蕎麦はどう関係があるんだよ」
反射的に口に出た私の言葉を聞いた途端、彼は顔を輝かせた。水を得た魚のような、菓子をもらった少年のような、蕎麦を打っている蕎麦屋のような、純粋無垢な笑顔だ。
「ほら、蕎麦にはさびがあるだろ?」
「は?」
「鈍いなぁ。わびさびっていうじゃないか」
「……まさかそんだけとかいう訳じゃないよな」
もしそんな駄洒落を言いたいだけで、ここまで私を馬鹿にしていたのだとすれば、こんなに不愉快な事はない。
「当然、それだけじゃない」彼は不服気に眉をひそめた。
「蕎麦には、さび。わさびもついてくるじゃないか」
私は机の上に置いてあった箸を、もう一度投げつけた。
彼が死亡したのは、これから五日後の事である。
「酷いじゃないか! いきなり塩を投げつけるなんて!」
人形のような彼女は、小さな体を目一杯伸ばして、私をぽかぽかと叩いた。
「お前がそんなに小さいのが悪い」
私たちは近場の民家へと移動していた。私が入っても大丈夫な、数少ない家のうちの一つだ。この辺りの建物にしては比較的綺麗で、しかもかなりの広さがある。とはいっても、ボロ屋には変わりはないのだが。始めは目前の少女の小さな小さな家に入ろうとしたのだが、大人二人が入るには流石に無理があったので諦めた。
「もしかして、ここの家主を殺して奪ったのか?」
慧音が薄く微笑みながら、聞いてきた。その目は柔らかく、本気で言っている様子では無かった。きっと、妖精にすら勝てない妖怪には無理だと、高を括っているに違いない。それはそれで腹が立つ。だが、事実なので言い返すことはしなかった。
私が慧音に頼んで引き合わせてもらった人物。小名針名丸という名の少女。想像したよりも大分小さかったが、それ以外は、概ね聞いていた通りだ。幼くて無知で無邪気で純粋で、壊れやすい。そんな奴に会ってどうするのか? 何が良かったかのだろうか? 疑問がふつふつと湧いてくるが、頭をふってかき消す。今はそれを考える時じゃない。
それよりも、長細くL字型に部屋を仕切っている机の上で、足をぶらぶらと振っている少女について考えるべきだ。
「何でいきなり塩を投げつけたの!? 小さいから? 意味が分からないよ!」
「気まぐれだ」
「せ、せんせい。わたし、この人きらい」
机の上に立ち上がり、こちらを指さした。あまりに勢いよく立ち上がったせいで、被っている茶碗がずり落ちている。
「大丈夫。先生もこの天邪鬼は嫌いだ」
「おい先生。人に指さしたら駄目ってことくらい教えとけよな」ゆっくりと右手をあげ、中指だけをたたせて慧音に向ける。
「教育者失格だ」
「あ、あなた。けいね先生になんてことを……」
「こんな情けない先生に代わって私が教育してあげてんだよ。反面教師だ」
「いや、そうじゃなくて」
どこか哀れみを含めた目で、こちらを見つめている。可哀そうだけど、明日には鶏肉になって、美味しく頂かれるのね、といわんばかりの目だ。
「そんなことしたら頭突きが……」
「頭突き?」
突然出てきた頭突きという単語を訝しんでいると、いきなり目の前に慧音の顔が表れた。満面の笑みだが、目に光がない。首を両手で掴まれ、彼女の真正面を強引に向かされた事に初めて気がついた。
そういえば、聞いたことがある。寺子屋の先生を怒らせた生徒は、軒並み大きなたんこぶをつくって帰ってくると。それも、大概の場合は額に。なるほど、つまりは頭突きをされていたという事か。
「おい待て、体罰は教育によくない」
「実は私も反面教師なんだ」
「やめろよ! 子供の見ている前だぞ!」
「だからこそだ」
頭を掴む力が強くなる。私の角のちょっと手前を押されているせいか、痛み自体はそれほどでもない。ただ、絶対に逃がさないという意思を感じさせて、恐怖が体を蝕んだ。弱小妖怪ならではの危険センサーが過敏に反応している。
「待ってくれ、弱いものいじめは良くない。止めて。止めてください。どうかご慈悲を!」
痛みと、衝撃に備えて目を閉じる。ああ、どうして私はいつも痛い目に会うのだろうか。頭の片隅で、きっと身から出た錆だろうと笑う声が聞こえた。懐かしい声だ。こうなったのも全て、お前のせいなのに。それを身から出た錆というのはあんまりではないか。そう答えたが、頭の中の彼は返事をしない。
ふと、衝撃が中々やって来ない事に気がついた。強いショックを受けると、辺りがコマ送りのように遅く見えるというが、余りにも遅すぎる。それに、私は今目を閉じているから、関係がないはずだ。
恐る恐る目を開く。鋭い光が目についたのか、なぜか視界が少しぼやける。何度か瞬きすると視界が戻っていった。病み上がりの私の目に映ったのは、今にも振り下ろされんと、頭を仰け反らせる慧音の姿ではなく、心配そうにこちらを見つめる先生と生徒の姿であった。
想像と現実の違いに、ふぅと気の抜けた声にもならない声が漏れた。
「せ、せんせい。もう許してあげてもいいんじゃないかな」
両眉をハの字にした少女が、手足をバタバタさせながら、慧音に訴えかけた。
「ほとけの顔も三回だし!」
「そう、だな。私も少しやり過ぎた様だ」
慧音は左手で長い銀色の髪をいじりながら、申し訳なさそうに口を窄めた。
「まさか、泣いてしまうとは」
「は?」思わず情けない声が出てしまう。泣いている? 誰が?
「もしかして、気づいていないのか?」
「何が?」自分でも驚くような、低い声が出た。
「お前が……いや、何でもない」
あくびをする振りをして、目元に手を当てた。人差し指に冷たい何かが当たる。冷たさを頼りに指でなぞっていくと、頬を緩やかな弧を描き、顎にまで届いていることが分かった。下を見下ろすと、ぽたぽたと音を立てて落ちていっている。
これは涙だろうか。いや違う。誰が何と言おうと、これは涙ではない。きっと、雨水だ。外を照らす太陽が、遂に根負けして雨が降り始めたに違いない。そして、私の丁度真上に小さな穴が空いていて、垂れてきたんだ。何と合理的で信用性のある仮説だろうか。私があいつを思い出して涙を流していたなんて、トンデモ仮説よりは遥かに、ましだ。
「まぁ、よくあることだよ!」
少女の、元気な声が頭に響いた。気づけば、いつの間にか顔を上げて彼女を見つめてしまっている。
うんうんと、腕を組んで頷いている彼女は、仕草自体は大人びているにも関わらず、背伸びをした子供にしか見えない。こんな餓鬼に慰められるなんて、普段であったら耐えられない程の屈辱だ。でも、なぜだか不思議と胸が暖かくなった。
「私もせんせいに頭突きされたら、泣いちゃうもん」
「お前と一緒にするな」
にぱっと笑った少女は、机から私の肩へと飛び乗り、肩車のように足で頭を挟んだ。その確かな温もりが、心の氷を溶かしていく。私は、その氷が解けたことによる滴を、また零さぬようにと注意しなければならなくなった。
視線の陰に、写真がうつった。L字の机の、先端。私たちからは一番遠い所だ。黒髪の髪を後ろに束ねた若い女性が、優しく微笑んでいる。いつの日か私もこんな笑顔を出来る日が来るだろうか。
いや、絶対に来ないだろう。
「それで? あなたは何の用で私に会いに来たの?」
慧音が持ってきた握り飯を頬張りながら、針名丸が尋ねてきた。慧音はいつも握り飯を持ち歩き、生徒に配っているらしい。ペットに餌をやる様なものだろうか。
手に持った握り飯がぽろぽろと零れ、私の頭の上に降り注いでいる。不愉快すぎて、咎める気もうせてしまう。
「慧音にも言ったけどな、気まぐれだよ。気まぐれ。暇つぶしといってもいい」
「えー、つまらなーい」
声を尖らせながら、バタバタと足を振った。ぺちぺちと乾いた音が鳴り響き、額に鈍い衝撃が走る。
「お前には私が面白い妖怪に見えるのか」
「見えなーい」
米が着いた手で、角を握る針名丸を乗せたまま、腰をあげる。
壁にかかった古い鳩時計に目を落とす。年季が入っており、本来は黄色く塗装されていたであろうそれは、虎のような斑点模様となっていた。それでも、自分の背丈ほどあるそれは、言いようのない威圧感を放っている。時計は右と左を分割するかのように、短針と長針が一本の線となって真ん中を縦に仕切っていた。
「もう六時か。そろそろ帰った方がいい。いくら人里とはいえ夜道は危ない」
「なに先生みたいなこと言ってんだよ」
「私は先生だ」
頭に乗っていた針妙丸を引き剥がし、慧音へと乱暴に投げつける。うわっという悲鳴と共に、慧音のため息が聞こえてきた。
「お前な、いくら仲良くなったからといって友人を投げてはいけないぞ」
「待て。まず私とこのチビは仲良くないし、まして友人でもない」
「……まぁ、天邪鬼がどういう妖怪かよくわかったよ」
悲しげな笑みを浮かべた慧音は頬を膨らませている針妙丸を持ち上げた。
「なら、私達は帰る。もし用があるなら、また訪ねてくれ。歓迎はしないが、もてなすよ」
「いらねぇ」
「あなたはどうするの?」
慧音の腕から抜け出して、机へとよじ登りながら、小人の少女は首を傾げた。
「帰らないの?」
「私は妖怪だぞ。夜道を恐れる妖怪がいるか」
「えー、でも」小さな声を絞り出すように、彼女は言った。
「この前、この辺で人が殺されたって聞いたし」
強い風が吹いたのだろうか、カタカタと扉が音を立てた。俯いている慧音の横を通り、扉を開ける。ひゅぅと気の抜けた音がなり、冷たいそよ風が部屋に入り込んでくる。空を見上げると、威張っていた太陽の代わりに、まん丸な月が浮かんでいた。
「別に、珍しいことでもねぇだろ」私の声は、少し震えていた。
「でも、みんな怖がってたよ。あれは天罰にちがいない! って」
「なら、博麗神社にでも参拝に行け。まぁ、あそこには神なんざいねぇけど」
「でも……」
「あー! でもでもうるせえ! なんだ? 抗議活動でもするのか? いいか、天罰だか何だか知らねぇが、たかが人間が一人死のうがどうでもいいんだよ。そいつが弱かったから死んだ。ただそれだけだ!」
頭の中の混濁を、胸に溜まった悲壮を、押し留めていた祈りを吐き出すように、私は喚き立てる。頭で考えるよりも早く、言葉が溢れてくる。目の前で涙目になっている少女のことなど、最早見えていなかった。
「おい、天邪鬼。それ以上の暴言はこの私が許さない」
横にいたはずの慧音が、いつの間にか目の前に立っていた。
「ああ!?」
「生徒に対する暴言は許さないと言ったんだ」
底冷えするような、慧音の声が聞こえたかと思えば、頭の両端に鈍い痛みが走った。ついさっき感じたことのある、嫌な痛みだ。
「お前に一ついい話を教えてやろう」
「結構だ! というか離せ」
頭を動かすことができない。万力のような力で私の頭を固定した慧音から、はっきりと殺意が溢れ出ている。
「昔、とある村に男がいた。その男は嫌いな人に呪いをかけた。それもとびっきりに過激なやつを、だ。その男はどうなったと思う?」
「知らん!」
頭にミシリという音が鳴り、激痛が走る。
「その男は死んだ。指先から段々と皮膚が固まっていって苦しみながら死んだ。その呪いは男が扱うには過ぎたものだったんだ。つまり私が何を言いたいかと言うと」
顔をあげて、慧音の顔を見つめた。銀色の、青みがかった髪は薄く緑に変色し、二本の大きな角が威圧感を放っている。目の前にいるのは、“人間“上白沢慧音から”妖怪“ワーハクタクに変わってしまったのだという事をようやく理解した。
「身の程を知れ、という事だ」
「待て待て待て、仏の顔も三度までじゃなかったのか」熱くなっていた頭は急速に冷えていき、全身の産毛が逆立つ。人里の守護者は満月の日に近づいてはならない、という話を思い出した。いやという程実感している。
「残念だったな。私は仏ではない。博麗神社にでも行って祈ってろ」
透き通った冷たく乾いた空気の中、人里の外れには骨が砕ける音と一人の妖怪の断末魔が木霊した。しかし、それを見届けた小人の少女は、同情するでもなく“身から出た錆だよ”と呟いたという。