――魔女――
「二度あることは三度あるというけれど」
目の前に座る、もはや紅魔館の常連となりつつある妖怪に向かい、私はわざとらしくため息を吐いた。
「だからといって、何も何度も怪我しなくてもいいじゃない」
開いた本を閉じ、彼女をちらりと横目に見る。どこでどうしたらそんな怪我を負うのだろうか。あまりの多種多様な怪我に、むしろ称賛を送りたくなる。たくさんの怪我をしたで賞を勝手に心の中で授与した。
「仕方ないだろ。二度あることは三度あるなら、三度あることが四度あっても」
「死ぬわよ、あなた」
「私は死なねぇよ」
貧乏ゆすりをしながら、正邪は刺々しく言った。その、鋭い目で図書館を見渡し、落ち着きなく額をさわっている。顔は青白く、一向に私と目を合わそうとしない。そのいじらしく微笑ましい仕草のせいか、まるで人間のように見えるが、怪我のせいか心的外傷のせいか、死人のように生気がない。気合で軽口をたたいているようにも見えた。それでも、うわ言のように、「私がやるしかない」と唱えていた時よりは、ましだ。
今日の紅魔館はいつにも増して騒がしかった。レミィが妖怪の山の会議から帰ってきてからというもの、様々な細かい指示が私たちに出されていたが、その密度が今日になって急に増した。やれ壁のこの位置に札束をぶら下げておけだの、本の並びを少し変えておけだの、正直言って面倒くさいことばかりだったけれど、珍しく真面目な親友の頼みを断ることはできなかった。そのせいで、正邪が来た時には館の誰もが疲れ切っていた。あの美鈴ですら「いい転職先知りませんか? 図書館の司書とか」と不満をこぼすほどだ。だから、正邪が傷だらけで門の前に来た時、私は喜びのあまり拳を握った。「しばらく正邪の面倒を見てくれ」レミィの最後の命令を思い出す。無駄に広いこの館をいったりきたりするよりは、口の悪いこの弱小妖怪と話す方がまだマシだ。
「いいから、早く治してくれ」
「私は医者じゃないんだけれど」
「お前みたいな不健康な顔つきの医者がいてたまるか」
あなたは本当に治してもらう気があるのか、と言い返そうとしたが、止めた。彼女が怪我をしてここに来るのは初めてのことではなかったし、暴言を吐き続けるのも初めてではなかった。そして何より、そんな失礼極まりない彼女に呆れながらも、回復魔法をかけてしまうのも初めてではないのだ。私はいつからこんなに優しい魔女になったのかしら、と自嘲気味に呟いてしまう。いったい、誰から影響を受けたのやら。
手早く詠唱をすまし、魔法を発動する。最近ではこの魔法を使いすぎて、魔導書が勝手にこの魔法のページを開くようになった。そのことを部下に笑いながら話したら「そんなんだから、いつまでたっても本の虫どまりなんですよ。いつかは蛹になって、蝶にならないと」と馬鹿にしているのか励ましているのか、よく分からないことを言われた。それもこれも、全て正邪のせいだ。
「おい、まだか」
「え?」
「正直に言えば、もう結構きついんだ。早くしてくれ」
青白い顔で、正邪はカタカタと震えていた。魔法をかけたのにも関わらず、相変わらず腹からは内臓が覗いている。どういうことか、と首を捻ったが理由はすぐにわかった。単純に、彼女の傷が私の魔法の治癒力で足りないほどに重症なのだ。分かりやすく言えば、死にかけている。焦りを感じつつも、私は呆れていた。どうして一月の間に2回も致命傷を負うのか。しかも、いずれも人里で、だ。
魔導書をひっくり返し、急いで目当ての項を開く。手早くも慎重に術式を唱えると、先に束ねた毛がついた細い杖が飛び出した。それをつかみ、レミィを念話で呼び出す。
そうこうしてるうちにも、正邪の容態は悪くなっていった。はやる気持ちを抑え、レミィの登場をまだかまだかと待ち続ける。図書館の、無駄に大きい扉を見つめていると、バタンと大きな音がし、小さな吸血鬼が飛び込んできた。間髪入れずに手に持った杖を正邪に持たせ、レミィに向けて振るように伝える。その時の掛け声も忘れないように、と念を押した。
「痛いの痛いの飛んでいけ」
正邪とレミィが同時に珍妙な掛け声を叫ぶと杖の端から光が溢れだした。かと思えば、一瞬にしてレミィの体に傷が刻まれた。あちらこちらから血を吹き出し、骨が折れる音が聞こえる。だが、それでも親友は一切動じることなく、ただそこに立っていた。
「私だって痛みは感じるのだぞ」
「そんなことは知っているわ」
はぁと息を吐いたレミィは、ちらりと正邪を見た。そして、あっと声を漏らし、私の元へと歩いてくる。腕を組みコツコツと歩いている姿は、幼さと共に気品が感じられた。
「パチェ、ケチャップ知らないか?」
「ケチャップ?」
「ああ。一週間くらい前におやつ用に買ったんだが、無くなっていた」
「ケチャップをおやつにするなんて、まるで吸血鬼みたいね」
「私は吸血鬼だ」
諦めたのか、それともケチャップなんかのために時間を使うのが惜しくなったのか、何も言わずに去っていった。 そんなレミィの背中から目を離し、床に座り込んだままの正邪に目を落とす。顔は青白いままだったが、傷は無くなっていた。剥き出しだった内臓もきちんと皮膚の下へと戻っている。
「魔法ってのは何でもありなんだな」淡々と正邪は言った。
「何でもじゃないわよ。さっきの魔法だって、傷を治したんじゃなくて、レミィに移しただけなんだから。この魔法はどんな怪我も呪いも治せる。正確には治ったようにみせる事ができるけれど、実際はただ移動させているだけなのよ。強い力には代償がつきものなの。レミィに感謝しなさい」
「それにしても、痛いの痛いの飛んでいけとは滑稽な掛け声だな」
「うるさいわね。文句はレミィに言いなさい」
そこで会話は終わるだろうと思っていたが、彼女は予想の他興味を持ったのか「その魔法は変な杖が必要なのか?」と訊いてきた。誰であっても魔法に関心を持ってくれるのは大歓迎だ。自然と頬が緩んでいるのが自分にもわかった。
「杖が必要というか、この杖に魔法を仕込んであるのよ。特定の言葉を言えば魔法が発動するように」
「魔法の杖ってわけか」
「レミィ曰く“痛いの痛いの飛んでい毛”らしいわよ。だからわざわざ馬の毛を杖の先に」
「馬鹿じゃねえの」まだ痛みが引かないのか、床に座り込んだまま正邪は抑揚なく言った。
時計に目をやる。15時ぴったり。吸血鬼のくせに昼型の生活に挑戦しているレミィが、眠い眠いと文句を言いはじめる時間帯だ。かくいう私も、朝から忙しかったからか眠気が押し寄せてくる。
「そういえば、ケチャップが無くなったとか言ってたが」
椅子に深く座り直した正邪は、切れ目が入った服に手を入れ、ごそごそと弄っていた。
「私が前貰っていってたんだ」
「何してんのよ」
「まあ、穴が空いて全部ぶちまけたんだけどな」
「本当に何してるのよ」
ふん、と不敵に笑った彼女は、怪我の具合を確かめているのか、ペタペタと自分の身体を触り、思いついたかのように席を立った。私に背を向け、本棚の方へ歩いていく。奇しくもそこは、今朝レミィに整頓をさせられた本棚だった。これも、運命によって決まっていたのだろうか。その本棚に積まれているのは日本の童話だった。幻想郷に引っ越す際に、民間伝承を調べる資料にしたものだ。一度目を通してからしばらく放置してあったが、今日久し振りに整頓をした。その内の一冊を、正邪は乱暴に抜き取った。もっと丁寧に扱ってほしいものだ。
「なあ、この本貰っていってもいいか」
「良いわけないじゃない」
「なんでだよ。こんなにあるんだから一冊くらい無くても平気だろ」
断ったにもかかわらず、彼女はすでに本を懐に入れようとしていた。
「その理屈でいえば、あなたの歯から一本抜いてもいいってことね」
「良いわけないだろ。本はまた買えばいいが、歯はもとに戻らない。価値がちげぇよ」
「あら。歯の一本や二本は魔法で何とかなるわよ」
おお怖い怖い、と馬鹿にするように鼻を鳴らした正邪は、不貞腐れたのか、舌打ちをして、何も言わずに席に戻った。その手にはきちんと本が握られている。ちゃっかりしているというか、意地汚いというか。
広い机に私と向かい合うように座った彼女は、表紙をめくり、真剣な顔つきで見つめている。とても、童話を読んでいるようには見えない。そもそも、天邪鬼が真剣に本を読んでいる姿は、それだけで新鮮だった。
ぺらりと、紙が互いにこすれる音だけがその場を支配する。乾いたインクと、埃の匂いが鼻につく。嗅ぎなれた本のいい匂いだ。目の前に広がる文字列、そして香りは、私を優しく包み込み、溢れる知識の毛布にそっと添えてくれる。頭に新たな情報が加わる度、得も言われぬ快楽が押し寄せてきて、思考はその都度加速した。その加速した私の脳が、ふと、一つの疑問を紡ぎ出した。手に持っている魔導書の様子が、いつもとは違うのだ。魔導書、といっても本には違いないのだから、様子も何もあるはずないのだけれど、明らかな違和感があった。ページを捲ろうとすると、不自然に紙が手に吸い付き、きれいに目当ての場所まで移動する。逆に、一つのページを熟読しようとすると、本の折目が伸ばされ、分厚い本の最初のページにも関わらず、手で押さえることなく読むことができた。最初は、この本にかけられた魔法のせいだと思ったが、それにしては本に魔力が籠っていない。そもそも、術式すら存在しなかった。
疑問が確信に至ったのは、正邪が読んでいる本の様子だった。彼女が読んでいるのはただの童話で、魔導書ではない。当然魔法は一切かかっていないはずだ。けれど、その本はまるで生きているかのように蠢いていた。正邪の手から逃げるように右に逃げ、上に飛び、捲られているページを強引に閉じようとしている。普通の本がしていい動きではなかった。
しかし、それよりも妙だったのは、そんな本の態度を意に介さず、無理矢理押さえ付けている正邪の方だ。暴れ狂う本に眉一つ上げず、体重をかけて熟読している姿は異様としかいえない。まさか、彼女は普段から凶暴な本を読んでいるわけではないはず。だとすれば、彼女はこの違和感の原因を知っているに違いない。そう思うと、肝が冷えた。正邪に馬鹿にされることを恐れたわけでも、身の危険を感じたわけでも無い。もし、正邪がこの本にこびり付いている力に心当たりがあるなら、発生源に関与しているなら、面倒なことになる。
「なあ、少しばかり鶏ガラに聞きたいことがあるんだが」
私が彼女の手に持つ本を注視していたからか、正邪の方から私に切り出してきた。
「もしも。もし、異変を起こしたとしたら、その妖怪はどうなるんだ」
「急にどうしたの?」
「いいから、答えろ」
本から目を離さずに、彼女は言った。その声にはどこか危機感が溢れている。私は今まで異変を起こした連中の現在を思い起こしていた。
「まあ、一度巫女に締められれば、あとは結構自由よ。よっぽどのことをしでかさなければ、逆に巫女と知り合いになれて、色々得することも多いわ」
「よっぽどのことって、どんなことだ」
「そんなの知らないわよ。幻想郷を壊そうとするとかじゃないの?」
博麗神社を地震で壊した天人崩れの生意気な声が頭に響いた。確かあの時、八雲紫はかなり怒っていたはずだ。それでも彼女が殺されたり、封印されていないことを考えると、それくらい大それたことをしない限りは大丈夫だろう。まあ、それでも巫女に怒られるのは生半可な恐怖ではないけれど。
「幻想郷を壊す、ねえ」どこか意味深に声を漏らした正邪の顔は、心なしか青白い。窓がないのに、外の様子を気にしているのか、しきりに西を見つめていた。
「安心しなさい。あなたみたいな小物に異変なんて起こせないわよ」
「小さい奴ほど、何をしでかすか分かんねぇんだよ」
苦々しく口を歪めて、もしも、と小さく呟いた。言いづらいのか口をまごつかせている。いい知らせでないのは分かった。自然と、手に力が入る。
「もしも、逆さまの城を幻想郷に生み出したとしたら、願いの対価に発生させてしまったとしたら、これは異変になるのか?」
「え?」
「だから、逆さまの城だよ。あるだろ、外に」
開いていた本がぱたりと閉じた。声にならないような、小さな悲鳴が図書館に木霊する。私の声だ。聞き間違いじゃないかと、何度も正邪の言葉を頭でなぞるも、結果は変わらなかった。妖怪の山と人里の間に浮かぶ、逆転した城。つい先ほど、レミィが発生を予言し、そしてその十分後に誕生した悪意の城。その禍々しい姿は、既に脳裏に染みついていた。暗い顔をしたレミィの顔と、残酷な言葉がガンガンと胸を叩く。
「何だよ。なに黙ってんだよ」不安を隠そうともしない正邪の声が、どこか遠くに聞こえた。その反応で、あの城とこの弱小妖怪との関係性は既に明らかになっているようなものだ。
「死ぬわよ、あなた」
口から出たのは、心底辛そうに笑うレミィの運命の言葉だった。
私は既に百年という時を生きてきた。その人生の大概を魔法の研究に費やし、そして時間以外に、地位も名誉も金も、そして倫理すら捨てて、ただひたすら魔法を極めようと、それだけを求め続けてきた。幸か不幸か今では愉快で鬱陶しい仲間に囲まれ、それなりに魔法以外のことにも手を出してはいるが、それでも魔法研究が一番の楽しみであることは変わらない。
そんな楽しい魔法研究だが、主として魔導書を読み知識を蓄えるのが一般的だ。必要な知識を得て、改良し、蓄積する。それを血液の循環のように何度も繰り返していくうちに、高度な魔法理論が形成されていく。それが魔法研究の基礎であり、全てだ。しかし、それはあくまで机上の空論に過ぎない。私のような高等な魔女は、ただ知識を得るだけではなく、実践もしなければならない。ただ、実践とひとえに言っても、種類は様々で、単純に理論通りに魔力を練り上げればいいものから、様々な道具、生物、環境を整える必要がある大掛かりなものまで、千差万別だ。後者においては、必要な生物、あるいは道具の内に人間が含まれることも少なくない。とはいっても、生きている人間を使うことは稀で、ほとんどの場合は既に息絶えた死体を使っていた。だからだろうか。私にとって人間の死体など驚くに値しないものであるし、見慣れたものであった。もし、その死体は立派な木に毎年なるものなんだ、と言われても、へえそうなの、としか思えないくらいにありふれたものだった。それは、いつも手元にあり、集めるまでもなく数をそろえられたからだ。一切の血が通っておらず、青白く、そして不気味に固まっている死体の顔は、嫌というほど見てきたし、見慣れたはずだった。ぱっと見ただけで、死後どのくらい経っているか判断できるほどだ。
だから、今私に向かい怒り勇んでいる正邪の真っ青な顔を見て、その顔を本能的に死人と判断してしまい、驚いた。それほどまでに彼女の顔に血の気がなく、青ざめている。
「おいおい、冗談にしては面白くないぜ」
冗談だと言ってくれよ、と縋るように彼女は叫んだ。言葉の端を震わせて、机を強く叩く。
「たかが変な城が出てきただけじゃないか。それで何で死ななきゃならない」
さっきまで、どこか他人事で、心ここにあらずといった様子だったが、彼女は急に感情を露わにした。思い切り手を打ち付けた机が悲鳴をあげ、文字通り飛び跳ねる。こんな所にも影響が出ているのか、と少しは驚いてほしい。
「何とか言ったらどうだ!」
「そういう運命だからよ」
面倒くさくなった私は、適当に彼女を突き放した。が、絶望に打ちひしがれ、何をするか分からない彼女を放っておくわけにもいかず、しぶしぶ説明をすることにした。意外に面倒なことになったわね、と愚痴を零すことも忘れない。
「輝針城を出したのは別にどうでもいいわ。ただ、そこから溢れている力が問題なのよ」
「きしんじょう? ちから? あの城に力なんかあるのか」
「違うわよ。あの城が何なのか、もしかして知らないの?」
「それを調べるためにこの本を貰ったんじゃないか」
正邪は床に落ちた本を拾い上げ、表紙をぱんぱんと強く叩いた。本をあげた覚えは無いし、そんなに強く叩いてほしくないが、今はそれどころじゃない。正邪が持っている本をまじまじと見る。薄く、そして小さな子供用の絵本だ。表紙にはでかでかと一寸法師と書かれている。
「そんなちんけな本で一体何が分かるというのよ」
「おい、私の本にケチをつけるのか」
「私の本よ」
ため息を隠すことができなかった。彼女は事の重大さを理解していないのか。それとも理解していて、そんな頓珍漢な行動をとっているのか、分からない。
「そもそも、あなたはあの城とどういう関係なの? もし当事者なら、そんな冗談を言ってないで真面目に対策しないと、目も当てられないことになるわよ」
「冗談? 私は冗談なんて言った覚えはない」
「本気でその絵本を参考にしようとしたの?」
「そうだ」
呆れて声を出すこともできない。幻想郷を混乱に落としうる城を作り出しておいて、絵本でどうにかしようなど、愚かにもほどがある。いくら弱小妖怪といえど、そこまでとは思いもよらなかった。
「馬鹿ね。そんな本でどうにかなるなら焦る必要なんて無いわ。もう少し頭を使いなさいよ。もっと専門的な古文書なら右に積んであるわよ」
丁寧にその本を何冊か取り出し、彼女の前へもっていってあげた。が、当の本人は腕を組み、ソファに身体を沈めている。私に向かいわざとらしく鼻で笑い、手をひらひらと振った。
「馬鹿だな。これだからお前らみたいな視野狭窄に陥っている強者は。もう少し頭を使えよ。私は弱小妖怪だぞ。お前らみたいに長生きでも無ければ、際立った知恵もある訳じゃない。人望なんてもってのほかだ。そんな私が古文書なんて読める訳ないだろ。私にはな、こんなちんけな絵本しか頼れるものがねぇんだよ。今まで、そんな綱渡りみたいな人生を送ってきたんだ。立派な図書館に引きこもって、溢れ出る才能で無双して、ただただ知識欲を満たしているようなお前には分からんだろうがな、私たち弱小妖怪はすべてを犠牲にしてでも生きるのに必死なんだよ。私たちにはな、資格が無いんだ。何の資格か分かるか?」
「さあ、古文書を読む資格かしら」
自嘲気味に笑みを浮かべ、次々に言葉を発する正邪に、私は面食らっていた。忘れかけていたが、彼女が天邪鬼だという事を再認識する。天邪鬼は面倒くさいが、怒らせるとさらに面倒くさくなる。それがよく分かった。
「古文書なんて読む機会のある奴の方が珍しい。もっと根本的だ。幸せになる資格だよ。私たちにはそれがない」
「なんで、そう決めつけるのかしら」
彼女に反論したのは、何のことは無い。このまま彼女の好きなように話されるのが癪だったからだ。反骨心と言ってもいい。もしかすると、自分が強者であるという立場に胡坐をかいていると、暗に言われたような気がして、腹が立っていたのかもしれない。が、いずれにせよ、ほんの軽い気持ちで私は言った。
「そんなことを決めつけるのは、酷いんじゃない? もしかすると、あなたが知らないだけで、弱小妖怪でも幸せに暮らしている奴がひとりくらい」
「いない」
「でも」
「いないといっているんだ!」
彼女の声で、図書館がビリビリと震えた。本棚に声が共鳴し、部屋全体が細かく震えている。正邪に目をやった。俯いている彼女は、弱小妖怪であるはずなのに、なぜか威圧感を放っていた。部屋の震えは、彼女の怒りによって起きているのだと、半ば本気で信じそうになるくらいだ。
「いいか、よく聞け。弱小妖怪はな、虐げられる星の元で生まれてきてるんだよ。お前らの好きな言葉でいえば運命だ。そういう運命なんだ。どんなに善行を積んだところで、どんなに自分を犠牲にしたところで、バッドエンドしかないんだよ。お前らが何気なく使いつぶしてる日用品ですらな、私たちは命がけで手に入れてるんだ。お前、土を喰ったことあるか? 腐った猫の死骸を喰った事があるか? 自分の吐しゃ物を喰った事はあるか? ないだろ。そんなことまでしないと私たちは生きていけなかったんだよ。分かるか?」
「分かりたくないわね」
叫ぶでもなく、呪いを呟くように抑揚なく言葉を紡ぐ彼女は不気味だった。正直に言えば、久しく感じていなかった恐怖という感情を思い出すほどだった。いったい彼女の身に何があったかは分からない。だが、何かによって彼女の心が壊れる寸前だという事は分かった。
「私たちにはな、何も無いんだ。力がないだけじゃない。信じられる友人も、頼れる仲間も、お前らが大好きな家族だって中々手に入らないんだよ。それこそ、願い事で友達が欲しいって願う程な。でもな、そういうものも大抵誰かに奪われるんだよ。そういう奴らは大抵強者なんだ。自覚的にしろ無自覚的にしろ私たちが必死に守ろうとしたものをあっさり奪い、蹂躙し、捨てる。そういう仕組みなんだよ。ああ、そうだ。あいつらは、そうやって捨てられていったんだ。ほんの僅かな幸せを願ったばかりにな、死んだんだよ。分かるか? お前らが当たり前だと思っている家族を守ろうと、弔おうとするばかりに、あいつらは死んでいったんだ。それでなんだ。今度は、今度はあいつすら奪おうというのか。殺そうというのか!」
目に涙をためながら、力強く唾をとばす彼女を前に、私は何も言葉を発することができなかった。いったい、何が彼女をここまで追いつめたのか、何が琴線に触れたのか、と客観的に考えるように努める。そうしなければ、彼女の感情の波にのまれてしまいそうだった。自分が今、どんな表情をしているか分からない。顔に手を当てる。微かに濡れた頬に、指が滑っていく。まさか、天邪鬼の言葉なんかで、私は泣いてしまったのか。
目を擦ると、彼女の背中に、三人の人間が立っているように見えた。よく似た二人の女性と、一人の老人だ。彼らが憎々しげに私を睨んでいる。その顔は誰もが青白く、間違いなく死人のそれだった。見慣れているはずなのに、鳥肌が立つ。“こいつに怪我をさせてみろ、ただじゃおかねえからな”聞いたことのないしわがれた声が耳に響く。怨霊かと思ったが、それとも違う。私にしか聞こえない幻聴の類だろうか。もう一度目を擦ると、その人影は消え去っていた。
強張っていた体の力が抜ける。正邪の鬼気迫る表情が目に映った。弱小妖怪の実情なら知っていたつもりだった。この世は弱肉強食。力ないものは淘汰されるのは当然のことで、そしてそれに対して何の感慨も抱いていないし、事実今もそうだ。私には必要ないが、人間だって豚や牛という弱者を捕食して生きている。だったら、妖怪が人間を、大妖怪が弱小妖怪を糧に生きるのだって普通のことだし、悪いことではない。頭ではそう分かっていた。今、正邪に力を貸すのは、ただの傲慢だ。彼女よりもっと悲惨な目に遭っている弱者など掃いて捨てる程いる。そう分かっていた。が、私の意思とは無関係に口が勝手に動く。
「長生きでも無ければ、際立った知恵もある訳じゃない。人望なんてもってのほか。だから、こんなちんけな絵本しか頼れるものがない。そう言ったわね」
「ああ、言ったよ」語気を強めた正邪は、まだ怒りが沈まっていないようだった。私に対してではなく、私の後ろにある何かに怒っているような、そんな気がした。
「だからどうした」
「私を頼りにしてもいいのよ」
怒りの形相のまま、彼女は固まった。きっと、私も間抜け面で固まっているだろう。こんな嫌味で、救う価値のないような妖怪にこの私が手を貸すなんて信じられない。冷静に考えれば、今すぐにでも冗談よ、と言うべきなのだろう。けれど、なぜか私の口は思うように動かなかった。まさか、同情したわけじゃないわよね。頭の中でそう問いかける。同情なんてしていない。私がこんな妖怪に手を貸す必要もない。じゃあ、どうして? 魔女は常に論理的であるはずよ。その通りだ。でも、理由ならある。
「今回の異変で、あなたが何をして、どういう立場にいるかは知らない。けれど、紅魔館の動かない大図書館。七曜の魔女として約束するわ。私はあなたに協力する」
「どうして」
机を手に置いたまま佇んでいる正邪に向かい、手を伸ばす。彼女の顔は相変わらず死人のように白く、生気が宿っていない。怒りを露わにしていたにも関わらず、一切顔に赤みが見られない。
「レミィよ」
「は?」
「“しばらく正邪の面倒を見てくれ”ってレミィに言われたの。親友の頼みは裏切れないでしょ?」
今思えば、レミィの言ったしばらくという言葉は、私の思ったよりも遥かに長い期間なのかもしれない。とんだ貧乏くじだ。だが、それも悪くない。
「なんで紅魔館の主は私にかまうんだ」
吐き捨てるように彼女は笑った。どうせ、お前らも裏切るんだろ、と諦観している。本当に何があったのよ、と聞きたかったが、止めた。今の彼女は、きっと答えてくれないと思ったからだ。その代わり、くるりとその場で回り、宙に浮く。暗い顔の彼女を見おろしながら、気取った態度で唇を撫でた。
「そういう運命だからよ」
「何でも願いが叶う魔法の道具なんて、そんな都合のいい物ある訳ないじゃない」
「別にあってもいいだろ」
天邪鬼としての本領を発揮していた正邪をなんとか宥め、打ち出の小槌の話を聞いた後、私は驚きのあまり声を荒げてしまった。まさか彼女の口からそんなメルヘンな考えを聞くことになるとは思わなかったのだ。おそらく、正邪自身も薄々世の中はそんなに甘くないということは分かっていたのだろう。が、それを認めたくないのか、私の言葉を中々受け入れようとしなかった。
空に浮かぶ輝針城。正邪はその城と深くかかわっている。この事実だけですでに気が重くなった。しかも、レミィの嫌な運命の予言付きだ。
「あなた、一寸法師の童話は知ってるわよね」
「当然だろ。小人が鬼を殺して打ち出の小槌を使って幸せになる。ハッピーエンドだ」
「馬鹿ね」
気のせいか、頭が少し痛くなってくる。すぐに回復魔法をかけるが、一向に痛みは変わらない。必要なのは精神安定剤のようだ。
「その後には少し話が続くのよ。一寸法師の末裔が小槌で自分の欲を叶え始め、最後に“豪華な城を建てて民を支配したい”と小槌に願って輝針城を造り上げたところで、小槌の魔力は尽きてしまうの。その途端、出現した輝針城は逆転し、民のいない鬼の世界へ小人族もろとも幽閉されてしまうっていう救いのない話がね」
そんなことも知らないの、と危うく馬鹿にしそうになったが、なんとか飲み込んだ。思ったよりも深刻そうな彼女の顔を見ると、軽口をたたくことすらできない。
「だから、巫女に退治されるくらいならいいのよ。別に死ぬわけでもないしね。問題は小槌の代償。一種の呪いと言っても良いわ。小槌の魔力が切れた時、幽閉されてしまうのね。“民のいない鬼の世界”って場所がどんな場所か分からないけど、まあそう易々と返ってこれる場所じゃないでしょう」
「その代償ってのは」
聞いていて不安になるくらいか細く、震える声で正邪は言った。顔はレミィのように青白く、信じられないくらいに表情がない。適温に保っている図書館にも関わらず、額に汗のつぶが浮かんでいる。
「代償ってのは、誰が負うことになるんだ」
「そんなの簡単よ」彼女にもまだ希望があるのだという事を強調するように、力強く口を開く。
「打ち出の小槌を振った小人よ。当然でしょ」
「嘘だろ」
勢いよく立ち上がった正邪は机に飛び乗り、私に向かい手を伸ばしてくる。が、それを嫌がった机が自発的に倒れ、正邪もそれに巻き込まれた。痛てぇと頭をさすった正邪だったが、その目には怒りが浮かんでいる。
「何であなたに嘘をつかなきゃいけないのよ」
「敵を騙すにはまず味方からっていうじゃねえか」
「意味、違うわよ」
憤る正邪をなだめようと、コップを取り出し、紅茶をいれた。心なしか、コップが楽しそうに跳ねているようにも見える。
「そんなにその小人が大事なら、危ない橋なんて渡らなきゃいいのに」
「……小人はどうでもいい。事情があるんだよ。私にはやらなきゃならないことがある」
「何? どうせ下らないことなんでしょう?」
「まあ、そうだな」
眉間にしわを寄せ、顔を険しくした彼女は自分の拳を強く握った。私がやるしかない。多少の犠牲は仕方がない、と呪いのように呟いている。俯きがちな彼女の瞳には、もはや何も映っていなかった。
「こんな糞みたいな世界、ひっくり返っちまえばいいんだよ」小さな声で、吐き捨てるように彼女は呟いた。
「少しくらい、弱者が救われてもいいじゃねぇか」
血を吐くように、苦しげな表情で言葉を紡いだ彼女は、一度大きく息を吐くと、まだその時じゃないと自分に言い聞かせるように嘆いていた。その時っていうのは大抵訪れないということを、私は知っていたが、口には出さない。代わりに、疑問を投げかけた。
「そういえば、不思議に思っていたことが二つあったんだけど」
「なんだよ」
「どんな願いで小槌を振ったの?」
如何なる願いも叶える魔法の小槌。それがどんな願いを叶え、そして輝針城を顕現させたかに興味があった。
「友達ができますように、とかだったら、どうする」
「冗談でしょ」
自嘲気味に、一度大きく鼻を鳴らした彼女は「これだから鶏ガラは」とだけ呟いて返事をしなくなった。
「そんな馬鹿げた願いだったら、私はあなたを尊敬するわよ。尊敬のあまり肖像画を額縁で飾ってあげる」
「友達なんて、金で買えるっての」
軽口を言う彼女からは表情が消えていた。真顔で、半ば反射的に言葉を発している。流石は天邪鬼と言うべきか、それともこれだからと嘲笑するべきか、迷った。
「それで、もう一つの疑問ってなんだよ」
「え、ええ」
真顔で床を見つめたまま正邪は訊いてきた。
「打ち出の小槌は小人しか扱えないでしょ? 幻想郷に小人がいるなんて、私は知らないんだけれど。どういう関係なの?」
これが一番の謎だった。現れた逆さまの城と、溢れ出るおぞましい魔力から打ち出の小槌の影響だということはすぐに分かった。が、肝心の小人の存在が見えない。幻想郷の表舞台に立たないように、ひっそりと暮らして来たか、意図的に隠されていたか。いずれにせよ、好奇心が大いに刺激された。
「針妙丸と私の関係か」一瞬だが、ふわりと頬を緩ませた彼女は、何か楽しい夢でも見ているような、儚げな笑顔を浮かべた。
「あいつは、私にとって」
幸せそうに語ろうとする正邪を遮るように、バタリと大きな音と共に図書館の扉が開かれた。何事かと目を向けると、そこには息を切らした美鈴が立っていた。なぜか全身から血を流し、片足を引き摺っている。
「いやぁ、失敗しました」あはは、と笑う彼女の声にはいつもの覇気がなかった。急いで彼女の元へと駆け寄り、治療をする。最近、誰かの怪我を治してばっかりだな、と思い、つい正邪を睨みつけてしまったが、彼女は気にしていないのか、ただやる気なく美鈴を見つめていた。
「いったい、誰にやられたのよ」
「そんなの、霊夢さんしかいないじゃないですか。暇つぶしでやられたんですよ」
「おいおい」
たまらず、といった様子で正邪が声を荒らげた。ふらふらとおぼつかない足取りで美鈴に近づいていき、首元に手を置いた。
「巫女はそんなに暴力的なのかよ」
「いやぁ、どうですかね。あ、でも異変の関係者に対しては厳しい態度をとることが多いような気がします」
黙り込む正邪の顔に、僅かながら焦りの感情が浮かんでいた。なぜ、彼女が焦る必要があるのかと首を捻る。
美鈴の傷は思ったよりも早く塞がっていった。正邪の時とは大違いだ。彼女自身の治癒力も相まって、目に見え彼女に活気が溢れていく。数分経てば、彼女はいつもの調子を取り戻し、元気にアハハと笑い始めた。
「それで? どうして正邪さんは辛気臭い顔をしているんです?」
「さあ?」
「更年期ですかね」
「うるさい黙れ」
天邪鬼に黙れと言われてしまってはおしまいですねと、楽しそうに美鈴は笑った。その姿は子供の様に無邪気で、純粋だ。子供。頭に浮かんだこの言葉をきっかけに、そういえば、まだ正邪と小人の関係を聞けていないことを思い出した。
「結局聞き逃してしまったけれど、正邪と小人はどんな関係なの?」
なんの話ですか? と首をかしげている美鈴を無視して、正邪を真っすぐ見つめる。髪の毛をくしゃりとやり、唇をかみしめた正邪は、ゆっくりと口を開いた。
「私にとってあいつは」
「あいつは?」
「あいつはただの道具だ。私の願いを叶えるために必要だったから利用したに過ぎない。そういう関係だよ」
「あっそう」
思ったよりもつまらない答えに拍子抜けする。ただ、同時にこの天邪鬼がそんなことをするか、と疑問が浮かんだ。このお人好しな弱小妖怪は、願いを叶えるために他者を踏み台にしたりするだろうか?
「正邪さんの願いって何ですか?」
にこにこと微笑みながら、美鈴が口を開いた。きっと、何も状況を理解せず、単純に雑談だと思っているに違いない。輝針城も小槌も彼女には伝えていないからだ。が、偶然にもそこで初めて私は結局彼女の願いについての質問の時、はぐらかされてしまった事を思い出した。
「私の願いは」
目をきょろきょろと動かし、せわしなく足の位置を組み替えている正邪は、小さな声で逆に考えろ、と呟いた。
「逆。そう。この世の中を逆にしようと思ったんだ。ひっくり返すんだよ」
「ひっくり返すって、どういうことですか?」目を白黒させ、しきりに首を横にしながら、美鈴は訊いた。
「下克上ってことですか?」
「そうだ!」
勢いよくそう叫んだ正邪は、下克上。最高に最低だな、と一人納得していた。なぜ楽しそうなのか分からない。そんな彼女とは対照的に、私は冷静になれ、と自分に言い聞かせていた。
下克上。この言葉がさす意味はあまりにも広く、限定することはできない。だが、もしも。もしもこの幻想郷のしくみの根幹を揺るがすものであれば、流石に八雲紫も黙っていないのではないか。そんなうすら寒い予感がする。
「友人を作るのではなかったの」
「さあな」
楽しそうに笑った正邪は、人の気も知らないで、平然と言った。
「敵を騙すにはまず味方からっていうしな」
「意味、違うわよ」
「小槌のレプリカを作ってくれ!」
図書館に入ってきた正邪は、私を見るや否やそう叫んだ。あまりにも唐突で、意表を突かれた私は、手に持っていたカップを机に落としそうになり、咄嗟に魔法でカップを浮かせた。
「急に入ってこないで。危うく貴重な魔導書に紅茶がかかるところだったじゃない」
「優雅に紅茶なんて飲んでるやつが悪い」
近くにあった椅子を手繰り寄せ、乱暴に座った正邪は、「私には紅茶が無いのか」と眉をひそめた。あまりの図々しさに乾いた笑いが零れる。むしろ清々しいほどだ。
「それで、急にどうしたのよ。出ていったかと思ったら、すぐに帰ってきて」急用がある、と出ていった正邪は、五時間もたたないうちに帰ってきた。確か、途中で妖怪に襲われてもいいようにと美鈴が護衛でついて行ったと聞いている。まさに至れり尽くせりだ。どうしてレミィが彼女に対してここまで協力するか分からない。が、どうせ下らない理由なので聞くことはしなかった。そのせいで、美鈴が常に疲労困憊なのは可哀想だが。
「これを作りに行ってたんだよ」
急いでいたからか、ぜえぜえと息を整えながら、彼女は懐から一枚の写真を取り出した。美しい女性の写真だ。が、どうやら見せたかったのはそれでは無かったらしく、はっと息を飲んだ彼女はすぐにそれをしまい、別の写真を取り出した。
「これが打ち出の小槌の写真だ」
「え」
「参考にしてレプリカを作って欲しい」
急いで作れ、と生意気に言った正邪を前に私は固まっていた。恐る恐る写真に手を伸ばす。そこには確かに小槌の写真があった。顔に血がのぼり、身体に活力が漲ってくる。好奇心が大いに刺激されているのが自分でもわかった。
写真に写っているのは、正邪のものと見られる手と、打ち出の小槌だった。背景には何も映っていない。真っ黒だ。全体的に金色があしらわれたそれの大きさは、小槌というだけあって、片手で軽々持てるくらいのようだった。中心部に大きく松が描かれており、どことなく神聖で、それでいて禍々しい雰囲気を漂わせている。ただの写真にも関わらず、体が震えた。
興奮を悟られぬように正邪に目を向ける。表情こそはいつも通りで不愛想だったが、その鋭い目で落ち着きなく辺りを見渡し、時々ちらりちらりとこちらの様子を気にしていた。
「ねえ、正邪」私の言葉にびくんと体を震わせた正邪は、なんだよ、とぶっきらぼうに呟いた。彼女にしては珍しく緊張している。
「この写真、どうしたの?」
「どうしたって、撮ったんだよ」
「だから、どうやって撮ったのよ。カメラなんて、あなたは持っていないでしょ。烏にでも撮ってもらったの?」
私の質問を前に、彼女は意味ありげに頷いた。緊張を増すどころか、逆に心を落ち着かせているようにも見える。
「いいか。写真ってのは、自分で撮った方がいいんだよ」
「え?」
得意げにそう笑った彼女は、懐からカメラを取り出した。いつだったか、ブン屋が持っていた物に似ているが、細かい傷が目立ち、お世辞にも綺麗とは言えない。が、どうやらまだ使うことはできたらしい。
「でも、折角なら烏天狗の誰かに頼めばよかったじゃない」
「分かってないな。こういうのは自分でやる事に価値があるんだ」
「あなたは何を言ってるのよ」
「さあな、私が知りたい」
神様ってのは、写真を撮ってくれないらしいぞ、と笑いながら言った彼女は、丁寧に机の上にカメラを置いた。そのカメラも付喪神化しているからか、少しぶるりと体を震わせたものの、すぐに静かになった。
どこを見るでもなく、ぼんやりと虚空を見上げている正邪を見つめる。愛おしそうに何かを思い浮かべ、過去を懐かしんでいるようにも、悲しそうに後悔しているようにも見えた。ただ、一つ言えることは、彼女の目の端に零れている涙のことは触れない方が良いということだ。
「でも、普通に考えれば、得意分野はそれぞれのプロに任せた方が良いと思うわよ。適材適所ってやつね」
「なんだそれ」
「例えば、写真は烏天狗に、教育は慧音に、魔法は私にって感じで」
「なら、私は何なんだよ」
「さあ。嫌われることじゃないかしら」
はっ、と短く息を吐いた正邪は椅子に深く座り直した。てっきり、私は馬鹿にしてんのか、と文句を言われると思っていたが、自嘲気味に笑った彼女は「お前も、そう思うか」とうなだれた。乾いた笑いを仮面のように張り付け、目を細めている。
「嫌われるプロってやつだな」
「まあ、でも嫌われることが特技といっても役には立たないと思うけど」
「馬鹿と鋏は使いようっていうじゃないか」
「自分が馬鹿だと自覚していたのね。驚きだわ」
白い顔でクツクツと笑う正邪から目を離し、彼女から受け取った写真を見ようと、手元を注視する。と、違和感に気がついた。写真に対する違和感ではない。正邪の様子がどことなくおかしいのだ。左手を使い紅茶を飲んでいる。これだけなら何の不思議もない。ただ、私の記憶の限りだと、彼女は右利きだったはずだ。出来損ないの推理小説のような着眼点だが、少なくとも、目の前の弱小妖怪はそんな器用な真似をするような奴では無い。
「あなた、右手を見せてみなさい」
「え、嫌だ」
「いいから」
直接確認しようと腰を上げると、慌てふためきながら椅子を蹴り飛ばして後ずさる正邪の姿が見えた。咄嗟に魔法を使い、動きを封じる。不格好な体勢でピタリと固まった正邪は、ゆっくりと糸を地面に下ろすように絨毯に座り込んだ。彼女を怯えさせないように、大丈夫だから、と優しく声をかけながら近づく。これでは、まるで子供の面倒を見ているみたいだ。こんな捻くれた子供がいたら困るが。
悪かったよ、分かったから魔法を止めてくれ、と力なくいった正邪の言葉に頷く。正直に言えば、魔法を使ったのはほんの僅かな時間で、とっくの昔に解いていたのだが、彼女は気づいていないようだった。ぷらりと垂れ下がった正邪の右手を掴み、目の前へと持っていく。血の気が引いて真っ白になった手の爪先に、こっそりと隠し持った針を突きさす。が、正邪は眉を顰めるどころか、身じろぎ一つしなかった。確信とともに、呆れもした。
「二度あることは三度ある」
正邪はなぜか誇らしげに言った。私が以前言った言葉を真似しているのだ。
「これで、右手を怪我するのも三回目だ」
「今度はなんで怪我したのよ」半ば義務的に私は聞いた。別に興味も無いし、知りたくもなかったが、そうでも言わなければやってられない。気がつくと、目の前には既に魔導書が回復魔法のページを開いていた。いつになれば私は本の虫から蛹へと変われるのだろうか。
「今回は簡単だ」
いつもは複雑だったのか、と聞くも無視される。
「打ち出の小槌ってな、写真を撮ろうとすると逃げるんだよ。意識があるみたいにな。しかも、小人以外は触れると痺れるんだ。それで、右手で抑えていたら、このざまだ」
「馬鹿じゃないの。小人に抑えてもらいなさいよ」
「私は、あいつの写真を撮る権利なんて無いんだよ」
珍獣を撮るのにも許可が必要なように、珍しい妖怪である小人を撮影するのにも許可が必要なのだろうか。そんなことを考えながら、手早く回復呪文をかける。この程度であれば、痛いの痛いの飛んでい毛を使わなくても大丈夫だろう。
ぽわりと暖かい光が辺りを包む。これも、最早見慣れてしまった風景だ。一瞬視界が光で奪われ、眩んだ目が段々と安定してくる。もう治ったかしら、そう声をかけようとしたものの、できなかった。口を塞がれたわけではない。開いた口が塞がらなかったのだ。
正邪の後ろ。図書館の扉と椅子の中間地点。そこに彼女はいた。身体の下半分は透けていて、後ろの扉が映っている。魔法の気配は感じないので、きっと違うものを使っているのだろう。おそらく、機械か何かだ。
右手をぶらぶらと揺らし、手を固く握りしめた正邪は「やっぱ、利き手が動かないと不便だなあ」と笑った。なら隠そうとしなければいいのに。文句を言いたくなるが、これから起こることを考えると、胸がすくような気持ちだった。
透けていた彼女の体は、いつの間にか完全に露わになっていた。不敵に笑った彼女の表情からは何をしようとしているかが、ありありと分かる。両手を前に出し、足音を立てないようにそろりそろりと正邪へと進んでいく。そして、真後ろに来たかと思えば、大きく息を吸い込み、胸を膨らませた。気体と、期待でだ。
「この糞弱小妖怪が!」大きな声が図書館に木霊する。
「ひぃっ」
正邪の反応は早かった。声が響いた瞬間、猫の様に飛び上がり、一直線に私の元へと駆けてくる。私の目で追えないほどの速さで逃げ出した彼女は、私の背中の後ろへとあっという間に回り込み、腰に抱きつくように両手を回してきた。顔をほんの僅かに傾け、声のしたほうを窺っている。情けない反応だったが、私は感心していた。弱小妖怪としての本能か、咄嗟に私を盾にするという最善の対策をとったこと、そして、仮に私が逃げたとしてもついて行けるようにと、体に手を回したことは称賛されるべきことだった。だが、それも滑稽な叫び声と情けない今の姿を覆すほどでもなく、私は込み上げてくる笑いを堪えることが出来なかった。どうやら、それは正邪を驚かせた当の本人も同じようで、腹に手を置き、ケラケラと大きな声で笑っている。正邪が舌打ちするのが聞こえた。
「このわくわく感はたまらないよ!」
満足そうに笑った河童は、正邪に向かい赤い舌を見せた。
「これで天邪鬼を出し抜くのは二回目だ」
ふふんと鼻を鳴らした河童は、びしりと右手を伸ばし、人差し指と薬指を立てた。ちょきちょきと馬鹿にするように指を動かしている。怯えて私に抱きついた正邪が、怒りのせいか震えているのが分かった。そんな彼女を振り払った私は、ゆっくりと河童に近づいていった。どうして、紅魔館に、そして私の図書館に来たか、来ることができたのか不思議だったのだ。
「私は河城にとりさ。レミリアに呼ばれたんだ。“いい発明品を作りたかったらこい”って」
「発明品?」
「おいおい。紅魔館の魔女は知識が豊富と聞いていたけど、発明品すら知らないのか」
高慢な態度が、どこかの天狗を彷彿とさせて、苛立ちがつのる。妖怪の山の連中はどうしてこうも性格が悪いのだろうか。
「我々河童は素晴らしい発明品を数多く世に生み出しているんだ。例えば、いま私が着ている光学迷彩とか」
「それでさっき姿を消していたのね」
「ああそうだ、一つ買うかい? というか、見たからには買ってもらうよ。偶然にも販売用のものがあるからさ」
河童の技術力は知っていた。魔法とは違うやり方で、同じような効果を発するものを量産している、と聞いたことがある。だが、ここまで商魂たくましいことは知らなかった。断ろうにも、すでにそれを図書館の適当な場所に広げ、いつの間にか壁にかかっていた札束を手に持っている。別に、強制的に取り返してもよかったが、止めた。その札束はレミィが置いておけと指示したもので、つまり私は、きっとこれにも何らかの意味が、運命による導きがあるのだろうと思ったのだ。
「何しに来たんだよ」
腰が抜けたのか、地面に座り込んだ正邪が憎らしそうに言った。格好は情けないが、その目は鋭い。
「ちゃんと聞いいてくれよ。レミリアに唆されたんだ。それで? いったいここに何があるというんだ? 遠路はるばるここまで来たんだ。つまらないものだったら弁償してもらうぞ」
「口悪いわね」
水色の髪をツインテールにしている彼女は、その可愛らしい顔を卑屈に歪め、これまた水色の服のポケットから何やらバールのようなものを取り出した。脅しのつもりだろうか。だとすれば、可愛いものだ。
「私はてっきり、また博打を誘いに来たかと思ったよ」
「あ、ああ。そんなこともあったな」今思い出したよ、と手を叩いた彼女は浮かべていた笑みをさらに深くした。なるほど、と大きく頷き、座りこんでいる正邪に近づいていく。そして、机の上にあった写真を手に取った。
「この写真、どうやったんだ?」
「どうって、このカメラで撮ったんだ」心なしか、正邪の声は引きつっていた。河童に目を合わさず、後ろへじりじりと下がっている。
「そうじゃない。このカメラはフィルム型だ。だとすれば、どこかで現像しなければならないんだよな。あれ、そういえば私の現像機が勝手に使われていたような気がするなー。んんぅ? おかしいな。この写真の出来上がり具合にはすごい見覚えがあるぞー」
「そこら辺で止めておいてあげて」
あまりにも正邪が惨めで、つい河童の肩を掴み、静止してしまう。
「止めろって? こちとら遊びじゃねえんだよ」
口調こそヤクザのようだが、彼女はそこまで怒っていないようでニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべていた。彼女も本気で現像代を払ってもらうつもりはないのだろう。単純に、へこたれている正邪をいじめて、楽しんでいるのだ。気持ちは分からなくもないが、見ていて気持ちのいいものでもない。
ひらひらと河童の手で揺れている写真をつかみ取り、奪う。そのまま椅子に腰かけ魔導書を開いた。忘れかけていたが、私はこの写真の通り、打ち出の小槌のレプリカを作らなければならないのだ。そこまで律儀に正邪の依頼を聞かなくてもよかったが、単純に私の好奇心によるものだった。
「その写真で何をするつもりなんだい?」正邪をいじめるのに飽きたのか、河童が目を輝かせて聞いてきた。発明家としての嗅覚はどうやら鋭いらしい。
「この写真にある小槌のレプリカを作るのよ。そこで座っている弱小妖怪の頼みでね」
「もう立ったぞ」うんざりとしながら、正邪は呟いた。
「とにかく、私は今から作業にとりかかるから、あまり話しかけないでね」
「それって」
服の前についたポケットからガチャガチャと工具を取り出しながら、河童は口元を緩めた。先程の悪意に満ちた笑顔とは打って変わり、子供の様な純粋無垢な笑顔で写真を見つめている。発明に目がない、という河童の噂はどうやら本当の様だ。
「特別な道具か何かなのか? 天邪鬼、もしよければ魔女じゃなくて、私に頼んでみなよ。品質は保証するよ」
「駄目よ」反射的に私は言った。
「なんで」
「得意な事は得意な人に。適材適所よ。私にとって、見た目だけ完全に同じで、性質がまったく異なるものを作る事なんて、朝飯前なの。あなたが得意なのは、そういうのじゃないでしょ?」
そう口にはしつつも写真をまじまじと見つめ、それを頭の中で組み立てていく。私の言葉に納得したかどうかは分からないが、とくに不満も言わず河童は頷いた。
「まあ、でも得るものはあったから、そろそろ帰ろうかな」
「もう帰るのかよ」まるで、もっと居てほしかったと言わんばかりに正邪が言った。それがおかしかったのか、声を立てて笑った河童は、またいつでも会いに来るよ、と体をくねらせた。
「そんなに寂しいのなら、これを持っていくれ。私の代わりと思って」
「気持ち悪い」
本当に、えづきそうな声が聞こえた。気になり、意識を途切れさせないように注意しつつ、後ろを振り返る。正邪の手には、お守りのようなものが大量に積まれていた。宗教嫌いの河童にしては珍しい。
「じゃあな、天邪鬼。私は案外お前のことを気に入ってるんだ。いい鴨だし。達者でな」
そう言い残した河童は、廊下をかけるように去っていった。いったい、彼女が何をここで得たのかは分からなかったが、本人が満足そうなのでいいだろう。
「気に入ってるなら、もっと優しく接しろよな」
「いいじゃない。素敵なお守りを貰えたわけだし」
「いらねえよ」
そうは言いつつも、何だかんだいって気になるようで、たくさんある内の一つだけを取り出した彼女は、その紐へと手を伸ばした。中にはきっと、下らない、例えばそこら辺の流木を薄く砕いたものでも入っていると思ったが、違った。驚きのあまり、打ち出の小槌の作成は完全に頭から抜けてしまう。
お守りの口を開いた瞬間、中から煙が勢いよく飛び出した。ゴホゴホと正邪のむせる声が聞こえる。私は、浦島太郎の玉手箱の話を思い出していた。正邪も、歳をとってしまうのだろうか。それもそれで面白いと思ったが、現実はもっと面白いものだった。明らかに物理法則を無視した、大きな爆弾のようなものが彼女の手にのっていたのだ。仕組みは分からないが、そうなのだから仕方がない。咄嗟に本棚と正邪に防御魔法をかける。その爆弾が爆発するのと、私の魔法が発動するのはほぼ同時だった。凄まじい爆音と熱が部屋を覆い、目の前が真っ赤になる。もともと真っ赤だったが、とにかく、突然の炎に私は度肝を抜かれた。冗談にしては、思いの外威力があったからだ。そこら辺の妖怪であれば、一時的に動けなくなる程度だろうが、人間や正邪が喰らってしまえば、一週間は治療が必要だろう。
「あのクソ野郎が!」威勢のいい正邪の声が聞こえる。段々と煙が晴れていくと、髪の毛をチリチリとさせた正邪が拳を握り、憤っていた。元気そうで何よりだ。
「あいつ、絶対同じ目に遭わせてやるからな」
怒りながらも、どこか楽しそうな正邪を暖かい目で見ていると、空からひらひらと紙が落ちてくることに気がついた。最初は爆風で本のページがちぎれてしまったかと思い、焦って掴んだが、違った。内容を見て、思わず笑ってしまう。
「正邪、ちょっとこれ見てもらえないかしら?」
「何だよ」
「いいから」
面倒くさそうに目を細め、こちらを向いた正邪は、むっとした顔をすぐに破願させ、ふふと小さく笑った。いつも通り、どこか憂鬱そうな顔をしながらも、愉快げに手紙を見つめている。
「あの河童らしいわね」
「暇すぎだろ、あいつ。準備してたのかよ」
もしかすると、発明品が云々というのはただの言い訳で、実際は正邪に会いに来たのではないか、ふとそんなことを思った。もしそうだとすれば、素直じゃないにも程がある。
「これで、私が天邪鬼を出し抜いたのは三回目だ! 二度あることは三度ってね!」
河童の声を真似て、正邪が高らかに手紙を読み上げた。
河童の置き土産がさく裂した図書館には、まだ僅かに紫煙が漂っていた。火薬の焦げ臭いにおいが充満し、とても図書館に相応しい雰囲気ではなくなっている。だが、そんなことすら気にならないほどに、私は作業に没頭していた。打ち出の小槌という秘宝の道具を、レプリカとはいえ作り上げる。それほど難しくはないが、胸が高鳴った。いつもよりも凝って、極細部にもこだわろうと決意していた。
「なあ、鶏ガラ」
そんな集中した私に水を差すように正邪が声をかけてくる。しばらくは河童に対する恨みつらみを吐露していたが、吹っ切れたのか、それとも落ち着かないのか、私をじっと見つめていた。
「何よ、私は今いそがしいのよ」
「お前が言っていた鬼の世界ってどんなところだ?」
「人の話を聞きなさいよ」
写真という平面をもとに、立体を想像する。頭の中に蓄積された打ち出の小槌の情報を引っ張り出し、全体像を組み立て、それに対応する術式を組む。確かに多少難解な作業ではあるが、会話をしながらもできる範囲ではあった。忙しいと言ったのは単純に、正邪と会話するのが面倒になってきただけだ。
「小槌の代償ってので鬼の世界に連れてかれるんだろ? もしかすると、以外にその鬼の世界とやらは快適だったりしねぇのか?」
「する訳ないでしょ」
だよな、とため息を吐く正邪は、本当にそう思ったわけでは無いらしく、希望的に私に訊いてきただけのようだった。それにしても、楽天的過ぎるが。
「諦めなさい。小人はただの道具なんでしょ? 全てを救おうとするのはただの傲慢よ」
「分かってるよ。ただ、一応知っておきたいじゃねえか」
優しいのか、それとも臆病なのか。机にだらりと顔を付けた正邪は、教えろよ、と懲りずにまた訊いてきた。呆れて、息が漏れる。だが、こうなった彼女は質問に答えない限りネチネチと訊いてくるのは分かっていた。また、息が漏れる。
「例えば、そこは何もない世界なのかもしれない」
「何もない? 鬼の世界なのに鬼もいないのか」
「そう。誰もいないし、何もない。光もなく真っ暗で、時間すらない。死ぬことすらできず、永遠にそこで漂い続けるの」
「そんな場所があるのか」
「例えばよ」
「例えばにしては、随分と具体的だな」
「まあ、実際にそういう場所があるってのは知っているわ。それが鬼の世界かどうかは知らないけど」
「まるで地獄みたいだな」
「馬鹿ね。地獄なんかよりよっぽど地獄よ」
そうか、と呟く正邪の顔には生気がなかった。今更になって怖気づいたのかもしれない。だが、こればかりはどうしようもないのだ。憐れな小人の辿るべき運命としか言いようがない。関われば、私たちですら無事でいられるか分からないのだ。
そうこうしている内に、着々とレプリカは完成に近づきつつあった。設計図は既に頭の中で完成している。後はそれを元に術式を整え、魔力を籠めるだけだ。手元にある魔導書をペラペラと捲り、案の定探していたページのところで綺麗に開いたので、早速作業に取り掛かろうとする。と、そこで正邪がまたもや口を挟んだ。
「レプリカ、もうそろそろ出来そうか?」
「誰かさんが話しかけてくるから遅れたけれど、あと少しよ」
「なあ、鶏ガラ」気まずそうにそっぽを向きながら、正邪は頬をポリポリとかいた。
「お前、私にとって、見た目だけ完全に同じで、性質がまったく異なるものを作る事なんて、朝飯前なの、ってムカつく顔で言ってたよな」
「ムカつく顔ではなかったけれど、確かに言ったわね」
「ならよ」
ガタリと乱暴に席を立った正邪は、あー、と間の抜けた声を出し、一つお願いがあるんだが、と小さく呟いた。
「そのレプリカに魔法を付け加えて欲しいんだ」
「なに? 振れば花火が打ち上がったり?」
「違げえよ。どんだけ花火が好きなんだ」
じっとしていられないのか、ぐるぐると同じ場所を回り、口元を手で覆っていた。草履が床に擦れ、ずりずりと音を立てている。その、正邪の煮え切らない仕草がじれったく、私はつい、早くしなさいよ、と語気を強めてしまった。あと少しでレプリカが完成するという時に作業を中断させられていて、やきもきしていたのだ。
「あの、だな」
「なによ」
意を決したのか、私の方を真っすぐに見た正邪は大きく息を吸い込んだ。
「痛いの痛いの飛んでい毛」
「はい?」
「だから、痛いの痛いの飛んでい毛の魔法を、レプリカにつけて欲しいんだ」
予想外の願いに、私は呆気に取られていた。馬鹿なことを言うな、と憤る気持ちよりも、なぜそんな魔法を頼むのか、疑問だった。ただ、いずれにせよ褒められたことではない。
「止めといた方がいいんじゃないかしら?」
「どうしてだ」
むっとした表情を隠そうともせずに、正邪は指を突きつけた。
「難しいってわけじゃないだろ」
「確かに難しくはないけれど、問題はあるのよ」
「問題って何だよ」
「あなたよ」
「はあ?」
目を三角にしてこちらを睨む正邪に対し、私はわざとらしく肩をすくめた。いったい彼女は何を考えているのだろうか。どうせ碌でもないことだろう。
「魔法を使う側に問題があるって言ってるのよ。もしかすると、あなたは自分の怪我を他の誰かに移そうと考えているのかもしれないけれど、そう上手くはいかないわ」
「なんでだ」
「この魔法は、同時に決められた言葉を言わなければならないの。レミィの時もそうだったでしょ? あなたが急に一緒に声を合わせて叫びましょう、だなんて言われても誰も相手にしないわよ」
「なあ、鶏ガラ。一緒に叫ばないか?」
「嫌よ」
ふん、と鼻を鳴らした正邪は、なぜか自慢げな笑みを浮かべて椅子に腰を落とした。怪訝な表情をする私を見つめ、にやにやと笑っている。
「それでも大丈夫だ。四の五の言わずにやってくれ」
「ほんとに、碌でもないわね」
「ってことは三か?」
何が面白いのか、腹を抱えだした正邪は、よろしくな、と無責任に私に告げた。少しの困惑と、多大な苛立ちが胸をかき乱すが、深呼吸をして、なんとか落ち着く。
「分かったわよ、やればいいのね、やれば」
「ああ、そうだ」
礼の一つもよこさない正邪に、怒りどころか笑いが込み上げてくる。が、それでいい、と同時に思った。鬼人正邪はこれでいい。不遜で、人を馬鹿にする態度を常にとる、嫌な奴。それでいて、どこか放っておけない不器用で優しい捻くれもの。そんな彼女のことを、私は存外気に入っていた。
早速、くみ上げた術式に変更を加え始める。本当に大丈夫なのか。少しの不安が首をもたげた。正邪が何を企んでいるか知らないが、あの弱小妖怪にできることなど、高が知れている。きっと、たいしたことにはならないだろう。そう自己弁護しながら、魔導書に手を掲げる。
「あっ、そういえば」
「何だ」
「いえ、さっき、魔法を発動するには同時に特定の言葉を叫ばなければならないと言ったけれど、何がいいかしら?」
「あ、ああ」
どうしようか、と首を傾げた正邪は、腕を組み熟考し始めた。そんなに悩まなくてもいいのに、と声をかけるも返事は返ってこない。これは、意外に長期戦になるかもしれない、と思っていると、彼女は手を叩き、その言葉を私に告げた。あまりにも彼女らしい言葉に苦笑いしつつも、その通り術式に入れる。そして、魔導書に意識を集中させた。頭の中から、余計な情報が一切消え去っていく。ただ、目の前の魔導書と、レプリカの術式。それだけを考える。本の中から、湧水がふき出すように、光が漏れる。目を閉じているにもかかわらず、視界が明るくなった。加える魔力を更に増やす。すると、カチリと頭の中で何かがはまった感触がし、魔導書を持つ手に更なる重みが加わった。明るくなった視界が徐々に戻っていく。
期待と、ほんの僅かな不安を胸に抱きつつ、ゆっくりと目を開く。私の手の上には、想像した通りの小槌が乗っかっていた。思わず、やった、と声が零れた。正邪に聞かれてないか心配になり、彼女の方を見やる。正邪は、レプリカを見て、片頬を上げていた。眉を下げ、これでいいんだ、と卑屈な笑みをみせている。どうやら聞かれては無かったようだ。
「どう? ご期待に添えるできかしら?」
「ああ、完ぺきだ」
目を見開きながら、一歩一歩踏みしめるようにして私に近づいてくる。魔導書の上に乗っかっているレプリカを恐る恐る手を取ると、舐めまわすようにそれを見つめていた。
「やっぱ、魔法はすげえな」
「そうでしょ」
鼻を高くし、自慢げに胸を張る。正邪はよっぽど気に入ったのか、これでいいんだ、と幾度も繰り返していた。
私は達成感と疲労で浮ついていた。椅子に深く腰掛け、声にもならない声を出す。そんな私と対照的に、正邪はぎくしゃくとした動きで、図書館の扉の前へと歩いていった。
「それなら、ちょっとばかし行ってくるよ」
「行ってくるって、何しに」
「そりゃあ下克上に決まってるじゃないか」
「あら? もう小槌に願ったなら、下克上は始まっているんじゃないの?」
「願わねえよ」
じゃあな、と言い残し、例によって礼も言わずに正邪は去っていった。行ってしまえば呆気ないもので、あんなに騒がしかった図書館も一瞬で、静かになる。心の中に、何かもやもやとした感情が芽生えた。寂しさと、そして不安だ。正邪に何か、よくないことが起こるのではないか、と心配だった。なぜ、そこまで正邪に自分は肩入れしているのか。そう客観的に確認するほどには、気に病んでいる。
彼女の、レプリカにかけた魔法を発動する際の言葉を思い出す。何度聞いても、彼女らしく、愚かで小物らしい言葉だ。
「すべてをひっくり返せますように、か」
しんとした図書館に染み渡った私の声は、不安をより膨らませていった。
正邪がいなくなった図書館で、私はひとり呆然としていた。魔導書を読むでもなく、紅茶を飲むでもなく、ただ図書館の扉を名残惜しそうに見つめている。
どうして、ここまで胸騒ぎをするのか、分からない。だが、何か大事なものを見落としたような気がしてならないのだ。正邪を追っていくべきだ。理由なんてものは無かった。でも、追っていかないと後悔する。これだけは確かだった。
「外出は億劫だけど、仕方ないわね」
誰に言うでもなく、独り言をつぶやいた私は、ドアノブへと手をかけた。そこで、ふと、視界の端に見慣れないものが映った。図書館の本棚の隅に、布のようなものがかかっていたのだ。水色で、かなりの大きさのあるそれは、人ひとりであれば平気でくるめそうだった。
確か、名前は光学迷彩とかなんやらだったはずだ。河童が強引に売りつけていった発明品。それが、不思議と気になった。考える間もなくそれを手に取り、頭から被る。はじめは、ただ単純に布を被った時と同じように、目の前が真っ暗になっただけだった。騙されたか、と落胆するも、すぐに変化が現れた。足元から、段々と周りの風景が布越しに見え始め、ついには完全に視界が開けたのだ。布ですっぽりと体を覆っているにもかかわらず、普段と同じように辺りを見渡せる。私は素直に感心していた。魔法でこれと同じものを作ってみようと胸に決める。鏡の前に移動すると、そこには確かに何も映っていない。まるで透明人間になった気分だ。これは使える。
もう一度、図書館の扉の前に立ち、ゆっくりとドアノブを開く。すると、目の前に美鈴が立っていて、驚いた。何か図書館に用があったのだろうか。
「こ、これが噂の自動ドアってやつですか」
よく分からない事を言って図書館に入っていった彼女を尻目に、長い廊下を進む。美鈴がパチュリー様、と叫んでいたが、無視した。
いったい正邪はどこに向かっているのだろうか。そう考えると、すぐに結論は出た。空に浮かぶ逆さの城。そこにいったのだろう。
「どうして、私は彼女にここまでかまうのでしょうね」
きっと、そういう運命だからだ。そう声が聞こえた気がした。
霧の湖をこえ、妖怪の山へと続く草原に、正邪はいた。上空には輝針城が悠然と浮かんでいる。紅魔館から見た時と違い、その大きさと、威圧感に圧倒された。かなりの高さにあるはずなのに、その大きさから近くにあるようにも見える。黒々とした瓦が、日光を反射し、煌びやかに輝いていた。だが、決して美しくはない。その見た目など気にならないような、不穏な魔力を放っていた。その魔力は、輝針城の真下にいる少女が持つ小槌へと続いている。身長は正邪と同じくらいだったが、不思議とかなり幼く見えた。かなり大きな茶碗を頭に被っているが、そんな奇天烈な格好にも関わらず、違和感が無い。
彼女たちは、何か楽しそうに話していたが、内容までは分からなかった。そして何より、正邪をつけるようにした私自身が、何がしたいのかが分かっていなかった。ただ、迷っていても仕方がないのは確かだ。
取り敢えず、正邪たちの会話が聞こえる辺りまで近づこうと、草原に足をつける。なにか隠れるものはないかと見渡すが、今自分の姿は消えているのだということを思い出し、堂々と彼女たちに向かい、歩いていった。
「正邪がわたしに用があるだなんて、珍しいね!」
快活な声が、耳に届いた。足を止め、耳をそばたてる。
「もしかしたら、明日は雪が降るかもな」
「冬だから降ってもおかしくないじゃん」
楽しそうに笑ったお椀の少女は、身体をくるくると回し、喜びを全身で表していた。右手に握った打ち出の小槌を、くるくると同じように回している。私が作ったレプリカではない。正真正銘、本物の打ち出の小槌だ。ということは、その小槌を持っている彼女こそが小人なのだろう。それにしては、全然小さくない。小槌の影響だろうか。そんなことを考えていると、あっと短い叫び声が聞こえた。慌てて目を彼女たちに戻す。
「返してよー。小槌は小人族の宝なんだよ」
「うるせぇ」
右手で針妙丸の顔を鷲掴みにしている正邪の反対の手。左手には、打ち出の小槌が握られていた。さっきまで小人が持っていた、本物の小槌だ。彼女がよそ見をしている内に、強引に奪ったのだろう。小人は、うがーと手を振り回している。そういえば、小槌を強引に掴んだせいで、右手を駄目にしてなかったかしら、と首を捻っていると、案の定正邪の左手は一瞬でくたりと垂れ下がり、手から零れた小槌はころころと転がっていった。だが、小人はそれに気がついていないようだった。
「分かった分かった、返すよ」
左手をちらりと見た正邪だったが、すぐに視線を戻し、小人に向かい合った。右手で懐を漁り、小槌を取り出す。今度は私が作った、偽物の小槌だ。それを針妙丸に手渡した。嫌な予感がする。
まったく正邪は、とぷりぷりと怒ったような仕草をみせた小人は、「用って何?」とジト目で正邪を見つめていた。
正邪が一度大きく息を吸うのが、私にも分かった。彼女は口を開かずに、小人の持つ小槌を指差す。そして、そのまま指を上下に振った。
「打ち出の小槌を振ればいいの?」
どこか嬉しそうな小人は、こてんと首を傾げた。
「何か願い事があるの?」
無邪気な小人とは対照的に、顔を真っ青にさせた正邪が、「私の、私たちの野望のためだ」と震える声で言った。そこで、私は、あれ、と首を捻った。確か正邪は下克上を願って城を顕現させたはずだ。ならば、なぜ改めて野望やら何やらを小人に説明しているのだろうか。「私たちって、その野望には私も関わっているの?」
「むしろ当事者だ」
正邪の顔が酷く歪むのが、ここからでも分かった。落ち着きなく、腕を組み替えている。一体、彼女が何を考えているのか、分からない。
「お前、自分以外に小人を見たことがあるか?」
突然正邪が、そんなことを言い出した。「ないなー」と答えた小人を見て、満足そうに頷いていた。何を言い出すのか、と不安になる。授業参観に来た親のような気分だ。
「迫害されたんだよ」
「え?」
思わず声が漏れてしまい、焦る。バレたのではないか、と焦って身を隠そうとするものの、彼女たちは気づいた様子もなく、話し続けていた。
「強い奴らに酷い目にあわされたせいで、小人はひっそりと暮らさなくきゃならなくなったんだ。そのせいで、幻想郷にはお前しか小人がいねえんだよ」
あまりにも安直な嘘に、私は逆に驚かされた。こんなので騙されるような奴はいるのかしら、と呆れていると、「そんな! 酷い!」と叫ぶ小人の声が聞こえてくる。なぜ、こんな見え見えの嘘に引っかかってしまうのか、とまたもや驚かされた。
見返してやろうぜ、とはしゃいでいる二人は、輝針城の下という何とも言えない場所にいたが、とても仲がよさそうに見えた。それこそ、姉妹のようだ。だが、それと共に危うさも覚える。特に、あの小人の方だ。あまりにも正邪の言う事を真に受けている。
「強者が弱者を支配するのではない、弱者が強者を支配するんだ。幻想郷を本当の理想郷に変えようぜ。さあ、弱者が見捨てられない楽園を築くのだ!」
威勢の良い正邪の声が辺りに木霊した。弱者が見捨てられない楽園。彼女自身が、弱者は幸せになれないと断言していたにも関わらず、そんなことを嘯いている。やはりおかしい。
いったい、彼女は何をしようとしているのか。もう一度下克上を願うのか。分からない。が、「でも、なんて願えばいいの?」と首を傾げた小人の言葉を聞いて、やっと彼女の意図に気がついた。気がついて、背筋が凍った。まさか、と声が漏れる。例の言葉を彼女らが呟いているのが聞こえた。小人が持っている偽物の小槌に目を向ける。それは、既に高々と振り上げられていた。なぜ。どうして。小人なんて道具だって言ってたじゃないか。正邪を止めようと、そう思ったが間に合わないのは明確だった。現実を直視したくなくて、背を向けてその場を去る。
「「すべてをひっくり返せますように!」」
シャリンという音が響き、まばゆい光が溢れ出す。見慣れた、私の魔力による光だ。私がレプリカにかけた魔法がしっかりと発動するのが分かった。小槌の呪いが、小人から正邪へと移っていく。それに目を逸らすように、私は早足で紅魔館へと進んだ。
失意に明け暮れ、泥酔者のようにふらつきながら、私は飛んでいた。後ろには、憎々しい輝針城がこちらを見下ろしている。やはり、あの魔法を、痛いの痛いの飛んでい毛の魔法を、レプリカにかけるべきではなかった。正邪に使わせるべきではなかった。まさか、あんな使い方をするなんて、自分に呪いを移すなんて考えてもいなかった。
そんな考え事をしているときに、急に強い風が吹いた。身を切るような冷たい風だ。突然の寒さに、私は思わず布を握っていた手を離してしまった。ぶわりと一度大きく舞った光学迷彩は、水色の大きなそれを翻しながら、ゆっくりと下へと落ちていく。ぼんやりとそれを見つめていた私だったが、霧の湖のほとりに落ちたそれを見て、ようやく取りに行こうと降下を始めた。あまりの出来事に思考がまとまらない。
「見て見て姉さん」
ゆっくりと降りていると、その布を見つけたからか、陽気な声を出した女性が姿を現した。光学迷彩を拾い上げ、「布があったよ、水色の」と叫んでいた。
「でかした八橋」
すると、奥の方からもう一人、姉さんと呼ばれた女性が現れる。そんな彼女たちは、なんの悪意もなく、「餞別だ、餞別だ」とはしゃぎながら光学迷彩を持ち去ってしまった。取り返しても良かったが、そんな元気もない。諦めて、その場を去ろうすると、いきなり後ろから肩を掴まれた。慌てて振り返る。
「もしかして、紅魔館の魔女さんですか?」
見たこともない妖怪が、そこにはいた。湖の中から出てきたからか、全身が湿っている。こちらを見てニコニコと微笑んでいるその妖怪は、青い髪と妙な耳が印象的だったが、その下半身はより印象的だった。
「こんな近所に人魚がいたなんて、驚きね」
「知られてなかったんですか。それは悲しいですね」
およよ、と袖で目元を拭った彼女は、「私はわかさぎ姫と申します」と恭しく頭を下げた。ぽたぽたと水滴が垂れている姿は、どこか官能的にも思える。
いきなり現れた人魚に面食らったものの、すぐに不愉快になった。私はこんなところでおしゃべりをしている暇はない。
「それで? 結構な期間ここに住んでいるにも関わらず、中々声をかけなかったあなたが何の用かしら? 私は今疲れているのだけど」
いじめようと思ったわけではないが。私の口調は強くなっていた。疲れと自身への苛立ちがつのり、相手に気をやる元気すら残っていなかったのだ。だが、そんな失礼な私の態度にも関わらず、彼女は平然としていた。彼女から感じる力は、確かに弱所妖怪のそれにも関わらず、それに見合わないほど肝が据わっていた。不思議と、頭が冷えていく。
「実は、相談がありまして」
頬に手を当て、眉を下げているその姿には、可愛らしさと共に、いかにもなお姫様のように見えた。彼女の話など聞かず、はやく紅魔館に帰りたかったが、しぶしぶ聞くことにした。
「先日、いきなりこれを押し付けられてしまって、困っていたんです」
「これって何よ?」
「これです。この笠です」
そう言い、彼女は懐に手を突っ込んだ。がさごそと漁ったかと思えば、みすぼらしい、ぼろぼろの笠を取り出す。あまりにも酷いその笠に、私は見覚えがあった。
「これ、正邪の笠じゃない」
私のぼやけていた頭は、はっきりとした輪郭を持ってきていた。相も変わらず、気分は暗く、訳もなく泣きだしたいが、正邪の笠がここにあるという事実だけは、何とか頭に入った。
「この笠はどこで、いつ拾ったの?」
「拾ってないんですよ。貰ったんです」
「貰ったって、誰に。正邪?」
「射命丸さんです」
予想外の返事に、私は戸惑った。ここで、射命丸の名前が出てくるなんて、考えもしなかったのだ。どうして射命丸が正邪の笠を持っていたのか、ふつふつと疑問が湧いてくる。
「なんか、人里の民家で見つけたらしいですよ」
そんな私の疑問を感じとったからか、わかさぎ姫は訊いてもいないのに、答えた。
「事故物件のボロ屋に落ちてたとか言ってました」
「それで? どうしてあなたがそれを持っているのかしら」
「報酬らしいです」
「報酬? 何の」
「取材の」
ああ、と私は声を漏らしてしまう。こんな愚問は全く意味がなかった。彼女が報酬を渡す相手なんて、取材相手以外にあるわけがない。
「それでも、人の物を勝手に報酬として渡すのはどうかと思うけれど」
「正邪さん、でしたっけ」
「ええ。最近よくこの上を通っているはずだけど、知らない? 目が鋭くて、頭に小さな角のある」
「ああ、あのいつもボロボロの」
「そうそう」
だから笠もこんなにボロボロなんですね、と笑った彼女は、そういえば、と声を零した。記憶を辿っているのか、目を上に向けている。
「確か、射命丸さんの取材が終わったすぐ後にも、正邪さんは湖の上を通ってましたね。おんぶされてましたけど。ほら、あの浮かんでいる城が出来た時です」
きっと、正邪が内臓を剥き出しにして紅魔館に来た時のことだろう。慧音に抱えられ、不敵に笑っている彼女の姿は鮮明に覚えている。どうして草履を回収しに行くだけで腹に穴が空くのか、甚だ不思議だった。
「わかさぎ姫、っといったかしら」
「はい。なんでしょう」
「あなたに一つ任務を命じるわ」
「任務、ですか」
怪訝そうな顔を見せるかと思ったが、予想に反し、彼女は楽しそうにこちらに身を乗り出した。いきなり、親しくもないような私に命令されたにも関わらず、嬉々としてそれを聞こうとしている。
「この笠を、正邪に届けてくれないかしら」
「届けに?」
「ええ」
どうしてこんなことを言っているか、自分でも分からなかった。きっと、正邪がどこか
遠い所へ行ってしまうことに、少なくないショックを受けていたのだろう。だから、彼女と私のつながりが欲しかった。そんなところではないか、と自分自身に言い聞かせる。
「分かりました。正邪さんに届けに行きます。ただ」
「ただ?」
びしりと指を突きさし、真剣な顔つきになった彼女は、湖の表面を軽く撫でた。この寒さで、薄く氷が張っている。よく見ると、彼女がいるところだけ、氷の色が少し違っていた。
「綺麗な氷ができてから、行きます」
やっと冴えてきた頭に、どかりと疲労がたまるのが分かった。
霧の湖で余計な道草をしてしまったからか、紅魔館につくまでにいつもより長い時間がかかった。輝針城を見上げる度に、どこか重い気分になり、意識が朦朧とする。どうやってここまで来たのかも覚えていない。門をくぐり、扉を開ける。美鈴はいなかった。門を守らない門番の存在価値はあるのか、と下らないことを考える。空を見上げると、真っ青な空に輝針城がよく映えていた。幻想的というよりは、狂気的だ。太陽の位置はいつの間にかずっと西に寄っている。どうやら、随分遠回りしてきたらしかった。そのせいか、酷く疲れている。いや、疲れたのはそのせいではないか。
紅魔館へと入り、図書館までの長い廊下を進む。途中で、訳もなく立ち止まったり、壁にもたれかかったりしていると、そこでも時間が経ってしまった。やっとのことで図書館にたどり着くと、そのまま倒れ込むようにして転がり込んだ。絨毯に寝転び、力なく手を投げ出す。もう何も考えたくなかった。こんな姿、誰にも見せられないな、とひとり自嘲気味に呟いていると、「遅いじゃねえか」とせせら笑う声が聞こえた。
ぎょっとし、慌てて立ち上がる。声がしたほうへ急いで目をやる。そこには、不遜な態度で椅子に座る正邪の姿があった。
「なんで、いるのよ」
「そりゃあ」
あんなことをしたというのに、彼女は一切の後悔も見せていなかった。むしろ清々しそうですらある。
「怪我をしたからに決まってるだろ」
「あなたねぇ」
こんなにも憂鬱な気分にも関わらず、つい口元が緩んでしまう。体を起こし、いつも通り、正邪の体面に座る。怠けている脳を叩き起こすために、大きく身体を伸ばした。正邪の前で情けない姿を見せるのは、癪だったのだ。机を挟んだ正面にいる正邪に目を向ける。彼女が向こう側にいることが、もはや当然のように思えた。
「少しは学習しなさいよ。小槌を持ったら駄目だって、分かってたじゃない」
小人の前で、本物の小槌を握った彼女の姿を思い浮かべた。今も正邪の左手は、プラプラと力なく揺れている。
「だから、今度は利き手じゃない左手で」
右手で頬杖をつき、面倒くさそうに言った正邪は、そこで言葉を切った。一度目を大きく見開き、すぐに鋭く細める。その険しい目つきで私を睨んだ。一体どうしたのだろうか。
「お前、どうして分かった?」
「どうしてって、何が」
「私が左手を小槌で怪我をしたって、どうして分かった」
ああ、と気の抜けた声が漏れる。そういえば、そうだった。自分自身が、姿を消してあの場面を覗き見していたということすら忘れていた。
「いい演技だったわよ。ただ、小人が迫害される、ってとこが現実味に欠けていたけど」
「お前、どこから見て」
「さあね。ただ、あなた達は仲が良すぎるのよ。そんなんだと、痛い目に遭うのはあなたよ」
これでもかと顔を顰めた正邪は、頭をがしがしと掻きむしった。うう、とうめき声をあげ、しきりに足を組み替えている。
「説明してもらおうかしら」
「説明って何を」
「全部よ」
がくりと顔を落とした彼女は、観念したのか両手を上げ、息を吐いた。その耳は興奮したからか、それとも羞恥のせいか真っ赤に染まっている。
「分かったよ」
吐き捨てるようにそう言った正邪は、がばりと顔を上げた。
「ただ、絶対に他言無用だからな」
「大丈夫よ。絶対に誰にも言わないから」
私の言葉に納得したかどうかは分からないが、彼女はぽつりぽつりと説明を始めた。その顔は、一見無表情のようにも見えるが、溢れ出る感情を必死にこらえていることが、私には分かった。やけに素直な彼女に違和感を覚える。もしかすると、彼女は私にこれを伝えたくて、それが目的で来たのではないか。そんな気がした。だとすれば、気に入らない。それではまるで、もう二度と会えないと言っているようなものでは無いか。
「野菜を人里に届けにいって、満身創痍になってここに来たことがあったろ。私はあんまり覚えてないが」
「妹紅に連れてこられた時ね」
忘れるはずもない。あの時の彼女は、意識がないに等しく、ただ、私がやるしかない、とうわ言のように呟いていた。
「あの後、人里に草履を取りに戻ったら、甘味屋で慧音たちに会っちまって」
「ええ」
「そのまま寺子屋まで行って、そこで何とか草履を回収できたんだが」
「良かったじゃない」
「その後に、色々あって私の腹に穴が空いた」
「なんでよ」
「さあな。色々あったんだ」
これ以上ないほどに苦々しい顔をした彼女は、小さく首を振った。答える気はない、ということだろうか。
「そこでだな、打ち出の小槌が慧音の家から盗まれたと知ったんだ。取り返そうとしたが、まあ失敗した」
両手を強く握り、机を思いっきり叩いた。彼女の鋭い目に、黒い何かが宿っているようにも見える。
「そうしている内に、小槌は針妙丸の手へと渡ったんだよ。代償のことなんて、何も知らない無邪気なあいつの元ヘな。そして、当然のように彼女はそれを使ったんだ。なあ、なんて願ったと思う?」
「知らないわ。分かるわけないじゃない」
「友達ができますように」
「え?」
「そう願ったんだよ、あいつは」
馬鹿みたいだろ、と微笑む正邪は、呆れというよりも、馬鹿な娘を思い出すような、そんな表情をしていた。
「純粋だろ?」
「純粋といっていいのか分からないけれど」
「あいつは眩しすぎるんだよ」
小人は道具だと言っていたくせに、とつい声に出してしまったが、聞こえてないようだった。
「それで? その眩しすぎる小人を置いて、あなたは慧音にここへ連れ込まれたのね。腹に穴を空けて」
「連れ込まれてねえ。遊びに来たんだ」
「これ以上嬉しくない言葉もないわね」
慧音が彼女を連れてきてから、色々なことがあった。本は勝手に漁るし、いきなり怒り出す。河童と喧嘩をしたかと思えば、レプリカを作れと無茶を言う。だが、そんな日々も悪くないと私は思っていた。
「あなたはこれからどうするのよ」
このまま正邪が私の手の届かない場所に行きそうで、怖かった。が、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、「決めてねえ」と彼女は呑気に笑った。
「とりあえず輝針城にでも行くさ」
「小人のことが心配なの?」
「そんな訳あるか。あんな立派な城はあいつには勿体ないだろ。だから、私が貰ってやるんだ」
そこで、正邪は浮かべていた笑みを消した。目に怒りをためたかと思えば、かき消すように頭を振り、頬を叩く。パチンと子気味いい音が図書館に反響した。
「私には義務がある」ぽつりと、正邪は抑揚なく言った。
「義務?」
「あのバカで綺麗な針妙丸を、私たちの汚れた世界に引き込んじゃいけねえんだよ。弱者には幸せになる資格がないなんてことをな、分からせちゃいけないんだ。だから」
「だから、あなたがその代償を引き受けたの? 痛いの飛んでい毛で」
正邪は、否定も肯定もしなかった。彼女の胸の中にあるだろう、小槌のレプリカからは、確かに禍々しい魔力が溢れている。どんな怪我も呪いも他人に移すことができる使い勝手の悪い魔法。彼女がそれを欲しがった理由は、小人の呪いを自分に移すためであった。
「でも、だとしても、願いが下克上だなんて変な嘘をつかなきゃいいのに。面倒なことになるわよ」
「あいつが、幻想郷を壊すような異変の引き金だと分からせてはいけない。共犯じゃいけねえんだよ。だったら、私が下克上を起こすための道具として騙したと言えば、同情があつまるだろ」
「だとしても、別の方法があったはずよ。別にあなたじゃなくても、他の誰かに押し付けてもいいじゃない」
たまらず、私は言った。どうして正邪がそこまで小人を庇うのか。小人のために泥をすするのかが分からなかった。文字通り、残りの人生を犠牲にしてまで彼女を守る必要があったのか。彼女のために、そこまでの悪評を被るのが正邪の役目だったのかと、喚いた。納得いってなかったのだ。だが、どうやら納得していなかったのは、私だけのようだった。
「普通に考えれば、得意分野はそれぞれのプロに任せた方が良いと思うだろ? 適材適所ってやつだ」
得意げに正邪は笑った。その目には一切の迷いもなかった。
「私は嫌われるプロだからな」
面白そうにクツクツと笑った正邪は、きっと上手くいくと自分に言い聞かせるように呟いた。恐怖と決意が入り混じった、澱んだ目で私を見つめてくる。
「確か、小槌の代償で、私は鬼の世界とやらに封印されるんだろ? だったら、そのついでだよ」
「そんなにうまくいくかしら?」
「いかせるんだよ」
「誰が」
「お前が」
はあ、と息が漏れる。それは、あまりにも自分勝手すぎる頼みで、面倒くさいもので、呆れた。ただ、それよりも、その願いを叶える気でいる自分自身に呆れる。
「だったら、初めから言えばいいじゃない。別に私にまで、小槌に下克上を願ったとか、小人は道具だとか言わなくても」
そんな大事なことを最後まで隠されていたことに、少し腹が立った。天邪鬼に信用という言葉があるかどうか分からないが、とにかく、彼女にとって私はそこまで軽率な奴だったのか、と悲しくなる。
「ほら、よく言うじゃないか」そんな私をちらりと見上げた正邪は、嫌味に鼻を鳴らした。その顔は、いつもの彼女と変わらず、憎たらしい笑みを浮かべている。
「敵を騙すにはまず味方からだって」
「意味、違うわよ」
微笑む私の目から、一筋の水滴がぽとりとたれた。