――天邪鬼――
「打ち出の小槌を振ればいいの?」
何も理解していない哀れな針妙丸が、私に向き合い、首を傾けた。
人里と妖怪の山のちょうど中間地点に私たちはいた。清々しい青空に、憎々しげに浮かんでいる太陽が私たちを見下している。にも関わらず、肌を切るような寒さは一向に和らいでいない。風が吹いていないのに、草原がざわめいた気がした。そんな些細なことすら気になる程に、私は緊張している。
「私の、いや、私たちの野望のためだ」
言葉を一つ一つ紡ぎ出すように、慎重に言う。そうしないとボロが出てしまいそうだった。
「私たちって、その野望には私も関わっているの?」
「むしろ当事者だ」
大きく息を吸う。自分の腹が膨らむのが分かった。鶏ガラの「止めておいた方がいいんじゃないかしら」と珍しく心配そうな表情が浮かぶ。いや、そういう訳にはいかないのだ。もし実行しなかったら、私は死んでも死にきれない。
「お前、自分以外に小人を見たことがあるか?」
「ないよ。だから寂しい」
「理由を考えたことは」
「ないなー」
そうだよな、と相槌を打つ。今の言葉に不審な点はないか、頭の中で何度も確かめた。が、針妙丸が私の言葉を疑うほど、捻くれた心を持っているとは思えなかった。
「迫害されたんだよ」
「え?」
「強者に酷い目に遭わされたんだ」
どういうこと? と針妙丸は眉を傾ける。言葉尻から不穏な気配を感じ取ったのか、顔が強張っていた。どういうことか、と聞かれても困る。私もそこまでは考えていなかった。
「むかしな、強い奴らに酷い目にあわされたせいで、小人はひっそりと暮らさなきゃならなくなったんだ。そのせいで、幻想郷にはお前しか小人がいねえんだよ」
「そんな! 酷い!」
ああ、その通り。酷すぎる嘘だ。私もついにこんな嘘しかつけなくなったのか、と呆れる。
「お前がその小槌を振れば、願いが叶う。そうだろう? だったら、見返してやろうぜ」
「見返すって、どうやって」
「ひっくり返すんだ。逆に考えろ」
奥歯を噛みしめ、悔しさをこらえる。目的のためとはいえ、針妙丸に嘘をつくのは、なぜか心苦しい。が、戸惑ってはいけない。多少の犠牲はもはや仕方ないのだ。
「強者が弱者を支配するのではない、弱者が強者を支配するんだ。幻想郷を本当の理想郷に変えようぜ。さあ、弱者が見捨てられない楽園を築くのだ!」
だらしなく口を開けたまま、針妙丸は突っ立っていた。私の言葉が理解できなかったのか、と心配になったが、その口元を段々とにやけさせていき、手を叩いた彼女を見て、安堵の息が漏れる。こんなところで棒に振っては、たまったものではない。
「いいね! 面白そう」
ご先祖様の無念を晴らすんだね! と満開の向日葵のように、辺りを照らす暖笑を見せる。そこには一切の影もなく、清らかなままだった。少しの安堵と後ろめたさに襲われる。私のせいで、と口走りそうになった。
「でも」
晴れ晴れとした表情を一瞬にして曇らせた針妙丸は、不安そうに手に持つ小槌を見つめた。どこか不思議そうに小槌を撫でる彼女の仕草を前に、私は内心どぎまぎしていた。大丈夫だろうな、鶏ガラと心の中で何度も呟く。
「でも、なんて願えばいいの?」
「簡単だ」
ほっと胸を撫で下ろしながら、私はその言葉を彼女に告げた。正真正銘の魔法の言葉だ。間違えないようにと、噛みしめながら一音一音発音すると、なぞるように針妙丸も繰り返す。にこやかに口を動かす彼女を前に、私は怯える心を強引に立て起こした。
覚悟はあるか。自分自身に問いかける。イノシシは、自分の身を省みず、とにかく前に進むのだ。例え、その先が奈落の底だろうとも。覚悟はあるか。あなたに、世界を捨てる覚悟はあるか。世界に捨てられる覚悟はあるか。すでに答えは決まっていた。
「なら、振るよ!」
そう云うや否や、右手に持った小槌を一目見た彼女は、軽々とそれを上下に振った。止める暇すらなかった。躊躇する私の心を無視するかのように、彼女は元気に小槌に声をかける。まあ、いいか。これで損をする人物はいなくなった。ハッピーエンドに向かうはずだ。一寸法師の物語のように、最後は円満でみんな笑顔に。何とも現実離れしているが、それでも私はそれを望まずにはいられない。“お前は人間よりも人間らしい”その通りだ。夢見る天邪鬼。もはや、この言葉の羅列が矛盾しているが、それでもいいかと思った。
「それなら、正邪も一緒に叫んでね」
いくよー、と声をかけられる。震える心を奮い立たせ、喉に空気を入れた。何を恐れる必要がある。地獄よりも恐ろしい所なんて、今と変わらないじゃないか。
「せーの」
「「すべてをひっくり返せますように!」」
小槌がシャリンと音をたて、視界が光に包まれる。体に黒い何かが押し寄せてくるような、そんな気がした。胸の内を虫に食い破られている気分だ。その穴に確かに何かが押し込まれていく。間違いない。地獄への片道キップだ。
光が段々と退いていく。どこか嬉しそうに微笑む針妙丸が、両手を開き、私の胸に飛び込んだ。支えきれず、そのまま草むらに倒れ込む。彼女の手に持った小槌が点々と転がっていくのが見えた。えへへーと、子供の様に笑う彼女の胸を小突く。
「何しやがる」
「いやー、これで正邪も仲間だなって」
「どっちかといえば、共犯だな」
まとわりつく彼女を引き剥がし、空を見上げる。そこには、立派な城が上下逆さまで宙に浮かんでいた。
「そういう運命だからだ」
目の前で、ぎゃあぎゃあと喚いている針妙丸にそう告げた。だが、どうやらそれでも納得いってないらしく、ああだこうだと文句を言っている。こんな時なのに無邪気なものだ。
「いいじゃん別に! 遊んでくれたって」
「嫌だ」
「えー」
小槌を針妙丸に振らせた後、一度紅魔館に寄った私は、輝針城へと来ていた。不機嫌な死針妙丸を無視し、近くの窓から外を覗き込む。空はもう暗くなっていた。地上を見下ろすと、人里の明かりがちらちらと見える。あれのどの光が寺子屋なのだろうか、と探すもすぐに諦めた。
「でも、意外だったな」
「何が?」
「逆さの城なのに、中は普通だってことだよ」
「そりゃあ」
針妙丸がぴょんと跳ねた。癖なのか、身体を大の字にしてその場でくるくると回る。今の彼女がやると、酔っぱらった大人がふざけているようにしか見えなかった。
「部屋まで逆さまだったら、住みにくいでしょ」
答えになってないような針妙丸の言葉を無視し、鶏ガラのことを思い出す。紅魔館での鶏ガラは、いつもに比べ少しやつれていた。元々骨のように生気がない彼女であったが、一段と疲れているようだった。そんな彼女の忠告を思い出す。真面目に対策しないと、大変なことになる。しかし、誰がどう見ても今の私たちは真面目という言葉からは程遠かった。
「というか、正邪一回ここに来てるじゃん」
「そうだったか?」
「ほら、なんか小槌をカメラで撮ってたよ」
「ああ」
確かにその時来ていた。が、あまりに焦っていたため、ほとんど覚えていなかった。つい最近のことなのに、はるか昔のようにも感じる。
「楽しみだね、下克上!」
「そうだな」
今や、私と同じ背丈になってしまった針妙丸に目をやる。右手に打ち出の小槌を持ち、それを軽々と振り回していた。打ち出の小槌が一体どのくらい恐ろしいものか知らずに、おもちゃのように気軽にくるくると弄んでいる。
「それにしても、やっぱ変だよな」
「変って何が?」
「お前」
「酷い!」
ぷんすか! と怒りながら、私に文字通りつっこんでくる。手に握った打ち出の小槌を放り投げ、腹に突進してきた。ボスンと鈍い音を立て床に落ちた小槌を見て、肝が冷える。焦りと恐怖で体が固まり、届かないにも関わらず反射的に手を伸ばした。
だが、何を勘違いしたのか知らないが、針妙丸は私と同じように両手を広げ、鳥のような格好で私に飛び込んだ。小さい時の頃と同じくらいの勢いで体重をかけられるので、当然支えきれるはずもなく、そのまま床に押し付けられる。ギシギシと木が軋む音が聞こえ、そこでやっと彼女の手が私の腰にまわっている事に気がついた。懐に隠している物がばれないかと、不安になる。
「おい、私に下克上しても意味ないぞ」
「正邪が私のことを変とかいうからじゃん」
怒っていると言いたいのか、頬を膨らませながら不満を口にしているが、その目からは喜びが溢れ出ていた。理由は容易に想像できる。小さかった昔の自分では、私の膝までしか届かなかった手が腰にまで伸びているのが嬉しいのだろう。なんとも単純だ。
「変ってのはあれだよ、お前の背だ」
えー、とよく分からない声を漏らしている彼女を私は見ていなかった。床に落ちた小槌を見つめ、それから自分の懐にこっそりと手を伸ばす。ほっと胸を撫で下ろし、焦った昔の私に文句を言いたくなった。大丈夫だと分かっていたのに、手を伸ばしてしまった事が悔やまれる。打ち出の小槌の恐ろしさを、私は身に染みて感じていた。文字通りで、だ。
「どうして私の背が変なの? むしろ、普通になったでしょ」
こてんと首を傾げた彼女は、頭のお椀が気になるのか、手で弄っていた。そのお椀はもはや鍋くらいの大きさになっている。間違いなく、幻想郷最大のお椀だ。
「だから変なんだよ。小人の身長が普通だったら、おかしいだろ」
「そうかな?」
「そうだ。背の大きい小人、空飛ぶ魚、昼行性の吸血鬼、全部おかしなものばかりだ」
「そこまで変じゃないよ!」
私にまたがったまま、針妙丸はポカポカと胸を叩いてきた。大して痛みは無いが、無視できるものでもない。左手で体を起こし、彼女を振り払う。鶏ガラに怪我を治してもらっていなかったら、こんな風に起き上がれることもできなかったはずだ。そう思うと、恐ろしい。
「変なんだよ。お前だって、頭突きをしない慧音がいたら、驚くだろ?」
「それは……驚くけど」
「それと一緒だ」
そうなのかな、と納得したのかしてないのかよく分からない声を出した彼女は、そんなことより! とまた声を張った。どこからそんな声が出ているのか分からないが、鼓膜を直に殴りつけるような、暴力的なまでの大声だ。もしかすると、彼女が窮地に陥った時は、大声で叫べば、相手を失神させることもできるのではないか、とそう思うほどだった。
「そんなことより、遊んでよ!」
「だから、嫌だと言っただろう」
「いいじゃん、どうせ暇なんだし」
「それはお前だけだ」
地面に寝転び、駄々をこねるように転がる彼女に目を落とす。いくら体が大きくなろうが、根は子供のままだ。
「でも、正邪も悪いよ。セキニンってやつがあると思う」
「ねぇよ。何だよ責任って。説明してみろ」
口にはしたものの、どうやら責任という言葉の正しい意味は分かっていないようで、あのねあのね、としどろもどろに口を動かしている。
「セキニンっていうのは、えっと、あれでしょ。お祝い事の時に食べる、あのもちもちした」
「それは赤飯だろ、馬鹿じゃねぇの」
「うるさい! どっちも似たようなもんでしょ!」
へそを曲げてしまった彼女は、そっぽを向き、「だったら、悪いことをした人が来たら赤飯をあげればいいじゃん」と支離滅裂なことを言った。
「責任をとって、赤飯を食べさせるのか? それ、逆に喜ばせるじゃねぇか。毒でも盛るのかよ」
「そうだよ!」
私の言葉をまともに訊いていないのか、彼女はそれ以降なにを言っても生返事しかしなくなった。相も変わらず頑固者だ。こんなところばかり彼に似てしまって、不憫としか言えない。
畳に座り込み、私と目を合わせようとしない針妙丸に構うのを止め、部屋を見渡す。呆れるほどに広く、そして豪華な城だ。緑のい草を敷き詰め、そこに黒と金の混じった漆のようなもので線を引き、最後に梅の花の香りを練り込みました。そう言われても違和感がないほどに、部屋中に高貴さが漂っている。正直にいえば、落ち着かない。それはどうやら針妙丸も同じようで、部屋を見渡してはどこか不満そうに頬を膨らめた。
「やっぱ、暇だよ。なんで外に遊びに行っちゃいけないの?」
「なんでって」
当然、危険だからに決まっている。だが、直接そのことを伝える訳にはいかない。そう伝えると、彼女は必ず「何で?」と聞いてくるだろうし、そうなると、私は確実に答えることができないからだ。
「ねぇ、いいでしょ。晩御飯までには帰るからさぁ」
「駄目だ」
「いいじゃん!」
ばさりと着物を翻し、身体をバタバタと床に打ち付けている彼女は、小さかった時はただの子供のおふざけにしか見えなかったが、今では川際に打ち上げられた魚のようだ。
「いいか、よく聞け。晩御飯までには帰るって言葉は信用しちゃいけないんだよ」
「そうなの?」
「そうだ。絶対に誰にも言わないからって約束する奴と同じくらい信用してはいけない」
「なんで?」
針妙丸は不思議そうに首を捻った。
「考えてもみろ。晩御飯がいつできるかなんて、分からないだろ? それに、いつの晩御飯か言ってないじゃないか。これだと、別に今日じゃなくて、違う日だとしてもおかしくない」
「おかしいよ」
「おかしくない。だから、そもそも晩御飯までに帰るとかなんとか言った時点で、お前はもう外に遊びに行く権利は無くなってんだよ」
「えー」と眉を下げた針妙丸だったが、「でも、正邪は今さっき紅魔館に行ってたじゃん」と恨めしげに見つめてくる。その目は半分閉じられており、非難するというよりは、呆れているようだった。
「私はいいんだよ」
「何で?」
「晩御飯までに帰るってのは、温かいうちにご飯を食べれるために帰るってことだ。おいしく食べるために」
「そうだね」
「私は別に、もうその必要がないからな」
「正邪は美味しいご飯を食べられなくてもいいってこと?」
「ああ。今はそれどころじゃない」
私はまた嘘をついた。できれば、美味しくご飯を食べたいに決まっている。しかし、それは過ぎた願いだ。毎日食事ができ、生きていけることだけで私たち弱小妖怪にとっては幸運といえる。それ以上を願うのは高望みというものだ。だから、後悔なんてしていない。
まだ少し納得していなかったようだが、膨らませていた頬からふしゅぅと空気を抜き、分かった、と頷いた。
「正邪がそこまで言うなら、止めとく」
「そうしろ」
とぼとぼと立ち上がり、私にもたれかかるように座り込んだ彼女の重みを感じながら、窓の外を見やる。地上よりもかなり上に浮いているはずだが、星との距離は相変わらず遠い。弱者と強者の差も、同じようなものなのだろうか。絶対に手が届かないのだろうか。そんなはずはない、と自分に言い聞かせる。そうしなければ、心が折れてしまいそうだった。
「あ、あれって、もしかして人じゃない?」
そんなことを考えていると、針妙丸が突然声を上げた。あまりにも急だったため、体が震え、隣にいた針妙丸の背中に肘をぶつけてしまう。が、彼女は痛がる素振りもなく、けろりとしていた。
「やっぱり。あれは絶対人だよ。ほら見てみて!」
頬と頬をくっつけるようにして私の顔の位置を変えた針妙丸は、窓の外を指差した。いやいやながらも、彼女の指の先に視線を移す。
結論から言えば、窓の外に人はいなかった。当然だ。こんな深夜に外に出る人間なんていないし、そもそも空に浮かんでいる逆さの城に来られる方がおかしい。では、針妙丸が見間違えたのかといわれれば、そうでもない。確かに、輝針城の外には動く影があった。窓にへばりつくようにこちらを見て、何かを伝えようと必死に口を動かしている。しかし、肝心の内容は分からない。
そいつは、縦にくるくると巻いた髪を棚引かせていた。和装にスカートという奇妙な格好をしており、ひらひらと白いフリルが印象的だ。暗くてよく見えないが、青い髪が良く似合う少女。ぱっと見はそう見えた。だが、実際はただの少女ではない。明らかに異常な点が何か所かあった。
「背の高い小人はおかしいと言ったけど」
まず、その少女には耳がなかった。本来耳がある箇所には先のとがった、ヒレのようなものがついている。だが、それよりも圧倒的に印象的だったのは、足だ。
「まさか本当に空飛ぶ魚がいるとはな」
彼女の足は、魚の尾びれと全く同じだったのだ。
人魚、と聞けば普通はどのような印象を抱くだろうか。おそらくは、優雅で美しく、放漫な体と人を魅了する歌声で人間を虜にする魔性の存在。そんなことを考えるのではないだろうか。
「あの、始めまして、であってますかね」
「当たり前だろ、私はお前なんて知らない」
間違っても、いま私の前で、おどおどと怯えるように周りを見渡している小魚のことを思い浮かべる人はいないはずだ。
輝針城。私たちがいる空に浮かんだ逆さまな城を、鶏ガラはそう呼んだ。当然、ただの城ではなく、無駄に広く、そして迷路のように入り組んでいる。警備も万全の様で不審者が入ってこれば、様々な罠が発動するらしい。その不審者の判断基準は定かではないのが恐ろしいところだ。目の前で、ピチピチと跳ねている小魚は、どうやら不審者には該当しなかったようで、平然と輝針城へと入ってきた。警備という言葉の意味を、私ははき違えていたのかと、心配になる。
「私はわかさぎ姫といいます」
「姫! 私と同じだね」
何が同じなのか分からないが、針妙丸はそうはしゃぎ、わかさぎ姫に勢いよく抱きついた。見るからに弱気なわかさぎ姫は、きっと、針妙丸の勢いに気圧されてしまうだろう、と考えていたが、予想に反し、元気がいいですね、と優しく微笑んだ。
「私、霧の湖に住んでいるので、妖精の扱いには慣れているんですよ」
そいつは妖精じゃない、と口では反論したものの、私は納得していた。確かに霧の湖の妖精たちは、針妙丸よりも騒がしく、幼く、そして愚鈍である。そんな彼女らと共に過ごしていれば、嫌でも寛大になるはずだ。
「それで? 何の用で来たんだ。まさか珍しい建物が浮かんでたから、なんて馬鹿な理由で来たわけでも無いだろ」
「まあ、それも少しはありますが」
苦笑いをした彼女は、その太い尾びれをくねらせながら、魔女さんに頼まれたんです、と口元を歪めた。
「実は、これを届けに来たんです。あなたにとって大事な物と聞いたので」
笑みを崩さずに、懐をまさぐった彼女は、円錐状の茶色い物体を取り出した。一瞬、それが何だか分からなかったが、にこにこと笑みを携えながら頭に被るわかさぎ姫をみて、何時の日か無くした笠だという事に気がついた。
「この笠って、正邪のなんだ!」
久しぶりに私以外の奴と会ったからか、針妙丸は浮足立っていた。くるくるとその場で踊り、わかさぎ姫にえへへーと笑いかけている。それに答えるように、小魚も首を傾けた。なぜだか、無性に腹が立つ。
「遅せぇよ、馬鹿野郎」
だからだろうか、つい語調が強くなってしまった。
「遅いって、何か使う予定でもあったの?」
「おいおい自称茶碗蒸し姫様。あなたは笠の使い方も知らないのですか? 」
「ちょっと! その丁寧な言い方止めてよ。正邪がいうときもちが悪い」
私はてっきり、笠の使い方ぐらいわかる、だとか、私は茶碗蒸しではない、と怒られると思っていたので、少しの間ぽかんとしていた。まさか、敬語を叱られるとは思っていなかったのだ。
「きもちが悪いとは、酷いですね。姫様」
「止めてって!」
「良いことを教えてあげますよ、姫様」
自分を抱きしめるように両腕を肩に回している針妙丸を見ると、心が躍った。顔がにやけていくのが自分でも分かる。大きくなっても小人は小人、その単純な性格は変わっていない。
「敬語には不思議な力があるんですよ。一見、相手に敬意を払っているように見えますが、時と場合によっては相手を馬鹿にしているようにも聞こえます。そして何より、相手との距離感がより広く感じられるのです。だから、姫も相手と距離を置きたいと思った時には敬語で話してみてはどうですか?」
「だから、止めてって。それだと、正邪は私と距離を置きたいってことになるじゃん」
「ご明察です」
もー、と牛のような呻き声をあげた針妙丸は、これまた牛のように私に突っ込んできた。大きくなった針妙丸の扱いにもだいぶ慣れてきた私は、受け止めるふりをして、さっと横へ躱す。「なんで~」と奇声をあげながら床へと這いつくばる針妙丸を見下し悦に浸っていると、不敵に笑った彼女は地面に倒れ込んだ反動で、間髪入れずに起き上がり、もう一度私に突っ込んできた。虚を突かれ、反応が遅れた。身体を床に押し付けられ、素っ頓狂な声が漏れる。えへへ、といつものように勝ち誇った笑い声が上から聞こえた。
「今日も私の勝ちだね」
「勝ち負けなんて、主観で変わるものだろ? そんな物に意味はない」
負け惜しみだー、と私を指差す針妙丸を無視し、痛む腰を撫でる。
「ねえ、大丈夫?」
「大丈夫じゃねえ」
「大丈夫って聞いて、大丈夫じゃないって返さえたのは初めてだよ」
「文句は慧音に言ってくれ」
打ち出の小槌の影響で身長が大きくなって以来、彼女はやけに私の腰へ飛びついてくるようになった。いや、飛びつくなんて可愛いものなんかではなく、もはや突進に近い。段々とその技術は上がってきている。もしかすると、誰かに襲われた時は、突進をすれば逃げ出せるのでは、と思うほどだ。
「ずいぶんと、仲がいいんですね」
腹の上に乗っている針妙丸をどかそうと脇の下をくすぐっていると、小魚が口を開いた。くすくすと、口元を裾で隠して笑っている。その仕草は確かに姫様じみていた。
「仲がいい? 冗談だろ」
「え? むしろ、冗談じゃないくらいに仲がいいって感じですけど」
「良かったね、正邪。褒められたよ」
「良くねえし、褒められてもねえ」
私たちを交互に見て、また声をこぼすように笑った小魚に舌打ちをする。奥歯を噛みしめ、息をのみ込んだ。「あなた達は仲が良すぎるのよ」鶏ガラが言ってきた言葉を思い出す。「そんなんだと、痛い目に遭うのはあなたよ」そんなことは分かっていた。分かっていたはずなのに、何故かこいつとの距離を離せない。血まみれで泣いている三郎少年の姿が頭に浮かんだ。このままでは、水の泡だ。
「いいか小魚、私はこいつをただ利用しているだけなんだよ。下克上をするための、ただの手駒に過ぎねぇんだ」
「そうなんですか?」小魚が針妙丸に向かい首をかしげる。
「え、違うよ」
「ですよね」
「何で信じねえんだよ」
私の言葉はいつだって信じてもらえない。逆に、「こいつと私は仲良しなんだぜ」と言い張れば、信じてもらえるのではないか、と半ば本気で考えるほどだ。
楽しそうに針妙丸と雑談を始めた小魚の頭から、笠を奪い取る。お世辞にもきれいとは言えないそれの、飛び出した管が手に引っかかったが、気にせず自分の頭にのせた。心なしか、魚特有の生臭さが鼻につき、顔の前で手を振る。
「おい、もう笠は受け取ったから、とっとと帰れよ。用事はもう済んだだろ」
「確かに、頼まれていた任務は完了しましたが」任務を完了するという言い回しがその口調と似合わず、吹き出しそうになってしまう。
「でも、なぜだかここから離れたくないんですよね。なんだか、この城に引き寄せられたというか、ここであなた達に会えた運命を大事にしたいというか……。あ、でも、単純に針妙丸さん達とお喋りするのは楽しいですよ。でも、なんか違う感覚があって」
自分でもよく分かっていないのか、不思議そうに肩をすくめ、どこか要領を得ない話し方をする小魚を前に、私と針妙丸は顔を見合わせていた。私自身はどんな顔をしているか分からなかったが、針妙丸はいたずらに成功した子供の様に、無邪気な笑みを浮かべている。
「やっぱり、打ち出の小槌の力は本物だったんだね」
小声でそう囁き、私に見せつけるように小槌を振った彼女は、よっぽど嬉しかったのか、小魚の元へ歩み寄り、その手を掴んだ。ぶんぶんと大袈裟に振っている。
「そうだな」
私の言葉は小魚の叫び声にかき消された。あっ、と短く、けれど人を惹きつけるような独特な声で叫んだ彼女は、そうでしたそうでしたと手を叩いた。
「言うのが遅くなりましたけど」
「遅せぇよ、馬鹿野郎」
言葉を遮られ、不機嫌だった私は、彼女に対して分かりやすく敵意を剥き出しにしたが、彼女は平然と無視した。
「仲間達からきいたんですけど、近々本格的に動くらしいですよ」
「動くって何が?」
「さすがに、ずっと放置しているわけにもいかなかったらしいですね。付喪神が突然大量発生したことが決め手だったそうです」
「だから、何が動くんだよ」
私に顔を向け、少し眉を下げた。ぴたんぴたんと尾びれで床を叩いている。言おうかどうか迷っているのか、黙って俯いていた。少しの間、針妙丸の鼻歌だけが辺りを包んだが、意を決したように小魚は頷き、口を開いた。
「巫女ですよ。巫女が異変解決に向け、動き出したのです」
一瞬、私は呆然とし、自分の耳を疑った。巫女が動くのは分かっていた。覚悟していたと言ってもいい。だが、心のどこかで実は来ないのではないか。来るとしても、来年あたりなのではないかと期待していた。慢心していた。高を括っていた。だから、その言葉をすぐに受け入れることはできなかった。この曖昧で、どこか平和ボケした瞬間が終わりだと認めたくなかった。覚悟をしていたはずなのに、それでも恐怖心は拭えない。終わる決意が出来ていなかった。
「やっぱり、言うのが遅かったでしょうか?」
「遅せぇよ、馬鹿野郎」
自分でも驚くほどに、声に生気がこもっていなかった。
あなたは氷を作ったことがありますか? 突然小魚がそう切り出した。
「霧の湖には氷精がいるので、氷についての知識はそれなりにあるんですよ」
そんなことよりも、さっき言っていた巫女についての話をしろ、とすごんだが、耳がないせいか私の声は聞こえなかったようで、「氷を作るのは案外難しいんです」と続けた。
「確かに普通に池の水を冷やすだけでも氷はできるんですけど、それだと汚い、濁った氷になるんですよ」
「何の話だ」
「綺麗に氷をつくるためには、綺麗な水が必要なんです。それに、こう見えても私は人魚なので、水には煩いんですよ」
「何の話だ」
「綺麗な水ってことは、不純物を取り除かなくてはいけません。ほんの少しでも不純物が入っていると、台無しになってしまうんです。でも、最近は汚い氷ばかりで困ってて」
「だから、何の話だよ!」
憤った私を宥めるように、まあまあ、と私と小魚の間に割って入った針妙丸は、「面白そうだし、聞いてみようよ」と肩を撫でた。ますます気に入らない。
「つまりですね、私が何を言いたいのかといいますと」そこで小魚は言葉を切った。得意げに鼻を鳴らし、挑発するかのように両手を広げる。
「水こすことが出来ないってことです」
「は?」
「あれ? 分かりませんでしたか? 見過ごすと水をこすってのをかけているんです」
「止めろ、説明すんな」
あまりにも下らなすぎて、怒る気力も失せてしまう。
「どうですか? 面白かったですか」
「これを面白いというお前が滑稽で面白いよ」
くすくすと笑う小魚は、よほど自信があるのか、思い出して自分で笑っているようだった。だが、そんな姿ですら私と違い、どこか気品に溢れている。こんな寒い洒落を言う妖怪がいるとは世も末だ。
ふと、針妙丸が声を出していないことに気がつき、隣に目を向けた。てっきり私は、あまりにもつまらなすぎて、あんぐりと口を開けているか、それとも話をそもそも聞いていないかのどちらかだと思っていたが、違った。予想に反し、彼女はその大きくなった体をよじり、声を殺して笑っていた。両手を口に当てて、顔を真っ赤にしている。
「おい何で笑ってんだよ」
「っ……。だって、面白いんだもん」
「嘘だろ」
堪えることが出来なくなったのか、声を出しながら腹を抱え始めた針妙丸は、足をバタバタと床に打ち付けた。つられるように、小魚も大声で笑いはじめる。どこか静かで、厳かな雰囲気だった輝針城が、一転むかしの寺子屋のような活力の溢れる場になった。もう夜も大分更けてきたにもかかわらず、部屋の中は明るくなったかのように感じる。沈んでいた心が不思議と明るくなる。勇気はあるか? 頭の中で声が響いた。絶望する勇気はあるか? 今であれば、はっきりと返事はできる。
「少し、元気な顔になりましたね」
「は?」
「巫女の話をした途端、急に顔が暗くなったので、びっくりしました」
やっぱり、笑いは人を救いますね、ともの知り顔で語った小魚は、「まあ、仲間の言葉なんですけど」と照れくさそうに笑った。
「さっきから仲間とか言ってるが、もしかしてあのクソみたいな妖精たちのことか?」
「違いますよ。草の根妖怪ネットワークって知ってますか?」
「なにそれ?」
まだ笑いが収まりきらないといった様子ではあったが、一応話は聞いているようで、針妙丸が口を挟んだ。「むだ骨妖怪ネットワーク?」
「違いますよー」
穏やかに微笑んだ小魚は、そのなんちゃらネットワークとやらがよっぽど誇らしいのか、わざとらしく胸を張った。
「草の根妖怪ネットワークです。弱小妖怪で集まって、色々な情報を共有したり、一緒に遊んだりしてるんですよ」
「井戸端会議みたいなものか」
馬鹿にされたと思ったのか、少しむっとした小魚は声を少し大きくして、語尾を強めた。
「もっと凄いんですよ。例えば、今回の巫女の情報だって、その内の一人が拾ってきてくれたんですから」
「それはすごいね」
うんうんと頷いている針妙丸を見て気を良くしたのか、「あなたも是非入って下さいよ」と針妙丸に手を伸ばした。嬉しそうに微笑んだ針妙丸は、少しだけ私を横目で窺ったものの、私が首を縦に振った瞬間に勢いよく手を握った。
「これも、小槌の力だね!」とはしゃいでいる針妙丸は心底嬉しそうに顔をくしゃりとさせた。小槌の力で得た友人がいいものかどうか私には分からなかったが、目の前の二人を見ていると、きっと小槌なんて無くったって、仲良くなっていたに違いない、と確信できる。それほどまでに彼女たちは馬が合っていた。ほっと安心している自分がいて、驚く。私がいなくても、針妙丸は何とかなりそうだ。
「そうだ! 正邪も入ろうよ。正邪も弱小妖怪なんだし」
「ああ、ごめんなさい。正邪さんは駄目なんです」
「おい、何でだよ」
別段入りたくもなかったが、いざ拒否されるとそれはそれで気に入らなかった。仲良く手を握っている小魚の肩を掴み、小さく揺する。
「それはあれか? 私は弱小妖怪というには強すぎるってことか」
「違いますよ」
御冗談を、と眉を傾けた小魚は申し訳なさそうに首を振った。
「私は草の根妖怪ネットワークが好きなんですよ。だから駄目なんです」
「なんでだよ」
「だって、ほんの少しでも不純物が入っていると、台無しになってしまうんです。私は草の根妖怪ネットワークを台無しにしたくありませんから」
おいおい、私は不純物なのか、と嘆く声に返事をしてくれる者は誰もいなかった。
姉妹とは何か。普通に考えれば、同じ母親から生まれた二人の女性のことを指すだろう。場合によっては、例えば別腹の姉妹だとか、義理の姉妹といった例外が存在するだろうが、それでも何となく納得することはできる。
だが、同時に生まれた付喪神を姉妹と呼ぶかは私には分からなかった。
輝針城の天守閣を離れた私は、色々な部屋を見て回っていた。何か、妙なものが無いかと心配になり、無数にある部屋を一つ一つ確認していたのだ。が、そこにはただ高級な畳があるだけだった。急いで針妙丸と小魚がいる天守閣へと走る。そんなに時間も立っていないはずだが、この短時間の間に巫女が攻めに来て、全てが終わっていましたでは、まあそれも問題は無いが、できれば避けたかった。
長い廊下を進み、襖を開く。すると見慣れぬ人影が現れた。それも、二人もだ。小人と魚と、それに加え楽器を持った美しい何者かが呑気に畳に座り、雑談をしている。こんな様子では、巫女が来たとしてもすぐにたどり着いてしまうのではないか、とため息が漏れた。
「おい、いつから輝針城は託児所になったんだよ」
「あ、正邪。お帰り」
「お帰りじゃねぇよ」
無邪気にこちらを振り返った針妙丸は、紹介するねと笑顔を向けた。隣に座った二人の背筋がピンと伸びる。まるで恋人を紹介されているように感じて、奇妙な気持ちになった。雑念を振り払うように強く首を振る。
「えっと、付喪神の九十九弁々さんと九十九八橋さん。九十九が苗字らしいよ。弁々さんが琵琶の付喪神で、八橋さんが琴の付喪神だって!」
「だってじゃねぇんだ。何でそいつらがいるのかと聞いてるんだよ」
琵琶と琴の違いも碌に知らない癖に、意気揚々と語る針妙丸が気に食わなかった。そして何より、そんな甘い針妙丸と親しげに話し合っているその付喪神が怪しく、危険なものに思えた。
「なんでって」二人の九十九姉妹の右側、八橋と呼ばれた少女は短い茶色の髪をわしわしと掻きながら、無邪気な笑顔を浮かべた。
「せっかく付喪神になって、動けるようになったから。ね、姉さん」
「そうだ」今度は後ろに二つ括られた弁々と呼ばれた少女が口を開く。
「誰だって、動けるようになったら自由に動きたくなるし、こんな変な建物があったら来たくなる。仕方がない」ベンベンと琵琶の音を鳴らしながら言った彼女に、軽く怒りを覚える。付喪神というのは、どうやら随分と生意気の様だ。
「お前らみたいな楽器風情が歩いてんじゃねぇよ。大人しく倉庫で眠ってろ」
「お前さん」弁々は悲しそうに、笑った。
「笑いのセンスがねえな」
ぷちり、と頭の何かが切れた音が聞こえた。彼女らに向かい、ずかずかと近づいていく。こんな奴ら、小魚もろとも追い出してやる。そう意気込んでいたが、ニコニコと頬を上げながらこちらに向かってくる針妙丸に歩みを止められる。何だよ、と呟くも、口に手を当てた彼女は私の耳元で小さく呟いた。吐息が当たってくすぐったいが、我慢する。
「ねえねえ、もしかして、これもあれなのかな」
「あれって、なんだよ」
「小槌の力」
その一言に、私ははっとした。確かに、あり得ない話ではなかった。どうしてこの願いで道具に付喪神が宿ったかは、ほとほと不思議だったが、もしこれがそうであるならば、この九十九姉妹と出会うことが小槌の目的によるものだとすれば、不自然ではあるものの納得できるのではないか。そう思えた。
「なあ、針妙丸」
「何?」
「お前から見て、あいつらはいい奴だと思うか?」
「もちろん!」
考えることもなく、彼女は即答した。その目には一切の迷いもなく、キラキラと輝いている。あなた達は仲が良すぎるのよ。また、頭の中で声が響く。もしも、彼女たちが針妙丸の仲間になるのならば、後々役に立つのではないか? ふと、そんなことを思った。だが、腹が立つことには変わらない。
「もしかして、あなたが鬼人正邪かい?」
腕を組み、必死に頭を回していると、弁々がにやにやと笑いながら声をかけてきた。どこか面白がられているように感じて、気に入らない。畳に足を叩きつけるように腰を下ろす。
「いや、見えないねぇ」
「見えないって何がだ」
「あんたが下克上を企んでいる天邪鬼ってことだよ」
口の中に、苦い液が充満してくる。何か言葉を発しようと口を開くも、喉に何かが詰まったかのように言葉が出てこない。ただ、ふしゅうと空気が漏れる音がしただけだった。
「姫から聞いたよ。姫のために下克上を決意するなんて、あんた、粋だねえ」
「止めろ。針妙丸のためじゃねえ。あと姫ってよぶな」本心で私は言った。
「でも、すごいよ。強者に立ち向かおうとするのは」八橋が屈託のない笑顔を見せる。
「ですね。中々できることではありませんよ」小魚もそれに続いた。
これ以上ない居心地の悪さを私は感じていた。今すぐにでもここから飛び出し、どこでもいいから頭を冷やしに行きたかった。実際に、畳から腰を上げ、外へと向かおうとしたが、その途中で、足元に打ち出の小槌が転がっていることに気がついた。慌てて針妙丸の方を見ると、彼女はそれを意に介した様子もなく、ぺちゃくちゃとお喋りに興じている。軽く眩暈を覚えた。こんな大切なものを放置しておくなんて、慧音が訊いたら悲しむだろう。もっとも、この小槌を最初に紛失したのは慧音なので、人のことは言えないだろうが。
無意識に、それを拾おうと手を伸ばしていた。が、小槌に触れた瞬間、何かに弾かれるような衝撃が走り、手を引っ込めてしまう。忘れていたわけでは無かったはずだが、驚く。
「おい針妙丸」
「ん? どうかしたの」
「どうかしたのじゃねぇよ。小槌置きっぱなしじゃねぇか」
あっと声を漏らした彼女は、トタトタと大きな体を軽やかに動かし、こちらへ向かってくる。えへへと全く反省の様子もなく笑った彼女は、ほら、正邪も一緒にお喋りしようよ、と手を引っ張ってきた。本当ならば断わらなければならないはずだが、何故だかそうすることが出来ない。最後の思い出なんてものではないが、後ろ髪が引かれたのは事実だ。
「何だか、正邪さんは姫のお父さんみたいですね」
「は?」
「あー、確かに」
まず、針妙丸が当然のように姫と呼ばれている事実に困惑したが、それよりも、その後の言葉が衝撃的過ぎて、そんなことはどうでもよくなった。私が似ている? こいつの父親に?
「冗談だろ」口から空笑いが零れた。
「あいつは私なんかより、よっぽど天邪鬼してたよ」
蕎麦を打ちながら、こちらを見下すように笑う彼の姿を思い浮かべる。口が動いているが、何と言っているかは分からない。そこで私は、初めて彼の声を思い出せないことに気がついた。愕然とし、その失意を忘れるように頭を振る。彼の顔は消え、喜知田の顔が浮かんだ。ああ、そうか。私が唯一心残りだったのは、喜知田への復讐がまだだったことでも、針妙丸を残してしまった事でもない。彼と同じ場所へ。地獄か天国は知らないが、そこへ行けないことが心残りだったのだ。
「ねえ、正邪」
しばらくぼうっとしていた自分の身体を揺さぶり、針妙丸が声をかけた。気がつけば、皆が私を見て、神妙な顔つきをしている。それは、針妙丸も例外ではなく、眉をきりりと真っ直ぐにし、責めるような口調で訊いてきた。
「どうして正邪が私のお父さんのことを知っているの?」
「え」
「ねえ、どうして?」
背筋が凍った。世界がくるくると暗転し、この世の中に自分以外の存在が消え去ったかのように思えた。後悔という言葉では生温いような感情が私を襲う。何か。何かを言わなければ。そう思えば思うほど、頭の中がぐちゃぐちゃとかき回されているような感覚に陥る。
「また」いま、どんな声が出ているか、分からなかった。声が震えていないことだけを祈る。
「また、今度言うよ」
空気が固まった。音が無くなり、自分の鼓動しか聞こえない。冷や汗が背中を伝っていくのが分かった。
「……ぷ」
「ぷ?」
「……くく。あはは!」
目の前の針妙丸が、突然笑い始めた。それに続き、周りにいた小魚や付喪神も笑いはじめる。ただ、私だけが呆然と佇み、間抜け面をさらしていた。彼女たちがなぜ笑っているのか理解できない。
「いやー、そんだけ溜めといて」間延びした、のんびりした声で八橋が笑った。
「また今度はないですよ」小魚が、着物で口を隠し、細かに震えている。
初めはくすくすと含み笑いをするだけだったが、突然、爆発するように皆が一斉に笑い始める。針妙丸も体をくの字にして大笑いしていた。バシバシと私の肩を叩き、指をさして笑ってくる。訳が分からなかった。
「分かった。また今度ね」目に涙を浮かべながら、針妙丸は息も絶え絶えに言った。
「何がおかしいんだ」
「だって、正邪が真面目な顔で、また今度っていうのがおかしくて。いつもなら、うるせぇとか、知るかっていうのに」
そこで、ようやくこの事実に、針妙丸の父親、つまりは蕎麦屋の親父に関する暗い事情を知っているのが私だけだという事実に気がついた。他の連中からすれば、いきなり友人の父親について聞きだしたら、挙動不審になって回答を先延ばしにしたということになるのだろう。なるほど、確かにそれは笑える。
「でもよ、“私なんかよりよっぽど天邪鬼”とか何とか言ってたけど」弁々が愉快げに私に向かいあった。
「少なくとも、あんたより私たちの方が天邪鬼らしいよ」
「冗談だろ。私は正真正銘、卑劣で狡猾な生まれ持った天邪鬼だ」
私の言葉を受け、アハハと一際大きく笑った弁々は、朗らかに言った。
「訂正するよ。あんた、笑いのセンスがあるわ」
「それで、どうやって博麗の巫女に対抗するつもりですか?」
一通り笑い終わった小魚が、首を傾げた。
結局、笑いの大合唱が終わった後、彼女たちはより団結力を深めたようで、私の下克上に対して、各々話し始めた。下克上したら何をやりたいか、どんなことをしたいかについて語り合っている。「道具による天下を目指す」と九十九姉妹が意気込めば、「草の根妖怪ネットワークの規模を拡大する」と小魚が対抗し、「私はみんなが幸せになれればいいかな」と針妙丸が呟いた後、みなが気まずそうに流石姫と褒め合う。そんな茶番じみた行為を繰り返し行っていた。が、小魚が巫女に関することを言った瞬間にその議論は柔らかく、微笑ましい物から、激しく刺々しいものに変わっていった。
「私たち生まれたばかりでよく分かんないんだけど」八橋が針妙丸に肩をあずけながら、口元に手を当てた。
「その巫女ってのは強いの?」
「控えめにいって、最強ですね」
苦笑いをする小魚に同調するように、針妙丸も頷く。
「よく慧音先生が言ってたよ。今の巫女さんは凄いって」
「そんなすごい人に勝てるのかい?」
弁々が私に向かい指を出した。突然話を振られ、たじろぐ。正直に言えば、巫女に勝つ方法なんて、私には思い付かなかった。いや、そもそも考えていなかったと言った方が正しい。巫女に挑むということは即ち敗北である。私たち弱小妖怪にとっての常識とすれば、巫女にいかに勝つかではなく、巫女にいかに襲われないかが重要だった。そもそも巫女に勝とうという発想がそもそもないのだ。だが、それを口にすることはできなかった。私は下克上を是が非でも達成しようとしている。少なくとも彼女たちにはそう見せなければならない。
「まあ、私たちに切れる手札は少ない。なら、全部使うしかないだろ」
「どういうこと?」針妙丸が期待に満ちた目を私に向けた。
「単純だよ。お前らも巫女と戦うんだ。こんだけ人数がいれば、誰かは勝てる」と私は堂々と言い、小さな声で「かもしれない」と続けた。
「え、私たちも戦うの?」
「まあ、いいじゃないか八橋。道具もそこそこできるということを世の中に知らしめてやろう」
「いいの? もしかしたら、姉さんも私も折角動けるようになったのに幻想郷にいられなくなってしまうかもよ」
「大丈夫さ」片目をパチリと閉じた弁々は、私から見ても魅力的に思えた。が、八橋はそうは思わなかったらしく不満そうに眉をひそめている。
「姉さんが大丈夫っていうと酷い目に遭うよ。毒キノコを食べる羽目になったりとか」
「あれは酷かったな。食いきれなくて、まだ持ってるよ」
ケラケラと笑う弁々を八橋が小突いた。私は、予想以上に彼女たちが乗り気なことに驚いていた。てっきり、そんな危なっかしいことは御免だ、と突き返されるとばかり思っていたのだ。だから、実際に巫女との戦いに巻き込まれる気でいる彼女たちに、いいのか? とらしくもなく訊いてしまった。
「巫女と戦うということが何を指しているか。下克上ということがどういうことか分かってんのか?」
傷だらけで図書館に這ってきた門番の姿を頭に浮かべる。願いを下克上ということにしよう、と決めた時のことだ。確かに彼女は巫女にやられたと言っていた。人里や弱小妖怪に被害が及んだとはいえ、たかが赤い霧を出しただけでそうなるのだ。しかも、末端であるはずの門番が、だ。ならば、もし幻想郷の存在を否定する下克上なんてものに関わってしまえば、今までの異変で一番悪質になる予定の私たちの陰謀に足を入れてしまえば、ひとたまりもないはずだ。そのようなことを、曖昧にぼかしながら、私が彼女たちを気にかけていないということを前面に押しつつ、無謀な付喪神に力説した。が、彼女たちは聞く耳をもたかった。
「大丈夫さ」
親指を立てた弁々は八橋と共に笑った。
「お前の大丈夫は酷い目に遭うんじゃないのか?」
「大丈夫さ」
誇らしげに笑った弁々はまた、琵琶をベンベンと鳴らし、何かを懐から取り出した。大きな、青色の布だ。
「これ、あげるよ。餞別だね」
「餞別ってどういう意味だ。それに、何だよこれは」
「見て分からないのかい?」
見下し、鼻を鳴らした弁々は八橋を肘で小突いた。説明してやれよ、とくすくす笑っている。
「これは、青い布だよ」
「は?」
「青い布。具体的には、そこら辺に落ちてた大きな青い布だよ。この寒い季節には役に立つと思うな」
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだった。ただの布がどうして餞別になるのか、理解できない。
「おまえ、本当にこんなんで巫女と戦うつもりなのか」
「大丈夫さ」憎たらしい笑みを浮かべ、弁々は私の肩に手を置いた。
「いざとなれば、首謀者である鬼人正邪様が責任を取って下さる」
その、あまりのふてぶてしさに唖然とした私は、助けを求めるように八橋に目をやった。が、彼女も両手をあげ、細かく首を振っている。姉妹なんだから、しっかり手綱を握って欲しかった。
「あなたがリーダーなんだから、責任を取ってよね」
「なんで私がリーダーなんだ」
「そりゃ、首謀者だもの」
「たかが道具のくせに生意気だな。分かった、もしお前らが何か言われたら、私に脅されたといってもいい」そっちの方が、私にとっても好都合だった。
「どうしてだい? やけに物分かりがいいじゃないか」
「私は天邪鬼だぞ。悪名を轟かせることが好きなんだ。それと、お前らみたいな出来損ないのガラクタを巫女の当て馬にするのも、悪くない」
「あんたが私たちのことが嫌いだということと、被虐趣味なのは分かったよ」
それぞれの楽器を鳴らし、満足そうに話しあっている二人は、完全に巫女と対決するつもりらしかった。これは説得できない、と途方に暮れていると「手札と言ってましたけど」と小魚が声を高らかに上げた。
「それなら、草の根妖怪ネットワークの皆にも協力してもらいましょうか?」
「お前も一枚かむつもりなのか」
「一枚どころか、三枚ぐらい噛ませてもらうつもりです」
クスクスと笑った彼女だったが、ふざけている様子では無かった。本気だ。本気で下克上に加担しようと、巫女を倒そうとしている。
「お前、巫女の強さは知っているだろう」
「もちろんですよ。あの高名な巫女さんのことは知っています」
「なら」
「憧れなんですよ」
その声は、決して大きくはなかったが、どこか熱を帯びており、私たちを困惑させた。
「一度でいいから、巫女さんと戦ってみたかったんです」
「なんで」
「だって、あの博麗の巫女さんですよ。私たちにとって、雲の上の存在じゃないですか」
「別に会いに行こうと思えば行けるけどな」
そういうこと言わないで下さい、と不貞腐れた小魚は、両手を畳につけ、尾びれを細かく震わせている。夢見がちにぽぅと上を向いた姿は、人魚と呼ぶに相応しく、美しかった。が、「巫女を倒すには、毒でも盛ればいいのかしら」と聞き捨てならない言葉を発している彼女を美しいと呼ぶことは、私には出来ない。
「ならさ、チーム名とか決めようよ」
わいのわいのと盛り上がっている内に、針妙丸が突然そう切り出した。あまりに突然すぎて、彼女の言葉を理解できない。
「なんだよチーム名って」
「例えばさ」慧音の真似をするように、指を立てた針妙丸は私たちの顔を順に見回した。
「草の根妖怪ネットワークとか、守屋とか、紅魔館みたいに、みんなチーム名を持ってるじゃん」
「紅魔館は建物の名前だけどな」
「とにかく」私の言葉を無視し、彼女は嬉々として言葉を並べる。
「私たちもチーム名を作った方がいいと思うの。楽しそうでしょ」
流石に馬鹿らしいと笑った私をよそに、やろうやろうと他の四人は盛り上がり始めた。輪に入るのも億劫で、窓の外を眺める。巫女はまだ来ていないか、小槌の魔力はどうなっているか。それだけが気がかりだった。そうして、しばらく外を見ていると、頭がぼんやりとし、瞼が下がってくる。単純に疲労がたまってきたからか、それとも小槌のせいか。
「正邪! チーム名決まったよ」
頬杖をつき、危なく寝そうになっていたところで、針妙丸が声をかけてきた。びくんと体が震え、それを誤魔化すように大きく伸びをする。
「どうでもいいけど、一応何になったか聞いといてやるよ」
「天邪鬼」
「は?」
「天邪鬼になったよ」
「何が」
「だから、ちーむ名だって」針妙丸の後ろにいた弁々が言った。
「ちーむあまのじゃく。いい響きじゃぁないの」
ちーむあまのじゃあく、ちーむあまのじゃくと音を楽しむように繰り返した弁々は「これで一曲作ってもいいかもな」と嘯いた。
「止めろ」
「その止めろってのは、ちーむ名を天邪鬼にすることか? それともちーむあまのじゃくという曲を作るということか?」
「どっちもだ」
どうしてそんな最悪な結論に至ったのだ。というか、それは最早チーム名としての意義を果たしていないのではないか、言いたいことはたくさんあった。だが、そもそも肝心なところを彼女たちは勘違いしている。
「私はお前らの仲間なんかじゃない。お前らは道具なんだよ」
「そりゃあ、私たちは道具さ」弁々と八橋が、不思議そうに首をかしげる。
「そうじゃない、比喩だよ」
「比喩?」
「お前らは私のために奮闘し、傷つき、そして捨てられるんだよ。決して対等じゃない。そこら辺を忘れるな。これは私の下克上なんだよ。そのためにお前らがどうなろうと知ったこっちゃない」
「怖いなぁ」ねぇ、姉さんと声を出した八橋の顔には、言葉とは裏腹に一切の恐怖も浮かんでいなかった。
「そもそも何だ。天邪鬼ってのは私の種族じゃねえか。なんでそれをチーム名にするんだよ」
「語呂がいいから」
「ふざけんじゃねぇよ」
まあまあ、と宥めるように柔らかい言葉を発した小魚を無視し、私は喚き立てる。が、その小魚ですら、楽しそうに「良いじゃないですか、天邪鬼で」と同意した。比較的まどもだと思っていた彼女がそちら側に回ったことは、少なからず私を動揺させた。
「別に天邪鬼に迷惑をかけているわけでありませんし」
「かけてるんだよ、私に。生まれ持っての天邪鬼の私にな!」
「それは」
ふふんと鼻を鳴らした小魚は、尾びれの鱗を撫で、楽しそうに言った。
「それは、生まれながら私たちのチームの一員ということですね!」
ああ、と思わず声が零れる。頭に生えた二本の角に手を伸ばす。堅く、短い自慢の角だ。もしかして、私を天邪鬼たらしめているのは、これだけじゃないか、と不安になる。
「やっぱり、お前らの方がよっぽど天邪鬼してるよ」
せめて、こいつらよりは狡くならなければ、と決意した。
「みんな行っちゃったね」
「そうだな」
それでは、各自巫女に喧嘩を吹っ掛けるように! と何とも物騒な号令の下に、付喪神と小魚は勢いよく輝針城から飛び出していった。あれだけ賑やかだったここも、しんと静まり返り、壁際に置かれている白い光を発する提灯の、じりじりという音だけが部屋を覆っている。その静けさが、私を責め立てていた。覚悟をしたのだろう? 巫女が来る前に言わなければならないじゃないか。諦めろ。そう頭の中で声が響く。
「そろそろ下克上の山場ってところだね」
「山場なんて言葉よく知ってたな」
私は馬鹿にするつもりで言ったのだが、針妙丸は褒められたと思ったようで、えっへんと胸を張った。
「たぶんだけど、巫女とたたかって、勝てば下克上は大きく進むと思うんだ」
「勝てると思っているのか?」
ふんふんと鼻歌を歌っている針妙丸に対し、私はつい、責めるような口調になってしまっていた。いくら小槌の力で体が大きくなっているとはいえ、あの針妙丸が巫女と戦う、ましてや勝つことなど不可能だ。むしろ、そうでなくては困る。
「正直に言えば、私は勝てないと思う」
「え、そうなのか?」
「うん。よっぽど運がないと無理だよ。だって、あのけいね先生でも勝てないっていってたもん」
意外だった。無鉄砲ではしゃいでばかりいる彼女が、純粋に巫女と自分との力量差を見極めることができるとは思いもしなかった。負けるわけないじゃん! と怒り狂うと思っていた。
「巫女に勝てる見込みはないってか」
「面白くないよ、それ。わたしはね、巫女に伝えたいんだ」
「伝えたい? 何を」
「弱者の気持ちだよ」
どこか遠い目で彼方を見つめた針妙丸は、眉を下げ、力なく笑った。身長が大きくなったからか、その表情はどこか憂を帯びていて、色気づいている。そんな彼女を見て、私は愕然としていた。彼女は、平和で穏やかな世界で生きていると、私はそう思い込んでいた。いや、そうでなくてはならないとすら考えていた。が、そんな彼女ですら、弱者でいる苦しみを、逃れられようもない理不尽を感じていたというのか。いったいなぜ。答えは明確だった。私のせいだ。
落ち着かない心を誤魔化すように、畳に置かれていた布を掴む。九十九姉妹が餞別にくれた、青い布だ。非常に薄く、寒さを防ぐことすら出来そうになかった。懐に入れるため、小さく折りたたむ。ふわりと、嗅ぎなれた匂いが鼻についた。紅茶とインクの混じった匂いだ。どうして、鶏ガラの匂いがするのか、と疑問に思ったが、すぐにそれどころではなくなった。布にくるまっていた手が、見えなくなったのだ。透明になったといってもいい。慌てて手を布からだし、無理矢理懐に突っ込んだ。その時に、隠している物が針妙丸にバレていないかと不安になったが、気づかれた様子はない。
「それで、弱者の気持ちを伝えたいって、どういうことだよ」
誤魔化すように、早口でそう尋ねた。
「きっとね、強者は弱者の気持ちなんて考えたこともないと思うの。だから、もしわたしが負けても、そのきっかけになればいいかなって思ったり」
「馬鹿じゃねぇの」
「も、もちろん勝つ気ではいるよ!」
私が馬鹿と言ったのはそこではなかったが、面倒だったので訂正するのはやめた。まさか彼女が、彼女たちが下克上にここまで興味を抱くとは思わなかった。選択を完全に間違えた。もっと、適当なものにしておけばよかった。だが、今更変更はできない。だったら、今やるべきことをするしかない。今やるべきこと。それは何か。針妙丸と縁を切ることだ。
「なあ、針妙丸。お前って、私の口にする言葉は嘘だと思うか?」
「突然なに?」
「いいから」
「思わないよ」一切の逡巡も見せず、彼女はそう言った。いつものような浮ついた笑みすら浮かべずに、真剣にそう言ったのだ。
「正邪は、確かに捻くれてて間抜けで意地悪で救いようがないけど」
「おい」
「けどね、本当に優しい人はそういう人だと思うんだ。けいね先生も優しいけど、正邪の方がもっと優しいよ。だから、私は正邪の言葉を信じる」
顔を赤らめもせず、当然の事実を述べるようにそう語った針妙丸を前に、私は固まっていた。まさか、そんなことを面と向かって言われるとは。末恐ろしい奴だ。心に芽生えていた暗い感情がすっと晴れていく。固まったのは身体だけではない。僅かに揺らいでいた決意も固まった。
「ならよ、もし」自分を落ち着かせるために、一度大きく息を吐いた。大丈夫だ。どちらにせよ、今更引き返せない。だとすれば、憂いはすべて断っておくべきだ。
「もし、私がお前を騙していたといったら、信じるか?」
「騙すって、どういうこと?」
「例えばだ」私は針妙丸と目を合わせないように下を向きつつ、言葉をなんとか並べる。
「幻想郷に小人がいないのは、別に強者に迫害されたからではないといったら」
「え?」
「私が下克上をしたいがためにお前に吐いた嘘だと言ったら、信じるか?」
「どういうこと」
あたふたと慌て始めた針妙丸は、手に持っていた小槌をそこら辺に放り投げ、私に詰め寄ってきた。私なんかより、よっぽど小槌の方が大切なのに。
「だから、幻想郷の強者はそこまで暴虐じゃなかったんだよ。小人が幻想郷にいないのは偶然だ。ただ、私がお前を、幻想郷を支配するための、小槌の力を利用するための嘘だったんだ」
「嘘でしょ」
「ああ、嘘だったんだ。よくあんな嘘で騙されてくれたよ」
言葉を切らないまま、一息でそう言い切った。途中で言葉を止めてしまうと、躊躇してしまいそうだった。何度も心に決めたはずなのに、それでも言い訳が頭に過る。別に、嫌われる必要はないんじゃないか? 単純に姿を消すだけで、しばらく旅に出るとでも言っておけばいいんじゃないか? そう声が聞こえる。だが、それでは駄目なのは分かっていた。共犯ではいけない。彼女に一切の罪を背負わせてはいけない。だったら、こうするしかないはずだ。
「驚いたか? こうも上手くことが運ぶとは思わなかったが、結果往来だ」
「どうして、そんなことを?」
「私がやるしかなかったからだ」
大きなお椀で顔を隠し、俯きがちに発した針妙丸の声は震えていた。そんな物悲しい声を聞きたくなくて、食い気味に返事をする。
「いいことを教えてやる。本当に大事なことってのは、自分でやらなきゃならないんだ。人に頼らずな」
「だから、自分で下克上をしようとしたの?」
「そうだ」
全く質問の答えになっていなくて、驚いた。だが、それも仕方がない。私は天邪鬼のくせに、嘘をつくのが苦手なのだ。針妙丸を騙したのは下克上のため、ということですら嘘なのだから、まともに辻褄を合わせられるはずがなかった。
「私は信じないよ」手をぎゅっと握り、勢いよく立ち上がった彼女は、私の目をはっきりと見つめた。私より高い位置にあるその目には、僅かに涙が溜まっている。が、身じろぎするほどに鋭く、強い意思に満ちていた。慧音のようだとも思ったが、それよりも彼に似ていた。
「嫌だよ。私は信じないよ」
ぶんぶんと首を振った針妙丸は、ぽつりぽつりと言葉を零した。
「そんなの信じない。信じられないよ」
「さっき、私の言葉を信じるっていったじゃねぇか」
「だったら、わたしは正邪の言葉は全部嘘だと思う」
「そんなのありかよ」
この頑固者が、と内心で歯ぎしりする。家族揃って分からず屋だ。
「家族」
「え?」
「ちょうどいい機会だ」
針妙丸に背を向け、一歩二歩と足を進める。畳が僅かに沈み、小さく音を立てた。そんなことすらも煩わしい。大きく体を伸ばし、天井に顔を向ける。そうしなければ、涙がこぼれてしまいそうだった。
「お前の父親と私の関係について話してやるよ」
「お父さん?」
事態の急な展開についていけていないのか、えっえっと何度も繰り返し呟いていたが、そんな彼女を無視して話を続ける。そういえば、蕎麦屋の親父も私の言うことなんか無視していたな、と思い出した。
「お前の父親はな、ごく普通の人間だったよ。一応蕎麦屋をやっていたが、それでも普通の人間だった。確かに、お前に似て頑固で、変なところにこだわる奴だったが、芯の通った心が強い奴。そんな範疇に収まる程度だ」嘘だ。人生をかけて妻の復讐をするような奴が普通の人間であるはずがない。
「そんな父親だったが、ある時命を落としてしまうんだ」
「え」
「まあ、人間はいずれ死ぬけどな。そうじゃなくて、彼は殺されたんだよ。どんないい人間だって死ぬときゃ簡単に死ぬ。そして死んだら生き返らねぇんだ。当然だがな」
「正邪は」
か細い声が後ろから聞こえる。いま、針妙丸がどのような心境かは分からない。だが、少なくとも、涙を流していることは分かった。
「正邪はお父さんとどんな関係だったの?」
「いい質問だな」
気取ったように右手を上げ、拳を握る。親指だけを突き立て、自分の首近くまで持っていった。そのまま、切るように鋭く動かす。
「さっき言っただろ、お前の父親は殺されたって。包丁で一突きだ。凄かったぞ。目を見開いてな、顔がみるみる白くなっていくんだ。血で辺りは赤くなっているのに。残念なことに悲鳴は無かったな。痛みを堪えたのか、それとも出すことすら出来なかったのか。断末魔はどんな感じか興味があったんだが、残念だった」
「止めて」
「刺したのは腹だったか、胸だったか。もう覚えてねぇけど、たぶん即死だったはずだ。楽に死ねてよかったじゃねぇか。まあ、死体は人里の外でしばらく野ざらしになっていたが」
「止めてって!」
大きな金切り声が耳を貫いた。足元から細かい振動を感じ、壁際の提灯がちかちかと白い光を点滅させる。あまりに大きな声に、頭が真っ白になった。
「どうしてそんな酷いことを、酷い嘘を言うのさ!」
「嘘? どうして嘘だと思ったんだ」
だって、と絞り出すような声が聞こえたが、その先に続く言葉を彼女は続けなかった。代わりに、どすんと、針妙丸が畳に座り込んだ音がむなしく輝針城を覆う。
「だって、そんなことは殺した奴しか分からない、って言おうとしたのか」
自然とはっ、とあざ笑う声が零れる。その通りだ。こんなことを知っている奴は、この世に一人しかいない。
「その通りだ。お前の父親が死ぬ瞬間なんて、殺した奴しか分からない」
彼の死ぬ直前の顔が脳裏に浮かんだ。振り払おうと頭を叩くも、こびりついて離れない。あいつは普通の人間ではない。殺される直前に、あんな安らかな笑みを浮かべるなんて、おかしいじゃないか。
「つまりだ。私が何を言いたいかと言えば」
娘を見守ってくれ、懇願するように目を細める彼の目には涙が浮かんでいた。
「お前の親父を殺したのは私ってことだよ」
針妙丸は押し黙っていた。もしかすると、彼女の心には、拭い切れない深い傷が刻まれているかもしれない。そう思うと、自分の胸が切り裂かれるように、痛い。だが。それでも、幻想郷を混乱に陥れた事件の共犯だと、輝針城を出現させてしまった加害者だと認定されるよりは、ましなはずだ。
「どうして」
畳と何かが擦れる音が聞こえた。気になり、僅かに首を動かして、後ろの様子を窺う。音の正体は単純だった。目を真っ赤にし、涙を畳にこぼしていた針妙丸が、それを着物の裾で拭いていたのだ。
「どうして、そんなことをしたの?」
今度は嘘だな、と言わないのだな、と安堵のため息を吐く。その息と共に、僅かに嗚咽が零れ出て、驚いた。胸の中に黒い液体が流れ込み、身体を重くしていく。その液体は段々と上へあがっていき、瞼から零れ落ちそうになった。
「どうして、父親を殺したか、か。それは簡単だ。打ち出の小槌の場所を知りたかったからだ。あいにく、最後まで口を割らなかったけどな」
「そこまでして、下克上をしたかったの?」
「ああ。そうすれば、私が幻想郷を支配できると思ったからな。妖精より弱い私なら、ひっくり返った世界では誰よりも強い。あ、でもお前の父親よりかは私の方が強いか」
カラカラと乾いた声で笑う。私があいつより強い? あり得ない。我ながら、冗談にしても荒唐無稽だ。
「でも、もし正邪が言ったことが本当だとしても」
その言い回しが、すでに私の言葉を受け入れていると言っているようなものだった。右手に、何かぬめりとした液体がたれる。あまりに強く握り過ぎて、爪が皮膚を突き破っていた。
「別にわたしに言わなくてもいいじゃん。言わなかったら、今まで通りに」
「それは」
こいつは、父親を殺した奴とでもできれば仲良くしたいと、そう考えているのか。呆れを通り越して尊敬すら感じる。どれだけ友達が欲しかったのだろうか。
「それは?」
「私が天邪鬼だからだ。人の嫌がることをするのが大好きな、そんな妖怪だからだよ」
そう言い残し、私は部屋から出ていこうと、廊下へと足を進めた。後ろから追ってくる気配はない。これで良かったのだ。そうに違いない。自分を納得させるように、繰り返し呟く。
「ねえ、正邪」
針妙丸の声は、もはや震えていなかった。むしろ、怒気が含まれており、私の心を直接刺すような、そんな声だった。
「いつ頃に帰ってきますか?」
騒めく胸を黙らせる。引きつる頬を何とか整え、満面の笑みを向けて、針妙丸に振り返った。
「晩御飯までには帰りますよ、姫様」
針妙丸に今生の別れを告げた私は、輝針城の長い廊下を歩いていた。何をしに行くのか。単純だ。巫女と戦い、そして負ける。そのために私は足を進めていた。
“いつ頃に帰ってきますか? ”
針妙丸の、冷たい声が頭に何度も木霊する。私と彼女を結んでいた繋がりが、確かにぷつりと切れたような気がした。敵を騙すにはまず味方から。私は間違ったことはしていない。そのはずだ。きっと、針妙丸は巫女たちに、私は鬼人正邪という妖怪に騙されたんだ、と主張するに違いない。それが信用されるかどうかは鶏ガラの努力次第だ。だが、逆に私が悪事をしたと言われて、信じないような奴の方が少ないように思えた。きっと、あの鬼人正邪が下克上をたくらみ、幻想郷を混乱に陥れようとしました、と言われても、多くの人は、ああやっぱり、と納得するに違いない。今までの私の行動によって、私の信用は、大きく下へと振りきれている。
「身から出た錆っていい言葉だよな」
何の気も無しに、頭に浮かんだ言葉を呟く。それは間違いなく彼の言葉だった。思わず、笑みがこぼれる。なんだよ、まだ声を覚えてるじゃねえか。
「まあ、私の呪いはお前と違って、錆びないけどな」
その私が呟いた声は、すぐに轟音にかき消されることとなった。ごうごうと、山なりのような音が、輝針城全体に響き渡ったのだ。その大きな音に驚いた私は、その場で飛び跳ね、辺りをきょろきょろと意味もなく見渡した。
目の前のものすべてが、徐々に左に傾いていく。最初は、私の目がおかしくなったかと思った。針妙丸と縁を切ったことが堪えたのか、眩暈に襲われたのかと、そう勘違いした。ただ、視界が左に傾いていたのは、私が疲れていたからではなく、実際に輝針城の天井が動いているせいだった。床、天井、壁がゆっくりと、しかし着実に回転していく。床から壁に滑り落ちた私は、たまらず宙へと浮かんだ。結局、ちょうど逆さまに、天井と床の位置が入れ替わったところで、止まった。いったい何が起きているのか、混乱した頭で考える。そんな私をあざ笑うかのように、後ろから猛烈な魔力の風が吹きつけてきた。あまりの激しさに、吹き飛ばされそうになる。振り返ることすら出来なかった。
この城に何が起きているのか。もしかして、もう小槌の魔力が切れようとしているのか。鬼の世界へと封印されてしまうのか、と恐怖したが、違った。廊下のはるか先、辛うじて白い提灯に映し出されているその姿を見て、私はようやく理解した。これは、輝針城の罠だ。侵入者が来た時の合図だったのだ。その、遠くにいる侵入者に目を向ける。あまりにも早すぎる。流石と言うべきか、それとも恐ろしいと言うべきか。その侵入者は、頭に付けた赤いリボンを揺すりながら、恐ろしい速度でこちらへ近づいて来ていた。くるくると体を回転させ、舞うように突っ込んでくる。赤と白の特徴的なその服も相まって、可憐な梅の花の様だ。だが、私にとってはそんな美しさですら、恐ろしく思える。その巫女の手にはお祓い棒は握られていなかった。私たちを倒すには、それすら必要ないということだろうか。
「やっとお城についたっていうのに、これじゃ休めそうにないわね」
気づけば、すぐ近くにまで巫女が近づいていて、驚く。恐れを悟られないように、胸を張り、彼女を睨みつけた。
「何だ? お前は。ここはお前たちの人間が来る場所でない。即刻立ち去れ」
「はいそうですか……って立ち去る訳がないでしょ? 空中にこんなお城を建てて何考えているのよ」
「何考えてるか、ねぇ」
この輝針城を経てた張本人。彼女が一体何を考えていたか。おそらく、この巫女が考えている以上に、下らなく、それでいて切実なことを考えていたのだろう。だが、そんなことはどうでもいい。針妙丸、いや、私がこの城を建てた理由はただ一つだけ、下克上をするために決まっている。決まっていなければならない。
「聞きたいか? 聞きたいよな? 何を隠そう我らは下克上を企んでいるのだ!」
柄になく、気取った態度でそう言った。身体をぐるりと回し、鶏ガラがよくやっていたように、唇を手で撫でる。余計なことを口にしてしまわないか心配だったが、それでも、私の口は勝手に動いた。
私の言葉に、へー、と単調に返した巫女は、半目で私を睨んできた。その目は凶弾してくるというよりは、呆れや哀れみに満ちている。ますます腹が立った。
「本気で下克上を考えている奴がいたのね。そんなの、成功すると思っているの?」
「なんだ? 驚かないな」
「だってさっきお琴の付喪神がそんな話してたもん」
お琴の付喪神、九十九姉妹の片割れの、八橋のことだと分かるまでに、そう時間はかからなかった。
「会ったのか? 琴の付喪神に」
「会ったわよ。下克上が云々とか言ってたわね」
さすが八橋だ、と小さく呟く。同じ姉妹でも弁々とは違う。
「他に何か言ってなかったか?」
「えっと、そういえば、私は悪くないよー、天邪鬼が悪い、とか何とか言ってたかな」
その時のことを思い出しているのか、うーん、と首を傾げた彼女は、見慣れない妖怪が暴れているから、頭がこんがらがってきたわ、とどこか他人事のように首を捻った。
「もしかして、小魚も暴れていたりしてたか?」
「あ、ああ。してたわね。弱かったけど」
「弱かったのか」
なんて名前だったかな、と一瞬だけ考える素振りをした彼女だったが、すぐに諦めたのか、小さく息を吐いた。答えを教えてやろうとも思ったが、止めた。おそらく、それを聞いたところで彼女は興味を持たないと思ったからだ。
「とにかく、こんな面倒なことをしでかしたのは、あなたってことでいいわね」
「まあ、な」
「だったら、すぐに止めてちょうだい」
「そいつは無理な相談だな」なんていったって、輝針城から溢れる魔力の止め方を知っている奴なんている訳ないんだから。
「そんなに下克上したいの?」
「当たり前だろ?」
何が当たり前なのか私にも分からなかったが、その心を覆い隠し、得意げに鼻を鳴らした。片方の口角だけ、嫌味に上げる。
「これからは強者が力を失い、弱者がこの世を統べるのだ!」
「あんたねぇ」
その大きなリボンをひらひらと揺らした彼女は、じりじりと私に近づいてくる。背中を向けて逃げたくなったが、必死にこらえた。ここから、外へ脱出する経路を必死に頭の中で考える。私は死なない。三郎少年との約束を思い出した。死ぬもんか。鬼の世界に封印されるまでは、絶対に死ぬわけにはいかない。
「呆れたわ。そんな誰も得をしない事をする妖怪がいるなんて」
「誰も得をしない?」
恐怖のあまり、凍り付いたかのように固まっていた体が熱くなっていくのが分かった。何かが頭の中でぶくぶくと泡を立て、沸騰し始める。顔が熱くなっていくのが分かった。きゅっと視界が狭まり、巫女の姿だけが鮮明に映っている。その巫女の後ろに、血まみれの三郎少年と、笑顔の針妙丸が左右に並んでいるのが見えた。軽く頭を振ると、その姿は立ち消えていった。
「誰も得をしない……だと? 我ら力弱き者達が如何に虐げられていたか、お前達人間には判るまい」
「虐げられてきた、ねえ」
不服そうに眉をひそめた彼女は、ぽりぽりと頭をかいた。こちらは命がけなのに、その余裕な態度が気に入らない。これだから人間は、と吐き捨てる。そして何よりも、私の選択を否定されたようで、怒りが込み上げてきた。
「誰も得しないなんて、どうしてお前に分かるんだよ。私たちが味わった苦労を、屈辱を、悲劇をどうせお前は知らないのだろう。いつだってそうだ。どうせ、人里で殺人があったと請願していっても、管轄外だと言うんだろ?」
「何の話よ」
「こんな世界なんてひっくり返っちまえばいいんだ。弱者を糧に生きて、そしてその罪悪感にすら目を逸らし続けてる世の中なんて、クソ食らえだ。何もかもひっくり返る逆さ城で念願の挫折を味わうがいい!」
彼女に向かい、一直線に突っ込んでいく。背中側からふいてくる魔力が私を後押ししているような気がした。
巫女は逃げもせず、ただその場に立っていた。眠そうに欠伸をしてすらいる。なめやがって。
速度を上げ、両手を突き出す。巫女がすぐ目の前で突っ立っている。そのまま突進しようとしたところで、目の前が急に明るい光で包まれた。身の毛がよだつ、恐ろしい光だ。反射的に横へと身を投げ出す。身体のすぐそばを、熱い光の弾が通過していくのが分かった。くるくると無様に身をよじり、そのまま壁にぶつかる。慌てて体勢を立て直し、巫女へと振り返った。彼女は何の気も無しに、手をぶらぶらさせている。
「初っ端から突進だなんて、裏を突いたつもりかしら」
「裏も表もねえよ。それしかできねえだけだ」
面倒ね、と首をがくりとさせた彼女は、何やら呟き始めた。すると、陰陽玉が現れ、札のようなものが彼女の後ろに大量に出現した。ふよふよと浮かんでいるそれらは、一つ一つが私の全力を凌駕している。
「おいおい嘘だろ」
「何が嘘かどうか知らないけれど、とっとと終わらせるわよ」
不敵に笑った彼女は、身体をくるりと回し、勢いよくこちらへ飛び込んできた。それと共に、周りの札が私の方へと向かってくる。四方八方から、流れ込むように辺りを覆いつくすそれは、嵐の中の雨粒のようだった。到底避けられそうにない。
懐に手を入れたことに理由は無かった。何時もの習慣か、それとも、もしかしたら無意識的にそれの存在に気がついていたのかもしれない。懐には、小槌のレプリカの他に、何か小さな袋のようなものが大量に入っていた。それが何かが分からなかったが、焦っていた私はそれを取り出し、乱暴に投げる。その袋は、すぐに巫女の札とぶつかり、破れた。が、それと共に大きな爆音がし、周囲の札をも巻き込み破裂する。視界が炎で包まれた。一瞬の判断だった。身体が熱で悲鳴をあげるのを無視し、その隙間へと入り込む。爆風と炎で身体に傷ができているのが分かるが、それでもあの博麗の巫女の札に当たるよりかはマシだ。
爆発の光が収まっていき、視界が回復する。体中が痛かったが、まだ痛みを感じている内は大丈夫だということを、経験から知っていた。札がこないかと、辺りを見渡すも、なぜか札はすべて消えていた。一枚の紙が、ペラペラと上から落ちてくる。拾おうと思ったが、止めた。内容は分かりきっていたからだ。あの憎たらしい河童もたまには役に立つ。
巫女の方に目を向ける。一瞬、どこにいるか分からなかったが、自分の真下にいることに気がつき、心臓が止まりそうになった。慌てて後ろへ下がる。が、彼女は追ってこなかった。一体どうしたのか、と訝しんでいると、彼女はふらふらと酔っ払いのように動き、頭を押さえている。
「何がどうなっているのよ」と混乱しているのか、焦燥を滲ませていた。もしかすると、輝針城の魔力に当てられたのかもしれない。
チャンスだ。どこからともなく、行けと自分を鼓舞する声が聞こえた。懐から河童のお守りを取り出し、巫女に近づく。こちらをきつく睨んだ巫女だったが、まだふらふらとしていた。握りしめた大量のお守りを思い切り投げつけ、距離を取る。まばゆい閃光と共に、けたたましい爆音が辺りを包んだ。爆風で吹き飛ばされた私は、無様に打ち上げられ、畳に頭を打ち付ける。そして、そのまま天井へと落下していった。
手をつき、立ち上がる。煙が深く、先を見通すことができない。これで勝っただろうか。いや、無理だ。巫女があの程度の攻撃で負けるはずがない。だが、善戦と呼べるくらいにはなっただろう。下克上の首謀者と、認められるくらいの活躍は見せただろうと、そう思っていた。
だが、現実はそんなに甘くなかった。煙が晴れた先にあったのは、一切の傷を負っていない巫女の姿だった。忌々しそうにこちらを見下し、また、面倒ね、と呟いている。
「なんで無傷なんだよ、おかしいだろ」
「そういうのは、もう少し後にやった方がいいわよ。万全な状態で絨毯爆撃をくらっても、結界とかで防げるでしょ?」
「時期尚早だったか」
「そういうこと」
そもそも、普通の人間は結界なんて張れないと思ったが、彼女は普通の人間ではないことを思い出した。妹紅といい、こいつといい、人間離れした人間が多すぎる。もっとも、普通の人間にすら、私は勝てないのだが。
「下克上だなんて……幻想郷を混乱に貶める行動は許さないわ!」
使命感に満ちた目で、私を見つめてくる。それは勇ましく、貴くて、素晴らしい目だった。幻想郷を守ろうと、そのために彼女は戦っているのだろう。なんて感動的なのだろう。人の身でありながら、死屍累々の妖怪と戦うなんて、泣かせるじゃないか。だが、だからこそ私はそれを否定する。薄気味悪いものだと嫌悪する。なぜか? 私が天邪鬼だからだ。
「混乱だと? だから人間に何が判る。ただ力が無いだけで悪の汚名を着せられ虐げられてきた私の歴史。今こそ復讐の時だ!」
巫女の頭上に色とりどりの光の弾が集まっていた。それは、まるで自分が今まで不幸にしてきた者たちを、自分が関わってしまったばかりに、酷い目に遭った奴らを代弁するような、そんな気がした。
私は悪人だ。これだけは誰がなんていようと変わらない。変えてはいけない。悪人は、追いつめられたらどうするか? そんなの決まっていた。
私は巫女に背を向け、全力で窓へと向かっていく。爆発のせいか、開けっぴろげになっていた。後ろから、光の弾が近づいてくるのが分かる。どうやら追尾性のようだ。その威力は明らかに、一匹の弱小妖怪に加えるにしては過ぎたものだった。避けることもできないだろう。窓から勢いよく飛び出した。冷たい空気が肌を刺し、風が身体を覆う。眩しい太陽の光が目を貫く。
ちらりと後ろを振り返ると、光弾がすぐ後ろにまで迫っていた。躱そうと身をひるがえすも、瞬時に方向を変え、近づいてくる。こんなの反則じゃねえか、と悪態をつく。
追えばいいんでしょ! と巫女の叫び声が聞こえたかと思えば、身体に強い衝撃が加わった。目の前が真っ暗になり、妙な浮遊感に身体を包まれる。これでいい。輝針城異変はもう終わりだ。薄れゆく意識の中、私はなぜか、困ったように笑う針妙丸の顔を思い浮かべていた。
「あら、目が覚めたようね」
気がつくと、私は輝針城のすぐ下の草原で横になっていた。目の前には、真っ青な青空が浮かんでいる。太陽の位置はさほど変わっていない。痛む頭をさすりつつ、何が起きたのかを思い出していた。確か、私は巫女に負けて、そのまま気を失ったはずだ。そう気がついた瞬間、私はがばりと立ち上がり、空を見つめた。相も変わらず輝針城は浮かんでいて、その魔力に変化もない。拍子抜けした私は、その場にぺたりと座り込んだ。そこで、ようやく隣に誰かが座っていることに気がついた。
「それにしても、霊夢にあんな喧嘩を吹っ掛けるなんて、死ぬところだったわよ?」
「え」
ぼうっとした頭で、声をしたほうを向く。そこには、金色の長い髪を手で撫でている白い肌の女性がいた。どこかで見たことがある、禍々しい妖怪だ。私は、再び気が遠くなるのが分かった。
「ちょっと、人の顔を見てその反応は酷いんじゃない?」
その威圧感に見合わないほど、軽々しい口調でそう笑った妖怪の賢者は、手に持っていた扇子を口元で開いた。そんな一挙手一投足にも、私の防衛本能は反応する。いっそのこと、ここで舌を噛み切った方がいいのではないか、とそう思うほどだった。だが、私は天邪鬼。口から生まれた妖怪が、その舌を失うなんて、あり得ない。
「どうして、お前がここにいる。なんで八雲紫がいるんだ。私をどうするつもりだ」
「あら、命の恩人に対して随分と敵対的じゃない。あなた、あのまま落ちてたら死んでたわよ」
「何が命の恩人だ。私はお前みたいな強者が大嫌いなんだよ」
「奇遇ね。私もあなたみたいな弱者は大っ嫌いよ」
うふふ、と笑った彼女は私の頭に手を置いた。そのまま首を捻り殺されるのではないか、と背筋が凍る。
「長い事私は幻想郷を見守っていたけれど、あなたみたいな妖怪は初めて見たわ。でも、私は妖怪の賢者なのよ? 弱小妖怪の嘘なんて全てお見通しなんだから」
「何の話だ」
要領を得ない彼女の言葉に、私は苛立ちではなく、恐怖を感じていた。命の恐怖ではない。今までの私の準備が、計画が狂ってしまう恐怖だ。折角の演じたピエロが台無しになってしまう。そんな危機感を覚えた。
「一度目は、夫婦殺害の罪を被り、二度目は、野菜泥棒の罪を被った」
微笑みながら、彼女は歌うようにそう言った。
「三度目は、小槌を使った事の罪を被るのかしら? 下克上の罪を。二度あることは三度あるというけれど、あまりにも安直ね」
「何の話だ。私は正真正銘下克上の主犯だ。小人を騙し、弱小妖怪を脅し、付喪神を利用した、悪名高いただの天邪鬼だよ。そんな事も知らないのか?」
必死に絞り出した声だったが、その声は震えていなかった。彼女の目をしっかりと見つめ、怒気を含めて話す。恐怖はあった。絶望もあった。だが、針妙丸が目の前の妖怪の毒牙にかかることに比べれば、幻想郷から拒絶されることに比べれば、屁でもない。
「天邪鬼は嘘しか言わないと聞いたのだけど」
「誰からだよ。そんな訳ないだろ」
「まあ、いいわ。納得してあげる。下克上を起こしたのは、鬼人正邪だということにしてあげるわ」
「してあげるじゃない、事実だ。私がやったんだ」
頑固ねぇ、と微笑んだ妖怪の賢者は、輝針城へと目線を移した。つられて、私も同じ方向を見ようと、顔を上げる。が、丁度その時に、身体に重い何かが入り込んでくるのが分かった。体中の力が抜け、その代わりに、重い鉛が血管中に入り込むような、そんな感じがした。胸元のレプリカから黒々とした重い物が全身を覆い、息すらできないほどの圧迫感が襲う。その場に這いつくばり、なんとか呼吸しようと、口をパクパクとさせた。
「まったく、情けないわね」
頭上から、妖怪の賢者の声が聞こえたが、私は返事をすることができなかった。草むらに顔を突っ込み、体中を襲う不快感に必死に耐えていた。このまま鬼の世界へと引きずり込まれるのだろうか、と恐怖に襲われる。
大きく息を吸い、吐く。少し、不快感が和らいだような気がし、腰を上げようとしたが、吐き気が込み上げてきた。言いようもなく気持ちが悪いが、段々と慣れてきたのか、体が動くようになってくる。
身体をこてんと回転させ、仰向けになる。そのまま空を見上げた。輝針城は当然のように空に浮かんでいる。が、そこからはもう魔力は発せられていなかった。あれ、と疑問に思う。
「あそこ、霊夢じゃない?」
「え?」
「ほら、そこよ」
私の頭のすぐ横に腰を落とした妖怪の賢者は、扇子で城のすぐ横を指示した。目を凝らし、見つめる。確かに、そこには巫女がいた。所々服は破れているものの、体に傷はないようだ。だが、そんな巫女のことなど、どうでもよかった。彼女の手には鳥かごが握られていた。そして、その中には見慣れた少女が、見慣れた姿で笑っている。針妙丸が、小さな、本来小人としてあるべき姿でそこにいたのだ。内容は分からないが、何やら巫女と楽しそうに談笑していた。それは、彼女がいつも見せる、無邪気で、眩しい笑顔だった。友達が欲しいと願った彼女の願いは、巫女にまで及んだのだろうか。
「どうして泣いているのかしら?」ふふ、と笑った八雲紫は顔を歪めた。
「もしかして、あの小人に感情移入しちゃったの? 騙したと言っていた彼女に」
「馬鹿な」
体を起こし、八雲紫に向き合う。私が針妙丸に感情移入? あり得ない。あいつのことなんか大嫌いだ。
「私は天邪鬼だぞ。人の嫌がることをするのが大好きなんだ。下克上が失敗したことが悔しかっただけだよ」
「そう」
そうだ。私は天邪鬼。そもそも針妙丸たちとは住む世界が違ったんだ。これからは、文字通り住む世界が変わるが、それも微々たるものだろう。
「なら、そんな天邪鬼にとっては悲しいかもしれないけれど、一つ伝えないといけないことがあるわ。あの小人についてだけれど」
虚空に手を伸ばした彼女は、空を切るように扇子を振り下ろした。すると、まるで空間に裂け目が現れたかのように空が割れ、真っ暗な隙間が現れた。無数の目がこちらを窺っている。その隙間に腰かけながら、彼女は笑った。
「こう見えて私は幻想郷の賢者なのよ。私が烏は白いといえばそうなるし、眠れと命じれば荒れ狂う動物も静まる。私が慧音に危険物取扱の資格を授与すると言えば、彼女はそういう立場にもなるわ」
「急にどうした」
「だからね」
魅力的な笑みを浮かべながら、彼女は目を細めた。それは、私をぞっとさせると共に、どこか悲しい印象を持たせた。
「この私が、小人に幸せになる資格を授与するわ。私がそういえば、彼女はそういう立場になるのよ」
そう言い残し、彼女は隙間へと消えていった。残された私は、冷たい風が頬を撫でる中、一人で呆然と突っ立っている。空を見上げると、逆さまになった城が、私を見下ろしていた。その姿は、かつてあったような恐ろしいものでは無く、ただのちんけな建物へと変わっている。
「ざまあみろってんだ」不思議と、笑みがこぼれた。一度湧いたそれは、中々おさまらず、勢いを増していく。しまいにはケラケラと大きな声で腹を押さえていた。
巫女と楽しそうに笑っていた針妙丸の姿を思い浮かべる。私がいなくても、彼女は大丈夫だ。満足な友達にめぐまれた。妖怪の賢者に、幻想郷にも認められた。これからは、博麗の巫女が守ってくれるだろう。私の選択は正しかった。小人という弱小妖怪が、幸せになる権利を得たんだ。誰もが傷つくことがない、糞みたいなハッピーエンド。その代償が弱小妖怪一匹なんて、なんと気前がいいのだろうか。多少の代償は仕方がない。やっぱり私の選択は間違っていなかった。弱肉強食という、世界の摂理に勝った。この理不尽な運命に、抗うことができた。最高に最低で、それでもやっぱり最高だ。
「これが、私の!」
笑いながら、私は叫ぶ。“お前はきっと、困ってるやつを見たら助けるような奴だよ”と懐かしい声が聞こえた気がした。違げえよ、と頭の中で返事をする。視界はなぜかぼやけていた。
「天邪鬼の下克上だ!」