トラウマ。個人にとって心理的に大きな影響を与え、その影響が長く続くような体験、あるいは出来事。大抵の場合は、会話の種として軽々しく使われる。
だが、本当にトラウマを抱えている奴からすれば、誰かに話すことすら憚られるはずだ。その体験を思い出すだけで、気分は憂鬱になり、挙動不審になる。だから私は毎回トラウマという言葉を聞くたびに思うのだ。お前、それ本当はトラウマじゃないだろ、と。
けれど、今目の前で楽しそうに私に向かってくる存在は、まごう事なく、私のトラウマと言っていい存在だった。
八橋と戦い、爆風に吹き飛ばされた私は、見慣れた場所で目を覚ました。輝針城のすぐ下の草原だ。痛む体を強引に動かし、辺りを見渡すも、八橋の姿はなかった。
そのまま草原でじっとするのも悪くなかったが、私に残された時間は少ない。とりあえずは、動かないと駄目だ。そう思い、当てもなくふらついた。それが失敗だった。今なら分かる。迂闊に行動するべきではなかった。よしんば動いたとしても、こっちに来るべきじゃなかった。きっと、見知った紅魔館への道を無意識のうちに進んでいたのだろう。その先に行っても、何もすることがないと知っていたのに。道の途中に霧の湖があると知っていたのに。
その湖に、あの憎き氷精がいると知っていたのに。
「あんたが噂の天邪鬼か?」
霧の湖に入ったことに気がつき、引き返そうとしたところで、そいつと会った。会ってしまった。青い髪と特徴的な羽が、私のトラウマを刺激する。
「指名手配犯って思ったよりも弱そうだな」
氷精チルノは、生意気そうな顔で笑った。品定めするようにこちらをじっと見ている。
だが、つい最近妹紅と一緒に紅魔館で会ったというのに、彼女は私のことを覚えていないようだった。いくら妖精の頭が残念だからといっても、さすがに二、三回も会えば覚えるはずだ。それでも覚えていないということは、そもそも覚える気が無かったということだろう。つまり、眼中にすら入っていなかったのだ。妖精にすら見下されているという事実に腹が立つが、ぐっとこらえる。逆にこれはチャンスだ。誤魔化せるかもしれない。
「まあ、落ち着けよ氷精。私は天邪鬼じゃない」
「え?」
「私はただの、そうだな。通りすがりの付喪神だよ」
「付喪神? なんの?」
意識的か無意識か。チルノから身を刺すような冷気が漂ってくる。これは、返答を間違えると危ういかもしれない。だが、いい考えが思い浮かばなかった。
「なんのって、それはあれだよ」
「あれって?」
「薬だ。薬の付喪神だ」
眉を下げ、口を変な風にあけたチルノは、いかにも、なんだこいつ、といったような表情を作り、実際に「なんだこいつ」と言葉に出した。その顔からは、呆れが滲んでいる。
「薬の付喪神だったら、もっといい感じになるはずじゃん。そんなに目つきは悪くないはずだって」
「薬ってのは悪いもんらしいぞ。知らなかったか」
「何言ってんだこいつ!」
馬鹿にするようにそう叫んだチルノは、その阿保面をくしゃりと歪ませ、笑みを作った。妖精らしい、無邪気で、純粋な笑みだ。私の大っ嫌いな笑みだ。私たちは、その笑顔をしたくても、できない。させたくても、させられないというのに、こいつらはどうして。
「それに、付喪神は、そんな怖い顔をしない。弁々も八橋ものんきだったよ」
「それはあいつらが異常なんだよ」
思考が深みにはまる前に、慌てて首を振った。さり気なく後ずさり、この場から立ち去ってしまおうとする。が、それに引っ張られるようにチルノも近づいてきた。舌打ちが零れる。
「あんたに質問があるんだけど!」
「ねえよ」
「あるの!」
その場に地面がないにも関わらず、地団太を踏んだチルノは、頭を乱雑にガシガシと掻きむしった。何かを思い出そうとしているのか、人差し指を顎に当て、唸り声をあげている。
「えっと、あんたは」
「なんだよ」
「あんたは、人生って何だと思う?」
は? と気の抜けた声が出てしまう。まさか妖精からそんな質問をされるとは思わなかった。人生とは何か。そんなの、分かるわけが無かった。
「人生は蕎麦なんじゃないのか?」
気がつけば、そんなことを口走っていた。すぐに後悔の念に襲われる。不敵に笑う蕎麦屋の親父の姿が見えた気がした。何度考えても意味の分からない言葉だ。
「そばが人生って、あんたは蕎麦屋でもやるつもりなのか?」
「死んでもやらねえよ」
ふうん、と興味なさそうに喉を鳴らした氷精は、自分から質問したにもかかわらず、すでに飽きているようだった。いったい何なのだろうか。
「それで? なんでそんなこと聞いたんだよ」
「えっとね。確かこう聞けば天邪鬼かどうか分かるって言われたの」
「誰に」
「八雲紫」
妖怪の賢者はどれほど暇なのだろうか。それとも、なにか裏があって、そうする必要があったのだろうか。分からない。だが、今一番気にしなければならないのは、目の前の氷精を誤魔化せたかどうか、ということだった。
「私が天邪鬼じゃないって、これで分かったか?」
「えっとねえ」
腕を組み、しばらくうーんとうなった彼女だったが、急に顔をぱっと輝かせた。その目には確かに喜びが浮かんでいた。
「分かんない!」
「は?」
「でも、こうも言われたんだ」
その小さな体に似合わないほどの暴力的なまでの冷気を纏った彼女は、にこやかに言った。
「迷ったら、やれってね」
周囲の気温が、より一層低くなっていった。
「待て待て待て待ってくれ!」
両手を振り回しながら、闇雲にチルノから逃げる。だが、寒さのせいで、まともに動くことすら出来ない。手はかじかむという段階を優に通り越し、もはや感覚が無かった。真っ白に変色したそれは、軽く丸まっており、血の気が通っていない死人のようだ。カチカチと自分の歯が音を立てる。体の震えは止まらず、身体を抱きかかえるようにしても、収まる気配はなかった。息を吸うたびに内臓を針に刺されたかのような痛みが襲う。顔は涎と涙でぐしゃぐしゃになり、それすらも即座に凍っていった。
「鬼ごっこで待つ奴がどこにいるのさ!」
「鬼ごっこじゃねえよ」
「あたいにとっては鬼ごっこなの!」
なんだその理屈は、と吐き捨てるも、状況は変わらない。反撃しようにも、体が動かないんじゃどうしようもなかった。私はこのまま死ぬのだろうか。
「あんた、もしかして」
氷の鋭い弾幕を放ちながら突っ込んできたチルノの叫び声が聞こえた。
「もしかして、一回あたいに負けたあの弱い妖怪じゃないか?」
「え?」
「喧嘩を売ってきたでしょ。あやと一緒にいた!」
「なんでそっちを思い出すんだよ」
チルノが思い出したのは、妹紅と共に歌を歌っている場面ではなく、もっと昔に私がチルノに敗北したときの記憶だった。私のトラウマが生まれた瞬間だ。忘れたいが、忘れることができない苦い思い出だった。
「だったら、今回も勝てるね! 前も楽勝だったし」
「過去は過去だ。そんなものに何の意味もねえよ」
「過去に意味はないって、どうしてそんなことが言えるの?」
「今回は私が勝つからだよ」
そう口にしたものの、今すぐにでも私は敗北しそうだった。今自分がどのように身体を動かしているかすら分からない。とりあえずは、霧の湖から離れよう。そう思いチルノから目を逸らし、前を見る。だが、妙な違和感に襲われた。なぜか目の前に湖があった。輝針城の時のように、周りの風景が逆さまになったかと思ったが、そうではないとすぐに悟る。
逆さまになっているのは自分だった。
「湖の中に隠れるつもり!?」氷精が笑いながら訊いてくる。
「そんなわけっあるかぁ!」
そんな馬鹿なことは考えていない。ただ、あまりの寒さに体を動かすことができず、落ちているだけだ。
「隠れようったって、そうはいかないぞ! 追い打ちだ!」
「死体蹴りじゃねえか」
「あんたは死体でもないしあたいは蹴ってもない!」
「だまれ!」
そう言っている間にも、段々と湖が近づいてくる。表面には薄い氷が張っていた。目だけで後ろの様子を確認する。鋭く先を尖らせた無数の氷の塊が、今にも私の体を貫こうとしていた。
ああ、どうして霧の湖なんかに来てしまったのだろうか。今まで紅魔館に行くときに遭遇しなかったから、と油断していたのか。それとも、今の私なら、八橋を退けた私なら何とかなると思ったのか。馬鹿だった。視界が真っ白に染まっていき、目を開けることも難しくなる。
固く瞳を閉じ、せめて右腕一本くらいで勘弁してくれと祈っていると、横から強い衝撃を受けた。横風が頬を撫で、浮遊感に襲われる。身体に痛みはなかった。
「あれだけ大口をたたいていたのに」
耳元で聞き慣れた声が響き、慌てて目を開ける。わきに抱え込まれているのか、視界には湖しか映らなかった。が、ちらりと見えた足で、それが誰だかわかる。どうやら、そいつは湖へと落ちている私を捕まえ、氷の弾幕から逃げているようだ。その速さは大したものでは無かったが、私なんかと比べると、まだましだ。
「まさか、我らがリーダー様が、妖精程度に負ける程弱いとは、驚きでした」
後ろから、待てー、と甲高い声で叫ぶチルノの声が聞こえてくる。だが、その声も段々と遠のいていった。ほっと胸を撫で下ろす。
「というより、大丈夫ですか? 手とか真っ白じゃないですか。凍傷になりますよ」
言葉自体は私を気遣うような内容だったが、その声色は高かった。きっと、たかが妖精一匹の前で醜態をさらしていた私を見て、笑っていたのだろう。
「もっと早く来るべきでしたね。やっぱり来るの、遅かったですか?」
「遅せえよ、馬鹿野郎」
小魚のよく澄んだ声は、今の私にはあまりにも綺麗過ぎた。
霧の湖のほとり、紅魔館とは反対方向の、人里寄りの場所に私たちはいた。チルノに氷漬けにされそうになっている所で、横やりをいれた小魚に運ばれた私は、乱雑に地面に置かれている。起き上がろうと思えばできなくもなかったが、そんな気力は残っていなかった。指の端は凍傷になってしまったのか、赤く腫れあがり、風が当たるだけで酷く痛む。まだ、腐り落ちなかっただけマシだ。
「それにしても、危なかったですね」
うふふ、とその緑色の長い袖で口元を覆った小魚は、私の近くへと腰を下ろした。ぺたりと尾びれが音を立てる。
「あと少しで、帰らぬ人になってたんじゃないですか?」
「誤差だよ」
「誤差?」
「今助かっても、いずれ私は帰らぬ人になる」
「それは、いずれ人は死ぬということですか?」
あまりに壮大なことをいう小魚に向かい、つい吹き出してしまう。いずれ人は死ぬ。確かにその通りだ。
「でも、私は死なねえよ」
「え?」
「死ぬことすら許されねえんだ」
「さっき、死にそうだったじゃないですか。というか、生きてますか?」
「何だよ、その質問。生きているに決まってんだよ」
「そういう時は、活け作りになりそうでしたって答えるんですよ」
「勝手になってろ」
寝ころんだまま、小魚の顔を見上げる。草原に座り込み、覗き込むようにこちらを見下ろす彼女は優雅だった。だが、その表情はとても優雅とはいえない。眉をぐっとあげ、上唇を噛みしめている。とても姫と呼ばれる妖怪がしていいものではない。荒い鼻息が私の髪をくすぐる。怒りで熱くなった鼻息だ。
「指名手配、されたそうですね」
「らしいな。天邪鬼冥利に尽きるってもんだ」
「怒ってましたよ。針妙丸」
怒っているのはお前じゃないか。
「優しい針妙丸があんなにカンカンになるんですもの。はやく謝って下さい」
「それは無理だ」
八橋といい、こいつといい、どれだけ針妙丸に謝らせたいのだろうか。
「いいか。謝るってのはな。相手に許してもらうためにやるんだよ。私は別にあいつに許してもらう必要もないし、もらいたくもない」
逆に考えれば、針妙丸はまだ私を許す気があるということだろうか。更生させる気が。下らない。どうして自分の父親を殺した奴を更生させようというのか。
「せめて、会うぐらい」
「駄目だ」
あんな馬鹿正直で、純粋で、呆れるほどに分かりやすい針妙丸に会うことなんてできない。会いたくない。あんなやつは、一生、私の知らないところで生きていればいい。
「私はもうあんな馬鹿と関わるのは御免なんだよ。お前もだ。二度と私に近づくな。次に会うときは、葬式の時だ」
「助けてあげたというのに、随分ですね」
「幻想郷でもっともズイブンだからな、私は」
「何ですか、それ」
ぬるっと下唇を出した小魚は、その怒りの形相のまま、私を睨んだ。
「これからどうするつもりですか?」
「お前には関係ないだろ」
「逃げ切れると思っているんですか?」
「逃げるって」
乾いた口からは、自分の想像以上に暗く、そして汚い声が出た。
「どこにだよ」
身を切るような冷たい風が髪を逆立てた。小魚の服がばさりと翻る。いつだってそうだ。別に今に始まった話ではない。逃げ場なんてどこにもない。悪人にできることといったら、逃げる事ぐらいしかないのに、その逃げ場がないのだ。今更悲観するようなことでもない。
「お前も、私に構うのを止めろ。私はお前のことが嫌いなんだよ」
「奇遇ですね、私もです。でも、私は嫌いな相手ほど助けたいタイプなんですよ」
「どんなタイプだよ」
どうやら彼女の怒りは根深い様で、表情に一切の変化はなかった。きっと、私が謝るまで許す気はないのだろう。だが、残念なことに、幸運なことに、私に謝る気はさらさらない。
「草の根やら何やら知らないがな。お前らだって本当はそうだろ。逃げ場なんてない癖に、さも自分は安全圏にいるだなんて気取りやがって。弱者同士で傷をなめ合ってばかりいる連中と私を一緒にするな。気持ち悪い」
「草の根妖怪ネットワークのみんなを、馬鹿にしないで欲しいです」
「馬鹿にしてねえよ。事実だ。あの話知ってるだろ。矢を三本重ねれば折れないっていうクソみたいな話」
「くそではないと思います」
「よくよく考えてみろ。細い矢三本なんてより、そこら辺の丸太の方が折れにくいに決まってんだよ。私たちが必死になって積み重なってもな、強者からしたら大差ないんだ。無駄なあがきだよ」
「でも」
「弱い奴が群れても、意味はない。むしろ、まとめてへし折られるだけだ。私たちが生きるためにはな、けっきょく強者に頼るしかないんだよ。無駄な抵抗は、強者を喜ばせるだけだ。事実、一人そういう奴がいたしな」
「でも!」
普段の清らかな声とは思えないほど低い声で、小魚は叫んだ。その声は震えている。目には涙がたまっていたが、その目は普段の彼女からは想像もつかないほどに鋭かった。
「無駄な抵抗でもいいじゃないですか。傷のなめ合いでもいいじゃないですか。それでも、別にいいじゃないですか。なんでそんな酷いこと言うんですか」
「そりゃあ」
小魚の声は、自分の想像よりも激しいものではなかった。てっきり、大声でわめき、捲し立ててくると思ったが、むしろその逆だった。まるで生徒を叱りつける先生のように、淡々と、けれど有無を言わさぬような口調だ。あなたは反省していますか? どうして謝らなきゃいけないか分かりますか? なんでそんな酷いこと言うんですか? 答えてください。そう言われているような気がした。だが、どちらにしろ、私の答えは変わることはない。
「そりゃあ、私が天邪鬼だからだよ」
ひゅっと、小魚が息を飲むのが分かった。呆然と、虚ろな目で私を見ている。何度も見たことがある目だ。絶望的なまでに、嫌われた時の目だ。だが、これでいい。
「蟷螂の斧って諺、知ってますか?」
ふわりと跳んだ彼女は、私から顔を背けた。顔もみたくないといわんばかりだ。
「相手がどんなに強くてもカマキリが前足をあげて立ち向かうことから、自分の実力を省みず、強者に立ち向かうことを意味しているそうです」
「だから何だよ」
「私は、鬼人正邪が下克上を企んでいると知って、思ったんです。あなたはきっと蟷螂に違いないって。私たち弱小妖怪のために、無駄なあがきをしてくれる蟷螂なんだって思ったんですよ。さっきまで思っていたんです。だから、嬉しかった。妖精に負けそうになっているあなたを見て、ああ、こんなに弱いのに立ち向かっていたなんて、格好いいなって、思ったんです」
「そんな訳あるか。私は自分のことしか考えてねえよ。お前らは単なる当て馬だ」
「そのようでしたね。とんだ見込み違いでした」
心底辛そうに冷笑を浮かべた彼女は、馬鹿でした、と呟いた。
「あなたに協力したのは間違いだとは思いませんよ。いい友達に出会えたのも事実ですし。ですが、あなたと。鬼人正邪と知り合ってしまったのは過ちでした」
「ああ、よく言われる」
「当て馬でもいいと思ってましたが、やっぱり嫌ですね。当て馬の誇りを傷つけてしまいました」
「なんだよそれ」
「さあ。自分が当て馬になれば分かるんじゃないですか」
彼女の目に何が映っているのか、私には分からなかった。もしかすると、今まで出会った妖怪たちのことを思い出しているのかもしれない。ただ、その中に私が含まれていないのは確かだった。
「お前も、私を捕まえる気なのか?」
私が声をかけても、小魚はピクリとも動かない。
「指名手配犯である私を連れ出す気なのか?」
「最初はそのつもりでした」
顔だけこちらに向けた彼女は、じっと私を見つめた。相も変わらず、虚ろな目で、私への怒りを露わにしている。だが、なぜだろうか。その顔を見ていると、どこか懐かしい気分になるのは。
「でも、やっぱ止めます」
「ああ、なんともお優しいんですね。流石姫様です」
「優しくないですよ」
振り返らず、そのまま私から遠ざかっていく小魚を、私は寝ころんだまま見ていた。その後ろ姿は、とてもただの弱小妖怪とは思えないほどに堂々としている。
「私はね、人の嫌がることが好きなんです」
その言葉は、私の真似をしたものだった。
「やれと言われればやりたくなくなる質なんですよ」
彼女がなにを考えているか分からない。だが、なぜだか私の考えをすべて見通されているような気がした。八雲紫と話しているときとも違う。たかが小魚一匹のはずなのに、嫌な胸騒ぎがした。
「正邪は、蟷螂じゃなかった。けど、鬼でもない」
「鬼だよ」
「それ、本物の鬼の前でも言えますか? とにかく、あなたは私たちを理由なく陥れようとするような奴じゃないと思うんです」
「理由なく陥れようとする奴って、天邪鬼以外にいないだろ」
「人間とかですよ」
私は言葉を詰まらせた。そんなこと、痛いほどに分かっていた。だが、あの平和ボケしていそうな小魚が口にするにしては、残酷すぎる言葉だ。彼女も人間からひどい目に遭わされたことがあるのだろうか。草の根妖怪ネットワークにいるのは、その傷を癒すためなのだろうか。
「正邪は、私に捕まりたいんじゃないんですか?」
「そんな訳ないだろ」
「捕まりたいというか、私と敵対したかったんじゃないですか? そしてそのまま、殺されたいと、そう考えているんですよね」
そんな訳あるか。私はこんなところで捕まっている暇も、怪我をしている暇もないのだ。どうして、小魚と戦いたいなんて発想になるのか。やっぱり、魚は頭が悪い。
「さっきも言いましたけど、やれと言われればやりたくなくなる質なんです。だから、そんな捕まえて欲しそうなあなたを捕まえるようなこと、私はしませんよ」
そう言った小魚は、進む速度を上げた。段々とその姿は遠のいていき、すぐに見えなくなる。追わなければ。そう思ったものの、身体はいうことを聞かない。チルノとの戦いで想像以上に消耗していたのか、それとも小槌の呪いのせいか。黒ずんでいく空を見上げながら、私はゆっくりと目を閉じた。
「やっぱり、私なんかよりよっぽど天邪鬼だよな」
唐突に押し寄せてくる微睡の中、チーム天邪鬼とはしゃいでいた輝針城でのことを覚えていた。付喪神と、小魚と、針妙丸が楽しそうに笑い、その中には当然のように私がいる、あの時のことだ。どうしてそれを思い出したかは分からない。だが、忘れるべきだ。あんなのは夢だった。後悔なんてしていないはずなのに、頭にこびり付く。ぬるま湯はこちらから願い下げだ。傷のなめ合いだなんて死ねばいいのに。そう言った舌の根も乾かぬうちに、私は過去の記憶に浸っていた。
「過去は過去だ。何の意味もねえよ」
自分で言ったにも関わらず、なぜか胸が締め付けられるように苦しくなった。