天邪鬼の下克上   作:ptagoon

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公職と私情

「二度と来ることはないんじゃなかったのか」

 

 腕を組み、さぞ怒っていますというように仁王立ちしている慧音の顔は、思いの外優しいものだった。そんな人里の守護者を前に、思わず嘆息してしまう。彼女のことは忘れていたわけではない。ただ、こんなに早く遭遇するとは思わなかったのだ。人里とはいえ、中心地に行かなければ、まず会わないと予想していた。だが、その予想はことごとく裏切られることとなる。

 

 小魚に嫌われ、霧の湖のほとりに寝そべっていた私は、いつの間にか眠っていた。寒空の下で、しかも水辺で眠っていたにも関わらず、寒さで目覚めることなく、熟睡できていた。それが逆に恐怖をかき立てた。一応、九十九姉妹に餞別として貰った青い布を被ってはいたものの、薄く、軽いそれでは全く寒さなど防げなかったはずだ。なのに、まったく寒くない。凍傷で腫れ上がっている手足ですら、痛くなかった。身体の感覚が鈍っている。今の私なら、指の一本や二本切り落とされても気がつかないんじゃないだろうか。

 

 目が覚めた私は、最初は紅魔館へ行こうとしていた。が、もう一度霧の湖に向かうような勇気は私にはなかった。だから、人里へと向かったのだ。目的を果たすためにはいかなければならなかったし、うまく潜伏できれば、他の妖怪からの攻撃を防げると期待した。人里の中では妖怪はそこまで乱暴なことはしないだろうと、そう考えた。今回はたまたま大丈夫だったが、眠っている間に妖怪に襲われたら、ひとたまりもない。

 

 ただ、どこに潜伏するかは当然決まっていなかったし、妖怪なんかより人間の方がよっぽど恐ろしいことも知っていた。用心しなければ、と気を使ってもいた。

 

 だが、人里の守護者についてはまるで考えていなかった。

 

「久しぶりだな。正邪」心底安心したのか、慧音は自分の胸をさすっていた。

「会いたかったよ」

「私は会いたくなかった」

 

 冗談だと捉えたのか、慧音は懐かしい友人に出会った時のように、ふっと表情を緩めた。冗談でもなんでもなく、本心からの言葉だったというのに。相変わらずおめでたい奴だ。

 

「お前らも、私を捕まえようとしているのか?」

 

 私は半ば投げやりに聞いた。幻想郷の皆から襲われる。たしかに八雲紫はそう言っていた。だが、それ以前に、今から人里の人間を殺そうとしている私は、人里の守護者にとって、退治しなければならない妖怪に違いない。

 

「どうだろうな」

 やけに優しい声で、慧音は微笑みかけてきた。

「ただ、まだ人里に入れる訳にはいかない」

「なんでだよ」

「分かるだろ?」

「分からないから聞いてんだよ。お前、先生向いてねえぞ」

「よく言われるよ」

 

 慧音はなぜか誇らしげに笑いながら、こちらへと近づいてきた。逃げるように一歩下がる。草木が生い茂り、砂利が転がる舗装されていない道だ。まだ、人里に入るかどうかという微妙なところで、まさか慧音に会うとは思っていなかった。思わず、天を仰ぐ。ちらほらと雲が出ている空の東には、まだ出てきたばかりの太陽がこちらを覗き込んでいた。早朝にもかかわらず、どうしてこいつはこんなところにいるのか、不思議だ。

 

「人里でも大分話題になってるぞ」

「お前の無能さが?」

「正邪の指名手配だよ。そのせいで私は、こんな時間まで見回りだ」

「大変だな」

「誰のせいだと思ってるんだ」

 

 ずんずんとこちらに向かってきた慧音は、徐に私の腹辺りに手を置いた。壊れ物にさわるようにおっかなびっくりとしたものだったが、その手はたくましい。

 

「怪我、治ったんだな」

「けが? なんのことだ」

「腹が裂けていたことを、どうやったら忘れるんだ」

 

 ああ、と私はやっと慧音の言いたいことを理解した。喜知田に唆された三郎少年が、私の腹に包丁を刺した時のことだろう。もう、随分と昔のようにも思える。あれから色々なことが起き過ぎた。

 

「あいつは元気なのか」

「あいつって」

「三郎少年だよ」

 

 私がそう口にした瞬間、慧音は浮かべていた薄い笑みを消した。何かを話そうとしたのか、口を不格好に開いたが、慌ててそれを手で押さえている。取り繕うように眉間にしわを寄せ、肩をがしりと掴んできた。

 

「あの少年はまだ見つかっていない」

「見つかっていない?」

 

 三郎少年の保護者や住むところの話だと思ったが、慧音の悲痛な表情を見てそんな甘い話ではないということに気がついた。

 

「最初は寺子屋でしばらく預かっていたんだが、ある時、行きたい所があると書置きして、ふらりといなくなったんだ。それ以来、人里を探しているんだが、見当たらない」

「なんで離したんだ」

「ん?」

「どうして目を離した!」

 

 昼間は寺子屋で授業を行い、夜は見回りをしている彼女が、一人の少年をずっと見張っておくことなんて無理なのは分かっていた。そして、三郎少年が行方をくらまして、一番後悔したのが彼女であろうことも分かっていた。それでも声を荒らげずにはいられない。

 

「行きたい所がある、って言えば、監視の目が途切れるような魔法が掛かっているのかよ」

「そんな訳ないじゃないか」

「じゃあ、なんであいつから目を離したんだ!」

「人里のみんなに情報を集めてもらっているし、妹紅にも捜索を頼んだ。目撃情報もよく聞くから、無事なのは確かだ」

 

 私を安心させようとしているのか、優しく慧音は語りかけるようにそう言った。だが、その声色とは裏腹に、彼女の引きつった笑いからは悲壮感がにじみ出ている。もしかすると、こうして人里の端まで来ているのは、どこかの馬鹿な指名手配犯を警戒するというよりは、三郎少年が危険なところにいないか、と心配した結果なのかもしれない。

 

「寺子屋からごっそりと乾パンもなくなっていたし、今のところは大丈夫なはずだ」

「今のところは、な」

 

 心底嫌そうな顔をした慧音は、自分に言い聞かせるように、大丈夫だ、と繰り返し呟いていた。だが、顔を顰めて、大丈夫大丈夫と口にしている奴が大丈夫だった例はない。

 

 顔を俯かせている慧音の脇を通り過ぎ、人里の中心へと足を進めようとする。が、当然というべきか、案の定というべきか、慧音が私の前にするりと身体を入れてきた。避けようとするも、私の体に合わせるように左右に動き、進路を塞いでくる。鬱陶しい。

 

「なんだよ。邪魔するな」

「まだ駄目だといったじゃないか」

「あれから五分はたっただろ。もういいじゃねえか」

「一応指名手配犯なんだから、少しは危機感を持ってくれ」

 

 危機感といわれても、どうせすぐに鬼の世界に封印されてしまうのだから、そんなの持てるわけがない。今から殺される死刑囚に向かい、「あなた、このままだと糖尿病になりますよ」と注意しているようなものだ。

 

「まあでも、すぐに誤解は解けてくれると信じているけどな」

 慧音は私を押し、ずんずんと人里から遠ざけていった。

「そうしたら、寺子屋で居候させてあげるさ」

「無理だ」

「大丈夫」

 根拠もないだろうに、慧音はまたそう笑う。

「お前は下克上なんて起こしてないじゃないか。あの小槌の願いはもっと違うものだっただろ? なら、みんな分かってくれるよ」

「違わねえよ。あの後でもう一回願ったんだ」

「どうして、そんな嘘を」

「嘘じゃねえよ」

 

 そうだ。これは嘘ではない。私は針妙丸を騙し、付喪神を、小魚を利用して下克上を企てた。これが真実だ。真実でなければならない。

 

「いいか。私が下克上を起こしたんだ。それ以上でも以下でもねえよ」

「でも」

「でも、なんだよ」

「少なくとも、私は待っているよ」

 

 きっと、いつもは寺子屋の生徒に見せているだろう、柔らかな笑みを浮かべた彼女は、待っているよ、ともう一度繰り返した。下らない。お前が待っていようがなかろうが、結末は変わらないというのに。

 

「人里で私が住むなんてことは、もうねえよ」

「そんなの、分からないじゃないか」

「分かるんだよ。絶対に無理だ」

「この世に絶対なんてない。こんな話知っているか?」

「知らないって、いつも言ってるだろ」

 

 当然、彼女は私の言葉など無視して、勝手に話し始める。少し背筋を伸ばし、指を立てる仕草も、いつも通りだ。偉そうで、傲慢で、面白くない彼女の仕草だったが、なぜだろうか、少し胸の辺りが暖かくなった気がした。きっと、太陽が昇り始めて、昨日冷え切った体を温めているからに違いない。そのはずだ。

 

「むかし、絶対に風邪をひかない、っていう生徒がいたんだ」

「もうオチが見えたんだが」

「いいから聞け」

 

 いつの間にか、私たちは足を進めていた。どこに向かっているか分からないが、少なくとも人里の方向ではない。足を止めようとも思ったが、なぜか彼女について行ってしまう。

 

「その生徒はな、確かに毎日元気で、風邪とは無縁だったんだ」

「まあ、馬鹿は風邪をひかないというしな」

「でも、そいつは風邪を引いていた」

 

 私を見ながら、そう話す彼女はいきいきとしていた。その目には、案の定くまが浮かんでいて、疲労もたまっているように見える。が、それでも彼女は元気だった。ほっと安心している自分がいて、驚く。こいつが元気であろうとなかろうと、私には関係ないのに。

 

「その生徒はな、昔から言われてたんだよ。お前は元気で風邪をひかない子だって。だから、実際に風邪をひいても、分からなかったんだ。本人は風邪をひかないって信じているんだから。事実、そいつは風邪をひいていても元気だったから、周りの大人も気がつかない」

「ただの馬鹿じゃねえか」

「つまり、私が何を言いたいかというと」

 

 彼女はそこで、私から目を離し、前を向いた。おつかれ、と手を上げている。警戒して、慧音の後ろに隠れつつ前を向くと、そこには見知った人間がいた。

 

「思い込みって怖いなってことだ」

 

 そうだぞ、と事情も知らないにもかかわらず、私たちの前にいる人間はこちらへ歩いてくる。なぜ彼女がこんな人里の外側にいるのか分からなかった。

 

「久しぶりだな、正邪」

「殺され屋は繁盛しているのか」

「そんな訳ないだろ」

 

 満面の笑みで、こちらに微笑みかけてくる妹紅を睨み、隣にいる慧音を肘でつつく。

 

「おい。こいつは三郎少年を探しているんじゃなかったのか」

「ああ、そうだが」

「なんで、ここにいる」

 

 私の質問がよっぽど面白かったのか、慧音はにんまりと笑った。馬鹿にされているようで腹が立つ。

 

「人里で、少年を探しているって言ったじゃないか」

「瞬間移動したんだよ」妹紅がにやにやと笑った。

「なんてね」

「瞬間移動なら、私もできたぞ」

「正邪のことだから、どうせトイレにでも行ったんだろ?」

 

 ケラケラと笑う妹紅に舌打ちし、慧音の足を思いっきり踏む。悪かった、と悪びれもせずに笑った慧音は、眉を下げ、困ったように口を伸ばした。

 

「確かに妹紅は三郎少年を探していると言ったが、人里にいるとは言ってない」

 

 ぽかんと口を開けている私の肩をバシバシと叩きながら、慧音は満足げに言った。

 

「な? 思い込みって、怖いだろ?」

 

 

 

 

「私は少年が外に出ないように監視するのと、あとはお前が入ってこないかの警備してんだよ」

 妹紅は真っ白に輝く髪を棚引かせ、私に顔を寄せてきた。

「まあ、後半は名目だけどね」

 

 彼女は、初めこそ私に対し、今まで何をしていた、とか、大丈夫だったのか、と質問してきたが、私に大した怪我がないことを知ると、頬を緩ませ、自分について話し始めた。てっきり、指名手配について聞いてくると思ったので、驚く。驚きのあまり、「私って、指名手配されたんだよな?」と頓珍漢な言葉が零れ出てしまった。

 

「なんで私に聞くんだよ」

 

 顔を近づけたまま妹紅が笑う。口から飛び出た唾が顔に当たったが、不思議と不快ではなかった。

 

「お前が聞いてこなかったからだよ」

「聞いてほしかったのか?」

 

 慧音が、わざとらしくごほんと咳払いをした。私と妹紅の顔を掴み、引き離すように両腕を広げる。彼女の手を乱暴に振り払った私は、その場に尻餅をついた。

 

「いきなり何するんだよ」

「久しぶりに会えて嬉しいのは分かるが、あまりはしゃぐな」

 

 窘めるように語気を強めた慧音に腹が立った私は、文句を言おうと口を開いた。が、彼女が声をかけているのが私ではなく妹紅だということに気づき、口を閉じる。羞恥で顔が赤くなっているのが分かった。誤魔化すように、頬を両手で強く叩く。

 

「どうしたんだ? 急に自分の頬を叩いて」

 

 ガミガミと捲し立てている慧音の前で両手を小さく振っていた妹紅は、私の奇妙な仕草に気づき、訊ねてくる。

 

「被虐趣味にでも目覚めたか?」

「いつも自殺しているお前に言われたくない」

「いつもはしてないよ」

「たまにはしてるのか」

 

 ぎくり、という擬音が聞こえるくらいに背中をピンと伸ばした妹紅は、恐る恐ると慧音の方へ頭を動かした。その頭を抱きかかえるように掴んだ慧音は既に頭を上にあげている。あっと、私が声を漏らしたのを合図に、一気に彼女たちの額はぶつかり、ごん、と割と洒落にならない音が響いた。違う極の磁石が一気にぶつかる様に合わさった二人は、同時に額を押さえ、地面にうずくまる。

 

「痛いなあ。やっぱり慧音の頭突きはえげつないよ。右足がもげた時と同じくらい痛い」

「妹紅、命を大事にってあれだけいったじゃないか。死んじゃだめって」

「いま、死にそうになったよ」

 

 大の大人が地面に座り込み、額を押さえている姿は滑稽だった。だが、私は笑うことができない。慧音の言った、死んじゃだめ、という言葉がやけに頭にこびりついていた。どういうわけか、その言葉を受け入れることができない。死んじゃだめ? なんで駄目なんだよ、と詰め寄りたくなった。

 

 “殺されたいと、そう考えているんですよね” 

 

 小魚の言葉が胸を打つ。そんな訳ない。私は死なないに決まっている。死なずに、鬼の世界へ行くんだ。

 

「なあ、正邪」

 

 声をかけられ、はっと顔を上げる。そこには、心配そうに私を見つめる二人の姿があった。

 

「お前いま、死にたいと思っていなかったか?」

 妹紅はその台詞とは裏腹に、とても楽しそうだった。

「は?」

「いや、言わなくてもいいよ。私にはわかる。おそらく自殺した回数がもっとも多いのは私だからな」

「なんで妹紅は自慢げなんだ」

 

 呆れたのか、大きく息をついた慧音は、懐からお握りを取り出した。それを、こちらへ投げてくる。

 

「どうせ、碌な物食べてないんだろ」

「決めつけるなよ」

「腹が減っているから憂鬱になるんだ。腹一杯になったら死ぬ気もなくなるぞ。ほら、言うじゃないか。食べ物は嘘をつかない」

「言わねえよ」

 

 もの知り顔で語る慧音に向かい、手に持った握り飯を投げつけたくなる。どうして彼女はそんなにも得意顔でそんなにも適当なことが言えるのだろうか。もしかすると、先生に必要なものは、正しいことを教えるのではなく、どんなことでも自信満々に言うことかもしれない。

 

 だが、結局私は握り飯を投げつけるようなことはしなかった。慧音の言う通り、輝針城を出てからはほとんど何も口にしていない。だからだろうか、いつの間にか握り飯を口に運んでいた。

 

「そんなに焦らなくてもいいだろうに」

 

 朝食のつもりだろうか、乾燥わかめをしゃぶりながら、妹紅は言った。

 

「食い物は逃げないからね」

「分からねえぞ。食い物だって逃げるかもしれない」

「どういうことだよ」

「知らねえのかよ。おむすびころりん。食べられそうになったおむすびが全力で地下へと逃げる話」

「それ、私の知ってる話と違う」

 

 慧音のため息と、妹紅の笑い声が早朝の空に響いた。

 

「もし、それが本当だったら、慧音はいつも持っているお握りを必死に捕まえていることになるな」

「そんな子供でも馬鹿にするようなことを言うなっての」

 

 お前が言い出したんじゃないか、と笑う妹紅を無視し、慧音を見つめる。彼女は、子供同士の掛け合いを見ていると勘違いしているのか、暖かい笑みを浮かべて、こちらを愉快そうに眺めている。その保護者面が気にいらなかった。

 

「というか、なんでお前はいつもお握りを持ち歩いているんだよ。餌付けのつもりか?」

「餌付けなわけがないだろ。ほら、正邪みたいに腹をすかせた奴にあげるためだよ」

「どうせなら、もっといい奴をくれよ。私だったら、そいつの好物を見抜いて、持ってくる」

「だったら、次会った時は頼むよ」

「もう会わねえし、会ってもお前には絶対に渡さねえよ」

 

 くだらない話をしていると、私があと少しで鬼の世界へと封印されるなんて、何かの間違いのように感じてくる。あれは鶏ガラの冗談か何かで、実際は何も起きないのではないか。期限の日に鶏ガラと八雲紫が、悪戯に成功した子供の様に無邪気な笑みを浮かべて、私の前に現れるのではないか、とそんな幻想を抱いてしまう。つまり、私はまだ実感していなかった。破滅がすぐそこに迫っていることを、理解できていないのだ。

 

「それで? 正邪はこれからどうするつもりなんだ」

 いつの間にかわかめを食べ終わった妹紅が訊いてきた。

「また紅魔館に行くつもりなのか?」

「おい。なんでいつでも私が紅魔館にいるみたいになってんだよ」

「事実そうだろ」

「違げえよ」

 

 まるで、私があそこの連中と仲がいいみたいじゃないか。

 

「これから私は人里へ行こうとしたんだよ。それをこいつに止められたんだ」

「むしろ、なんで止められないと思ったんだ」

 

 一応指名手配犯なんだぞ、と指を突き付けてくる慧音に対し、私は舌を出し、唾を飛ばした。そんな指名手配犯と仲良くご飯を食べている人里の守護者に、文句を言われる筋合いはない。

 

「さっきも訊いたが、お前らは、私を捕まえようとしないのかよ」

 

 人里に入れないと、お前は指名手配犯だと口にするくせに、矛盾している。

 

「指名手配犯を見逃すのかよ」

「なんだよ。まるで捕まえてほしいみたいじゃないか」

 

 妹紅が、ぐいっと顔を寄せてくる。思わず後ろに飛び退いてしまった。

 

「それとも、殺してほしいのか?」

 

 違う。たったそれだけを口にするだけなのに、なぜだか言葉が出てこなかった。私は殺しほしいと思っているのか。そんなことはない。殺されてたまるか。なら、鬼の世界に封印されるのと、殺されるのはどちらがマシか。そう思うと、急に不安に襲われた。

 

「まあ、流石にみすみすと見逃したりしないさ」

 慧音は、妹紅の頬を軽くはたき、言った。

「だから、このまま巫女に引き渡す」

「え?」

「悪く思うなよ」

 

 まあ、流石に巫女もいきなり手を加えたりしないだろ、と慧音は噛み含めるように言った。だが、逆にあの巫女が私を前に、何もしてこない光景が思い浮かばない。

 

「私たちから逃げ出そうなんて、考えない方がいいぞ。こう見えても、お前よりは強い」胸を張った妹紅に向かい、私は手をひらひらと振った。

「それはあれか? 逃げ出したいのなら、私を倒してからにしろ! ってやつか」

「そんなことを言うやつは演劇者だけだよ。しかも、大根のな、おまえみたいな」

 

 妹紅は、「だから、逃げようとするなよ」と続けた。当然、その声には、愉悦が浮かんでいる。

 

「もし逃げて人里に向かったら、人里中で叫ぶからな。今話題の鬼人正邪が来ています! って」

「なんだそれ」

「要するに、逃げるなと妹紅は言いたいんだよ」慧音は、口を開きかけた妹紅を遮った。

「分かってるよ。食い物は逃げないんだろ?」

「お前は食べ物じゃない」

「私は大根らしいぞ」

 

 真剣な顔つきで怒る慧音とは対照的に、妹紅はニヤニヤとこちらを見ていた。何を考えているか分からない。実際、何も考えていないのだろう。

 

 だから、私が彼女たちから逃げ出して、人里へ行こうと考えていることだって、ばれていないはずだ。

 

「そういえば、あいつはどうなったんだ」

 いかにも、今思い出した、というように慧音に訊ねる。

「あいつって誰だ」

「喜知田だよ」できるだけ、表情に変化がない様にと心掛けたが、そのせいで、余計に変な顔になっていないか、と心配になる。

「あれだけのことをしでかしたんだ。何かしら罰があったんだろ」

「あいつが何をしたんだ?」

「え?」

「だから、喜知田は一体何をしでかしたんだ」

 

 慧音の顔は険しかった。その苦しげな声は、喉を締めつけながら話しているほどに、か細い。実際に彼女は、自分自身の手を首元に持っていき、締め付けていた。

 

 喜知田が何をしたか。そんなのは、忘れるわけがない。打ち出の小槌を慧音の家から盗み、針妙丸を唆したのだ。幻想郷に影響を与えるほどのことをしでかした。許されるはずがない。

 

 本当に? 本当にそうか。あいつは、そんなことをしたのか。いや、していない。なぜか。針妙丸を唆し、小槌を使わせたのは、あいつではない。誰か。それは、他でもない私だった。私ということにしたのだった。

 

「何もしていないだろ」

 慧音は、私とは一向に目を合わせようとしなかった。

「何もしていないということになっているだろう」

「だからといって、あいつを野放しにする理由はないだろ。少なくとも、お前はあいつの危険性を知っているじゃないか!」

「駄目なんだよ」

 

 慧音はもう一度、私を落ち着せたいのか、ゆっくりと駄目なんだ、と呟いた。そんなんで、私が落ち着くはずもないのに。

 

「何が駄目なんだよ」あいつが駄目だったら、他に危険な奴なんていない。

「あいつの影響力は、いい意味でも悪い意味でも人里を覆っている」

「いい意味なんてある訳ないだろ」

「指導者がいない人里において、金持ちは大きな権力者の一人だ。もちろん、あいつ以外にも金持ちはいるし、あいつより権力を持っている奴はいる。それでも、あいつを捕まえることはまずいんだ。権力のバランスが崩れると、人里は混乱に陥る。特に、食料不足の今ではな」

「どういうことだ」

「人里の守護者が、人間の重鎮を捕まえることはできない。それは、混乱の元だ」

「は?」

「駄目なんだ」

 

 私は、彼が死んだ次の日のことを思い出していた。針妙丸の似顔絵を片手に、寺子屋まで慧音に会いに行った日のことだ。あの日は、憎々しいまでに晴天で、人里は活気づいていた。それこそ、いつもと変わらないくらいに。彼が死んだことなど、誰も気に留めていなかった。気づいてもいなかった。なのに、喜知田は駄目だというのか。なぜだ。そんなの、理不尽じゃないか。まるで世界が、あいつに贔屓しているようで、そしてそれが当たり前だということに気がつき、絶望する。そうだ。強者は世界に贔屓されているからこそ強者なんだ。何を今更悲しんでいるんだ。そんなこと、分かりきっていたじゃないか。

 

「さっき、人里の守護者が人間の重鎮を捕まえるのはまずいって言ったよな」

「ああ、そう言ったが」

「だったら、例えばだ」

 

 慧音に背を向け、こっそりと懐を漁る。陰陽玉を取り出そうとしたが、既に何処かへと消え去っていた。落としてしまったのだろうか。代わりに、八雲紫が置いていった傘を取り出す。はたして、この傘は何か効果があるのか。分からないが、試してみる価値はある。

 

「例えば、指名手配されている悪い妖怪がそいつを殺したとしたら」

 

 その傘を、ばさりと広げる。すると、そこには目を疑う光景が広がっていた。その笠の内側には、ぎょろりとした目と、漆黒の空間が広がっていたのだ。八雲紫がよく使っている、あのスキマと呼ばれる空間に違いなかった。

 

「下克上に失敗した憐れな弱小妖怪が殺したとしたら、特に問題はないってことだよな」

「おい正邪。馬鹿なことは考えるな」

「馬鹿なことなんて考えてねえよ。私は真面目なことしか考えていない」

「逃げる気なのか?」

 

 妹紅の声は、思ったよりも気楽そうだった。

 

「さっき、逃げないっていたじゃないか」

「知ってるか? おにぎりは逃げるんだぞ」

「でも、食べ物は嘘をつかない」

「私は食い物じゃねえ」

 

 慧音が、こちらへゆっくり歩いてくるのが見えた。俯いていて、その表情は見えない。だが、このまま捕まる気はさらさらなかった。大人しく巫女に捕まって、鬼の世界に封印されるまで拘束されるなんて、死んでも御免だ。

 

「なあ、慧音。一つ言いたいことがある」

「なんだ」慧音の後ろには、既に妖力が溢れていた。

 

 それから目を逸らし、ほっと息を吐く。優しい慧音は、甘い慧音はきっとその妖力を私に当てることは無いだろう。だが、それでも怖いものは怖い。だが、その恐怖を押し殺し、私は笑顔で振り返った。

 

「私には行きたい所があるんだ」

 

 広げた傘の内側へと突っ込む。得体の知れない浮遊感と共に、視界が暗くなった。どうか、人里へと繋がっていますように。そう祈る。八雲紫の薄気味悪い笑顔が、頭に浮かんだ。

 


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