天邪鬼の下克上   作:ptagoon

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記憶と忘却

 八雲紫の折り畳み傘を抜けた先には、見覚えのある光景が広がっていた。まず目に飛び込んできたのは、木で出来た壁だ。所々黒ずんでいるそれは、とても綺麗とは言い難く、木の棒か何かで削られたであろう傷が無数にあった。中には落書きと思しきものもあったが、あまりに汚いそれは、何が描かれているか分からなかった。

 

 ぐるりと部屋を見渡す。人ひとりが入るので精一杯なくらいに狭い。つんとした刺激臭に、思わず顔を顰めてしまう。が、それ以前にすでに私の顔は険しいものとなっていた。なぜか。今いる場所に、悪い印象しかなかったからだ。それこそ、トラウマといえるくらいに。

 

 そこは、寺子屋のトイレだった。

 

 なんでよりによってこんな場所についてしまったのか。これも、八雲紫の策略によるものなのか、と文句を言いたくなる。視線を下げ、足元をみる。使い古されているものの、綺麗に掃除されている便器の横には、例の、抜け道である床があった。ただの木の板であるはずなのに、それを目にするだけで背筋が凍り、動けなくなる。思い出したくもない記憶が、堅牢な扉の隙間から漏れ出る冷気のように、じわりじわりと浮かび上がってきた。この床を出た先には、徒党を組んだ人間がいるのではないか、とそう考えてしまっている。そんなはずはないのに。

 

 息が苦しくなった私は、扉を開け、廊下に飛び出した。いくら慧音がいないと分かっていたとはいえ、他の人間がいる可能性もあったが、幸運なことに誰の姿もなかった。ほっと胸を撫で下ろした後に、苦笑いが零れてしまう。慧音の、一応指名手配犯なんだから、少しは危機感を持ってくれ、という言葉が脳裏に浮かんだ。正しくその通りだ。今の私は、姿を見られてしまうだけで、問答無用で捕まってしまう。人里だとなおさらだ。

 

 意識するまでもなく、いつの間にか慧音の休憩室へと足が動いていた。人里に来て一番初めにすることが休憩なのか、と一人で笑う。

 

 その部屋は、以前来た時とは比べ物にならないくらいに整頓されていた。机の上に何冊か本は積まれているものの、書類等は整頓され、ぱっと見ただけで綺麗だと呟いてしまう程に、清潔だった。

 

 だが、ただ一つ。その清潔な部屋において異彩を放つ物があった。それは、極力目立たないようにと、部屋の片隅にさり気なく置かれていたが、それでも私の目には引っかかった。どうして、これがここにあるのか。単純に慧音が片づけるのを面倒くさがったのか、それとも、隠し場所としてここが打ってつけと判断したのかは分からない。だが、そんなことは私にはどうでもよかった。それを見ていると、抑えようとしていた怒りの炎が燃え上がる。

 

「やっぱ、許せるわけがねえだろうがよ」

 

 本と本との間に隠すように置かれていたそれを手に持つ。思ったより軽かったが、それの鋭さは、文字通り身をもって知っていた。新品のように綺麗で、すでに血は洗い流されている。刃こぼれもなさそうだ。

 

 三郎少年が使っていた包丁をじっと見つめた私は、刃先が体に向かないように注意し、ゆっくりとしまった。これを持ち出して、一体どうするかなんて考えていない。三郎少年のことを考えたとかそういう訳でもない。武器を手に入れたかっただけだ。何の力もない私にとってみれば、少しでも多くの道具を手にいれるに越したことはない。そのはずだ。

 

 包丁をしまい込んだ私は、机のすぐ近くに敷かれていた座布団に座り込んだ。緊張で張り詰めた体が解れたからか、ほぅと息が零れる。思えば、最近は何かと気を張る場面が多く、ゆっくりと休める時間が無かった。そんなことを考え、すぐに馬鹿らしくなる。どうせ鬼の世界へ行くことになるのに、休んでいる暇なんてある訳が無かった。

 

 だが、頭ではそう思っているものの、体が言うことを聞かない。座布団に身体を縛り付けられたかのように動くことができなかった。よっぽど疲労がたまっていたのか、足が小刻みに震えている。こんなところで立ち止まっている時間はないというのに。

 

 葛藤していると、ふと、机の上にある鉛筆が目に留まった。積んである本のすぐそばにあった物だ。知らず知らずのうちに手が伸びていた。

 

 この鉛筆で、何か慧音に伝言でもしよう。そう思ったのは気まぐれだった。そして、書き終わったら出ていこう、と決めた。もしかすると、少しでも休みたいという願望によるものなのかもしれない。

 

 机の上に、コツコツと黒鉛を当てながら、何を書こうかと考える。が、よくよく考えると、あいつに言い残したいものなんて何もなかった。むしろ、忘れ去られたいくらいだ。どうせ二度と会えなくなるのだから。だったら、何を書くか。天邪鬼が書けるものなんて、憎まれ口しかなかった。

 

 迷った末に、私は「説教反対!」とでかでかと書くことにした。これなら、妖精か子供の悪戯に見えるだろう。

 

 迷いを断ち切るように立ち上がる。これからどうするか。この格好のまま街を出かければ、すぐに見つかってしまうのは明らかだ。

 

 扉が開いた音がしたのは、その時だった。胸が跳ね、嫌な記憶が蘇る。なぜだ。もしかして、私の居場所がばれたのか。そんなはずはない、と思いたかったが、誰かがここに来ているのは事実だ。どこかに隠れようと休憩室を出ようとするも、すぐに立ち止まる。トイレの裏口から逃げようとした時のことを思い出した。このままでは、二の轍を踏んでしまう。かといって、この部屋に隠れる場所があるようにも思えなかった。段々と足音が近づいてくる。焦りだけが募っていく。こんなことなら、机に落書きなんてせずに、とっとと脱出しておけばよかった。そう後悔している間にも、時間は過ぎていく。

 

 もしかして慧音だろうか。いや、流石にあの距離をこんな時間で移動することはできないだろう。それに、私が寺子屋にいるだなんて、思わないはずだ。だとすれば、いったい誰が来るというのか。分からない。分からないが、とにかく隠れなければ。

 

 迷った末に、私は机の下へと隠れることにした。隠れ切る自信は当然なかった。ただ、こんな馬鹿なところに隠れるような奴はいない、と逆に慢心してくれるのではないか、と期待した。まさか、指名手配犯が机の下に隠れるなんて、まぬけなことをするとは、誰も思わないだろう。

 

 思ったよりも狭いそこに、身体を折り畳むようにして何とか入ろうとする。が、腰がつっかえて上手く入れない。足をばたつかせ、なんとか身体をねじ込ませようとするも、あまり音を立てる訳にもいかず、中途半端な体勢になってしまった。

 

 カシャリ、と音がした。

 

 それは、あまりにも軽く、心地の良い音だった。何の音か分からなかったが、どこかで聞き覚えがあった。だが、机の下で蛇のように体を曲げ、隙間から見えた黒い翼を見て、それが何の音か理解してしまう。

 

「あややや、寺子屋に来てみれば」もう一度、カシャリと音がした。同じ音のはずなのに、少しも心地よくない。それどころか、虫唾が走った。もがくようにし、机から出ようとする。

「まさか指名手配犯がいるとは。しかも、そんな奇妙な格好で。あれですか。頭隠して尻隠さずってやつですか」

 

 相も変わらず鬱陶しい彼女の言葉を無視し、机から頭を出す。狭い所に無理矢理入ったからか、体中が痛んだが、それを誤魔化すように笑みをつくった。せせら笑い、そいつに目を向ける。

 

「おい、烏」

「なんですか?」

「不法侵入だぞ」

「それ、あなたもじゃないですか」

 ふっと噴き出した彼女、射命丸文はもう一度カメラを取り出し、シャッターを切った。

 

 

 

 

「運命の相手とは赤い糸で結ばれていると言いますが」

 私の正面までわざわざ移動し、向かい合うように座った烏はそう言ってきた。

「これはもはや、赤い鎖じゃないですか?」

 

 いきなり現れた烏に、私は焦り、指名手配犯として捕まるのではないか、とあたふたしていたが、彼女は落ち着いた様子で、いつも通り私を馬鹿にし、写真を撮ってきた。正面に座ったのは、単純に写真が撮りやすかったからかもしれない。

 

「なんだよ赤い鎖って。そんなのあるわけないだろ」

「会いたくない相手に必ず会ってしまう魔法の鎖ですよ」

「ああ烏、会いたかったよ」

「もう少し感情を込めてください。いや、やっぱ込めなくていいです。気持ち悪いんで」

 

 お前よりは気持ち悪くない、と内心で毒づいていると、烏は急に雰囲気を変えた。薄く張り付いていた仮面のような笑みを引き剥がし、能面を付け替えたかのようだ。表情こそ変わっていないものの、なぜか少し威圧された。

 

「それで? あなたは何をしに寺子屋に来たんですか?」

「お前は何をしに来たんだよ」

「私は単純です」

「確かに烏は単純だが」

 

 それ、馬鹿にしてます? と眉をひそめた彼女だったが、声色は変わらず、口元の緩みも収まっていなかった。

 

「仕事ですよ仕事。慧音に頼まれたのを、すっかり忘れてまして」

「烏の仕事って何だよ。魚でも捕ってくるのか?」

「何ですか、それ」

 眉を下げ、カメラの端をトントンと叩いた彼女は、頭をガシガシとかいた。

「そういうあなたは、どうやって、何のためにここに来たんですか?」

「さあな。慧音に愛の言葉でも囁きに来たんだろ」

「それ、記事にしてもいいですか?」

「駄目だ」

「なら、真面目に答えて下さいよ」

 

 まさか、こいつの口から真面目という単語が飛び出してくるとは思わなかった。不敵な笑みが、私を挑発する。だが、その口調は断定的なもので、有無を言わせなかった。苛立ちと恐怖の入り混じった、複雑な感情が溢れてくる。

 

「それは、あれだよ」

 焦った私の頭には、何も言い訳が浮かばなかった。だが、口は勝手に動いていく。

「トイレに抜け穴があるんだ。そこから勝手に入ったんだよ。ここに来たのは、単純にいい隠れ場所だと思ったからだ」

「へえ」

 

 彼女の、その真っ黒な目が怪しく光った。吸い込まれそうなくらいに綺麗なその目を見ていると、全てを洗いざらい話してしまいそうになる。慌てて目を離し、自分の懐に手を入れた。小槌があることを確かめ、しっかりと握る。烏よりも、もっと恐ろしいものがあるんだ、とそれは教えてくれた。

 

「ねえ、知ってますか?」

 その彼女の口ぶりは、私が知っているはずもない、と決めつけていた。

「そのトイレの抜け穴ですが、もう封鎖されてるんですよ。当然です。見つかった抜け穴は閉じられます」

「そうか」

「なら、あなたはどうやってここに入ったんですか?」

「きっと、瞬間移動でもしたんだよ」

「真面目に答えて下さい」

 

 烏の言葉を背中に受け、席を立つ。烏と雑談をしている間に、慧音が帰ってきたりしたらたまらない。少し痺れた足をほぐしながら、部屋を出ようとした。

 

「どこへ行くんですか?」

 烏は、私が立ったのと同時に立ち上がり、すぐ後ろにぴたりとついて来ていた。

「どこへ行けると思っているんですか?」

「少し、野暮用があってな」

 

 どこへ行けるか。そんなの、分からない。強いて言うならば、鬼の世界に行けるが、それまでは、今のようにこそこそと移動するしかない。八雲紫の傘を使っても良かったが、何処へ出るか分からない以上、今は使いたくなかった。

 

「野暮用って、なんですか?」

「聞きたいか?」

「ええ、聞きたいですね」

 

 さっと、烏が手帳を取り出した。あまりに素早いその挙動に、私は肩をすくめた。記者魂とは恐ろしい。

 私は、その記者の模範のような彼女に向かい、首だけで振り返った。にやりと口角をあげ、馬鹿にするように笑う。こんなこと、彼女に言うべきではないと分かっていた。言ってどうにかなるわけでも無ければ、むしろ記事にされ、行動に支障が出る可能性が高い。それでも、私はそれを彼女に言おうと思った。協力してくれるなんて思っていない。ただ、なぜだろうか。口が勝手に回っていった。

 

「失敗を取り戻すんだよ」

「失敗?」

「今度こそ、復讐をするんだ」

 

 誰に対してか、私は言わなかった。言わなくても烏は分かると思ったからだ。現に彼女は、私の言葉を聞いた瞬間、ペンを止め、呆気に取られている。彼女のそんな顔など、見たことがなかった。

 

「今度は協力しませんよ」

「え?」

「もう大天狗様に怒られるのは、こりごりですからね」

 烏は冗談を笑い飛ばすかのように、大袈裟に手を振った。

 

「いいじゃねえか。少しくらい手伝ってくれても」

「嫌ですよ。それに、対価が必要ですよ、対価が。鯛を釣るのにだって海老が必要なんですから」

「なら、烏をつるのには新聞でいいのか」

「あなたが書く新聞なんて、面白くないですよ。文字が逆さまになってそうです」

 

 新聞によほど自信を持っているのであろう、鼻で笑い、鍋おきにしますと宣言する彼女の目には、同情の色すら浮かんでいた。

 

「私は手伝いませんよ。どうしてもと言うのであれば、大声で泣き叫びながら、助けて、と叫んだら考えてあげてもいいですが」

「誰がそんなことを」

「なら、復讐は止めといた方がいいです」

「なんでだよ」

「いいから」

 

 協力はしないだろうと予想していたものの、まさか止められるとは思っていなかったので、驚く。烏のことだから、どうせ、いい記事になりそうですね、といつものようにニヤニヤと笑いかけてくると思った。

 

「なんで止めるんだよ。いいだろ、別に」

「本気ですか?」

「本気に決まってるだろ」

 烏の顔が引き攣った。それに追従するように、背中の大きな黒い翼も、ぴくりと動く。

「あなたのような弱小妖怪が、たった一人で復讐なんて、無謀すぎます」

「できるかもしれねえじゃねえか」

「無理ですよ」

 

 断定した烏の口調は、刺々しいものだった。もしかして、怒っているのだろうか。表情は変わらない。以前、喜知田の家で見せたような、威圧感も放っていない。それでも、なぜだか彼女が怒りを露わにしているように見えた。

 

「復讐なんて、カメラで撮るとかでいいじゃないですか」

「なんで、それが復讐になるんだよ」

「そいつが死んだら、面白く脚色して、その写真を載せるんですよ。だから、写真を撮るときに、“笑って下さい”と声をかけるんですよ。そうすると、相手は歪で不格好な顔になりますから」

「陰湿だな」

 

 今頃分かったんですか、と淡々と言った烏は、一度大きく息を吐いた。頭を振り、こちらを見据えてくる。そして、思わぬ質問をしてきた。

 

「弱小妖怪のいい所がなにか、知ってますか?」

「そんなのあるわけ無いだろ」

 私の言葉を無視し、烏は話し続ける。

「それは、危機管理能力ですよ。どんなに怒り狂っても、正気を失っても、自分が死ぬようなことは決してしないんです。回避できるんです。だからこそ、弱くても生き残れた」

「何が言いたいんだ」

「あなたもそうですよ」

 

 最初は、私に対する皮肉かと思った。いつものように、烏天狗が弱小妖怪を馬鹿にしているのだと、そう勘違いした。

 

「あなただって、わざわざ危険な場所に首を突っ込まないはずです。確かに何回か死にそうになってましたが、なんだかんだ生き残ってますし、逃げ延びています」

「何が言いたい」

「前回の復讐の時は私が一緒にいました。半獣は、それすらもあなたの策略だとか言っていましたが、今はそれは置いときましょう。とにかく、私が言いたいのは、私がいなければ確実に死んでいたであろう経験をしたのに、今度は同じことを一人でやるのか、と聞いているんです」

 

 そこで私は、ようやく彼女が何を言いたいのか分かった。烏はきっと、手伝わない、といった時点で私が諦めると思ったのだろう。一人で復讐に向かうなんて、馬鹿なことはしないと、そう予想していたのだ。

 

「いや、私はやるよ」

 自信満々に胸を張って、私は高笑いした。

「やらなければならないんだ」

 

 そう言い残し、今度こそ部屋を出ようとしたが、またしてもそれは叶わなかった。一瞬で私の前へ回り込んだ烏が、通せんぼするように両手を広げている。なんで邪魔をするんだ、と訊ねても返事をしなかった。

 

「もしかして正邪は」

 彼女の声は、いつもよりも虚ろな気がした。

「あなたは、死ぬつもりなんじゃないですか?」

「は?」

「復讐を成功させようだなんて、考えてないんじゃないですか?」

 

 そんなはずはない。おまえはやはり単純だ。私はあいつを絶対に殺さないといけない。そう言い返せばいいだけなのに、私の口は動かなかった。私は死ぬつもりなのか? そんな馬鹿な。

 

「今のあなたからは、以前のような切実さを感じないんですよ。ただ、死ぬために時間を費やしているようにしか思えません」

「私は死なねえよ」

「いいえ。あなたは死ぬ気です。強者に弱者が勝てないことなんて、あなたが一番知っていることじゃないですか」

 小さく息をついた烏は、私の肩に手を置き、目をまっすぐに見てきた。

「なら、どうやって復讐するか考えているんですか? 失敗した後のことは? 万一成功したとき、巫女にどうやって対処するんですか? 言ってみてくださいよ」

「そんなの、後で考えるさ。たかが人間一人に負けはしない」

「あのですね!」

 

 烏が声を荒らげた。どこか演技臭く感じるほどに、憤激している。それは、喜知田の家の時と同じくらいに、空気を震わせた。

 

「どうしてあなたがそんなことを私に言ってくるのか不思議でしたが、やっと分かりましたよ。最初は記事にするための情報をくれているものとばかり思っていましたが、もっと最悪なものでした。あなたは、私に最後の雄姿を伝えたかった。ただそれだけだったなんですね。そんな下らないあなたの置き土産のために、私はこんな面倒な!」

 そこで彼女は言葉を切った。手をぶらぶらと下ろし、力なくうつむいている。

「こんな面倒なことに巻き込まれたんですよ」

 

 烏はガバリと体を起こし、私に一歩近づいてきた。翼をこれでもかと広げている姿には、神々しさすら感じる。が、それよりも恐怖と困惑が打ち勝った。おいおい、と思わず声を出してしまう。こんなところで始める気なのか。

 

「だから、もし復讐にいきたいのならば」

 

 彼女は右手にはカメラを、左手には私の小槌と同じくらいに禍々しい紅葉のような団扇を持っていた。それを、舞のようにくるくると回し、スタリと私に突きつけた。

「私を倒してからにしろ!」

 この大根が、と叫ぶも、私の言葉は彼女に届いているとは思えなかった。

 

 

 

 

「これはあなたのためなんですよ。身の程をわきまえないと、悲痛な思いをするのは知っているでしょうに」

「身体がさびたりするしな」

 

 何ですかそれ、とつまらなそうに吐き捨てる彼女の顔には侮蔑が浮かんでいた。この世でこんなにも愚かな妖怪がいたのかしら、と驚いているに違いない。私も同感だ。こんなにも無様な妖怪は私以外にいないだろう。

 

「まあ、お前が動く気がないというのなら、どかすだけだ。あの強大な烏天狗に勝てたなら、きっと人間にも勝てるだろ」

「驚きました」

 そう口にした彼女の顔には、一寸の驚愕の表情はなかった。

「ここまで殺意を向ければ、戦意を喪失し、跪くと思ってましたよ」

「足が固まって、動けないんだよ」

 

 強ちそれも間違ってはいなかった。実際に私の足は情けないほどにガクガクと震えていたし、震えすぎて、自分の意思で動かすこともできなかった。だが、不思議と怖くはない。感じていた恐怖もどこかへ行ってしまった。彼女の威圧感が増せば増すほど、警戒感が薄れてくる。これも、小槌の影響だろうか。感覚が鈍っているのだろうか。いや、違う。

 

「やっぱり、あなたは死ぬ気なんですね。命を粗末に扱う妖怪なら、確かに私の威圧感にも耐えられるでしょう。命の危機なんて、どうでもいいんですから」

「まるで見たかのように話すな」

「見たことありますからね。自暴自棄になる妖怪なんて、そう珍しくもないんです」

 

 だから、あなたは決して特別ではないんですよ。烏はそう淡々と言ってくる。きっと、私の自尊心を崩そうと、指名手配され、やけを起こしている私の悪あがきを、蟷螂の鎌を壊そうとしているのだろう。だが、そんなものは私にとって痛くも痒くもなかった。私が特別ではないことなんて知っていたし、自尊心なんて元々ある訳がない。自暴自棄になったわけでも、やけになったわけでもない。死んでもいいだなんて思っていないはず。ただ、結果的に私の命が消えそうになっているだけだ。

 

「私が復讐をするのはな、死にたいからでも、まして自尊心なんてちんけなもんじゃねえよ」

「じゃあ、なんですか?」

「自分のためだ。前も言っただろ」

 

 そうだ。これはただの私の自己満足だ。誰のためでもない。あいつが気にくわない。だから殺す。このやり場のない怒りを晴らすためだけに、喜知田を殺すのだ。針妙丸も三郎少年も、蕎麦屋の親父も関係がない。ただ、私のためだ。

 

 烏の塞いでいる扉以外に、どこか外に出られる場所がないかと見渡すも、特には見当たらなかった。隙を見て突破しようにも、そんなものあるわけがない。自然と、懐に手が伸びる。傘を使うか、迷っていた。

 

「相変わらず頑固ですね」

「お陰様でな」

 烏の顔に一瞬緩みが出たように見えたが、すぐに能面のような真顔へと戻った。

「これだけは言いたくありませんでしたが」

「だったら、言わなきゃいいだろ」

「針妙丸のこと、忘れたわけじゃないですよね」

 

 突然出てきたその名前に、私は狼狽した。どうして、今あいつの名前を言ったのか。関係ないじゃないか。喉がきゅっと締まり、口から空気が出てこない。

 

「あなたが復讐を企んでいることなんて、喜知田が想定していないはずがないです。というより、あの危機感の強い男は常に何かしら対応をとってますよ。この前もそうだったじゃないですか」

「対応ってなんだよ」

「針妙丸とかいう小人を、人質に取ったりとか」

 

 目の前にいた烏の姿が一瞬にして消え去った。視界がチカチカと点滅し、頭がクラクラする。壁に手をつき、目を閉じた。動悸が激しい。痛む頭を押さえながら、ゆっくりと顔を上げる。そこは、寺子屋ではなかった。

 

「無駄な抵抗は最高です」

 

 ぬちゃり、と唾を絡ませたような声がすぐ前から聞こえた。嫌な声だ。声だけでどれほど不快にできるか競い合う大会があれば、きっと優勝できるだろう。

 未だ視界は明瞭でないにもかかわらず、ここがどこだか分かった。喜知田の家だ。ふと左を見る。そこには烏が安らかな顔で倒れていた。いつの間に倒れたのだろうか。

 

「小人という種族がいたのは、私も知りませんでしたよ」

 

 また、気色の悪い声が聞こえた。かすかに見えたその顔は、忘れもしない、喜知田の顔だ。そいつが私の右側を指さし、楽しそうに目を輝かせている。その指さした方へと、ゆっくりと視線は動いていった。

 

 いやだ。見たくない。どうしてこんなことに。

 

 頭は拒絶しているにもかかわらず、勝手に頭は動いていく。このままだと、何かが壊れてしまうような、そんな気がした。それでも止まらない。

 

 鉄の小さなかごが見えた。そこには何かが倒れている。その倒れている何かのすぐ横に、金属製の筒のようなものが見えた。その筒先はまっすぐ倒れている小さな人影へと向いていた。

 

 止めろ。

 

 視界がぎゅっとせばまり、双眼鏡でのぞいたかのように、その人影へとよっていく。真っ白なその顔は人形のようだった。頭の片隅で、パンと破裂音が聞こえる。すると、その顔は真っ赤に染まり、私の頭も真っ赤に染まった。頭に風穴があいたそいつは、にっこりと笑い、むくりと起き上がった。私を見て、ケラケラと笑っている。違う。こいつは針妙丸じゃない。

 

「お前のせいだ」

 

 針妙丸とは似ても似つかない声で、そいつは大声を出した。気がつけば、全身が血塗れになっている。その真っ赤になっている手から、無数の顔が浮かび上がった。

 

 お前のせいだ。お前がいたから私たちは酷い目に遭ったんだ。お前のせいだ。お前のせいだ。そうだ。私のせいだ。お前のせいで、私のせいで、こいつらは、一体私は何をしているのか。こんなところで、何をしているのか。死ななきゃいけないのは誰か。誰なのか。それは、私ではないのか? その通りだ。私は死ななきゃならない。

 

「正邪!」

 

 薄暗い世界が、ぐらりと歪んだ。真っ赤な世の中が急激に遠のいていく。頭の中にかかっていた靄が晴れていき、体に力が入ってくる。

 

 胸の奥から空気があふれてきた。それを思いっきり吐き出す。そのとき、初めて自分が息を止めていたことに気がついた。息を吸うたびに、視界がだんだんと明るくなっていく。

 

「どうしたんですか、急に」

 

 顔を上げる。目の前にあったのは、喜知田の姿ではなく、烏の顔であった。その顔は、すでに不気味な笑顔ではなく、普段のムカつくものへと変わっていた。

 

 体を伸ばすようにして、あたりをぐるりと見渡した。何の変哲もない、いつもの寺子屋だ。さっきまで見ていたのは、一体何なのだろうか。夢かとも思ったが、それにしては現実味があった。

 

「さっきまで、私は何をしていた」

「え?」

「何をしてたんだよ」

 

 ついに惚けたのですか、と笑う烏の声はどこか小さかった。背中で広げていた翼も縮こまり、団扇もいつの間にかしまわれている。ただ、カメラだけは相変わらず手にしていた。

 

「急に目を閉じたかと思えば、ずっと下を向いてうなされていたんですよ。もしかして、やっぱり私の恐怖に耐えきれなかったんですか?」

「トラウマだよ」

「安易にトラウマとか言うやつは、信用しないことにしているんですよね、私は」

「私もだ。それはトラウマじゃなくて、ネコロバだろって言いたくなる」

「面白くないですよ、それ」

 

 霧の湖の氷精も、寺子屋のトイレだって、トラウマと呼ぶには下らなすぎた。それこそ、ネコロバと呼んでもいいほどだ。そんなことより、私には根深い、トラウマにふさわしい記憶があった。本当のトラウマは、そもそも体が思い出すことを許可せず、ずっと奥深くに封印されているのだと、やっと分かった。

 

「それで? いきなり地面を見つめる情緒不安定なあなたは、まだ復讐を考えているのですか」

「いや」

 

 私は首を振った。それは、彼女の言葉を否定したかったからではない。頭にこびりついたあの忌々しい記憶を吹き飛ばしたかったからだ。

 

「まだその時じゃない」

 

 そうですか、と呟いた彼女の声は、どこか暖かかった。どうしてこいつが、ここまで私の復讐に反対するのだろうか。もしかすると、私を心配してくれたのだろうか。いや、まさかな。

 

「そういえばさっき、何事にも対価が必要です、とか言ってたよな」

「まあ、言ってましたけど。それが何か?」

「だったら、私が復讐を止める代わりの対価をよこせ」

「はあ?」

 

 眉をハの字にし、心底不快そうな顔を見せた烏は、頭がおかしくなった相手に接するように、目を泳がせ、少し後ずさりした。

 

「なんでそんなんで対価を払わなきゃならないんですか。もしかして、前みたいにまた新聞の内容を指定してきたりはしませんよね」

「その、まさかだ」

 

 私のあまりにも無茶苦茶な論理に鼻白んだのか、それとも単純に面白いと興味を持ったのか、彼女は微妙な笑みを見せた。

 

「一応聞きますけど、なんて書いてほしいんですか?」

「喜知田がもし死んだりいなくなったりしたら、天邪鬼の呪いって書いといてくれ」

「なんでですか」

「いいじゃねえか。かっこいいだろ」

「かっこよくないですよ」

 

 はぁ、とわざとらしく息を吐いた彼女は、「どこか安全な場所まで運んであげますから、それで勘弁してください」と扉を開けた。

 

 今ならば、彼女の目を盗んで逃げ出せるのではないか。そう思い、外の様子をうかがおうとすると、異様に騒がしい音が聞こえた。がやがやと、人が外で何やら話し合っている。

 

「あややや、何事ですか。祭りでも始まるんですかね」

 首を傾げていると、外から大きな声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だ。

「いま話題の鬼人正邪が人里に来てるってよ! 家から出ないように!」

 妹紅が人里の上空で、大声で叫んでいた。思わず、笑ってしまう。笑い事ではないにもかかわらず、だ。

 

「あややや、あれではいたずらに人里の人間を混乱させるだけじゃないですか。彼女は何を考えているんですかね」

「きっと、何も考えてねえよ」

「ですね」

 

 外の喧噪が収まるまで待機しなければならなくなった私は、自分の心を落ち着かせるために、もう一度息を大きく吸った。

 

 やはり、私は喜知田に復讐することなんて、できないのだろうか。あいつは憎いし、許すつもりも毛頭ない。どうして蕎麦屋の親父があんな死に方で、あんな奴がのうのうと生きているのか理解できなかった。殺しても殺したりない。そんな奴だ。だが、私は殺せない。天罰なんて信じてはいけない。自分でやるべきだ。そんなことは分かっていた。でも、私はそれを期待してしまう。天罰なんてあるわけないのに。

 

「静かになりましたね」

 烏が、耳に手を当てながら、私を見た。

「それなら、行きますか」

 

 烏とともに寺子屋を出ると、正面に男が立っていた。物音一つしなくなった大通りで悠然とたたずんでいる男は、こちらをまっすぐに見据え、微笑んでいる。が、その目はわずかに見開いていた。ちょうど寺子屋に入ろうとしていたのだろうか。そこで、予期せぬ人物が出てきて、驚いたに違いない。男の後ろには、不自然な動きをする何人かの護衛の姿も見えた。だが、彼らも急な事態に面食らったらしく、もたついている。

 

「あややや、これはこれは」

 

 隣で烏が何かを呟いているが、聞こえない。先ほどまでの考えなど、どこかへ消えていた。全身に警鐘が鳴り響く。止めろ止めろと私を止めてくる。だが、それでも私の体は前へとかけ出した。

「赤い鎖って、本当にあるんですね」

 私の沸騰した頭には、目の前の喜知田しか映っていなかった。

 

 

 

 


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