天邪鬼の下克上   作:ptagoon

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約束と違約

「お前ほど人間らしい奴はいないさ」

 彼は笑った。

「身から出た錆っていい言葉だよな」

 彼は笑った。

「お前は、昔から何も変わらないな」

 彼は笑った。

「生態系が壊れてしまいます」

 彼は笑った。

「包丁を突き刺して殺してくれないか」

 彼は死んだ。

 

 そう死んだ。もうこの世にはいない。二度と会うことはない。会うことはできない。悲しくなんて無かった。悲しむことすらできなくなっていた。私たちはいつか死ぬ。確かにその通りだ。だが、本当にそれだけでいいのだろうか。いつかっていつだろうか。まだ、その時じゃない。私はそう思っていた。でも、それは誤魔化したかっただけじゃないか? 復讐ができないなんて事実を認めたくなくて、自分を騙していただけなのではないか?

 

「迷ったらやれ」

 どこからか、そんな声が聞こえた。八雲紫の声だ。そうだ。迷ったらやれ。やらなければならない。

 

 気がつけば、地面を蹴り、駆け出していた。手には包丁が握られている。寺子屋で見つけた、三郎少年の包丁だ。それを腰に構え、全力でかけていく。

 

「落ち着いてください」

 

 だが、すぐに出鼻をくじかれた。いつの間にか足が地面を離れ、宙を漕いでいる。烏に羽交い締めにされたと分かるまでに、少し時間がかかった。

 

「何しやがる!」

「さっき、復讐はしないって言ったじゃないですか」

「天邪鬼の言うことを真に受けてるんじゃねえよ」

 

 体を大きくばたつかせる。包丁で彼女の手を切ろうとするものの、うまくいかない。むしろ、彼女の力は強くなっていった。肩の骨が削れたかのような、嫌な音がする。

 

「離せよ。離してくれ! 私はこいつを、この糞野郎を!」

「だから、落ち着いてください」

「落ち付けだぁ!?」

 

 私の声は裏返っていた。烏の顔がどうなっているか分からない。興味も無い。今は、目の前にいる喜知田を殺すこと以外、どうでもよかった。

 

「なんで落ち着けるんだよ。どうしてこいつが生きているんだよ。どうしてこいつが幸せなんだよ。どうしてこいつを殺しちゃならないんだ。言ってみろ!」

 烏は答えない。ただ、私を離す気もなさそうだった。

「なんであいつらが死んで、苦しんでいるってのに、こいつは人生を謳歌しているんだ。おかしいだろ。バランスがとれていない。彼は腹に包丁を刺した方がましと思うほどに、自らそう望むような人生を歩んできたってのに、こいつはなんでこんななんだ。殺してやる。お前も包丁を腹に刺されなきゃ、おかしいんだよ!」

 

 最初こそ、呆気にとられ、立ち尽くしていた喜知田だったが、私を見て、憎たらしく笑った。どうして笑えるのか分からない。理解したくもなかった。

 

「どうせ、こいつはなんとも思ってねえんだよ。死んだ奥さんの写真を見つめる彼の顔も、儚げに弱々しく笑う曲がった背中も、体が少しずつ動かなくなっていって、目の端に涙を浮かべている姿だって、考えたことがないに決まってるんだ」

「あなたが何を言っているかは分かりません」

 

 喜知田は、私に近づこうともしなかったが、逃げようともしなかった。悠然とした態度で、こちらを見つめている。

 

「私は人を殺したことはないですよ。殺したのはあなたです。早く巫女に退治されてください」

 

 何か、獣のような獰猛な声が聞こえた。誰の声かと思ったが、すぐに分かる。私の声だ。これでもかと体を動かすが、万力で固定されているかのように動かない。

 

「おい離せって。離してくれよ!」

「できませんよ。気持ちは分かりますが」

「分かるわけ無いだろ!」

 

 そうだ。強者に弱者の気持ちなんて分かるわけがない。いくら烏が同情したところで、憐れんだところで、それは分かったわけではない。

 

「おい喜知田。お前は死んでも許さねえぞ。楽に死ねると思うな。体を少しずつ削って、動物の餌にしてやる!」

「恐ろしいことを言いますね」

 その丸々と出ている腹をなでた喜知田は、余裕綽々といった様子で鼻を鳴らした。

「でも、あまりそういうことを言わない方がいいです」

「なんでだよ」

「暴言は自分に返ってくるからですよ。よく言うじゃないですか。馬鹿という方が馬鹿って」

「言わねえよ馬鹿」

 

 せせら笑う喜知田に向かい、殺意が爆発する。だが、そんな私の気も知れず、烏は手に加える力を変えない。離せ、頼むから、お前の新聞は面白いから、と叫ぶも、烏の表情に変化はなかった。

 

 烏の表情に変化が出たのは、それからすぐのことだ。

 

 近くにある烏の顔が、ぽかんと間の抜けたものとなった。まるで、土から鳥が、水底から蝶が、空から魚が降ってきたような顔だ。

 

「なんで、空から魚が落ちてくるんですか」

 

 耳を疑った。慌てて空を見上げると、そこには確かに無数の魚があった。喜知田の護衛が放ったのか、何匹かの魚は弓に打たれ、はじけ飛んでいる。

 

 唖然としている私たちの前に、ぼたぼたとそれが落ちてくる。生臭いそれは、私たちを煽るように地面でピチピチと跳ねていた。

 

「何なんですか、これは」

 喜知田はそういったものの、私ほどは狼狽えてはいなかった。目を細くし、こちらを睨んでくる。

「天邪鬼の仕業ですか?」

「いや」

 違う。そう口にしたのだが、その声は爆音によってかき消えていった。

 

 耳をつんざくような強烈な音に、私は思わず手で耳を押さえようとした。だが、烏に羽交い締めにされているせいで、それすらできない。頭痛がし、視界が揺すられる。流石の烏も驚いたようで、え、っと声を漏らしていた。顔を上げると喜知田たちも耳を押さえ、音のした方へと意識が奪われている。

 

 私も同じ方向を見る。そこには、信じがたい光景が広がっていた。見覚えのある二人が、妖力を全力で漲らせながら、手に持った楽器をかき鳴らしていた。

 

「何やってんだよ」

 私は叫ぶが、その声は誰にも聞こえていないだろう。それほどまでに彼女の出す音は果てしなく、大きかった。

「私たち付喪神の力を見くびってもらっては困るな」弁々の声が、音に反響しながら響いた。

「やればできるんだよー」のんびりとした八橋の声でさえ、その音量では勇ましく感じた。

 

 突然、肩に加わっていた力が抜けた。急に離されたせいで、その場に崩れ落ちてしまう。すると、顔に勢いよく何かがぶつかってきた。後ろに尻餅をつき、顔を揺する。ごしごしと顔を拭うと、冷たい何かが頬を伝った。考えるまでもなくそれがなんだか分かる。水だ。

 

「あややや。これは予想外ですね」

 

 上空で、烏の声が聞こえた気がしたが、すぐに爆音にかき消されていく。きっと、水がこちらへ飛んでくるのが分かって、私を盾にしたのだろう。腹が立ったが、今はそれどころじゃなかった。何が起きたか分からず、ただ狼狽えるしかない。

 

 人里中に木霊するほど強烈な音がゆっくりと近づいてくる中、私は誰かに手を引張られ、立ち上がった。立ち上がらされたと言ってもいい。その奥にいる喜知田たちのことが気になったが、とりあえずは、私の手を握る彼女の方が問題だった。

 

 ふと、不自然に音が鳴り止んだ。何事かと八橋たちの方へと顔を動かす。喜知田の護衛のうちの一人、弓を構えた男が、矢を繰り返し放っていた。それを、ひらひらと回転しながら避ける付喪神の姉妹の姿が見える。だが、流石に楽器を鳴らす余裕はないようで、音は鳴り止んでいた。そのままゆっくりと私の方へと近づいてくる。

 

「なんなんだよ」

 私は未だ手を握り続けているそいつに向かい、唾を飛ばした。

「何しに来たんだ」

「ほら、言ったじゃないですか」

 得意げにそう笑う彼女の目には、喜びが浮かんでいた。

「私は嫌いな相手ほど助けたいタイプなんです」

 そう微笑みを浮かべた小魚は、得意げに胸を張った。

 

 

 

 

「その妖怪たちは、天邪鬼のお仲間ですか?」

 

 さっと前に出てきた護衛の陰で、喜知田は淡々とそう言ってきた。特に動揺した様子はない。単純に弱小妖怪が多少増えた程度では、問題がないと思っているのだろうか。それとも、人里で妖怪が人間を襲うことなどといった、巫女に殺されてしまうような蛮行をしないと、高を括っているのだろうか。

 

 それは、紛うことなき正論だった。

 

「私たちは、正邪の仲間ではないですよ」

 なぜか嬉しそうに、小魚は微笑んだ。

「チーム天邪鬼です」

「なんですか、それ」

 

 肩をすくめた喜知田だったが、その目に呆れは浮かんでいなかった。見下しつつも、警戒心は滾らせている。それが、何とも腹立たしかった。

 

「下克上をしたチームですよ。ま、私たちは我らがリーダーに騙されていただけでしたが」

「リーダーじゃねえよ」

「いや、リーダーだよ」

 八橋は、口を尖らせた。

「だって、責任をとるのがリーダーの仕事だもん」

 弁々が、耐えきれず吹き出した。この場に似つかわしくない、のんきな声で、だねぇー、と笑っている。

 

「あなたは好かれているのか、嫌われているのか分かりませんね」

 ふわりと翼を一度揺すった烏は、音もなく私の隣に降り立った。小魚たちは、恐怖を感じたのか、さっと後ろに下がっている。

「チーム天邪鬼だなんて、愛されてるじゃないですか」

「愛されてねえよ、嫌われてるに決まってんだろ」

 

 私の陰から、弱小妖怪三匹がそうだー、と声を上げた。烏の表情に、笑みが浮かぶ。私が嫌いな、腹がたつ笑みだ。やっぱり、愛されてるじゃないですか、そう言いたいに違いない。が、それよりも先に、横やりが入った。文字通り、喜知田の護衛の一人が、烏と私たちとの間に槍を鋭く突き刺したのだ。風の切る音が耳に残る。恐怖を感じる暇すらなかった。

 

「あややや、いったいどういうつもりですか?」

 烏は、私に向けていた暖かい笑みのまま、喜知田へと顔を向けた。

「この烏天狗である私に、烏天狗である射命丸文に対して、そんな無礼が許されていると思っているのですか?」

 

 びくり、と小魚たちの体が震えた。楽しげに笑う烏の姿は、確かに恐ろしい。だが、そんな私たちとは違い、喜知田たちはずいぶんと落ち着いていた。

 

「無礼は詫びますよ。ですが、あなたのためでもあるんです」

「私のため? 世迷い言を。あなたのような人間風情に私の何が分かるというのですか」

「大天狗様、でしたっけ」

 

 勝ち気に笑っていた烏の顔が、みるみる凍り付いていった。おいおい、と思わず声をかけてしまう。情けないにもほどがあるだろ。

 

「確か、妖怪の山は今回の鬼人正邪の指名手配にあたり、捕獲または殺害に協力する、と表明したはずですよね。大天狗様直々に。それに刃向かうのはまずいんじゃないですか?」

 

 隣の烏が殺気立っていくのが分かる。空気がピリピリと震え、すさまじい濃度の妖力がこぼれ出ていた。あの、感情を表に出さない烏が、だ。きっと、彼女にとって、人間にそれを指摘されることは屈辱なのだろう。彼女の笑みに、冷たいものが混じっている。

 

 そんな烏を前にしても、喜知田は堂々としていた。偶然私たちに鉢合わせした割には、随分と落ち着いている。

 

「烏、お前帰れよ」

 鋭い目で喜知田を睨み付けている烏に向けて、声をかけた。

「お前は関係ない」

「あややや、さっきあれほど協力しろと言ってたじゃないですか」

「言ってねえ。というより、邪魔しかしてねえだろうが」

「そりゃ、犬死されても困りますし」

「何で困るんだよ」

 

 烏の翼が、ほんの少し動いた。それに伴い、後ろから八橋の小さな悲鳴が聞こえてくる。確かに烏は怖い。恐ろしく、強大で狡猾だ。だからこそ、私は彼女が私を助ける理由が分からなかった。

 

「別に私なんて、どうなってもいいだろ。お前の知ったことじゃない。わざわざ上司に怒られてまで、助けようとしなくていいじゃねえか」

 

 烏は返事をしなかった。俯き、地面を見つめている。口は細かく動いていたが、良く見えない。場に静寂が訪れる。風で土が巻き上げられる音と、喜知田の護衛たちの息をのむ音しか、聞こえない。

 

「人里に、綺麗な桜があったんです」

 その静寂を打ち破った烏の声は、いつもより更に感情がなかった。

「甘味屋の向かいにある並木の一つだったんですがね。随分昔から咲かなくなってしまったんです」

「何の話だ」

「咲いている時は別に何とも思っていませんでしたが、いざ無くなると、ああ、どうせなら、もう少し見ておけばよかった、と後悔するんですよね。今、そんな気分です」

「その枯れ木に新聞でも貼っておけば、咲くんじゃないのか」

「咲きませんよ」

 

 頭をガシガシと掻いたせいで、被っていた烏帽子が脱げたが、彼女は気にした様子もなかった。自分自身でも、何を口走っているのかよく分かっていないのか、苦笑いを浮かべている。

 

「確かに、愚かで、馬鹿で、救いようのない弱小妖怪を助ける義理も、理由もありません。あなたをネタにしようにも、指名手配犯の動向なんて、二番煎じもいいとこですから。そうですね。やっぱり、あなたを助ける理由は、今のところ私にはない。」

 

 そう半ば義務的に呟いた烏は、私に背を向けた。ただ、それだけなのに、何故だろうか。見限られたような気がした。自分から彼女を遠ざけたにもかかわらず、喪失感に襲われる。そんな自分が馬鹿らしかった。

 

「帰ります」

 烏は小さな、けれどもはっきりとした声で言った。

「残念でしたね。あなたを助ける理由は私にはありませんでした」

「残念じゃねえよ」

 

 何かを期待するようにこちらをちらりと見た彼女だったが、すぐに失望の色を見せた。張り詰めた顔を更に厳しくし、その表情を一気に緩める。無理矢理糸を丸めたかのようなその顔は、歪に床んでいた。

 

「喜知田さん。少しいいですか?」

「なんでしょう」

 突然質問を投げかけてきた烏に恐怖したのか、それとも、単純に理解できなかったのか、喜知田は首をひねった。首が据わっていない赤ん坊のように無邪気で、後ろを気にする熊のように獰猛だ。

 

 そんな喜知田に向けて、烏は手に持ったカメラを向けた。その口はいつもより深い笑みが浮かんでいる。だが、その頬はぴくりと震えていた。

 

「笑ってください」

 

 烏のその言葉の直後、パシャリと無機質な音が響いた。続いてばさりと翼が羽ばたく音が耳元でなる。烏の姿はもうなくなっていた。

「なんだったんでしょうか」

 喜知田は私に向かい、首をかしげた。鳥肌が立つ。馬鹿にするように舌を出し、烏の飛び立っていった空を見つめる。これで、復讐はチャラにしろと、言っているのだろうか。

 

「陰湿だな、本当に」

 

 今更ですか、と返事が聞こえた気がした。

 

 

 

 

「それで? そんなに沢山妖怪を集めて、また異変でも起こすつもりですか?」

 だとすれば、見過ごすことはできませんねえ、と喜知田は笑った。人里の中央にいるにも関わらず、通りがかる人間は一人もいない。妹紅の言いつけ通りに、閉じこもっているのだろう。

 

 私は、この状況に未だに戸惑っていた。鋭くこちらを睨んでいる護衛たちを見て、隣にいる暢気な連中を見る。あまりに非対称的なこいつらに、私は混乱していた。目の前にいる殺さなければならない奴を、幸せになってはいけない醜い人間を私はこの手で、なんとしても殺す。だが、それをこいつらの。自称“チーム天邪鬼”の奴らの前で実行することには、気が引けた。怒りが収まったわけではない。ただ、怒りを感じる余裕すらなくなっていた。

 

「なに考えてるんだよ」

 小魚たちに向かいそう言う私が、一番何も考えていなかった。

「助けに来ただ? 誰が頼んだんだ、そんなこと。そもそも私は助けなんていらねえ」

「何さ、助けってのは、貰っておくもんだぞ」

 

 弁々は、こちらへと一歩足を踏み出したが、動きを牽制するように護衛から矢が飛んできて、足を止めた。一瞬不満そうに目を向けたが、口は止めていない。

 

「弱者は助け合わないと生きていけない」

「どうせ、時間切れになるんだ」

「時間切れ?」

「何でもねえよ」

 

 こいつらを、どうにかしてここから退かせなければならない。私の復讐は、私がやらなければならない。寺子屋で、一度諦めた私に呪いを吐く。大事なことは自分でやれ、大丈夫だ。彼の言葉ならば、まだ覚えている。覚えたくはなかったんだがな、と呟くと、小魚が不思議そうにこちらを振り返った。

 

「何か、言いました?」

「帰れと言ったんだ」

「え?」

「お前らが来ても邪魔なんだよ。本当に私を助けたいと思ってるなら、今すぐ帰ってくれ」

「私、やれと言われればやりたくなくなる質なんですよ」

「なら、帰るな」

「分かりました」

 

 そう笑うと、彼女は九十九姉妹に向かい目配せした。急に真剣な顔つきになり、小さく頷いている。何かをしでかす気だ。

 

 だが、私がそう分かるのならば、喜知田たちにも当然のように伝わる。

 

 突如、膝が崩れた。息が詰まり、その場に立っていられない。上から巨人が体を押しつけているかのように錯覚する。私は、踏まれた蛙のように地面に張り付くことしかできなかった。懐に入った小槌が胸に当たり、痛い。

 

 野菜を持ち帰ったあの日、何もできずに痛い目に遭った日を思い出した。悔しさと憤怒で顔に血が上る。二度あることは三度ある。ふざけるな。そんなこと、認めてたまるものか。

 

 何とか体を浮かせようとするも、うまくいかない。胃から何かがこみ上げてくる。たまらず吐き出すと、鉄臭さが鼻を覆った。だが、それも無視して、必死に懐へと手を伸ばす。小槌によって空いた隙間を這うように滑らせ、目当てのものへと伸ばした。

 

「く、苦しい」

 耳元で声が聞こえ、目だけで隣を見る。そこには、無様に腹ばいで呻いている小魚たちの姿があった。情けない声だ。上から何かに踏まれているように、頬がひしゃげている。

 

「蟷螂の鎌って、いい言葉ですよね」

 

 小魚の方から、そんな声が聞こえた。が、実際に彼女が口を開いたようには見えない。現に、彼女の口からは、赤色の混じった泡がこぼれ出ていた。ひゅっと風が切る音が聞こえ、小魚の肩に、矢が突き刺さる。うっと、小さく息を吐いた彼女は、ピクピクと蠢いていた。痛みで目を見開かせ、逃げようとしているのか、激しく痙攣している。だが、動くことすらできていなかった。

 

「あなたはきっと蟷螂に違いないって、思ったんですけどね」

 

 肩からじんわりと赤色が広がっていった。彼女の顔は真っ白になっており、目には涙がたまっている。上からの圧力のせいで、その矢が、ずぶりと音を立ててゆっくりと肩に入っていく。その度に彼女は、その尾びれを地面にたたきつけ、細かく震えていた。歯を食いしばり、その歯の隙間からあふれる胃液を地面にぶちまけている。かつてあった優雅さなんて、微塵もなかった。

 

「ああ、こんなに弱いのに立ち向かっていたなんて、格好いいなって、思ったんです」

 

 彼は三十年かけて、こいつを殺そうとして、失敗した。私も失敗した。二度あることは三度ある。次もまた、失敗するのではないか? そんな恐怖が体を襲う。耳元で、何か音がした。だが、それも隣の小魚の絶叫に上書きされている。声にもならない、悲痛な叫びだ。

 

 まだその時じゃない。

 

 彼を殺すのは、殺せるのは今ではない。遠くの方で、八橋が悲鳴を上げるのが聞こえた。手が滑り、懐にうまく入らない。

 

 まだその時じゃない。

 

 前を向くと喜知田と目が合った。顔をくしゃりとさせ、子供のような笑顔を見せている。酷い目に遭っている私たちを見て、楽しんでいるようだ。

 

 まだその時じゃない。

 

 彼の、真っ赤な姿が頭に浮かんだ。三郎少年の、血に濡れた姿が脳裏をかすめる。少年の母親が冷たくなった姿が目の裏にこびりついている。

 

 まだその時じゃない。

 

 

 いや、今がその時だ。

 

 

 小さな袋のようなものが手に触れた。それを思い切り引き出し、乱暴に前へ投げた。すぐに顎を地面に打ち付け、目がくらむ。うまく投げられたかどうかは分からなかった。目をこらして、前を向く。彼らはまだ反応していない。袋からゆっくりと光が漏れ始め、三寸ほどの火薬玉が一瞬にして現れた。口が歪むのが分かる。

 轟音と共に、あっという間に視界は土煙に覆われた。

 

 爆風に体が吹き飛ばされ、ごろごろと地面を転がった。痛みはない。ただ、平衡感覚が失われた。闇雲に体を動かし、体勢を整える。地面に手をつけ立ち上がった。足はふらつくものの、問題ない。体は軽くなっていた。

 

「おい、無事か」

 未だ視界が安定しない中、手で煙を払いながら、声をかける。だが、返事はなかった。背筋が冷えた。嘘だろ、と声を漏らすも、それでも返事はない。

「生きているなら、返事をしろ!」

 

 土煙はゆっくりと引いていった。それにつれ、だんだんと小魚の姿があらわになっていく。ぴくりとも動かない尾びれが見えた瞬間、私は思わず彼女に駆け寄った。

 

「おい!」

「危うく」

 

 目の前から、小さな声が聞こえてきた。小魚の声だ。うたれた右肩に手を置き、苦しそうに全身で息をしている。だが、それでも無事のようだった。

 

「危うく、活け作りになりそうでした」

 

 結構余裕があるじゃないか、そう呟く私を前に、彼女は悲しそうに笑った。

 

 

 

 

「おーい、無事かい?」

 

 弁々の声が近づいてきた。その声は、間延びしたものだったが、どこか震えている。もしかすると、今までの彼女のそういう態度は、緊張を誤魔化すためのものだったのかもしれない。

 

「無事ですよ」

 小魚が、精一杯に声を張り上げた。

「軽傷です」

 

 視界の奥から、煙をくぐり抜けて九十九姉妹が現れた。彼女たちは私たちを見て、少し胸を下ろしたように見えたが、すぐに顔を強張らせる。

 

「全然無事じゃないじゃん!」

 悲鳴を上げそうになった八橋の口を弁々が慌てて塞いだ。弁々の表情は優れない。それは、小魚の肩から伸びる矢を見たからかと思ったが、すぐに違うと分かる。

 

 彼女の頭から、血がぽたりと垂れていた。どこをどう怪我したのか分からないほどに服が血を吸っている。それは、八橋も例外じゃなかった。

 

「まあ、生きてるから軽傷ってんだね」

 八橋と肩を抱き合いながら歩いた弁々は、私たちをぐるりと見ると、小さく息を吐いた。

「それでも、全員満身創痍じゃないか」

 

 確かに、皆が大怪我を負っていた。さすが弱小妖怪の集まりと言ったところか。だが、全員というのは語弊がある。

 

「おい、私は特に怪我をしていないだろ」

 自力で立ち上がろうとする小魚に手を貸しながら、私は胸を張った。

「お前らと違って、無傷だ」

 

 全身を真っ赤に染めた三人は、私の言葉を聞いて、ぽかんと口を開いていた。それぞれが、痛みで顔をしかめていたはずなのに、皆一様に真顔で、私を見てくる。その異様な雰囲気に、私は訝しんだ。いったい、どうしたのだろうか。

 

「なあ、正邪」

 弁々が右手を伸ばし、私の左手を指さした。その手はぶるぶると震えている。

「あんた、その手」

「手?」

 目を落とし、左手を見つめる。最初は、小魚の返り血だと思った。ぬめりとした赤い液体が手のひらを覆い、それが服の裾へと落ちていく。

 だが、よくよく手を見ると、違和感に気がついた。足りないのだ。何が。

 

 指が足りない。

 

 驚いた私は、急いで左手を押さえ、まじまじと見つめる。五本あったはずのそれは、小指と薬指がきれいさっぱりなくなっていた。いつの間に。全く気がつかなかった。血が止めどなく流れているせいで、傷口はよく見えない。それが、恐ろしさを倍増させた。急いで地面を見下ろす。私が這いつくばっていた場所に、血だまりと共に二本の指があった。慌てて拾うが、どうしたらいいか分からない。とりあえず、ポケットに突っ込んだ。

 

「気がついてなかったの?」八橋の顔は、苦虫を噛み潰したように、渋い。

「せめて、布かなんかで血を止めなよ」

 

 気が動転していたが、何とか市松模様の布を取り出し、手に巻き付ける。一瞬で色が変わったが、それでも血の勢いは緩んだかのように思えた。

 私は戸惑っていた。指がなくなっていたことにも当然驚いていたが、それよりも、痛みを全く感じなかったことに、絶望した。今も、痛みはない。ただ、血のぬめり気が気持ち悪いだけだ。

 

「でも、まあ」

 その衝撃を隠すように、布が巻き付けられた左手をひらひらと振る。

「利き手じゃなくて、本当によかった」

 

 

 

「いや、驚きましたよ」

 いつの間にか土煙は晴れていた。傷をなめ合っていた私たちに向かい、楽しそうな声が発せられた。嫌な声だ。

「まさか、爆弾を隠し持っていたなんて」

「知らなかったのか? 指名手配犯は爆弾を皆持ってんだよ」

 

 当然と言うべきか、案の定というべきか、喜知田は無傷だった。だが、彼を取り囲む護衛はそうもいかないらしく、焼けた服を風で棚引かせている。躊躇なんてしていられなかった。

 

「そして、指名手配犯に慈悲もねえ」

 

 ありったけの小さなお守りを右手で引っ張り出し、下手投げで高々と放り投げる。落ちていく間にそれはあっという間に火薬玉へと変わり、喜知田たちの頭上へと降り注いだ。一人の護衛が喜知田を抱え、中心から避けようとしている。他の連中は逃げもせず、何かを呟きながら霊力を放っていた。とっとと逃げればいいのに。そんなに、金の力というのは偉大なのだろうか。命をかけるまでのものなのだろうか。

 

 ふわりと、彼らの前に薄い膜のようなものが現れた。内側からぼんやりと輝いているそれは、美しい。だが、それよりも力強さを感じる。私なんかが触れれば、ひとたまりもないだろう。

 

 爆弾が降り注ぎ、視界がまたしても光に覆われる。喜知田たちがいた所を中心に、何度も何度も破裂音が響いた。

 

「今のうちに、お前らは帰ってろ」

 その爆音にかき消されぬようにと、私は大声で叫んだ。

「後は私にやらせろ。これは私の問題だ」

 

 人里で人間を殺せば、流石に巫女に殺される。そんなこと、こいつらも分かっているはずだった。だが、私の方をチラリと見た三人は、まったく動こうともしない。声が聞こえていないのかと思い、もう一度叫ぶが、彼女らはふるふると首を振った。

 

 一際大きな爆音が鳴った。近隣の家が爆風で揺れ、瓦が崩れ落ちている。その家から悲鳴が聞こえた気がした。気のせいだとそう思い込む。

 

 “あの喜知田が何も対策していないとは思えません”

 

 烏の言葉が頭をよぎる。流石の喜知田も、今回ばかりは禄に対策できていないはずだ。そう思いたかった。

 

 爆発音が鳴り止み、光が止まった瞬間、九十九姉妹が駆け出した。手に楽器を持ち、それを力一杯かき鳴らす。その音は質量を持ち、土煙を吹き飛ばしていった。何を企んでいる、と叫ぶ私の声など、自分自身ですら聞き取れない。

 

 喜知田たちの姿が露わになる。残念なことに、彼らは思ったよりも平気そうだった。人間のくせに、と悪態が漏れる。だが、堂々とこちらを見下している喜知田とは違い、結界を張っていた護衛たちは疲れ切っていた。弁々たちの音から耳を守ろうと、両手で頭を抱えている。

 

 それを見て、小魚が駆け出した。一人で悠揚とたたずんでいる喜知田の元へとまっすぐ向かっていく。懐から、喜知田が銃を取り出したのが見えた。が、小魚はひるまない。空中を泳ぐようにするすると進み、銃声をかき分けながら、肉薄していった。少し目を丸くした喜知田の懐をつかみあげると、鼻をつまみ、強引に口を開く。そして、何かを口に入れ、急いで帰ってきた。

 

 その勢いのまま情けなく腰を落とした喜知田は、こちらを睨み付けている。弱小妖怪だからと嘲っていたのか、それとも人里でまさか私以外に人間に攻撃するという暴挙を犯す連中がいるとは思わなかったのか。いずれにせよ、あっさり喜知田は小魚にあしらわれていた。ざまあみろ。

 

 今なら、こいつを殺せる。そう思い、私も小魚のように前へ進もうとするが、何もない場所で思いっきり滑ってしまった。喜知田と同じような格好で、地面に腰を打ち付ける。何やってんだ、と自分の足下を見ると、すねに矢が刺さっていた。なるほど、と声が出る。これでは歩けない。

 

「ま、こんなもんかね」

 息を切らしながら、弁々と八橋が戻ってくる。怪我をしている状態で力を出したからか、歩くことすらままなっていなかった。

「作戦成功だ」

 作戦って何だよ。そう聞こうと思ったが、その前に喜知田が口を開いた。どことなく焦りが混じっているようにも思える。

 

「聞きたいことがあります」

「なんでしょう。何でも答えますよ」

 肩を押さえ、苦しそうに声を出した小魚は、私なんかよりよっぽど悪人じみていた。

「一つ、人里で人間に攻撃すると言うことが、どういう意味か分かってますよね」

「もちろんです」

 

 よっこらせ、と余裕綽々で立ち上がった喜知田は、へばっている護衛たちを見て、顔をしかめた。情けないですね、とつまらなそうに吐き捨てている。

 

「なら、いいです。では二つ目ですが、今私の口の中に入れたものは、一体なんですか?」

 小魚の笑みが、一層深くなった。輝針城での作戦会議で見せたような、妖艶な笑みだ。

「毒」

「はい?」

「毒を飲ませたんですよ」

 驚きました? と微笑む小魚の口端から、ぽたりと血が垂れた。

 

 きっと、喜知田は、小魚たちが人里で攻撃をしてきたという名目で、退治するつもりだったのだろう。妖怪は人里で人間を加えてはいけない。このルールを利用し、挑発をして、思わず殴りかかったところを返り討ちにするつもりだった。だから、逃げもせず、突っ立っていたのだ。そうに違いない。

 

 だが、予想以上にチーム天邪鬼は頭がおかしかったらしい。

 

 小魚のその言葉を聞いた喜知田は落ち着いた様子で、護衛に何か声をかけた。その二重になった顎をたぷたぷと震わせながら、喉に指を突っ込んでいる。だが、その脂肪のせいか、うまく吐き出せないようだった。

 

「まさか、いきなり殺しにかかってくるとは」

 そんな状態にもかかわらず、喜知田は私たちへ不敵に微笑んだ。

「あなたたち、巫女に殺されますよ」

「大丈夫さ」

 弁々がぐっと拳を握った。

「いざとなれば、リーダーである鬼人正邪様が責任を取って下さる」

 

 喜知田の体がゆらりと揺れた。平衡感覚がつかめないのか、千鳥足でふらふらと体を揺すっている。近くの護衛が彼の体を支えようとするものの、霊力を出し切ったからか、彼ら自身も千鳥足だった。

 

 私の胸は弾んでいた。高揚感と達成感で自然と口に笑みが浮かぶ。まさか本当に。本当にこいつを殺すことができるのではないか。そう思い、足の矢を強引に抜き取った。血があふれ出るが、痛みはない。服をちぎって太ももに巻き付けた。

 

 震える足で地面に立ち、ゆっくりと喜知田へと向かっていく。その場に落ちていた三郎少年の包丁を拾い上げた。喜知田の前に護衛が立ち塞がり、武器を構える。だが、彼らも私と同じく満身創痍だ。差し違えてでも、殺す。

 

「笑えるなぁ」

 こちらをぼんやりと見つめる喜知田を睨んでいると、後ろから暢気な弁々の声が聞こえてきた。くすくすとした含み笑いも聞こえる。

「まさか、そんなになるなんて」

 

 ですね、と小魚の返事が聞こえた。今は目の前の憎き喜知田を殺すことだけを考えなければならないのに、なぜか後ろの会話が気にかかった。

 

「毒を飲ませたって言ったけど」やけに高い小魚の声が頭に響いた。

「あれ、嘘でしたのに」

 

 は? と気の抜けた声が漏れた。私の声だ。

 

「私が毒なんて作れるわけないじゃないですか。あなたに飲ませたのは、私渾身の」

「渾身の?」

「きれいな、複雑の模様の氷です」

 

 案外効いたでしょ? と微笑む彼女を前に、私たちは呆然としていた。嘘? 氷? どういうことだ。

 

「つまり、こいつはただの氷を飲んで苦しんでたってことだよ」耐えられない、と言った様子で弁々は笑った。

「勝手に毒だと思い込んでたんだ」

 

 思い込みって怖いだろ、そう自慢げに笑う慧音の姿が頭に浮かんだ。

 

 

 

 本来ならば、ただの氷で無様な醜態をさらした喜知田を馬鹿にし、作戦の成功を祝ってもいいと思えなくもないような場面だったが、彼女たちは重大なミスを犯した。それは何か。もっとも単純で、そしてもっとも重大なことだった。どうしてそんなことも分からないのか、と彼女たちに文句を言いたくなるほどだ。

 

「随分と、こけにされていたみたいですね」

 子供のいたずらに引っかかったかのような、朗らかな笑みを浮かべた喜知田は、平然と起き上がった。その足はもう震えていない。

「ですが、ネタばらしを本人の前でするのは愚かです」

 

 全くもってその通りだ。喜知田に同意するのは癪だったが、私も頷いてしまう。

 

 やっと、なぜ彼女たちがそこまで喜知田と対峙することに余裕だったかが分かった。彼女たちは、単純にこいつらを、喜知田を私を捕まえようとしている人間としか思っていないのだ。それもそうだ。こいつらは何も知らない。その、ただの人間にちょっとした悪戯をしかけようと、そう企んでいたに違いない。それで、思いのほかに相手が手強く、大怪我を負って、むきになった。そんなところだろう。だとしたら、甘すぎる。

 

 体に衝撃を感じたのはその時だった。中途半端な位置でただ立ち尽くしていたからか、護衛のうちの一人に体当たりをくらい、吹き飛ばされる。視界がぐるぐると回り、地面に落ちたからか、目の前が真っ暗になった。体を起こし、辺りを確認する。痛みはなかった。

 

「これで、形勢逆転ですね」

 喜知田がそう笑った。どちらも満身創痍であるのだから、別に形成は逆転していないのではないか、そう思ったが、その甘い考えは即座に打ち破られる。

 

 小魚が護衛たちの中心で羽交い締めにされていた。

 

「なんで余計なこと言っちゃったのさ、姉さん」八橋が小魚の方を凝視しながら、弁々の肩をたたいた。

「怒らせちゃったじゃない」

「いや、いたずらに成功したら、言いたくなるじゃないか。それに、普通の人間なら、今ので戦意を喪失するさ」

「そんなんだから、甘いたこ坊主なんだよ」

「それ、褒め言葉か?」

 

 口調こそ軽やかだったが、弁々の顔は引きつっていた。汗と血が入り交じった液体が彼女の足下をつたっている。

 

「天邪鬼、さっきあなたは、体を少しずつ削って、動物の餌にするとかなんとか、言ってましたよね」

 まるで世間話をしているのではないか、と錯覚するほどに喜知田は軽々と言った。

「言ってねえよ」

「そして、私はこう返事をしたはずです。そういうのは、逆に返ってくると」

 

 何が言いたい、そう口にしようと思ったが、それは叶わなかった。喜知田の野郎が何を言いたいのか、分かってしまったからだ。

 喜知田の手には、いつの間にか銃ではなく、包丁が握られていた。先ほどまで私が持っていたものだ。それを小魚に突きつけている。三枚おろしっていいですよね、と呟いていた。つまりは、こいつは。喜知田は小魚を。

 

「止めろ」

 

 小魚は、両手を捕まれたまま、体をばたつかせていた。右肩の傷口が広がったからか、顔をしかめている。

 

「止めてくれ」

 

 水の泡。まさにこの言葉が頭に浮かんだ。哀れな人魚姫が水の泡へと変わってしまったように、私は彼女も。やはり巻き込むべきではなかった。逃げるチャンスならいつでもあったじゃないか。私のせいで、こいつらは。

 

「みなさん」

 小魚は、頬を強引につり上げ、笑みを作った。

「逃げてください」

「何言って」

「やっぱり、正邪さんの言う通りでした」

 喜知田が手に持った包丁を振り上げたのが見えた。

「細い矢三本なんてより、そこら辺の丸太の方が折れにくい。私たちが必死になって積み重なっても、強者からしたら大差ないって。無駄なあがきだって、言ってたじゃないですか。あれ、本当だったんですね」

 

 誰か、と私は柄にもなく叫んだ。誰か助けてくれ、と。慧音はどうして人里でこんな騒ぎが起きているのに来ないんだ。寺子屋の前だぞ。妹紅だってそうだ。さっき通りかかったくせに、どうして。そう叫ぶ。広い人里の中で、たまたま私たちの存在に気がつく方が稀と分かっていながらも、それでも願わずにはいられない。みっともなく、地面に這いつくばりながらも、叫んだ。

 

 誰か、助けてくれ。

 

「しょうがないですね」

 

 どこか遠くからそう声が聞こえた。かと思えば、立っていられないほどの強風が私たちを襲う。急な暴風に地面にしがみつくようにして耐える。喜知田の方へと目をやる。確かに、どうしてですか、と口が動いていた。

 

 護衛たちに羽交い締めにされていた小魚の前に、さっと黒い影が現れ、一瞬で消える。小魚の姿も同時に消え去っていた。

 

「そこまで無様に泣いて助けを求められたなら、吝かではないですし」

 

 いきなり耳元で声がして、驚く。黒い翼が神々しく輝き、私の体を覆っていた。

 

「それに、魚を捕るのが烏の仕事、なんですよね」

 

 小魚を抱えた烏は、私たちに向かい、いつものように微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

「助けないんじゃなかったのかよ」

 得意げに胸を張っている烏に向かい、私は呟いた。

「大天狗には逆らえないー、て泣いてたじゃねえか」

「泣いてませんよ」

 

 ボロボロじゃないですか、と私たちを一瞥した烏は、小魚をおろし、そのまま目線を喜知田たちへと戻した。そして、そのままそちらへと歩みを進め、威圧するかのように団扇を取り出している。

 

「烏天狗は約束を守るんですよ」

「約束?」

「言ったじゃないですか。大声で泣き叫びながら、助けて、と言えば助けてあげなくもないって」

 

 はにかんだ烏は、すぐに険しい表情に戻り、喜知田へと足を進めていった。

 

 いきなり現れた烏に、九十九姉妹も、小魚も困惑していた。どうして強者である烏天狗が、人間の味方に着くと表明したはずのあの烏天狗が助けてくれるか、理解できていないようだ。困惑していないのは、私と、喜知田たちだけだ。

 

「それに、思い出したんですよ」

「思い出したって、何をですか」喜知田は、そこで初めて焦りを見せた。毒を飲ませられたといっても動揺しなかった彼が、やっと表情を大きく崩す。

「というより、烏天狗が、指名手配犯をかばってもいいんですか」

「あややや、私は別にこいつらをかばうつもりなんてありませんよ」

 思い出したと言ったじゃないですか、と烏は鼻を鳴らした。

「だから、一体何を」

「約束ですよ。したじゃないですか。天邪鬼たちには手を出さないって」

 

 ああ、と喜知田が頷くのが見えた。そしてすぐに顔を曇らせる。どうしてこいつらが、そんな約束をしているのか、私には分からなかった。だが、そんな約束なんて、全く守られていないのは確かだ。

 

「天邪鬼を助けに来たのはおまけですよ。当然です。どうしてこんな弱小妖怪を好んで助ける必要があるんですか。私はただ、約束を破ったあなたに事情を聞きに来たんです。一体どういうつもりですか。何様のつもりですか、とね」

 

 遠くにいる私たちですら、ぶるりと身が震えるほどの威圧感が、烏から放たれていた。喜知田は一歩下がり、逆に護衛は前へと出た。足を引きずりながらも、喜知田の盾となろうとしている。あそこまでいくと、もはや執念のようなものを感じた。

 

「今のうちに逃げてください」

 烏が、目だけでこちらで振り返り、言った。

「早く!」

 

 私は考える間もなく、懐から例の傘を取り出した。ばさりと開き、小魚たちに向かい放り投げる。傘の内側には、薄気味の悪い空間が広がっていた。

 

「何ですか、これ」

 小魚が顔を引きつらせた。

「まさか、この傘の内側の中に突っ込めって言わないですよね」

「その、まさかだ」

 

 力なく笑う小魚の背中を強引に押し、無理矢理傘の中へと押し込んだ。吸い込まれるように中に入った彼女の姿は、一瞬で見えなくなる。一体どこへ出たかは分からないが、ここよりはましな場所だろう。

 

「お前らも、入れ」

「正邪は?」八橋が聞いてきた。

「正邪も入るんだよね」

「当たり前だ」

 

 そう、と頷いた彼女は、弁々の手を握り、思い切り飛び込んだ。それに引っ張られるようにして、弁々も落ちていく。悲鳴を上げようとしていたのか、奇妙な顔をしていたが、口から零れていたのは声ではなく、血だった。

 

 ぽとりとその場に落ちた傘を持ち上げ、中をのぞき込む。ぎょろりとした目が暗闇の中に蠢いていた。彼女たちの姿は、もうない。その傘を、私は遠くへ放り捨てた。

 

「あややや、あなたも逃げるんですよ」

 こちらを見てもいないのに、烏は早口で言った。

「足手纏いはもうこりごりです」

「分かってないな、烏は」

 

 烏の方へと、一歩足を進める。矢で打たれたからか、力が入らず、その場に崩れ落ちそうになる。が、必死に耐えた。歯を食いしばり、そのまま足を動かす。

 

「こんなお誂え向きのチャンス、逃すわけないだろ」

 

 目の前の、喜知田を見やる。頼みの護衛はぼろぼろ。野次馬はいない。今までと違い、偶然であったからか、対策も禄にできていないはずだ。それこそ、小魚たちの陳腐な作戦に引っかかってしまうほどに。

 

「逆に、こいつを殺した後に慧音と妹紅に見つからないかが心配だ」

「随分と、余裕そうですね」

 腹をなで、満面の笑みを浮かべる喜知田にそう言われると、殺意を通り越し、吐き気を覚えた。お前ほど余裕そうな奴は世界のどこにもいない。

「たかが天邪鬼のくせに。まだ、蕎麦屋の方が」

「てめえ!」

 

 包丁も、火薬玉もなくなった今、私には武器となりそうな物なんてなかった。強いていうなら、小槌ぐらいだ。だが、それでも私は喜知田に突っ込もうとした。護衛たちなんて、見えていなかった。どこか浮かんでいた憂いも消え去った。あいつらがいなければ、躊躇する理由なんてない。

 だが、またしても烏に止められた。

 

「だから、落ち着いてください。何回このやりとりは繰り返せばいいんですか」

「なんだよ。協力してくれるんじゃなかったのか!」

「あの連中を逃がす協力はしますが、復讐の協力はしません」

「話が違うじゃないか」

「そもそも、話なんてしてませんよ」

 そう言った烏は、私の体を上から下まで見渡すと、やっぱり無理ですよ、と薄く笑った。

「もう、ぼろぼろじゃないですか」

「むしろ、私はボロボロじゃないときの方が珍しい」

「確かに」

 

 喜知田の護衛が放った矢が、烏の翼へと突き刺さった。私に飛んできたものを烏がかばったのだ。だが、彼女は嫌な顔一つせず、それを抜き取った。一滴の血も垂れていない。

 

「さっきも言ったじゃないですか。この男がどんな対策をしているか分かりませんよ」

「でも、今は何も」

「三郎という名の少年、また行方不明になったんですよね」

 

 私の背筋に冷たい汗が流れた。慌てて喜知田の方を見る。奴は、何も言わなかったが、それが逆に恐ろしく感じた。まさかこいつは、またあいつに何かをしたのか。だとしたら、私はどうすれば。

 

「なら、こうしましょう」

 逡巡する私の肩を、烏がつかんできた。その手には、いつの間にか私が放り投げたはずの傘が握られている。

「私がその少年はどうにかしますよ」

「本当か」

「もちろん、しかし、ただでとはいいません」

 

 何事にも対価が必要ですからね、と指を立てた烏は、喜知田の護衛の一人に対し、指を振った。すると、札を持った男が、大きく吹き飛んでいく。

 

「対価って、なんだよ」

「逃げてください」

 

 ばさり、と烏が傘を開いた。そして、強引に私に押しつけてくる。だが、なぜか彼女は私から顔を背けていた。その耳は少し赤くなっている。

 

「逃げて、生きてください。がむしゃらに、生き延びるんです。生きていれば、なんとかなります」

 

 馬鹿にするような笑い声でそういった。顔こそ見えないが、きっと、ムカツク嘲笑を見せているに違いない。生きていれば、なんとかなる。烏らしくない、陳腐で、くだらない言葉だ。理想論にもほどがある。あまりに幻想的で、無意味な言葉だ。身の毛がよだち、反吐が出る。そんな言葉で私が復讐の機会を諦めると思っているのだろうか。だとすれば、馬鹿だ。だが、なぜだろうか。その言葉に私は泣きそうになった。迷っていた心がきちりとはまっていく。復讐に失敗した。またもや失敗した。でも、悲しくなんてない。大きく息を吸い、胸にたまった雑念を吐き出す。諦めるのか? 内なる自分が私を責め立てる。憎い喜知田が目の前にいるんだぞ。いいのか? よくない。だが、それでも、私は生きる。生きていれば、なんとかなる。諦めるわけではない。

 

「当然だ」

 傘の中に足を入れながら、私は言った。

「私は死なねえよ」

 約束ですからね、と烏が笑ったような気がした。


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