行きつけの蕎麦屋の親父に、お前は昔から何も変わらないな、と言われたことがある。
「俺はもうこんなよぼよぼの爺だってのに」
布団の上で首だけ起こした彼は、弱弱しい声で笑った。
「うるせぇ喋んな。もう寝てろ」蕎麦を啜りながら、私は唸った。
人里の外れのこの店には、相も変わらず人がいない。親父が寝返り打つ音と、私が蕎麦を啜る音だけが鳴り響いた。心なしかいつもよりも蕎麦に風味がない。
「おいおい病人扱いするな」 彼は顔を赤くして、眉をひそめた。
「病人じゃねぇか」
「病気じゃねぇ。ちょっと足を挫いただけだ」
痛てぇ、と声を漏らしながら足を摩っている老人にいわれても、説得力がない。
「ああ。若い頃はもっと元気だったんだがな、老いには勝てん」
「確かに、あんたは元気だったな」
少し伸びている麵をぐにゃぐにゃと噛みながら、一昔前を思い出す。三十か四十年くらい前に私はこいつと出会った。当時は彼も若く、筋骨隆々とまではいかないが、細身ながらも芯の通った体つきをしていた。
「奥さんがいるのに、他の女に手を出すくらいには元気だったな」
「……お前はいつも不倫の話ばかりをする」
彼は年甲斐もなく舌を出して、笑った。
「そんなに不倫が好きか?」
「違う。お前が嫌がる話が好きなんだ」
私が彼の不倫を知ったのは偶然だった。といっても、実際に彼が密会をしている現場を目撃したわけではない。彼が、私とその不倫相手とを勘違いして、勝手に自爆をしただけなのだ。“おい、子供はそろそろ生まれるのか”と聞かれた時には開いた口が塞がらなかった。
「あの時は最高だったな。今でもたまに笑っちまう」
「うるせぇ、止めだ。止めだ」
口をへの字にし、嫌そうに顔を顰めた彼は、ゆったりと上体を起こした。細かに身体を震わせながら、小さくうめき声をあげている。
「寝とけよ。お前みたいな爺は床で這いつくばっているのがお似合いだ」
「そう言われたら起きるしかないな」
「この天邪鬼め」
天邪鬼はお前だろう、と笑う彼の顔には疲労がたまっていた。ただですら細い彼の頬は、骨がはっきりと見える程に痩せこけている。布団の上に置かれた薄黒い腕は、爪楊枝のように細い。それこそ蕎麦といってもいいくらいだ。
「……折角だ。そろそろ話してやるよ」
「は? 何をだ」
「お前の大好きな不倫の話だ」
カタンと小さな音が部屋を包んだ。一瞬、何の音か分からなかったが、机の上に散らばった箸を見て、自分が箸を落とした音だと気がついた。
「おいおい、どういうつもりだ? あんなに毛嫌いしていただろ」
「気が変わった」
「はぁ?」
「あれは暑い夏の日だった」
「待て待て、私は爺の背徳感溢れる恋愛話なんて聞きたくねぇ」
「余りの暑さに川へと涼みに行った時に」
「聞けよ!」
私の言葉を聞く気がないのか、彼は淡々と言葉を繋ぎ始めた。滑らかに、まるで予め台本を用意したように詰まることなく話を進める。もしかすると、今日私にこの話をしようと決めていたのではないか。そんな疑惑が頭をかすめた。まったくもって気にくわない。
それではまるで、自分の秘密を託すようではないか。
「川へと涼みに行った時に一人の女性を見つけてな。顔は布で覆っていて、よく分からなかったが、酷く困っているようだったから声をかけたのだ。そうしたら、なんて言ったと思う?」
「知らねぇよ」
「子供をつくってくれませんか?」
「は?」
「そう言ったんだよ。“私と子供をつくってくれませんか? ”ってな」
「何処のひかる源氏だよ。言い訳にしてももっと考えろ」
「何をいうか」彼は口をすぼめた。
「嘘でも言い訳でも無い。それでな、情事が終わった後、その女の顔を俺は見たくなったんだ。当然だろ? 肌を重ねあった女の顔、気にならない訳ないじゃないか。それで、誘惑に負けてそいつの布を捲ったんだ。そうしたら、どうなったと思う?」
「女が鶴にでもなったのか?」
「違う」彼は眉を下げた。パラパラと皮膚が落ちる。
「その女はな、妻だったんだ」
「は?」
あまりに突飛な発言に、彼の頭の調子を心配した。寝たきりになるとボケやすいと聞くが、まさかこれまでとは。それとも、単純に自分が浮気をした事実を捻じ曲げたいのか、奥さんを失くした現実を直視していないのか、どちらかだ。
「俺が寝言でな、いっぺんでいいから浮気をしたい、といったらしくて」
「それで?」
「それで、願いを叶えてあげたいけど、浮気はされたくないからって」
「わざわざ川まで行って夫を待ったと?」
「そうだ。わざわざそうした」
「馬鹿じゃねぇの」
久しぶりに、本心からの罵倒が口から飛び出た。
「それじゃぁ何だ? 私が聞いたあの言葉は」
「妻に向けて言った言葉だ」
「マジかよ」
数年越しの真実に、頭の中が真っ白になる。眩暈がして、足元がふらつく。世界がひっくり返りそうだ。
「なら、なんで私に蕎麦なんて奢ってたんだよ。あれは実は嘘でしたって言えばよかったじゃないか」
「だってよ」
彼は小さく俯いて、頬をぽりぽりとかいた。目線が右往左往して、落ち着かない。
「そうすると、お前は来なくなりそうだったから」
「気持ちが悪い」
さっきぶりに、本心からの罵倒が口から飛び出した。
むぅと口を噤んだ彼は、枕元に置いてある茶のみに手を伸ばし、震える手で口へと持っていった。中身が無くなったのだろうか、不満そうに茶のみを左右に振った。
仕方がないので、机の上に置かれている急須にお湯を入れる。なんで自分がこんな事をしないといけないのか。これではまるで介護ではないか。
中のお湯を零さないように、ゆっくりと彼の枕元へ急須を置く。
「すまないな」消え入るような声で、彼はそういった。
「謝るなよ」
苛立ちよりも、虚しさが心に広がる。いつも自分に食って掛かってきたこいつの謝る姿など、本来であれば飯のおかずにでも出来るはずなのに。なぜだろうか。宴会の終わり際のような切ない気持ちになる。
「妻もよくお茶を入れてくれたんだ」
「そうか」
「お前の入れるお茶よりおいしかった」
「そうか」
「あんなにおいしい茶を入れる妻が、なんであんな終わり方なのか、今でも不思議でたまらない。時折無性にそう思うんだ。どうしてあんな良い人が、あんな風に死んだのか。あんな風に殺されたのか」
昔を思い出しているのか、目を細めて遠くを見つめていた。頬にはうっすらと、涙の線が浮かんでいる。
「そしてな、妻を殺した奴が今も幸せに生きていると思うとな、胸が詰まるんだ。どうして妻の代わりにそんな奴がって。博麗の巫女はどうしてそいつを退治をしないのかって」
「管轄外だからだったんだろ。人間は退治されない。当たり前だ」
博麗の巫女。人に危害を与える妖怪を退治する幻想郷の警察。ただ、人間は退治しない。当然だ。仮に、妖怪になろうとしている人間がいたならば話は別だが、普通の人間を殺すようなことはしない。それは彼女の仕事ではない。そして、誰の仕事でもないのだ。
「分かっている。だから、その時に手を貸してくれたお前さんには一応感謝しているんだ」
「そう思うなら、次の蕎麦にはかき揚げでもつけてくれよ」
上半身を左手で支えた彼は、ぽかんと口を開け、目を丸くした。だが、すぐにその張り出した頬骨を浮き上がらせて、声をあげて笑い出す。ゲラゲラと楽しそうに。彼の笑い声が、立て付けの悪い扉をカタカタと震わせる。部屋の中の鬱蒼とした空気が晴れて言ったような気がした。
その様子を呆然と見つめていた私に、彼は大声で怒鳴りつけた。
「絶対に嫌だ!」
彼が死亡するのはこれから二日後の事である。
「号外! 号外です!」
昨日の慧音のせいで痛む額をさすりながら、朝飯をたかりに甘味屋へと足を運んでいると、威勢のいい声が聞こえてきた。こんなに早い時間から烏天狗が新聞を配っているのか、と鈍い頭に軽い衝撃が走る。短い黒髪を揺らしながら、肌寒い朝の空気に負けないように必死に叫ぶその姿を見ると、やっぱり烏は朝方なのだな、と再認識する。鳥目では夜は動けないのだろう。
「ごうがーい! 号外ですよー!」
しかし、元気な烏の鳴き声とは裏腹に、新聞は一向にさばけていなかった。通りがかる人も、初めは興味を惹かれて近づいていくが、新聞の一面を見た途端に顔を俯かせて早足で去っていく。一体彼女の新聞には何が書かれているのだろうか。少し好奇心がうずいた。
「号外でーす。私、射命丸文が、腕によりをかけて作った文文。新聞の号外です!」
「朝からガーガー煩いぞ。鶏にでも進化したのか」
私が声をかけると、彼女、射命丸文は嬉しそうに振り返った。だが、私の顔を見た瞬間に口元は段々と下がっていき、はぁと大きなため息を吐いた。
「あややや。これはこれは天邪鬼じゃないですか。残念ながら私の持っているこれは食べ物じゃありませんよ。シンブンという文化的で素晴らしい物なのです。向こうに甘味屋があるので、食べてきたらどうですか?」
烏はわざとらしく眉をあげて首を傾けた。何か臭い物でも払うようにひらひらと手を振っている。
「そんな分かりやすい挑発には乗らない。これだから烏天狗は駄目なんだ。折角新聞を貰ってやろうと思ったのに」
「十文です」
「金取るのかよ。しかも高けぇ」
「当然です。紙だっていい素材を使ってるんですから。なんと、火にくべても燃えにくいんですよ!」
「それ、逆に不便だろ」
懐に入っている袋に手を伸ばす。塩とは別に幾らか金が入っていたはずだ。手探りでそれらを握り引っ張り出す。穴の開いたくすんだ貨幣が9枚出てきた。
「あややや、一文足りないですね」
「はっ」
ニヤニヤしながら私の周りをぐるぐると歩いている烏を睨みつける。烏天狗なら烏らしく、空でも飛んで虫でも食べてればいいのに。どうして新聞など書いているのだろうか。
まぁ、少し興味がわいただけで金を払ってまで読みたいものじゃ無い。そう自分に言い聞かせて踵を返そうとした時、彼女の抱えている新聞の見出しが目に入った。
“極悪人に天罰か!? 人里の外れで謎の死“
思わず、あっと声を漏らしてしまう。動悸が激しくなっていき、背中に嫌な汗が流れた。頭が熱くなっていき、息があがる。もしかして、自分の事が書いてあるのではないか、と肝が冷えた。
「どうしましたか? 私の新聞の魅力に取りつかれちゃいました?」
「一部よこせ」
「はい?」素っ頓狂な高い声を漏らした。
「一部よこせ、といったんだ」
「え」
「金なら後で幾らでも払う。何なら誓約書を書いていい。塩! 塩なら持っているし、何なら私が持っている物なら何でもくれてやる。土下座だってしたやっていい。だ、だから!」
「お、落ち着いてください。ほら、深呼吸」
顔を近づける私を押し戻すように、両手を自分の身体の前に立てた。背中の大きな翼を小刻みに震わせて、その短い黒髪を何度も右手でいじっている。
「どうしたんですか。急に。本当に私の新聞の虜になったんですか?」
「……頼む。いや、どうかお願いします」一歩下がり、腰を落として頭を地面に擦り付ける。
「あやややや、すみません鳥肌が凄いんで止めてください。まぁ、元々鳥肌ですけど」
「じゃぁどうすれば!」
「いや、普通に無料であげますよ。まさか高々一文のために土下座までするとは思いませんでした」
彼女の思わぬ返事に、頭が真っ白になる。目をぱちくりとさせている私を見て、烏天狗は薄く笑った。
「そこまで私の新聞を欲しがっている人を無下には扱いませんよ。それに号外というものは元々無料で配るものだそうですし」
「じゃぁ、何で十文なんて言ったんだよ」
彼女はふふん、と楽しそうな声で笑い、手を後ろにくんだ。真っ青な空を見上げて、鼻歌を歌っているかのように、小さく息をはいている。
「そっちの方が面白くなりそうだったからです」
「死ね。私の土下座を返せ」
彼女の左腕に抱えられている紙束から、乱雑に一部奪い取る。くしゃりと紙が潰れる感触と共にえぇ、と不満げな声が耳についた。
「土下座までして貰った新聞なんですから、もうちょっと丁寧に扱って下さいよ」
「分かってないな。私は捨てるためのプライドしか持ってないんだよ。土下座なんて屁でもないね」
「うわっ、情けないですね」
呆れや嘲笑を通り越したのか、悲しげな笑みを浮かべた烏に背を向けて、甘味屋へと足を進める。こいつと話していると、自分が天邪鬼という事を忘れてしまう程に、言いくるめられてしまう。元々ないに等しい自尊心がガラガラと音をたてて崩れていくようだ。
「どこに行くんです?」
「お前には関係ない」
「へー」真っ黒な目がいやらしく光った。
「もしかして甘味屋ですか?」
「分かっているなら聞くなよ。分かっていて聞いていいのは、愛を確かめる時だけだ」
「気持ち悪いですね」小さく口を開けて、えづく振りをした。
「でも、たった九銭では団子一つ買えませんよ」
「大丈夫だ」
青空の端に、まだ上がってきたばかりの太陽が見えた。まだ眠いんだ、そっとして置いてくれよ。そう駄々をこねているように見える。だが、残念な事にそうは問屋が卸さないようで、今日は太陽が隠れる場所も無いような晴天だ。
青白い空がそんな情けない太陽を必死に揺り起こして、仕事をさせているのだろうか。そんな突飛も無い事が思いついた。きっと青白い奴は、そういう運命なのだ。宿命といってもいい。
後ろを振り返って、烏に視線を向ける。訝しげに見つめる彼女の視線が、私の神経を逆なでする。いつもふん反りかえって、偉そうで、馬鹿にして、私の株を奪って、でも偶に優しくて、そんな彼女のことが、私は嫌いだった。大嫌いだ。だから
「当てがある」
だから、根拠もなくそんな虚勢をはってしまった。
「それで私を連れてきたのか」
机の上に置かれた饅頭を口へと放り込む。仄かな塩の辛さが餡子の甘さを際立たせ、幸せが口いっぱいに広がった。やはりここの甘味屋の饅頭は最高だ。そして何より他人の金で 食べる物が不味いはずがない。まだ口の中に残っているのにも関わらず、ついつい手が伸びてしまう。
「大事な話があると来てみれば……。というか食べ過ぎだ!」
「いいじゃねぇか先生。困っている弱者は助けるべき、だぞ」
眉をひそめた慧音は、困ったように薄く微笑んだ。騒めく彼女を他所に、団子を手に口に頬張る。彼女は不満げに少し口を動かしていたが、彼女の声は繁盛している店の活気でたち消えていった。
早朝の寺子屋に慧音がいるかどうかは賭けだった。だから寺子屋の前で箒を持っている彼女を見た時には、思わず拳を握った。それから先は得意分野だ。深刻な顔をつくり、話があるというだけで、彼女はひょいひょいと着いてきた。
「人からの慰め物を享受するとは、さすがは天邪鬼ですね」
隣の席から、パシャリという機械的な音が聞こえた。
「何でお前も着いてきたんだ」
「だって面白そうでしたから。もしかすると記事に出来るかもしれません」
出されたお茶をすすりながら、烏は嘯いた。結局自慢の号外をさばく事は出来なかったようで、綺麗に畳まれた新聞が懐から見え隠れしている。あとでお茶をぶっかけてやろう。
「射命丸……。お前とそこの天邪鬼に接点があったとは、驚きだな」
「慧音先生こそ、いつの間にこんな小物と茶をかわす仲に?」
「昨日初めて話したよ。まさか泣かれるとは思わなかったが」
「詳しく教えてください!」
「止めろ」
意気投合し始めた二人を引き剥がすように、団子を持った手を伸ばす。この二人を会わせたのは失敗だったか。
「それよりも」話題を変えようと、何とか口を動かす。
「それよりも烏天狗。お前の新聞に嘘はないか」
「あやや、突然なんですか」
少し大きな声を出してしまったからか、一人甘味に夢中になっている子供を除いて、周りの客の視線が一瞬こちらに向いた。だが、すぐに興味を失くしたのか、すぐに各々の甘味へと視線が戻されていく。
「答えろ」
「はぁ。当然虚偽の情報なんて書かれていませんよ。清く正しい射命丸文とは私のことです」
「清く正しいだなんて自称してる奴で、真っ当な奴はいねぇよ」相手を馬鹿にするように、片方の口角をあげて笑う。
「まだ私の方がましだね」
「それは無い」慧音が断言した。
「あなたが言う事は、全て噓だと思っている」
「天邪鬼だからといって全て嘘をつく訳じゃねぇ」
勝ち誇ったような笑みを浮かべている烏に舌打ちをして、懐に手を入れる。ザラザラとした紙の感触と、冷たい丸い金属が肌に触れた。少し皺が出来ている新聞を引っ張り出そうとすると、丸められた新聞に押し出されるように、小銭がするりと零れ落ちた。チャリンと小さな音が鳴り、ころころと店の奥へと転がっていく。取りに行こうとも思ったが、連れの二人はそれに気づいていないようなので、すんでの所で思いとどまる。たかが一文のために、地べたを這いつくばる姿を、記事にされてしまったら釣り合いが取れない。誤魔化すように手に持った新聞を机に叩きつける。机上の皿がグラグラと揺れた。
「なら、お前が清く正しいというのなら、この新聞も正しいという事でいいんだな?」
「この瓦版は……。射命丸が書いたのか」
「その通り!」烏が得意げに鼻を鳴らした。
「今回は多くの人から情報を得られましてね。力作ですよ!」
顔を輝かせる烏とは対照的に、少し汚れた新聞を見つめる慧音の顔は優れなかった。まるで部屋にいる蛆を見てしまったかのような、渋い顔だ。
「射命丸。この“天罰”ってのは」慧音が恐る恐る尋ねた。
「そりゃぁ、この前の殺人事件についてですよ。人里であれ程残酷な死体は珍しいですからね」
余程自信があるのか、目の前に広げられた新聞を撫でながら楽しそうに頬を緩めた。
「しかも殺されたのが人里中から嫌われていた老人。悪評は絶えることが無いとの事でした。きっと皆が関心を持っているに違いない、と思ったんですが」
「ほとんど貰ってくれなかったと」慧音が小さく声を漏らした。
「そうなんですよ……。これだから低能な読者は困りますね」
「お前の新聞がつまらねぇだけだよ」
ぴくりと眉をあげた烏を見下しながら、あと一つとなった饅頭を口に入れる。
確か烏天狗の中では、自分達が作った新聞を評価しあう“大会”なるものがあったはずだ。目の前の自信過剰な烏がその大会について言及しないという事は、あまりいい結果では無いのだろう。それにもめげずに新聞を作り続ける姿勢は、見ていて吐き気を催すほどに、健気だ。
「いや、そうとも限らない」慧音が苦々しそうに口を開いた。
「人間は同族の死についての情報を好まない」
「はい? 何故です? 同族の死の原因を知ることは、自身の安全にもつながるでしょうに。しかも殺された人物が悪人であれば同情の余地もないはずです。むしろ鬱憤が晴れるんじゃないですか?」
自分の選んだ題材を批判されたからだろうか、少し声を尖らせて烏が喚いた。
確かに、と私も続ける。弱い人間が生き延びるためには、それくらいの事はしておいた方がいいに決まっている。
「あなた達には、きっと分からないさ」
「何がだ」
肩をすくめて呆れている慧音に、少し腹が立った。
「お前の愚かさか? それは十分に知っている」
「違いますよ、天邪鬼」烏も私と同じ感情を抱いたのか、うすら寒い仮面のような笑顔を浮かべて言った。
「半獣の汚らわしさです」
「それも知っている」
烏のうす気味悪さも知っている、と心の中でつけ加えた。
「二人とも冗談はそれまでだ」
慧音が小さく両手を叩いた。私としてみれば、冗談では無かったのだが、彼女は自分が愚かであるという発想自体が無いのだろう。おめでたい奴だ。
「お前たちが知らないのは」
慧音は団子の串を私たちに向けた。いちいち説教のように、偉ぶって話す感覚が理解できない。頭痛がする。不気味だ。
「お前たちが知らないのは、人間の弱さだよ。人の心はいつだって不合理で、理不尽なんだ」
「さすがはセンセイだな。とてもべんきょーになります」
相も変わらず、我らが先生の話はどう足掻いても面白くない。何が人間の弱さだ。弱いのはお前の会話力だろうが。
「そんな事よりも!」烏が大きな声で、口を挟んだ。
「この事件についてどう思います?」
「どう、とは」慧音にしては珍しく、露骨に嫌そうな顔をした。
「そりゃぁ、犯人ですよ。犯人。気になりません?」
「ならねぇ。いつもの事じゃないか」
いくら妖怪に襲われない人里だからといえども、人が死ぬことは珍しい事でもない。飢饉や病は数知れず、理性を持たない低級の妖怪や人間による殺人も度々起きている。いつの日だったか、何人かの人間と一匹の妖怪が博麗の巫女に請願しに行ったことがあった。一人の女性が何者かによって殺された時だ。まだ年は若く、笑うときに見えるえくぼが印象的な、大和撫子だった。その女性はお淑やかで、気難しい旦那を支える良き妻だったという。だが、小さな包丁で胸を一突き。たったそれだけの事で命を失った。明らかに人間の仕業だった。
憤る人間の強い願いとは裏腹に、博麗の巫女は淡々と請願に来た人々にこう告げた。管轄外だ、と。そのあまりにも簡潔で、そして真っ当な宣告に、その人間たちの中心人物、その殺された女性の夫は思わず「かんかつって、キャベツと一緒に食べたら美味しそうだな」と意味不明な言葉を漏らした。
「いえ! 今回はいつもと違う事ばかりです。ここを見てください」烏は新聞の左上の文字列を指さした。
「全身は赤黒く変色し、肌はボロボロ。しかし火傷をした訳でも無い。それでもって直接の死因は心臓を包丁で刺した傷。ね? おかしいじゃないですか」
おかしいのは、こんな糞みたいな新聞を人に渡せるお前の度胸だ。
「私の見解として、今回の事件は妖怪の賢者の仕業だと思っています」
「妖怪の賢者?」
烏は、新聞に大きく載せられた写真をパシパシと叩いた。彼女が撮ったであろうその写真は、私のような小物が目にしてはならないような、そんな高貴さが漂っていた。それもこれも被写体の大妖怪のせいだ。絹のようで、病的なまでに白い肌と、金箔のように輝く長い髪。そして、何もかもを見通しているかのような紫の瞳。一見すると魅力的だが、何処となく不気味だ。斜め下から撮られており、顔の左半分が陰に隠れている。背景は黒く塗りつぶされており、“悪の親玉”という言葉が似合うような、そんな笑みを浮かべていた。
「よく写真を撮れたな」驚いたように、慧音が口を開いた。
「下手したら殺されていたかもしれないのに」
「あややや、そこまで彼女は早計じゃありませんよ。それに、この写真は博麗の巫女に撮ってもらったのです」
もう一度、新聞に目を落とす。写真の向こうの賢者様が、こちらをギラリと睨んだ気がした。反射的に後ろへ逃げようとして慧音の足をけり上げてしまい、睨まれた。
「それでですね。私の説としては」烏が、慧音のように串で私を指しながら言葉を並べた。
「私の説としては、きっとこの老人の悪行を見かねた妖怪の賢者が、彼を殺したんだと思うんですよ」
私の説としては、烏の頭の中は空っぽであると思うんですよ。
「でも、それなら彼以外にも悪人なんて数多くいるじゃないか。なぜ彼なんだ?」
「あー、えっと」
「それは、あの野郎が村で一番恨まれていたからですよ」
慧音の質問に答えたのは烏ではなく、隣の席に座っていた男だった。長く、白色交じりの髪を後ろに結っている。突き出している腹を撫でながら、ぐへへと笑うその姿は汚らしいが、来ている服は金の刺繍が入った、綺麗なものだった。
「一週間ぶりですね、先生。これ、感謝の気持ちです」
「おお、喜知田か。元気そうで安心したよ」
喜知田と呼ばれた男は、おはぎを机の上に置きながら、机上の新聞を見て眉をひそめた。
「本当に碌でもない男でしたよ。こいつは」
「詳しく教えてください!」
手帳を取り出して、目を輝かせた烏に気圧されたのか、喜知田は薄く苦笑いをした。その顔はまるで子供のように幼く、ちらりと見える八重歯がそれを助長していた。きっと、実はまだ寺子屋に通っていると言い出しても、驚く人の方が少ないだろう。世間知らずのお坊ちゃま、といったところか。だが、色が抜けた髪と、目元や額の皺で、そろそろ還暦を迎えるくらいの年齢にも見える。
「詳しくも何も、あなたの新聞に書いてある通りですよ。窃盗、暴行は数知れず、無銭飲食をしない方が珍しい。綺麗な女性を強引に妻にしたかと思えば、すぐに不倫をしまくって、挙句の果てに」喜知田は何度か目をしばたかせた。
「挙句の果てに、その奥さんを殺してしまうような奴です」
「今の話は本当か。烏」
このおはぎは奢りです。大丈夫、人間は二束三文にケチをつける程弱くありません。そう残し去っていった喜知田の背中を見つめながら、烏に尋ねた。
「おそらく本当なんじゃないですか? 人里の人間は同じような事を皆言っていましたよ」
「皆が言えばそれが嘘でも本当になる。そしてそれが常識となるんだよ」
気がつけば、いつの間にか口から言葉が飛び出ていた。
「何を訳の分からない事を言っているんですか?」
「やっぱ訳分かんねぇよな」
餡子が手に着くことも厭わずに、そのままおはぎを鷲掴みにして、口に運ぶ。餡子の甘さが口いっぱいに広がった。が、どこか塩辛い。彼が悪人? 窃盗? 食い逃げ? ありえない。そして、何よりありえないのは、彼が奥さんを殺したという話だ。
先程、喜知田と呼ばれた男からその話を聞いた時、思わず殴り掛かりそうになった。それは彼に対する何よりの冒涜であり、そんなデマを流した奴は絶対に許さない、と私に決意させるのに十分であった。だから、思わず口を滑らせた。
「でもよ、奥さんを殺した犯人は分からず仕舞いって話だったじゃねぇか」
博麗の巫女の管轄外だ、という言葉が頭に浮かんだ。
「そうなんですか? 普通の殺人なんて、面白くなかったんで調べてなかったです」
殺人に面白い、面白くないの区別があるとは知らなかった。だとすれば、この一面を飾った被害者は、さぞかし鼻が高いだろう。おい、あんたの死に様は面白かったらしいぞ、と新聞に声をかけたくなる。
「私も詳しくは知らないのだが」
険しい顔をした慧音が口を挟んだ。その声は心なしか少し震えている。
「あの痛ましい事件は、この男が犯人で間違いないそうだ」
「あの面白くない事件か?」
「痛ましい事件、だ」
視線が右往左往している慧音は、おはぎへと手を伸ばした。が、手が汚れると気がついたのだろう。顔を赤らめて箸を掴みなおす。
小さくあややと呟いた烏が、カメラを構えて、慧音へと向けた。その口はにやついて、だらしなく涎が光っている。
烏がカメラの突起物に触れようとした時、あー! と叫ぶ子供の声が店に響き渡った。びくりと少し震えた烏は、どうやら上手く写真を撮ることが出来なかったようで、不服そうにその声をした方向へと目を向けた。私も釣られるように、彼女と同じ方向を向く。
あー! と再び声が響いた。今度は子供の声では無く、低い、女性の声。つまり、私の声だ。
先程叫んだ少年は、満面の笑みを浮かべて、母親と思われる女性と話していた。その手には、小さな円い金属が乗っている。真ん中に小さく穴が空いた貨幣だ。私が落とした一文だ。
椅子を蹴り倒すようにして立ち上がり、その母子へと詰め寄る。私に気がついたのか、硬貨を握りしめた少年が、不思議そうにこちらを見つめてくる。
「おう少年。すまないがその金は私のなんだ。返してくれ」
私の言った言葉が理解できていないのか、口を鯉のようにパクパクとさせている少年を抱きしめるように、母親が私に体を向けた。明らかに私に怯えている。私はどうなってもいいので、どうかこの子だけは、と思っているのか、それとも弱小妖怪の天邪鬼は大のおとなには敵わないと高を括っているのか、いずれにしても腹立たしい事には変わりはない。
これは少しきつい言葉が必要だと、胸を高鳴らせて、とっておきの罵詈雑言を浴びせようと口を開けた時、母親に抱きかかえられた少年が手のひらを広げて、私へと伸ばした。
「はい、お姉さん。次はなくさないでね!」
「お、おう」
穢れを知らない純粋無垢な笑顔で、小銭を渡された。呆気に取られている私を他所に、逃げるようにして母親が少年を抱いたまま、甘味屋から出ていく。その間、少年はずっと私に向けて手を振っていた。唇を強くかむ。込み上げてくる不快感と吐き気を堪えながら、小さく息をのんだ。無償の善意。私がこの世の中で一番嫌いなものだ。
パシャリ、という嫌な音が耳についた。
後ろを振り返ると、口が裂けたんじゃないかと思う程にやけている烏と、ため息を吐いて、頭を手で押さえている慧音の姿が目に入った。
「天邪鬼。さっき私は、あなたには人間の心の弱さなんて分からないといったな」
「そうだったか?」
慧音の話は半分聞いていなかったので、覚えていない。
「訂正する」
「は?」
「人間は二束三文を気にするほど、弱くないそうだ」
慧音は憐れむように、薄く微笑んだ。
「お前は人間よりも人間らしいほどに、心が弱いよ」
パシャリという音が、もう一度甘味屋に響いた、気がした。