人間。それは、私たち妖怪にとってみれば、獲物でもあり、天敵でもある存在。力はなく、大した知恵もなく、馬鹿で間抜けな連中。まあ、私よりか力はあるかもしれないが、そもそも比べられている時点で、大した力ではない。
だが、彼らは強い。なぜか。群れるからだ。統率がとれるからだ。烏天狗たちよりも強固な何かで、結ばれているからだ。
けれど、何事にも例外はある。群れなくても、強い人間はいる。私を抱えて空を飛ぶ彼女は、その代表例だった。
「なあ、どこに向かってるんだよ」
冷たい風が、頬を殴りつける。口を開けば、たちまち唾が喉奥へと押し込まれていくが、なんとか声を出した。
「私は行かなければならないところがあるんだ」
「それ、どこよ」
「鬼の世界」
「それ、どこよ」
紅魔館にいきなりやってきた巫女は、レミリアによって足を縛られた私を見て、満足そうに頷いた。そして、いきなり乱雑に担いだかと思えば、「それなら、回収していくわね」と一方的に言い残し、猛烈な速度で外へと飛び出していった。まさか、廃品業者に回収される家具の気持ちを味わうことになるとは、予想だにしていなかった。全く嬉しくない。
「というより、あなた、自分が指名手配犯ってこと、分かってるの?」
「分かってるさ」
「指名手配犯である妖怪が博霊の巫女に捕まったのよ。普通に考えれば、これからどうなるか分かるんじゃない?」
「駆け落ちか?」
「馬鹿じゃないの」
心なしか、彼女の速度が増した気がした。世界が素早く後ろに流れていく。木々が線となり、地面は川のように見えた。今、自分がどこにいるのかさえ分からない。
「本当だったら、今すぐ殺してもいいんだけど」
いきなり物騒なことを、巫女は言い出した。にもかかわらず、彼女は表情一つ変えない。彼女にとって、悪さをする弱小妖怪を殺すことなんて、日常茶飯事なのだ。指名手配されていようが、私はその中の一つでしかない。
「だけど、その前にやらなければいけないことがあるのよ」
「なんだよ、それ」
「あなたが今、一番してほしくないことをするのよ」
面倒ね、と頭をガシガシとかいた巫女は、ちらりと目だけでこちらを見た。飛びながら、器用に左手を動かし、お祓い棒で私の足付近をつついている。すぱん、と鋭い音が聞こえたかと思えば、きつく縛られていたロープが切れた。風で流され、すぐに見えなくなる。
「なんだ? 逃げていいってことか」
「違うわよ。そんなものなくったって、逃がしはしないもの。レミリアも心配性なんだから」
「どういうことだ」
小さな体を大きくくねらせて、ケラケラと笑う吸血鬼の姿を思い浮かべた。
「レミリアがね、教えてくれたのよ。指名手配犯がうちにいるから、確保してくれって」
「それも運命か」
「違うわよ」
そういえば、結局私の運命を教えてもらえていないことを思い出した。
「運命なんかじゃないわ。レミリアが、時間稼ぎをしておくから、すぐに来てくれって、門番に伝言を頼んで、わざわざ神社まで来させたのよ」
ということは、彼女がいきなり図書館に入ってきたのも、運命について語り出したのも、いきなり戦闘を仕掛けてきたのも、すべては時間稼ぎのためだったということだろうか。だとすれば、回りくどすぎる。
「だったら、図書館の扉を塞ぐなりすればいいじゃねえか」
思わず、思っていることが声に出てしまっていた。
「なんで、いきなり光弾を放ってきたんだよ」
「暇だったんじゃない?」
なるほど、これ以上なくわかりやすい理由だ。暇つぶしに悪人をいたぶる。いかにも、強者が考えそうなことだ。
あの小さな吸血鬼は、本当に運命を操れるのだろうか。ふと、そんなことを思った。私の運命も、彼女に操られているのではないか。下らない。
「あのお子様吸血鬼が、本当に運命を操れるわけないじゃない」
私の考えを読んだわけではないだろうが、巫女はうんざりと言った。
「そうなのか?」
「そりゃそうでしょ。だって、もし本当なら今頃幻想郷は彼女の手の平の上でしょ」
「確かに」
「それっぽいことをいって、誤魔化しているだけよ。結局結果論なんだから」
私だって、レミリアが運命を操れるなんて、信じていなかった。だが、彼女がそんな下らない嘘とも冗談ともつかないことを言うとも思えない。
「今回だって、あなたに何を吹き込んだかは知らないけれど、どうせ適当に事実を伝えて、それっぽく言ってるだけよ。いつもそう」
「あいつ、運命によって私は負けないとか言ってたぞ。勝負は始まる前から決まってるって」
「運命は関係ないわ。門番の使いっ走り根性のおかげよ」
勝負は始まる前から決まっている。確かにその通りだった。あの吸血鬼は初めから巫女に引き渡す気でいたに違いない。だから、私が彼女の意表を突いたことも、下らない殺し合いに負けたことも、どうでもよかったのだ。勝っていると、知っていたのだから。
「ほんと、いけすかねえな」
思わず、声が漏れる。まるで、強者の思い通りに行動をさせられているようで、レミリアの作り出した運命という道筋に従っているようで、気に入らない。もし運命とやらを本当に操ることができるのなら、彼女は弱小妖怪の運命を、幸せになれない私たちの無様な呻きさえ、楽しんでいるのだろうか。
「ほんと、嫌な奴だ」
「あら? 私は結構気に入っているわよ」
「仲がいいんだな」
「さあね」
彼女は否定も肯定もしなかった。だが、妖怪と博霊の巫女との関係は、その程度がいいのかもしれない。
「まあ、あんたよりはましだと思うわ」
「なんでだよ」
「最初に突進をしてくるような奴に、碌な奴はいないでしょ」
「だから言っただろ。それしかできないって」
自由になった足をぶらぶらと振り、その反動で体を上に向けた。澄み切った寒空が視界を覆う。輝針城を出てから、大分時間が経ったようにも、すぐだったようにも感じる。だが、私の体の限界が近いことも確かだった。
「そういえば、一つ聞いた話があるんだけど」
沈黙が気まずかったわけではないだろうが、巫女はいきなりそう切り出した。
「あなた、蕎麦屋になるんだって?」
「はあ?」
「でも、指名手配犯が蕎麦屋をやっても誰も来ないと思うわよ。多分その前に殺されるし」
「まてまてまて」
いきなり突拍子もないことを言い出す彼女に、私は面食らっていた。私が蕎麦屋? 無理だし、やりたくもない。あいつと私は違うんだ。
「それ、どこの情報だよ」
「チルノからさっき聞いたのよ。天邪鬼に会ったっていうから、一応話を聞いたってわけ」
「あいつか」
氷精のことを思い出すと、体が冷たくなっていくような感覚に襲われる。だが、少なくともあいつにも蕎麦屋になるなんて口走ったことはないのは確かだった。
「それで? 本当に蕎麦屋をやるつもりなの?」
「そんなわけないだろ」
口調を直して、私ははっきりと言った。
「死んでもやらねえよ」
そもそも、妖精の言葉を真に受ける方がおかしい。まあ、それと同じくらい天邪鬼の言葉を真に受けるのもおかしいが。
そう、と興味もなさそうに呟いた彼女は、急に速度を落とした。そのせいで、体が前につんのめり、落ちそうになる。急速に流れていた景色も、やっと目に見えるくらいには落ち着いていた。そこで、ようやく今自分がどこにいるのかが分かった。分かってしまった。
視界の奥に、鬱蒼とした森の中に佇む、厳かな建物が見えた。昔、一度だけ来たことがあるそこは、何も変わっていなかった。立派な真っ赤な鳥居も、高そうな木でできた本殿も、鬱陶しいほどに輝く瓦も、何一つ変わっていない。それが、なぜだか腹立たしい。彼は、あんなにも変わり果てたのに、どうしてここは、博麗神社は変わっていないのか。
「神社に私を連れて行って、どうするつもりだ」
「知らないわよ」
「知らないって」
「それを決めるのは私じゃないわ」
じゃあ誰が決めるんだ、そう口にした瞬間、急激に高度が落ちた。最初は、巫女が私を抱え、落下していると思ったが、違った。なんとかして体勢を整えようともがきながら、空を見上げる。そこには手をひらひらと振る巫女の姿があった。放り投げられた、そう分かった瞬間に、ごつんと鈍い音がし、体に衝撃が走る。浮遊感は消え、代わりに冷たい石の感覚が頬を覆った。いきなり人を地面にたたきつけてはいけないと、習わなかったのだろうか。
右手をつき、何とか起き上がる。後ろを向くと、清々しいほどに真っ赤な鳥居が目に入った。紅魔館なんかより、よっぽどきれいな赤色だ。
ふと、昔の記憶がよみがえった。彼と一緒に、ここに来た日のことだ。今の巫女ではなく、一つ前の、先代の巫女の時、私は何人かの人間とここに来た。そして、請願をしたのだ。奥さんを殺した人間をどうにかしてくれ、と。
苦い記憶だ。押しつけようとすればするほど、かえって溢れてくる。喜知田への憎しみが、またぶり返してきた。決死の思いでそれを押さえる。生きていれば、なんとかなる。そう言い聞かせる。
「遅いよ」
鳥居の反対側、本殿の方から、聞き慣れた声が聞こえた。思わず、びくりと体が震える。そうだ。博霊神社には、今こいつがいることを、すっかり忘れていた。逃げようと足を動かそうとするも、なぜだか動かない。こいつと関わってはだめだ。どうせ鬼の世界に封印されるんだから、会っても意味もない。そんなことは分かっていた。水の泡にしてしまう。だが、それでも体は言うことを聞かない。意思に反して、声のした方へと振り返ってしまう。こいつとは縁を切ったじゃないか。もう話すことなんてない。そんなこと、分かっていた。
「待ってたんだからね、正邪」
腕を組み、眉をつり上げた針妙丸は、私を見上げている。
“あなたが今、一番してほしくないことをするのよ”
巫女の言葉を思い出す。なるほど。確かに一番してほしくない。
「今まで何してたのさ」
その場で地団駄を踏みながら、針妙丸は怒鳴った。
「探しても見つからないし!」
「何してたって、逃げてたんですよ、姫様」
「……敬語、やめてよ」
私の言葉を聞いた針妙丸は、わかりやすく頬を引きつらせた。眉を下げ、悲しそうにこちらを見ている。その顔を見ているだけで、なぜか胸が痛くなった。酷い、と言った八橋の言葉が頭に浮かぶ。
「それに、別に逃げなくても」
「指名手配犯は、悪人は逃げることしかできないんです」
「謝ればいいじゃん!」
手をぶんぶんと振り回しているせいで、被った茶碗は既に脱げ落ちていた。
「悪い子は慧音先生に謝れば、いいこになるんだよ」
無邪気にそう笑う彼女に向かい、私は吹き出してしまった。以前言われた言葉にも関わらず、だ。本気で彼女はそう思い込んでいる。指名手配犯も、慧音に謝れば許されるだなんて、都合のいい世の中だったら、私はここまで苦労してきていない。
「無理ですよ、姫様。下克上をした責任は、そこまで軽くないようです」
「だったらさ」
両手をぽんとたたき、すがるようにこちらを見てきた彼女は、声を大きくした。
「赤飯を食べればいいんだよ。責任を取って」
「はい?」
「だって、正邪は晩ご飯までには帰ってくるって言ったじゃん。だから、私と一緒に晩ご飯を食べるの。それでいいじゃん。そうして、ただいまって言えば、それで解決だよ」
「解決じゃないですよ」
あまりに無茶苦茶な論理に、開いた口が塞がらなかった。どうしてそれで解決になるのか、さっぱり分からない。
「ね? いい案でしょ」
「よくないですよ」
「なんでさ」
「もし私が謝ったところで、殺されるのが関の山です」
それに、殺されなかったところで、どうせ鬼の世界に封印されてしまう。
「なら、私も一緒に謝るからさ」
「小人が謝ったところで、誤差ですよ。背も小さいですし」
「関係ないじゃん」
ぷんすかと頭から湯気を出していた針妙丸だったが、私にとてとてと近づいた瞬間、急に真顔になった。ただですら大きいその目をさらに見開き、呆然としている。
「ねえ、正邪」
おそるおそる針妙丸は口を開いた。
「どうして?」
「何がですか?」
「魔力があるの」
「魔力?」
「どうして小槌の魔力が、正邪から感じられるの?」
「え」
「もう、異変は終わったはずなのに」
思わず、たじろいでしまう。なんで、私から魔力が感じられるか。その理由は簡単だ。呪いを、私が受けているから。だが、それを針妙丸に言いたくなかった。決して、心配をかけたくないとか、罪悪感を与えたくないとか、そういうわけではないはずだ。三郎少年に、暗い影を帯びた姿が彼女に重なる。避けなければならない。幸せになる資格を得た彼女に、私が影を落としてはいけない。
「それは、だな」
「それは?」
「それは」
必死に言い訳を考える。だが、何も思いつかない。考えろ。私は天邪鬼だ。何か、何か言うんだ。
「それは、私がまだ下克上を諦めていないからですよ」
「え?」
針妙丸がきょとんとした顔で、首を傾げた。一体何を言い出すのか、と困惑しているのだろう。私も、同じように困惑していた。何を言っているんだ、私は。
「小槌の魔力が纏わり付いた道具を使って、もう一度下克上を起こすんです。ほら、これ見てください」
そう言って、私は鶏ガラ作の、小槌のレプリカを取り出した。そこからは、禍々しいまでの魔力があふれ出て、私へとなだれ込んでいる。
「そ、それは」
「模倣品ですよ。ただ、威力だけなら本物と大差ないでしょう」
針妙丸は、わかりやすく動揺していた。あたふたと落ち着きなく体を動かし、転がっていた自分の茶碗に足をぶつけ、ひっくり返っていた。にやけそうになる頬を必死にきつく閉じる。
「だから、私はどちらにしろ謝りませんよ。私の下克上はこれからです」
「だったら!」
針妙丸は声を張った。相も変わらず、大きな声だ。どこからそんな声が出るのか、本当に不思議だ。
「だったら、私が止めるよ」
「え?」
「ここで正邪を倒して、下克上を止めるよ」
どうしておまえに負けたら、私が下克上を止めると思っているのか、そもそも逃げられるという発想はないのか、言いたいことは無数にあった。だが、どこか生き生きとしている彼女を見ると、言葉が出てこない。口だけがパクパクと動く。
「私にはね、夢があるんだ」
どこか懐かしむように、彼女は言った。
「私の夢は悪者を倒すかっこいいお姫様になることなんだ」
「そうですか」
「だから、正邪を倒して、夢を叶えるよ! そうしたら、従者にしてあげるからね」
私はその、あり得ない世界に思いをはせた。自分勝手にはしゃぐ針妙丸に、私がいやいやついて行く、そんな世界だ。面倒くさくて、疲れて、うっとうしいことこの上ない。きっと、私は年がら年中愚痴を言いまくっているだろう。だが、なぜだろうか。そんな世界に私は憧れた。けれど、それは叶いようもない夢だ。期待だ。持ってはいけない。よしんば私がやり直せたとしても、絶対にその未来は訪れない。私は彼女と関わってはいけなかった。遠くで見守るだけでよかったのだ。ああ神様。もしもう一度やり直せるならば、なんて。糞みたいな発想すら浮かぶ。きっと、あの世の彼に、嘲笑されてしまうだろう。
「だから、大人しく捕まってね!」
そう針を構えた針妙丸から、私は顔を背けた。涙を拭い、それを誤魔化すように懐をいじる。小槌をしまい、代わりにカメラを取り出した。こんなもので、どうしたらいいのか分からないが、構える。いつの間にかシャッターを切っていたが、彼女は気づいていないようだった。
「なら、いくよ!」
突っ込んでくる彼女に向かい、私は舌を出した。
「最初に突進をする奴に、碌な奴はいませんよ」
「なんだか、懐かしいね」
小さな体を滑るようにして投げ出し、私へと突っ込みながら、針妙丸は笑った。
「輝針城での時を思い出すよ」
「いや、思い出さないですよ」
思い出していた。体が大きくなったからか、やたらと取っ組み合いをしたがる彼女に翻弄されていたときのことが、鮮明に頭に描かれている。
あの時、すでに私は決めていたはずだ。鬼の世界に行くことを。こいつと縁を切ることを。小魚たちともう関わらないことを、決めていたはずだ。それなのに、こうして会ってしまっている。自分の心の弱さに嫌気がさした。さっき、あれほど人里で水の泡になってしまうと、そう悲観したばかりではないか。私と関わると、碌な目に遭わない。まして、どうせ封印されるのだから、なおさらだ。
「だから、もう関わらないでください」
私はできるだけ感情を込めずに、そういった。
「鬱陶しいんですよ」
「酷いなぁ」
そういう割に、彼女はなぜか嬉しそうだった。
「でも、それでこそ正邪だよ」
「は?」
「天邪鬼は、嘘しか言わないって霊夢が言ってたもん」
「私が言うことは嘘だとは思わないって、言ってたじゃないですか」
「言ってない!」
声高々に叫びながら、私の腰めがけ、飛び込んでくる。体をひねり、軽々とかわす。
「もういい加減諦めなよ。下克上は無理だよ」
「大丈夫です。これからですよ、本当の下克上は。いつだって幻想郷中の妖怪を支配下におけますよ」
「無理でしょ」
その通り。無理だ。なんだ、意外に賢いじゃないか。そう言いたかった。だが、口をつぐむ。つい、普通に話し込みそうになってしまう。自分の弱い心をたたき直す。私はこいつと縁を切らなければならない。彼の言うとおりだ。そもそも関わるんじゃなかった。どこか違う立ち位置で、彼女の成長を見守るべきだったんだ。関わってしまったがばかりに、こいつは。
「でも、どちらにしろ、姫様では私には適いませんよ」
「なんでそう決めつけるのさ」
「蛙の子は蛙って言うじゃないですか」
「それがどうしたの?」
「父親ですら私に適わなかったのに、まして姫様なんて」
針妙丸の顔つきが変わった。いきなり立ち止まり、不自然な格好で足下を見下ろしている。憂を帯びたその顔は、どことなく彼に似ていた。
「そんなの、どうでもいいよ」
「え?」
「正邪がお父さんを殺したとしても、正邪は正邪だもん。何も変わらないよ」
「いや、変わりますよ」
「どうせ、何か理由があったんでしょ?」
「何かって」
「例えば、お父さんに殺してくれ、と頼まれた、とか」
なんで、と私は口走っていた。なんで知っているんだ。
「とにかく、私は正邪にもう怒ってないんだよ。だから、下克上なんてやめて、一緒に謝ろう。そしたら、許してくれるよ」
じりじりと私を距離を詰めながら、彼女はにこやかに言った。右手に持ったカメラがカタカタと音を立てる。手が震えていた。こいつは私を。親父を殺した私を許すと言ったのか。馬鹿だ。糞みたいに間抜けだ。それは絶対に許してはいけない。私だって許さない。なのに、どうして。
「だって、正邪は我らが生まれながらの“チーム天邪鬼”のリーダーなんだから」
彼女が、性懲りもなく私に飛び込んでくる。先ほどと同じように、体を動かそうとするが、できなかった。足がまるで鉄のように動かない。焦りながら自分の足を見ると、後ろの地面が透けて見えていた。例の布を被ったわけではない。なのに、なぜか色が透けている。つまり、そういうことだろう。時間が来た。終わりの時間だ。
小さな彼女の体当たりをかわすことができなかった私は、そのまま押し倒されるように横になった。腹の上にちょこんと座った彼女は、やったー、と喜んでいる。彼女の顔を見て、そして空を見上げる。相も変わらずムカツクほどの寒空だ。だが、なぜか今はそれを見ていると、晴れやかな気分になっていった。
「これで、下克上は止めてくれるよね。正邪」
正邪、目の前の小さな少女がくれた大切な名前。捨てよう捨てようと思いながらも、そのたびに何かと理由をつけて、なあなあにしてきた。もう、いいか。そう思った。もうここまで来たなら、今更どうこうしないだろう。
「降伏してくれるよね」
「お言葉ですが」
私は腹にためていた息を大きく吐いた。もう、小さな針妙丸を押しのけて立ち上がるほどの気力も残っていない。それでも声を振り絞り、叫んだ。
「やなこった! 誰が降伏するもんか」
一寸法師。小人が鬼を倒すなんて、荒唐無稽で、現実離れしたお話。私はこの話が好きだ。彼女の夢は、おそらくこの話から来ているのだろう。勇敢で小さな勇者が、悪い鬼を倒す。これにてハッピーエンド。その鬼の顛末なんて、書かれていない。だから、これでいいのだ。私と針妙丸の話はこれで。
「どんな奴に命を狙われようと、地獄のような環境で過ごそうと、私は死なねえよ」
「正邪、口調が……!」
「なんていったってな」
目の前で笑みを浮かべている針妙丸に笑いかけた。来世は、こいつをどこか遠くで見守ることができますように、そう願う。
「なんていったって、我が名は正邪!」
目を細め、暖かい笑みを浮かべている針妙丸を見ていると、自然と右手に力が入った。パシャリとカメラから音が聞こえる。
「生まれ持っての“天邪鬼”だ!」
視界がきゅっと狭まっていく。 正邪! と嬉しそうな声で叫ぶ針妙丸の声が、だんだんと遠くなっていった。
私の体は、どういうわけか、地面に落ちていた。まるで地面に裂け目が生まれたかのように、ゆっくりと落下している。私の上に乗っていた針妙丸は、驚き、飛び退いていた。私に手を伸ばし、引き上げようとしている。だが、私はその手をはたいた。
地面に裂け目が生まれたよう、といっていたが、それは例えではなく、本当に裂け目が生まれていた。八雲紫のスキマだ。ぐるりと見渡すと、薄気味悪い空間に覆われていることが分かる。針妙丸の姿はもう見えなかった。
ああ、最後に針妙丸の顔が見られてよかった。もう二度と会うことはない。正真正銘の最後。だが、これでいい。鬼を倒して幸せになる一寸法師。私たちの話は、これにて完結だ。
夕飯食えなくて、すまない。そう呟いた私の声は、きっと彼女には届いていないだろう。