「いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたいかしら」
いきなり現れた妖怪の賢者は、これまたいきなりそんなことを言いだした。
針妙丸に負け、そのままスキマに落とされた私は、いつの間にか地面に横たわっていた。地面、といったものの、それが本当に地面かどうかは分からない。全身の感覚が、もはや失われていた。首は鉛のように重く、禄に視線を動かせない。風の音は聞こえ、青い空が見える。だが、それ以外はほとんど分からなかった。分かることと言えば、八雲紫の胡散臭さくらいだ。
「大丈夫かしら」
そんな、今にも封印されそうな私に向かい、八雲紫は楽しそうに声をかけてきた。
「もしかして、もう喋る元気もないの?」
「天邪鬼が喋れなくなるのは、死ぬときだけだ」
私の頭の近くへと近づいてきた彼女は、顔を寄せてきた。眉が下がり、口元は緩んでいる。何を考えているか分からない顔だ。だが、漏れ出る吐息はどこかか細いような気がした。
「それで? 針妙丸に負けた哀れな私なんかを、どうして連れ出したんだ。まさか、最後を看取ってあげる、なんて傲慢なこと言うわけじゃないよな」
「その、まさかよ」
得意げに鼻を鳴らした彼女は、扇子を開き、口元へと持っていった。
「次に会うときは、お別れの時って言ったじゃない」
「覚えてねえよ」
「まあ、いいわ。それで? あなたはどうするの」
「どうするって」
「いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたいかしら」
魅力的な笑みでそう呟く彼女の声は、どこか靄がかかっている。眼球に傷がついたかのように視界もぼやけてきた。もしかすると、このまま段々と感覚を失っていき、何も感じられなくなるのだろうか。鬼の世界には何もない。鶏ガラの言葉が繰り返し聞こえてくる。
ふと、蕎麦屋の親父のことを思い出した。きっと、彼も今のような感覚だったに違いない。だが、彼は。少しずつ体が錆びていった彼は、そんな状態でも暢気に笑っていた。だったら、私も負けるわけにはいかない。
「なら、いいニュースから教えろよ」口角を上げ、腹から声を出したつもりだったが、出た声は小さい。
「もういなくなる奴にとって、いいニュースなんてあるわけないがな」
私の返事を聞き、にんまりと目を細めた八雲紫は、ぴんと人差し指を立てた。
「なら、悪いニュースから話すわ」
「は?」
「言ったじゃない。弱小妖怪に選択肢なんてないって」
なら訊くなよ、と呟いた私の声に、八雲紫はまた、くすくすと笑った。同じ手に引っかかった私を見て、愚かだと思っているのだろうか。
「悪いニュースってのはね、あなたが鬼の世界に封印されるまで、あと5分も残されていないってことよ」
「そうか」
「あら? 案外驚かないのね」
思わず、苦笑してしまう。いま、私の体がどうなっているか分からない。ただ、足が透けていたように、段々と全身が消え去っていくのだ、と予想はできた。むしろ、この状態でしばらく放置されても、困る。
「さっき、次に会うのはお別れの時って、言ってたじゃねえか」
「そうだったかしら?」
「そうだ。まさか妖怪の賢者様に看取ってもらえるとはな。気色悪いにもほどがある」
舌を出そうとしたが、うまくいかなかった。顔の感覚すらなくなってきている。真っ青な空が見えることを確認し、少し胸をなで下ろした。最後に見る青空だろう。
「今、私の体はどのくらい残っているんだ」
そう訊くと、八雲紫はぴくりとその眉を上げた。
「へえ。自分の体が消えかかっていることに気がついていたのね」
「いいから、教えろ」
「いやよ」
彼女の姿が視界から消えた。かと思えば、私と向かい合うようにふわりと宙に浮かんでいる。髪が垂れ、鼻先をくすぐった。
「代わりに、いいニュースを教えるわね」
「嬉しくねえな」
「実を言うとね、あなたは生き残れないと思っていたのよ」
「私は死なねえよ」
「よく言うわよ。あんなに死にたがっていたのに」
烏のムカツク笑みが、脳裏に浮かんだ。そうだ。私は死なない。たとえ鬼の世界に封印されても、誰が死んでやるものか。
「それでね。折角生き残ったのだから、一つぐらい、願いを聞いてあげようと思って」
「え?」
「無償で支援してあげると、言っているのよ」
自分の喉から、カラカラと不気味な声が響いた。笑おうとするも、その元気すらなく、ただ空気が喉を擦る音だけが響く。
「いらねえ」
「いいじゃない。無償で支援を貰えるなんて、弱者の特権よ」
「今更支援されてもな」
あまりにも遅すぎる。今更なにかをして貰っても、意味がない。鬼の世界へ土産でも持っていけばいいのだろうか。
耳元で、一際大きな風の音が聞こえた。ゆっくりと世界が右に流れ、ずれていく。真っ青な空が傾いていき、視界の端へと消えていった。まるで、世界が私を中心に動いているかのようだ。だが、実際は私の体が風に流され、こてんと横へと傾いただけだった。視界の半分が地面に覆われ、自分の手が見える。左手だ。いつの間にか布は解けていた。いや、見えた、というのは間違いかもしれない。もはやそれは、手だとは分からないほどに透けて、地面と同化していた。分かっていたはずなのに、恐怖に身体が固まる。
だが、その恐怖をかき消すほどの衝撃が、私の頭に流れ込んでくる。身体が横を向いたことで、ようやくここがどこだか分かった。
辺りに目ぼしいものはほとんどなかった。乾いた地面と、ボロボロの木々。ただそれだけだ。それだけなのに、頭が真っ白になった。その、真っ黒に炭化した木を真っすぐに見つめる。風でぽろぽろと剥がれ落ちていく表皮が、彼の錆びた肌に重なった。もはや、そこに蕎麦屋があったことなんて、誰も分からないだろう。
「あなたの最後には、相応しい場所だとは思わないかしら」
頭上から、八雲紫の声が聞こえた。狼狽え、その場を駆けだしたくなる。しかし、身体はピクリともしない。どうして私と彼のことを知っているのか。それだけは誰にも言わないと決めていたのに。腹が立った。だが、それよりも。爆発した建物、ということすら分からないほどに風化し、ただの木のたまり場となった蕎麦屋の跡地を見て、泣きだしそうになる。これでは、誰も分からないではないか。あの捻くれた蕎麦屋の親父がいたことなんて。あそこで、人気がない蕎麦屋がひっそりと佇んでいたことなんて、私がいなくなれば、封印されれば、知っている奴なんて、いなくなってしまうではないか。そんなの、私の知ったことでは無いのに、どういう訳か胸が締め付けられ、息が詰まった。
「おい八雲紫」
「なにかしら」
「一つ、願いがある」
顔は見えなかったが、八雲紫は口を三日月のように開いているに違いない。すぅと息をのむ音が聞こえてきた。
「いいでしょう。何でも言いなさいな」
「なおしてほしいんだ」
自分の発した声なのに、とてもそうとは思えなかった。
「なおすって、何をかしら」
「蕎麦屋だよ」
音が消えた。ついに、耳も聞こえなくなってしまったのか、とまたしても恐怖がぶり返しきたが、違った。単純に、八雲紫が黙り込んだだけの様で、ひゅうと風が空気を切る音が耳に響く。
「あっただろ、目の前に。あの蕎麦屋を建て直してほしい。かつてあったようにな」
私の声が上手く聞き取れなかったのかと思い、力を振り絞り、もう一度言った。だが、それでも八雲紫は返事をしない。もしかして、もう去ってしまったのだろうか。弱小妖怪が僅かな希望に縋る様を見て、満足して帰ってしまったのだろうか。そう思った時に、すぐ真上から八雲紫の声がいきなり聞こえてきた。驚き、そちらへ振り向こうとするも、もはや視線を動かすことすら出来ない。
「驚いたわ」
短くそう言う彼女の声は、酷く暗かった。
「まさか、最後にそんなことを願うなんてね」
「そんなことってなんだよ。弱小妖怪からすればな、お前らにとって息を吐くようにできることも、一生費やしてもできねえんだよ」
「これから息を吐くことさえ困難なあなたに言われると、説得力が凄いわね」
そうじゃなくてね、と言い訳するように早口で言った妖怪の賢者は、大きく息を吐いた。
「私の予想した願いと違ったから、驚いたのよ。まったく。予想を外したのはこれで二回目ね」
「二度あることは三度ある」
「言われなくても分かってるわよ」
話しているうちに落ち着いてきたのか、彼女の口調はいつも通りに戻っていた。それか、単純に私の聴力が落ち、聞き分けられなくなっているのか、どちらかだ。
「私はね、あなたが助けてくれ、と言うと思ったのよ」
「は?」
「封印されたくない。助けてくれってね」
ふっと、目の前に暗幕を垂らされたかのように視界が失われた。目を開いているはずなのに、瞼の裏を見ているような気分だ。何も見えない。何も分からない。
「助けてくれ、か」
私はそう口にしたのだが、実際に声に出ているかどうかは分からなかった。終わる。分かるのは、それだけだ。
お前は人間よりも人間らしい。蕎麦屋の親父の言葉が急に脳裏をよぎった。今なら、はっきりといえる。そんなことはない。私は人間なんかより、よっぽど臆病で、惨めで、卑しくて、愚かな妖怪だ。愚鈍で救いようがない。だから、救われなかったのだ。身から出た錆だ。
私がいなくなったら、針妙丸は悲しむだろうか。それが、唯一の気がかりだった。そして、それを気がかりだと思っている自分自身にため息が漏れる。人のことを心配しても、碌なことはないと知っているのに、それでも気にせずにはいられない。
悲しませまいと、縁を切ろうとしたものの、結局あいつは、それを許してはくれなかった。あいつは強い。私なんかより、よっぽど強い。それこそ、人間のように。なら、きっと大丈夫だ。懺悔するように、そう自分に言い聞かせる。
どうして八雲紫が、いきなり願いを一つ叶えてくれる、だなんて言い出したのか、そこでようやく分かった。彼女は期待していたのだ。私が助けを求めることを。期待なんて、持ってはいけないのに。どうして彼女が私にここまで肩入れするかは分からない。だが、彼女は、私が助けを求めれば、封印されたくないと言えば、もしかしたら助けるつもりだったのかもしれない。だったら、何も言わずに助けてくれればいいものを。やっぱり、妖怪の賢者は素直じゃない。
「なら、優しい妖怪の賢者さんよ」
きちんと声が出ているのか。それすら分からなかったが、私は言葉を続けた。
「助けてくれ」
意識がすっと引いていく。写真がコマ送りで高速で流れていくように、懐かしい場面が頭に浮かんだ。蕎麦屋、寺子屋、紅魔館、輝針城。そのどれもが糞みたいな記憶しかない。それでも私は満足だった。私は死ぬわけではない。生きていればなんとかなる。溢れ出る恐怖を誤魔化すように、そう呟く。
「残念だけど」
遠のいていく意識の中、八雲紫の悲しげな声が聞こえた気がした。
「時間切れよ」
強い風が私の髪を掻き上げ、そこでようやく、ぼうっと突っ立っていたことに気がついた。軽く首を振り、意識を整える。妖怪の賢者とは思えない醜態だ。
「残念ね」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと声が漏れた。
「本当に残念ね」
どうして自分がここまで残念に思っているのか、分からない。それでも、何かに失敗してしまったかのような、そんな虚無感に襲われていた。
足を一歩進ませ、先ほどまで弱小妖怪が寝転んでいた地面を踏みつける。何の抵抗もなく、すとんと地面に足がついた。当然だ。そこには地面しかないのだから。彼女は、鬼人正邪は、もう鬼の世界へと封印されてしまった。彼女がいなくなったところで、何の問題もない。弱小妖怪が一匹死のうが封印されようが、私の世界に狂いは生じない。
「けれど」
私は試しに、スキマを開いてみた。特に意味があったわけではない。何となく、鬼の世界へと続くスキマが開けるか、気になったのだ。妖力もほとんど使っていない。当然のように何も起きなかった。失望は無い。そんなこと、分かりきっていたからだ。
何かないか。彼女を救う手段は、他に何かないだろうか。どういう訳か、そんなことを考えていた。
頭を振り、すぐにその考えを打ち切る。たかだか弱小妖怪一匹に、そこまでしてやる義理も時間も執着もなかった。
「ああ、そういえば」
諦めて、踵を返そうとした時に、彼女と交わした言葉を思い出した。輝針城で彼女に言い残した、条件ともとれない約束だ。
「次に会った奴に、あなたが悪人かどうか聞いてみなさい。それで、もし違うと言われたならば、助けてやってもいいわよ」
気まぐれで、彼女に伝えた無理難題。結局、彼女が悪人ではないと、否定する存在は現れなかった。当然だ。天邪鬼は悪い奴。それは、もはや揺るがしようのない真実なのだから。
なぜそんな言葉を今になって思い出したのか分からない。けれど、思い出したからには、何か意味があるのではないだろうか。気まぐれには意味がある。どこかで聞いた言葉が頭に響いた。
そう考えていると、視界の端から一人の人間がこちらに歩いてくるのが見えた。こんな人里の端にたった一人で来るなんて、度胸があるのか馬鹿なのか。
この人間に聞こう。それで駄目だったら、それまでだ。これは単なる余興。消え行った弱小妖怪を使った暇つぶし。そう自分を納得させ、人間へと近づいていく。
私に気がついた人間は、哀れなほどに動揺していた。声にもならないような悲鳴をあげ、その場に尻餅をついている。典型的な人里の人間だ。他の人間の意見に流されやすく、どこか暗い影を帯びている凡庸。これは駄目ね、と内心でため息を吐く。
「ねえ、あなたに質問があるのだけれど」
無様に地面に這いつくばっている人間に、私はゆっくりと声をかけた。そのまま逃げてしまわれては、興醒めもいいところだ。
「な、なんですか」
のっそりと立ち上がりながら、人間はこちらを見た。しゃがみ込み、目線を合わせる。身体も細く、華奢だ。
「鬼人正邪って知っているかしら?」
「は、はい」
「彼女についてなのだけれど」
私は大きく息を吸い、雑念を消した。迷ったらやれ、そんな言葉が思い起こされる。
「彼女は悪人だと思うかしら」
返事はない。人間は黙りこくっていた。訝しみ、目を向ける。その人間は、どういう訳か少し笑っていた。あれだけなよなよしく、情けない態度だったにもかかわらず、いつの間にか筋の通った、光ある目でこちらを見てくる。その目には見覚えがあった。昔、どこかで見たことのある目だ。だが、それ以上は思い出せなかった。
その人間は、ゆっくりと首を振り、口を開いた。身体を少し揺さぶり、息を肺にためている。表情に、先ほどまでの怯えは無かった。
「悪人じゃ、ないです」
「え?」
「悪いのは」
勢いよく顔を上げた人間の顔は勇ましかった。この妖怪の賢者である私ですら感心するほどに、真っ直ぐで純粋だ。最初に浮かんでいた黒い影はいつの間にか消え去っている。人間が胸に掲げていた一文が風に揺られ、ちりんと音を立てた。
「悪いのは喜知田」
微笑みを浮かべながら、人間はそう言った。私も、思わず笑みを浮かべてしまう。助けてくれ。そう最後に言い残した彼女は、なぜかこの人間と同じような微笑みを浮かべていた。憎たらしい笑みだ。だが、なぜだろうか。私はその笑みが嫌いではなかった。
「悪いのは喜知田」
一度、口の中で呟いてみる。頭に浮かんでいた迷いが、吹っ切れたような気がした。
「ああ、いい言葉ね」