天邪鬼の下克上   作:ptagoon

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天罰と私刑

 行きつけの蕎麦屋の親父に、天罰ってあると思うか? と言われたことがある。

「俺はな、そんな便利なものは無いと思うんだ」

「いきなり何だよ」

 

 相も変わらず寂れた店内には、布団からのそりと起き上がった老人と、湯気をあげている蕎麦だけがあった。正直、目の前の蕎麦を作れるほど、彼に元気があるとは思えないが、不思議と彼ならば何時でも作れるだろうという確信もあった。もしかすると、彼は死んでからも蕎麦をうてるかもしれない。

 

「よくよく考えてもみろ、悪人全員に天罰が下るんだったら」

「下るんだったら?」

「人間なんていなくなっちまう」彼はカラカラと楽しそうに笑って、棒読みでこう続けた。

「生態系が崩れてしまいます」

 

 どうしてこうも性根が腐ったやつがこんなに上手い蕎麦を作れるのか、甚だ不思議だ。天邪鬼の私から見ても精神がねじ曲がっている。つまりは他の人間からすれば、心がおかしい、変人と見られてもおかしくない。こんなに美味な蕎麦をうつのに、人が来ないのはそういう事だろう。

 

「もし本当に天罰があるならお前はもう死んでいるよ」

「どうして?」彼は子供のように首を傾げた。

「私に嘘をついていた」

「また不倫の話か」

 尻すぼみに呟いた彼の顔を見て、私は声をあげて笑った。

「まぁ、私のような悪人も死んでいるだろうがな」

「いや」湯呑に手を伸ばしながら、彼は小さく首を振った。

「お前は死なんだろう」

「おいおい、冗談じゃない。冗談は女癖の悪さだけにしろ。そんなんじゃ、奥さんに愛想を尽かされるぞ」

「冗談じゃない」

 

 それは、私が天罰を受けて死ぬことについて言ったのか、それとも奥さんに愛想を尽かされることについて言ったのか、分からなかった。が、机の端に飾ってある一枚の写真を見て、小さく微笑んでいる彼を見ると、きっと愛想を尽かされる可能性なんて考えたことが無いんだろう。

 

「なんで、あんなに出来た女がお前みたいなのと結婚したのだろうか」

 神は二物を与えないというが、彼女が与えられなかったのは男を見る目だろう。なんと残酷な事か。

「選択を誤ったとしか思えない」

「そりゃぁ当然」彼は痩せこけて、黒くなっている頬を緩ませた。

「俺がそれに見合う男だったからだろう」

「冗談じゃない」

 

 私とは丁度一番遠い所に置かれた写真を見る。その写真は全体的に薄くぼやけていて、中心も彼女からずれている。お世辞にも上手く撮れているとは言えなかった。だが、そんな些細なことを吹き飛ばすほどに、映る女性は綺麗だ。後ろに束ねられた黒い髪は美しく、薄く微笑む姿は絵画の様でもある。

 

「きれいに撮れているだろ」

 自慢げに鼻を鳴らした彼は、親指を自分に向けた。

「俺が撮ったんだ」

「下手すぎる」

 

 この前、知り合いの烏に見せてもらった写真を思い出した。人里の守護者と、村人が笑顔で映っている写真だ。その時には、下手だ、構図が悪い、と馬鹿にしたが、こうして比べると、やはり上手かったのだなと感じる。絶対に口には出さないが。

 

「ふん、自分でやったことのない奴はすぐに文句を言う」右腕を摩りながら、彼はそう呟いた。

「意外と難しいもんだぞ」

「素直に他の奴に任せれば良かったんだよ。烏とか」

「分かってないな」

「何がだよ」得意げに笑った彼のせいで、自然と声が低くなる。

「こういうのは自分でやる事に価値がある」

「はっ」

 

 今ではお茶を飲むことも一人じゃ満足に出来ない癖に。一体何様のつもりだろうか。

 

「いいか、人ってのは本当に必要なときは自分で行動しないといけないんだ」

「私は人じゃない。妖怪だ」彼を睨みながら、語気を強めた。

「前にも言ったろ。お前は妖怪だが、人間よりも人間らしい」

 

 記憶の奥を辿るも、そんな事を言われたような覚えはない。正確には、言われたような気がしないでもないが、彼の戯言をすべて覚えているはずもなかった。

 

「だからな、お前もいざという時には人に頼るんじゃねぇぞ。自分で何とかするんだ」

「写真を撮るときとか?」

「そうだ」

 

 神妙な顔つきで頷いた彼を見つめる。目の上には、昨日まで目立っていた白い眉毛の代わりに、赤黒いかさぶたがへばり付いている。彼が身動きするたびに、ぽろぽろと皮膚が剥がれ落ちた。

 

「それと、だな」

 のどに詰まった餅を吐き出すようにして、彼は口を開いた。

 

 彼の後ろの、古い置時計がカチリと音を立てる。黄色の塗装が所々はがれたそれは、持ち主の爺と同じように、いつ止まってしまってもおかしくない。そのくらい、年季が入っている。その時計が小さくボーンと音を立てた。低い鐘の音で、午後六時を知らせた。

 

「人に頼るのも当然駄目だが、神様なんてもっと駄目だ。いいか、覚えておけよ。神は何もしてくれないんだ。期待するな。自分でやれ」

「そりゃあ神は写真を撮ってくれないだろ」突然出てきた“神”という言葉に面食らったが、この頑固な親父がそういう類のものを毛嫌いしていたとしても不思議では無かった。むしろ、妖怪と神なんてどっちも似たようなもんだろ、とも言い出しかねない。

「そりゃ、そうだが。そうじゃなくてだな」

 

 彼は目を細めて、人差し指で頬をかいた。その度にボロボロと零れ落ちる皮膚から目を逸らし、目の前の蕎麦を注視する。つゆを飲もうと思ったが、中に浮かんでいる天かすが、剥がれ落ちた皮膚のように見えたので、止めた。

 

「神に祈って何かをするより、自分で行動する方が安全で確実という事だ」

「例えば?」

 

 きっと、上手い蕎麦を作るとかだろうな、と私は考えていた。もしくは不老不死、大穴で奥さんを生き返らせることだろうと思っていた。いや、高を括っていたといってもいい。

 

「例えば」彼はゆっくりと口を開き、私を真っすぐと見つめた。後悔と絶望が入り混じって、酷く澱んでいる。嫌な予感がした。彼の言葉を聞いてはいけないのではないか、という予感だ。急いで口を挟もうとしたが、それよりも早く彼は言葉を紡いでしまった。

 

「例えば、天罰とか、だ」

 

 

 

 

 

 彼が死亡するのは、これから一日後のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めると、見知った少女が自分の布団で眠っていた。

 

 広い部屋には似合わない、小さな煎餅布団だ。所々黄ばんでおり、大きな穴からは綿が溢れ出ている。だが、そんな小さくみすぼらしい布団にも関わらず、決して窮屈では無かった。二人が入っているにも関わらず、だ。理由は簡単。隣で寝ている少女が圧倒的に小さいからだ。

 

 昨日甘味屋から出た後、私は真っすぐにここへと向かった。別に、ここに用事があったわけではない。こんな人里の外れにある、しかも無人のボロ屋に用がある方がおかしい。

 

 あれから、甘味屋の子供から一文を取り返してから、しばらくの間は烏に馬鹿にされ続けていた。耳元でカーッカーッと鳴かれるのは中々に鬱陶しかったが、そこまでの苦痛では無かった。そもそも烏は何をしても鬱陶しいし、鬱陶しいのには慣れている。だが、問題だったのはもう一人の方だ。もう一人の、説教くさい先生の方だ。私を寺子屋の生徒だと勘違いしているのだろうか。だとすれば、一回眼科にでも行ってきた方がいい。私はこう見えてお前よりも年上なんだぞ。あまりに長く説教を垂れ流してきたので、こう言葉を投げつけようとして、実際にそうしたのだが、結果的には説教が長引いただけだった。

 

 延々と続く、ありがたく耐えがたき説教に痺れを切らした私は、逃げるようにしてこの家へと帰ってきた。流石の慧音もここまで来るほど暇じゃないらしく、その時にゆっくりと烏の新聞を読むことが出来た。だが、期待したような内容は大してなく、男がいかに悪人で、妖怪の賢者に殺されるに足る人物かについて書かれているだけだった。それこそ、最愛の妻を殺すような奴だと。こんな記事しか書けないから、大会でも優勝できないんだ。こんなデマばかりの新聞だから、お前の新聞は台拭きに使われるんだと、一人部屋の中で喚いた。喚いているうちに、いつの間にか寝てしまった。

 

「目が覚めたか」

 

 便所の方から声が聞こえた。隣で寝ている針妙丸を引き剥がしながら、身体を起こす。小さく体を伸ばすと、ポキリと音が鳴り、鈍い痛みが腰に走った。少し寝すぎたかもしれない。

 

「良く寝ていたな。もうそろそろ昼時だぞ」

 長い銀髪を棚引かせながら、侵入者はのうのうと言った。

「何でお前がここにいる、慧音。不法侵入だ」

「あなたの家でも無いだろうに」懐からおにぎりを取り出し、私に放り投げながら、近くの椅子に深々と座り込んだ。しばらく居座る気満々だ。

「ちょっと、花を摘ませてもらったよ」

「花?」

 

 私は辺りを見渡したが、どこにも花なんて見当たらない。あるのは精々、時計と、写真と、布団くらいだ。

 

「花なんてないぞ」

「わざと言っているのか?」慧音は大きくため息を吐いた。

「花を摘むって言うのは、隠語だよ。意味は“用を足す”」

 少し頬を赤らめて、慧音は話した。どうして恥ずかしがる必要があるのか、私には理解できない。

「他にも“鷹を狩る”ってのも同じ意味だ」

「随分と格好がいいんだな」

「そうか?」

「どちらかと言えば、“鷹を狩る”ってのはもっと凄い意味で使われそうじゃないか」

「例えば?」慧音が楽しそうに、言葉を挟んだ。

「例えば、人殺しとか」

「そんな物騒な隠語なんて、使う時が無いだろう」

 

 馬鹿にするように小さく笑った慧音に、少し怒りがわいた。そもそも、人の家に勝手に来ておいて、いきなり便所から出てくるのは、かなり失礼に値するのではないだろうか。

 

「それで、何の用で来たんだよ」

 くだらない用事だったらただじゃおかないぞ、と目で訴える。

「どうして来たかといえば、昨日の続きだ」

「昨日の続き?」

「昨日の説教の続きだよ」

「おいおい嘘だろ。どれだけ暇なんだお前は」

 地獄の閻魔様もびっくりの説教狂いだ。そんなに説教が好きなら仏にでもなればいいのに。仏ほど堪忍袋は丈夫では無かったが。

 

「人を暇人みたいにいうな。私はこう見えて色々忙しいんだ。それに、今回説教をするのは私ではない」呆れているのか、小さく息を漏らした。

「お前じゃない? 私なんかに説教をしに来る酔狂な奴はお前以外、もう知らんぞ。そもそも、人に説教をしに家を訪ねるような奴が、沢山いてもらったら困る」

「別に困りはしないだろう」

「困る。生態系が崩れてしまいます」

 

 何を馬鹿な事を、と呟いた慧音は机の上に新聞を広げた。いつの間にか手に持っていた、大きな新聞だ。すると彼女はそれに目を落とし、口元に手を当て、しばらく動かなくなった。穴が空くように見つめ、呼吸を忘れてしまったかのように、意識を集中していた。

 

「何を見ているんだ」

 彼女は反応しなかった。何を思案しているのか、黙ったきりだ。

 

 私は仕方がなく、椅子に背をつけ、室内を見やる。玄関の反対側、布団ですやすやと眠っている針妙丸の近くの、大きな古びた時計が目に入った。相も変わらずボロボロで、黄色い斑点模様も少し大きくなっている。針は六と十二をまっすぐに指していた。

 

「大丈夫そうだ」慧音がぼそっと言った。

「大丈夫って、何が」

「この新聞だよ」皺を伸ばすように、大きく撫でながら彼女は満足そうに頷いた。

「内容と歴史に矛盾があっては困るからね」

 

 私には、彼女のこぼした言葉の意味が当然ながら分からない。が、彼女の話は何度聞いても分からないので、聞きなおすことはしなかった。それよりも気になったのは、その新聞に“文文。新聞”と妙に達筆な字が書かれていたことだ。

 

「おい慧音。その新聞、見せろ」

「なんだ、もしかして本当に新聞が大好きなのか。射命丸が言っていたように」余計な事を告げ口した烏の生意気な顔を思い出し、小さく舌打ちをする。

「違う。その糞烏の書いた新聞ってのが問題なんだよ」

「射命丸が大好きなのか?」

「違う!」

 

 あまりに腹立たしい問いかけに、自然に語尾が強くなってしまう。大きな声は空気を震わせ、立て付けの悪い扉をカタカタと鳴らし、机の上の新聞を捲り上げ、布団で寝ている小人の睡魔を吹き飛ばした。

 

 むぅ、と猫のような声を出した小人は、ゆっくりと上体を起こした。が、思ったよりも布団が重かったのだろう、ふぎゅぃと声にもならない声を発して、もう一度布団に倒れ込んだ。目をぱちくりさせ、自分の家の布団では無い事を思い出したのか、辺りをきょろきょろと見渡している。私たちの方を目にし、ようやく事態を認識したのか、小さく息を吐いた。が、すぐに顔が赤くなっていき、身体を小さく震わせ始める。

 

 いつの間にか、私の頬は緩んでいた。あまりの滑稽さに、愚かさに、体中に歓びが満ち満ちていく。決して針妙丸の様子が、可愛いと思ったとか、そういう訳では無い。

 

「あれだな、何でこういう時に烏はいないんだろうか。っふふ、こんなに笑えるのに」

「まぁ気持ちは分かるが。……そんなに笑ってやるな」不格好に、片方の頬を引きつらせながら言われても、説得力がない。そこまで笑いを我慢するなら、慧音も笑ってしまえばいいのに。

「おいチビ。喜べ。お前は“人に馬鹿にされる程度の能力”を持っているみたいだ。良かったな」

「良くない!」

 

 身体を起こした針妙丸は、布団の上で地団太を踏みながら、叫んだ。ぽすん、ぽすんと彼女が足を動かすたびに、布団がへこむ。その度に、体勢を崩しそうになり、あわあわと両手を振り回している。

 

 慧音がふき出した。

 私もつられる様に、声を出して笑った。腹筋が意志に反して痙攣する。息が思うようにできない。ヒィヒィと肺の隙間から空気が漏れるように、口から吐息が零れた。

 

「ひどい! 先生まで!」床に落ちた茶碗を拾いながら、針妙丸が叫んだ。

「す、すまない。あまりにも可愛らしかったから」

「いつも言ってるじゃん!」針妙丸は、ムキーッと歯を食いしばって、両手を上にあげる。そのまま慧音の方へと、とてとてと走っていき、抱きついた。きっと本人とすれば、腰辺りに抱きつきたかったのだろう、脛辺りに回った自身の手を見て、不満そうに慧音を見上げている。

 

「わたしは可愛いじゃなくて、カッコよくなりたいの! 悪い敵をばったばったと倒せるように。それこそ、先生みたいな!」

「嬉しい事を言ってくれるな」よっぽど嬉しかったのか、頬を赤らめて、これでもかという程、針妙丸の頭を撫でた。えへへと笑う針妙丸も満更ではなさそうだ。気に入らない。

 

「お前みたいなチビが、そんな事できるのか?」

「何てことを言うんだ、あなたは」慧音が眉をひそめた。

「なんてことを言うの! あなたは!」針妙丸が大声で叫ぶ。

「でも、そこら辺は心配しなくても大丈夫。だって私のお母さんは、慧音先生くらい大きかったらしいもん!」

「へぇ」

 らしい、という言葉が頭に引っかかった。いったい誰に教えてもらったのだろうか。

「だから私もゆくゆくは大きくなるはず」針妙丸は腰に手を当てて、その小さな体をぴんと伸ばした。

「いや無理だろ」

 

 雨が降ったら地面が固まるように、人里で妖怪が暴れたら巫女に殺されるように、天邪鬼が弱小妖怪であるように、針妙丸の背は小さくなくてはならない。背の大きな小人など、ありえないのだ。奇跡でも起きない限り。

 

「なんでさ!」

「簡単だよ。お前みたいな奴がでかくなってみろ。大変な事になるぞ」

「たいへんなこと?」針妙丸は小さく首を傾げた。

「どうなるの?」

 私の頬は、いつの間にか不格好に垂れさがっていた。

「生態系が崩れてしまいます」

「何てことを言うんだ、あなたは」慧音が再び眉をひそめた。

「気に入っているのか、それ」

 

 気に入っているかどうかと言われれば、存外に気に入っていた。セイタイケイという言葉の意味はよく分からなかったが、その語感や響きが心地いい。

 

「ああ、気に入っている。口は災いの元と同じくらい、好きだ」

「うちは吾輩のもの?」針妙丸は小さく首を捻った。

「違う違う。いいかい針妙丸。口は災いの元っていうのは」

 

 慧音が長い説明を始めようとした時、部屋の扉が勢いよく、開いた。扉は激しい音を立て、一回転したかと思うと壁にぶつかりすぐに跳ね返った。入ってきた男は、正確には男たちはその跳ね返った扉をさっと避けた。彼らの横で閉じた扉がけたたましい音を発し、室内が揺れた。

 

 私は何が起きたかわからなかった。いきなり扉を破壊された事よりも、この誰も来ないであろう寂れた家屋に、人間が尋ねてきたという事実に驚いた。

 

 まず、部屋に入ってきたのは、体格のいい、灰色の髪を伸ばした男だった。甘味屋であった、喜知田と呼ばれていた男だ。そいつを警護するように、五人の男が取り囲んでいる。

 

「喜知田……」慧音が、男をじっと見つめる。

 男はふくよかな腹を撫でながら、少し目を丸くした。が、すぐに目元を緩ませ、人懐っこい笑顔を浮かべた。

「慧音先生じゃないですか。こんな所でどうしたんですか?」

 

 奇遇ですね、と穏やかに話しかける男は、優しそうな雰囲気を放っていた。熊のように大きな体であるが、垂れた目つきも相まって、森のくまさんと言った方が似つかわしい。心なしか、甘味屋であった時よりも大袈裟な笑顔を浮かべている。子供に好かれそうだ。

 

 だが、どこか目の鋭さが不穏だ。腹が立って仕方がない。

 

「おい、そこのデブ」私はいつの間にか男の目の前に立っていた。

「お前は何の様で人の家に来たんだ。用もなく、こんな辺鄙なところに来るわけないよな」

「おまえなぁ」慧音が口を挟んだ。

「用もなく甘味屋に人を呼びつけたくせに、どの口が言うか」

「この口だ」

 

 ため息を吐いた慧音とは対照的に、男はふふっと小さく微笑んだ。体に似合わず、可愛らしい笑い声に悪寒が走る。気持ちが悪い。

 

「あなたは昨日の天邪鬼ですね」まるで今日の天邪鬼が別にあるかのように、男は言った。

「用もなく、家を訪ねることは悪い事なんですか?」

「悪いね」笑みを崩さずに笑っている男に殺意がわく。だが、何故自分がこれほどまでに苛立っているかが分からなかった。

「お前のせいで、崩れてしまったじゃないか」

「生態系が?」針妙丸を抱え上げた慧音が訊いた。

「違う。扉だ」

 私がそう言った瞬間、男は懐から銃を取り出した。

 

 

 

 先生、聞いてくださいよ、と愚痴を零す様に男は呟いた。言う事を聞いてくださいよ、さもなければ大変ですよ、と。

 

 気がつけば、男の傍らにいた護衛もそれぞれ武器を取り出していた。小刀や弓、札なんてものまである。そいつらは、私たちを取り囲むようにずかずかと部屋に入ってきた。

 

 それは訓練されたかのように素早い動きで、突然の出来事に困惑していた私は、何もすることが出来なかった。動いたのは、口だけだった。

 

「おいおい、人の部屋に勝手に入るなよ」私は眉をひそめた。

「せめて靴は脱げ」

「ここはあなたの家ではないでしょうに」にこやかな笑顔を浮かべたまま、男は銃を私に向けた。まるで、ここが誰の家か知っているような口ぶりだ。

 

「おい、慧音」小声で話しかけるも、返事がない。目だけを横に向けると、慧音は針妙丸と男の間に立って、両手を広げていた。

「慧音、こいつらが私に説教をしに来たってやつらか」

「そうだったら良かったんだけどな」自嘲気味に口角をあげた慧音は、小さく俯いた。

 

 男は、銃口を私に向けたまま、舐めまわす様に部屋を見渡した。視線が左から順にめぐっていき、ある一点で止まった。男の笑みが深くなる。何を見つけたのか気になり、後ろを振り向こうとするが、その前に男が口を開いた。

 

「本当は私もこんな物騒な事をしたいわけではありません。ただ、このボロ屋から出ていってくれればいいんです。そうすれば、今日は、小金持ちの私が最近買い取った小型銃を自慢しに来た。それだけの事になります」

「出ていかなかったら?」低い声で、慧音が訊いた。

「そうですね。愚かにも人里内で盗みを働こうとした天邪鬼を、正義の味方である慧音先生が捕まえようとしたけれど、最後の最後で自爆して、二人とも亡くなってしまった、なんてどうです?」

「私は自爆なんて出来ねぇ」

 

 あまりにも荒唐無稽なことをいう男に、思わず吹き出してしまいそうになる。もし本当にそんな事ができるのであれば、天邪鬼は弱小妖怪とは呼ばれない。

 

「そこの天邪鬼。あまり軽口を言わない方がいいですよ。言いすぎると、バンってなります」

 男はごく自然に、何事もないかのようだった。

「私から軽口を取ったら何が残るんだよ」

「角、とかですかね」

 

 平坦な声で、淡々とそう言った男は、銃を持ち直した。銃先の筒の空洞が、はっきりと目に映る。それは私の眉間にしっかりと狙いが定まっていた。体に緊張が走る。あんなに煽らなければよかったかな、と少しの後悔が頭をよぎった。

 

「分かった。出ていくよ」慧音が苦しそうに声を絞り出した。

「出ていくから、その物騒な物をしまってくれ」

「最初から、そう言ってくれれば良かったんですけどね」

 

 やけに物分かりがいい男が満足そうに頷くと、取り囲んでいた護衛たちが武器を下げ、玄関へと戻っていった。

 

 なぜか辛そうな慧音を横目で見る。こんな奴ら、半獣とはいえ、妖怪の血が流れている彼女からすれば、ただの雑魚のはずだ。仮にも人里の守護者を務めているのだから、私と違って、戦闘に不慣れという事も無いだろう。なのに、なぜ人間の言う事に素直に従っているのだろうか。

 

「それでは、速やかに出て行ってください。何か怪しい事をしたら撃ちますから」

「お前には人の心がないのか」

「ありますよ。妖怪のあなたとは違って」

 

 相も変わらず、笑みを浮かべている男を睨んで、舌打ちをする。せめて、男がここに来た目的だけでも知りたかった。もし私の予想が外れているならば、別に問題はない。命の危険を冒してまで、このボロ屋に居座り続けるのは、非合理的だ。彼らが去った後に、もう一度ここに戻ってこればよい。何か部屋の中にある金目の物を持っていかれる可能性もあったが、そもそも金目のものなどなかった。強いていうならば、慧音が机の上に広げた文文。新聞くらいだろう。

 

 だが、もし私の予想が当たっているとするならば、ここを動くわけにはいかない。もし彼の目的が、ここの本来の家主に関係する者ならば、ここの家主の死に関りがあるものならば、私はやらなければならない事がある。

 

「大丈夫か? そろそろ出ないと怪しまれるぞ」

 耳元で慧音がささやいた。胸がはねる。思わず飛び上がってしまいそうになった。考え事をしているうちに、いつの間にか近づいていたようだ。心臓に悪い。

 

 針妙丸をおぶった慧音は、男の方を窺いながら、指先で小さく玄関を指した。早くいけ、という事だろうか。針妙丸はというと、状況を理解しているのかいないのか、口いっぱいにおにぎりを頬張っていた。もしかすると、慧音が針妙丸を黙らせるように、と努力した結果なのかもしれない。もしそうだとすれば、それは今のところ成功している。

 

「分かった。速やかに出ていくさ、喜知田さんよ」

 

 男から目を離さずに、玄関へと歩いていく。途中で銃の引き金が引かれないかと心配になったが、杞憂に終わった。私のすぐ後ろを慧音がついて来ているのが、靴音で分かる。慧音も緊張しているのか、やや早足だ。

 

 無残に破壊された扉を避けて、敷居を超えようとした時、男が口を開いた。緊張と、奇妙な静寂が破られた動揺からか、思ったよりも足があがらず、敷居に躓いて、こけそうになる。

 

「……似ていますね」

「何がだよ」お前のせいで、私は地面に頭をぶつけそうになったんだが、と続けたが、男は私の事など最早視界に映っていなかった。

 

「慧音先生。その人形はどこで手に入れたんです?」

 慧音が背負っている針妙丸を男は指さした。

「人形? あ、ああ。これは香霖堂という店で買ったんだ」慧音はぎこちない笑顔を浮かべた。

「妖怪も良く来るから、一人では行かない方がいい」

「忠告、ありがとうございます」男の笑みは、少し崩れかけていた。

 

 一体誰に似ているのか、そもそも人形では無い事に気づかないのか、思う事はたくさんあったが、それよりも早く、ここから退散したかった。男が針妙丸に興味を持つこと自体が、おぞましく、耐えがたい事のように思えたからだ。

 

「慧音、行くぞ」

「分かっている。またな、喜知田。あんまり悪さはしないように」

 

 こんな時まで説教かよ。私はそう言おうとして、口を開き、喉に空気を入れ、吐き出そうとしたのだが、それが叶う事はなかった。

 何故か。私が話す前に、邪魔が入ったからだ。よりによって、こんな時に。どうして。頭の中に様々な思いが浮き、そして消えていった。

 彼女が、慧音が背中に抱えている小さな彼女が、くしゃみをした。別にそれ自体は普通の事だ。人間も、妖怪もくしゃみはする。確かに、彼女の口の中には米がたくさん入っていて、それが慧音の背中にべったりと付いていることを考えると、普通では無いのかもしれないが、それでも只の生理現象だ。

 

 だが、残念な事に人形はくしゃみをしない。

 

 私と慧音は同時に走り出した。目的地は分からない。とにかく、ここから離れたかった。足を進めながら、ちらりと後ろを振り返る。喜知田の笑顔は完全に消え去っており、眉間にはこれでもか皺が寄っていた。

 

「せんせい、もっと丁寧にもってよ」

 

 針妙丸の呑気な声が、後ろから聞こえた。おいおい、と思わず声に出してしまう。お前の願望通りに成長しているが、ちょっとやりすぎたかもしれないぞ、と私は呟いた。きっと、彼はそれでいい、と頷くのだろう。

 

 

 

 私たちは、人里の中心の長屋、つまりは寺子屋へとたどり着いた。中に入ると、教室と思われる部屋とは別に、布団の敷いてある小さな部屋があった。慧音曰く、休憩部屋とのことだ。寺子屋の様子は、いつもとは打って変わり、異様なまでに静まり返っている。寺子屋は土日を休日としているらしかった。

 

 結局、逃げる私たちを追ってくる奴らはいなかった。それに気がついたのは、慧音が足を止めて、正確には途中から空を飛んでいたので、足は元々止まっていたのだが、とにかく、慧音がもう大丈夫と声をかけた時だった。よくよく考えれば、人間で空を飛べる奴はほとんどいないので、そこまで焦る必要は無かったかもしれない。

 

「喜知田を責めないでやってくれ」

 移動中に眠ってしまった針妙丸を布団に寝かせながら、慧音が徐に言った。

「あの男も、かわいそうな奴なんだ」

「お前は生徒に暴言を吐く奴は許さないくせに、銃口を向けた相手は許すのか」

 

 私には、先程まで銃を向けられていた男を庇う感覚が分からなかった。自分の教え子が、命の危機に瀕したにも関わらず、激高していない慧音に違和感を覚える。人里の守護者なんて名ばかりだったのか、としばらく責問したいほどだ。教え子も守れずして、何が先生か。そう言葉を投げつけようとした時、頭にふっと考えが浮かび上がった。霧が立ち込めた洞窟に、光が鋭く差し込んだかのようだった。

 

「教え子か」私は確信を持って言った。

「あの男は、お前の元教え子なのか」

 慧音は答えなかった。眉をハの字にして、唇をかみしめている。沈黙は肯定という言葉が脳裏に浮かんだ。

 

「お前は」慧音は固く閉ざされた扉を開くように、ゆっくりと口を動かした。

「お前はどこまで知っている」

「どこまで?」あまりに抽象的な質問に、答えることが出来ない。質問は具体的にと、習わなかったのだろうか。

「喜知田について、だ」

「どこまでといっても」私は肩をすくめた。昨日知り合った男のことなど、何も知っているはずが無い。

「何も知らないだろう」

 

 一見朗らかで、優しそうな顔をしていて、甘味屋でおはぎを奢ってくれるような奴だが、その実、いきなり人の家に押し寄せて、小さな銃を使ってその家を占拠するような奴、という事だけしか知らない。

 

「私もだ」

「は?」

「私も喜知田の事を何も知らない」自嘲気味に慧音は笑った。いつものような柔らかな雰囲気は消えさり、今にも泣きだしそうだ。いきなり自分の首をくくり始めても、おかしくはない。

 

「長年、生徒として見てきても、大人になってから相談に乗っても、あいつの事は何も分からない。あいつは真面目で、優しくて、臆病で、ただちょっと貪欲だったが、それでもいい奴だった。私は、そんな事しか知らなかったんだよ」

 

 私は慧音に言い返すことも億劫で、布団で寝息を立てている針妙丸を見つめた。消え入りそうな慧音から、目を離したかったのかもしれない。

 

「たださ」慧音が言った。

「ただ?」

「喜知田は、もう二度と人を殺さない。それだけは断言できる」

「もう? 二度と?」

 

 彼女の言い方が、胸をかき回した。それではまるで、むかし一度殺したことがあるようではないか。

 

「一週間前、喜知田が私を訪ねてきた」

「え」

「あいつは、ひどく怯えていたよ」

 

 常に憎らしい笑顔を浮かべていたあの男が、怯えている姿が想像できなかった。まだ、しおらしい烏のほうが現実的だ。

 

「あいつはな、まぁ見ての通り金には困っていない。売買の仲介なんかで随分と儲けてるみたいでな。だが、少し危ない橋を渡ったりしていたせいか、商売敵からはかなり恨まれていたらしい」

「それは良かった」本当にご愁傷様です、と言ってやりたい。

「それでな。いつも護衛を引き連れているんだが」

「ああ、さっき連れていた」喜知田の後ろで立っていた5人の男を思い出す。

「でも、あれは護衛というよりは、もっと攻撃的だったな」

「きっと攻撃的な護衛だったんだ。今日は」慧音は下唇を突き出した。

「だから、今まではそんなに身の心配はしていなかったらしいんだ。命を狙われたとしても、きっと対処できるし、そもそも人里でいきなり襲い掛かってくる奴はまれだろう、って」

「高を括っていたのか」

 

 私は嘲笑を隠すことが出来なかった。人間はいつだって、楽観的に考える。慢心をする。高々人間のくせに、思い上がる。愚かで、矮小で、そんなんだから、私みたいな妖怪が生きていけてしまうのだ。

 

「そう、だな。高を括っていた。いたんだが、当てが外れた。あいつは実際に命の危機に陥った」

「何だよ。殺し屋でも雇われたのか?」

 

 人里で殺し屋を営んでいる奴がいるかどうかは知らないが、いてもおかしくはない。人間は何でも商売に結び付けるものだ。もし“殺し屋”ならぬ“殺され屋”があったとしても、私は驚かない。

 

「もし殺し屋が襲ってきたとしたら、あいつは嬉々として追い返すだろうな。あいつはそういうのが好きだったから」

「そういうの?」

「無駄な抵抗」

 

 うへぇ、と私は吐くふりをする。抵抗してきたものを、嬉々として追い返すような奴が、どうしていい奴とみなされるのか、ますます分からなくなった。と、同時に疑問も浮かんだ。

 

「なら、どうして死にそうになったんだよ。病気でもしたのか」

「惜しいな」

 

 現実はもっと残酷だ、と悲しそうに笑った慧音は、視線を床から、私へと移した。その目は、どこか睨むようで、私を捉えて離さない。

 

「呪いだ」

「え」

「呪い、と言ったんだ。もっとも、その呪いは不完全な物だったらしいんだがな。ただ、かけられた呪いが強力で、失敗してもなお効力が残っていたらしい」

 

 私は返事をすることが出来なかった。疑惑が、確信へと変わる。あの時、男を目の前にして、ぬけぬけと帰ってきてしまった後悔だけしか、思い出すことが出来ない。

 

「まぁ、あいつは専門家に頼んで“呪い返し”をしてもらったから、大丈夫だったらしいんだが、それでも心配になったらしくてな。近々、呪いの発生場所に行くと言っていたんだ」

 

 慧音の目に、鋭さが増す。だが、不思議と恐怖は無かった。おそらく、恐怖を感じる余裕すら今の私にはないのだろう。今の私の胸は、怒りと憎悪で満ちていた。私の嫌な予想は当たっていたのだ。

 

「それで、今日あいつはその場所に行ったんだ。多分な。そうしたら、私たちがいた。なぁ、教えてくれよ、天邪鬼。あの家は一体だれの家なんだ? 喜知田に呪いをかけたのはだれなんだ?」

 

 慧音の言葉など、もはや私の耳には入っていなかった。頭の中が、黒い混濁とした感情に飲み込まれていく。私の考えが正しければ、私は成し遂げなければならない。

 

「覚えているか、慧音」

 自分でも驚くほどに、私の声は冷たかった。

「強すぎる呪いをかけようとして皮膚が固まっていった男の話。お前がしてくれたよな」

「だからなんだ」

「あれな、皮膚が固まっていくんじゃなくて、錆びていくんだ。体の端からゆっくりと。骨は砕け、肉は潰れ、皮膚は錆びる。体がぐちゃぐちゃになっていくんだ」

 今思えば、彼はそんな痛みの中、笑顔を浮かべていたのだろう。

「馬鹿だったな。身の程知らずも甚だしい。馬鹿だったよ」

 

 彼の事を考えると、使命感が燃え上がる。やらなければならない、ではない。やる以外ないのだ。今の私にとって、それを奪われてしまったら、生きていけないかもしれない。

 

「二十か三十年くらい昔に、人間の女性が殺された事件、覚えてるか?」

「質問しているのは私だ」

「人里で起きた、あの面白くない事件だよ。胸を包丁で一刺し。あの犯人が捕まっていないはずの、何故かその女性の夫が犯人ってことになった事件だ」

 

 慧音は返事をしなかった。が、視線が分かりやすく右往左往している。ただでさえ、青くなっていた顔がさらに血の気を失っていった。

 

「あれの犯人って、もしかして喜知田じゃないのか?」

 

 慧音の体が少し震えた。私を見つめる目は、もはや焦点を失っている。答えを言っているも同様だった。胸の奥に潜んだ怒りが、爆発しそうだ。

 

 きっと、慧音が真実を隠していたのも、喜知田を庇っているのも、それ相応の理由があるのだろう。慧音は良い奴だ。それこそ、自分を犠牲にしてまで他者を助けるような奴だ。そんな彼女の事だから、今回も何かしら事情を抱えているに違いない。そんな事は分かっている。彼女に怒りをぶつけるのはお門違いだ。だが、私にそこまでの忍耐は無かった。

 

「慧音、お前はこの事を知っていたんだよな。罪のない女性を殺した殺人鬼を、人里の守護者であるお前が野放しにしていたってことだよな」

 

 もう二度と殺人をしない。慧音は喜知田をそう評した。でも、だからといって、それで一回目の殺人が許されていいはずがない。妖怪が人里で殺人を犯せば、巫女に殺されるように、人間が人里で殺人を犯せば、裁かれなければならない。天罰が下されないといけない。天罰を神に任せてはいけない。大事な事は自分でしなければならない。

 

 私は慧音と顔を合わせまいと後ろを向こうとしたが、その前に慧音が、なぁ天邪鬼、と私を呼び止めた。

 

「シロウオの踊り食いってのと、アジの開き、どっちがいいだろうか」慧音が虚ろな目で、そう呟いた。

「は?」

「私はね、シロウオの踊り食いの方が好きなんだ」

 

 慧音は、まるで罪を独白する犯罪者のように、胸の前に手を当てて、ぶつぶつと呟いた。突拍子の無い話に、頭がついていかない。彼女も正気を失ってしまったのだろうか。それでもいいか、と私は思ってしまっている。

 

「だって」慧音の声は、抑揚のない機械のようだった。

「生きているんだから。きっと私はどんな時でも、生きている方を選ぶよ。死んでいる方は、どうしようも無いからね」

 

 開いた口が塞がらなかった。頭の中の何か大事な線が、音を立てて切れてしまった。目の前が真っ白になる。頭が急速に冴えていった。私は冷静だ、と勘違いするくらいには混乱している。

 

「慧音、お前は」

 殺された女性をどうしようも無いと思っているのか、そう言い残して、私は慧音に背を向ける。玄関までの廊下を早足で駆けていく。そこまで距離は無いはずなのに、やけに長く感じた。

 

「どこに行くんだ」

 慧音は小さな声で訊いた。その声は酷く震えており、焦燥している。もう、涙を隠そうともしなかった。見ていて、胸が痛む。だが、ただそれだけだった。

 どこに行くのか。そんなのは決まっていた。

 

「鷹を狩りに行くんだよ」

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