天邪鬼の下克上   作:ptagoon

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運命と偶然

 行きつけの蕎麦屋の親父に、胸に包丁を突き刺して殺してくれないか、と言われたことがある。

「頼む、一生のお願いってやつだ」

 

 人里の外れにある蕎麦屋は、夕飯時だというのに、何時ものように閑古鳥が鳴いていた。机の上に置かれている湯気を立てている蕎麦も、部屋の対極に置かれている女性の写真も、小さな心地いい音を立てている古びた大時計も、いつもと同じだった。

 

 いつもと違うのは、部屋の隅に敷かれた布団で寝ている男の様子だけだ。

 

 体の大半は掛け布団で覆われているが、その掛布団には所々染みが浮かんでいる。赤黒い染みだ。その布団から出ている顔や腕の色も、その染みと同じ色だった。よくよく目を凝らすと、皮膚が全て、大きなかさぶたのような物に覆いつくされているようだった。昨日までは、蕎麦みたいな腕だったのが、今日は錆びた鉄のような色になってしまっている。

 

 それを見た私は、当然酷く動揺した。眩暈がして、足元がふらつき、嘔吐しそうになり、口元に自然と手が伸びた。だが、それでも私は平静を保とうと、正しくは平静を装うとしたが、それも彼の一言で大きく打ちのめされてしまった。

 

「何、言ってんだよ」かろうじて出た私の声は、蚊の鳴く声よりも小さかった。

「嫌だ。お前、嫌だ。そんなの嫌だよ。だって、だってよ」

 

 言いたいことはたくさんあった。お前の病気はそんなに酷かったのか。何故隠していたのか。もう諦めるのか。これから私はどこで蕎麦を食べればいいのか。話したいことは、無限にあった。だが、上手く口に出すことが出来ない。天邪鬼だというのに、口から生まれた妖怪であるというのに、こういう時に限って、口が回らない。 

 

「おいおい、天邪鬼が言葉を詰まらせてんじゃねぇよ」いつもと同じ調子で、彼は笑った。

「まぁ、聞けよ」

 

 彼の様子に安心したのか、少し冷静になった私は、彼の布団のそばへと駆け寄る。途中で足がもつれかけたが、彼に覚られないように、ゆっくりと腰を落とした。

 

「俺はな、人生ってのは蕎麦だと思うんだ」長年考えていた洒落を言うように、彼は頬を赤らめ、身をよじらせた。

「何、言ってんだよ」

 私の頬はきっと、緩んでいるはずだ。

「いいから聞けよ。俺はな、妻を殺されてから、ずっとあることを考えていたんだ。何かわかるか?」

「蕎麦の事か」

「それもある」

 

 私と彼は、声をあげて笑った。一方は、呼吸をするたびに口元に血が溢れて、一方は目から涙が溢れていたが、それでも私たちは笑った。

 

「それはな、復讐だよ。いつか犯人を酷い目に会わせてやるって決意したんだ。巫女が管轄外なら、俺がやるってな。それで、この前俺は実行した」

「聞いてないぞ」

「言ってないからな」

 

 彼が復讐を考えていることは、知らない訳では無かった。あんなにも妻を溺愛していた彼が、あなたの奥さんは殺されました。犯人は分かりませんが、きっと何事もなかったかのように楽しく生きているでしょう、と言われて、はいそうですか、と納得するようにはとても思えなかった。が、人里中の人間が調べて分からなかった犯人を、彼が一人で特定できるはずがないと、そう思い込んでいた。高を括っていた。

 

「そいつは金持ちでな。正攻法じゃ無理そうだったから、搦手を使った」

「復讐に正攻法があるのか」

「まぁ、いいんだよ。要するに俺は、あいつを呪い殺そうとしたんだ」

「呪い」普段聞かない単語だったからか、鸚鵡返しに言葉をなぞった。

「そう、呪いだ。道具を手に入れて、時期を見計らって、正確にやった。やったはずだったんだけどな。どうやら失敗したらしく」

 彼は照れたように、小さく苦笑いをした。

「死ぬのが俺になった」

「何やってんだよ」思わず、声が漏れる。軽々しく自分の死を語る彼の口調に惑わされ、これも彼の冗談なのではないかと錯覚してしまいそうになる。

「馬鹿みたいだろ? でも、後悔はしていない。呪いに失敗したら体が硬くなるっていう昔話を証明できたわけだし。まぁ、実際は錆びるみたいだが」

「身から出た錆ってやつか」

「まさしくな」彼の笑顔は、弱弱しくも眩しかった。

「でもな、後悔はなくても、気がかりはあるんだ」

 

 そこの紙を見てみてくれ、と彼は枕元を視線で指した。一枚の紙が丸められている。私は言われるがまま、彼の指示に従って、紙を手に取った。ぺらりと捲ると、そこには一人の少女の人相が書かれていた。肩口にまで切り揃えられた髪と、太陽のような笑顔が印象的な少女が描かれている。

 

「可愛いだろう」自慢げに彼は鼻を鳴らした。

「俺の子だ」

「え」

 

 私は、呆然と立ち尽くすしかなかった。手に持った紙は、いつの間にか手を離れ、ゆらりゆらりと揺れながら、ゆっくりと地面に落ちていく。

 

「お前、子供がいたのか。そんな事、知らなかった」

「言ってないからな」

 得意げに口を歪めた彼は、愛おしそうに床に落ちた紙を見つめた。

「妻が殺される直前に産まれたんだ。ちょっと変わった子だったけど、かわいい子だ」

「でも、お前の娘なのに、どうして私は見たことが無いんだ?」

 

 もし仮に、彼がこの娘の存在を隠していたとしても、こうして毎日蕎麦を食べに来れば、いつか分かりそうなものではある。

 

「人里の守護者に託してある。彼女ならば、きっといい子に育ててくれるだろう」

「どうして」自分で育てなかったのか。そう言い切る前に、彼は口を開いた。

「巻き込みたくなかったんだ」

 彼は一瞬、目を伏せた。後悔と、名残惜しさを感じているのかもしれない。

 

 何に巻き込みたくなかったか。それを彼は言わなかったし、私は聞かなかった。そんな事は聞くまでもないからだ。妻の復讐。彼は、それに取りつかれて、いや、それを生きがいに生きてきたのだろう。

 

「きっと、汚れを知らない純粋で、優しい子に育っているはずだ」

 俺と違ってな、と彼は自嘲気味に呟いた。

「それで?」

 私の声はもう震えていなかった。それは、落ち着きを取り戻したというより、動揺することに慣れてしまったといった方が近い。

「それで、私にお前の娘を見せて、どうしたいんだ」

「どうって言われてもな」

 もうほとんど抜け落ちたしまった髪をなでながら、彼は口をすぼめた。

 

「特に理由はねぇよ。強いていうなら、自慢したかったんだ。俺には、こんな可愛い娘がいるんだ。妻には、こんな子を産む力があったんだ。俺達は、こんな宝物をこの世に残すことが出来たんだぞってな」

 

 彼は本当に楽しそうに、今から死にゆく者とは思えないくらい元気に、そう言った。お前は人間よりも人間らしい。この前の彼の言葉が頭に浮かんだ。だが、私からすれば、別に私が人間らしいのではない。彼の方が妖怪よりも妖怪らしいだけだ。

 

「私はてっきり、面倒を見てくれとか言い出すと思ったよ」

「馬鹿言うなよ」

 さっき言っただろ、と彼は小さくため息を吐いた。呆れているのか、それとも体力の限界が近いのか、私には分からない。

 

「この子は、汚れを知らない純粋な子に育つんだよ。お前みたいなのに会ってみろ。全部水の泡だ」

 冗談なのか、本気なのか、彼はまばたきをせずに真っすぐと私を見た。目を逸らす。しかし、頬にあたる視線が鬱陶しくて、結局彼の方を見つめ返した。

 

「それに、お前には別に仕事を頼みたいからな」

 私を見つめたまま、彼ははっきりとそう言った。その目には、一寸の迷いもなかった。きれいで、透き通った目だ。とても還暦を回った爺の目とは思えない。

「仕事」

 彼の言った仕事という言葉は、重く私にのしかかった。今まで、親しい友人の胸を刺し殺すという仕事をしたことが無かった。

 

「もしかして、悲しんでくれているのか?」

 俯いている私を見て、彼は心底楽しそうな声を発した。私がこんなにも苦しんでいるのに、なぜこいつは。

「そんな訳ねぇだろ」

「またまた」

「ただ、人里で人を殺したら、巫女に殺されるか心配なだけだ」

 

 すました顔の彼に、何とか一泡吹かせたくて、つい嘘をついてしまう。

 

「その心配はいらねぇ。ここは人里の外れだ。あと五分も歩けば、森に出る。その森の近くの墓にでも捨ててくれれば、完全犯罪成立だ」

「そんなんで完全と言える訳がない」

 

 私は吐き捨てるようにそう言った。が、彼は全く持って意に介した様子はなく、淡々と事実を読み上げるように、話を続けた。

 

「そもそも、俺は最近ここから出ていないしな。人里の連中は覚えてないんじゃないか、俺の事」

「そんなわけあるか」

「あるかもしれんだろ。それに、もし犯行がばれて、お前が巫女に殺されそうになっても、事情を話せば見逃してくれるはずだ」

 

 彼の何とも自分本位で身勝手な考えに、ため息が出る。そんな安易な方法で巫女が納得するはずがない。だが、彼の意地でも引かない姿勢を、崩せる気がしなかった。そして何より、彼がどうしてそんな願いを私に頼んだのか、理解できてしまった。理解してしまったからこそ、私は彼の頼みを聞く他なかった。

 

「分かったよ! 分かった。やってやるよ」

 両手をひらひらと振って、一息に言い切った。自分の気持ちに迷いが生じる前に、現実を直視する前に、口に出しておきたかった。

 

 いつの間にか溢れていた涙を手で拭う。ご丁寧にも包丁は枕元に置いてあった。小さな、けれども鋭い包丁だ。こんなちっぽけな物で人間の命は奪われてしまう。それは、痛い程に知っていた。

 

「ありがとうな」

 

 小さく呟いた彼の声が、私の決意を鈍らせる。彼からの感謝の言葉を初めて聞いた気がした。迷いを断ち切るように、手早く包丁を持ち上げる。

 

 部屋の片隅にあった、大きな時計が音を立てた。ボーンという重い音が、夜の六時を知らせる。

 

「何か言い残したことはあるか」

 彼の上へとまたがりながら、包丁を上へと振り上げる。

「そうだな、強いていうなら」

「言うなら?」

「来世であったら、かき揚げでもおまけしてやるよ」

 鳴っていた時計が、不自然に鳴りやんだ。

 

 

 

 

 彼が死亡したのは、これから五秒後の事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 運命の相手。物語や陳腐な空想、または願望でしかありえない幻想。類語は白馬の王子様。聞くだけで吐き気がする単語の一つだ。あの時、たまたま彼と会ったの。きっと運命の相手だったのね。そう口にする女性は数多くいた。というよりも、恋に落ちた女性の大半は、似たような意味の言葉を口にした。だが、結局のところ運命の相手とやらは、別の相手を選択する事が少なくない。運命の相手とはすなわち、自分とあなたは特別なのよね、と思い込みたいがための、詭弁だ。二人の間の絆を深めようとする浅はかな策略だ。

 

 だから、私はこんな言葉は絶対に使う事は無いだろう、と思っていた。まして、好きでもない相手に対してかけるとは、夢にも見ていなかった。

 

 慧音の寺子屋を飛び出した私は、怒りと絶望に胸を躍らせて、喜知田の元へと向かおうとしていた。向かおうとして、挫折した。私は、まだあの男は彼の、蕎麦屋の親父の家にいると思い込んでいた。全速力で、文字通り飛ぶ鳥を落とす勢いで飛んで、あっという間にとたどり着いた。実際は、数分か数十分かかっていたはずだが、気がつけば、いつの間にか家へと着いていた。そして、自分の目を疑った。

 

 家が燃えていた。轟轟と赤い炎を棚引かせ、勢いよく黒い煙を吐き出している。大黒柱が燃え尽きてしまったからなのか、既に家は崩壊していた。追い打ちをかけるように、至る所から鈍い、木が崩れる音がする。焦げ臭く、生暖かい空気と共に灰が鼻を突き、むせて咳が出る。手で口を覆おうとした時、初めて私が座り込んでいることに気がついた。這うようにして、崩れ去った家へと近づく。パチパチと火花がはじけ、頬にあたった。皮膚を切り裂かれたかのような痛みが走る。本能が、ここから立ち去った方がいい、と警鐘を鳴らしている。今行ったところで、ただ犬死するだけだぞ、と。それでも私はひたすら前に進み続けた。ただ、写真を。彼が自慢していたあの綺麗な女性の写真を、持って帰りたくなった。ただ、それだけしか考えることができなくなっていた。控えめにいって、錯乱していた。

 

 両手を伸ばし、真っ黒に炭化している木を跨ごうとした時、爆音が耳を突いた。何が何だか分からないうちに、全身に衝撃が走る。視界がくるくると回り、身体が浮遊感に包まれる。家が爆発して、爆風で吹き飛ばされた。そう分かった時は、地面に全身を強く打ち付けた時だった。体の至るところから痛みが走り、どこを怪我しているのかが分からない。必死の思いで体を起こすと、跡形もなく吹き飛んだ家が目に入る。私は、呆然とそれを見る事しかできなかった。巻き上がる粉塵を見つめていると、何故かここの家主を思い出した。彼の、人を小馬鹿にするような笑みが、頭をかすめる。いくらあいつでも、蕎麦は爆発だとは、言ってなかったはずだ。

 

「あやややや! 大スクープです!」

 

 少し風が吹いたかと思えば、途方に暮れている私の耳に、鬱陶しい声が突き刺さった。声のした方に顔を向ける。そこには、人の気も知らないで,燃え盛る家の残骸を写真に収めている烏がいた。まるで、ゴミ箱をあさるかのように、家に近づいてパシャリとやっている。

 

 なぜこんな所に烏がいるのか気になったが、私には彼女の事など、最早どうでもよかった。ただひたすらに無力感に打ちひしがれているだけだ。たかが、家が一軒燃えただけ。被害者もいない。それだけであるはずなのに、心の穴が広がったかのようだ。この感覚は、前にも味わったことがある。彼を殺した時だ。

 

「おや? 天邪鬼じゃないですか」

 

 無事でよかったですね、と心にもないことを言いながら、烏がすり寄ってくる。鬱陶しい。鬱陶しい事には慣れてはいたが、今日だけは勘弁してほしかった。今は、気が立っている。

 

「それにしても派手に燃やしましたね。自爆でもしたんですか?」

「してない」

「まあ、これだけの火事の中、無事に脱出したのは素直に感心します。もし良ければ、しばらくの間、私の家で居候してもいいですよ。取材の協力をしてくれるのであれば、ですけど」

「ほっといてくれ」

 

 烏はここが私の家だと勘違いしているようだった。面倒くさいので訂正はしない。だが、烏と話している中で、私は冷静さを取り戻していた。冷静に、直前の怒りを思い出していた。その喜知田への怒りは、むしろ今の方が増してきている。当然だ。彼の家を爆破されておいて、怒りが増さないはずがない。

 

「何が悲しくてお前の家に泊まらなけりゃならない」

「あややや、つれないですねぇ。でしたら泊まらなくてもいいので、情報だけ下さい」

「お前なぁ」

 

 強かというか、あくどいというか。私は呆れながらも、少し気持ちが和らいでいる事に気がついた。慧音の家を飛び出た時のように、怒りに身を任せるでもなく、先程までのように絶望に浸るでもなく、喜知田に対する怒りを、きちんと胸の奥にしまい込むことが出来ている。こいつと話していると、不思議と落ち着きを取り戻すことが出来るようだ。だからだろうか。私は彼女に一連の経緯を話すことにした。

 針妙丸と慧音が謎の説教をしに家に来たこと。喜知田と呼ばれる男が私たちを追い出したこと。数年前の殺人事件に喜知田が関与していること。戻ってきたら家が爆発していたこと。これらを多少の誇張を混ぜて、話した。だが、ここの家主と私、そして殺された奥さんの関係性だけは話さなかった。記事にされては、困る。

 

 なるほどと頷いた烏は、なら早速行きますか、と顔を上げた。

 

「どこに?」

「どこって、それは」烏は不思議そうに首を傾げた。

「喜知田さんの家に決まっているじゃないですか」

「場所を知っているのか!」

 

 私の気を知ってか知らぬか、彼女は胸を張って鼻を鳴らした。

 

「当然です。私を誰だと思っているんですか?」

 

 運命の相手、という言葉が口から零れ出た。こんな誰もいない人里の外れ、それこそ、こんな爆発事件が起きたにも関わらず、誰も野次馬が来ないような所で、まさかあの男への手がかりを手に入れられるとは。珍しく、天に感謝したくなった。

 

「それに、今日の朝刊はお陰様で好評でしたから」

「鳥瞰?」

「朝に配る新聞ですよ、これです」

 

 いつも持ち歩いているのか、懐から綺麗に畳まれた新聞を取り出すと、私の前に広げた。文文。新聞とかかれたそれには、でかでかと“鬼畜天邪鬼、子供から一銭を強奪!! ”と書かれていた。一瞬、理解が出来なかったが、昨日の甘味屋での出来事を思い出す。

 

「いやぁ、これを見た慧音さんが張り切っていましてね。援軍を連れて叱りに行くって意気込んでいました」

「あの説教はお前のせいか」

 

 慧音が椅子に座り、文文。新聞を読んでいる姿が思い起こされた。なるほど、あれはこの新聞を読んでいたのか。とすれば、彼女の言う援軍とは針妙丸のことであろう。あんな小さなガキに説教されるなど、たまったものでは無い。

 

「まぁまぁ、いいじゃないですか。そのおかげで喜知田さんに殺されずに済んだのかもしれませんし」

「それは」

 どうだろうか。慧音の、あいつはもう二度と人殺しをしないという言葉が、胸に引っかかる。単純に慧音が庇っているだけかもしれないが、そうとは思えなかった。慧音は、悪事は正さないと気が済まないタイプだ。殺人を犯す可能性のある人間を、野放しにはしないだろう。できれば、人の家を爆破するような奴も野放しにして欲しくなかったが。

 

 パチパチと子気味のいい音がしている家だった残骸に目を移す。木はほとんど黒くなっており、灰やら何やらが大きく風で巻き上げられ、パラパラと頭上から降り注いでいる。私は急いで目を伏せた。灰が目に入るのを恐れたわけではない。これ以上見ていると、また怒りと絶望に支配されそうだったからだ。

 

「どうしたんですか、下なんか向いちゃって」烏が楽しそうに訊いた。

「灰が目に入ったんですか?」

「そうだ。目に入ったんだ」もちろん、嘘だ。

「あややや、それは大変です。ですが、あまり下ばかり向いていては駄目ですよ」

「どうして」

「簡単ですよ」

「まさか、嫌な事があっても前を向いて生きていこう、だなんて馬鹿みたいなことを言うんじゃねぇだろうな」

「そんな訳ないじゃないですか。そんな事を言うのは、人里の守護者くらいです」烏は苦いものを食べたかのように、べぇっと舌を出した。

「そうじゃなくて、もっと現実的です。頭の上に灰やごみがのってるんですよ」

 

 慌てて頭の上に手を伸ばすと、確かにザラザラとした感触があった。わしゃわしゃと髪をかき回すと、細かい灰とは別に、何か大きなものに手がぶつかり、後ろでぱさりと小さな音がした。頭の上にのっていたゴミが落ちた音だろうと当りをつけて振り返る。すると、想像通り燃えて薄黒くなった紙が足元に落ちていた。

 

 特にその紙を拾い上げたことに、理由などなかった。好奇心か本能か、手が吸い寄せられるように、いつの間にか紙を握っていた。少し炭化しているが、あの爆発にも関わらず、きちんと紙としての形状を保っている。不思議と、綺麗に長方形へと折りたたまれるようにして、紙が縮んでいた。表面で手をなぞり、灰を落とす。すると、“文文。”という文字が浮き上がってきた。思わず、苦笑いしてしまう。燃えていようが燃えていなかろうが、ごみには違いない物を拾ってしまった。丸めて烏に投げつけてやろうと、新聞を両手で握りつぶそうとする。が、直前で違和感に気がついた。長方形に折れた新聞の角が、少し削れている。まるで中に固いものが入っているかのように、妙にピンと皺が伸びていた。恐る恐る、新聞の端からめくっていく。ゆっくりと、慎重にめくっていくと、中から段々とその“固いもの”の正体が表れてきた。

 

 息が止まる。何度も目をこするが、映る景色は変わらない。これは幻覚ではないかと、何度も頬をつねるが、何も起こらない。これは現実だ。こんな事があっていいのだろうか。こんな偶然を、彼は許してくれるだろうか。

 

 完全に新聞をはがし終えると、私の手には長方形の、台紙のような感触がする写真が残った。新聞が被さっていたからか、少しの傷も無い。だが、それにも関わらず、そこに映る女性の姿は僅かにぼやけていた。

 

「おい烏」手に持った写真を懐にしまいながら、私は言った。

「お前の新聞は良い新聞だな」

 私の言葉がよっぽど意外だったのか、烏は目を丸くして、口を鯉のようにぱくつかせた。が、にへら、と顔をゆがませると、当然ですと、得意げに言った。

 

「紙だって、いいの使ってるんですから」

 

 

 

 烏に連れられて、私は人里の中心へと戻ってきていた。空を飛ぶのではなく、歩いて戻ってきたため一時間近く時間がかかってしまった。私はとっとと飛んでいきたかったのだが、烏が「私は人里で飛んでいるのがばれると、半獣に怒られるんですよ。以前彼女を盗撮して以来、禁止されています」と不満げに口を尖らせていたため、仕方がなく歩くことにした。私も慧音に会いたくなかったからだ。

 

 寺子屋の裏の、甘味屋についた時には既に辺りは暗くなっていた。夜だからか、人里の中心にも関わらず、妙に静かだ。慧音に会わないか心配だったが、烏曰く、彼女は人里の外へと見回りに行っている時間らしい。

 

「爆発があったのに、変に静かだな」

「まぁ、大分外れにありますしね。それに、あのくらいの衝撃は日常茶飯事ですよ」

「お前の日常がおかしいだけだ」

「そんなこと無いですよ」

 烏は真顔で呟いた。その顔は侮蔑を隠そうもせず、目には呆れすら浮かんでいた。

 

「人間が外に出るという事は、死ぬという事と同義なんですよ。あんな人里の外れで多少騒ぎがあったところで、誰も気にしませんし、気づきません」

「そうなのか? 慧音が守ってるはずだろ?」

「馬鹿ですね、あなたは本当に」呆れを通り越して、宥めるような口調で烏は言った。

 

「あの半獣だけで完全に防げるとでも? 妖怪の賢者も人里外での捕食は黙認していますし、人里の外れってだけでも、普通の人間は恐れるものなんです。人間ってのは、実際に危険かどうかよりも、危険そうな場所を避けるんですよ」

「そういうもんか」

 

 彼の蕎麦屋に人がいない理由も、もしかしたらそれかもしない。いや、人間以外も来ていないことから考えると、それだけではないはずだ。あれは確実に店主が悪い。

 

「喜知田という男は、正にその典型です」

 喜知田という名前を聞いただけで、頭に血が上りそうになる。今まで考えていたことなど、全て吹き飛び、あの忌々しい男の顔だけが頭に残る。銃を突き付けられたあの時、家を爆破しに来たその時に、何もせずに突っ立っていた自分に腹が立って仕方がない。

 

「……聞いてますか」

「聞いている」烏の声は耳をすり抜けていた。つまり、聞いていない。

「まぁ、いいでしょう。つまりです。最近の彼は警戒心が強くて、近づくことが困難なんです」

 繁殖期の熊を説明するかのように、烏は淡々と言った。

「そんな警戒心が強い奴が、人の家を爆破するなんてリスクを負うのか?」

「そのリスクに見合った報酬があるか、それとも放っておくほうがリスクがあったとか、ですかね」

「呪いをかけてきた奴がいた、とかか」

「面白くない例えですね」烏は下唇を突き出した。

 

「まあ、ともかくそんな警戒心が強い人間に会いに行くのは、中々に骨が折れますし、危険が伴います」

「何か案があるのか」

「私を誰だと思っているんですか」

「運命の相手」

「気持ち悪いので止めてください。まじで」

 

 したり顔で頷いていた烏の顔が、氷漬けにされたかのように青くなっていく。両手で腕をさすり、背中の大きな翼は細かに震えている。いい気味だ。定期的に使ってもいいかもしれない。ただ、私も悪寒が走るので、諸刃の剣といえるだろう。

 

「それで? その案って何だよ」

 嫌そうに眉間にしわを寄せたまま、烏は懐から何かを取り出した。

「実は私は喜知田さんと面識がありましてね。多分正々堂々と家に入れるんですよ。だから、私だけで行ってもいいんですが」

「おい」

「冗談です。天邪鬼が来た方が彼も驚くと思うんで、嫌だと言っても来てもらいますよ。ただ、入るときにこれを使って下さい」

 

 そう言うと、手に持ったカメラを私に差し出した。そのカメラは彼女がいつも使っている奴よりも小さく、そして所々錆びていた。正常に動くかどうか、怪しい。

 

「私のお古です。これを持っていれば記者仲間として中に入れるでしょう」

「いや無理だろ」

 私の知っている限りだと、カメラにはそんな特殊能力はない。

 

「大丈夫ですって。カメラを持っている奴なんて、幻想郷には烏天狗しかいませんから。もし顔が割れているとしても、私と同じ兜巾を被れば問題なしです」

「いや、ありだろ」

 

 人間は警戒心が強いと言った舌の根も乾かぬうちに、そんな甘い考えを意気揚々と語られるとは思わなかった。特に、爆破した家にいた私達には、人一倍注意しているはずだ。

 

「あややや、疑り深いですねぇ。いいですか。私達烏天狗にとって、このカメラも、兜巾も誇りなんです。それを他の奴に貸すなんて、普通はありえません」

 

 本当ですからね、と念を押す烏を他所に、私は懐に入っている写真の事を考えていた。彼女の言った事が本当ならば、彼はだれからカメラを借りたのだろうか。

 

「特別ですからね、感謝してください」

「普通は貸してくれないのに、どうして私には貸してくれるんだ?」

 ふふんと、いつものように嫌味な笑顔を浮かべた烏は、口をわざとらしく歪ませた。

「運命の相手だからですよ」

「気持ち悪りぃ」

 心からそう思った。

 

 

 

 喜知田の家は、思ったよりも近くにあった。寺子屋から10分くらい西に歩いた、住宅地の中央付近。そこは、大きく、荘厳な建物が並んでいるのだが、中でも喜知田の家は一際大きな豪邸であった。どっかの藩主の城と言われても、違和感が無い。違いと言えば、堀と石垣が無いことぐらいだろうか。

 

「流石金持ち。憎たらしい程に大きな家だ」

「そうですか?」

「お前みたいな強者に聞いたのが間違いだった」

 

 頭から落ちそうになる兜巾を手で押さえながら、上を見上げる。ご丁寧にも白塗りにされた壁からは、銃や弓を撃つためか、穴が無数に開いている。心なしか、誰かが自分達を見ているような気がして、背筋が冷たくなった。烏に感づかれないように、彼女の背中にゆっくりと隠れる。

 

「ところで、お前は喜知田に会ってどうするつもりなんだ? そもそもお前と喜知田はどういう関係なんだ」

「どうすると言われれば、取材ですし、どういう関係かと言われれば、これも取材の関係ですね。この前、甘味屋であった後に取材したんですよ。彼の家で。その時に、まぁ仲良くなりまして」

「仲良く」

 

 彼女のいうナカヨクの意味を、私は理解することは出来なかった。打算的に利用できると踏んだのか、一方的に弱みを握ったのか、とにかく不穏な意味であることには違いがない。もし後者であるならば、是非とも教えてもらいたいものだ。

 

「そういうあなたは、一体何をするつもりなんです」

「何ってそりゃあ」頭の中に、彼の、写真を愛しそうに見つめる笑顔が浮かんだ。

「復讐だよ」

「復讐って、たかが家を失ったくらいで。巫女に消されるリスクも考えてください」

「大丈夫だ」

「何がですか?」

「人里の外れの森に出て、その森の近くの墓にでも捨ててくれれば、完全犯罪成立だ」

「馬鹿ですね」

 

 私が反論をしようとしていると、烏の顔が僅かに強張った。かと思うと、すぐに朗らかな笑みを浮かべ、小さく会釈をする。その目は私の、少し後ろを見ているようだった。

 

 慌てて振り返る。すると、そこには男が立っていた。いつの間に後ろにいたのか、全く分からなかった。能面のように無表情で、ただ佇んでいると言った様子のその男は、懐から小さな札を取り出している。

 

 攻撃的な護衛、と小さく声が漏れた。烏が肘で私を小突く。鳩尾に入ったそれは、無視できない痛みを私に与えた。口を開くことが出来ない。

 

「あややや、あなたは喜知田様の使いですね。私は射命丸といいます。不躾ながら、喜知田様についての記事を書きたくて、取材しに来ました。突然の訪問申し訳ありませんが、どうか面会させていただけないでしょうか?」

 

 そう言いながらカメラを持ち上げた烏に倣って、私も錆びているガラクタを胸の前へと掲げる。顔を伏せたのは、正体を見破られることを恐れたのではなく、烏の言葉遣いに笑いそうになったのを誤魔化すためだ。

 

「……分かっ、た。少し、待っていろ」

 小さく呟くようにそう告げた男は、ゆっくりと歩いて家へと戻っていった。彼が一歩進むたびに、私の心臓は跳ね上がる。彼が喜知田に私の事を報告しないか、それだけが心残りだ。

 

「本当に、こんなんで誤魔化せるのか?」

「大丈夫ですって。あなたが変な事を言わなければ問題ないです」

 

 だから、黙っていてください、と言った烏の顔はいつになく真面目であった。人を馬鹿にしたように、いつも吊り上がっていた口角が、真一文字に結ばれている。僅かに身体を震わせた烏は、背中の大きな翼をピンと伸ばし、穴が空く程に私を見つめていた。

 

「天邪鬼。もしあなたが無事に帰りたいならば、ここで退いた方がいいですよ」

「は? お前、さっきは意地でも連れて行くといってたじゃねぇか」

「身の程を知れ、と言っているんです」

 

 そうしないと身体が固まっちゃいますよ、と嘯いた烏の冗談は、全く笑えなかった。ここまで来たのに、のこのこと退ける訳がない。そんな事、烏でも分かるはずだ。

 

「今回は相手が悪いです。さっきの男ですが、中々のやり手だと思います。流石の私でもあなたを庇い切れる自信がありません。弱小妖怪のあなたなら分かるはずですよね。生き残るために必要なのは、無駄な危険を冒さない事ってことぐらい」

「おい、人を勝手に弱小妖怪と決めつけるな。私は強いぞ」

「妖精に負けている時点で、戦力外です」

 

 烏の言い分は全くの正論だ。もし私が彼らと戦ったら、十秒も持たずに命を奪われるだろう。そんな事は百も承知だ。だが、退くわけにはいかない。彼の復讐を受け継ぐわけではない。これは私の問題だ。私の自己中心的な、我儘でしかない。

 

「まあ、最悪お前を盾にしてでも生き残るから、心配するな」

「いや、心配しますよ」

 

 烏は固くなっている表情を少し和らげた。いつものような、飄々として人を苛立たせるような顔に変わっていく。これは、失敗したかと後悔する。もっとしおらしい烏を目に焼き付けておけばよかった。後々馬鹿にできたかもしれない。

 

 烏の顔をまじまじと見ていると、後ろから物音が聞こえた。反射的に振り返る。そこには扉を開けて、笑顔でこちらを見ている喜知田の姿があった。

「ご本人様登場ですね」

 いつものような笑顔で烏はそう呟いた。

 

「いやぁ、ようこそ我が家へ。歓迎しますよ、天狗の記者さん」

 

 長い廊下を歩きながら、喜知田が人当たりの良い笑顔を浮かべた。外見に恥じないほど広い室内は、塵ひとつない程に掃除されていた。ただ唯一意外だったのは、彼の周りには護衛が見当たらないという点だ。外への警戒に回しているのだろうか。

 

「それで? 今回は一体何を取材しに? またあの男の件ですか?」

「いえ、今回はあなたについての記事を書こうと思いまして」

 

 愉快そうに笑っていた喜知田は、烏の言葉を聞き、少し顔を強張らせた。が、すぐに表情を柔らかくすると、そうですか、と楽しそうに笑った。

 

 私も怪しまれないように何か話そうとするが、口が震え、言葉が出ない。口を開くと、暴言を吐いてしまいそうで、天邪鬼としての本領を発揮してしまいそうで、中々話すことが出来ない。“あの男”についてもっと詳しく教えて下さいなんて、死んでも言えなかった。

 

「私の事なんて記事にしても面白くないですよ」喜知田は謙遜か、それとも本心か苦笑いをしながら手を振った。

「あやややや、そんなこと無いですよ。それに、いま私が書いているのは、寺子屋で育った子供たちの今、っていう題目なんです」

「それは良いですね」

 

 嬉しそうに話す喜知田とは対照的に、私は嫌な顔を隠すことが出来なかった。どうしてこの烏は次から次へと出鱈目を並べることが出来るのか。天邪鬼としての面目が丸つぶれだ。元々そんな面目があったかどうかは分からない。

 

 取材という名の他愛もない世間話をしている二人を他所に、ゆっくりと辺りを見渡す。ぎぃぎぃとなる床から刀が飛び出してこないか、天井から矢が飛んでこないか、心配だった。長い廊下の奥の方に見える襖には、金や銀の様々な模様が描かれていた。きっと、あそこが喜知田の部屋なのだろう。趣味が悪いったらありやしない。

 

「ふむふむ、なるほど。次は喜知田さんの好きなものを教えてくれますか?」

「好きな物、ですか」

 

 そう小さく言った喜知田は、二段になっている顎に手をやり、少し考えこんだ。微笑みながら顎を摩る仕草は、まるでお菓子をせがまれているおじいちゃんのようにも、悪だくみをしているガキ大将にも見える。もし何も言われなかったならば、こいつが悪事をするような人間には見えない。

 

 気がつけば、金の刺繍が施された襖の前までたどり着いていた。やはり、この奥が彼の部屋なのだろう。喜知田はそれへと手を伸ばした。

 

「好きな物は」ゆっくりと襖を開けながら、喜知田は口を開いた。

「好きな物は、無駄な抵抗ですかね」

 襖の奥には、檻に入れられた針妙丸の姿があった。

 

 

 

 

 

 

 一瞬、それは只の人形だと思った。なぜなら、檻の中の小さなそれは、目を閉じ、仰向けに寝かされていて、そしてピクリとも動かなかったからだ。顔を見ると、確かに針妙丸であるか、彼女がここにいるとは理解できなかった。あの健気な小人は寺子屋で眠っていたはずで、しかも人里の守護者である慧音が傍にいたはずだ。なのに、なぜこんな所にいるのか、さっぱり分からない。さっぱりすぎて、素麺もびっくりだ。

 

「安心してください。生きていますよ」

 今の所ね、と笑みを浮かべた喜知田は満足げに頷いた。きっと、私がこの現状に絶望しているのだと思っているのだろう。だが、単純に私はまだ現実を直視できていなかった。こんな最悪な展開を、認めたくはなかった。危険性を考えていなかった自分に腹が立つ。彼女だけは、絶対に巻き込んではならなかったのに。

 

「生きてるって、あの檻の中の人形がですか?」

 鳥かごのような、小さな檻に入れられた針妙丸を指さしながら、烏は鼻で笑った。

「いやはや御冗談を。人形遊びは子供の時だけで十分です」

 ですよね、と烏は私に微笑んだが、私はただうつむく事しか出来なかった。頭に被った兜巾が落ち、二つの角が露わになってしまった事も最早気にはならない。

「何とか言って下さいよ、まさか本当にあれは生き物なんですか?」

 

「小人、という種族らしいですよ。そこの天邪鬼の友人です」

 

 え、と烏が小さく声を漏らし、喜知田の方へと目を向けた。パチパチとまばたきをし、私と喜知田を交互に見くらべる。どうして彼女が天邪鬼とバレたんですか、そもそも小人なんて種族聞いたことが無いですよ、というかこの天邪鬼に友人なんていたんですか、と早口で捲し立てる烏は、珍しく動揺していた。

 

「まあまあ、落ち着いてください。急がなくても、私は逃げませんよ」

 

 逃げるのはあなた達の方ですよね、とのうのうと語る喜知田は、物珍しそうに烏を見つめていた。烏天狗、その中でも有数の実力を持つ射命丸の焦る姿は、彼にとっても目を張るものがあったのだろう。いつもであれば、私も馬鹿にするのだが、それが出来ない。狼狽える烏の姿は、余計に私の心をかき乱した。

 

「一応、質問に答えますと」まぁ答える必要はないかもしれませんが、と喜知田は前置きをし、懐から例の銃を取り出した。

「小人という種族がいたのは、私も知りませんでしたよ。まんまと騙されかけましたね。最初はよく出来た人形だと思いましたよ。まぁ、彼女によく似ていたので、疑問には思いましたが」

「彼女、ね」

 

 知らず知らずのうちに、口が動いていた。彼女に似ているのは当然だ。針妙丸はあの蕎麦屋の親父の娘である。なら、当然その奥さんの娘でもあるのだ。母が子に似るのは、何も不思議な事ではない。だが、なぜこいつがそんな事を分かるのかが、不思議だった。疑惑が、僅かに残っていた白い霧が、晴れていく。間違いなく、奥さんを殺したのはこいつだ。

 

「そんなに睨まないで下さいよ。あなたの目は鋭くて、怖いんです。それこそ、そんな陳腐な扮装では隠しきれないほど、ね」

 

 私は烏を睨みつけた。あややや、と低く唸るように言った烏の顔は、てっきり天邪鬼がちゃんとしないからですよ、と茶化す様にうざったい笑みを浮かべていると思ったが、凍り付いたかのように真顔だった。針妙丸の事を一瞬忘れてしまうほど、恐怖を感じた。

 

「いい度胸ですね、人間風情が烏天狗の正装を馬鹿にするとは。いやぁ、無知とはいかに愚かなことか、身に染みて分かります。あ、当然あなたの血が染みるんですよ? 勘違いしないでほしいですが、私はこの天邪鬼ほど優しくも弱くもない。たかが小人が一人死のうがどうでもいい、そこの所分かっていますか?」

 

 黒い羽根が、大きく羽ばたいた。恐れることも忘れ、見とれてしまう。が、すぐに烏の言葉を思い出し、肝が冷えた。私に向いていないはずなのに、烏の殺意が肌を刺し、チクチクと痛みを与える。腐っても大妖怪の端くれ、今すぐにここから飛び出して、逃げ出したいという衝動に駆られ、事実そうしたかったのだが、足が言う事を聞かない。だが、彼女を止めなければならない。重苦しい空気の中、なぜか笑みを浮かべている喜知田を出来る限り見ないようにし、何とか口を開いた。

 

「射命丸、止めろ」

「あやや、黙っていてください。あなたみたいな弱小妖怪は、やはり連れてくるべきでは無かった。記事のネタも書けないどころか足手纏いになるなんて、生きている意味があるんですか?」

「落ち着けと言っているんだ」

「煩い!」

 

 烏は完全に頭に血が上っていた。ここまで激憤している烏は見たことが無い。それこそ、普段私が投げつけている素敵な暴言の方が、遥かに烏天狗を馬鹿にしているというのに。じつは烏は私に少なくない好意を抱いていて、普段の狼藉を寛大な心で許していたのか。いや、絶対にあり得ない。むしろ逆だ。なら、なぜこんなにも烏が怒っているのか。

 

 なぜ、烏の感情が揺さぶられているのか。

 

 頭に衝撃が走った。私も烏のように、胸に溜まった絶望と怒りが爆発したのかと思ったが、違った。烏が私の襟首をつかみ、大きく揺さぶったのだ。力任せに大きく揺らされるせいで、ひどく首が痛い。頭がガクガクと揺れ、脳が震える。頭痛がし、視界が安定しない。烏が何やら喚いているが、私には只の獣の雄叫びにしか聞こえなかった。

 

 烏の首元を掴む手が離れた。その場に崩れ落ちそうになったが、なんとか持ちこたえる。烏が正気に戻ったのか、と安堵のため息が出たが、すぐにそれは間違いだったと思い知らされる。

 

 烏の手には団扇が握られていた。ただの団扇であれば、ああ、こんな肌寒い季節に団扇を持っているなんて、なんて愚かなんでしょう、と馬鹿にも出来たのだが、残念ながら普通の団扇ではない。燃え盛る炎のように、真っ赤な椛の葉団扇は、巨人の手のような威圧感を放っている。妖力なのか、霊力なのか分からないが、空気が震えたかのような錯覚を覚えた。流石の喜知田も怖気づいたのか、目を細くして、何やら呟いている。檻の中の、針妙丸へと目を向ける。こんな状況にも関わらず、身動き一つせずに眠っているようだった。

 

 烏が手を大きくあげる。その姿は演劇のように美しかったが、恐ろしくもある。喜知田の息をのむ声が私の耳へと届いた。護衛は、と小さく言った喜知田は、諦めたかのように手をひらひらと振っている。

 

 発作的に身体が動いた。烏の足に向かい、姿勢を低くして突進する。正気を失っているはずなのに、烏は予想していたかのように、上に跳んでかわそうとする。が、烏はそうはしなかった。あ、と小さく口を開いた烏は、殺気を少し緩ませ、固まる。少し焦ったのか、不格好に口が緩んでいる。一体どうしたのか、と目線だけを上にあげると、落ちてくるカメラが目に入った。彼女の胸ポケットにしまってあったカメラが、落ちてしまったのだと理解する。怒りくるっているにも関わらず、本能か、それとも執念か、烏はカメラへと手を伸ばした。

 

 それが決定的な隙となった。そこまで勢いがない私の体が、烏の体へと吸い込まれるように、ぶつかる。鳩尾に頭を入れ、腰を手に回す。そのまま床へと叩きつけるように、倒れ込んだ。ごつんと鈍い音がして、角が肉を突きさす感覚がした。一瞬、おお、と烏が声を漏らした気がしたが、とにかく、辺りはしんと静まり返った。ゆっくりと、身体を起こす。烏は、気を失ったのか目を閉じて、ぴくりとも動かさなかった。その顔は、なぜか怒りの形相や、真顔ですらなく、楽しそうに微笑んでいた。だが、カメラと葉団扇はしっかりと両手に握られている。

 

 後ろを振り返る。そこには、少し目を丸くした喜知田と、相も変わらず起きる気配のない囚われのお姫様がいるだけだった。

 

 

 

「いやぁ助けてくださって、ありがとうございました」

 

 一時はどうなるかと思いましたよ、と銃を手に持ったまま、とうとうと喜知田は言った。なぜその銃を使わなかったのかと問い詰めたいが、余計な事をいうと私に使われそうで、怖い。

 

「やっぱり、呪いというのは上手くいかないものですね」

「は? まて、呪い? どういうことだ」

 やれやれ、と肩をすくめた喜知田に、今すぐ殴り掛かりたいが、手に持った銃を向けられ、足が止まる。

「知っていますか? 烏天狗、とくに射命丸文ってのは強大な妖怪なんですよ。幻想郷最速の速さを持ち、人間の数百倍の頭脳と思考力を駆使して、腕力の強さも随一。普段は力の片鱗も見せませんが、幻想郷一の妖怪と言っても過言ではありません」

「いや、過言だろ」普段の烏からは、とてもそうは見えない。

「ですが、弱点が無い訳ではないんです」

「耳か」

「心です」

 

 もしかして、喜知田は私を馬鹿にしているのだろうか。そう思う程に、ばかげている。あの厚顔無恥な烏の弱点が心だったら、それは無敵という意味と同義だ。

 

「といっても、大概の妖怪の弱点も同じですけどね。いかに強靭な肉体を持っていても、存在の理由を人間の畏怖や恐怖に依存している以上、精神攻撃には弱いんですよ。だから、そこを突いた」

「何を言っているんだ」

「呪い、っていうのは精神を破壊するのに便利だと思ったんですがね。精々、情緒不安定にするだけにとどまるとは。見当違いでしたよ。あとで、護衛には罰を与えなくてはいけません。五人がかりであの程度の呪いとは。あやうく、死ぬところでしたね」

 

 烏が急に怒り出した理由は、それが原因だったのだろうか。だとすれば、どうして私は精神がおかしくなっていないのか、疑問に思った。が、すぐに分かった。私の精神は既にもうおかしいからだ。

 

「やっぱり、呪いなんて当てにするべきではないですね。あの男も、馬鹿な事をしたもんだ。やっぱり復讐するなら、この銃みたいな単純な暴力の方がいい。分かりやすいし、失敗しない」

「搦手を使わずに?」

「復讐に搦手も何もありませんけどね」

 

 復讐。喜知田は確かにそう言った。それは単に口を滑らせただけなのか、それとも意図的に言っているのか、分からない。ただ、私を動揺させるのには十分だった。蕎麦屋の親父の、妻が殺されたと知った時の顔を思い出す。取り乱すでも、絶望するでもなく、彼は薄く苦笑いを浮かべ、そうか、と呟いた。彼があの時、どのような心境だったかは分からない。ただ、あの日以来、彼が変わってしまった事は確かだ。

 

「ところで」

 そういえば、といった様子で、喜知田は手を叩いた。その時に、銃が暴発して自分の頭を撃ちぬいてくれないか、と期待するが、そう上手くはいかない。

「ところで、あなたはあの男とどういった関係なのですか?」

「どういうって」

「ああ、やっぱり質問を変えましょう。あなたは、私とあの男についてどのくらい知っていますか」

 

 喜知田は、口調こそ穏やかだったものの、目は全く笑っていなかった。黒いウジ虫を角膜の中に飼っているかのように、瞳孔が蠢いている。背筋に冷たい汗が流れた。ここで失言をしてしまえば、復讐劇は喜劇となって終わってしまう。そんな事は分かっていた。だが、胸の中に籠った鬱憤を堪えることは難しい。

 

「何も、知らない」

「本当に? まったくという事は無いでしょう」

「少なくとも慧音はそう言っていたが、そうだな。私が知っていることと言えば、お前はおはぎを奢ってくれるような奴だが、その実、いきなり人の家に押し寄せて、小さな銃を使ってその家を占拠する、そして」

「そして?」

「人の妻を、包丁で刺殺するってことくらいしか、知らねぇな」

 

 パンと、乾いた音が部屋に響いた。

 

 

 

 動揺を隠せなかった喜知田は、震えが収まらない手で闇雲に銃を撃った。が、標準の定まっていないそれは、壁に穴を空けるばかりで、私にはかすりもしなかった。

 

 なんて、都合よくいくはずもなく、不気味な微笑みを崩さない喜知田は、真っすぐに銃口を向け、一発で正確に私の右肩を打ち抜いた。

 

 撃たれた右肩に、手を当てる。堰を切るように血が流れだしていき、あっという間に手から溢れ出た。私の体にこんなに血が流れていたのか、という程に血が足元に溜まっていく。

 

 不思議と痛みはなかった。感覚すらなかった。ただ、撃たれたと思っただけで、それがどうした、と心が訴える。たかが、撃たれただけだ。そんなんじゃぁ、私は止まらない。

 

「どこで聞いたか知りませんが、そんなのは悪質な妄言ですよ」

 

 喜知田は、道端の吐しゃ物を見るような目で、私を見下した。撃たれた右肩を抑える手に力が入る。血は止まるどころか、勢いを増していった。

 

「慧音から聞いたといっても?」

「ええ、それは妄言です。確かに、あの女は気に入らなかったですよ。折角の私の誘いを断って、あんな薄汚い男の元へ行くとは。愚かにもほどがある。あんな女は、死んで当然だ。いや、むしろ社会のためにも死んだほうがいい。浄化ですよ。愚民を消すことによって、社会の利益につながるのです。だって、考えてみても下さい。この私が! わざわざ面倒を見てやると言っているのに! だから、私は包丁で。そう包丁だった。包丁でさばいたんですよ」

 

 傑作でしょう、と喜知田は淡々と、過去の思い出話をするかのように、言った。声には僅かな揺れも、感情も無かった。文章を朗読するよりも無感情に、事実を伝えるためと言った様子で、微笑みを浮かべながら、言ったのだ。

 

「まあ、もうあんな思いは御免ですがね。後処理が大変で。ええ、まさに動物を捌いた後のようにね。まぁ、その心配もあの男が死を持って解決してくれました。皆が言えばそれが嘘でも本当になる。そしてそれが常識となる。いい言葉ですね」

「彼の、蕎麦屋の親父の悪評は、妻を殺したというデマはお前が流したのか」

「彼、ですか。やっぱり、親しい仲なんですね。再婚相手ですか」

「随分と饒舌じゃねぇか。動揺が隠しきれていないぞ」

「人は楽しいと饒舌になるんですよ。無駄な抵抗は最高です」

 下手くそな南蛮語の訳のように、喜知田は言った。

 

 最早疑惑は確信へと、真実へと変わった。目の前の、憎らしい豚を殺さない理由なんてない。私の頭は急速に冷えていった。相手は銃を持っている。だからどうした。右肩から砕けた骨が見えている。だからどうした。烏が横で倒れている。だからどうした。

 彼が巻き込みたくないと言っていた少女が、目の前で横になっている。

 

 だから、どうした。

 

 

 床を強く蹴り、身体を前へと傾かせる。動かない右肩のせいで、体勢を崩しかけるが、気にせず勢いをつけたまま喜知田へと向かっていく。喜知田は、驚いたのか、それとも呆れているのか、表情を変えないままゆっくりと、銃を持った手を突き出した。指先が動き、引き金に人差し指がかかるのが目に入った。意識より先に、身体が動く。地面に倒れ込むように、重心を落とし、もつれる足を強引に動かす。ふらつきながらも、前に進む。頭上で、乾いた破裂音がして、頬に鋭い痛みが走った。だが、気にしない。

 

 目の前に喜知田の腰が迫る。烏の時のように、そのまま突っ込もうとするが、銃を持つ手が、腰付近に添えられているのを見て、咄嗟に体を捻り、投げ出すようにして足を出す。またしても、小さな、けれども、確実に命を奪わんとする悪意の思った音が、耳をかすめた。だが、痛みはない。なら、止まる必要も無い。滑り込むように、喜知田の左足を蹴り飛ばす。意表を突かれたのか、目を丸くした喜知田は抵抗することなく、床に倒れ込んだ。仰向けにひっくり返った喜知田の右手を思いっきり叩きつけ、銃を吹き飛ばす。すぐさま馬乗りになり、左手を首元にあてがう。ぬめりとした汗の感触に、つい手を離してしまいそうになるが、こらえる。そのまま体重をかけていき、気管を押しつぶす。

 

 喜知田の鼻の穴が膨らむのが分かった。酸素を求めているのか、それとも何かを伝えたいのか、口がぱくぱくと動いた。だが、気にしない。左手にこめる力をさらに強くする。力を込めすぎたからか、爪が食い込み、喜知田の首から血が垂れた。顔には、血管が浮かび上がっており、目玉は今にも飛び出そうとばかりに、外へと剥き出しになっている。喜知田が、身体をよじった。両足をばたつかせ、腰を浮かせる。私をひっくり返そうと、駄々っ子のように暴れはじめる。それに抗おうと、必死になって左手に体重をかける。大きく体を揺さぶった後、喜知田は抵抗を止めた。口からは泡のようなものが溢れており、目玉は上を向いている。顔に浮かんでいた血管はなくなり、真っ赤で白目をむいている顔は酔っ払いのようにも、赤子のようにも見える。左手を、首から離した。

 

 ふぅ、と息が漏れる。体から急に力が抜けていった。血を流し過ぎたからか、視界がチカチカと点滅する。右肩に手を置く。赤黒く粘りけのある液体で、服がぐしょぐしょになっていた。痛みはない。あまりに痛すぎて、脳がその痛みを認識することを拒否しているかのようだ。

 

 またしても、視界が白黒と点滅する。体が嫌な浮遊感に包まれた。平衡感覚が、曖昧になっていく。

 

 気がつけば、世界がひっくり返っていた。顔を真っ青にして倒れている喜知田を見下していたはずが、いつの間にか、天井を見上げている。自分が床に倒れたと分かったのは、すぐ左にある烏の顔に驚いた時だった。最初は、単純に体力の限界か、それとも貧血によるものかと思ったが、違った。足に、違和感を覚える。顔を上げて左足を見ると、脛の辺りが血で真っ赤に染まっていた。銃で撃たれたのだ、と気がついた時には、もう遅く、倒れていたはずの喜知田が私の腰を抑えて、馬乗りになっていた。その手には、小さな、銀色の銃が握られている。

 

「油断しましたね」

 

 かすれる声で喜知田は言った。そのまま銃口を私の眉間へと押し付ける。冷たい金属の感触が、頭を冷やしていく。

 

 死ぬ。こんどこそ死ぬ。人間に殺されるなんて、弱小妖怪らしい素敵な末路だ。きっと、烏はこんな感じで見出しをつけるのだろうな、と思った。

 

「慧音が、お前はもう人殺しはしないと言っていたが」

「ええ、人間は殺すと後処理が大変って、いったじゃないですか。妖怪なら問題なしです」

 

 それでは、地獄であの男と会えるといいですね、と言った喜知田は、銃を持つ手に力を込めた。その目には、僅かな動揺も無かった。先程まで首を絞められていたのに、ピンピンしている。あれは演技だったのだろうか。

 

 濃密な死の気配が全身を覆う。もう、声を出すことすら出来なかった。弱者らしく、惨めに床に這いつくばる事しか出来ない。

 

 私は、憎悪にも似た怒りを感じた。奥さんを失った時の、彼の空笑いが目に浮かんだ。彼を殺した時の、包丁の感覚がよみがえる。なぜ、彼らはただ懸命に生きていただけなのに、あんな目に会うのか。考えるだけで、身体が引き裂さかれたかのような痛みを感じる。ここで動かなくてどうするのか。体を懸命に動かし、上の喜知田をどかそうとする。が、まるで瓦礫に埋もれたかのように、ぴくりともしない。私は屈辱と諦めで、押しつぶされてしまいそうだった。

 

 高い声が木霊したのは、その時だ。正確には、部屋の隅におかれた、小さな檻の中の少女が叫ぶ声だ。それが、部屋に響き渡った。

 

 一瞬の事だ。その小さな檻を乱雑にガンガンと揺すりながら、針妙丸が大声で叫んでいる。その声はもはや悲鳴に近く、何を言っているか分からなかった。

 

 私は、固まっている喜知田を他所に、激しく体を揺さぶった。今のうちに、この態勢から抜け出したかった。が、抜け出すより早く、左から風の切る音が聞こえた。上に乗っていた喜知田が、いつの間にか壁際まで吹き飛ばされている。一体何が起きたのか、確認するよりも早く、身体に浮遊感が走る。強い風と、冷たい空気が肌を刺し、目を開けることが出来ない。どうやら、喜知田の家から飛び出し、人里の上空を飛んでいるようだった。あまりにも動きが速すぎる。

 

「あやややや、大丈夫ですか?」

 右から、愉快そうな烏の声が聞こえた。

「結構血が出てますよ。悪い血を出すって感じですかね」

「そうだよ! そんなに血が出て、わたしは心配だよ!」

 今度は左から、声が聞こえた。ガシャンガシャンと金属が揺れる音と共に、もー! と不満そうな声をあげる小人が地団太を踏んでいる姿が、目に浮かんだ。

「喧嘩は駄目なんだからね!」

 

 烏がふき出した。つられて、私も笑う。笑うたびに傷口が痛むが、そんな事は気にならなかった。怒りや憎しみが、霧散していくかのようだった。

 

「なんで笑うの!?」

「あやややや、すみません。つい」

 

 彼の、純粋に育ってほしいという願いはどうやら叶っているようだった。ただ、いささか純粋すぎるかもしれない。

 

「それは置いといて。烏、お前は何時から起きていたんだ?」

 

 烏は、人里で飛んではいけないという注意を忘れたのか、覚えているのか分からないが、私と針妙丸を両手に抱えながらも、弾丸のような速さで飛んでいた。流れていく景色が、川のように見える。とても、直前まで気を失っていたとは思えない。

 

「当然、最初からですよ」平然と、烏は笑った。

「あんな頭突きで、私が倒れる訳ないじゃないですか。演技ですよ、演技。いやぁ、面白かったですよ」

「早く助けろよ」

「助けたじゃないですか。致命傷を負う前に。それだけでも感謝してほしいくらいです」

 

 ニコニコと笑みを浮かべる烏に、心底呆れた。と、共に急に力が抜ける。思ったよりも疲弊していたようで、身体も、頭も限界だった、烏の手に体重をすべて委ね、重力に身を任せる。喜知田への怒りはまだある。が、何も機会が失われた訳じゃない。そう自分に言い聞かせる。そして、忘れてはいけないことを、思い出した。

 

「烏、お前に一つ頼みがある」

「あやややや、図々しいにも程がありませんか?」

「大丈夫だ。代わりにそこの人形を貸してやる」

「え? っえ!?」

「えー、いらないです」

「それも酷い!」針妙丸は、ぷりぷりと怒り始めた。が、よく見ると、眉は下がり、目の端には涙が浮かんでいる。もしかすると、血まみれの私を見て、死んでしまうのかと心配し、元気づけるために、わざとやっているのかもしれない。

 

「まぁ、どちらにせよ、私にそこまでする義理は無いです」

「なぁ、いいじゃねぇか」

 

 蕎麦を打つ彼と、笑顔で微笑む奥さんと、淡々と銃を撃つ喜知田を思い浮かべる。失敗した。弱者の私では、到底歯向かう事などできなかった。悔しいが、烏の助けがなければ、今頃死んでいただろう。感謝はしないが。だが、この失敗を、失敗で終わらせたくはない。

 

「そもそも、復讐なんて馬鹿な事をするからですよ。誰も得をしません」

「分かってないな。お前は」私は嘲笑を隠すことが出来なかった。

「復讐ってのは、誰のためでもねぇ。自分のためにやるんだよ。やりようのない怒りを、悲しみを、憎しみで誤魔化すんだ。それを醜いと笑うか? 笑えるのは強者だけだ。それに色んな理由をつけて正当化することも、悪いといえるか? 弱者の気持ちなんて、所詮はお前らには分からないんだよ」

 

 烏は返事をしなかった。代わりに口を開いたのは、針妙丸だった。

 

「そうだよ。復習は、自分のためだって、慧音先生が言ってた!」

 

 私と烏は、ため息を漏らすことしかできなかった。ここまでくると、慧音の教育に疑問を覚える程だ。純粋すぎて、眩しすぎて、私のような妖怪には辛すぎる。それは、烏も同じようで、歯に物が詰まったかのような、微妙な顔をしていた。

 

「とにかく、頼みがあるんだ。よろしくな」

「えー」

「いいじゃないか」

 私は、顔を上げ、烏の顔を見つめた。

「運命の相手なんだし」

「止めてください、まじで」

 苦笑いをする烏の声に、いつもの元気はなかった。

 


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