行きつけの蕎麦屋の親父に、お前は人間よりも人間らしい、と言われたことがある。言われたといっても、その時彼は既に死んでいた、私が殺していたので、正確には、書置きにそう記されていた、といった方が正しい。
いつもならば、机の向こう側にいるはずの彼の姿が見えない。当然だ。彼は今頃人里の外の墓場で優雅に眠っているはずなのだから。そうと分かっているはずなのに、よう、と陽気に手を上げる彼の姿が頭から離れない。頭を振って、その幻覚を消し去る。それでも消えない。目をつぶり、机に手を置き、身を乗り出した。思ったよりも勢いがつき、そのまま反対側へと転がり落ちてしまう。世界がくるくるとまわり、気がつけば、尻餅をついて床に座り込んでいた。何をやっているんだ、とつい口に出てしまう。
書置きを見つけたのは偶然だった。立ち上がろうと、床に手を置いた時に、何かざらりとした感触がし、摘まみ上げてみると、一枚の紙きれであることが分かった。端が折れ曲がっているそれは、ところどころ赤黒い染みがついていて、ふやけている。墨で書かれているのか、ふやけている部分だけ、文字が変に滲んでいた。が、間違いなく彼の字であることは分かった。
文の書き出しは、彼らしからぬ丁寧な書き出しで、"拝啓、天邪鬼"と書かれていた。つい、頬が緩む。拝啓だなんて、似合わな過ぎて、寒気がするくらいだ。うるむ目をこすりながら、ゆっくりと手紙を読み進める。
"拝啓、天邪鬼。前にも言ったが、お前は人間よりも人間らしい。いいか。これは誉め言葉だ。お前は人間よりも弱い。身体能力も、忍耐力も、精神力も、妖怪であるにも関わらず、人間よりも弱い。いいか、一見これは短所にみえるし、実際短所だ。だけどな、視点を変えろ。逆に考えるんだ。それは何よりもお前の長所になりうる。いいか、逆に考えるんだ。分かったな。逆だ。あと、もしお前が良ければでいいのだが、娘の様子を見守ってくれ。いいか、見守るだけだぞ。お前みたいな短所しかない奴は、悪影響しか与えないから。絶対だぞ。それじゃぁ、お休みだな"
「勝手な事ばかりいいやがって」
くしゃりと紙がひしゃげた。いつの間にか手に力が加わって、手紙を握りつぶしてしまっていた。
誰がお前の言う通りになんて動いてやるか。私を誰だと思っている。天邪鬼だぞ。そう呟く。私の声は、虚空に消えていき、静寂だけが残った。ひとまず、これからどうするか、考えた。だが、思いつかない。今まで通り、適当な奴から飯をたかり、馬鹿にして、嫌がらせをする生活に戻る。これは間違い無い。だが、それだけでいいのだろうか。何かをした方がいいのではないか。
そうだ、と思いつくことがあった。確かな目標があったわけではない。何となく、こうしようと思っただけだ。きまぐれで、思っただけだ。
取り敢えず、こいつの娘に会おうか。
馬鹿馬鹿しい、と立ち上がろうとした時、視界の端に見覚えのあるものが映った。一瞬、現実を理解することができず、目を擦り、もう一度それを見つめる。長く、途中で直角に折れた机の真ん中付近、そこにそれはあった。
そこに蕎麦があった。
自分が見落としていたのか、存在するのが当然かのように蕎麦は平然と佇んでいる。彼を殺してから、もう半日が過ぎようとしているのに、大きな器からは湯気が立ち昇っていた。どう考えてもおかしい。おかしいが、納得してしまう。懐かしさと、切なさで胸が絞られる。まさか本当に、死んでからも蕎麦を作ったのだろうか。尊敬よりも呆れの方が先に浮かんだ
箸をつかみ、ゆっくりと蕎麦へと近づく。いつもの香ばしい匂いが鼻を覆い、目頭が熱くなる。彼の得意げな顔が頭から離れない。
蕎麦に箸を付けようとした時、初めて違和感に気がついた。いつもは、鰹節のような透き通った茶色のつゆに、石臼のような色の細い麺があるだけだった。だが、今回は違った。その、いつもの蕎麦の上に、見慣れないものが浮かんでいたのだ。
黄金色で、ところどころ焦げ茶に色づいている円形のそれは、よく見ると小さな海老や、シソの葉が一つに纏まっている。汁でふやけているが、そのきれいな形は崩れていなかった
「絶対に嫌だとか言ってやがったくせに」
彼が何かと口にしていたかき揚げを口へと運ぶ。今考えると、彼はかき揚げを練習していたのだろう。それを私に食べさせたくて、わざとあんなことを言ったのかもしれない。本当に、どっちが天邪鬼なのだか、分からない。
「ああ、まずいなぁ」
今度はもっとうまいのを頼むぜ、と笑う。今でもうまいだろうが、と返事が聞こえた気がした。
目が覚めると、木で出来た天井が目に映った。やけに高く、また、見たこともないくらいに綺麗な縦じまの木目だった。それが、規則正しく縦横と網のように交差していて、籠のような形になっている。いつから、蕎麦屋の親父は芸術家の親父へと転職したのだろう、と不思議に思いながら、目をこする。
「あ、起きた!」
「え」
彼にしては、みょうに甲高く、無邪気な声に一瞬戸惑ってしまった。ゆっくりと、声のした方へ体を回そうとする。が、鈍い痛みが全身を走り、断念した。そのまま、倒れ込むように布団にうずくまる。よく見てみると、布団から綿が出ておらず、赤茶色の染みも無い。さらさらと肌触りは、まるで絹の様だ。
「わわ、大丈夫? 無理しちゃだめだよ」
混乱する頭に叩き込むかのように、大きな声が耳を突いた。頭の中にある液体が、声によって波を打ち、脳みそをガンガンと打ち付けているようだ。
だが、そのおかげで状況が分かってきた。思い出してきたと言った方が正しいかもしれない。昨日、喜知田の家からむざむざと敗走し、配送された私は、烏の家で治療という名の拷問を受け、布団で寝かせられていたのだ。情けない。とは思わなかった。よく失敗は成功の元、という言葉が持て囃されているが、私みたいな弱小妖怪からすれば、それは誤りだ。正しくは、失敗は失敗の元である。どんなに失敗しようが、成功はしない。反省を生かすだけで成功するのならば、努力家はみな報われるのだ。だから、失敗を失敗のままにしてはいけない。
だが、後悔はなくも無かった。それは、目の前で"死んじゃだめ! "と目の端に涙を浮かべながら私の体を揺さぶろうとしている小人の存在だ。彼女を巻き込んではいけなかった。彼女は慧音の元で、平和で、和気藹々と、それこそ蝶よ花よと育てられなくてはならない。やはり、彼女に会いに行ったのは失敗だったか。彼の言う通り、このままでは私は水の泡にしてしまう。何をか。全てをだ。
「おい、人が寝てるんだから静かにしてくれ」
「うわっ」
しゃべった! と大袈裟に手を振り回しながら、ペタンと尻餅をついた針妙丸は、その小さな体全体を使って「大丈夫なら言ってよ!」と怒り始めた。顔をタコのように赤くし、胸の前に出した腕を上下に揺さぶっている。
「なんだそれは。カマキリの威嚇か」
「違うよ! 心の準備ができてなかったからびっくりしたの!」
「馬鹿か。準備なんていらねぇよ。怪我をする前に包帯を巻くやつがどこにいる」
憤る針妙丸に背を向け、また布団を被ろうとする。そこで、自分の腕がうまく動かないことに気がついた。昨日の怪我が響いているのか、それとも烏の塩水のせいなのか、分からない。
「ところで、烏はどうした」
「烏? ああ、文お姉ちゃんのこと?」
あやおねえちゃん、と口の中で言葉を転がす。なんて不気味な単語だろうか。こんな残虐な言葉がこの世に存在していたのか。戦慄し、鳥肌が立った。
「昨日は恰好よかったよね。私もあんな風になりたいな」
「絶対にやめろ」
「なんで?」
「細かい事は気にするんじゃねぇ。それより、烏はいないのか?」
「文お姉ちゃんは出かけたよ」と部屋の奥に積まれている新聞を指さしながら、針妙丸は笑った。
「なんか、たくさん紙を持って出かけていった」
「そうか」
きっと、朝刊を配りに行ったのだろうとあたりをつける。昨日の今日で、新聞が出来上がるものなのかどうかは分からなかったが、自称幻想郷最速の名は伊達ではないようだ。
痛む体に鞭を打ち、布団から体を起こす。大丈夫? と声をかけてくる針妙丸を無視して、左手を軸に立ち上がる。電流が走ったかのような衝撃が体を蝕むが、無視した。思うように動かない左手を庇うようにして、部屋の奥へと足を進める。きれいに整頓された紙の塔の中から、一枚上にあった物を抜き取った。昨日、必死に作ったのであろう。"射命丸文は天才かもしれない"と記事の端に走り書きがあった。安心しろ。お前はちゃんと凡才だ。
意識したわけではなかったが、鬼人正邪ってのはいい名前だな、と声を漏らしていた。烏の新聞にでかでかと書いてあったその文字は、心にすっと溶け込んでいく。
名前。人間にとってはそうでもないかもしれないが、妖怪にとっては重要なものだ。存在の証明。恐怖の源泉。信仰の対象。とにかく、人々に忘れられることが、そのまま死に直結する妖怪にとって、名前というものは大事なのだ。ではなぜ私には今まで名前がなかったのか。理由は単純。いくら私が名前を名乗ろうが、人に強制的に呼ばせようが、結局のところみなは私を天邪鬼と呼んだ。私以外の天邪鬼がいたなら良かったが、残念ながら見たことがない。だが、それも今日で終わりだ。"天邪鬼では、インパクトが足りません"と嘆いた烏の一言から、私の名前がなし崩し的に決まってしまった。別にそれに思うところはなかった。結果的につけられた名前にも文句はない。ただ、唯一気に入らないのは。
「そうでしょ。なんてったって、私がつけたんだから」
針妙丸が発案したという事だ。
鬼人正邪。鬼と人。正と邪。そして貴人聖者と"鬼人正邪"。どこをとっても私の、天邪鬼の性質を表している。当然、針妙丸はそんな事を意識したつもりもなければ、そもそもそんな漢字も熟語も知らなかった。では、なぜそんな名前をつけたのかと訊ねると
「なんとなく、頭に浮かんだの」とのことだった。
そんな、何となくで決められた名前は、烏によって人里中にばら撒かれているのだろう。それも、とびっきりの悪評と共に。むしろ、そうでなくては困る。
「ねぇ、せいじゃ」
「なんだ」
「これからどうするの?」
「そりゃ」
何も決めていない。本当に、これからどうしようか。人里で暮らせるか分からないが、それ以外に生きる当てもない。このまま烏のヒモになるのも悪くはないかもしれない。
ただ取り敢えず言えるのは、私は二度と針妙丸と関わるべきではないという事だ。
「なぁ、チビ」
「チビじゃないもん」
「突然だが、私はお前が嫌いだ」
「え?」
「もっといえば、慧音も、烏も嫌いだ。目障りだ。存在が邪魔だ」
「ひ、ひどい」
「酷くねぇよ。事実をいって何が悪い。お前みたいなガキと関わるのは疲れるんだよ。住む世界が違うんだ」
「何いってんの?」
てっきり怒り出すと思っていたが、針妙丸はこてんと首を傾げた。不思議そうに目を丸くしてこちらを見つめている。まるで子猫のようだ。
「住む世界がちがうって、おなじ人里に住んでるじゃん」
「そうじゃなくてだな……」
張り詰めていた心が、すとんと軽くなった。呆れてものも言えない。能天気にもほどがある。もしかすると、こいつは自分が殺されそうになっているときも、こんな風にのほほんと見当違いのことを言い出すのではないか、と心配になる。もし眉間に銃を、武器を突きつけられた時、「私は食べても美味しくないよ」と本気で言い出しそうだ。
銃を突きつけられる、というイメージから、つい昨日のことを思い浮かべる。昨日、針妙丸はあの喜知田との血生臭い“喧嘩”を、ほとんど眠らされていたとはいえ目撃していた。その事実が心の重しとなって私を苦しめる。喜知田とこの少女との関りは是が非でも絶たないといけない。彼女のためでも、彼のためでもない。私のために、だ。
「いいか。私は不良なんだよ。悪人なんだ。お前らみたいな平和ボケした奴と一緒にいたら、腕が鈍っちまう」
「なんの腕がなまるの?」
「慧音を怒らせる腕だよ」
「そんな腕があるの?」
「ねぇよ。何だよ慧音を怒らせる腕って。千手観音かよ」
「千手観音さまにもそんな腕はないと思う」
もう一度部屋を見渡し、金目になりそうなものが落ちていないのを確認して、ベッドに戻った。スプリングが軋み、身体を押し返してくるのが心地良い。隣でベッドに座っていた針妙丸が反動で宙を舞ったのはもっと心地よかった。
「とにかく、お前らと一緒にいると駄目なんだよ」
「えー」
不服そうに眉を下げた針妙丸は、でもさー、と不貞腐れるように、口を尖らせた。体をこちらに寄せ、よりかかってくる。避けようとするも、痛みのせいか動くことができなかった
「でも、人ってそんな風にいい人とわるい人って分かれないんじゃないかな?」
「え」
「寺子屋でも、どんなにいい子でも授業中寝るときあるし、どんな悪い子でもけいね先生に褒められることもあるよ。それに、悪い子もけいね先生に謝ったら、いい子になるの。だから、いい人とわるい人って、あんまりちがわないと思う」
「蕎麦と同じでか」
「そば?」
「何でもねぇよ」
針妙丸の頭を包帯で巻かれた手で強く撫でる。いたいよー、と満更でもなさそうな声を出す彼女を無視して、さらに力を加えて、顔を押し込むように髪をわしわしとかき回す。彼女の言葉に感激し、褒め称えているのではない。今の私の顔を見られたくなかったのだ。涙こそ流れていないはずだが、不自然に顔が熱い。やはり、あいつの子だ。口元のにやけが収まらない。分かっていたはずなのに、それでも喜びがあふれた。
「というか、そもそもせいじゃは悪人じゃないと思うんだけど」
「そうか?」私の声は、わずかに震えている。
「うん。たぶん、みんなは信じてくれないと思うけど」
「きっと」
彼の言葉が頭に響く。さっきまで、全く覚えていなかった会話が、鮮明に思い出されていく。なつかしく、それが何よりうれしかった。私が忘れない限り、彼は私の心に生き続ける。そんなクサくて、阿呆らしくて、反吐が出るようなことが頭に浮かんだ。そんなことを一瞬でも考えてしまった自分が恥ずかしくて仕方がない。彼が知ったら、天邪鬼とは何だったのか、と呆れるだろう。私もそう思う。が、それでも胸の切なさと高揚感は消えない。
「きっと、お前以外にも一人ぐらいそう言ったやつがいたかもな」
「まさかー」
「なんで信じねぇんだよ」
「あなたみたいな悪い人の言うこと、信じる人はいないよ」
こらえきれず、私は大きな声で笑った。包帯の奥の傷が痛むが、それすら気にならないくらいだ。こころなしか、部屋の扉が私の声で、カタカタと震えた気がした。
「お前らはやっぱりあれだな」
「あれ?」
「まあ、血は争えないってやつだな」
「ち? また喧嘩でもするの?」
「ばーか」
起きたときの鬱蒼とした気分はもはや消え去り、かえって清々しい気分へ変わっていた。喜知田への憎しみや、針妙丸への罪悪感は確かに残っている。それでも、どこか心が軽い。気が晴れたからか、昨日から何も食べていないことにやっと気がつき、急速に腹が減ってくる。烏が帰ってくる前に食いもんでも食べ尽くしておくか、とベッドから立とうとしたとき、腰の違和感に気がついた。目を落とすと、服とベッドを固定するかのように裁縫針が突き刺さっている。隣にいたはずの針妙丸は、いつの間にか私の体をよじ登っていた。振り落とそうとするも、怪我のせいか上手くいかない。
「おい、降りろ。何をする気だ」
「何って巻こうと思って」
「なにをだよ」
「ほうたい」
そう言うやいなや、私の頭まで上った彼女は、どこから取り出したのか包帯を手に持ち、ぐるぐると私の頭に巻き付け始めた。当然私は振り落とそうともがくが、上手くいかない。結局、頭だけでなく、全身をぐるぐる巻きにされてしまった。ミイラ男みたいだ。そんな私をみて、満足そうにうなづいた彼女は、両手をあげて、やったー! と喜んでいる。
「おいガキ。何しやがる」
「だって、準備が必要だとおもって」
「は?」
「けがをするまえに、包帯をまいたほうがいいって、いってたじゃん」
「言ってねぇし、もう怪我もしねぇ」
それはむずかしいと思う、と俯きがちに呟いた彼女は、同情するような生暖かい目でこちらを見つめてくる。無性に腹が立ち、彼女のかぶっていた茶碗を軽くつついた。
「なんで私がまた怪我をするんだよ」
「だって、慧音先生のとこに行かなきゃならないじゃん」
「は? 何でだよ」
ちゃんと人の話を聞いといてよ、と慧音のように指を立てた彼女は、生意気に鼻を鳴らし、小さな胸を張った。もう一度つっついてやろうか、迷う。
「悪い子は慧音先生に謝れば、いいこになるんだ!」
それは大人には通用しないし、したとしても私は行かない。そんなようなことを私は口にしたが、無駄だろうということは分かっていた。彼女は誰かに似て頑固なのだ。
結局、寺子屋にいる慧音に頭突きをされることになるのだが、その時の痛みと怒りですら、後々むしろ楽しい思い出として感じることになるとは、このときの私は思ってもいなかった。